2007年12月1日土曜日

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる3

前号でみたように、八戸小唄は法師浜直吉氏が作詞したもので、それを惜しげもなく八戸市に著作権を無償で譲った。
八戸市は法師浜氏から貰い受けた著作権で幾ら手にしたことだろう。その合計金額は昭和四十三年から平成十八年までで二千六百七十万円にのぼる。
この金は八戸市公会堂基金に入れられた。すると、この公会堂とは何だ?の疑問が出る。それを調査すると、八戸市は昭和五十年一月に財団法人八戸市公会堂を立ち上げた。
そして公会堂事業基金を設立。昭和五十三年三月に「公会堂事業基金取り扱い要領の制定について」という文書が作成された。
総務部総務課行政係主事中村昭雄氏の名が記載されている。往時を知る人の為にサービスで押された印鑑名を紹介。
秋山市長、巻助役、松沢部長、長岡次長、橋本課長、係長植村、係員立花、財政部長松橋、次長下斗米、補佐川越、副参事杉本、契約課長久保、以下略。
理由 八戸市基金の設置及び管理に関する条例の一部を改正する条例の可決に伴い、公会堂事業基金(原資一億一千万円)の取り扱いについて必要事項を規定するものである。
基金の効率的な運用により、その収益を財団法人八戸市公会堂が自主的に開催する文化事業に充当する。
公会堂事業基金取り扱い要領
第一 公会堂事業基金による公会堂事業を効果的に運用するために必要な事項を定める
第二 八戸小唄著作権使用及び寄付金については基金に積み立てる
第三 基金の運用から生ずる収益は財団法人八戸市公会堂が主催する文化事業に使用する
第四 基金の運用から生ずる収益は一般会計歳入歳出予算に計上し、文化事業に要する経費に充てるものとし、残金を生じた場合は基金に積み立てるものとする
第五 基金の状況を明らかにするため次の帳簿を備え付ける
一、 財産台帳 基金出納補助簿
附 この要領は昭和五十三年三月三十一日から実施する
諸君も知っているように公会堂の中に公民館がある。これは建設中にオイルショックがあり建設材料高騰のため金が不足。そのため、金を工面しようと、当時、爆撃機騒音対策で防衛施設庁がふんだんに持っていた金に眼をつけた。つけたのは市長でなく、市役所職員だろう。傾いた家が飛行コースにあったため、サッシの防音窓枠をつけたら家がそれで持ち直したの笑話もある。
折衝してみると、公会堂には金は出せないが公民館整備なら出るとなった。それでも金を欲しいと、その金を食ったのが毒饅頭。
そのため、一つ屋根の下に公会堂と公民館の看板がぶら下がる格好となった。
もともと補助金欲しさで手を出した金。官庁からの交付金に眼をつけるのが会計検査院、ここに睨まれると厄介な問題になる。そのため公民館という名ばかりの、公民館ではない代物が登場する。公民館は教育委員会の管轄で、中央公民館が管理する。市内に二十二あり、次長級が中央公民館長となる。この公民館は八戸市公民館条例に規定される。公民館条例は公民館には館長をおかなければならないとある。
公会堂の中にある八戸市公民館は教育委員会文化課に所属する。公民館なのに中央公民館の管理下ではない。
この公民館は今、財団法人公民館が管理している。そこに公民館管理費として年間二千五百万が文化課から出ている。
中央公民館が管理する地域公民館の運営費は人件費を含め年間八百万円程度。公民館長は九万円の月給で奉仕する。二千五百万という地域公民館の三倍以上の金が何故必要なのか。
これらは全て、国(防衛施設庁)を騙したとがめだ。国から交付金を受け、それをいかにももっともらしく見せるために、公民館の看板を掲げた。それを維持するために、名目だけの公民館館長を置く。この館長は教育長が任命しなければならないと八戸市公会堂条例にある。すると誰が疑惑の八戸市公民館長に任命されていたのか。
当初は総務部の所管にあったそうだ。この証拠が明確になっていない。文化課の言い分では平成になってから文化課の管理下になったそうだが、それもまだ明確になっていない。書証を文化課がそろえるのを待つ状態。
現在は公会堂が公民館を管理している。公民館管理費の二千五百万円の内容が実に不透明。文化課はかかる費用を出しているというが、正しく使われているのか、大いに疑問。というのも、八戸市公会堂の指定管理は年間一億八千万円。ここから出る収益は運営する者がとっていいとある。
つまり、管理費の外に収益を上げれば管理側の利益になる。映画館経営者が、年間一億八千万円の金を貰って、映画館を経営する。そして上映収入を丸々もらえるなんて巧い話が現実にあるんだ。
中心商店街から逃げた女房のイトーヨーカドーの跡地に映画館がある。ここは天井が低くて、映画館とは名ばかり。ところが、公会堂はスケールが違う。公民館ですら五百席のステージを持つ。ここの管理費が問題なのだ。
上の表の清掃業務と警備業務に着目。公民館が合計で千六百万円、公会堂は二千九百万円。
公会堂と公民館は屋根は一つ、仕切りの壁もない。どこから公民館でどこが公会堂なのだろう。
警備と清掃で四千五百万円も支払われている。
さらに、驚くのは八戸市役所の新館と旧館の警備業務には千八百万円しか払われていない。
公会堂と市役所とはどちらが大きい。これは見ただけでも見当がつく。市役所の新旧館合計延べ面積は二万二千四百三十六平米、公会堂公民館は一万四千二百十九平米。
仕切りも明確でないところに巨額な金を流しているが、これは正しい執行と果たして言えるのだ ろうか。本来一つの建物で、二つに分けたのは名目上の問題。国を騙した行為は時効だ。にもかかわらずこれを連綿と続けるのは市民を欺く行為だ。
ここで頭を整理しよう。財団法人八戸市公会堂は八戸市役所の外郭団体で、八戸市が運営するものではない。
八戸市は市民の税金を八戸市公会堂に投入し、管理・運営をさせている。この公会堂が出来た当時の市職員定年は五十八。この受け皿として、公会堂を外郭団体とした。つまり、税金をうまく利用して、定年延長ができないので、再雇用としたのだ。市の財政がうまく回転していればいいが、財政破綻をきたした状況では重荷にしかならない。役人は自分の在任期間をことなかれ主義ですごしたい。だから、改革、改新などが行なわれず先送りされる。すると、現在まで、第二退職金として支払われた総額は?
文化事業とは何が行なわれたのか?

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 3

七、八戸水産流通加工団体の活躍
 昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合をつくったのを手始めに、水産流通加工に関係する諸団体に加わり、八戸水産業界と共に汗を流しました。地元の八戸水産加工振興協議会も、昭和四十四年五月水協法に基づく、八戸水産加工業協同組合連合会に改組しました。傘下団体は、八戸魚市場水産加工業協同組合など四団体でした。
当時は未だ水産流通加工業会の力が弱く、系統の金融機関に融資を申し込んでも中々応じて貰えませんでした。商工中金に御願いすれば、水産加工は農林中金に頼みなさい、農林中金に御願いすれば、加工業だから商工中金に行きなさいと言われる始末でした。そこで八戸水産加工連は水協法にし農林中金から、八戸魚市場仲買連は中企法 に基づく組合にして商工中金から融資して頂く途を作りました。現在では両方共積極的に融資に応じて頂く様になり有難いと思っています。
 八戸水産加工連の結成と前後して昭和四十四年三月、流通、加工の近代化、合理化を総合的に実現しようとする水産物産地流通加工センター形成事業に、地域業界挙げての熱意によって八戸港が指定されました。第一次の指定を受けたのは八戸、稚内、境港、下関、長崎の五地区でありました。八戸市の場合は流通加工センター形成事業は、修築工事が進んでいる館鼻漁港とその周辺地区で実施されることになりました。
 最終的に四十六年から四十八年の三ヵ年実施、事業費の内訳は流通部門五億八千二百万円、加工部門十億二千二百万円、このうち国の補助対象事業は十二億円でありました。八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設は約十億円で国が三分の一、県が三分の一補助し、残り三分の一を事業主体が負担すると言う願ってもない事でありましたが、そこで国、県、農林中金から八戸水産加工連の出資金が唯の百万円では困ると言う事になりました。
 当時八戸魚市場から仲買人完納奨励金として、買付額の千分の五が交付されて居り、水揚げ高も二百億円に達していました。よって奨励金の五分の一を出資して貰えば一年間で二千万円の出資になり、五年間で一億円になる。仲買連の各組合が、加工連の準組合員になって貰い出資して貰えば、五年間で一億円の出資金となる、よって仲買連の会長が加工連の会長になって貰い、総会で決議して貰えば自ら途が開けると考え、仲買連の会長であった佐々木惣吉さんに御願いしました。その結果、業界の為になるなら結構だ、但し青森県水産加工連、全水加工連の仕事は引続きやってくれ、という事で承知して頂きました。
昭和四十六年七月会長職を辞任、八戸水産加工連の副会長として引続き参画する事になり、国、県、農林中金にも納得して頂き、事業を順調に進める事になりました。建設用地は県より譲渡して頂き、昭和四十六年九月二十二日八戸水産加工連が事業主体となる冷凍、冷蔵、共同集配施設などの着工式が全事業のトップを切って行われました。
八、水産流通加工の急成長
 八戸の終戦直後の水産加工にはふれて来ましたが、もう一度見直して見度いと思います。
 戦前はイワシ粕、イワシ油、カマボコ類、スルメ、煮干、干しアワビ、フカのヒレ、等が主体で、昭和二十五年頃からイカの大漁貧乏対策としてスルメ、イカの塩辛等のイカ製品がまず水産加工の中心でした。こうしたイカの大量水揚げに対処するために、冷蔵庫建設も次第に盛んになり、三十年における冷蔵能力は八千四百㌧と昭和二十五年の四千二百㌧に比して二倍に増強されました。昭和二十八年には鯖の好漁があって塩鯖加工が普及し始め、三十年には缶詰工場の県外からの進出も見られる等、水産加工場は家内工業も合わせると四百を超える盛況ぶりでした。
昭和三十一年八月、青森県水産加工研究所が設置され、初代所長の荒木さんは自ら包丁を持って、魚をさばく等熱心に指導されました。更にいかの肝臓等公害の原因となる内臓を処理し、SP飼料に利用する工場、八戸水産飼料が操業を開始しました。又サンマの豊漁からこれのみりん干が開発される等活発な動きが展開されたのであります。 昭和三十六、七年にはサンマ棒受け網が豊漁でサンマの加工が進むと共にイカの加工品も増産が続き、生産額は二十八億円となり、冷蔵能力は三万㌧を超えていました。
 昭和三十九年にはイカの珍味生産がさらに盛んとなり、加工機械に対する需要が高まり、昭和三十九年には青森県水産加工用施設整備促進条例および八戸市水産加工用機械貸与条例の制定により、加工機械類の貸与が行われました。
 昭和四十六年には加工生産高は三十五億円に達し、冷蔵能力も一気に四万七千㌧を超える増強ぶりでした。こうした状況の中で水揚げが急上昇し、昭和四十年には史上初めて二十万㌧を超え、四十二年には早くも三十万㌧、翌四十三年には四十三万㌧というまさに驚異的な伸びを見せたのであります。こうした急上昇の要因は鯖と助宗の水揚げが急増したからであります。したがって水産加工業もまた、こうした状況に対応して、発展を続けたのであります。北転船の助宗鱈を原料とするスリ身の生産、あるいは練り製品などの二次加工品、助宗鱈の魚卵によるタラ子の製造などが 急激に伸び、塩鯖や缶詰などの生産も大幅に伸びました。北転船の水揚げが本格的となった、昭和四十三年までに十七のスリ身工場が、一気に稼働を始めることが出来たのも、これまでに業界に培われて来た実力を示す以外の何物でもなかったのでありましょう。水産加工場数二百四十、従業員数約八千人、生産高二十四万七千㌧、二百三十億円、冷蔵能力九万㌧、まさに日本有数の規模を訪るべき位置に八戸の流通加工業はあったのであります。こうした実績の下にこの年水産物流通加工センター形成事業の指定を受け、四十六年度からは市川地区に加工団地の造成が始まりました。この年八戸の工業出荷額は九百五億五千万円であり、水産加工はその二十五%を占めるに至ったのであります。
九、北洋転換トロールと助宗スリ身生産
 沿岸漁民とのトラブルが多い機船底引漁船を減船し、遠洋底引き漁に切り替えるための北洋転換船は、昭和四十年に青森県に十七隻許可され、大型鉄鋼船時代を迎える様になりました。この様な漁船の大型化に伴って、主要漁獲量である助宗鱈の水揚げが飛躍的に増大することは必至で、昭和四十一年度の漁獲量は約十万㌧になりました。しかし大量水揚げによる漁獲低落を防ぐためには、従来のスケコ(魚卵加工)づくりの他、練製品の二次加工の必要性が叫ばれはじめました。これは魚卵利用後、練製品原料として県外出荷されている魚休利用を本県でも取入れようというものであります。
 そこで冷凍すり身工場を建設し、練製品の原料をつくる計画が進められましたが、冷凍すり身製法に関する特許は北海道庁が持ち権利を道冷凍魚肉協会に移管していました。このため青森県水産商工部では道庁に対し、特許使用について折衝したが道庁では色々な事情で難色を示している為、県では水産庁にもあっせんを要請、北海道側も北海道、東北北転船は助宗漁場を同じくし助宗魚価もおおむね連動している故大局的判断に立って県別の少数工場数に局限し、これを容認特許権侵害防止の措置を考慮すべきではないか等の意見も出はじめました。一方早期開放を要する東北地方の動きは、八戸地区では昭和四十二年十二月、「東北冷凍魚肉協会」が設立され、宮城県では昭和四十四年三月「宮城県冷凍魚肉協会」が設立されました。東北地方に於ける事態の推移に対し北海道特許審議委員会が全委員一致、許諾の結論を得たのは、昭和四十四年九月でした。容認工場数は青森県(八戸)十七工場、岩手県五工場、宮城県十九工場計四十一工場に及びました。

手記 我が人生に悔いなし 四

中村節子
○ 奉仕隊
文化服装学院在学中の感動の出来事
一月下旬から二月上旬に、インターハイに続いて国体のスケート大会が八戸の長根リンクで行なわれることになった。その選手団のお世話のお手伝いをお願いしたいという依頼が市から学校にあった。お手伝いの内容は、選手の宿泊所(旅館)と大会場の案内とか伝達などのお世話である。期間は三週間。
 なぜ洋裁学校に依頼が来たかというと、当時八戸には大学がなかった。高校在学中の生徒より、すでに卒業して洋裁を学んでいる学生の方が役に立ちそうだという理由だった。
従って文化服装とドレスメーカー女学院の二校から二十五名が決まった。もちろん全部女性である。全くの無料奉仕なので「奉仕隊」という名がつけられ、十二月の始めから、その準備が開始された。
先ず奉仕隊のユニフォームを作ることになった。ブルーのコール天の生地でトッパーコートを作ることになった。洋裁   学校だから作るのはお手のものだが、材料費は半分自己、半分はPTA会費から援助があった。その外に白の毛糸でマフラーとボーシを編む。もちろん材料費自己負担である。
一月に入ると何度も打ち合わせがあり、私の担当旅館は長者荘ともう一軒あったが忘れた。現在はその旅館は無い。確か北海道の高校選手が宿泊していたと記憶している。国体になったら尼崎市からの選手の担当になった。
大会の始まる一週間前から、仕立て上がったブルーのユニフォームを着てその任務についた。
その年(昭和三十六年)は暖冬で長根リンクが凍らず、選手達は練習できず肝心の大会さえ危ぶまれた。
練習には高舘のリンクが使用できると言われたが、その高舘のリンクはどこにあるのかマニアルにはない。その高舘リンクから氷を自衛隊のトラックで長根リンクに運んだ。
とにかくインターハイ開会に間にあった。
 開会式にはブルーのユニフォーム奉仕隊がずらり整列して開会式に花をそえた。ブルーがとてもきれいだったと街の人に言われた。
 大会は順調に進み国体の開会式には義宮(よしのみや・現常陸宮)様がおいでになった。この時も奉仕隊は整列したがとても緊張した。
各地から来た大会役員に「ブルーのユニフォームがとても目立つ。あっちにもこっちにも見えるがいったい何人いるの?」とか「バイト料はいくらなの?」と聞かれた。無料奉仕ですと答えると驚いていた。(昼食は頂いた)
大会は無事終了した。私達はとても良い経験を  させてもらったと思った。
三年後に東京オリンピックが開催され、コンパニオンという言葉が流行したが、私達の奉仕隊はあのコンパニオンの草分けだったのだと思っている。
○ ミシン
専攻科の教室の廊下側に三台、窓側に三台、計六台のミシンがあった。その六台のどれかに必ず「故障」の張り紙が貼ってある。
多い時には三台に貼ってあり使えるのは三台だけ。順番待ちになる。
「どうして?、洋裁学校なのに。」と不満が出る。院長先生がおっしゃった。
「学校は、わからないところ、できないところを教えてもらうところなのです。わかるところは家でミシンを掛けてきなさい。」なるほど。「一台のミシンを一人の人が使うと、ずっと長持ちします。学校では色々な人が色々なクセでミシンを使います。それによって故障になりやすいのです。」なるほど。
我が家には私が気づいた時にはすでにミシンがあった。私達の着る物は母がミシンを掛けて作ってくれた。裁縫の嫌いな私でも中学生の頃はミシンの使い方は知っていた。
そのミシンを今度は私が頻繁に使うようになった。私が生まれる前からのミシンだから、ガタガタ音がうるさい。それは我慢できるがバックができないのは不便だった。
「新しいミシンが欲しい」と頼んだ。
「嫁に行くとき古くなるからダメ」と母は言った。「えっ?」また母は矛盾したことを言ったのだ。洋裁を習えと言ったのは母ではないか。やっと説得して買ってもらった。
新しいミシンは静かに針目が進む。私専用のミシンだ。時々私の留守に母が使う。それが私にはすぐわかる。言葉では表現できないが、なんとなく「今日は母が使った」とわかるのである。
そのミシンが六年前に調子が悪くなった。
ちょうど四十年目であった。ミシン屋さんに見てもらったら「古い型なのでもう部品はありません」と言われた。やむなく新しいのに買い換えたが、四十年の長きにわたって愛用したミシンを捨てる時は、一抹の寂しさが胸をよぎった。
○ 運送会社に就職
洋裁学校を卒業して、八戸駅(現本八戸)前の運送会社に就職した。(現在会社は河原木にある)この民間企業に勤めて官(自衛隊)と民との大きな違いに戸惑いを感じた。
 イヤ、あたりまえであるものを無知なるがゆえに戸惑ったと言う方が正確かも知れない。
 一、まず電話に出たら「毎度ありがとう   ございます」私はこれを言えなかったのである。
 あたりまえの挨拶なのだが、初めてのお客にも「毎度」とは?と思ったからである。
 二、日曜日は必ず休みという考えを変えなければならないことに気がついた。普通日曜日は日直の人が出勤し、あとの人は休みなのだが、届けを  書く。しかも代休届けと書いた。何の代休かわからないけれど届けを書いた。
 三、給料日に経理の人が「ハンコ持って来て」と言う。これが給料支給の合図なのだ。
 初めの頃はわからなかったので行かなかった。「あんたは給料はいらないのか」と言われた。「給料を支給します」と言えばいいではないか。その  人は社内で唯一の大学卒といわれた人である。「あんたは言葉を知らないのかと言ってやりたかった。
○ リストラ
この会社には女性二十八歳定年という規則があ   って、先輩が退職した。その時「必ずしもやめなくてもいいんだよ、エヘヘヘ」と支配人が笑った。背筋に冷たいものを感じた。
 その後二十八歳定年の規則は削除されたが、三十五歳の時リストラの対象になった。対象者は四人。男性二人は通告のあったその日に退職した。  私は「二ヶ月後の十二月のボーナスをもらったらやめます」と言った。もう一人の私と同年の女性は「家族のためにもうしばらく働かなければならないので…」と会社に残った。
 退職して二週間後失業保険の手続きをするため職安へ行った。なんと家族のために働くと言ったはずの彼女にバッタリ出合った。
 思わず「何しに来ているの?」「失業保険の手  続きに」私の退職後、彼女は会社からイヤガラセを受けたのだ。遠くの営業所へ行けと。
 この時の失業保険はすんなりと決まった。
 運送会社には十四年間お世話になったが、楽しい思い出は一つも浮かんでこない。
 きっとリストラと共に消えさったのだ。
○ 茶道入門
会社の友達とお茶を習いに行くことにした。
 内丸にお茶の先生のお宅があるから、そこへ行こうということになった。一度も抹茶を味わったことがないし、流派など知らないが、とにかく内 丸だと会社からの帰り道だから都合がいい、ただその程度の考えで入門した。
 流派は裏千家流で、母屋の隣の離れがお稽古場であった。七畳の茶室に八畳間が続き六畳の水屋がついている。
 水曜日の夜は勤め帰りの若い人でいっぱいになった。先生はおばあちゃんで、古いお弟子さんが新入りの私達のめんどうを良く見てくれた。先 輩弟子には男性もいたし、陸海空の自衛官もいた。
 先生のご主人のことを、私達はおじいちゃんと呼んだ。おじいちゃんは時々お稽古場に来て歴史の話をして下さった。八戸南部の殿様のお話はとても興味深かった。
 お茶の稽古は楽しくて、毎週水曜日は休むことなく通った。
○ 仮縫い・本縫い
お茶のお稽古のある日のこと、男性自衛官の二人が「着物を着てみたい。ウールのアンサンブルを作ろう」ということになった。
たまたま男性先輩弟子が呉服屋さんだったので反物を持って来て、どれがいいか二人が選んだ。そして寸法も計った。
「仮縫いはいつできるんですか」と聞いた。呉服屋さんは、えっ?と言うようにして言葉につまった。そこで私が口をはさんだ。
「着物はねえ、洋服と違って仮縫いしないで、すぐ本縫いに入るんですよ」と。
このことを家に帰って母に話した。
「節子はよくほんぬいという言葉を知ってたね。」「あたりまえでしょ。洋裁やってたら仮縫いして本縫いに入ると言うんだよ。」
その時の母との会話はここまでだったけれど、しばらくしてまたこの話になった。
「あの時、学校へ入れた甲斐があったと思ったよ」と母はぽつりと言った。
私が洋裁学校へ入る前までは、全部母が縫ってくれていた。だから母は何でも知っているし、何でも縫えると思っていた。
私が学校から帰ると、私の縫った物を点検するかの様に見る。ファスナーやポケットの付け方やボタンホールのあけ方等々。
今までは見よう見真似で縫ってきたが、本式はどの様にするか縫い方を見たかったのだと母は言っていた。けれども言葉だけは気が付かなかったのだ。
その道、その道でそれなりの言葉使いがある。たった「ほんぬい」という言葉を使っただけなのに、学校へ入れた甲斐があったと思ったという。親というものは、この様なものなのだなあと思った。

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 5

九十周年に思う
旧職員寄稿
思い出の一ふし
野 田 三 蔵
 昭和十年前後と申せば軍国主義政治の華やかなりし頃(教育も勿論軍国主義教育)しきりに軍部の明星等が八小校に講演に来られ我が陸海軍の威力を遺憾なくお話しされて帰られた。一日某海軍中将が見えられて一場の講演をされたがその一節に「日本海軍の砲弾の命中率は百発百中、某国海軍の命中率はよくみて五〇パーセント、発射速度は三対二、それに潜水艦の働き、駆逐艦の行動と合わせて万全を期するのである」と。私は実に聞きよい目出度いお話しだと思いました。
 その翌日私の空き時間に職員室で「もし中将閣下のお話しをそのまま受け入れて考えて見れば某国とは確かに米国を指すでしょう。当時米国は我が方の海軍力を実有せられている。もし両軍相対して交戦するとせば一対三の勢力で戦はねばならない。我が各砲の命中率を百パーセント、我が方から攻撃して敵艦一を撃沈しても尚二残る計算となる。次には敵から攻撃を受けると見なければなるまい。若し中将お話しの様に五〇パーセントの命中率として二の力が一を全滅せしめるわけである。敵を知らずして戦えば敗我れにありとは古哲の言である。中将のお話しは桃太郎の鬼が島征伐に彷彿とした講演と申さねばなるまい」と。
ところが私の言うことを聞いていた八小校配属軍人が怒ったの怒らんのって「生意気だ」「ぶんなぐるぞ」と立ち上った。私は「此処は戦場ではない、喧嘩の場所でもない、人をなぐれば刑法の制裁を受けますぞ」と、私の坐っている椅子を足げにしてけりがついた。配属軍人は満洲事変で戦死されましたが、今も尚其の軍人の俤が思い出されてなりません。

馬場町の校舎
       都 筑 ミサヲ
 私が初めて赴任した時のみなさんの学校は今の場所ではなく馬場町にありました。大変古い建物で棟ごとに日本の地名がつけられてありました。「四国」とか「九州」とか、そして冬など北風のあたるところの校舎を「北海道」と呼んでいました。半世紀もの昔はじめてここで教壇に立ちました。その年の六月頃だったと思います。一年男子組の修身の授業を見せてもらいました。
『坐礼』という厳とした先生の声がかかると生徒は一斉に椅子からはなれ、静かに坐り丁寧に頭をさげておじぎをしました。それからおもむろに授業がはじまりました。どんな内容のことをお話しなされたかは記億によみがえりませんが『坐礼』にはじまる教室の厳しゆくさだけがうかんできます。
 現在とは大変なちがいです。考えられないようなことがありました。それが時代というのかもしれません。
 これからは私たちの心のよりどころとして、今後愈々学校が発展されますことをのぞみ、九十年によする言葉といたします。

さいかちの木とプラタナス
寺 井 五 郎
 九十周年を迎える八戸小学校に私は大正のはじめ頃在学していた。
 パンパパン、パンパパンと打ち鳴らされる始業 合図の手木の音、休みを告げるガランガランという鐘の音、そして半手木といって学習の中頃に静まを破って遠く或は近くひびいて来るパーンパーンという音などこれは毎日の学習生活にくり返されたもので今でも印象深くのこる。
 校舎は市役所前のロータリー(明治天皇行在所跡)から市の水道部のあるあたりまで、長く長く並び立っていた。いろいろな建築様式の校舎で高等小学校もいっしょであった。
 校庭は細長くそこには通称もみの木、さいかちの木、ポプラの木の三本が目立って校庭にそびえていた。特にさいかちの木に元気ものはよく空洞をのぼった。みんなの樹といってもよい存在であった。
木馬(馬なりに木取ったもの)一つに鉄棒砂場が外庭での唯一の遊び道具で、市沢安恵先生が高等科の生徒を指導し乍らやる大車輪というものを物珍らしく眺めて居た。遊びは球技らしいものもなく、つなぎ鬼、馬乗り(騎馬戦)、陣取り、かくれんぼ、戦ごっこなどが盛んに行われた。
 校舎のつくりが非常に年代を経て居たためか釘や、板目や、机の角などで衣類(全部つつそで着物)のかぎざきが多くて困った。
 大小便所とも暗く不潔で泣き泣き用たししたこと、階段が大人でもどうかと思うほどの高きざみのところがあって危いと思ったことなども印象にのこる。
 第一次世界大戦の影響で黄金の景気があらわれそれがインフレに昂じて学校生活にも大変影響があった。修学旅行も六年生で野辺地までやったことがせいぜいの様子であった。
 低学年では飯田ひさ先生、高学年で八小向健児先生から教わった。先生はみな真面目で立派であったという印象が深い。
 同じクラスには有能で世の中に活躍している人たちが大へん多く、よい学校よいクラスで勉強出来たと思っている。以上は母校としての想い出の一ふしである。
 その次は、昭和三年から昭和二十年四月までの十七年間奉職することの出来た間のことである。これは八戸小学校が充実向上の一途をたどり、多方面に活躍した多彩な期間でにわかに語りつくせない程の内容をもっている。
 整備された理科室、工作室、図書室、音楽室がありその他柔道室、礼法裁縫室、教具室、中央階段下の消毒室、保健室には歯科治療機械等まで設けられてあった。
 校内には全校放送設備があり、講堂には暗幕が装置されて毎月定期的に映写会が催された。
 一六ミリの太陽映写機(三一キロワット当時では最新型のもの)が私の係りで、それを操作しながらよく弁士をつとめた。
 音楽効果を出すために伴奏レコードもフィルムに応じて用意されたものだ。
 外には講堂わきの弓場、南側外庭の相撲場、トラック、ジャンプ場、低鉄棒、高鉄棒、中庭周辺いっぱいといってよい運動用具(ジャングルジム、遊動橋は今も残っている)が子供等を楽しませ、体力向上に大いに役立ったようだ。現在は立派な足洗場に、新しいいろいろな運動用具に更新されたようである。
 従って対外試合でも、体育に学芸に大活躍し所謂八尋として注目された。
 ある時期には地方では常勝校の観を呈した。長者小学校もまた同様でよい競争相手であったし、種目によって八小中野、湊校もそうであった。
 青森にも何年も何度も遠征して優勝の栄誉も味わった。県下の弁論大会でも三ケ年連続優勝し、優勝盃も永久授与された。その折は三人一組のチーム戦で、外交官として将来を期待されている原富士男君も弁士の一人であった。当時在学の生徒諸君は誇り高い思い出の数々をもっていると思う。
 校門に高く大きくそびえるプラタナスは、一年から六年生まで担任した級の卒業記念に橋本香月園主の正次さんが(子息橋本誠一郎さんもこのクラスで卒業となるので)植えられたものである。市役所前の一本も同じ年のものである。
 校庭整備で植樹もたくさん進められた。その中で玄関前の築山と、道路に沿うたヒマラヤシーダーはよく育ったものである。高々とそびえるプラタナスは、その年輪を語るが如く、またすばらしい成長ぶりに驚いている。
 昭和三年には新卒八名という前代未聞の配置を含む職員の大異動があった。
 その新卒とは山根現湊中校長、宇都宮現三条小校長、田中キエ現福田小校長、私、それに亡くなられた田中未蔵、滝田栄次郎、松井秀雄、久保スヱの八名で張りきるのも当然であった。
 全国が紀元二千六百年にたたえられた前後、昭和十何年であったか全県視学の合同視察をうけ、古山正三校長先生を陣頭に頑張った頃はその最高潮ともいうべきであったろう。
 その後大東亜戦争のためにすべてが転換期につきあたった。或は渋滞し或はすたれて行った。学区も吹上にわかれたり柏崎校が創立されたりして大分変更となった。
 こう書いてくると、何か往時讃歌のように思われて恐縮かつ申し駅ないが、決してそうではない。その時代とその環境に応じて、それなりのことであって、今の八戸小学校は、より新しく、よりよく整備され、内外ともに九十周年を迎えるにふさわしい様子と思う。
 私が快い回想をかき得るのも、当時の職員の勉励と、学区の絶大な協力のあったお蔭である。その伝統は更にすばらしく今に発展して、今日の充実し且つ整備された八戸小学校をつくりつつあると思う。

小学校の思い出
 尋常一年生のとき
    野 田 龍 男
あさひと輝く、大正の
みいつの光、あらたにて、
六千余万のくにたみの
若やぐ血潮のイサミもて
祝え、君が代、万々才。
天長節のことぶきを
初めて祝う、めでたさよ、
六千余万のくにたみの………
 入学は大正二年でしたろう。浅水いさを先生に引率され、長者山からこの歌をうたって行進をおこし、上組町から下組町まで、日の丸の紙旗を振って、行列して歩きました。私らの前には、六年女生かいて、時々、「バンザーイ」と唱えると、私たちもつぎに「バンザーイ」とさけびました。校庭で、ワラでしばったセンベイ十枚頂いて解散しました。ふしぎに六十才のきょうまでも、この日の祝歌を忘れませんが、第二節の「六千余万」へくると、「旭と輝く」になり、あとの歌詞は思い出せない。淡水いさを先生は、いまの山本富士子のような、日本一の美人の先生のようだった、と記憶しています。現在は大阪市香里にお元気でおられるとか。
 梁瀬校長先生のお宅は、窪町の角屋敷で、毎月、一回講堂訓話をされ、二人用の腰掛けを二階の講堂に運んでお話をきいたし、「散歩というのがあって、一年生から徒歩で、舘鼻海岸まで行き、海べで遊んで、午前中に帰校しました。あの頃の一年生は、相当な徒歩力があったものと、いま考えるとふしぎです。友人では、いまもたまに出逢うと、なつかしく呼びかけてくださるのは、下組町の細越末太郎さん。私とちがって、親としての義務をりっぱにはたし、悠々自適の生活をしているようで、うれしく思っています。
なつかしの二年半よ
八戸市立長者中学校
   和 泉 み よ
 八戸小学校が、八尋といわれていた頃、私は、八東高の前身、青森県立八戸高等女学校の汽車通生で、朝夕、八尋の校門の前を通った。私には、この門を出入りする生徒、先生方があかぬけて見え、今から考えるとおかしいが、何か恐怖さえコの宇型の古い木造校舎に対して抱いていた。それが潜在意識となっていたのか、小中野中から突然の転任となったときは、気おくれと、困惑とで一時はうつうつとしていた。松尾校長在任最後の年で船場武志教頭と、名コンビといわれていた。私の担任は五年二組、学年主任はマダラ鬼、又はジュロチヤンこと大橋寿郎先生、三組はミッチヤンこと山田実先生、四組は、かっては若尾文子といわれたこともあるミセス・ボリューム村田(当時松倉)トミ先生であった。クラスにいってみると、いたいた、小さな子たちが、古い教室の中に、あるいは鼻をたらし、あるいはパッチリした目をしたりして、ハイ、ソプラノを響かせて、中学生とはおよそ異った、可憐なきまじめなふわふわしたような雰囲気を漂わせて坐っていた。その彼等よ、今は社会人として三年経た者もいるし、高校の三年生になって勉学にスポーツに青春を謳歌しているのだ。部屋は市庁舎よりの一ばんすみっこの天井近い正面のすき聞からは、直接陽光がみられる箇所もあったが、位置としては、子どもたちには好適であった。カーテンはやはり教室にふさわしく年を経て、大きく破れていて、それを見たときの穴に比例するように私のこの学校に抱いていたコンプレックスは消散した。それも先生方が親切だったし、子どもたちは全くかわいかったからだ。
朝、職員朝会のとき、輪番で所感を述べる時間があった。なかなか個性のあるもので二三分ぐらいの短時間だったが興味深く耳を傾けたものである。職員室には古びた学校調度が並び、私の椅子などは、明治時代の遺品ではないかと思われた。この陽あたりの悪い寒くて古い職員室は、次第に私にとって居心地のいい、楽しい場になっていった。今でも誰れ彼れの先生の笑顔、声音をなつかしくまざまざと思い出す。生徒朝会のときは、低中高と二学年ずつに分かれ、松尾校長の慈愛あふれる「お話」を聞いた。校舎は古かったが掃除はよくされて、広い廊下は光っていたのに、なお清掃の徹底の週訓など出されると私は中学校に比べて驚いたものである。クラブ活動も組織的に、よく運営されていた。この小さな子たちを自由に操ることのできる先生方の力は魔術にも似たものである。二学期には発表会があり、それぞれステージ発表をするが、中学校は生活が忙しいせいかそうした試みがなく残念である。卒業式にはこの学校独特の葉書大の金ぶち入りの卒業証書を、音楽にあわせて、ひとりびとりがもらいに出るのだが、その厳粛さ、またリズミカルなことはこの目で見た者ならではわからない。五六年を受け持って、翌年はジュロチャンと私は希望通り三年生、ミッチャン、ミセス村田のベテラン組は五年生と、一応四人組は解体した。五六年に比べて、三年生は更に小さくかわいかった。南校舎の昇降口のすみのせまい教室に、小さな秀才と才媛たちがいた。今この子たちは二中の二年生。この子たちと一しょの生活はまた楽しく、「虹の子」というクラスのテーマソングを鬼柳先生に作曲してもらって歌ったりした。しかしこの子だちとの生活は秋で終止符を打たれて、私は湊中へゆくことになった。あいさつまわりのときは日暮れまでも子どもたちは私のあとにぞろぞろついて歩いてくれた。この二年半、私は楽しく暮らした。しかし生徒に対しては、慙愧の想いがある。勝手に理想化し、それに到達しないと思われたときは強く叱ったことも度々であった。あのふわふわしたやさしい彼等の感受性にどんなにそれが激しく印象されたことか。許して、かわいい教え子たちよ、私はいつかこのことばを彼等の前で言いたい、そして心からその幸せを祈りたい。

八小をしのぶ座談会
時 昭和三十八年九月二十三日
所 江陽小学校放送室
 出席者 旧八小職員
(清川艶子、下斗米トシヱ、久水英一、立花みのり、八木田勝子)
 司会 八戸小学校も今年九十周年のお祝いをすることになったそうで、本当にお目出たいことです。そこで元八小にお世話になったかたたちで昔の八小をしのんでみようという意味でお集まりをいただいたわけです。この中で一番古い方はどなたですか。
 B 私が昭和二十一年四月ですから一番古いと思いますが
 D すると、私が二番目に古いことになりますね。二十一年八月三十一日付ですから
 司会 私はたしか二十二年三月だと記憶しています。今から十七、八年も前のことで、しかも終戦の翌年ということになりますが、その頃のことで、何か残っていることはありませんか。
 B ずい分昔のことで殆ど忘れかけていますが、食糧事情の一番ひどかった頃で、何でも午後まで授業をすると腹がヘって倒れるというので、午前授業だったことを覚えています。
 D 私は同じ年の二学期からでしたが、買い出しに行くからおいとまをくださいという子がおりましたよ。
 司会 あの頃は本当に大変でしたね、空地という空地、庭という庭はみな耕やされて、南瓜やいも畑になっていましたものね。焼夷弾で焼かれた校舎の片袖にも、新校舎が建つまで南瓜のつるがはっていたのが印象に残っています。
 A 私が八小にお世話になったのは、昭和二十四年ですが、その頃はもう焼跡に新校舎が建てられ、南瓜のはいまわっている様子を想像することは出来ませんでした。授業をするにもなにかと不自由だったでしょうね。
 B 体操場を仕切ったこともありました。又一学級の人数が非常に多く七十名近かったと記憶しています。
 D 私が赴任した時は、男女別学で、年度の途中なものですから男の子ばかりの組を預けられ、人数は多いし手をあげたことが忘れられません。
 B 男女共学は二十二年度からでしたが、共学別学の是非について、職員会議で議論したこともなつかしい思い出です。
 司会 ではここいらでその頃の給食についてどなたか。
 A 私が行った頃は脱脂粉乳と温食の給食が行われておりました。
 D 調理室は、今の理科室になっているところでしたね。せっかくお金をかけて作った調理室でしたが、食糧事情が好転してくると、学校の給食は「ジョウミズ」だとか何とか言う子もありまして、アンケートを取った結果やめてしまうことになりました。給食で思い出すのは、先生方がおそくまでドーナツ作りをしたり、またまんじゆうふかしをしたことなどです。
 司会 今年も共進会で教室を使われるとか聞きましたが、共進会では頭をなやましましたね。
 A 余り休んでばかりいると学力が低下するというので長者小学校や吹上小学校、柏崎小学校をお借りして午後授業をしたことが頭に残っています。小さい子供達は、学校に着いて三十分もすると、あくびをしたりいねむりを始めたりしてうまくなかったようでした。
 司会 八戸小学校は、八戸の学習院だなどとおだてられたりしたこともありますが、とにかく父兄の方はそろっているし、文化的環境には恵まれているし、やりがいのある学校でしたね。
 C 離れてみてその良さがわかると言われますが、私もよその学校に転任してみて、八小は良かったとしみじみ思っています。
 司会 今日はいろいろと思い出を話していただいてありがとうございました。八小の今後の御発展をお祈りしてこの会を終わることにしましょう。            (八木田記)

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 6

座談会
南売市の今昔を語る
南売市は歴史の古い町・荒谷時代から
川□さよ、川口助四郎、後村仁太郎、川口市太郎、二沢平義雄、久慈忠治、野沢宗芳、川口喜助、鈴木操町内会長、中村宗エ門司会
挨 拶
 鈴木操町内会長記録して後世に残したい荒谷弁でどんどん話して
 この度南売市町内会が昭和35年に創立されて30年を迎えました。その30年の節目にあたり、意義あるものを出版刊行し記念にいたしたいと思いまして、何回か会合を持ちました。その結果地域の事情をご存じの方々からお話を伺ってそれ等を記録し後世に残したいと存じまして、座談会を計画しました。売市弁で、色々お話をして戴くようお願い致します。
司 会
 中 村 宗右工門
ルーツをお聞きしたい戦前の町内会の制度……
 司会を仰せつかりました、中村でございます。不馴れでございますので皆様方の御協力により務めさせて戴きます。
 戦後になり、正式に町内会が発足されてから30周年の節目になりますが戦前にはどの様な制度があったのか、過去を振り返り、ルーツを御聞きしてみたい、そうしたことに皆様も関心があることと思います。
     町内会の生い立ち
司会 川口助四郎さんの祖父、川口福次郎さんが、舘村時代に区長を勤められたと聞いておりますが、川口さんその辺の所からお話をお願いします。
川□助四郎さん
町内会長は市長が委嘱館村時代は区長制
それでは町内会について話して見ます。
 町内会長と言う名称は、昭和15年1月に三戸郡館村から、八戸市に合併になった時からでございます。昭和15年5月1目付八戸市長から交付の委嘱状も手元にあります。
 その頃は日支事変中で戦時体制、町内会長の下に隣組制度があり隣組長がありました。
 町内会の組織になる前、三戸郡館村時代には大字毎に、区長を設ける制度で明治の頃からあったと思います。
 町内会は銃後の守り(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。「銃後の守り」と使う)として戦時中は債券の割当消化、米の供出督励、金属の回収、生活必需品の配給、出征兵士の見送り、防空演習等戦争遂行の為の行政事務の上意下達の役割を持つ組織でした。
 一番多い仕事は生活必需品の配給でした。町内の人達に公平に配ばるのに苦労しました。
野沢宗芳さん
高館の飛行場に勤労奉仕戦後は町内会は追放
 その他に町内会として勤労奉仕の協力要請がありました。それは高館に陸軍飛行場が建設されることになり、各町内会に割当があり順番に勤労奉仕しました。毎日各地区から動員され、売市方面は徒歩で飛行場まで行きました。遠くは岩手県軽米方面、津軽方面からトラックに乗って応援にきたようです。
 戦争が終ってから占領軍から町内会は敵視され、昭和22年マッカサー司令部から追放命令により、町内会は解散されたようです。
 南売市も22年に解散して、35年に組織するまで13年間、空白時代が続いた。
区長制度
司会 さきほど区長のお話が出ましたが舘村時代には大字毎に一人区長を置く制度があったようですが。
川口市太郎さん
アメヤのぢいちゃんの役、区長の話で思い出したが、アメヤ(西村燃料店)のぢいさんが各戸に、フレて歩いたのは何の役だったのかな。
川□助四郎さん 正式には使丁、通称コバシリ
 あれは通称コバシリ、正式には区使丁と言って、村役場からの納税通知書、田植えが終ると各部落毎に、一斉に休日(テノリ)にする習慣があった。そのことを伝達したりその他村役場、区長から行事の伝達をする役目で、今で言う連絡係に当るのかな。
上村晃一さん
区長と言えば何に当りますか?
川口助四郎さん
今の役員に当ります。
二沢平義雄さん区長は今の町内会長
荒谷から村会議員三人
 区長は、地域の自治会長のような役割をもって居り、今の町内会長に当る。当時、南売市からは、川口福次郎、山田太太郎、野沢扇治の三氏が館村の村会議員に選出され、村政の為に活躍されておりました。
上村晃一さん
 区長は誰が決めたんですか?
川□助四郎さん
売市の区長は三部落交代昭和16年三分割
 部落の総会の時、話し合いで決めてたようです。大字売市は、南、西、長根の三部落で交替して区長を勤めました。売市地区は、範囲が広いので、どなたがやっても大変だと言う事で、昭和16年に、南、西、長根に三分割することを消防屯所に集まり話し合い、その結果、何の異議もなく分割に合意しました。その様な話し合いの中で西村徳次郎さんが従来の新丁組の名称を、西売市に改名したいと発言がありこれを了承しました。売市地区の3分割当時の各町内会長は、次の方々でした。
 西売市町内会長…………二沢平市太郎
 南売市町内会長…………川口大次郎
 長根町内会長…………小軽米福右エ門
 南売市副会長…………川口市蔵
売市の道路
司会
 戦前、売市の道路が悪かったと聞いてます。特に入梅時期になりますと、ぬかる道になったそうですが?
 久慈忠治さん
 私か八中(八高)時代に、八中から馬淵川の大橋までマラソンで走りました。その頃は道路の両側に杉やけやきの大木があり、その枝葉でふさがれ、道に陽が当らなかったので一度雨が降れば、ぬかる道となり荷馬車の車輪堀りが出来、馬車の心棒につかえるほど、道路が悪かった。
 売市の道路が、コンクリート舗装になったのは、いつごろでしたか。
 二沢平義雄さん
 私が昭和13年に軍隊に行ったのでよく判らないが。
久慈忠治さん 昭和15年道路舗装
2回目は28年やり直し
 昭和15年高館に陸軍飛行場が出来ることになり、その頃道路工事が始まった。道路拡幅工事の為に、両側の大きな木が切り倒され、明るくなり、コンクリート舗装になった。2回目の舗装工事は昭和28年に、やり直しました。
川□助四郎さん 道路工事中火事で苦労
 川口徳太郎さんの家が火事になった年だった。丁度その時、道路工事中で割栗石を敷いた状態でしたので、火事場へ行くのに苦労しました。
川口喜助さん
コンクリート舗装写真が証明
 私の所にある写真、昭和16年のものを見ますと、すでにコンクリート舗装になってます。
司会
 さきほど川口市太郎さんがお聞きになりました、売市の道路がいつ頃コンクリート舗装になったのかについては、今のお話でお判り戴けたと思います。
久慈忠治さん バス停設置の陳情
 コンクリート舗装が出来たので、南売市にバス停の設置を陳情しました。
悪道の証明
司会
 中新酒店のおばあさんのお話によりますと昭和14年に結婚したそうです。その時おばあさんが、浜市川から人力車に乗って、売市の中新酒店に嫁入したそうです。その頃道路が悪くてと、話してました。
二沢平義雄さん 嫁の実家は西売市
大橋の家までタクシーで
 昭和15年に私が結婚しました。嫁の実家は、西売市で西村家の娘で、当時、私の家は馬淵川の大橋の傍にありました。西売市と大橋では近いので歩いて来てもよいのですが、道路舗装工車中の為、タクシーに乗り長根を廻り、新坂を通って、遠廻りをして大橋の私の家に着きました。
 売市地区に電気・水道のついた時期
司会
 ところで、売市地区にいつごろ電気が点燈しましたか、記憶ありませんか。
後村仁太郎さん 電灯は大正10年頃か まぶしかった10燭光
 売市地区は下長に比べ早いような気がした。私が小学校2年生の頃電気がついたと思いました。その頃はまだ電気がついてない家もありました。
野沢宗芳さん
 あなたは何年生れですか。
後村仁太郎さん
 私は大正3年生れで8才で小学校へ入学しました。今から67年位前になりますが。
野沢宗芳さん
 私の姉達の話によれば、子供の頃には電気がついて居たそうです。
川口喜助さん
 私の母の話によりますと八戸大火(大正13年)の頃には、もう電気がついて居たと話してます。
便利な水道
司会
 次に水道通水はいつ頃でしょうか。
川口市太郎さん
 久慈さん売市に来て何年になりますか。
久慈忠治さん
 昭和26年4月、私が売市で食料品、雑貨店を開きました。そのあとに、昭和31年頃に水道が通水したと思います。
川口助四郎さん
NTT、高周波の住宅へ通水
 その頃佐々木秀文氏が県会議員の時、NTT、官舎及び高周波の住宅へ通水の為、道路を横断する工事をした。
川□喜助さん 売市の水道は昭和38年
 昭和38年に根城の浄水場を開設することになり、隣地境界線立合いのため私の父が現地に行って来ました。その時発病し倒れましたので、記憶にあります。
後村仁太郎さん 水道は便利・金がかかる
 井戸水を汲むのと違って、蛇口をひねると、水が出て来る水道は便利だったが、工事費が高いので、誰でも水道を引けなかった。井戸水を利用している人は多かった。
電話
川口喜助さん 売市の電話は山田さん
 山田国太郎さんの話によると、売市村に電話が入って来た時代は大正7、8年の頃だろう。設置者は父山田大太郎で、住所は売市13番地、当時は局に電話機の在庫がなく、何時になったら入荷するかその見込みも立たず、島谷部町の或る質家から買って設置した。
 代金は(権利)1台350円設置料込みで390円(電柱1本10円)かかり、売市まで4本たてた。電話番号は378番で約10年ぐらい使用した。この378番はゴロ読みをするとミナハズレと読まれるので378番は気に入らず、昭和に入って191番と取り替えた。それは昭和35年の自動式になるまで続いた。
荒谷のぼんおどり
司会 荒谷のぼんおどりは、昔からあったようですが、いつ頃から始まったのでしょうか。
川口助四郎さん 荒谷の盆踊りは弘化4年
 荒谷のぼんおどりの始まりは弘化4年3月28日に建前をし、その家の新築祝いが8月17日でした。その日、家の前庭で手伝いに来て居た人や、台所廻りの手伝い人のみなさんへ御馳走したら、その人達が喜んでぼんおどりを踊り、夜明けまで踊り続けたそうです。それが荒谷のぼんおどりの始まりだと言われてます。
司会
 弘化4年と言えば今から何年位前ですか。
川□助四郎さん 今から約150年位前になります。
上村晃一さん 荒谷はどこからどこまで
荒谷とはとこからどこまででを言いますか。
荒谷の地域
川□助四郎さん
 荒谷の部落は庚申塚のある所から、西売市の西村燃料店の横に区画整理前の旧道がありました。そこまでを荒谷と呼んでいたようです。
久慈忠治さん
 私達が小学校(八尋)に人ってた頃、人まねこまね荒谷の狐と言った事を記憶してますが。
川□助四郎さん 荒谷の狐のいわれ
 昔は狐はどこにでも居たと思います。一説によりますと、凶作が続き、藩の財政が苦しくなり年貢の取り立てが厳しくなった。農民は働けど働けど苦しくなるばかり、自分から進んで、何かしようとする気持ちを持たなくなった。他村の人が仕事を始めたら仕事につくと言うような事で、よそ村の人達より遅れると言う有様だった。人のまねをするようであった。それを見て、よその人達は馬鹿にして人まねこまね荒谷の狐というようになった。
   売市小学校の思い出
司会
 売市小学校が根城の現在地に移ったと聞いています。その頃のお話をお願いします。
二沢平義雄さん 売市小学校から根城の新校舎に移ったのは昭和5年4月でした。新しい学校が現在地に建設され、移転することになったが移転の予算も無いので、生徒達が机、椅子、その他の備品を運びました。
川口助四郎さん 高等科の生れたいきさつ
 私たちが売市高等小学校の第1回生です。それまでは吹上の高等小学校に御世話になってました。入学式の間近になって、吹上小学校から入学を断られました。そこで大急ぎで村議会を開き、協議の結果、売市小学校に高等科を併設する事になり、私達が第1回の卒業生となり、記念に校旗を寄附しました。
川□市太郎さん 高等科は袴を着けた
 それまでは、吹上の高等科に進むには袴を着け人並みの服装で通学する。ところが新品は買えない時代でしたので、古着を買いに高岩まで行き、古着店で調達して吹上の高等科へ通ったものだ。色々な事があり吹上の学校に行けない人もありました。地元売市にも高等科が出来たので99%の人が入学しました。
司会 昔は寺小屋がありそこで子弟の教育が行なわれていたと聞きますが。
川口助四郎さん 売市の寺小屋は弘化3年          教科書「源平藤橘」
 寺小屋は弘化3年、今から約150年程前に開かれたようです。その頃使用された、御手本が残ってます。今の教科書の代りに「源平藤橘」を手本にし、掟に基づいて寺小屋が聞かれて居たようです。
その他の行事
司会
 その他の行事という事で、売市地区にあった行事は。
川口さよさん ムギカラ人形で悪魔払い 村の四ツ角でモチ撤き
 私達が小さい頃にあったのに、悪魔払いがありました。6月24日、無病息災を願って、村の人達が産土神(おばしな様)に集まり、ムギカラで、男女一対の人形を造り屋敷の入口の両側に寄りかけた、それを何日かすると川に流し1年間病魔を払う役割をしました。又、悪魔払いに村の四ツ角、東西南北にモチを作りこの1年無事に過せますように祈ってモチをまき散らした。
司会
 南米の方ではトウキミを粉にしてモチを作り主食にしてると聞きますが、この地区ではどんなものがありましたか。
鈴木 操会長
 昔は麦モチ、そばモチ等をかしわの葉にくるんで、灰の中に入れて焼き、ほど焼きと言って食べたと聞いています。
 川□さよさん
 かぼちやの葉にくるんで、ほど焼きにすると青くさくて、おいしくなかった。
司会
 青年団当時、各青年団で泊りがけで研修会を開いたようですが。
川□助四郎さん 一夜講習と館村青年団
 館村青年団では階上町の寺下観音で一夜講習会がありました。その時小井川先生や神代忠治さん達も同行しました。
二沢平義雄さん 寺下観音の別当さん宅で
 その時、私も行った、寺下観音の別当さんの家へ泊まって、研修会があり往復歩きました。館村青年団主催で一晩泊まって、先生方のお話を聞いて帰ってきた事があります。往きは耳ケ吠を通り、帰途は海岸に出て途中にある、史蹟、名勝を、小井川先生の説明をお聞きしながら帰って来ました。
司会
 長時間に亘り、売市を中心に昔の話、弘化年間から戦後にかけて売市に、まつわる貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 1

東奥日報が伝えた。
元八戸市長で同市名誉市民の秋山皐二郎氏が九月二十八日午後一時二十分、八戸市内の病院で心不全のため死去。九十七歳だった。同市長を一九六九年から五期務め、県市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。
秋山元市長は八戸を海から拓いたと評される。どんな一代記であったかを東奥日報社刊の回顧録「雨洗風磨」から転載してみる。同著は八戸図書館所蔵。
名付け親は西有穆山禅師
 私が生まれたのは明治四十三年二月二十二日、、戸籍上はそうなっている。ただ、母すゑは、よく「お前は、えんぶりの始まる朝に生まれてきたんだよ」と言っていましたから、本当は二月十七日が誕生日なんです。昔のことですから、役場に届け出た日を、そのまま生年月日にしたというのが、どうも真相のようです。
 私は実は四男坊。四歳上の兄が幼名・政次郎。三代目熊五郎を継ぐんですが、長兄、次兄とも赤ん坊のうちに亡くなって、兄は三男坊の繰上げ当選の惣領息子というわけです。二人も幼い子供を亡くしているので、母にしてみると「とにかく、きかなくてもどうでも、丈夫に育ってくれればいい」と考えたのでしょう。私の命名を西有穆山禅師に頼んだんです。禅師は母にとっては叔父。禅師の姉が関川という家へ嫁に来て母を生んだのですが、私の母方の祖母という人は、禅師とそっくりの人でした。禅師は湊本町の笹本という豆腐屋の息子。曹洞宗管長を務め、鶴見の大本山総持寺三世となった方なんです。母たちには、よく「子供というものは、ふた親が力を合わせて育てるもんだ。小鳥でさえも巣をつくり、ふた親でエサを運んで育てている。大切に育てなくてはダメだぞ」と話していたそうです。禅師については、顕彰会が結成されて、私が会長を引き受け、四十四年六月に公園を造成、銅像を建立しました。
 その禅師に付けていただいた名前が「皐二郎」。ところが、小学校に入ったらだれも「コウジロウ」と呼んでくれない。「いや違う。おれはコウジロウだ」と何度言っても、先生までが「サイジロウ」と呼ぶ。
 旧制八戸中学に入学した時に辞書を買ってもらい、真っ先に調べて「ああ、やっぱりコウジロウでいいんだなあ」と安心したのを覚えています。どうもみんな、勤物のサイ「犀」と間違えていたらしい。
  竹内俊吉さんに聞くと高い丘の意味と言う
「皐」の本字は「學」。浩然の気を養うの「浩」と同じ意味。「とにかく丈夫で」という母の願いを込めて、禅師が考えてくれたのだなあと思いました。禅師は、私の名前を付けたその年の秋に、九十歳で世を去りました。
 後年、県議になって、竹内俊吉知事に聞いたら「君の皐は高い丘という意味だなあ」と教えられました。副議長になった時に記念に何か書いてくださいと頼んだら「陶淵明の五言絶句に、東皐に登りて笛を吹くというのがあるから」と言われて 「東皐香梅花」という書を揮ごうしてくれました。八戸の東方、鮫の丘ということです。
 名前で困ったのは、当用漢字にないこと。名刺を作るようになってから、印刷屋に活字がなくて、泣かされました。「皐」という活字を彫ってもらって作ったんです。出張の時なんかは、かさばらないように薄い上質の紙で名刺を作り百枚も持って行く。無くなっても、すぐ印刷というわけにはいかないんですから。
 私の父は興吉と言って、私が二歳の時に腎臓病で亡くなりました。三十四歳でした。父の記憶は全くありません。ダブルの三つぞろい、金鎖なんか身に着けて馬に乗ってる写真が残っていますが、なかなかのシャレ者だったようです。
 兄は一緒に撮った写真があるんですが、私と一緒のは一枚もない。母は冗談半分で笑いながら「お前は赤ん坊のころ、まことにゲホ(みっともないの意)でね。だからお父さんは、好まなかったんだろう」と言いました。
 初代熊五郎に才覚、前浜の漁で大もうけ
 私が生まれ育った秋山家は八戸藩のお抱え漁師だった家柄で、伝承によると、甲斐南部家の南部光行らの糠部下向の折に、今の山梨県の秋山郷から一緒に来たといわれています。当主は代々、孫兵衛を名乗り、屋号は「まごべえや」。前浜での漁業を管理して藩政時代から続いてきた家です。ところが、この孫兵衛家が慶応の年に破産してしまう。
 わが家は、私の祖父・初代熊五郎の代に分家という形になっているんですが、祖父が数えの十八歳の時だったそうです。
 祖父の話では、昔から孫兵衛家には言い伝えがあり「本当に困った時は、一番奥の座敷のこういう場所を開けてみろ」というんで、何か必ず宝物があるはずだと、開けてみたら千両箱があったが、中は空だったそうです。そこへ来るまでに使い果たしたんでしょう。私が子供のころまで、その千両箱が神棚に残っていました。
 孫兵衛家は現在の湊トンネルの上、館鼻公園のそばの一角にあったのですが、すっかり城を開け渡して、それまでは干場で、シメ粕や網、煮干しを干していた浜須賀の浜辺へ下りて住まいしたんです。どの家にも長い歴史がありますが、わが一族も没落して路頭に迷った時期があったわけです。
米内山家と並ぶ網元に
 祖父・初代熊五郎は、なかなか先の見通しが利く人で、前浜の地引き網漁で、随分大漁したんです。東の秋山、西の米内山といわれて、代議士をなさった米内山義一郎さんのところも古くからの網元なんですが、私の方は五カ統あった地引き網を小作に出していました。八太郎日計、市川、一川目、二川目、三川目と一カ統ずつ。その北の方は米内山さんだった。
 後年、米内山さんに言われたことがある。「いや秋山君、君のとこは、今の資本主義経済に乗って、随分と大きくなったなあ。私のとこは古くさい経営方法でダメだった。一族で守っていたから伸びなかった。君の方は小作に出していたからなあ」と二人で大笑いしました。
 私が物心ついたころ、ある朝、「ドシン、ドシン」という音で目が覚めた。寝ぼけ眼で起きて行くと、上間でウス二丁並べて若い衆がモチをついている。レンガ敷きで十五、六畳ある土間でして、 一斗炊きのカマが二つ掛かるカマドがありました。つきたてのモチをほお張りながら「きょうは何なのだっけ」と間くと母たちが「九日モチだよ。これを食べて漁のあるのを待つんだ」。
 私の祖父が前浜で漁を始めたころ不漁の年があった。旧暦の九月九日には他の人たちは、もう完全に切り上げてしまったそうなんです。祖父だけは「必ず漁があるはずだ」と船頭たちに話してモチをつき「慌てないでモチを食べて休んでろ」と待ち続け大漁したというんです。わが家では「九日モチ」と称して年中行事となっていました。
 祖父はまた、巻き網漁では、綿糸でアグリ網を考案改良した長谷川藤次郎さんと共同経営していました。「成田丸」という船名はもともとは長谷川さんのところの船名なんてすが、後年、長谷川さんが巻き網漁業から手を引いた時に譲ってくれたものです。
 明治の末ごろ、私の生まれた前後でしょうが、北海道のニシン不漁で私の祖父も長谷川さんも大変な借金を抱えた。私の祖父は二万八千円、長谷川さんのところは十三万円だったそうです。
 祖父は当時の八戸商業銀行の鈴本吉十郎頭取のところへ行って「もう、すべてを整理します。浜から足を洗います」と言ったら頭取が「そこまで腹決めたんであれば待ってやる。何も急いで船や網を売ることもなかろう。もう一回、漁をやってみろ」と諭されて、地引き網専門で二年間で二万八千円を返済したそうです。
 その時の手形は今もわが家にあります。
盛大な大漁祝い母が指揮
 網元の家というのは、とにかく人の出入りが多くて、にぎやかなものでした。私の子供のころで地引き網五カ統、巻き網三カ統持っていましたから。巻き網は手こぎ舟で、いわゆるテントウ舟というものでした。
 食事は、わが家の家族も船頭も船乗りも一緒になってとる。細長い飯台をズラーッと並べて、少しアワを混ぜたご飯を三交代ぐらいで食べる。昼食用に長四角の木箱(沖箱と言っていましたが)にご飯とおかずを詰めて出漁していく。
 漁を終えて帰ってくると、すぐ酒盛りが始まる。土間にある四斗だるから酒を酌んできて爛をつけ、船から持ってきた魚を刺し身にして。
 父を二歳の時に亡くしたんですが、こうした雰囲気の中で育ったせいか、それほど寂しいという思いはしませんでした。ただ、最初に父親を感じたのは、八戸の三社大祭を見に行った時のこと。  小学生になっていたと思うんですが、母に十銭もらって出掛ける。馬車に乗ると往復十銭なんですが、バカくさくて歩いて行く。十銭あると結構、いろいろ食べられたんです。
 ところが、祭りを見ようとすると大変。体が小さいものですから、人込みの中を潜って歩く。周りを見回すと、小さい子供は、みんな父親に肩車してもらっている。
 「あーっ。おれのおやじも生きてたら肩車してくれただろうなあ。そうすりゃ高い所から、もっとよく祭りが見られるのになあ」とうらやましく思いました。
 網元の家の行事の最初が、旧暦の正月二日の乗り初め。商家でいえば初売り、初荷ということになります。船に大漁旗をいっぱい立てて、満艦飾に飾る。一年間の漁の態勢を、この時に決めるわけです。
 当時のわが家は、十五畳ぐらいの土間に続いて十畳の茶の間、玄関と続く十畳の中茶の間があり、それから奥へ十六畳、十畳、十畳と三部屋が続いていた。ふすまを取り外すと、L宇型の広間になり、百五十人ぐらいが座って酒盛りできる広さでした。
神棚には山盛りの銀貨
 一番、楽しかったのは、なんといっても漁の切り上げや大漁祝い。母が四日ぐらいかかって、一族や船頭、船乗りの夫人たちを総指揮して料理を作る。最初に船頭が一升ますに山盛りにした銀貨を神棚に上げる。その時に手にいっぱいつかんでパッと投げつけるんです。子供たちは先を争って、それを拾う、台所の女性たちも人って大騒ぎする。
 一升ますは最後に神棚に上げられるんですが、ある時、兄が「肩車してやるから、神棚の上のますから少し取ってこよう」と誘う。ヨシッと言うんで銀貨を取ろうとした矢先に母に見つかった。
 「コラーッ、何をしてる」としかられて、兄はサッと肩を外して逃げてしまい、私は神棚につかまって足をバタバタ。母にそのままの格好で、おしりを思い切りひっぱたかれました。しりは痛いし、逃げようにも手を離せば落ちるし、でどうにもならない。往生しました。
 暮れになると、下北、三陸、小名浜などから地引き網や巻き網船が、次々に網を積んで回港してくる。網を網倉(八戸では網戸という)へ納めて、一杯飲んで帰る。
 山海の珍味というよりは、海海の珍味で、もてなし、帰りは馬車で送るんです。サバずしとかマグロの刺し身、エビ天、ホッキ貝の照り焼き、サメなますなんかが、よく出ました。
 こういう料理は、その度ごとに母が、親類縁者の女性たちを指揮してつくり、後片付けも膳や椀を洗って倉にしまうまで、いろいろしゃべりながら三日ぐらいかかってやる。娯楽の少ない当時でしたから、こんなふうに集まるのが、一種のレクリエーションみたいなものだったんだと思います。
 私はじっとしているより動き回ってる方が楽しい性格で、随分と浜の仕事をやりました。小さいころから浜風が身にしみているんです。
浜辺は子供の楽園
 小学校は湊小学校。今のJR陸奥湊駅の向かい、魚菜市場のところにあり、段々になった敷地に校舎が階段状に立っていました。三本のポプラが植えてあった校庭は大変狭く、思いっ切り走ることができず、運動会のリレーの練習を上ノ山地区の市道を使ってやった記憶があります。
 市長になって学校を整備する際に、運動場は最低でも直線で百㍍のコースが取れるようにと考えて実行したのは、子供の時の狭い校庭が頭にあったからでした。
 現在の築港街や港湾施設はまったく無い時代で、扇浦といわれる美しい砂浜がずうっと広がっていました。今の湊トンネルから港へ抜ける出口の上は、こんもりした森で、そこにたくさんの野鳥が飛んで来たものです。新井田川の河口にかけては砂丘が広がり、ハマナスがいっぱいありました。
 浜須賀からは白銀にあった製材工場が見えて、沖合三百㍍ぐらいの所に「双デ石」という岩があり、そこまで泳いで行けるようになると一人前に扱われました。
 朝、起きると母が、一斗炊きの釜の底にできた「お焦げ」に黒砂糖をまぶして、鉄製のへらでパリパリッとはがして竹製のざるに取ってくれる。それを懐に入れて、砂浜へ飛び出すのが日課。
 近所の子供たちを集めて黒砂糖まぶしの「お焦げ」を配給するんです。うまいんですよ。香ばしくて。大阪名物の「石おこし」みたいでした。
四季折々に遊び工夫
 遊びは広大な砂浜ですから、陣取りという戦争ごっこや「こま回し」というアイスホッケーの元祖みたいなこともやったんです。直径十㌢ぐらいの丸太を輪切りにして、これを相手に向かって投げる。上手に受け止めればいいが、相手が落としたりすると、その地点まで味方が進める。丸太の輪切りですから、受け損ねて顔なんかに当たると実に痛たくて。
 春先はこうがい打ち。細木を土に打ちつけてね。ひと抱えも勝って意気揚々と家へ持って帰ったら、母が「そんな汚いもの家では燃やせない。捨ててきなさい」とこっぴどくしかられて。
 夏は、もちろん水泳。前浜は川が流れ込んでいるので、海藻類が実によく繁茂していました。ソイやアブラメがよく釣れるし、カキなんかも採れたんです。砂地を足で掘ればホッキガイもある。
 港湾の施設がなかったから、大きな三〇〇トンクラスの船は沖合に停泊する。「おい、きょうは蒸気船まで行くぞ」と誘い合って沖合の船へ泳ぐ。船員は「おっ、よく来た、よく来た」と必ず、お菓子をくれる。それを食べながら泳いで戻るなんてこともやりました。
 冬は、そり遊び。館鼻の上から道路をぐるうっと回りゲンゴ坂を滑り、浜まで約四、五百㍍も滑る。私なんかはカネげた(スケート)で館鼻の急斜面を直滑降したりもしました。
 食べ物は生ものが苦手
私は食べ物では生ものが苦手。セグロイワシの背焼き(背の部分を少し焼いて食べる)なんか食事に出ると、なかなか口に入らない。焼きながら食べるんですから、生焼けのうちにみんなパクパク。ちゃんと焼けるのを待ってるとなくなってしまう。みんなの食事が終わってから、ようやく一人でじっくり焼いたりなんかしました。
 奸物だったのは酸味の強いマルメロと青梅。マルメロは丸かじりする。渋みがなんとも言えず口に合うんです。青梅の方も、周辺の梅の木の所在は、しっかり覚えていました。トゲトゲがあって手や足が痛いんですが、それでも木に登って随分食べました。                                 
 浜辺で煮干しに交じっている小エビやカニ、カレイ、サバ、イカなんかも、毎日のように食べました。薄い塩味がついていて実にうまい。遊びや煮ぼし干しの手伝いをしながら、つまむ。おかげてカルシウムは何年分も摂取できたようで歯は今でも丈夫そのもの。
 あのころの浜辺は私どもの楽園であり、古戦場でもありました。
小学校時代、山崎岩男さんの兄さんから教わる
 小学校の先生には、山崎岩男さんのお兄さんが居て、四年生の時に教わりました。岩男さんは後に県知事になり、息子の竜男さんが今も参院議員ですが、当時、岩男さんは八戸中学生。
 時々八中の学生帽をかぶって小学校に来て、お兄さんの代わりに教壇に立って算術を私どもに教えるんです。勝手に先生をやってもだれも文句を言わないし、大らかな時代でした。
 県の視学官などを務め、素晴らしい教育者になられた寺井五郎さんも八中を卒業したばかりで代用教員として赴任して来ましたが、若々しくて「坊やみたい」と悪童たちに評されました。
厳しかった秀之助叔父
 父が居なかった私を家で鍛えてくれたのは、父のすぐ下の弟だった秀之肋叔父。小学校一年になると、こぶしぐらいの大きさの綿糸の玉と網針を手渡して網の修理。船頭とか乗り組み員の子供たちも、それぞれ年齢に応じた大きさの綿糸の玉をもらって、浜にズラリと並んで網の修理を手伝いました。おかげて、網の修理は、すごくうまくなった。
 網干しなんかも手伝いました。一家総出で浜に網を広げ、夕方には取り込む。重くて大変な重労働でした。網を渋で染めるのも、ふんどし一丁でやりましたよ。渋が付着するので裸でやるんですが、網目が素肌に食い込んで痛くて痛くて。
 戦後、化学繊維の網を日本で最初に導入したのは本県の巻き網組合で、私が組合長をした時ですが、網干しや網染めの重労働の体験が生きたというわけです。
 小学校五年生になると、秀之肋叔父はいつも私に手紙を書かせる。口述筆記で、叔父の言う通りに書く。出来上がると「読め」。黙って読むのを聞いて、直して清書させる。
 あちこちへの連絡なんかも、ずい分とやりました。兄は惣領ですから、そうした細かいことは一切やらない。「皐二郎、三川目へ行って、若い衆五、六人頼んでこい」。「初めてでわからない」といえば、「いや、だれそれの家へ行って言えば、ちゃんとやってくれるから」。そこで自転車で行くと「ヨシ、わかった。アンチャ、キメジャケッコ買ってケジャ」。決め酒というのは、それで覚えたんですが、次の日の朝には若い衆が身支度を整えて出てくるわけです。
 市川とかの海岸沿いは船員、三戸郡の方には加工関係の作業員というふうに、いくつかの拠点がちゃんとあったんです。三戸にも何度も行きました。
 当時の網元と使われている人との関係は、今の雇用関係よりも、もっと密接で長い長い付き合いだったんです。漁の無い時は網元が、こうした人たちの生活を保障する。漁があれば借金を返す形になりますが、回収しないのもずい分あった。そこが網元の使命であり、権威でもあったんでしょう。
 私の家では八戸のほか北海道の釧路、岩手県の山田湾、小名浜に番屋があったんです。山田浦は鈴木善幸さんの出た所で関係は深いんです。
 煮干しやシメ粕を作る時に燃料として使うのは松の木、これは三戸郡の山から冬、雪が降ってから切り出す。そんなのにもついて行きました。
 秀之肋叔父は非常にきちょうめんな人でしたが、神田重雄さん(のち二代目八戸市長)に私淑して、日露戦争前には渤海湾へ手こぎ船を連ねて出漁しています。神田さんも一緒で、日露戦争で日本兵がたくさん来るから食糧を確保しようという長谷川藤次郎さんの構想だったそうです。
 「残念ながら漁がなかったものなあ」と叔父は言ってましたが、気宇壮大な長谷川さん、神田さんと相通じるものがあったようです。叔父は神田さんの要請で市議も三期つとめたんですが、湊地区の道路建設に反対した船具商を営む市議を議場内でポカリとやった武勇伝も残っています。「浜の世話になりながら何事か」と怒ったようです。
日本水産業界の先覚者長谷川藤次郎翁は安政二年四月六日三重県に 生れ、昭和八年二月十七日八戸市湊町において七十九才で逝 去。 明治十九年較港において肥料商を営み鰮地曳網の改良を痛感し、漁法を改善。明治二十二年巾着網を麻製の揚繰網とし、更に研究を重ね綿糸の改良揚繰網を考案。 又搾粕圧搾器を改良。三十六年湊漁業組合 初代組合長。明治三十七年七月勅定の緑綬褒賞。ここに翁の遺徳をしのび銅像を建立し水産日本の発展及旋網漁業の 隆栄を期しつつ永く其の偉業を後世に伝う。
歴代組合長
秋山秀之助 久保卯三郎 吉田契造 中村正路 熊谷義雄 秋山皐二郎

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 1

東北線は新幹線となり、いよいよ青森に迫る。五年前八戸に新幹線が延伸された。県都青森に伸びれば八戸は通過駅になる。
通過駅になる前に、通過駅にしない工夫が大事。かなり難しい問題だが、不可能ではない。その辺をさぐるために過去の事跡から東北線を検証しよう。
東北線の開通はどうなっていたのか、国鉄が発刊した東北線のはなしから掲載。

 明治十四年十二月六日、日本鉄道は東京芝紅葉館(華族の集会所)で臨時株主総会を開き、理事委員を選挙した。この日選ばれた最初の理事委員(重役)は十八名である。
 吉井友実、林賢徳(旧金沢藩士。1875年士族授産を目的に東京麻布に農学舎をおこす。官設鉄道以外の会社方式による鉄道建設を林賢徳によって結成された東山社が直訴し賛同を得て、岩倉具視らが発起人となり 明治維新前の旧公家や大名を中心に日本鉄道が設立され、東北線・高崎線の建設を進めた)、大田黒惟信、大久保利和(おおくぼとしなか・貴族院議員。大久保利通の長男。明治四年のいわゆる岩倉使節団に同行、帰国後は開成学校に入学。明治十四年の日本鉄道株式会社発足に関与、その後は大蔵省主計官、貴族院議員などを務めた)池田章成(岡山藩主)、白杉敬愛、柏村信(明治十六年大倉喜八郎らと日本初の電燈会社設立)北川亥之作、伊達宗城(伊予宇和島十万石藩主)、鬼塚通理、二橋元長、長谷川敬助(初代入間・高麗郡長)、村井定吉、大矢精助(明治十八年、盛岡の士族、実業家が北上(ほくじょう)回漕株式会社を創立。初代社長、前日本鉄道株式会社理事委員の大矢精助が就任)、浦山太吉(八戸近代港湾開発の父と呼ばれる。また、東北本線開通の際、八戸を通過するように主張した一人)矢板武(辞退により横山万五郎)ほかとなっており、この中に盛岡市の豪商大矢精肋が選ばれている。このうち林、大田黒の2名は検査委員となった。理事委員の互選で元老院議官工部大輔吉井友実(鹿児島出身後に伯爵、歌人吉井勇の父)が選ばれ、吉井友実は直ちに現職を辞任する手続をとった。十五年一月正式に免官となり、二月四日社長に就任した。
 会社の事務所は第十五国立銀行内に間借りしていたが、十四年十二月十五日に京橋区木挽町5丁目5番地の新社屋に引っ越した。社員たちは鉄道建設の具体的な事務について鉄道局と打ち合わせたり、株金募集で各県と連絡したりにわかに急がしくなった。
 日本鉄道会社は、利子補給、免税、あるいは建設工事を政府が代行するなど手厚い保護政策の中で発足した、しかし、伝統的な鉄道官営の政策を特っている政府にとって、やむを得ない例外のことであったから、特許条約書にも五十年後には政府が会社を買収することができるという条件をつけ一応官営の原則を保持している。
 また、日本鉄道会社はその成立経過からも知られるように、政府の華士族授産という大きな目的に沿ったものであり、更には北海道への連絡や東北開発の意図も兼ねているという特殊性に注目しなければならない。これらは外国などの鉄道企業とは全くことなるものである。
 東北本線がようやく仙台附近に及ぼうとするころ、国内の景気も回復し、鉄道事業は紡績業とともに資本主義産業の先端を行くようになる。鉄道ブームがわきおこり明治二十五年までの間に実に五十の鉄道会社が出願され、政府当局がなんども警告を発するという状態となる。従って、政府部内には再び鉄道官営主義が強くなり、次第に私設鉄道保護の手がきびしくなってくるのは当然であった。明治二十三年の経済恐慌を経て鉄道官営の世論が一部に強くなり、翌二十四年には井上鉄道庁長官が、経済上軍事上の見地から日本の鉄道網整備計画を論じた、「鉄道政略ニ関スル議」を建言している。ちょうど、上野・青森間が完成した年である。日本鉄道会社はこのような事情を背景にして更に発展を続けていった。
 東北本線建設反対の動き
 日本鉄道会社が設立され、工事もやがて行なわれるとなると、東北地方の沿線各地はもちろん東京地方にもさまざまな波紋がおきたのは当然であろう。文明開化に浴すると説く者、鉄道ができては困るという者、鉄道をたねにひともうけしょうと企む者といろいろであったろう。
 農民のほとんどは反対したといってもよいだろう。その理由も「汽車の煙で稲が枯れる」「火の粉で火事になる」「灰で桑が枯れる」「震動で稲の花粉が落ちたり、地割れして水がなくなる」といった風説である。他国者や泥棒が汽車に乗ってくるといった閉鎖的な考え方や、旧宿場や水運業者などが商売ができなくなるといった利害関係から反対を唱える者もあった。しかしその多くは鉄道が便利であることは認めながら、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。
東北本線の建設工事
 東北本線のルート 
ひとくちに東京・青森間の鉄道といっても、どこを通すかということは、日本鉄道会社が発足する頃には大体決っていたようである。それが現在の東北本線と同じ経路であったかどうか疑問があるが、あまりはっきりしない。ただ、ここでいえるのは、すでに政府の手によって二回以上にわたって路線調査が行なわれていたから、これによったことは確かであろう。
 明治五年十一月工部省准十等出仕小野友五郎が東京・青森間を測量したときは東京の内藤新宿から板橋・川口を通り、埼玉県の岩槻(大宮の東方)を経て奥州街道沿いに北上し、青森に達している。ただ三戸・野辺地間は、国道沿い(五戸・三本木経由)と現在線筋(八戸・沼崎経由)の両方を測量しているのが注目される。
 明治9年9月建築技長アール・ビッカース・ボイルが中仙道線の測量をしたとき、東京の町の中を通るのは困難であるとし、上野附近から王子・大宮を経て調査をし、宇都宮に向かう鉄道は大宮から分岐するのが最も良いと報告している。もうひとつ、幌内鉄道建設を指導した開拓使傭ジョゼフ・クロフオードが、明治十三年十二月松本荘一郎とともに東京・青森間を測量した。青森から踏査したのであるが線路は野辺地を終点とし、青森にはあとから延ばすべきだとしている。理由は小湊附近が難工事であることと、野辺地・青森間は同じ湾内にあり、海運の便があるということに基くものである。野辺地・三戸間と一ノ関・仙台間は現在の路線を通っている。また仙台・福島間は阿武隈川沿いでありともに国道から外れている点が注目される。また、栗橋から岩槻を経て千住から小名木川に出ており、東京の起点を小名木川としている点も興味がある。
 東北本線のルートは結果から言えば、関東地方はボイル案、東北地方はクロフオード案に近いといえる。東北本線のルートを決定するに当っての基準というものは要約すれば次の三点があげられるだろう。
 一、東京と野蒜(後に塩釜に変更)、八戸の各港を結び更に青森港に連する。
 二、街道沿いの人目の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ。
 三、急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける。

デーリー東北新聞の創始者穂積義孝「夜討ち朝がけ」から1

穂積 義孝ほづみよしたか
 明治四十(1907)~昭和五十三(1978)
 デーリー東北新聞の創業者。上郷村(田子町)生まれ。早大卒後、読売新聞社に入社。昭和十四年中国上海に渡り大陸新報で健筆を振う。 十七年に帰郷、穂積建設、南部貨物、青森航空機の役員を務める。戦後二十年「民主国家の再建は言論の自由から」と同志を募りデーリー東北を創立、会長に就く。公職追放後、穂積建設、三八五貨物の役員を経て、三十年デーリー東北に復帰、副社長を歴任。(青森県人名事典・東奥日報刊)
新聞発刊への苦労
あの友、この友の多幸祈る
 私は八戸市でデーリー東北新聞社を始めたのは昭和二十年の秋のことである。当時すでに佐々木正太郎さんは外人の軍隊専用のオリエンタル・ダンスホールを「三萬」の二階で始めていた。私は東京からラジオプレスの常務をしていた広塚君を連れて来て、外字新聞をまず発行するということで当時の占領軍司令官ベル代将に交渉した。広塚君は世界中のラジオを聞いて、これを日本政府に情報を出していたので、ベル代将との交渉は簡単についた。ベルさんは用紙の割り当てをすぐ申請してくれた。当時新聞が統制されて、八戸の新聞全部が東奥日報に強制的に合併されていたので、地元発行の新聞はなかった。
 そこで半分を英字に、半分を日本字にし、市民にも見せたいと思ってベルさんに交渉したら  「英字新聞は必要ないから全部日本語でよい」ということになった。そこで月刊評論の成田社長に交渉し、とりあえず中央印刷を使うことになり準備を進めた。間もなく用紙割り当てが来た。さっそく同志を集めた。成田武夫君が私に「君は選挙をやるんだろう。少しでもプラスになるような陣容をつくらなくてはならないぞ。君は保守党でも革新党でもないのだから、むずかしいんだ」と言いながら成田君の自宅で、中沢村から取り寄せたそば粉で手打ちそばを作り、それを食べながら論じ合った。
 最初の陣容は発起人に成田武夫、峯正太郎、木村錠之助、大津毅、田口豊州、広田豊柳、神田宏の諸氏で、株主にはこのほか平野善次郎、笹本嘉一、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸氏らがいた。そして第一回の役員は取締役に私、神田宏、笹本嘉一、峯正太郎、木村錠之助氏、また監査役には成田武夫、大津毅の両氏が就任した。私は選挙をやるので会長となり、成田君の妹ムコである神田君に社長になってもらうことにした。その年の十二月九日に創立総会を開いた。株式は十万円であった。そのうち近藤喜一さんのお父さんの喜衛さんから私に電話があって、山の下のお宅に出かけて行くと「義孝さん、あんた、新聞を出すそうだけれど、社屋がなければ困るでしょう」と言うので「困っています」と伝えたところ 「奥南新報社の跡があるから、あんだに売る。それを使いなさい」「おじいさん、いくらですか」  「そうさなァ、八千五百円ぐらいならどうだけ」  「ようがす。お願いします」 ということになり、私はさっそく八千五百円を準備して持って行った。そしてデーリー東北の「城」が出来たのである。
 近藤喜衛さんはさっそく奥南をやっていた三浦広蔵さんを呼んでその金を全部、三浦さんに渡し「この金を奥南新報にいた人達に分けてやってくれ」と言われた。おじいさんは立派な人であったと今も感心している。
それからは新聞記者をやったり、社長職をやったり、デーリーの工場に寝泊りするなどの忙しい日が続いた。正月を過ぎたある日、東京の橋本登美三郎(茨城県出身の政治家。朝日新聞記者から終戦の年に退社、戦後は自民党幹事長、建設、運輸大臣)氏から「東京に出てこい」との連絡があった。それは終戦後の総選拳を控えて日本民党(たみのとう)の旗上げであった。
 彼は朝日新聞をやめて終戦後の混乱した日本の政治を立て直そうと言うのである。自由主義でも資本主義でもない。マルクス・レーニン主義の社会主義でもない、第三の哲学である共同社会民主主義をスローガンに、日本民党を結成するというのであった。私は上京して首相官邸の記者クラブに行き、読売の政治部にいた川口孝志君(元デーリー東北編集局長)を連れて築地の料理屋で開かれた結党大会に出かけた。主なる顔ぶれは小説家の石川達三、戸叶武、里子夫婦、その他文化人など四十人ぐらいであった。その時に決められたことは「各自が郷里に帰って、各県ごとに県民党を組織せよ」とのことであった。
 私も八戸に帰って、旗上げの準備を始めた。三浦一雄さんと連絡をとらなくてはならない。彼は最初に出る時に「次は君を推すから」との約束があったからである。幸いに三浦さんは奥さんの実家である八戸の江渡旅館に帰っていた。私はさっそく訪ねて三階の狭い部屋で彼と会い、率直に話を切り出した。「今度いよいよ衆議院議員の選挙をやる気だから頼む」と言ったら三浦さんは  「いや穂積君、私は平和憲法の草稿をやって来たんだよ。だからあれを完成させたい。ぜひ今度は私を頼む」「あなたは書記官長をやったから戦犯だよ。どうせ追放になると思いますがね」「君だって飛行機会社をやったんだから追放だよ」と二人の話がなかなか進展しない。結局二人とも申請したら、しばらくして二人とも追放(公職追放・公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。日本では、戦後の民主化政策の一として、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。パージ)になった。なぜ追放になったか、私は読売の政治部に調べさせたところ、翼賛壮年団の県団総務をやっていたことが理由でだめになったとのことであった。そこで、あきらめて新聞に専念することになり、さらに十万円を増資して役員をあらたにした。神田君にやめてもらい、私が社長で新聞づくりに専念した。編集局長には下斗米謹一君(現在、編集局顧問)を依頼して彼にいっさいをまかせた。
 総選挙の結果はみじめであった。日本民党は全滅した。ただ一人、戸叶里子(栃木全県区(当時)から立候補し、最高点で当選。日本初の女性代議士の一人となる。以後連続11回当選)さんが当選したのがせめてもの慰めであった。
 総裁の橋本登美三郎氏(現在自民党幹事長)は郷里に帰って潮来の町長になり、再起を図った。そして二度目から当選を続けている。橋本さんをはじめある者は自民党に、ある者は社会党に分かれて日本民党はなくなった。しかしその精神は今こそ必要な時ではなかろうか。彼、橋本幹事長は最近の世相に対し「自由主義でなければ社会主義だという考え方は遅れた教育のためである。人類の理想はやはり自由社会にある」と固く信じている人である。あの時、私は評論家の宮崎君(元読売論説委員)に「橋本登美三郎さんがなぜ昔からの女房と離婚して、若いアナウンサーをもらったのか」と言ったら「いや穂積さん、それは違うよ。彼は女房に捨てられたんだよ。彼が二度目に選挙に出る時奥さんがね、あんたが政治をどうしてもやるなら私は出て行きます、と言って登美さんに三下り半をたたきつけたのは奥さんの方なんだよ」との話であった。
 橋本さんは日本的な政治家となったが、昔の奥さんはこれをどう評価しているであろうか。
 おわりに、私はこの稿を起こすに当たって、四十年を振り返り、心のふるさとをさらけ出した訳であるが、数多くの友人や先輩のご多幸を祈り、ひとまずペンを置くことにする。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 10

 永平寺、総持寺両出張所を合併す
 曹洞宗は江戸時代、永平寺と総持寺と二つに分かれていた。明治新政府に永平寺側は取り入り、総本山を永平寺とし、総持寺を下に組み入れようとした。
おさまらないのは総持寺側、西有穆山は総持寺側に属していた。永平寺と並立こそ当然と尽力する。明治元年永平寺の請願に端を発して以来四ケ年にわたる「永平寺総持寺、宗統理の問題」は「両本山故のごとし」の新政府の裁断で解決し、両本山は同列同格の本山であることが確認され、明治五年に至り、大蔵省の演達に基づき両本山は親睦修交の盟約を締結するに至った。
西有穆山師は、こうした両山の撹乱闘争時代より、協和盟約締結期に至る激動時代に、如何なる態度で活動していたかが興味あるものである。ここにその一齣(ひとこま)を眺めることにしよう。穆山師は、かつての参禅弁道の師匠であった現在の総持寺貫主奕堂禅師の親任を得て、総持寺監院職に就いて奕堂禅師を補佐していた。前述の如く明治政府は廃仏毀釈の政策を執って仏教を圧迫したのに加えて、永平寺は、総本山の裁許を取って曹洞宗一宗統理の方針を強行したる為に総持寺側は一つは政府に対する請願陳情等、他は永平寺側に対する交渉協議等文字通り多事多難であった。
この多忙の時に当り、永平寺は出張所を芝の青松寺に、総持寺の出張所は下谷の黒門町に設けられていた為に、毎回幾度となく、両出張所の間を徒歩で往復せねばならぬ、時間の無駄、労力の浪費まことに愚なりと感じたのであります。又反面、宗門は両山一体となり、事務局も一箇所にまとまるべきだ。と考えていたから、永平寺貫主(当時は今の貫首の文字でなく貫主の字を用いた)環渓禅師に、自分の意見を申し上げて、両山の出張所を合併して一ケ所に置くべきであることを申し上げたところ、環渓禅師は穆山師とは正法眼蔵参究等の関係から非常に親しかったこともあり、御賛成なされて合併に同意せられた。そこで、総持寺貫主奕堂禅師にも同様の意見を陳述して御許可を御願したところ、禅師は「私はよいとして、総持寺の役僚達が反対だから困る…」といって、お許しにならなかった。
それで、穆山師は、役僚一同を集めて、自分の意見と理想を述べて、役僚各位の意志を確かめたところ、
役僚一同は「私たちは賛成であります。監院様の御力で是非合併を実現して下さい」というので、穆山師「それでは、明日禅師様にもう一度合併を御願する。そして禅師様が例の如く役僚が反対であるからと仰しゃったら貴僧たちを禅師様の御前に呼び出すから、その時、御前であるからといって、臆病になってぐずぐずしてはならぬぞ」と念を押して、翌日穆山師なに食わぬ顔をして「禅師様、やはりどうしても事務多端の御一新の折柄、合併した方がよろしゅうございます」と自論を申し上げると、禅師様は相変らず「役僚達が反対だから無理せぬがよかろう」と仰っしゃるので、役僚たちを禅師様の御前に呼び寄せて、
穆山師「禅師様が合併を御希望なされるのに、何故貴僧たちが反対するのか、けしからんではないか」と、役僚一同を詰責すると、
役僚一同「そんなことはありません、私達は賛成でございます」と、異口同音に答えたので穆山師「禅師様は嘘をつきなさる」と、禅師様の顔をじっと見つめると、
禅師「勝手にせよ!」と仰しゃって、席をお起ちなされた。御二人の間柄は、前橋市龍梅院時代に、住職と副寺、師家と随身、そして、毎月の一日、十五日の小参(修行僧の問答参究)には、払子をわたして、「小参は副寺和尚に一任す」といって方丈に帰られた信じ切った間柄である。
そして、「聞くに耐へたり声外菊香の残するを、許す師が特地三寸を伸べ、虚空を喝破するもまた難からず」(奕堂禅師の穆山師を印可証明した詩)と、奕堂禅師と穆山師は師資二面裂破していて、ア、ウンの呼吸が合っている二人であるから遠慮は要らぬ、「小参は副寺和尚に任す」、「勝手にせよ」「お許しが出た、さあ移転だ、引越しだ」といって、役僚を督励して、即刻荷作りを始め、愛宕山下の青松寺に引越して合併を断行してしまった。これが動因となり、明治維新に於ける宗門一体、両山一体の行政の宗務庁の前身宗務局が、芝の愛宕山下の青松寺に開設せられるに至ったのであります。


 可睡斎時代 明治十年~二十五年
  (静岡県袋井市久能)
一、可睡斎と徳川家康
 明治十年(一八七七)穆山師五十七歳の働き盛りとなる、西郷隆盛が郷土の士族門弟同志に推されて挙兵し男の意地を立てたが敗れて城山の露と消えた。一方、東京大学が設立され、佐野常氏等が博愛社を設立し、のちの日本赤十字社の先駆となる、この年四月、穆山師は懇請されて、静岡県可睡斎住職に就任して御前様となる。
この寺は、藩政時代には、永平寺の末寺四百九十六ケ寺、総持寺の末寺二千壱百六ケ寺、計弐千七百拾弐ケ寺を配下として統轄した僧録の寺であります。この寺は山号を万松山といい、交通の便と風光に恵まれた曹洞宗東海第一の名刹であります。
 足利義満が明と国交を開いた応永八年(一四〇一)に道元禅師より七代目の法孫、恕仲禅師がお 開きになった寺で、その頃は東陽軒といっていました。十一代目の住職等膳和尚が、今川義元のもとに人質となっていた竹千代丸(後の家康)を父と共に戦乱の巷から救助して国元にかえした。その後家康は次第に出世して浜松城主となった時に、親しく等膳和尚を招待して、旧恩を謝しました。和尚は、その歓待の席上で、コクリコクリと無心に居睡りをした。家康は、二ッコリせられて、
末座「和尚我れを見ること愛児の如し、故に安心して睡る、われその親密の情を喜ぶ、和尚睡る可し」といって、それ以来「可睡和尚」と愛称せられ、後に東陽軒を改造して大伽藍となし、寺号も「可睡斎」と改めたのであります。又しばしば家康の心の散乱をなおした旧恩に報しる意味で、伊豆、駿河、遠江、三河の四ケ国の総録司という取締りの職を与え、拾万石の礼を以て待遇せられるようになり、藩政時代は拾万石以下の諸大名は可睡斎の門前を通る時には龍から降りて通ったものであり、以来歴代の住職は高僧碩徳(せきとく・徳の高い人)が相続して、東海道随一の名刹
として大しに仏法をひろめ、寺門は愈々興隆し、法灯益々輝きを増して天下の「お可睡様」といわれ、又現在でも可睡斎住職を「御前様」と敬称しています。
 この可睡斎在住十五年間は、穆山師が最もよく宗教家として御活躍なされた時代であると思います。可睡斎にゆかれてから可翁と号され、御巡教の先々で殆んど可翁で御揮毫なされて居り、可翁の御揮毫が一番多く遣っています。故郷八戸地方に現存している御揮毫は五百点程ありますが、その七割が可翁時代であります。
  珠数の感化
 穆山師が、可睡斎住職となられた当初は、廃仏殿釈の暴政の影響もあり近隣の寺院住職並びに檀信徒の風儀が願廃して無信仰状態であった。穆山師は一策を案じ、珠教を馬車に一台程買い求めて、逢う人毎に与えて、「仏教信心をなされ、幸福を与え、身を守る珠教でござる」と街頭伝道を継続せられた結果、自然に信仰心が高まり、流石に頽廃した風儀も矯正され信仰深い袋井地方となったのであります。布教教化の熱意以て範とすべきであります。
  教育の振興と道義の昂揚に尽力
 穆山師は明治十年四月に本校(後の駒沢大学)教師を嘱託せられ、同十二年静岡県第二号教導取締を命ぜられています。又明治十四年一月に、風紀廃頽を憂慮して敲唱会を組織して道義心の振起を叫び、更にこの年再び選ばれて、本山大会議議員(後の宗議会議員)に公選され、議長に推されたが固辞して教育と地方教化の巡教に力をそそがれたのであります。常に教学の不振を慨嘆せられ、自ら可睡斎に万松学校を創立して人材養成に渾身の努力をされたのであります。学徳を慕って集まれる門弟二百三十名、常に正法眼蔵を提唱し、又人心の願廃を嘆き、祖道の興隆と人心の刷新を訴えたのであります。この万松学校に修学せる門弟中より、曹洞宗大学林教頭(学長)筒井方外、大本山総特寺貫首、曹洞宗大学林学長秋野孝道、伊豆修禅寺住職駒沢大学学長兵宗潭及び小塚仏宗の各老師が輩出し、宗参寺時代の門弟中より、大学林学長となった古知知常、折居光輪の二老師を含めると、穆山門下より五人の大学学長が出ていることが、人材養成、教育に熱心であった何よりの証拠であります。

東奥日報に見る明治三十五年の八戸及び八戸人

八戸商業組合と営業税届
八戸商業組合にては去る二十三日午後五時より長横町記念会堂に会し各営業者が営業税届けのことにつき公平を欠く事あるため毎年税務署へ往復して相互の手数頻繁なるより之が公平の調査を遂げ税務署と交渉し円満なる局を結ばんとの商議を決し委員五名を選挙したるに山本勝次郎、石橋甚三郎、松本万吉、浦山政吉、苫米地政吉の諸氏当選したり而して委員は税務署へ交渉して着々調査する由
八戸商業銀行総会
一昨日午後三時より八戸商業銀行第九期定期総会を開き大岡頭取に代わり横沢取締役会長席につき年一割の配当に満場異議無く決議せり
八戸町長の再選
八戸町長遠山景三氏は満期に付き昨日後任の選挙を行いし再選せらる
八戸通信
三北同業組合創立総会 同組合にては北部一部の反対その他の紛議ありし為久しく愚痴愚痴の間にありしが規定の人員加入せることとて創立委員等はこの際多少の纏綿(てんめん・からみつくこと。まといつくこと)を排除し来る十五日を以って愈々町役場楼上に創立会を開く筈
肥料商の運送店 八戸及び港の同業者合併して資金三万円の株式組織を以って一大運送業を開始する予定にて去る一日協議会を開きたるが小田原評定((豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城中で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長びいて決しなかったことから) 長びいてなか なか決定しない相談。小田原談合)にて遂に纏まりつかず結局港同業者は分離し双方対立することになれりと
劇場設立計画
二十八日町福田誠造及び十一日町類家鉄造の両人発起となり一心館を買い求め十一日町裏へ劇場を建築することに纏まりたりと
八戸穀物商組合設立の計画
同業者間に於いて数年来その計画有りたるも事情のため設立の運に到らざりしが今回有志等集合して去る八日をもって二十三日町石万商店委託部に於いて協議会を開きその結果愈々設立の事に確定し設立委員二十名を選定せるが本月十一日再び同所において委員会を開き定款起草方を二三の人に託しその脱稿を待って第二回委員会を開きて組合員を募集し創立総会を開く由なり組合員は百名以上に出つべき見込みなりと而して該創立事務所は石万商店委託部に置くと愈々その成立を見るに到らば地方輸出物産の改良売買の弊害を矯正し地方同業者の利益と信用蓋し少なかざるべし由来八戸は大豆出産地として各市場に知られ品質の如きも全国中の第二位を占め来れるが近来その出石を減じ品質又粗悪に流れ世評甚だ好ましからざるとなれば該組合たるもの亦この点に多大の用意を致すべし
織物会社の総会
八戸織物合資会社の定時株主総会は去る十四日を以って同社内において開会せられたるが本期は遂に無配当におわれり
八戸商業組合定時総会
去る二十六日午後一時より八戸十六日町天聖寺において前年度収支決算報告は異議なく認定次に役員の改選を行いたるに会長には工藤與五郎、幹部には山本勝次郎、松本萬吉、評議員には浦山政吉、近藤文五郎、関野重三郎、苫米地政吉、江口梅太郎、石橋甚三郎、工藤久兵衛の諸氏当選右了て浦山十五郎氏の発議にて皇太子殿下歓迎につき呉服屋組合その他の発起者と合同して当地の行啓を仰ぐの運動をなすこととなれり亦組合員の運賃割戻しの件は役員に一任せることに決せり因に記す同組合は現在積みたて金は三百余円あり本年中は一千円位に積み立て倶楽部敷地を購入する計画あるやに聞く
荷車に圧されて負傷す
去る二十三日三戸郡八戸町大字朔日町三十五番戸馬車業者岩岡七助(安政五年生)は荷車を牽き進行中牽き馬が道にて牝馬を見るや突然疾駆したるより馬車に圧倒せられ左大腿部骨に負傷せり
第二中学校春季運動会
県立第二中学校校友会は去る九日春季運動会を八戸公園長者山に於いて開きぬ三百五十余の健児は午前七時半隊伍を整えて会場に充てられる馬場の中央二ヶ所には大国旗を翻して之に各国の国旗連結せられその外賞品係席、記録係席、合図係席、来賓席等何れも幔幕を張り廻らして一層の好景を添えたり
やがて予定の時間に至や轟然たる砲声とともに運動は開始せられて続て各種の運動四五十回に渉り百石小学校及び本校卒業生職員競争等一回又一回愈々出でて○壮なりき
この日の来賓には同地の紳士紳商並びにその夫人令嬢殊に岩手県師範学校生徒、百石小学校生徒の来観はこの会をして一層盛んならしめたり(後略)
八戸養蚕模範所
逸見直行及び石橋万治両氏宅に設置しあり去る九日開所式を挙ぐ当日会員の来会せる者五十余名白戸同所技師の養蚕飼育の定義栽桑等に付き公演ありて盛会なりき尚翌日より直ちに講話を開始せるが同所にては天候不順のため桑葉の発芽遅延するを慮り去る十日より催青室に容れて二十三日已に収養せりと
八戸町呉服商人の準備
盛岡市の榊呉服店にては再び青森市へ出張し見切り反物の売り出すをなすや青森市同業者の反抗を受けたるため思わしき結果を見ざる由なるが帰途八戸町に立ち寄りて一働きせんとの計画ありと聞くや八戸の同業者は直に組合会を開きて之に対する方針を協議し愈々同町に入込むに於いては同業者挙げて競争せんとの意気込みにて其の準備なるが先ず青森市における売出しの実況視察として一昨日一番列車にて泉山商店及び淡三商店の両主人青森に到着し榊呉服店の本陣なる中島旅店に投宿せり
承陽大師六百五十回忌
三戸郡新井田村対泉院において曹洞宗宗祖承陽大師六百五十回大遠忌該当に付き八戸方面各寺院集合の上二十八日午後三時迎聖諷経四時御逮夜、二十九日午前八時献茶湯十一時報恩講式、同日午後一時大施餓鬼供養、同三時送聖諷経を行いしが二十八日は暴風雨二十九日は大風にて農家作物の被害のため多忙にも不抱参拝者多く殊に大施餓鬼には三陸津波溺死者の七回忌コレラ病死亡者の十七回忌並びに五連隊凍死者の供養を兼ねたる事とて善男善女群集し参拝者には丁寧なる供応ありたるため参拝者も満足の模様なりしと
棍棒にて老女の頭を割る
三戸郡島守村当時八戸町糠塚六番戸寄留中山よね(六十三)は再昨(さいさく・さきおととい)十日午前十時頃舘村字犬坂台と称する畑地に草取りに出稼ぎ中同町上総町東海林長吉(三十八)の為棍棒にて頭部を叩かれ重症を負い生命覚束なしとの事なるが殴打の原因などは未だ詳らかならず
八戸町三八城神社祭り
既報の三八城神社大祭は初日の五日は折悪しく雨天のため夜宮の賑わいもなかりしが翌六日は朝来快晴にて人手多く為に道路及び境内は勿論押しながら押されて歩行く有様で昼は旧藩主の景観に供する目的にて八戸青年会並びに旧家臣老年会の武芸試合にて一層の盛況なりしその他神楽見世物等例年の通り夜は花火を打ち上げ盆踊りは(後略)

2007年11月1日木曜日

八戸選管駒場委員長県費不正使用、源泉徴収違反 3

八戸選管のいいかげんな態勢は改まることを知らない。先ず第一に選挙結果を正しく発表できない。これは吉田淳一氏の請求にともない、青森選管が票の精査をした結果判明。
しかし、八戸選管独自の票の数え直しでは判明しなかった。つまり、自浄能力に欠けているのは明白。機能しない選管では役立たずであるが、駒場委員長は任期いっぱい務める気持ちのようだ。
管理能力の無さを指摘された以上、辞職すべきが正しい。それも、県費を前号で指摘したように不正使用した。これは、職員が勝手にした行為、選管委員長も知っててやったとしても、許せる部分もある。それは県の金を私的に消費したのではないからだ。
しかしながら、票の取り扱いに間違いがあったを県から指摘された以上、責任をとって身を処すべきだ。それもしないのは源泉徴収義務違反の責任が明確化してからとでも考えているのだろうか。
さて、この稿も最終となった。最後の所得税法違反容疑について解説する。
第百八十三条  居住者に対し国内において給与所得に規定する給与等の支払をする者は、その支払の際、その給与等について所得税を徴収し、その徴収の日の属する月の翌月十日までに、これを国に納付しなければならない。
こう規定しているが、青森県内で正しく源泉徴収をしていた市は三市で七市はしていなかった。中には年末調整すらしていなかった市もあるそうだ。歯切れが悪いのは「はちのへ今昔」は一人で作成しているので、方々に確認するだけの人手がないからだ。
この源泉徴収義務違反には罰則がある。
第二百四十条  第百八十三条(給与所得に係る源泉徴収義務)の規定により徴収して納付すべき所得税を納付しなかつた者は、三年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
この規定から八戸選管は当然免れることはできない。現在、八戸税務署と八戸選管は協議中の模様だが、選管は罰金を払わなければならない。本来、地方自治体は法を守ってこそ使命を達成する。何故ならば、自分たちも地方税法を盾として、市民から税を徴収するべき立場にあるのだ。
税を課す立場の人間が、税を逋脱(ほだつ・租税をのがれること。逋税。脱税)するは極悪非道。
右手のしていることを左手は知らないような馬鹿な出来事なのだ。
どうして、こんな事になったのか。  
前ページの資料は見ずらいので説明すると、報酬が五百三十九万円、職員手当てが三千百万円支払われている。投票に関する支払いで、この金は県から来る。これを全額消費しなければならないので、色々と画策する。
投票管理者、投票立会人、開票管理者、開票立会人、事務従事者、タクシーを待機させて六十万円とか、なんでもかんでも消費しないと、辻褄が合わなくなり、金が余って困ると、他の課のロッカーなども購入したわけだ。
すると、一般人を選任した場合は源泉徴収をした、すると、職員手当てはどうなったの?
こうした疑問が出て、人事課長に問うと、年末調整をしたという。源泉徴収義務違反は懲役だぞと言うと、年末調整をしているから間違いない処理をしているなどのやりとりがあって、選挙に関わる報酬は、所得税法を超越するとの一項が公職選挙法にあるなら黙るので、税務署と協議せよ、しないなら脱税で検察庁に告発すると伝えた。
それが参院選の前日。すると、市役所は慌てたんだろう。デーリー東北新聞にこのことを洩らした。デーリーは大きく書いた。このことを長いこと狙っていた筆者は某新聞社に書かせるべく、手立てを講じていたが、その新聞の動きが鈍かった。市役所が洩らすこともありえると言ったが、動けなかったのだ。このことは八戸市ばかりでなく、オールジャパンでやられたことだと見当をつけて大新聞に書かせたかった。
結句、空振りに終わった。だが、それはそれ、八戸選管は八戸税務署から罰金を取られる。
その金額は百数十万円になりそうだと選管は言う。この罰金は市民の税金で払うのか? 交通違反の罰金は民間では経費とは認められない。
つまり、八戸市は市民の税金を罰金には充当できなかろう。
そんなことをすれば市民から突き上げがくる。自分たちがいいかげんな処理をして、その尻を市民の税金に持っていくな。こうした時、現われ出るのが互助会、ここから銭を出すな。何故なら互助会の金の半分は税金だから。
さて、市役所職員で罰金刑に処された職員の待遇はどうなるのだろうか。話は次第に混迷の度合いを深めてきた。疑問になったら、当事者を訪ねることだ。そこで市役所に出向いて、人事課に懲罰規定を訪ねてみた。具体例が色々とA4の紙5枚に書かれていたが、この例にあてはまるものは見当たらなかった。
この所得税法違反は、駒場選管委員長が言い出したものではなかろう。また、玉田事務局長がしなくていいと言ったわけでもなかろう。この事実は積年の体質なのだ。先例に倣って実施したのにちがいない。
このことを再確認してみよう。
県が八戸市に選挙費を前払いしてくる。この金は収入役が管理する出納室に振り込まれる。これを予算として消費する。担当課は無論、選管。
市民が選挙事務に従事すると源泉をひかれて支給される。つまり、選管は市民からは税金を徴収し、国庫に納入。
これを実際、納入する作業は人事課が行なう。ここらが複雑に絡んでいて、説明が難しい。前ページで図解したので参考にされたい。
ここでAの出納室、Bの選管、Cの人事課の三課に平等の責任がある。人事課は年末調整をしたからいいと思い込んでいた。Bの選管は市民から徴税しながら、職員からしない。Aの出納室は都度金を引き出されながら漫然と管理していた。
どこかがこれでいいのかと気づきさえすれば、こうした罰金を払わなくてよかったはず。また、懲罰の対象にもならない。しかしながら、こうした結果を招ずれば、誰かが責任をとらなければならない。ここが役所の役所たるところ。前任者がやったことで、私もそれに倣っただけ。
それでも、責任はとらなくてはならない。危ない危ない、役人はたらいまわしで配置が決まる。そこで暢気に次に回るまで気楽に過ごそうなんて思うとこうした罠に堕ちる。気の毒な話でもあるが、所詮、自覚が足らないだけなのだ。八戸市職員二千人、これらがボウっとして、漫然と仕事をこなす。改革や改善などを指の先ほども願わない。或る意味では江戸時代だ。もっと古く縄文時代かもしれぬ。自分が何をするかもわからず、ただ、ボウっとして、給料を得ることだけに喜びを感ずる。そうではなく、原価をかんがえ、効率を旨とするべき。今居る席でしか、そのことを考える時間はないのだ。
選管の若い者が筆者に言った。この票の判読機械を今見るんですか。来月になれば参院選があるから、そのとき倉庫から出すので、その時見たらいいでしょう。
そういうのは役人の労力惜しみの発言だ。こういう者を馬鹿野郎という。市民の為に働くのが市役所の職員。自分たちだけのために働くのは夜盗。法律も道徳もへったくれだ。こんな連中の集合体が八戸市役所なのか、そうではあるまい。しっかりした課長も数人いる。彼等には頭が下がるが、大方はこんな程度、こんな手合いだ。
 

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる2

公会堂の基金が設けられ、その財源として法師浜氏から貰い受けた八戸小唄の著作権がある。前号はデーリー東北新聞に報じられたいきさつを掲載したが、今号は法師浜氏自身が出版した書物から往時を再度、偲んでみる。
唄に夜明けたかもめの港
法師浜桜白
 発端は「八戸を語る」座談会
昭和6年2月、鮫の石田家で
 八戸小唄が生まれたのは昭和六年であるが、その制作の口火になったのは「八戸を語る」座談会であった。その座談会はその年の二月三日に東京日日新聞社の主催で鮫石田家で聞かれた。出席者は
 八戸市長神田重雄、市会議長遠山景雄、市会議員石橋要吉、水産試験場長奥津興美(熊沢楠吉代理)、磐城セメント会社湊工業所長目崎恒男、五十九銀行八戸支店長今井梅吉、元芸妓三平こと石橋とら、芸妓才三こと橋本こと、東京日日青森通信部主任菊池武雄、東日八戸専売所長・市会議員近藤元二、東日八戸通信部主任法師浜直吉
 話は新興都市としての八戸は、町を発展するには、なにをやるべきかが中心話題であった。かたい話、やわらかい話、話の中には、ちょいちょい三味線的な伴奏がはいるので笑い声が絶えなかった。座談会の記録がのこっているので、その話のところどころを抜粋してみる。
 神田 築港という話になれば、とにかくこの地方の先覚者である浦山多吉という人が明治の初年に目ろんだ計画です。今と違って旧藩時代の鮫港は海運界から広く知られておったもので、岩手は盛岡から、県内は野辺地方面、秋田などまでこの鮫で物資が呑吐(どんと・呑んだり吐いたりすること)されていたものだそうです。この地方から出るのを三戸大豆といい搾粕(しぼりかす)などは旧藩時代、藩が直接扱い、千石船で鮫から積み出し江戸へもって行って、いろいろな物資と替えてきたといいます。浦山という人は実に頭のいい人だったですネ。
 遠山 目崎さんのような人が後ろについていたら成功した人でしょう。
 目崎 しかし尻内まで鉄道をもって来たということだけでも浦山氏の力大なりといわなければなりませんネ。
 神田 鉄道が開通したのがたしか明治十七年(編集部注・神田の記憶違い・明治二十四年九月一日)の一月四日か五日だったと記憶しています。ちょうどそのとき私は青森から乗って来たので覚えております。
 今井 橋本さん(河内屋)の長根の桜は、その記念だったといいますネ。
 菊池 セメントの輸送は全部海送ですか。
 目崎 現在のところ大部分海送です。まず六割は船ですネ。
 遠山 有名な幕府時代の測量家伊能忠敬がこの地方を測量したときは鮫に泊っておったようです。
 遠山 内舟渡で地下を七間掘ったら、ホッキ(北寄)貝が出たといいます。たしかにあの辺は入り江だったことがわかります。
 石橋 そのころの小中野町と鮫町は全部遊郭でした。今のような商店街になったのは明治四十年この方です。もとは小中野から鮫にかけて遊女街と漁師の二つだけでした。
 菊池 話はちょっと変わりますが、八戸の名物というのはどんなのがありますか。
 近藤 八戸は名物だらけです。行事ではえんぶり、打毬、三社祭り、それに天然記念物うみねこの蕪島、八戸せんべい、むし菊、桐細工……。
 神田 有名な名物はここにおりますョ(三平、才三さんを指して)。
 三平 八戸の名物はせんべいの次はほんとに女ですョ。
 才三 八戸女とよくいわれますが、いったいどこがいいのでしょうネ。
 石橋 八戸女は親切で男に迷わぬというところがいい:・
 三平 いや、それはウソです。八戸女だって人間ですもの、時と場合によっては迷いもするし、ほれもしますが商売に熱心だというところが一番いいのでしょう。
 菊池 八戸で代表的な、なにか八戸節とでもいうような唄がありますか。
 才三 あります、白銀ころし、おしまこ、これは盆踊りの唄ですが、だいぶ有名です。ところが先年田辺という音楽研究家が民謡研究に来られたとき「白銀ころし」は八戸在来の唄ではなく、新潟に古くからあるもので、こっちへ渡ってから三百年くらいになる。たぶん漁師がもってきたものだろうといわれました。
 三平 白銀ころしは「白銀ころばし」というのは本当だそうですョ。花巻方面や秋田地方では八戸節といっているようですネ。
 才三 他所ではたいてい八戸節といいますが、いくら八戸節でも元は新潟節ですから……それに節回しもちょっと一般向きじゃありませんし、あまり上品でもありませんから、なにか適当なものがないかしらと思っております。旅の方が見えると、きっと八戸の唄を……と望まれますが、なにがいいやら迷います。
 菊池 八戸小唄というようなものを作って八戸市を紹介するということも必要ですネ。
 才三 それで私は考えております。八戸の宣伝にもなりますし市になった記念にもなるように誰か名のある方に願って名のある方の作曲で八戸というものがピリッと頭にしみこむような唄がほしいのです。それは計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから市長さん方のお声がかりででもやっていただくようにお願いいたします。
「民謡調で」と神田市長
むずかしかった歌い出し
 「八戸を語る」座談会で八戸の発展の基礎は、まず「八戸」という名を世に宣伝する必要があるということから八戸小唄を作ってほしいとの話があった「八戸小唄由来もの語り」はこんにちまでに、なんべんか語り、書き、放送したことか、いま小唄の話をするには、いささか気がひけるが同じことを述べなければならない。その年の八月ごろ、座談会の小唄の話を思い出し、神田重雄市長にそのことを相談したら市長もまた大いにのり気になった。いまの市政記者クラブをそのころは記者連盟といったかもしれない。各社の先輩たちにも話したら、みな賛成してくれた。ある日神田市長の部屋にみな集まったとき、市長の発言で「八戸小唄」をつくろうということになった。まず、作詩をどうするか、作曲を誰にするかなどの話から、詩は一人でなければならないという話で結局発案者のわたくしに一任するということになった。曲に対して市長は「いまはやりの新曲は長もちしない、古くても民謡調をほしい」という希望であった。そのころ、民謡の歌い手上野翁桃氏の師で仙台の民謡研究家で尺八をよくする後藤桃水という人があるとの話が出て上野氏に依頼し照会したところ、作曲を引きうけることになった。作詩は八月から九月にかけてであった。家の居間の火のないいろりばたで、蚊を追いながら唄を作った。後になって、よくひとに問われることは、この唄でいちばん苦心したのはなにかということであるが、どんな唄でも、作詩のときにいちばん考えるのは第一節、一行目の歌い出しである。つまり「唄に夜明けたかもめの港」これが出来るまでには、ちょっと時間がかかった。最初は「唄に明けたよ、かもめの港」であった。そのときは四節を作って市役所の担当菊池正太郎勧業主任にわたした。そのときはまだ作詩者の名前を考えていなかったが後になって、レコードをつくるという段階になると何かきめなければならない。そのとき座談会の才三さんの話を思い出した「誰か名のある方に願って、名のある方の作曲で……」わたくしは名のある方ではない。そこで神田市長の名はもっともふさわしいのではあるまいかと思った。市長にそのことを願ったら「フフフ」と笑った。わたくしは自分の名を伏せて神田市長の名前と並べて市政記者と書いた。そのとき、北村(益)さんから声がかかり、制作側の仲間になって「北村古心」の名も加えたこともあった。そのころ制作という名目を使わず制作の意味をひっくるめて合作という文字を用いた。作曲が出来たのは十月の下旬のころと記憶する。作曲者後藤桃水氏は踊りの振り付けの型を伝えるために吉木桃園女史を連れて八戸をたずねた。鮫の石田家の主人石田正太郎さんは、八戸小唄の制作のためなら、あらゆる協力をするということで、まず後藤氏らを石田家へ案内した。小中野、鮫の両見番から芸妓代表数人ずつ集まってもらった。作曲といっても後藤さんの持ってきた曲は、おたまじゃくしの音譜ではなく、尺八の譜であった。一同、後藤さんをとりまいて、作曲の説明をきいた。た とえば歌詩を十分に表現するために、波やかもめを心においてつくった。また振り付けも、はちのへとかもめや波を表現するようにつくったという話であった、さて唄の伝授にはいった。後藤さんは自ら手拍子をしながら「唄によあけた……」とはじめる。みんなは、節をそろえて、そのあとをつづく、節の口伝であった。「もし気にいらないところがあったら、遠慮なく注文してほしい」ということで、一ヵ所だけ、わたくしは注文をつけたら、さっそく直し、どうやら出来た。それには伴奏が必要である。芸妓連中は、すぐその場で三味線の伴奏をつくる。チリシャン、チリシャンも出来た。ここで思い出したのはスケートのことである。せっかくの八戸小唄だから名物のスケートをぜひ入れてほしいとの要望があったので、みんながけいこをしている間に、わたくしは石田家の帳場で「こ雪さらさら……」の五節をつくった。こんどは振り付けである。吉木桃園さんは紫紺のはかまをはいた先生のようなかたちで、踊ってみせた。なにか幼稚園の遊戯のような踊りだとそのとき思った。後で聞いたことだが、この振り付けは宮城県塩釜市の三桝よしさんという人の振り付けときいた。踊りは何枚かの振り付けの写真を 見ながら、吉木さんを中心に踊った。みんな本職ばかりなので、その手はもっとこの方がいいとか、足が引いた方がいいとか相談しながら踊った。まず、唄も踊りもどうやら出来た。ホッとした思いであった。けれどもわたくしは、そのとき、この曲はなにかものたりないように思われた。ところが石田さんは「ウン、これはいける」といった。これで八戸小唄は完成した。石田さんはさっそく玄関前で小唄完成記念の写真を撮った。
レコードまず千枚吹込む
「恋の影」から「月の影」へ
 鮫浦のタ景はむかしから絶景といわれた。藩制時代から八戸八景にうたわれたのはいくたびもあった。八戸小唄が生まれたころ、夕陽は八甲田山に沈むと旅舎石田家の突き出しの下に波がサラサラと押してきていた。蕪島には橋があって、その木橋をわたって島へ渡った。旧暦三月三日の島のお祭りの日などは橋だけで渡りきれず渡し舟でわたった。蕪島の群鴎は古い八景の中にもかぞえられている。いまは「うみねこ」と呼ぶほうが多くなったが、むかしはかもめのほうが多く漁師はゴメともいった。鮫の港は築港して漁港と称え、この港から大洋の漁場へ船は続々と出て行った。「唄に夜明けたかもめの港」はここからはじまる。
 八戸の夜景は飛行機から見ると、灯のきらめきの中に赤、青の電光をちりばめて、まことにきれいだが、むかしの夜は小中野の遊郭と鮫の紅灯が船乗り衆の心をかきたてたものである。日が暮れると一度湊橋を渡らなければ眠れないといわれた。湊橋は若衆にとってなつかしい橋であった。そのころは、白銀ころばしの唄とおしまこ踊りがあった。お盆の夜などは老いも若きもみな出て踊った。「鮫の蕪島まわれや一里、かもめくるくる日は暮れる」。八戸の殿さまは二万石だった。唄をつくってから、ある人は「二万石をなんとか十万石くらいにならないものか」と申しいれがあったこともある。八戸の菊の花は奥州菊という。食用菊の阿房宮をあわせて八戸は菊の郷である。そのころの長根はグラウンドもスケートリンクもみな堤であった。春はその土堤に桜がらんまんと咲き、その下にボートを浮かべた。冬は天然氷でスケート場になった。唄の最後のこ雪さらさら……の中に「恋の影」という文字をいれたら、やはりむかしはむかし、神田さんはこの「恋」という字はなんとかならないかと、ニヤニヤと笑った。そこでいまの「月の影」に変えたのである。
 八戸毎日に荒沢基という人がいて、東奥日報の峯正太郎、奥南新報の三湧別完、月刊評論の成田昌彦、東日のわたくしなどでゴシップ会という集まりがあった。昭和七年の春、作詩家野口雨情を八戸によんで当時番町にあった八戸女塾で文化講演を行ない、その夜は鮫の矯本館を宿にした。雨情はなかなか筆の人でもあった。そのとき会員はみな半折を書いてもらった。わたくしのものは「鮫の汐風荒くは吹くな、かわいお方を黒くする」である。いまも夏になると、床に掛けること をたのしみにしている。そのとき雨情を蕪島と館鼻へ案内した。雨情は縞(しま)の着流しに下駄ばきで歩いた。ちょうど八戸小唄が出来たときだったので、歩きながら八戸小唄が話題になった。第一節の歌詩を話したら雨情は「私なら、唄に明けたょ……の方がいいと思います」といったことを思い出す。
 そのおなじころのことである。東京日日新聞、大阪毎日新聞(そのころの社名は二本ならべて書いた)の奥村信太郎社長は地方視察のため八戸を訪れた。菊池青森支局長とわたくしは案内役をつとめて市内回りをした。白銀あたりを走っていたとき、どこかで八戸小唄の声が流れてきた。わたくしは唄などばかりつくっていて仕事をすっぽかしていると思われはしまいかと名前まで伏せてビクビクしているのに菊池支局長は「社長、あの唄は八戸小唄です。この唄は法師浜君が作ったのです」といった。わたくしは急に頬がほてる思いをした。社長は何を言い出すか、ちょっと心配だった。社長は吐(は)き出すように言った「ウン、雨情くそくらえか:・:・」社長はハッハッと笑った。それでわたくしは安堵(あんど)した。
 唄の発表はとりあえずその前年の暮れのあたりであったか、市会議員や報道関係者に石田家で芸妓連中が披露したように記憶する。翌七年の春、三八城公園の観桜会のとき踊り舞台で一般に公開した。記録によれば昭和七年六月仙台のNHKでラジオ放送、同年十一月に八戸小唄完成祝賀を催し市内をオンパレードして石田家で祝賀会を盛大に開いた。その記念写真がのこっている。これを見ると北村益氏をはじめ市内の顔役がずらりならび、それに小中野、鮫の両見番総ざらいの顔ぶれで玄関に大国旗を交叉(こうさ)している。唄を全国的に宣伝するには、まずレコードが必要であることはみなも考えていたのであるが、これは遂にレコード会社から、われわれもと吹き込みの申し込みがやってきた。三社くらいだったと記憶する。このことは市長が上京して東京で各レコード会社と話しあいをつけ、最初につくったのは昭和八年三月三日東京で吹きこんだ。日東レコード会社であった。これは会社持ちで一千枚をつくった。
歌謡調の節と発声で苦心
ツルさんカメさんで騒動も
 八戸小唄をNHKの仙台放送局からラジオ放送したのは昭和七年六月、東京でレコードに吹き込んだのは翌八年三月であったが、このように唄がおおやけになることになれば、歌い手も伴奏もはっきり決めなければならない。これに間に合うように石田家を会場にして小中野見番、鮫見番から代表たちに集まってもらい、ここで歌のテストをやった。わたくしは唄をつくることに一任を受けたが、事ここまでくれば、すべて完成するまでは責任を背負ったようなかっこうになり、仙台なり、東京へ歌い手たちを送り出すまで、わたくしも芸妓連も石田家へなんべんも通った。放送もレコードも小中野見番丸子、三吉、粂八、鮫見番からかの子、才三、梅太郎の六人にきまった。そのうち歌い手は小中野の粂八に決定した。
 苦労したのは歌のことだった。歌の発声と節まわしを長唄調から歌謡調に変えるために、なんべんもけいこした。
たとえばふだんに長唄や清元などばかりけいこしている声なので、節の最後の切れがくせがある。ちょうどいまの歌謡歌手の水前寺清子の歌が、どんな歌をうたっても歌の最後はエーエッと強く歌いきる。あれは長唄調である。そのように八戸小唄をけいこするときに「かもめのみなと:この「と」を長く流さずに「みーなーとーオッ」と強く歌いきるくせはなかなかぬけなかった。これを全歌詞の節、節からぬいて、最後を静かに流して消えるように終わるようにするため、けいこを続けた。こうして歌と三味線、鉦(かね)、太鼓などの伴奏をあわせてオーケーというところまで、みんなが集まった。そして、いわゆるいまいう正調の八戸小唄が出来たのである。
 わたしは昭和十三年の初夏に、転任によって函館市に移った。そのころ函館で宴会などの集まりに、しばしば八戸小唄を聞いた。ところがそのとき唄のハヤシ言葉として「ツルさんカメさん」というのを聞いた。なかなかおもしろいと思った。これはわたくしが作ったのではなく、思うに口三味線のチリシャン、チリシャンがだんだん転訛したのだろうと思っている。
 ツルさんカメさんで、ひところひと騒動かおこったことがある。昭和二十九年の秋のころ、あるレコード会社でツルさんカメさんという歌のレコードをつくったことがある、この歌は、曲は八戸小唄そのままで歌詞を変えたものつまり替え歌であった。そのころの八戸市長は岩岡徳兵衛さんであったが、わが方の唄を無断で横どりしたというので、市長は相手方のレコード会社を訴えると息巻いた。毎日のように新聞が騒ぐ、わたくしはそのとき毎日新聞社東京本社の地方版編集長をつとめていたころだったから、八戸小唄騒動の記事は八戸通信部から本社へ送稿してくる。ソラまた来た、きょうも八戸小唄だと原稿をわたくしのところへ持ってくる。ついに本版へまわして、全国的な騒ぎになった。レコード会社も手をあげとうとう八戸市へ謝罪するということになり、以後この歌を発表するときは事前に必ず「この歌は八戸小唄の替え歌である」ということを、ことわるという口上づきの歌になって唄騒動もケリとなった。
 このツルさんカメさんはその年の秋、東京日本劇場で発表会をひらいた。わたくしも行ってみた。けんらんとした舞台で一人は浦島太郎に扮し、金色のギラギラと光るハカマをはき、一人は女性でツルに形どったものか、竜宮の乙姫さまを形どったのか、白い衣裳にこれもギラギラの男ハカマをはいた二人の舞踊づきの歌の発表であった。約束通り舞台がはじまる前に、緞帳(どんちょう)があがると、舞台であいさつがあり、そのとき「この歌は八戸小唄の替え歌であります」とことわりがあった。この歌の歌詞はわたくしの記憶にも残っていないし、この発表があっただけで消えてしまった。
 そのころ、ラジオ放送に八戸小唄の放送があった。唄のあとに民謡研究家町田嘉章(佳声)氏の説明があり「この唄は青森県八戸の新民謡で、神田市長と後藤桃水と誰々の三人が作ったものです」といった。その誰々がわたくしの名前でなく、他人の名前であった。わたくしは思った。わたくしは名を伏せていても、郷里では、みなわたくしのものであることを知っている。けれども月が過ぎ年が経ればやはりそのようになるものだろうと思った。あくる日、わたくしは町田さんへ電話をかけた。町田さんはさっそく「あれはそのように聞いたけれども、私の間違いでそのことを訂正しました」と答えた。どのように、どこで訂正したのか、その後もわからずじまいになった。
 その後、郷里の友人デーリー東北の角田四郎さんから手紙がとどいて「八戸小唄の作者はいつまでも覆面していると、いろいろと制作名にも変化がくる、このままでは市民感情もおもしろくない、早く覆面を脱いでほしい」というのであった。それから二、三年ばかりたって、また同様の手紙をもらった。こんどは八戸小唄に関するいろいろな印刷物などがはいっていて、これを見ると、小唄はもう他人のものになっているような印象を受けた。ラジオ放送のことがあってから、いつも気にかけている折りこのことを知ったときだった。わたくしはショックをうけたのであろうか。その場で倒れた。そのころ血圧は二百十五で通院中の折りだった。一週間くらい、意識もうろうのままだった。病気は発語障害であった。さいわい三ヵ月の加療でまた勤めに出るようになった。そのことがあってから、わたくしは八戸小唄の作者のことは、やはりあいまいのままではなく覆面をぬいで、はっきり正しく残さなければならないと思った。
唄の吹込みは数十回
 千葉市で小唄芸者に会う
 どこのはやり歌も、たいていはパッとはやって、まもなく消える。ところがどういうものか、八戸小唄はパッとはやって、すぐ消えない。尻あがりにだんだん全国的なものになっていった。わたくしは新聞人として各地を転勤し続けた。行く先、行く先でこの唄を聞いた。昭和十三年以後北海道は函館と札幌には二度の勤務したので、全道ほとんどの市も町も歩いた。その都度にこの唄を聞いた。昭和十七年に盛岡へ転じたとき、わたくしの歓迎会の座でとくにはやり出した唄というので八戸小唄を聞かされた。昭和二十二年から七年間新潟に住んだが、ここではよく知られる鍋茶屋を中心とする紅灯街では、とくに八戸小唄を歌った。あるとき、そのころの知事岡田正平さんと石井総務部長が知事会議のため青森へ出張した。そのとき知事らは八戸を訪れ、鮫の石田家を宿にした。石井部長はかつて青森県庁に勤めていたことがあり、わたくしの旧知の人であったことと、岡田知事は唄も舞踊もくろうとなみの通人だったので、八戸小唄の「かもめの港」を訪れて本場の八戸小唄を聞こうという寸法であった。二人は一夜、八戸小唄にたんのうして、郷里へのみやげとして、八戸から八戸小唄のレコードを買って帰った。このおみやげをもらった新潟芸者たちは、さっそく八戸小唄のレコード試聴ということになり、わたくしも呼び出された。ところが、そのレコードをきいたら、これは東京の名も知らない歌い手が、勝手な節まわしで吹きこんだレコードなので、聞かれたものではなかった。このレコードは落第ということになったら、それをきっかけとして鍋茶屋で八戸小唄のおさらいということになり、とうとう唄の指導にひっぱり出されたこともあった。
 わたくしは東京在住中に会議のために千葉市へしばしば出張した。そこの宴会のおり「八戸小唄芸者」と名を売っている芸者がいて、その席でわたくしに紹介された。はたしてこの唄はほんものであるか、にせものなのかテストしてほしいということで、わたくしの前で、その芸者は八戸小唄を歌いだした。八戸小唄芸者の名をとっただけあって、まずまずという合格点をつけたことがある。
 東京時代昭和三十年ころ、静岡県で伊豆の観光宣伝のため、伊豆八景を選定するということがあり、その審査委員の依頼をうけ、伊豆半島をまる三日間、車で景勝地めぐりをしたことがある。そのおり、唐人お吉で知られた下田港に一泊した。その夜、町の代表たちの招きで、名だたる唐人お吉の唄と舞踊を見た。この唄と踊りはどこにもあるが、さすがに本場だけあって、唄も踊りも、うなるような垂涎(すいぜん)ものだった。この名物のおどりが終わってから若い妓がわたしの前にすわった。「なにかおもしろい唄でもおしえてください」といったら、さっそく、この妓は三味線をとりあげて歌いだした。ナンとその唄は八戸小唄であった。こんな伊豆の端の町で八戸小唄を聞くとは、うれしいよりもびっくりした。
 大阪市に日本民謡研讃会という会があって、ここの会長を乙葉純一郎という。この人は八戸小唄の大の愛好者で、昭和三十八年ころ、その作者をさがし出したとて、わたくしは書状をもらった。それ以来、文通を続けているが、この乙葉さんは民謡の弟子二十人をひき連れて、その年の八月神戸の須磨水族館アクアランドで聞かれた神戸市交通局と日本民謡研讃会の共催の「民謡の夕べ」に出演、八戸小唄の唄と踊りを披露し、つづいて八戸小唄の指導会をひらいて好評をうけたという、その夜の写真づきの神戸新聞文化センターKCCニュースを送ってくれた。この記事によれば青森県民謡八戸小唄は豪華阪だったと書いている。
 ひとびとからよく聞かれる。この唄がどうしてこんなにはやったのか、その伝播力がどこにあるのかという。それは、わたくしも知らない。おそらく地元の宣伝力もあろうし、市民のみなさまがこの唄は「わがもの」として愛する意識が大きい力になっているのではあるまいかということもつねづね思っている。ただわたくしは毎日新聞在社中に作った唄であるから、この新聞社のひとびとはみなそれを知っているので、これもまた、わが社の唄のように愛してくれた。どの県でも販売店の集まりがあれば、その宴会ではきっと八戸小唄を合唱するのが例のようになっていた。わたくしが在社中には、東北、関東の各県の販売関係者から八戸小唄を書いた色紙をしばしば所望された。ただはっきりとわかることは全国のレコード会社が競って八戸小唄のレコードを作ったということである。昭和四十一年六月、日本音楽著作権協会で調査したことによれば、国会図書館にある八戸小唄のレコードはクラウン、グラモフオン、ビクター、東芝、日本コロムビア、キングで四十数回製作している。これには最初の日東レコードなどもはいっていないし、またキングでは毎年のように三橋美智也の八戸小唄を作っていて、わたくしに送ってくれる。それをみると、この小唄のレコードの製作も数十回にものぼっているのではないかと思われる。
世に出て30年、歌詞を登録 
   35周年には協力者表彰も
 わたくしは永住の地として、骨を埋めるつもりだった東京ではあったが、病気を機としてまたふるさとへ戻ることになった。昭和三十五年七月三十一日朝、いまは八戸駅になった尻内駅に着いた。八戸小唄のふるさとという本があるが、その八戸小唄のふるさとへ二十三年ぶりに戻った。
 まず、デーリー東北社から声がかかり、八戸小唄の由来について当時の角田四郎編集局長と対談し、いっさいを打ちあけて覆面をぬいだ。そのときのデーリー東北紙は一ページをこれにあてた。わたくしは覆面をぬがなくとも多くのひとびとは知っているけれども、いままで名を伏せたかたちになっていたので、そのときはっきり名を出した。そのときの紙面は「本当の作詞者法師浜氏に聞く、八戸小唄あれこれ」 (角田本社編集局長)という見出しであった。
 八戸小唄は旅でばかり聞いているので、二十三年ぶりで郷里の本場で聞く小唄もまたなつかしいものであった。ただ本場でもいささか節にくずれのある声を聞くので、むかし、この唄をいっしょに作った見番のひとびとと会って、唄がくずれないように話し合ったこともあった。そのことがあってから昭和三十八年の春、時の八戸市の商工観光課長中居幸介さんに話して正調八戸小唄保存会をつくった。岩岡徳兵衛市長が会長で発足した。
 この唄の踊りは座敷踊りなので、屋外で流し踊りをするために、新しく行進用の踊りもつくった。この唄の制作者を正しく残すこともわたくしの責務でもあろうと考えていたことでもあり、多くの友人、知人のすすめもあって三十八年七月、社団法人日本音楽著作権協会にわたくしの作詞したいっさいの歌詞を信託契約した。その中には八戸小唄もふくまれている。そのころ、この唄の作 詞について、まだわたくしが知らなかった事実を知った。
 それは唄の作曲者を紹介した上野翁桃氏に、そのころ後藤桃水氏から送ってきたハガキの中に「八戸小唄文句二つだけにてはあまりに少なくなほ三つなり五つなり作詞下され度(略)今月中に作曲なすべく侯」という文面があり、また他のハガキには「これでは読む唄になる」という意味のものもあった。どうしたことか不思議に思った。
 わたくしは現在歌っている「唄に夜明けた……」一の歌詞をたった一編を作っただけである。二つだけの詩も作らないし、読むような詩も作らない。作詞の一任をうけたわたくしも神田市長も知らないそんな歌詞が作曲者の手もとに送られていたということは、思えばさきに角田さんがわたくしに、早く覆面をぬげといった言葉がわかるように思えた。けれどもこれはすでに流れ去った事がらで、ここに言うべきことではなかったかもしれない。
 昭和四十年はわたくしの当たり年といわれた。それは八戸市で文化部門で特別功労として表彰をうけ、また県文化賞も受けた。これらは八戸小唄など作詞が主体になっている。その年ある会合に出席したことによって、いまわしい赤痢の疑いまでうけたり、眼底出血により左眼失明という病気で臥床するなど、とんでもない年で、ひという当たり年であった。
 その翌年、日本音楽著作権協会のすすめによって八戸小唄の歌詞を文部省に登録した。もともとわたくしは名を伏せていたことなどから、登録も文部省でくわしく調査の上で四十一年四月十九日登録第八六五六号の一で、著作題号八戸小唄(歌詞)全一編、昭和六年九月三十日作詞、昭和七年四月二十九日発表でわたくしのものであることを同日官報第一一八三一号に掲載、同時にわたくしあてに通達があった。
 このことについては東京の日本音楽著作権協会資料課長宮沢博明、八戸では生証人として峯正太郎、角田四郎、瀬川義寿、若松ツル、橋本こと、佐々木ムメ、木村助一のみなさんは協力してくれた。この登録があってから見方によっては、作ってから三十年もたってから、今ごろ現われてなぜこんなことをするのかという人もあり、その理由にもいろいろと一部の人々に誤解もうけた。けれども真意がわかればそれもわかってもらえたものと思っている。
 四十一年は八戸小唄が生まれて三十五周年にあたる。そこで正調八戸小唄保存会で、この唄の制作に協力した方、また宣伝に努力した方々に敬意を表する議がおこり作曲者の紹介者で宣伝に努めた上野忠次郎(翁桃)=代理=制作協力者である若松ツル(かの子)橋本こと(才三)佐々木ムメ(梅太郎)納所ふち(三吉)=代理=岩館ます(丸子)音喜多サト(才ハ)音喜多スワ(駒助)宮崎キソ(らん子)稲本トメ(五郎)さんら十人を十一月十一日、八戸市の更上関に招き、表彰式を行ない、ときの会長中村拓道市長から表彰状と記念品を贈り、その功績をたたえた。
 その日の祝宴では来賓一同、お手のもの、八戸小唄を歌い、踊り心ゆくまで祝いあった。この席上表彰された一同を代表して才三こと橋本ことさんは「私どもはこの日のあることをどんなに待ったことか、うれしくてなりません。これからもいっしょうけんめいに、わが唄、八戸小唄を歌いつづけます」とあいさつして感激していた。
伝統を継ぐ正調保存会
流し踊りも県南に広く普及
 正調八戸小唄保存会で小唄制作に協力した功労者の表彰式を行なってから一年たった。こんどは唄の制作者の神田重雄さんも作曲者の後藤桃水さんも歌い手柳本粂八さんも協力者石田正太郎さんもみな故人になっているので、この功労の方々の慰霊の法要を営むことになり、保存会の理事である田口豊洲氏の世話で昭和四十二年十一月二十五日糠塚の南宗寺でその法要を修した。神田さんの遣族神田重矩氏、後藤さんの遺族代理上野スエさん、柳本さんの遺族子息茂さん、石田さんの遺族代理福田剛三郎さんらを中心に保存会の関係者の慰霊の焼香が続いた、茶話会では、そのころの関係者の唄の制作の思い出や故人の思い出話が尽きなかった。
 正調ということばは名のある唄の残されているところでは全国どこでも正しい歌を残すために正調保存会がある。北海道でも九州でも佐渡ケ島でも、その土地の唄を保存するために力をそそいでいる。八戸小唄もその保存のために生まれた。佐渡でも相川では相川おけさ保存会があり、両津には両津おけさ保存会がある。また八木には八木の独特なおけさがあり、その保存会がある。しかしおけさは勝太郎ぶしというおけさがあるけれども、島では誰がどんな節まわしに歌っても歌えるというのが、この唄の特徴であるといっているが、それでも本場は本場として伝統の正しい節を保存している。
 このように八戸小唄もレコードで伝えるいろ いろな節があり、いちばん多いレコードでは三橋美智也ぶしがある。三橋の唄は美声と声量とノドのよさによって自然に美智也ぶしになるだろうが、近ごろはほとんど正調の節になった。この唄の節のくずれやすいところは「唄に夜あけた」の「た」のところ、「かもめの港」の「の」のところ、「サメの岬」はの「サメの」は全部くずれやすい。たとえば「さ」をのばすのは、民謡集などにある音譜がそのように間違っているからであろう。いちばんむずかしいところは「サメの」の「の」の発声が短く、かろくとめる。それが小唄をつくったときの節である。「おけさ」のようにどんなに節まわしをしてもよいというように、八戸小唄も、どのような節まわしで、歌ってもよいと思う。ただ本場の唄はどうかといわれれば、やはり、こうだという正調のものを残しておかなければならないと思うのである。
 こんどは踊りのことであるが行進用の流し踊りをつくったのは三、四年前になる。これは保存会が小中野、鮫両見番と連合婦人会、南部芸能協会、当時大館中学校の大西先生が協力してつくったもので二度三度つくり替えて出来た。この踊りは相当普及されているが、それでもまだ踊りの最後のあたりで「手直し」を要望している向きもある。
 けれどもこの流し踊りも県南に広く行きわたって八戸市内の婦人会だけで一時に一千人が踊れるようになった。
 唄には著作権というものがある。八戸小唄をわたくしは作りっぱなしで、しかも長い間他郷暮らしをつづけ、帰郷してから著作権協会に信託したので唄の制作関係のレコード会社は使用料の関係で作詩者をはっきりする必要があった。四十一年五月、レコード会社側の代表キングレコード会社の著作権課小林敏雄、日本音楽著作権協会の資料課長宮沢溥明両氏が八戸を訪れ、その調査をはじめ、わたくしはその俎上(そじょう)に乗せられた。けれども調査の結果は作詩は法師浜桜白であるということがはっきりしたので、その調査は終わった。このことがあってわたくしは精神的に動揺もあったので、それがおちついてから、わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。八戸小唄も作ってからことしで四十一年になった。

手記 我が人生に悔いなし 三

中村節子
○ 退職
父が向山駅で定年を迎えた。当時は五十五歳定年である。これを予測して八戸市糠塚に土地と家を五年前に買ってあった。家は中古であったので土地の奥の方に移動させ、道路に面した側に新築するのであるが、とりあえず古い家に引越すことになったのである。
母は私に退職しなさいという。そのかわり洋裁学校に入れてやるというのである。
自衛隊に就職して二年、特別国家公務員として優遇された職場であった。
八戸でこんなに良い条件の職場はみつかるのだろうか。しかし八戸から三沢への列車通勤はとても不便であった。向山駅からの通勤でさえ、特別に貨物列車に乗せてもらっていたのである。父の計らいで尻内、下田からと四人ぐらい一緒に乗っていた。それも父が現職のときはいいが、退職後もそんなにあまえてもいられない。三沢での一人暮らしは自身がない。特別な資格を持った事務員でもない。
何か手仕事でも身につけた方が得かも。
迷った末に裁縫のきらいな私は洋裁学校を選んだ。時に私は二十歳。姉も兄も就職をして親元をはなれている。弟の小学校卒業式を待って八戸に引越をした。
○ 引越
下北から八戸までの間六回引越をした。
私は引越が好きだった。友達と別れるのはさびしいけれど、新しい友達が出来るし、今度行くところはどんな所かと期待感があり、その土地土地で新しい発見があった。
親には転向手続きや教科書の入手とか苦労があったらしい。引越がおそくなったときは教科書が入手できず、友達から借りてきた教科書を母が書き写したこともあったと聞く。
さて、鉄道員の引越は貨車を使う。
ワム(有蓋車十五㌧車)を一両又は二両になることもあった。漬物石から物干し竿のはてまでも何でもかんでも積み込むのである。
りんご箱(当時は木箱)を何個も引越のために確保しておき、父がその箱を割り当てる。
「節子は何個必要か」「二個」、その二個に自分の物(衣類は別)を自分で詰めるのである。その箱に白いチョークでせつ子、せつ子と四方に書く。非番の駅員さんが手伝いに来て箱の蓋に釘を打ち縄でしばる。このあと詰め忘れが出てくる。子供のやることだからしかたないけれど、詰め忘れが出てくるたびにまだ釘を打ってない箱に入れる。そして必ず「せつ子ぼうし」とか「せつ子カサ」「セツ子長クツ」と書くのである。最小限の荷物を残し貨車に積み込む。
引越は子供達の卒業式や終業式が終わると一斉に始まる。まず定年退職の人から官舎をあけ後任者が入る。というぐあいに次々と動きだす。貨車が先に新任地に到着する。駅のホームに駅員さんが荷物を全部おろし、官舎に納まった頃私達家族が到着する。駅のホームに駅員さんがずらり並んで出迎えてくれる。
あるとき、その出迎えの駅員さんに「せつ子さんはどの人ですか」と聞かれた。父が「このこです」と私を示すとがっかりした様子にどうしたのかなと思ったら、運んだ荷物に「せつ子」と書いた箱がやたら多かったので「せつ子さんはきっと年頃の娘さんだろう。だから荷物が多いのだ」と思い、せつ子の箱を専門に運んだ人がいたというのである。
そのせつ子は中学生だったというので大笑いをした。
最後の引越で八戸へ移動してきたときは親戚の人が手伝いに来てくれたけれど、今までのようなにぎやかさはなかった。少し寂しかった。父はもっともっと寂しかったと思う。
○ 明治薬館
父は八戸駅(現本八戸)の伯○軒再就職、弟は一中へ、私は八戸文化服装学院(現文化専門学校)へと、八戸での新生活が始まった。
生活が落ち着いた頃に家の新築工事が始まり、秋に完成した。古い家から新築へ引越。
しばらくして古い家を借りたいという話が持ち上がった。八戸ガスが社宅を建てるが、建つ前に北海道から引越て来る人がいるというのである。社宅が出来るまでの短期間であるが社宅として借りたいということであった。蛯山さん一家が引越してきた。何日かして母が蛯山さんの奥さんをバス旅行に誘った。そのバスの中で奥さんが詩 吟をやったというのである。その詩吟のすばらしさに母は感動していた。
そして詩吟を習いたいと言い出した。義兄と私と三人で奥さんにお稽古をお願いした。
蛯山さんの話によると「北海道はすごく詩吟が盛んです。私が詩吟をやろうと思ったのは月謝が安かったから。八戸に来て詩吟教室を探したら、八日町の明治薬館という薬屋さんの二階が教室だと聞いたので行ってみたの。五、六人の会員さんが居たけれどテープレコーダーを聞きながら稽古していたわ。どうやらちゃんとした先生がいないらしいの。がっかりしたから、あそこへは行かない」
私は詩吟には興味がなかったので、何気なくこの話を聞いていたが、まさか七年後に明治薬館へ行って詩吟の世界に入ろうとは夢々思わなかった。我が家での稽古は日曜日ということもあって思うように続かず、五回ぐらいもやっただろうか。その内にガス会社の社宅が出来上がり蛯山さんは沼館へ引越していった。詩吟の稽古はそれっきりとなった。
明治薬館は八戸市に初めて詩吟教室が開かれた、いわゆる八戸詩吟の発祥地なのである。明治薬館の長女の知恵子さんは明治大学在学中に詩吟を始めた。卒業後は岳智会に入会して詩吟を続けた。八戸の実家に帰り詩吟教室を開いた。これが今から四十八年前のことである。集まった会員達が詩吟に面白みを持った頃、知恵子さんは結婚して東京に住むようになった。残された会員はあきらめきれず細々と稽古を続けていた。この会員の中に明治薬館のご主人、いわゆる知恵子さんの両親がいた。そこで知恵子さんにテープだけでもとお願いした。そしてテープレコーダーでの稽古が始まった。蛯山さんが教場を訪問したのはこの時だった。八戸の会員さん達の熱心さに心を動かされた知恵子さんは、里帰りのたびに実際に指導するようになった。
私が入門した頃は、当時の先輩達が先生となって、八戸市内に五ヶ所の詩吟教室が出来るほど発展していた。
明治薬館の教場は知恵子さんのお父さん(最上泰風先生)を会長とする翠風会で、師範はお母さんの最上翠岳先生である。そして知恵子さんは東京で活躍する桜井令岳先生であった。
この続はあとで記することにする。
○ 八戸文化服装学院
昭和三十六年八戸文化服装学院に入学。現在の市庁舎前ロータリーの向こう側、消防署のとなりに交番所があるが、以前は塩会社があった。その脇を入って行くと(堀端町)文化服装学院の校舎があった。現在の常海町にある四階建ての校舎は、四十一年に新築移転したもので、八戸文化専門学校と校名が改められている。
当時は中卒が入る本科(一年制と二年制)高卒以上の専攻科、その上の研究科、和裁科もあり私は専攻科に入った。部分縫いから始まり、ブラウス・スカート・ズボン・スーツ・オーバーコートの作り方、レース編みや一般教養科目もあった。授業が進むにつれて平面の布から立体的なものが仕上がる。編み物の時も楽しかったけれど、さらに物を作る楽しみ創造の喜びを知った。裁縫ぎらいが大好きに変わった。学校帰りに三春屋で服地を見るのも楽しみだった。専攻科は一年だけだったが色々な行事があった。遠足は白銀大火で中止となった。運動会は八戸小学校(現八戸市庁舎の所)の校庭を借りてやった。自分自身がモデルとなって自分の作品を発表するコスチュームショーは市民会館(現市庁舎のあたり)でやった。
冬、昼休み時間になると焼イモ屋が学校の前に来る。女の子ばかりの学校だから良く売れた。私も買った。おいしかった。あの焼イモ屋は毎日ピーピーとならして来ていたから、きっともうかったと思う。
○ 失業保険
在学中に心配なことが一つあった。学校には学友会(生徒会)があり、その会長に私が選ばれてしまったことである。本科二年又は研究科の人が去年のことがらを知っているので、その人達から会長を選んだ方が良いと言ったのに、専攻科から選ぶのだ、協力するからと何が何でも押し付けられた形になった。運動会もコスチュームショーも学友会主催であるので、プログラム等に会長名が出る。それが困るのである。担任の先生にお願いした。「会長として私の名前が出ると困るのです。出さないで下さい。そうでなければ学友会の会長を降りたいのです」担任の先生はハッとしたように「ひょっとして失業保険もらっている?」「ハイ、それです」
私は自衛隊を依願退職したのである。依願退職、まして学校に入っているとなれば失業保険は支給されないよと言って、自衛隊では離職証明書を出してくれなかった。「手続きしてだめならあきらめますから、とにかく証明書を下さい」と再三お願いしてやっと出してもらい、職業安定所へ持って行った。当時の職安は下組町にあった。職安では首をかしげた。「こういうのに支給できるかなあ」と、とにかく洋裁学校に在学していることを知られないように、働く意思があるところを見せなければならない。根気よく職安に通った結果、日数はかかったけれど受給できることに決まった。それなのに働きもしないで学校に通っていることが知れたら、支給が打ち切られるのではないかと心配したのである。
「大丈夫よ、心配いらない」と担任の先生は言ったけれど、月に一度学校をぬけだし職安へ行き、必要な書類を提出し失業保険を現金でもらってくるまで、とても心配だった。
心配したお陰かどうか無事六ヶ月もらった。四十年以上の前のことだから、とっくに時効になっていると思う。

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4

例会の私のありがとうは、売市、ギャラリーみちで九月二十一日に開催された。参加者は富田さん、大久保さん、晴山さんご夫婦、大橋さん、斗賀沢さん、吉成さん、斉藤さん、北山さん、それと杉森さんご夫婦。「はちのへ今昔」編集長、月館弘勝氏。
先ずは八戸の新名所になるべく、この場を提供して下さる精神障害者支援施設経営の北村さんご夫婦に感謝しながら、毎月一回、楽しい人々の交流の場とするべく、ハモニカの演奏から開始。次第に日舞、詩吟、手品などもご覧にいれる。
ハモニカの曲は嫋々として雰囲気がある。杉森さんのご主人がサンタルチアと裏町人生、この曲は昭和十二年、上原敏が歌い、作詞は島田磐也、作曲阿部武雄、暗い浮世のこの裏町を、覗く冷たいこぼれ日よ、なまじ 懸けるな薄情け、夢も侘しい夜の花、というもので一世風靡。演奏者の人生に対する思い入れがあるだけに、なかなか胸に沁みました。
継いで、編集長の風天旅行ばなし。この人は夫婦で一ヶ月も方々を旅行。風の盆から、広島、九州は鹿児島までウロウロ。その紀行を語った。
八戸から出ない人も多く、話に質問が続出。特攻隊の基地、知覧の話は涙なくては聞けない。ゼロ戦の話、パイロットの話、出撃の前に朝鮮人特攻隊員が、死んだら蛍になって皆さんの前に又現れると言って、亡くなった晩にホタルが出た話などなど、先人は苦労をされたもんだ。そんな、話のあれこれを、編集長が綴った。
風の旅   風天弘坊
長野県 上田市 別所温泉で
 ごぉーーん!寺の鐘の音で目が醒めた。
私の生涯にわたって、はじめてのことである。
しらじらと夜が明けはじめた五時に夢のなかで七つ数えたがまた深い眠りに引きこまれた。湯が効いたようだ。夢のなかの出来事か?山中では日の出は遅く、日没は早い。
旅の途中、長野県上田市に属する山中の静寂極まる温泉場に来てしまった。旅の予定も終盤になったが我が古里を出てからかれこれ一月あまり、ホームレスの生活もカマボコのようにすっかり板に付いた?ようである。
此処に来た目的は温泉に入るためではなく「無言館」という美術館が平成九年に開館されていて、そこが目的であった。それより先に建てられた本館は「信濃デッサン館」である。
この歳になっても物識らずの半端な美術愛好家だがお先真っ暗のこの社会の悪行の数々を冥土のミヤゲにと考えた末の行動とも言えるのだ。(ヤケッパチとも言うらしい)
見てやろう。聞いてやろうの旅である。
昨夜のお宿は長野の奥深いところにある別所温泉。
「おお、高級な、お宿でなんと贅沢な」と思ってはならぬ。宿はお粗末そのもの駐車場の一角、すなわち車の中に寝たのである。
南の都市の猛暑をくぐり抜け(36.5℃の日もあったが体温からすれば平熱か)此処は別世界であった。虫よけの網を張った車の窓から山の爽やかな風が吹き抜け心地いい。
無料駐車場には夜の九時を過ぎたら車もいない、人の気配もない静けさだが不気味さもなく清涼感は充分といったところだった。そこは巨大な石を積んだ城のような寺の境内の下にあった。北向観音八二五年の名刹である。ここにゆかりの慈覚大師がおられ、お入りになったといわれる由緒ある湯だそうな。大師湯と言う名である。
境内に入ると愛染カツラの大木があり、縁結びのご利益があるそうだが私ラ爺婆にはトンと関係はござんせん。
消費税の五円をあげて「腐れ縁でもどうにかなりぁんすか?」と掌を合すとバカモン!と観音さまのお声が聞こえたような気が・・。
私は出来ることなら、やってみたかった草むらのなかでの野宿、朝露にぬれての目覚めも悪くはなかったろう。漂泊の旅をした山頭火のようにである。(考えてみると文明の利器とやらの自動車とはなんと無粋なものか)
夜、此処の温泉に浸ったが、やんわりとした湯の質は疲れはてた躰にじんわりとしみた。
湯船に浸かっていたのは私と湯の主人だけであった。ひなびた温泉もこんなにも人の気配が少なくては萎びてしまうのではないかと余計な心配をしたものだ。不況の波はここまで来ているのか。
共同浴場の大師の湯は掛流し、湯船は少々小ぶりだが一五〇円也では贅沢は言えない。入口は本格的な破風造り(お寺の造り)で歴史を感じさせる立派なものだ。
ほんのりと硫黄の香がして飲用もよし。二〇〇円で五〇円もお釣りが来るのは嬉しいではないか。なにか此処の心意気が感じられた思いであった。感謝、感謝である。無料の足湯もあり道端にある飲用の源泉も無料であった。太っ腹!
立派なお宿では入湯だけで一〇〇〇円以上と表示している。宿泊は一五〇〇〇円以上である。私は貧乏人、このような処には間違っても立ち入らぬことである。
湯上りの帰り道は石畳、それがまた素晴らしい感動であった。暗い夜道に人の気配もなくトボトボと湯から駐車場まで歩いた。(一人じゃなく相方とよたよたとだが)たった五、六分ほどの道のりだったが足元の石が燦然と輝き出した。あちらこちらにキラキラとである。それが先が見えないほどのながい距離が続いていた。「わあー天空だ!」思わず口に出た。薄暗い小さな街路灯の光を反射し夜空にきらめく満天の星!となる。歩を進めるとそれがチカチカと点滅して見えるのだ「これは一体なにものだ」地べたに天空を見るなどの幻想は生来初めての経験であった。まるで夢のなか、なんと言う名の石なのか確めようがないが素晴らしいものであった。もう、生きている残りの時間で、こんな想いに浸ることはないのではないか?とふっと頭のなかをかすめたことだ。ここの温泉の効用で熟睡をした。.夢に登場したのは亡くなった親族、亡くなった幼馴染や久しく逢っていない知人達であった。(これはお寺の効用か)
技術の粋を集めたナビゲーションシステムも、使う人間が古いとこんなものか?と
迷い迷ってやっとこの地に辿りついたものだが、わが人生も同じくそんなものだった。と自分に苦笑しあきれ果てもしたが、もう、取り返しのつかぬことではある。最大の迷惑をこうむったのは他でもない相方の労災ではなかった老妻であったろうな。「許せ!」
武将のつもりであったが不精ヒゲほどか。軽いのぉー。笑
旅の最終目的は東京の二科会の展覧会、予定の旅の行程を果たせずに、この地にある「無言館」と「信濃デッサン館」の観賞となる。前館は戦没画学生の作品を集めた美術館である。ここでも目頭を熱くしてしまった。両館長は窪島誠一郎氏。作家水上 勉の子息である。
志半ばで戦争に散った若い画学生の遺作遺品の数々。とてつもなく大きい日本画の作品を見てまた涙。生きていたら、この道で大家になられておられただろうなーと思いを馳せた。建物は十字の形をしているが別に宗教的な意味は含まないそうだ。
光を落した薄暗い館内から外に出ると夏の雲がもくもくと信濃の山々から涌き出ていた。濡らした瞼にまぶしく映る。そして山も野も緑一面鮮やかで美しい。そのなかに紅く点々と花が咲いている。百日紅とも呼ばれる「サルスベリの花だ」出発の日にも我が家のサルスベリの花も咲いていた。
ここではなぜか暑い外気も心地いい。
自然とは「生きていても、死んでいても」自然なのであるがそこにはとんでもない(大きな隔たりがあり違いがある)
私はその風景を目にして「死んで花実が咲くものか」のことばを呟いていた。
あの終戦の日にも確かに我が故郷の山にもサルスベリの花が咲いていた記憶がある。
暑い夏の日も間もなく終わる。  旅は続く
 
編集長の旅の話は次回の「私のありがとう」でも続きます。今回の参加者はご主人に有難うと言う人が多かった。大体において女性が長生きで、亭主の方が先に逝く。そのかみさんから亭主が誉められないのは情けないけど現実。わが身に振り返っても、当然と思うが、今回の出席者連は素晴らしかった。異口同音に亭主のお陰で我有りとおっしゃった。
なかでも岩手県から夫婦で八戸に移住してきた奥さんの喋りに驚嘆。八戸でこんな軽妙な喋りが出来る人がいたんだと絶句。
リズムがある、くすぐりもある、おまけにどんでん返しも含むと、実に話芸の真髄を?んでいる。
この話が秀逸だったので披露。
亭主が小皿を手の上にひっくり返して出した。
「おい。お前、稼ぎが悪いなどと、寝言を並べるな、こうなるぞ」
「お父さん、それはどういう意味ですか」
「それも知らないのか、これはな、お皿が手の上に載っていて、これを放せばバッと落ちるんだ、お皿がバッと落ちるからオサラバだよ、つまり、俺とお前もオサラバだ」
次回のこの人の話を聞きに来てくれ。十分に聞くだけの価値あり。
そのほかに貧乏な父だったが、理美容学校に入れてくれ、そのお陰で今も美容院を営業できる、だから、父にありがとうと言いたいとの言葉もあった。親は有難いものだ。親への感謝の言葉は時折聞く。が、自身が親になって果たして、してもらったことを我が子に返すことが出来たのだろうかと自問すると、してもらいたいばかりが先で、してやる、させてもらえる喜びを忘れてはいないだろうか。
 又、してやったと恩着せがましく言っていないだろうか。前回の例会でも喋ったが、水沢の偉人、後藤新平(政治家、医師より官界に転じ逓相・内相・外相・東京市長などを歴任)が教えた、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして報いを求めぬよう」を実践できる人は少ない。
月に一度の会ではあるが、こんなことを聞いて欲しい、見て欲しいの心根のある人は是非参加してください。参加は自由、入場料百円で弁当、飲み物つきは人のあたたかいふれあいを願う北村さんご夫婦の心。

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 4

佐々木 わたしが赴任した時、南側の校舎が戦災にあってなかったんです。それで体操場を仕切ったり、作法室、裁縫室をつぶして教室にしました。ところが便所がない。あまってたいへんだった。
 井畑 あの校舎が建ったのは佐々木先生の時でしたね。
 佐々木 はあ、そうです。わたしは校庭が狭くなるので、むこうにのばそうとして、市にPTAといっしょに再三陳情したんですが、「基礎ががんとしていたわしい。このまま使ったらよかろうというので、前のまま建てたのです。ところが建ったのはいいが昇降口と便所がない。これまた市に陳情に行ったが、予算がないというのでどうも困ってしまった。わたしが去ってから正部家先生の時、建ちましたね。
 正部家 そうです。おかげさまでわたしの時に昇降口と便所が建ちました。
  涙で送った六百名
正部家 わたしの思い出の一つに、学区の変更がありました。昭和二十七年の三月でしたが・:・:。八戸小学校児童のうち約六百名という児童を手放すという、八戸小学校長として非常に悲しい思い出があります。けれども八戸市の教育全体の上から言えば喜ばしいことかもしれません。当時六百名という約三分の一に当る愛児をむかえにいらっしやる鈴木先生に、おゆずりしなければならないのです。
 鈴木 フッフッフッフ。
 正部家 わたしとしては、手放すことは悲しかったが、しかし市の行政上のことに対しては、校長としては感情的には反対でも、事情止むを得ない。というので、まず送別会をということになりました。わたしはこんこんとして話を続けました。元、八戸は一つの学校だった。次に出来たのが長者小で、長者小に別かれて行くにも、それなりの理由があったのだ。次に出来たのが柏崎小であった。そこにも理由があった。そして今回もその通りである。市の発展にともない、とても一つの学校ではおさまらないのが分るだろう。決してここだけが、あなた方の学校ではない。長者だって、柏崎だって立派な学校になっている。吹上も、あなた方が行って、更に立派な学校にしてください。市が発展するにつれて人口が多くなり、学校も多くなるのが当然なことで、その点を理解しこころよく別れましょう。幸い吹上小学校には、鈴木校長先生を始め立派な先生方や、よいお友だちが待っていてくれます。長横町を大きな廊下と思っておたがいに行ったり来たりしましよう。
こういうことで悲しみながら喜んだふりをして笑い、お別れをして鈴木先生に無事にお届けしたのです。これが、わたしの悲しき思い出であり、八戸発展の一つの原動力となったと考えています。
 鈴木 正部家先生からお話がありましたように、ずいぶん苦しかったようです。八戸小学校から六百名いただきましたが、受け取るわたしとしましても、校長先生は勿論、先生方にも、もっと強い愛着の念があったように思っていました。第一、一学級から十五人~二十人近い児童が行くんです。すると今迄育ててきた子らの三分の一から四分の一行くんですから、学級ががらんとなるんです。あとは学級を編成しなおさなければならないのです。先生と生徒の別れのつらさ……。父兄と学校の別れのつらさ……。校長先生の苦衷。これはいろいろと問題があったのであります。初めは、半分は行かないだろう。二百名ぐらいかなという話がありまして……。これだと受け取る側としてあまりおもしろくない。(笑い)半分以上はこないかなと思いまして正部家先生にお聞きしたら、「どうかな」という話だったんですよ。ところがふたをあけたらほとんど行ったんですねえ……。
 正部家 ほとんどです。
 鈴木 これは正部家先生のご指導の。
 正部家 いやいや、親さん方と相談し、市が大きくなったんだから、これは当然なことと何回も話し合いました。父兄の方々もほんとうに残念だったんでしょうが、ご了解をいただき別れることにしました、別れはするけれど残念そのものだったのです。愛着に清涙ともに下りながら、数回の話し合いで皆さんが了解してくれたのです。
 鈴木 実はあの日、いよいよ三月二十九日でした.この日は非常に雪が降ってね……。きよう来るというので、わたしと加藤P・T・A会長さんと迎えに行くことになりました。校長室で待っていましたが・::・。校長先生のお話が長くてね……。(一同笑い)ハッハッハッ。しびれをきらして、待つこと一時間三十分。さあいよいよ行きましょうということで、ここを行きました。先生や南部会長にみ送られて、ほんとうに感無量でしたね。吹上小学校に着いたら旗を持って迎えてくれました。
 「よくきたね。ばんざい、ばんざい」とね。
 正部家 この時の情景は非常になごやかでありましたが、悲しみでいっばいだったんです。おたがいに「おら行かない。あの人も行かない」と言うことなしにしようと言いましてね。
 鈴木 わたしがとくに感心したのは、こちらからきた人たちが、実によく協力してくれたことです。こちらから来た父兄は教養が深いという感じでした。一たん別れてきたのでしょう。今度は、実に吹上によく協力してくれました。一度きまれば服従と言いましょうか協力と言いましようか。とにかくとてもよくしてくれました。
 正部家・鈴木 そうそう理解と協力がほんとうにありがたいと思いました,
  理解あるPTA
 井畑 八小PTAはたいへん教育に熱心で、協力活動も盛んなのですが、特に終戦後のPTAのご苦労や、協力活動について、お話しいただきたいと思います。まず佐々木先生から・: 
佐々木 先ほども話しましたが私のときは、終戦後の食糧難時代で、生徒の体位も、一年下まわっていたほどです。そこで学力とともに健康教育、体位向上をめざしました。アメリカから大量の脱脂粉乳がきたので、とりあえず、石炭小屋を改造して学校給食をはじめたんです。そのときに、町内から交代で給食当番が出て協力していただきました。中には、野菜などを持ってきてくれた父兄もありましてね。
 正部家 私も、八小の父兄の教育に対する理解と協力という点で一つの思い出をもっているんです。それは八戸市の発展にともなう学区改制 のため、やく六百名の生徒を吹上小学校に手離すという悲しい事態に立ったのですが、父兄の皆様方は、個人的な感情をおさえて、八戸市の教育の発展という大局にたって、なっとくしてくださり、スムーズに事が運ばれたことは、大いに感謝もし、また父兄の本当の意味での理解と協力の姿を示してくださったと思ったのです。
 鈴木 ただ今の正部家先生のお話の続きになるようですが、当時、私は吹上小学校の校長として、八小から六百名の生徒をむかえる側だったんです。私としては、生徒も父兄の方々も新しい学校に一日も早くなじんでくれるよう願い、また、なじんでくれるかという心配もしましたが、もとの八小のPTAの方々は、今度は、吹上小のPTAとして本当によく協力してくださったんです。うれしかったですね。
 井畑 次に松尾先生の頃から施設面での協力が、大きな活動になっているようですが。
 松尾 私も、PTAの方々の協力が忘れられませんね。とりわけ、施設面の充実が目立ちます。二十八年度の図書室、二十九年度の理科室、三十年度の放送施設、三十一年度の体育施設というように、さすが八小のPTAならではと思いました。また、それが無理な形でなくなされているのですね。それから母姉会の方々が毎月、図書費を集めて、本を買ってくださったことも、思い出の一つです。
 井畑 鈴木先生に引きつがれてからは……。
 鈴木 私のときも、第二次教育施設三か年計画で二百四十万円もの協力をいただいております。音楽室、理科備品、保健衛生施設など、どんどん充実していった。水飲場ができたのもこのときです。途中、私がたおれてしまって船場先生に大変、ご苦労をかけてしまいました。
 船場 本当によく協力いただいたと思います。今までは二教科に重点をおいて施設する学校が多かったのですが、全人教育の立場から、あらゆる教科の施設を並行的に計画実行し、これだけ立派なものをそろえているんですから大したもんです。
 井畑 たくさんの思い出話、本当にたのしく聞かせていただきました。まだまだお話ししていただきたいのですが、時間にもなりましたので、この辺で……。どうもありがとうございました。

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 5

民生委員のころ
      鈴木 弥生
 小春日和の暖かい或る日、町内会の役員の方々がお揃いでお見えになりました。昭和49年の頃でありました。お話は民生委員の候補者を町内から推せんするのだが、その仕事を引受けてくれないかという、おさそいでありました。
 売市に移って来て9年目の頃で、ちょうど子供達も大きくなり、手がかからなくなった時でもあったので、何か習いごとでもと思っていた矢先でもありました。お話には興味をひかれました。
 しかし、事務的な仕事には経験が乏しい事などを思って、果して務まるかと、不安がつきまとい、決心がつきかねておりました。けれどもお話はどんどん進められ、12月には辞令をいただくようになってしまいました。町内からは植木さんも一緒に推せんされていました。
 辞令をいただいた早々に、例会の案内がありました。民生委員の例会というのが、毎月定期的に開かれ、根城地区の委員27名全員が集まり、新しい仕事の打合せ、調査の報告などが行なわれますが、先輩委員の経験談、苦心談が良い勉強になりました。
 地区委員の代表を総務と言いますが、古参の田村弥五蔵先生がお引受けになって、おせわされることになりました。
 研修会も度々開かれました。ここでも仕事の実務をいろいろ聞かせていただきました。先輩方の事例の発表は、仕事の実際を取扱う上に大変参考になりました。
 しかし、むずかしかったのは、福祉の適用を受ける証明でありました。適用を希望する方には強い同情の気持を持ちますが、適用に近いきわどい境にあるものなどには、随分なやみました。
 民生委員の仕事は、全面的に福祉の仕事でありますが、福祉団体の運営にも協力する仕事もありました。例えば日本赤十字社の仕事、或は赤い羽根募金や福祉協議会の仕事などがそれであります。
 町内では、赤い羽根募金や歳末助け合い募金、日赤の社費寄付などを、町内の予算に計上して、一般からの募金をしませんでした。
 その内、日赤の社費は社員個人が、奉仕の心を社費として負担するのが建前であるということから、日赤の社員を募集することになりました。
 町内を戸別訪問して入会を勧誘しました。植木さんは有功章社員を多数勧誘しました。久慈さんも協力してくれました。
 その結果、金色有功章社員、銀色有功章社員、金色特別社員、銀色特別社員、正社員等々に多数の方々が申込んで下さいまして好成績でありました。中でも互光産業㈱さんでは金色有功章寄付金を2年に亘って行うなどの協力ぶりでありました。この事は根城地区全体の成績を押し上げ、全市的にみても成績の上位地区になり、例会では田村総務さんも上気嫌で成績を発表されました。
 何れは、赤い羽根も歳末助け合いの募金でも同じように検討する必要があるのではないかと思いました、
 民生委員を3期9年間無事務めさせていただきましたが、この仕事を通じて、多くの方々の知遇をいただき、教えられ、助けられることが沢山ありました。又年1回行なわれる研修旅行では、他都市の福祉の新しい施設を見学する機会にも恵まれ、9年間は決して長い期間ではありませんでした。私の人生に、大きな剌激になったことは確であります。このことは常に感謝の気持で一杯でおります。
町内会奮戦記
      鈴木  操
 私が町内会に初めてつながりを待ったのは、昭和17年、30歳の時のことでした。戦争中のことで町内会は行政の末端の仕事を色々と背負っておりました。
 当持私は、鳥屋部町に住んでおりました。町内会に協力してほしいというお話がありました。当時若い者は召集されて戦地に行くか、工場で生産に、或は食糧増産に励んでいる時で、遊んでいる者なぞ無いときでした。再三のお話で、結局お手伝いすることになりました。
 町内会長は松原富男という方で、前に八戸銀行の頭取もされた事があり、又吹揚にナシ畑や栗の木畑を広く持っておられ、それに貸家を30戸程建て、ご自分の名前を採って松富町とつけたという、八戸でもトップクラスの資産家ということでした。
 ○ 戦時中の町内会
 頼まれた仕事は、総務班長と経済班長という立派な名前でしたが、他に警防班長、教化班長、婦人班長、健民班長が居りました。実際は名目だけで、総務班長が一人で全部こなさなければならない本当の雑務係でした。最初からそう説明されました。
 辞令をもらって、初めて手がけた仕事は、生活物資の配給でした。小豆やもち米などの食料品、足袋や手拭のような衣料品、酒やたばこなどの嗜好品、それもたっぷりくるのではなく、ほんの少々の数量でしたので、配給の順番を決めて、隣組長を通じて配給切符で配るのでした。それでも当った人には喜ばれましたが、はずれた人は何も言いませんが、顔を見るのはつらいものでした。それよりももっとつらいことは、米の供出要請や債券の割当てでした。町内には大きな地主(田んぼを持っている者)が3~4人居り、その人達には秋に小作米が入ります。その中から、1~2俵(4斗が一俵)位、市に売ってくれと要請するのでした。それを供出米と言っていました。翼賛(よくさん・力をそえて(天子などを)たすけること)壮年団と町内会が市の手先となって地主の説得に当るのでした。地主は二重取りだと怒りをぶちまけます。たしかに市中には公定価の何倍の価でヤミ米が流れていました。
 市の説明では、供出米を病人などに特配して、すこしでもひもじさを救いたいという…納得のゆく説明でした。
 叉そのような収入の多い人は、町内会に割当てられる戦時債券(戦時に、国家が軍事費調達のために発行する公債。軍事公債)なども、沢山買ってもらわなければならない相手です。債券は1枚10円から20円位でした。随分各方面に押し付けました。今でも、その時の末消化のため引受けた債券が2~30枚手許にありますが、子供のおもちゃにもなりません。当時は3千円も出せば、まず住める一戸建の住宅が建てられたものです。
 ○ 戦争末期の町内会
 戦争が苛烈になるにつれて、物資の配給はだんだんすくなくなってきました。反面出征兵士の見送りや、防空演習、金属の回収、慰問袋を差出す割当などが多くなり、町内から持って行かれるものが多くなりました。
 昭和18年になってからは、高館の飛行場の整備や、是川村の上り街道近辺の陣地構築に、人夫代りに勤労奉仕という名目で、働く人の割当てがあるようになりました。言葉を代えて言えば、人夫の手配でした。勿論これらの仕事は奉仕であって賃金が支払われるわけではありません。ふだん労働をした事のない人も、セメントや木材をリヤカーやソリで運搬したり、穴掘りなどの仕事をしました。
 勿論毎日の奉仕ではなく、月のうち1~2回の出勤だったので、続いたものと思います。
 ○ 町内会の仕事にお別れ
 私の町内会の仕事は2ヵ年間という、短かい期間で終りました。昭和19年に月刊評論社という雑誌社に勤めることになったためであります 2ヵ年間ではありましたが、随分動き回りました。仕事には追い廻されましたが、思うように、自由にやらせてもらったので、面白味もありました。松原会長は「問題が起きたら、私が処理するから、どんどんやって下さい」と言って、命令をしたことはなく、親分肌の人でした。
 仕事をやめてからの感じですが、供出させられた人、債券を押し付けられた人達は、さぞ不愉快な思いをしたことであるうと、反省の念しきりであります。
 聖戦遂行という美名に、一点の疑いも持たぬ不敏(ふびん・才知・才能に乏しいこと。多く自分について、へりくだって言う時に用いる)のなせる業でした。
 昭和22年のポツダム政令15号によれば、私の町内会での行動は、公職追放に問われるものであったであろうと、政令を何度も何度も読み返しました。
 ○ 多くの知人を得る
 町内会は、市の大政翼賛会(第2次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした)、或は翼賛壮年団と関連がありましたので、それらの団休の幹部とお近づきとなり、おかげで私の人脈は豊かになりました。
 市の翼賛会の事務局長の永田正太郎(後の佐々木正太郎デーリー東北社長)三戸郡翼賛会事務局長の峯正太郎、同総務の成田昌彦、熊谷義雄、橋本八右衛門、広田豊柳、大久保弥三郎、(田口豊洲団長はその前からお近づきいただいてました)等の方々が私の名簿に記されております。私の貴重な財産であり、払の人生に大きな影響を及ぼした方々であります。
 ○ 鳥屋部町から南売市へ
 私が鳥屋部町から南売市に移って来だのは、昭和41年早々のことでありました。家は南売市のバス停から100米ほど西の方に入った大変静かな畑の中にありました。家の前は柿の木畑で、初夏の柿の葉の美しさを、この時初めて知りました。
 又初夏の候には近くの高い木の天辺で鳴く「カッコー」の明るい声は、大げさに言えば、この世の天国という感の深いものでした。
 勤め先の商工会議所の仕事に没頭していた昭和44年の春の頃、南売市の町内会からお呼びがあり、又お手伝い(監事)することになりました。それ以来平成4年の春までの23年間おつきあいさせていただき、居心地が良く、つい長居してしまいました。
 その間、いつ頃か忘れましたが、朝の新聞を広げて一番先に目の行くところは、投書欄になっておりました。そこには、時々町内会に関することが投稿されており、貴重な意見があり、要望があり、又時には批判や手きびしい非難が書かれており、教えられるところが沢山ありました。世間の眼はするどいものだと思い知らされました。
 ○ 町内会とともに
 町内会の運営は信頼性、堅実性、永続性が基本だと言われています。
 そこに住んでいる者は、地域団体である町内会とは、何らかの形で、かかわりを持っていて、のがれられないものです。従って町内会は住民が町内会から圧迫やわずらわしさを感じないよう、親しさと安上りの団体であることを目標に運営すべきであると心がけてきました。
 しかし、あまりそれにのみこだわりますと、どうしても事業は「地味」になりがちです。今考えてみれば、時には一点豪華主義も取入れて会員の心に楽しみと喜びを持たせるべきであったと、いささか反省しております。

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 2

四、零からの出発
 京都に婦ってから、一ケ月程して再度八戸に来ました。大龍産業八戸営業所時代に知りあった人達、八戸市役所の福祉課長をしておられた清水丑松さん、皮革会社の魚住亀治さん、鉄工所経営の高橋さん達と相談して仕事を始める事にしました。蕪島の対岸に戦時中、海水を汲み上げ塩を煮つめていた工場が、たまたま高橋さんに払い下げられていたのを借り受け、資金は清水さんが調達する事、私は労力を提供することで清水さんの頭文字ローマ字のSをとり、○S水産加工所として発足しました。
 昭和二十三年一月でした。資金は零、魚及び加工の知識も零、一時清水さんの家の一間を借りて居たのを引払って、塩たき小屋の内に三畳一間の部屋で寝おきして自炊する事にしました。
土地は川平操さんの所有地をお借りし、塩たき小屋のそばにバラックの小屋に釜をつけ、魚粕をつくる事にしました。水は川平さんの土地のはずれにわいていたのを、おけでかついで使いました。御馳走は一週間に一個の卵でした。王城子原の訓練中、主食は高梁、おかずは演習の帰途つんだぜんまい等で生活した経験が役立ったのです。
先ず加工の手始めは、皮革会社で鮫(毛鹿鮫、吉切鮫)の皮をはぎ、肉をとった残りの頭、中骨等を代金後払いでわけて貰い、煮て肥料にする事から始めました。当時鰯等を魚粕にする場合は、煮てドで締めて水分をとったあと、むしろにひろげて干すのですが、鮫の頭や骨はドでしめられません。むしろの土にまな板を置き頭や骨をのせ、なたで切るより方法がありません。
 雨の時にはむしろをたたむのですが、蝿がつき虫がつくのです。それを拡げて干すのが大変でした。パートの人を三人たのみ手伝って貰いましたが、いやな仕事は私がしました。それでも当時は肥料が少なかったものですから、米と交換して貰えました。
次に蕪島の海水浴をする浜に時化のあと海草があがりました。それを拾い集め、乾かしてからもやし、更にうにを取ったあとのカゼ殼を集めもやし、それに鮫の肝臓を煮て油をとった後のべとを貰い受け、三つをダンゴにしてむしろで干しました。肥料の三元素があるという事で買って貰いました。少しずつ資金が出来たので、八戸魚市場から魚を買う事にしました。商号は○S、市場のかぎ取りの岩崎良助さんは○石の事をドンコロイシ、○Sの事を文化エスと呼びました。八戸弁ではエとイ、シとスの区別が発音しづらいのです。中々有名なしっかりした方でした。
資金がないので安いものを買う事にしました。 鮫という地名の通り油鮫がとれました。その生れたばかりの子をピン鮫と云っていましたが、余り利用価値がないので安く買えました。鰹節の製法を調べていましたので、鮫の節をつくる事にしました。頭と腹をかき、セイロで並べて煮てから火山(半分地中に埋め、その上にセイロを積み、下から火をもして燻製にする)にかけて乾しました。花かつをは本物の鰹を削ったものもありますが、市販用の安いのは鯖や鰯の節を削ったものです。これに鮫からつくったのを混ぜて貰うのです。日本中の削り節問屋を調べて売り歩きました。幸いよい値段で買ってくれました。
次にいかの加工を取り上げました。当時はするめに干すのが主流で、まだ冷凍工場はありません。雨が降ってくると腐って悪臭を放ちます。従っていかの値段も安かったのです。
雨が降っても干せる方法を考え、火山に屋根をかけ、いかの胴体を三つ位に切り煮ると輪になります。それをセイロに並べ火山にかけ、いかの節をつくりました。削るときれいな花になります。これを削り節工場に売りに行き、よい値段で買って貰いました。其内クレームがつきました。汁に人れますと鯖、鰯、鮫等の花はしずみますが、いかの花はぽっかり浮くと云うのです。そこでふりかけに使うか、佃煮にすればよいでしょうと云いました。それで納得して買って貰いました。
白銀でスルメを干して雨に困っていた加工業者の人達が早速造り出しました。所が削り節業者からクレームがつきました。削り機の歯がかけるというのです。白銀の砂浜でつくれば風の時にいかに砂がついたのです。削る歯に砂は大敵です。それ等の事を考慮に入れないと失敗します。その内に指導してくれる人があって佃煮を造りました。当時は数軒の佃煮業者がありました。又竹輪を造る業者も数社ありました。○万さん等有力な人達でした。缶詰業者や八戸に鰹が水揚げされた時に、鰹節をつくった業者もあったと聞きましたが、戦後は下火になった様でした。
 当時目抜等の水揚げが多く、粕漬けを大量に製造する加工業者もありました。○福さん等が大手でした。其内に油鰈が大量に水揚げされました。肝臓がビタミンをつくる製薬会社に高値で売れ、魚肉は練製品業者に売れ、名古屋迄送られました。頭や残滓は煮て油が大量にとれました。卵は塩蔵して売れました。
 当時の工場では手挟でしたが、それでもフル操業しました。にわか造りの工場で加工する人も出ました。それぞれ利益の出る仕事だったと思います。私も一を二に、二を四にと手堅く倍増し、仕事も軌道に乗って来ました。製塩工場も買取りし、資金も信用保証協会の保証借入れから、保証なしで借りられる様になりました。

五、本工場の新築
 三年間程で資金も少しながらまとまり、昭和二十六年三月現在の本社の土地の一部三八六坪を六拾五万円で購入しました。そこに蕪島前の製塩工場を移転し、更に新工場をつぎ足し従業員も逐次増加、佃煮、雑節、油鰈の処理、(魚肉、魚油、魚卵等を製造)いかの塩辛、目抜等の粕漬を生産しました。
堅実な倍増計画も順調に進み、二階は男子従業員の宿舎、下は倉庫の二階建の建物も造り、住宅金融公庫の借入れで自宅を建て、一部は事務所にしました。工場も手狭になり逐次増築、更に事務所も新築しました。土地も隣接地一〇〇〇坪程借り乾燥工場に使いました。
事業も順調に進みましたので、昭和三十一年四月二日個人資産、負債を包括引継ぎ株式会社武輪商店を設立しました。資本金は五百万円でした。第一期の決算もまずまずの成績で株主配当も二割出来ました。当時水産加工業界のなやみの種は、冷凍冷蔵設備の不足でした。加工原料を冷凍保管し、魚が切れた後の原料確保が出来なかった事です。加工専業者はまだ冷凍設備を持っている業者はありませんでした。八戸魚市場等設備のある業者に冷凍を頼んでも、処理能力が不足のため思う様にはいきませんでした。それでも一年間(昭和三二年)の冷凍保管料支払額は三五〇万円に達しました。それで意を決し冷凍冷蔵庫建設にふみ切った訳です。借入金二千万円、返済各年度四百万円宛の五ケ年返済計画です。各年度支払う冷凍冷蔵経費を充当すれば返済出来る額です。

六、水産加工組合づくり
 事業も漸く軌道にのり、業界の事を考える余裕が出来、真先に考えた事は何故水産加工業界には、組合がないのだろうという事でした。個々の力では出来ない事でも、多数の人の力を合わせば出来る、組合をつくり仕事をすれば、めいめいが更によくなる筈だと思いました。夫々の人達に意見を聞いた処、組合をつくっても幹部の人達だけが組合を利用して、得をするのでメリットがないと言う事でした。それでは幹部の人は組合の為に、奉仕をする心構えでやればよいだろうという事で、当時の水産加工専業者の人達に話しかけ賛成を得て、昭和三十二年八月八戸丸水加工協同組合を設立、事務所を当社におき役員は無報酬、経費もかけない方針で発足しました。
 当時は未だ北海道に鰊がとれていましたので、漁船を二隻チャーターして鰊の共同買付をしました。それを組合員に分配して加工しましたが、北海道方式の身欠ではなく、一尾から二枚のフィーレにし、一夜干にして東京に出荷しました。北海道では身欠にしていましたが、一尾から腹を欠き固く干して出荷していました。日待ちをよくする為に水分を取った訳ですが、魚は鮮魚のままが一番おいしくて、水分をとり干す程にまずくなるのです。八戸の地の利を活用して、輸送時間が短くてすみますから骨をとり二枚のフィーレにし、余り乾燥せず出荷したのです。果して好評を博し高く売れました。次にいかの塩辛の製法も皆で共同研究し、これも函館の塩辛の製法を改良し、用塩量を減らしました。
容器の共同購入、機械も村上機械(現在の南部クボタ)と共同開発、量産化をはかりました。夫々の努力で販売先を開拓、当社でも最盛期には一日に貨車積三車を出荷しました,いかさきの省力化を考え、廻りに楕円形のコンベヤーで函入りのいかを供給、中にさき手が五十名入り、さいた身、足、内臓を夫々のコンベヤーで回収する装置も作りました。年に一度、組合員一同が北海道をはじめ各地を視察、視野を広めました。組合をつくりよかったと思いました。いかも次第に多く取れ出しました。当時は冷凍設備も少なく、七十%以上鮮魚出荷をしていました。それも貨車輸送が主力で、入車数も中々追いつかず氷をかけ市場に積止めが増えました。
 遂に水揚げしたいかが売れず、値段も極端に下落し、私も一函二円で三千函入札したのが当り、尚二千函残り全部引取ってくれとの事で、一函三円に仕切直して五千函買った事があり、今でも覚えて居ります。それからが大変で毎日増し氷をし、一日千函宛、塩辛といか節に製造し、五日間かかり処理しましたが、氷代と鮮度低下を考えると無茶な事をしたものだと反省させられました。それから余分の魚は買うものではないと、随分勉強になりましたが、今でも時々余分の魚を買い後始末に苦労しています。
 次に三次加工して、付加価値をつける事を考えました。八戸はいかの水揚げ日本一といわれ、大量に水揚げされますので、大量処理をする為、兎角一次加工を主にして来ましたが、付加価値をつける為には、三次加工をしなければなりません。当時は珍味加工と言っても、調味したいかを一枚宛鉄板で合わせ焼く程度でしたが、主として消費地でスルメからサキいかが作られていました。乾したスルメの皮をむき、耳足をとったものを調味して焼き、機械でさいて居た訳ですが、固くて老人や子供は中々食べづらいものでした。いかの産地でわざわざスルメに干してから、サキいかを作るのは如何なものかと考え、鮮いかのつぼ抜きを六十度の温度で、ボイルすれば皮がむけるのを利用し、鮮いかから皮をむき調味し、乾燥機で干し、ロースター(上、下の鉄板を回転させ併せて、上下より熱し焼く装置)で焼き、サク方法で作って見ました。消費地に送った所、やわらかくて万人向けだと好評を得ました。採算もよく、珍味組合(昭和三十九年四月発足)の組合員に製法採算点等説明し、皆で作ろうと提案しました。組合員の一人が、皆に教えてはもうからなくなるから教えるなという意見がありましたが、現在のスルメからのサキいかは、全部新しいサキいか(ソフトサキ)になるから販路は全国に拡がるし、皆でつくればそれだけ宣伝になるから心配はないと説得し始めました。所がやはり量産したいという考えがあり、半製品のまま出荷する組合員が続出、ダルマ(耳足をとり調味、乾燥機で干したもの)のまま出荷する様になりました。
当社は白サキ、後に皮つきの製品もつくり、黄金サキとして最盛期には新潟へ貨車積する位になりました。ダルマ出荷は大畑や函館迄出荷する様になり、遂に予想した通り全国中スルメのサキいかは姿を消しました。
 サキイカ製法に関して思い出の一つは、昭和四十一年八月十四日三笠宮、同妃殿下が御子さま同道でサキイカ工場見学に見えられた事です。珍しそうで熱心に、見学された事を思い出します。
 一方鮮魚出荷に、水揚高の七十%迄依存していた八戸の水産業界も、冷凍冷蔵の設備が増大し中央大手日冷も、大型冷蔵工場を新設する事になりました。当時の岩岡八戸市長から地元以外からの大手業者の設備投資の可否を聞かれた事を覚えていますが、その時に私は「水は低い所に流れるが、魚は高い所に集まります。大手の方にどしどし設備を作って貰い、技術も導入し業界こぞって付加価値をつける事に励めば、八戸の水産業界の前途は洋々たるものがあります。但し、その為には水揚場を増設し県外船の誘致を受入れる様にして下さい」と言った事を思い出します。鮫の第一魚市場から湊の第二魚市場、後には館鼻の第三魚市場と市場設備が拡充され、増大する水揚が処理された訳です。冷凍冷蔵設備も日本有数の収容力を備え、年間加工の原料を蓄える事が出来ました。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 9

 首をかけて檀家室賀氏を救う
 明治元年(一八六八年)穆山師四十八歳となる。幕使、勝海舟時代の激流を察知し、智能く、西郷隆盛の豪勇を制して江戸城を無血で開城し新時代の夜明けとなる。
 穆山師、宗参寺の住職となり七ケ年の星霜を重ね、檀徒の信頼上下を通じて絶対となる。
 ここに、幕末明治の激動の余波を受けて、あわや首をはねられんとした事件が起きた。
徳川家三百年の恩顧を受けた保守的純情派の一部が遂に上野の森にたてこもり、新政府に一矢を報いんとして立ちあがった。これが彰義隊の乱である。既に前年慶応三年に徳川慶喜が朝廷に政権を返上申し上げ、今年、更に勝海舟が戦わずして江戸城を官軍の総将、西郷隆盛に渡した後であるから、物の数でなく且つ問題にならずに無駄な犠牲を出すにすぎなかった。この彰義隊に参加した宗参寺の檀徒、室賀甲斐守は追われて宗参寺に逃げこんで来た。檀徒に信頼されている穆山師、とっさに本堂の須弥壇にかくまった。追う官軍、およそ二百余人が宗参寺を包囲、七名が寺内に侵入し室賀の引渡しを要求した。
官軍「室賀は間違いなく、この寺に逃げこんだ。それを見て知らせた者がある渡してもらおう」
穆山「いや、室賀は居らぬ」
官軍「おらぬ筈はない。家捜しをするがよいか?」穆山「家捜しするとな、僧侶たる私の言うことを信ぜず、家捜しして居らぬ時は何とする。全員   腹かき切ってわびをするか」
官軍「生意気な坊主だ。室賀の代りにお前の首をはねてやろう、室賀を出すか、お前の首を   出すのか」
橋田「よかろう。居らぬものを渡すわけにはいかぬから、私の首を渡そう」
官軍「よし、それでは」と刀を抜いた。
穆山「持て、待て、私はな、生来酒が好きでな、冥土の土産に酒を飲ましてくれ」
官軍「よかろう。」
穆山台所より一升徳利を持参し、官軍代表七人の前に坐禅をくんで、チビリチビリ飲み出した。これを見ていた一人が舌なめずり。穆山、すかさず、
「貴公も一杯どうだ」
と杯を差し出す。思わず手を出して杯を取る。穆山、すかさず、さっとなみなみとついでやる。官軍うまそうに飲みほす。貴公も、ともう一人の隊長らしき者にも飲ませる。ここで穆山しめたと思い
穆山「貴公達、拙僧の首は差しあげるから、話しを聞いてくれ。」
官軍「よかろう。」
椎田「諸君が朝廷に御奉公する義心も、室賀が徳川家の家臣として長らく恩顧を受けた徳川に殉ぜんとするのも、忠義、義心に於て変りはない。貴公等の目指しているこれからの新日本建設は逃げる者は追わず、弱き者は前けてやった赤穂四十七士の義士の精神によらざれば出来ない難事業であるぞ。その精神の提唱者山鹿素行先生がそこに眠ってござる。まあ、私のいう真意が分ったら、何時でも首を持ってゆくがよい」と泰然自若として死線上の説明をなし終えた。
官軍達「この和尚、どえらい和尚だ。後日何かの役に立つだろう。」といって立ち去った。
 この事件が縁となって西郷隆盛が西有穆山を知る事となり、しばしば会見している。こうした事もあって、文明評論家の哲学者田中忠雄氏は、明治の三傑として、明治天皇、西郷隆盛、西有穆山の三人をあげている。
    
故郷八戸に対する慈悲報恩行始まる
 明治二年(一八六九)穆山師四十九歳となる。故郷八戸糠塚の光竜寺に西国三十三ケ所霊場の代替巡礼観音として、この年寄進した三十三観音像が現在も光竜寺本堂前の観音堂に整然と安置されてあります。穆山師は親孝行に於て有名であると共に非常に観音信仰に篤い方でその証拠が開山の寺、八戸市光竜寺様にも遺されていることは有難いことであります。穆山師は眼蔵の大家であり、坐禅の権威者であったから、近寄れない、いかめしい冷厳一徹の人と思われ、又、やかまし屋という印象が強いのですが決してそうした片輪者ではありません。人情に厚く、義理に強い、弟子愛、故郷愛がみちた方であったことは、これから述べる鳳仙寺時代、可睡斎時代の勝跡に出て参ります。

鳳仙寺時代
殺されても袈裟は捨てぬ
 穆山師は明治五年(一八七二)より同十年(一八七七)まで約六年間、群馬県桐生市梅田町の鳳仙寺に住職している。この時代は、穆山師に取って特異な時代である。
 人間は政治の中央に居れば、自分の力量以上に評価されポストも与えられ出世するものでありますが、穆山師は、東京の中心にある宗参寺を去り、群馬県の田舎町、桐生の鳳仙寺第二十五代目の住職として都落ちしたのである。都落ちした穆山師は、世の常識的軌道に乗らずに、逆に中央の要職に引っぱり込まれています。これも穆山師の偉大さを証する一つと思います。
 慶応四年三月十三日、新政府によって発布された「神仏分離令」(仏教教団の組織の中に含まれていた神事、神祭を分離し独立させ、神職の宗教的並びに社会的位置を高める為に発布した悪法令)が爆発の発火点となり、廃仏毀釈の気運を全国的に広める暴政を取るに至った。これは、水戸学や、平田篤胤の学風をうけた国粋主義者及びその影響下にあった政治家の行き過ぎであった。彼等は国民の心の糧となっている仏教を異端視し、邪教視して、神道の国粋性、(それは合理性でも合倫理性でも、合普偏性でも、合国際性でもなかった)を高揚し、仏教組織を行政の強権を以って圧迫し、仏堂を破壊し、仏像、仏具、経典を焼き払い、僧侶に「祝詞」をあげることを強要し、或は還俗を勧告し、大寺院の山門の前に鳥居を立てて神社なりと称して強奪する等現代の中国政府の文化革命や、統一新ベトナム政府の保守系僧侶の洗脳政策の人道的で、妥当な宗教政策とは比較にならぬ野蛮的暴力的狂乱政策を敢行したのが明治政府の廃仏毀釈の実体でありました。その悪性が大正時代となって、自由民権思想によって、影をひそめていたが昭和の初頭より再び、その極悪性を継承した日本の軍部及び右翼の政治家達が遂に日本を滅亡の大戦争に追いやり、「貸家(占領米軍駐留)と唐様に書く三代目。」(明治、大正、昭和)の憂き目に遭わせるに至ったのであります。
 穆山師は、こうした狂言的暴力行政の源泉である、神道国教主義者と能く戦い、能く説服して、仏教の破滅を防ぎ、自由主義、国際協調主義、博愛平和主義の新仏教、正法確立の先駆者として活躍したのが桐生の鳳仙寺時代であります。
 明治五年三月十四日、政府は、教部省を設置して、宗教政策を強化したのでありますが穆山師は、この年、牛込の宗参寺住職を辞し桐生の鳳仙寺(別格地寺院)に転住せられ、政治的大活躍をせられるのであります。穆山師のこの動きを正当に判断する為に、明治政府の宗教政策の内容を知る必要があります。教部省を新設した政府ぱ、その所管の事務を、
一、社寺廃立及ビ祠官僧徒等級格式等ノ事。
一、教義ニ関スル著書出版免許ノ事。   
一、教徒ヲ集合シ教義ヲ講説シ及ビ講社ヲ結ビ候者免許ノ事。
一、教義上ノ訴訟ヲ判決スル事。
の四条を定め、これを各宗派の事務局に通達し、且つ、従来の仏教の十三宗五十余派を勝手に七派に滅少し、その官製七派に官長一名を置くことにした。即ち天台宗は三派を合同、真言宗は十一派を合同、日蓮宗は七派を合同、真宗は九派、時宗は一派で合計で七派に強制統合して、有無を言わせずに仏教各宗派を弾圧したのであります。
 従って禅三宗十六派では合同で一人の管長しか持てなかったのであります。即ち禅宗管長という名の下に、明治五年十月三日より同六年三月三十一日までは、臨済宗の天竜寺住職滴水宜牧師に、曹洞宗、黄壁宗をも管理指導させ、又明治六年四月一日より同七年二月十九日までは、曹洞宗永平寺貫首久我環渓師に臨済宗も黄壁宗も支配させているのであります。こうしたことは到底長続きするものではありません。各宗派の不満、不平、攻撃にあって、一年四ケ月の短命制度で終っております。
 政府は、明治六年五月に神仏合併大教院を開設して、神職と僧侶を教導職となし、三条の教則を説くことを本務として体裁を飾ったが、それは、仏教と僧侶という名のみを残して仏教の精神を皆無にしたものを機械的に政府の御用精神を国民に伝達する機械人間にすぎなかったのである。その布教の目標を見て唖然とします。それは、仏教各宗の宗旨を説くことを禁止し、僧侶否全宗教者が時の為政者の誤れる政策を吹奏するテープレコーダーになれということです。
   三条の教則
一、教神愛国の旨を体すべき事。
一、天地人道を明にすべき事。
一、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむる事。
の三条でありますがこれを当時の国民道徳の範囲で説いて、日本の国体の尊貴を知らしめ敬神愛国の精神を高揚するよう協力してほしいというなら理解出来るが、仏教伝道を生命としている僧侶に対して絶対仏教を解くなというのだから承服出来ない。
 低級な政府の伝達講演をやって居れば無難であるが、少し高尚な比喩なり、学説を仏典の中から引用しても問題とされ、県令(県知事)より教部省へ上申され、教育職を免職すると強迫したのであるから気骨のある者は黙っておれず、衝突することしばしばであり、各分野から猛烈な反対運動が起り、遂に教部省は僅か五ケ年の短命で明治十年に廃止の憂目をみるに至ったのであります。
 こうした時代の激動変化期にわが穆山師の不惜身命の活動が生まれたのであります。今、その主なるものを二、三あげますと、穆山師は、明治六年五十三歳の三月に教部省の召喚に応じて上京し、いろいろ話し合いの結果、教導職中講義に就任し、継いで大講義に昇進しております。
 これは、外部で遠吠えしているよりも内部に入って直接阻止するなり、改革した方が賢明であり、早道であると思考したからであります。
 穆山師は、明治六年一月には、禅三派(普通、禅三派というが、曹洞宗、臨済宗、黄壁宗の三宗を呼ぶ時は禅三宗というべきだ)より選ばれて、大教院議員となり、政府の非道な廃仏毀釈の暴力政策に徹底的に抗戦し、その誤まれるを是正せしめた。
 特に僧侶の法服、即ち袈裟をかけ、法衣を着ることを禁止して、一般人と同様の着物を着用せよと議決した大教院の院議をやり直しさせ従来通りでよしとしたのは、穆山師の活躍によるとされている。穆山師は「他はどうあれ、私は殺されても袈裟をかけ、法衣を着る。」といって頑張ったのであります。
 明治六年三月には、大学八大区末派寺院説諭教法調査に任ぜられ、又神仏道各派管長の依嘱を受け、宗教調査の大任を托せられた。同四月に、権少数正に補任され、両大本山代理を命ぜられ政府の宗教政策に対する曹洞宗の代表者として活躍した。
 又、「護法用心集」を発刊して政府の廃仏毀釈の非道を批判し、正法の護持と僧侶の大反省を求めて大警鐘を鳴らした。
 又、同年九月には北海道巡教を拝し、同十一月大本山大会議議員となり、宗門行政の大綱を統置したのであります。
 穆山師は、明治十年四月、静岡県の可睡斎に転住するまで、鳳仙寺住職として、又政府の大教院の教導職として出でては廃仏毀釈の暴政に抗戦し、入りては仏教界の進路を明示し、又仏教信徒の教化開拓にと輝ける大活躍をしたのであります。
 北海道巡教と札幌市中央寺創立も亦、この時代の壮挙であります。
 観音菩薩の御冥護
 明治六年(一八七三)五十三歳となる。この年十一月、教導職第三位中教正に任ぜられ、曹洞宗管長代現として翌七年八月に北海道開拓の為、渡道することになった。
 穆山師は渡道に際して、師の帰依者である横浜の広島屋に一泊して旅装を調えたのであります。翌日、いざ出発と乗船の時刻を聞いたところ、船は既に一時間前に出帆したとの報告、穆山師、怒髪天を衡くの形相で、
 「今度の渡道は私用でない、公用だ。宿屋根性を起して二泊もさせようと考えたであろう。不届き千万、無礼者」
 穆山師の声は生来大きいのに、口宣策励(言葉にだして励ます)の叱声は広島屋の主人をふるえあがらせた。
広島屋「申し訳ありません。老師様の御宿りが有難いので、のぼせてしまいまして……。」と額を畳につけて、平あやまりにあやまって、老師の御海容(かいよう・寛大の心を以て、人の罪過をゆるすこと)を願ったのであります。
 翌日、乗船出帆し、金華山沖にさしかかると「昨日横浜を出帆した船が暴風雨の為に、木っ葉みじんとなり、船客全員海底の藻くずとなってしまった」と聞きました。
 穆山師は、行季の中に入れて来た観世音菩薩の尊像に向い、「御慈悲を賜わり、御冥護(みょうご・神仏が知らず知らずのうちに守ってくれること)と深く感謝申し上げると共に合掌して遭難者精霊の御冥福を祈ったのであります。               
 広島屋の、のぼせが変じて観世音菩薩となったのであります。
  札幌中央寺建立
     (札幌市南条西二丁目の一)
 海上無事に北海道に上陸した穆山師は、北海道開拓使庁判官松本十郎に会見を申し込んだのであります。判官はクリスチャンで大の仏教嫌いであったから、「まだ宗教家が入るには早い」といって、玄関払いしようとした。穆山師は、「ハ、そうですか」と引きさがるような不見識ものではない。「旱いか、旱くないか、意見を交換してきめたらどうだ」と強く会見を交渉し、遂に松本十郎判官と十日間の長きにわたって、問答激論を闘わし、政治、経済、教育、開拓、宗教等の百般にわたる意見の交換で、悉く判官の敗れるところとなり、判官は穆山師の人格と学識と熱烈な開拓精神に心服して、遂に無二の信者となり、判官自ら寺院設置の敷地壱万坪を選定給与して、小教院(大教院、中教院、小教院は明治政府の機関)を建立せしめ、北海道の精神開拓の根拠とさせたのであります。
 当時の札幌の周辺は人心未だ安定せず、また諸藩の武士や、旧幕臣や、北陸よりの移住者が多く、それらは曹洞宗の信者が多かった為この小教院に集合する者、日毎に多くなり、中教院に昇格した。後の札幌の中央寺がこれであります。穆山師随身の門下僧小松万宗師が主管となり、明治十年組織を改めて寺院となし、十一年から三ケ年に亘り本堂その他を建設して、明治十五年に中央寺と公称したのであります。而して、鉄道布設と墓地の移転が行なわれた為、明治二十一年転地を企画し、同二十三年十二月十七日許可を得同二十五年九月現在地に移転したのであります。
 そして、敷地が壱千六百二十坪に縮少されてしまいましたが本堂と庫院に加えて最近立派な位牌堂が建立されたのであります。今では文字通り宗門の名刹であります。
 穆山師は、自ら開基となり、親交厚かった当時の大本山永平寺貫首久我環渓禅師を拝請して開山となし、大本山永平寺様の直未寺院としたのであります。環渓禅師はこうした穆山師の思議に厚く、開拓の功績と眼蔵研究の功労に対して、明治十四年九月二十八日付を以って、宗祖道元禅師の御霊骨三顆贈与の最大の表彰を以って報いたのであります。
 穆山師は、明治初頭の大激動期に於て、仏教界内外に対して、自信に満ちた護法顕正の大活躍をせられたので、道誉益々あがり、遂に明治十年四月、東海の名刹可睡斎に懇請され、その住職となり、拾万石の「御前様」の待遇を受けることになったのであります。

東奥日報に見る明治三十四年の八戸及び八戸人

階上銀行楼上に開き年一割の配当を決しそれより臨時総会に移り取締役一名欠補選挙を行いたるに大久保平蔵氏当選せり今同行の報告に係ある昨年下半期営業の景況は左の如し
学生蓄金所謂郵便切手貯金励行あるを以って往々小口貯金は振り替え預けを為すあり其の人員に於いて前期より比較的増加せざるの異状を発せり殊に壱再の勧業債券募集に際し幾分かその景況を蒙りたるの感ありしも概して勧債貯蓄の美風発達せる結果にや当座預金は日を追うて増殖し今や本店にて一万六千余円に達し代理店中三戸にて壱千余円七戸は三千余円三本木は開設の日浅きと赤痢流行に遭遇し甚だしき支障を受けたるも五百余円の額を得たり普通銀行に於いても月を累ねて諸般の事務進暢しつつあるは全く世信を厚うせしによるならん而して優に前例に倣い一割以上の積立金と配当金を挙げるに至れり
五十九銀行支店の祝宴
第五十九銀行にては青森銀行と合併し且つ青森支店改築工事も竣工せしを以って来る二十七日午後一時より同支店に於いて祝賀の式を挙行し終わりて午後四時より金森楼に於いて宴会を催す由
八戸だより
既に通信ありたることとなるべく重複の嫌い可有之候得共見るまま聞くまま申し上げ候先ずは教育品展覧会に候是は本月十三日より十六日まで開きし次第にて三戸郡教育会の事業として本年は八戸郡会是が選にあたり八戸尋常高等小学校を会場に充てたるを以って出品の誘導寄付金の募集内外の装飾陳列配置監督に至るまで専ら八戸小学校の教員諸氏労をとられ候由門を入りて右方に地理模型を造り宛然三戸郡の地形に象り名久井岳階上岳鮫蕪島市街村落より岬角灯台隋道電信より山川湖水森林田畑に至るまで悉く数坪の中に具備せしめ左方は御慶事記念の為植えたる竹林を利用し孟宗雪中の筍堀りを作り前には大灯篭大額面外国旗数百の球燈を掲げ外部の装飾のため一層景気を添えたる様見事に出来候校内を十一区に別ち第一区教授器械乃ち八戸小学中学校理化学機械及び博物標本地図統計表の類頗る有益のものを認め申候第二区は古器室にて旧藩主南部公の出品武具文房具画幅類にして朱沈金机梨地蒔絵の書棚の牡丹に探幽の官公など世に得難き宝物のみ又八戸青年会の物も陳列。(中略)
次に八戸お祭りさわぎ 八戸警察署より禁止の命令に接したるより消防組一同激昂し総辞職を決議し夫々調印済みになりたるを遠山町長仲裁の労をとり結果思いとどまる事になりたれども届け書は未だ其の手元にありとの事、市中の混雑群集は申し分なく殊に当時は農家も閑暇季節方々遠近在よりの入り込みたるもの非常に多く市中の夜宮は軒提灯は勿論種々の飾りつけ等有之長者山にては神楽打球の催しあり旧藩主南部子の来八中なるを幸い招待して一層賑やかその他神明社内相応の賑わい盆踊りにて徹夜せしもの多く警察署の見込みにては例祭(即ち市中を行列して神輿その他山車挽き廻る)を禁止すれば他国よりいり込みなく宮祭りにて氏子ばかりの参拝にとまると思いたるに予想外多数人の入り込みたるには一驚し例祭を禁止したる功能少しもみえず賑わいは警察において宮祭例祭との区別なく例祭禁止については市中の風説種々あり中にも消防連はやぶれかぶれに神輿をかつぎ警察に一泡ふかせんとの説を聞き警察は大にあわてて各消防小頭に巡査を派し其の景況を探らしめ一方には宮総代人を呼び出し説諭しに一同は寝耳に水と更にそれらの計画なき事なればその旨答えたるに警察もやや安心したるげに尤も石黒署長不在にて次席野呂警部の意見なるべくも警察はよほどあてにならず
八戸肥料製造会社開業式
農業の生産力を増加せしむるは適当なる肥料によらざるべからず近時海外輸入肥料の数量驚くべく増加したるは即ちこれがためなり而して農業経済上肥料は其の成分の良好なると共に其の価格の廉なるを要す是れ今回同地有志者の興したる所為なり何となれば同社の肥料は牛馬骨及び魚骨その他の廃物を利用したるにして原料は極めて廉にして且つ豊富なれば同社の創設は県下有志の賛同を得予定の資本額を増加すべきまでに好況を呈したるも製造の時期に切迫したるを以って先ず最初の予定額を以って組織することとなり工場を舘村に設け諸般の設備既に全く完成せるを以って去る四日午後二時より湊の北越亭において開業式を挙行せり今其の光景を略記せんに式場は緑門を作り国旗を交叉し楼上めぐらせる幔幕を以ってし尚屋上より数条の縄を張りて数多の彩旗を翻し場外の光景人をしてこの日の盛況を予想しむ式場は楼上をもってこれに当て正面には演壇を築き一方には幔幕を張りて舞台を設け余興の準備をなし定刻よりは来賓続々として場に満ちぬ県庁よりは岡書記官、中村技師、清水、中村二県属、松野技師らを初めとし各銀行会社長、県議会議員、郡会議員その他の有志百余名午後二時社長石橋萬治氏は式辞朗読
明治三十四年三月四日
石橋萬治、岡書記官の発声にて明治天皇万歳を三唱し式を終え舞台には三番叟及び多数の手踊りあり後略
明治三十四年七月二十七日付け
自転車の旅行
八戸の橋本八右衛門氏は昨朝七時自転車にて八戸出発野辺地一泊昨朝七時同地出発浅虫に立ち寄り入浴の上昨日午前十時当地着昨日弘前一泊其れより能代秋田山形仙台を経て来月一日八戸へ帰着する予定という
八戸の浮浪の徒の頭領なる福田祐英を初めとして三戸郡湊村大字浜通川村留吉(四一)同七太郎(四四)三重県伊賀郡美の波多村字東田原福田誠造(四十)の四名は恐喝にて八戸より青森へ一昨日廻される
八月十一日
一昨夜来の地震
南部地方 八戸、十日午前三時三十七分激震家屋破壊せり微震強震共前後七回あり
汽車不通尻内沼崎間は線路の破損少なからず橋梁落ち為に汽車は不通となれり又沼崎野辺地間所々に小破損を生じたる為に昨日は尻内野辺地間は汽車の運転を停止おれり
鉄道被害
尻内駅 機関車は大破壊し屋根落ち修繕の見込みなし機関車二台破損せり石炭庫も大破損したれども修繕の上再び使用するの見込みありと社宅の破壊最も甚だしく中にも合宿所は棟梁等落ちたれども死傷なし
八戸町の被害
八戸町に於ける被害の概況は前号に記せしが尚各戸の壁及び戸障子は多少の破損を来さざるはなく瓦屋根は概ね破損せり而して被害の箇所は当時亀裂と思いし所は破損を増し、今回の損害は主に土蔵に多きを以って左官人夫の欠乏夥しなお警察署にても硝子洋灯門灯に破損あり月館末太郎方住家倒壊の際は末太郎母及び妻の両名は潰家の下に圧せられたるを警察署員直ちに駆けつけ之を救助したる為無事なるを得たりと
八戸地方 八戸にては男一名女二名は打撲傷を負いしも何れも軽症なり家屋破壊は五棟にして外火災に罹りし工場(煉瓦製造場)一棟、破損家屋は三十九棟にて同じく土蔵は二三八棟の多きに達したり
八戸における大隈氏
東京専門学校の大隈英麿氏一行は過日野辺地より八戸に立ち寄られしが八戸に於いても第二中学校に於いて講話会を開き終わりて懇親会を開く計画にて夫々準備中のところ折悪しく震災のため中学校も破損して混雑を来たし且つ市中一般に損害多しと言う騒ぎなれば大隈氏も遠慮して氏の方より講話及び懇親会を断りたり只若松旅店にて発起人たりし人々及び主立ちたる人々来訪者に一席の談話をなして帰京せりと当日その席にありしは階上銀行頭取大久保平蔵、同取締役関野市十郎、泉山銀行頭取泉山吉兵衛、商業銀行取締役横沢新太郎、富豪橋本八右衛門、北村益、奈須川代議士、遠山町長、浅水郡会議長、重野第二中学校長、高野八戸高等小学校長、白井郡参事会員、各村長、町会議員、出発の際には南部家令諸氏も停車場まで見送りたる由
八戸の大祭と汽車
八戸にては例年の通り来る九月二日より三日間三社大祭執行の筈なるが昨年は流行病のため同祭りは中止となりしのみならず本年は世界一般に不景気の声喧しきも八戸地方の浜方は鰮の大漁にて漁民の景気一方ならず水陸とも豊作なれば是までの不景気を回復し商業を振るい起こすべき目的にて同町及び近村は非常の発奮にて例外の大祭行い大いに市中を賑わす筈なるが参観者の便利を計り来る九月一日より四日まで四日間青森より八戸盛岡より八戸までの両駅間における汽車賃割引のことを日鉄会社へ請願せりと
八戸郷友会
在青森八戸郷友会秋期第二回茶話会を来る六日午前九時より当市浜町山崎旅店にて開会するよしなるが委員長は浦山助太郎、委員は岩泉亀松、八重畑勝蔵、永田隆三、菊池寿輿、野田秀二の諸氏なりと在青森現在会員は四十二名

2007年10月1日月曜日

八戸選管駒田委員長県費不正使用、源泉徴収違反 2

前号に引き続き八戸選管のいいかげんな体質を暴露。投票用紙の検査がズサンであったことは、青森選管が示したとおりで、八戸選管に睨まれたらどんな議員でも当選はおぼつかない。吉田ひろじを吉田ひろしと書いても無効票だった。
 つまり、どんなに正しく書いても、無効だと言われれば抗弁できない。八戸選管が下した決定はくつがえさないからだ。吉田淳一落選が、票の再点検をして欲しいと異議申し立てをすると、中身の検査ではなく、投票用紙だけを数えなおした。漫才なら天然ボケでうけるところだが、娑婆世界では顰蹙(ひんしゅく・顔をしかめさせる)。だれが、投票用紙だけを数え直してくれと要求した。これを決めたのは選管委員長の駒場。この男の意向で総てが決まる。事務局長は玉田。これまた陰険の塊。
気に入らない人がいたときは、その課の金の流れを衝けばいい。かならず間違いがある。これは一○○%ある。しかし、丹念に見ることが肝要。この玉田、駒場の物言いが気に食わないので徹底的に調べた。
選挙は四年ごとにある。市議、県議、市長選、国政である衆参議員は別の年次計算があるが、毎年選挙があると思って間違いはない。
この選挙費用は県から出る。その金の使い方を情報公開で調べた。
すると、いいかげんな金の使い方をしていた。この県からの金は返す必要がない。使いきりでよいことに着目し、本来の選挙以外に消費した。選管職員がつかいこみをしたのではないが、選挙の前に金が送られてくることを勿怪の幸い(もっけのさいわい・思いがけぬ好機)とばかり、選管が働きかけて、八戸市役所内をメガホン片手に、欲しいものはありませんか、選挙の費用がまたまた、青森県から参りました。日ごろ、予算がない、買いたくても金がないと、お困りの課がありましたら、わたくしが通りすがりましたら、お手を挙げてお知らせください。毎度、皆様おなじみの八戸選挙管理委員会、選挙の都度、各課の皆様に、県費、県費をもって、欲しい品々を、無料、無料にて提供させていただきます。中央公民館さまにはコピー用紙、コピー用紙を三年分、無料、無料にて進呈いたしました。
このお金は八戸市民から頂戴いたしました、税金、血税を以って購入し、各課に無料、無料にて進呈するものでは決してございません。全て、全てを県から送られてくるお金、これは返金する必要など、指の先ほどもございません、市民の税金の無駄をはぶき、県を騙して各課の利便をはかる、とても巧妙、かつ合理的なものでございます。メガホン片手に各課を廻っております、御用の方は手を挙げてお知らせください。とても便利、青森県を騙しての特別サービス。毎度おなじみ選挙ごとの椀飯振舞(おうばんぶるまい・(「大盤振舞」は当て字) 江戸時代、民間で、一家の主人が正月などに親類縁者を招き御馳走をふるまったこと)です。
   こんなことは勿論言わないだろうが、選管が備品として購入したことにして、必要な課に差し上げたのがロッカー。そして、上の折りたたみ椅子・テーブル等々。出るわ、出るわ。
このロッカー・キャビネットの流れを解明。
これらは一旦、八戸選挙管理委員会が購入したことにする。実際はこの品物は要望した課に搬入される。購入した品物は備品台帳に記載しなければならないので、選挙管理委員会は備品台帳に当該の品物を記載し、備品管理シールを貼る。
この流れを解明するべく、情報公開の部屋(総務・旧館二階)から新館の五階、選挙管理委員会の部屋に行った。
備品台帳は? これです。
これにはテクノルから買ったと書いてあるが、この部屋の何処にあるのか、この備品台帳と照合できるのか
おかしいな、どこにあるのかな…、正直に申し上げます、これは資産税課にあります
すると、選挙管理委員会が県の金を騙して消費し、ロッカーを買った。それが、夜中にひとりでに資産税課に歩いて行ったのか?
……(無言)
そうではあるまい、県がこの選挙費の明細を求めないことをよいことにして、本来必要でないものまで買って、適当に分配したな
……(無言)
本当に資産税課にあるか確認する
ト、資産税課、同様の手口の財政課を廻り、本来選管になければいけないロッカー等を確認。この金は選管職員が私的に飲み食いしたものではないが、他の課の備品を代理購入した手口。
上の表では見難いが、テクノルの右に資産税課と書き込みが鉛筆でなされている。
当然、こうした不正を選管委員長駒場、事務局長玉田は知っている。知っていながら、それをさせるは公金不正消費で、この金は県に弁償しなければならない。
今回あばいている事件は平成十五年の青森県議会選挙においてだ。
こうした手口で県の金を騙し取っていたのだ。挙句、八戸市民の金でなく、県の金ですト。県の金でも国の金でも、国民の税金だ。悪いことは誰がみても悪い。極悪非道はこれをさす。
八戸市民の血税を使わず、県を騙して使ったんだから勘弁しろと言いたいのだろうが、そうはいかない。
こうした金の不正消費は八戸選管には沢山ある。読売新聞が報道した蛍光灯の問題。これも蛍光灯を多量に買い、公民館にくれたト。まだある、写真のフイルムを多量に買い、その現像料がメチャ少ないなど、金の流れを追えば、誰しも抗弁ができない不正が発覚するもんだ。
しかし、ある程度、経理感覚がないと、何を見てもノンシャランじゃ、不正を見つけることはできない。気に入らない人間がいたら、金の流れを追え。必ず不正が見つかるもんだ。どうも、八戸市役所は全てにおいていい加減な処理をしたがる。
旧館の地下に互助会が委託し物品販売をさせている生協がある。ここは前にも解明したように、市長が職員互助会長である市長に貸している。ここは毎月六十万だかの経営委託料を支払っている。つまり赤字でも六十万の毎月の援助があるというシロモノ。
ここは壁の中だけを借りているが、壁よりはみでて物を陳列する。そこは通路で、火事になれば万人がそこを走りぬけなければ焼け死ぬ。陳列する場ではなく避難路なのだ。そこに物をならべるなと再三通告。消防法違反で、事故が起きる前に検察庁に訴えると言ったら、やっと守るようになった。事故が起きてからでは遅い。小さなことでも守る姿勢が大事。市民各位も地下の生協の避難路への物品陳列を監視せよ。
次号はいよいよ、駒場委員長の所得税法違反事件解明の全貌。

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる1

唄に夜明けたかもめの港
船は出て行く南へ北へ
鮫の岬は汐けむり
八戸小唄あれこれ
昭和三十六年元旦 デーリー東北新聞
本当の作詞者 法師浜氏から聞く
八戸市の代表的民謡として全国的にうたわれている「八戸小唄」は神田市長と市政記者の合作とされてきたが、実際の作詞者は法師浜直吉氏である。一部の人は知っているが、当の法師浜氏もこのことについて、いままで一度も語っていない。作られた当時のいきさつについても誤り伝えられたりしているので、この機会に覆面を脱いでいただき、当時の事実を明らかにしておくことも意義あると思うので、同氏にお願いして「八戸小唄」について、あれこれ語っていただいた。(聞き手角田本社編集局長)
八戸の宣伝が端緒
発起人、作詞背負わされる
問い これ以上本当の作者の名を伏せておくことは市民感情も許さないと思います。ご無理をお願いするわけです。
法師浜 八戸小唄のことは、こんにちまで名前も伏せてきたのですが、きょうは表面に立って小唄のことを話せと言われますと、いささか恥ずかしいことです。三十年ぶりで覆面をひっぱがすことですね。
問い まず最初に作られた当時のいきさつは?
法師浜 市役所の記録によりますと、唄の発表は昭和七年三月になっているそうですね。私は当時東京日々新聞(毎日新聞)のここの通信部主任でしたが、昭和六年二月三日に鮫の石田家で「八戸を語る」座談会を東日の主催で開きました。まだ埋め立ても魚市場もなく、石田家の座敷の下に太平洋の波がひたひたと押し寄せているころでした。
出席者は神田市長、遠山市議会長、市会議員の石橋要吉さんや経済人三、四人、それに元芸妓の三平(石橋トラ)、芸妓才三(橋本こと)さんたち十二、三人でした。話は市の発展ということになりますと、なんと言っても八戸を世の中に宣伝しなければならない。それには「八戸小唄」でも作る必要があるという話になりました。この日の座談会の記録(東日青森県版の記事)を見ますとこう書いてあります。
菊池(東日青森主任)八戸小唄というようなものを作って、八戸市を紹介するということも必要ですね。
才三 それで私は考えております。八戸宣伝にもなりますし、市になった記念にもなるように、だれか名のある方に願って、名のある方の作曲で、八戸というものがピリっと頭にしみこむような唄がほしいのです。それで計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから、市長さん方のお声がかりででもやっていただくように願いたいのです。
三平 実際唄はたいへん宣伝になるものです。
才三 この辺でも、ようやく足が立ったばかりの三つの子でさえ「草津よいとこ一度はおいで」とやります。草津はよいとこか悪いとこかわからなくても、とにかく、歌われるだけ広く知られているのですから。
無名より有名で 神田市長と合作に
その年の夏だったと思いますが、座談会のときの小唄のことがなんとなく気にかかっていたので、神田さん(市長)に話をもとかけたら「よかろう。計画をすすめてほしい」ということです。当時も市政記者クラブがありましたので、その全員の協力をたのんだら、各社もこころよく賛成してくれたから、ある日、市役所の市長室で神田市長を囲んで打ち合わせをしました。記録はありませんが、この時は、工藤有厚(河北)三浦広蔵(奥南)下野末太郎(時事)峰正太郎(奥南)伊藤周吉(朝日)佐々木要市(はちのへ)角田四郎(八毎)、それと私と、ほかにもいたかも知れません。まず、作詞をどうするか、委員を何人かあげて合作にするかなど意見がありましたが、結局一人に任せた方がいいという話になり、法師浜に一任というわけで、発頭人が自ら背負ってしまう結果になりました。
神田市長が作った「鮫の岬」
作詞中のころ、ある朝、市長室に入っていくと、神田さんがニヤニヤしながら和服のたもとから一枚の便箋を取り出しました。
「歌なんて難しいものだね」と、小唄の歌詞の一節が書いてありました。
「これは私にください」と、ポケットに納めました。この中から「鮫の岬が汐けむり」の一行をもらって歌詞に織り込み、第一節にしたのです。才三さんの話ではないが、無名人よりは「名のある方」の方がいいのですから、出来上がった歌詞を市長にもって行って「市長さんの名前も出させてください」と言ったら「フフン」と笑ったんです。その「フフン」を承認と受け取り。のちにレコード吹き込みの時に、作詞神田市長・市政クラブ員と書いたのです。
野口雨情は「歌に明けたよ」
弱弱しいと「夜明けた」にする
問い 何かエピソードでもありませんか
法師浜 歌が完成して間もないころ、毎日新聞の当時の奥村信太郎社長が視察に来八したとき、車で鮫へ行く途中、どっかで八戸小唄の声がしているのを聞いて、案内の者が「社長、あれは法師浜君が作ったものですよ」とへんなところで暴露した。せっかく点数をかせごうとしているのに油を売っている尻尾を出してしまった。社長は黙って小唄を聞いていましたが、「野口雨情くそくらえか」とニヤリとしました。 その後、八戸の文人グループが野口雨情を招き、石田家に一泊し湊の館鼻まで私たちが案内したことがありました。野口さんは縞の着流しでトボトボ歩いていましたが、歩きながらたまたま八戸小唄の話になったら、
「なかなかいい歌だが、僕に作らせると唄に明けたよとするな」と言いました。私もなるほどと思いましたが、実は作った最初は「明けたよ」だったが、ある友人に明けたよという歌がどっかにあった気もすると言われたので、なんとなく気になって、そんな弱弱しい「よ」などよりは、もっと線の太い「夜明けた」に変えたのです。
とにかく、できた当初からなにやかやと話題になる歌でした。こうして歌の完成までかれこれ一年ちかくもかかったでしょう。
後藤氏 尺八譜で口伝
大きい芸妓連の協力
問い 作曲や振りつけなどでも苦心されたとうかがっていますが。
法師浜 そのころは新しい曲の小唄ばやりでしたが、神田市長が
「歌はやはり古い民謡調でなければ長持ちがしない。仙台放送局の嘱託で後藤桃水という民謡研究と尺八で知られている人がいるから頼んでみよう」と言うことでした。後藤氏も引き受けてくれました。この人は民謡の歌い手の上野翁桃君の師匠とかいう話でした。
問い 最初に曲を聞かされたとき、どう思われましたか。
法師浜 曲が出来たというので、後藤さんがやってきました。踊りの振り付けとして吉木桃園という女の人を連れてきました。後藤さんは、ちょっと白いもののまじった長いアゴヒゲを持ち、体格のがっちりした剣道師範のような感じの人で、吉木さんは背の高い袴をはいた学校の先生のような方でした。
この歌をつくるために石田家の主人、石田正太郎さんが一役買って「小唄つくり」の会場を引き受けてくれました。まず鮫と小中野両見番から芸妓代表の人たちにきてもらい、上野君にもきてもらって「小唄のおさらい」をはじめたのです。作曲といってもこんにちのように普通の譜面ではなく、尺八の譜をもってきて、後藤さんが手拍子をしながら歌うと、みんながあとについてまねるといった、あまりにも古典的すぎる方法で、いわゆる口伝練習だったのです。洋楽の譜面などができたのはあとのことです。後藤さんが言うには
「作詞者にまず聞いてもらい、気にいるかどうかで、まずいところがあれば変えましょう」というので私と対座して歌い出しました。一節を聞き終わって、私は正直のところ心の中では直ちに拍手を送る気持ちになれませんでした。せっかくの作曲者のお話でしたから、ちょっと気にかかるところがありましたので、変えてもらいました。
それでOKということで、練習が始まりました。誰もいいとも悪いとも言いませんでしたが、石田さんだけは「ウン、これはいける」と言っていました。だんだん聞き慣れると、波の感じを出していることや、作詞を忠実に表現しようとした苦心などがわかってきて、歌い続けるうちに、みんなの「わが唄」に変わってきました。
これは三味線をつける曲ですから、三味線はさすがに餅は餅屋で、芸妓諸君は後藤さんと協議しながらその場で直に曲ができた。その晩のうちに振りつけもやった。これも芸妓諸君の協力で作りあげたのです。
歌詞は最初四小節でしたが、稽古中にみんなに「四は数がよくないので、五にしてください」と言われ、そのころスケートも加えて欲しいという希望もあったので、その場で、石田家の帳場で第五節をつくって追加し五つにしたのでした。
神田市長仲裁に
売れ行き良好 レコード会社喧嘩
問い さて、出来上がったというので、宣伝にも力を入れたわけでしょうが、どんなふうだったのでしょう。
法師浜 地元の小中野、鮫の料亭の宣伝はもちろん、神田市長はなかなか力をいれ、まず東京日東レコード会社に交渉してレコードをつくらせるし、仙台の放送局からも放送させました。
レコードは会社負担で最初千枚作ったそうですが、のちに数千枚売れてローカル盤としては記録破りと言われたものでした。放送もこんにちのように放送局から出張して簡単にテープに録音するといったわけにはゆかなかったんです。レコードを作るにも放送をするにも、歌、三味線連中を選抜して稽古をしたうえで、大勢で東京や仙台へ出張したわけです。芸妓諸君でさえも、みんなおぼえたつもりでも、いざレコードに吹き込むとなると、ふだん歌っているのと違って固くなるし、なかなかうまくゆかない。「本番OK」まで何回も稽古を続けました。
妙な話ですが「一任」はただ作詞だけのつもりでしたが、踏み出してみると途中でやめるわけにはゆかない。こんなことをしていたら新聞社からクビになりはしないかと、ビクビクものでコソコソと石田家に通ったわけです。
当時中心になっていた見番の人たちは。鮫は才三、かの子、梅太郎、まり子、小中野は三吉、粂八、まる子などといった顔ぶれと記憶していますが、小唄に関しては、たれかれの区別なくみんな熱心にやりました。時にはレコードの売れ行きがいいためか、レコード会社が製作競争してケンカになり、そのシリを市役所に持ってきて、やむなく神田市長が東京へ出かけてレコード会社の仲裁に立ち、おさめたという一幕もありました。
成長ぶりに思わず涙
くずれてきた節だが本場は立派
旅暮らしになつかしい歌
問い 作者である法師浜さんは県外に出られ、そこで八戸小唄が全国的に歌われてゆくのを見ておられたわけですが。
法師浜 私は昭和十三年からは旅に出ましたから、その後の郷土の様子はわかりませんが、思うに郷土のみなさんがみなさんで「わが唄」という郷土愛が大きい力となってひろがって行ったのだと思うのです。
旅から旅に暮らし続けてきた身にとっては、ふるさとの歌を聞くこと、こんな懐かしいものはありません。いつか常磐線の上り列車の中で隣のボックスにいた三人連れの中年紳士が、額を集めて手帳を出し、小さい声で唄の練習を始めました。それがなんと八戸小唄でした。八戸から仕入れてきたばかりの唄を復習しているらしい。すぐ側で見ていて私は思わず一人笑いをもらしました。ときには八戸小唄を聞かせてくれた人もありました。
近年のことですが、コロンビア会社で八戸小唄を作り変えた「つるさんかめさん」問題は当時私は東京にいて郷里の騒ぎをよそごとのように見ていましたが、東京でも話題になりましたし、このとき「八戸小唄」が新たに名を売ったことは事実でしょう。
問い 最近の感想は?
法師浜 歌が出来てから三十年になりますから、最近は節が崩れております。東京の人が吹き込んでいるレコードの中にはひどいのがありますし、有名な歌手も多少の崩れがあります。
私は去年の八月、二十三年ぶりに郷土に戻りましたが、驚いたことには、さすがに「わが唄:だけあって、本場の八戸小唄は立派に育っていると思いました。
去年の秋の運動会のころ、学区運動会前夜祭とかいう踊り大会を柏崎小学校へふらりと出かけてみたら、広い校庭いっぱいに、おとなも子どももそろって八戸小唄を踊る立派さを初めて眼の前に見て、ただなんとはなしに頬の濡れるものがありました。
法師浜氏略歴
八戸市出身、毎日新聞入社、盛岡、新潟支局長、北海道総局長、東京本社地方版編集長、同地方部顧問を歴任、現在同社名誉職員。
この法師浜が著作権を手にし、それを八戸市に寄贈。その時、従来手にした三十万円も出した。わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。
(出典・法師浜著、唄に夜明けたかもめの港)
こうした好意で公会堂基金が出来た。その詳細は次号に掲載。基金の主旨、寄付行為の覚書を教育員会に開示請求をかけているので、それを待って紹介予定。
それにつけても教育委員会は妙な所で、仕事をいいかげんにしようと心がける場だ。おいおいその証拠を見せるが、教育長の何たるかを自問せよ。