2007年3月1日木曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 1

山田洋次監督・主演・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう

八戸の三大偉人と言えば安藤昌益・西有穆山・羽仁もと子を指す。安藤は秋田の産、後の二者は八戸産。その西有穆山(にしあり・ぼくざん)の百回忌が三年先。

八戸図書館の郷土資料室で西有穆山関連の書物を出してくれるように依頼。すると「西…なんですか。西有ですか、どういう字です?」と問われた。二十歳代の青年、「知らないのか?西有穆山を」「ええ」

情けなくって涙が出そうになった。還暦を過ぎたあたりから涙もろくなった。

かつて青年会議所を中心として「安藤昌益国際シンポジウム」が開催されたことがあった。もう二十年も前になろうか。哲学者安藤の名が、デーリー東北新聞始め多くの新聞に載り、市史編纂の三浦氏もTVに登場。安藤ブームが沸き起こった。

八戸の名が全国に響き渡ったぞ。

安藤の哲学は難解。そして時代が遠い。西有穆山は幕末に生まれ、廃仏毀釈に敢然として立ち上がった。仏教界全体が一つの炎と化して団結し明治新政府と烈しく渡り合った。刀と力が物を言う時代。西有は一命を賭して各宗門が送りだした俊才達と検討を重ね政府をねじ伏せた。

湊の豆腐屋の倅だ。この倅が如何に偉大であったかを、「はちのへ今昔」はシリーズを組んで何度もお伝えする。

西有穆山の銅像は旭丘の市営バス操車場の隣に建つ。誰もお参りもしない。建っている人物すら知らないのだから仕方もない。

そこで西有穆山の勉強。この人から教えを頂いた多くの僧侶がいた。長者山裏の大慈寺の和尚故吉田隆悦氏の著書を軸に記してみる。

西有穆山は、文政四年(一八二一)八戸市湊町本町、豆腐屋笹本長次郎の後妻の長男として誕生。幼名、万吉。母、なをは、万事よくゆくようにと、一生懸命に育てた。

 或日豆腐作りの手を休めて、万吉にお乳をやっていたなをが

「お父さん、来て下さい、万吉が何かにぎって放しません。指の間から光がでています」

と叫ぶので長次郎さんが行ってみると、何かをしっかりと握りしめてなかなか放しません。

何時の間に、何を握ったものやら、小さい指の間から、ピカピカと光が出ています。

怪我でもをさせてはいけないと、お父さん、お母さん二人がかりで小さい指を一本づつおこしてようやく中のものを取ってみると、それは、豆腐の材料の豆でありました。どうして光ったのでしょう、とその豆をよく見ると豆にシワがよって観音様の姿をしている。仏の長次郎といわれるほどのお父さんは、その豆の観音様を仏壇に供えて、万吉を抱いているお母さん一緒に

「どうぞ万吉がマメで丈夫に育つように御守り下さい」

と心から御祈りしました。

 その頃、湊村に玄伯さんという占い師がいました。豆の観音様の不思議なこともありましたから、笹本夫婦は、万吉を見てもらいました。玄伯さんは顔、頭、手を色々観ておりましたが、

 「まったくよい相だ、家業を継げば、地方第一の事業家、政治家になれる。又、学者や和尚になれば、天下一の名僧知識になれますぞ、大事に育てなさい」

と喜んでくれました。

こうして御両親のゆき届いた愛情によって、まるまると育ち、三歳になった万吉は、母親の生家八戸市二十六日町の西村源六家に養子にやられました。

 万吉は浜通りの風の荒い湊村から城下町の気風のよい八戸町に移り、伯父夫婦の愛情こもった養育ですくすくと大きくなり、六歳の春を迎えた。ところが、世の中でよくいう、ヤガネッ子(八戸弁で妬むとか嫉妬する子)が生れて来たのであります。西村源六夫婦には永い間子供が出来ないので甥の万吉をもらって実子のように愛情をそそいできた。子を育てる愛情により、養母の身体に変化を生じる種が授かるといわれるが、万吉の場合もそれであったのでしょう。西村夫婦に男子が誕生。夫婦の喜びようは一通りではない。

 これを見た万吉は、

「私はこの家に居るべきでない、赤ちゃんがこの家の宝であり、私より大事なものだ」

と、一人考え、一人心に決めて西村夫婦に無断で、トボトボと四キロ半の道程を歩いた。その途中には一軒の家もない田圃やリンゴ畑のさびしい罪人を処刑し、首を切った下組町や佐比代街道を通って湊の生れた家に帰って来た。実母のなをさんはビックリして、

「どうして帰って来たか?八戸(西村家)で帰れといったのか」

とたずねると、万吉は、

 「いや、そうでない、向うに坊やが生れたから僕の用がないんだ」

と、ハッキリ、絶対八戸には帰らないという。実母なをは、八戸の西村家に走ってゆき、どうしても帰らないというので、と申し訳と詫びを並べて諒解を得た。

 これより万吉は、親戚の者は勿論のこと、隣り近所の人々に「あの子は普通の子ではないよ、一度も歩いたことのない八戸から湊まで、仕置場(処刑場)のある佐比代を通って一人で帰って来たそうだ、なんでも、人相見が観た所、人相から手相から普通の子と違っている、神童とか、観音様の申し子だといったそうだ」という話がひろまった。

 生家に戻り、万吉の働き、と勉強は、真に機敏で明確適切、親類の者は勿論、出入する人々も皆、「長次郎さん所には良い跡継ぎが出来た」

と、万吉が家督相続すると思うようになりました。万吉八歳、先妻の子、つまり腹違いの兄が両親、親戚から

「どうちあれは、万吉と比べると出来ない、気のきかない奴でこまる」

と話しているのを陰で聞き、これは兄が気の毒と思った。

文政十二年(一八二九)万吉九歳の春。

母と共に八戸町、母方菩提寺、願栄寺に彼岸参り。願栄寺本堂の中で地獄極楽の掛図を見て、

「お母さん、これは何だの」

と、人間が鬼に舌を抜かれている図、釜ゆでの図を指して聞いた。母は、

「それは悪いことをした人々が、行く地獄、赤鬼、青鬼に仕置きされる所、可哀相なことだ」

と答える。

「では、こちらはなんだの」

と、天女が飛びんで楽しい音楽が奏でられている極楽の掛図を指す。

「それは善いことをした人々が行く所」と答える。

「ではお母さんは、どっちへゆくの」

とジッと母の顔を見つめた。

「お母さんは決して悪いことはしまい、と務めてはいるけど、お前達子供可愛さに、知らず知らずの間に、お父さんにも世間様にも嘘をついているから、お母さんは地獄に行くことでしょう」

「お母さん、地獄にゆかずに極楽に行くことも出来るでしょう、どうすればお母さんが極楽に行けるの?」

と再び問うた。

母は、しばらく考えた後、

「万吉、昔からな、一子出家すれば九族天に生ずというように、親戚から一人の立派な御坊さんが出れば、お母さん、お父さんばかりでなく九族といって、親戚の者が皆、極楽の天上界に生れかわり、幸福になることが出きると申しておるよ、でもこれは、仲々むずかしいことだよ」

と訓した。

この後、万吉は時々ボンヤリ考えている日が多くなった。十歳の天保元年(一八三〇)考えた末、「母を極楽にやりたい、兄さんに父の後をつがせたい。それには自分が出家し立派な坊さんになることが一番よい」と決心。

 万吉の生家笹本家の向う隣りに、淡路屋という八戸藩主御用掛の酒屋があった。四国を平定し、豊臣秀吉と共に関ケ原の合戦に参戦した長曽我部元胤の子孫が落人となって八戸に来て経営していた。身分を証す品々を所持していたところから、南部藩主より苗字帯刀、二階建住居を許され、御用商人を勤めた。

この淡路屋に万吉少年が通って勉強した。というのは、淡路屋には書物が沢山あったから。こうして勉強すればするほど万吉は、何としても出家することを許してもらうと決心、天保二年(一八三一)十一歳で出家したいと申し出た。けれども両親は万吉の願をきき入れない。しかし、万吉は淡路屋の本を借りて無我夢中で勉強する。

天保三年、十二歳となり知識も体力もつき、自信を持ち

「四年前から決心しました。どうぞ出家を許して下さい。許さない理由を教えてください」

と、強く両親に迫った。仏長次郎と呼ばれる父親は、許してもよいと思った。が、母なをは

「万吉や、この地方のお坊さんたちは、皆地獄参りの先達をするような人ばかりで極楽参りの案内者はいない。だから駄目です」

といって聞きいれない。

 天保四年、十三歳の或朝、両親を前にして、

「万吉は必ず立派な出家になります。どうぞ出家させて下さい」と懇願。とうとう母は、

「偉ぶったり怠けたりせず、日本一の僧侶となることが出来るのなら許します」

と許可。

笹本家の菩提寺、類家の長流寺で得度。住職は金龍和尚。小坊主となった万吉は金英と名を改めた。天保四年六月二十一日。
これが西有穆山の第一歩。