2007年3月1日木曜日

八戸山車祭を考える 観光資源と捉えるべき 最終

オガミ神社祭礼からオガミ新羅二社の祭礼ヘ

オガミ神社の祭礼はある時期から新羅と二社の社の祭礼へと変わる。この時期について郷土史家上杉修氏は『北方春秋』創刊号(昭和三一年)の「八戸祭りと大沢多門」の中で、「明治十七年、長者山新羅様の(ヒモロギ)が参加して二社になった」と述べている。

 また、これを裏付けるものにオガミ神社文書の明治十七年九月九日の祭礼行列帳がある。この行列帳の題名をみると「新羅・オガミ両社御祭礼行列帳」となっている。この前年の明治十六年は、前項で述べたとおり、祭礼の有無の確認ができないのと、前々年の明治十五年は、まだ「オガミ神社祭事」となっていることから、現段階で確認できる二社の祭礼の始まりは明治十七年とみてよいのではないだろうか。

 これに伴い新羅神社の祭礼の目玉でもあった武者行列の参加も始まったといわれる。昭和三一年八月二九日付デーリー東北に「三社まつり今昔」と題された記事が掲載されている。

 その中で「武者押し」について、「七月二十日の霊祭とは別に旧暦九月十九日に具足祭りといって数百人の藩士たちがヨロイ、カブトの出陣姿に身を固め勢揃いし隊伍を組んで新羅神社に参拝する行事があった。これは文政二年、八代信真のとき家老野村軍記が始めたもので…(中略)、この行事は幕末まで続けられたが、廃藩後は七月の霊祭に「武者押し」として合流した。明治年間には士族たちが各自先祖伝来のヨロイをつけ行列に参加し…(後略)」と述べているがこの記事では廃藩後というだけで合流の年代までは述べていない。明治二年の行列帳には旧藩士の名前が多数みられるが、彼らがヨロイを身に着け行列をなしていたのであろうか。

 では新羅神社が合流した明治十七年の行列帳はというと、そのトップに「騎士」という文字がみえるほか武者行列を示すものはみえない。「騎士」=武者行列なのであろうか。

 ここにもう一つ気になる史料がある。オガミ神社文書の「明治九年九月七日・オガミ御祭礼行列面附帳」である。この史料は祭社行列に参加した人たちの名前を書き留めたもので、その中に次のような部分があるので紹介する。

    (前略)

 一 神功皇后金子宗七郎 貸人

二十四人   新荒町瀧沢治平

         (以下人足の名前は略す)

十三日町大旗 富岡新十郎行貸人 九人

八日町笠鋒

 十人

学隊旗一流

騎馬具足隊

 (中略)

学隊大沢

 三人

騎士頭

逸見元膳

 (後略)

 この「騎馬具足隊」や「騎士」は何を意味するのであろうか。「騎士」が明治十七年の行列のトップを飾る「騎士」と同じと考えてよいのか。これに関して、さらにさかのぼり江戸時代の天保四年(一八三三)の「法霊御神事行列」をみると、その中に「打毬騎士」の名がみえる。これは騎馬打毬の格好をした武士の行列参加である。この表現からきた「騎士」であれば、鎧、甲冑に身を固めた騎馬隊や、徒歩武者の行列とは意味が異なるのである。

 もう一つの「騎馬具足隊」はどうであろうか。この言葉の表現からいうと「武者押し」、つまり「武者行列]に近いようにもみえる。とすれば、明治九年までさかのぼることとなる。

 このように限られた史料では、これ以上の武者行列の合流年代の特定は難しい。しかし、明治中頃にはすでにこの武者行列は老年会の協力を得て、古風を今に伝える出し物として、祭礼の中心

をになうまでの人気を博していたのは確かである。

三.オガミ・新羅・神明の三社御祭礼

 オガミ・新羅の二社の祭礼から現在の形となる三社への移行は、明治二二年(一八八九)といわれる。これについても前出の上杉氏は「明治二十二年に大沢多門が主唱して神明様のヒモロギが参加して、初めて三社になった」と述べている。そしてこれもまた同様にオガミ神社の文書「明治二十二年八月十六日三社御祭礼行列帳」の題名からも確かめられる。

 しかし、ちょうど二社御祭礼となった明治十七年以降この明治二二年までの間、つまり明治十八年から二一年にかけての祭礼の確認ができないので、必ずしも二二年とは言いきれない部分もあるが、現段階で確認できる最も古い年代が明治二二年といえる。

 これまで三社の合併については、明治二八年、大沢多門が中心となって日清戦争の勝利を祝い、祭りを盛大に行うため三社合併による祭礼を行った、といわれてきた。この明治二二年・二八年の同年に登場する大沢多門は、根井沢定右衛門と称し元八戸藩士であった。明治維新後、名前を改名し、明治五年八戸地方初の劇場を創設し、各種の興業を行うなど、明治になってからは芸能文化面でその中心を担った。そして八戸を代表する郷土芸能「えんぶり」を復興させた人物としても有名である。その彼が二社から三社への改変にも登場する。

 しかし、この三社となった説は、前出の明治二二年の行列帳や次の史料からみて、上杉氏の説の方が正しいように思われる。

 西町屋文書中に明治二〇年(一八八七)十一月七日から二七年(一八九四)一月一○日までの記録「日々雑誌」がある。このなかで明治二三年に次のような記述がある。

  御届

本月四日五日六日の間、例年の通り新羅神社及び三社合併例祭執行候ニ付、市街中御通輿相成候、総て旧例の通り執行侯間、此段御届申上候なり                     新羅神社祠官  石福寿備

  明治廿三年九月二日

   八戸警察署長

    警部吉見十一郎殿

 この記録からも、この頃にはすでに三社合併の祭礼が例年のとおり行われていたことになり、明治二一年説で間違いないといえるのではないだろうか。

 これらから、オガミ・新羅の祭礼に神明が初参加したのは明治二二年で、神輿本体の参加が始まったのが明治二八年ということになろうか。

四.三社大祭の変遷の様子

 こうしてオガミ・新羅・神明の三社合併による大祭が行われるようになり、その後祭りはどのような変遷をたどって現在に至っているのであろうか。これについては、祭り日程の変遷、行列コースの変遷と様子、山車の変遷、参加形態の変遷、華屋台の五点からたどってみることにする。

祭り日程の変遷

・旧暦七月二〇日からの三日間~明治四二年まで

 明治になり新暦を用いるようになっても、当初は旧暦の七月二〇日からの三日間を祭礼日としていた。

・九月一日から三日間~明治四三年から昭和三四年まで

 旧暦の七月二〇日をやめ、九月の一日から三日間と祭礼の日程を固定化したのは明治四三年(一九一〇)からである。これは奥南新報の明治四二年の祭礼広告に旧暦・新暦の併記がみられることから、この年までは旧暦にそった日程で行っていた。同じく奥南新報の明治四三年の記事には、九月二日・三日・四日(一日からの予定であったが雨天のため順延)に行った記録があり、これを境に翌年以降は九月一日・二日・三日の日程で開催していることが新聞記事から伺える。この日程は大正期もかわらず昭和三四年まで続いた。

・八月二一日からの三日間 昭和三五年(一九六〇)から五六年まで

 昭和三五年、これまで九月一日から行われてきた祭りを繰り上げ、八月二一日からと変更した。従来の九月一日は、立春から数えて二一○日目にあたり、この頃は晩稲の開花期にあたり、特に農家では台風などの災害に注意しなければならない日でもあった。そのためか、以前から日がよくないとされ、天候にも恵まれず、再三日程の変更を要望する声があった。

・八月一日からの三日間 昭和五七年から現在まで

 この日程への変更は、東北の三大夏祭りの一つ青森の「ねぶた」に日程をあわせることにより、もっと八戸三社大祭の知名度を上げ、広く多くの人に知ってもらう事を目的に行ったものである。この頃から神事よりも観光に重点を置いた政策がとられるようになる。

 八戸三社大祭は現在でも日程の変更を求める声が聞かれる。一方は、昔の秋祭りにもどす意見、一方は、観光客の誘致のためにも決まった土・日に定めるべきとする意見、これらは神事を重視した立場と観光を重視した立場にあるために起こるべくしておこる対立意見である。

行列コースの変遷と様子

 享保六年(一七二回、法官の神輿が初めて長者山の新羅神社へ渡御した際の行列は、

・お通り 法霊御宮~南ノ御門~三日町~荒町~新町(裏通りの町)~上大工町~鍛冶町~長者山へ

・お帰り 長者山~鍛冶町~大工町~新町~下大工町~二十八日町~八日町杜ノ辻~南ノ御門~法霊御宮へとなっている。(前図参照)。

 この行列のコースは、江戸時代を通じて変わらなかった。

 明治期もほぼ同様のコースで行われていたようで、明治三二年(一八九九)の八月三〇日「東奥日報」の記事に、行列の様子が次のように詳しく紹介されている。祭りは八月二五日から二七日までの三日間行われ、「各町附祭諸種の催し等にて市中の賑わい申し分なく、近県よりも観客群集し各宿屋は客室のなきに困窮せる程」の賑やかさを呈していた。

 その時の行列は、

・お通り オガミ神社~停車場通り~三日町~(大通り)~新荒町~上組町~(裏通り)~十六日町~鍛冶町~長者山新羅神社

・お帰り 長青山新羅神社~(裏通り)~六日町~柏崎新町~下組町~(大通り)~八日町~番町通り~オガミ神社

となっており、初日の行列は午後二時に出発し、式が終わったのは午後五時、行列は整然として屋台や手踊りなど万般の催しにて賑々しく終わったとある。お通りとお帰りの中日である二日目は、長者山にて騎馬打毬の催しがあり、市中では虎舞、太神楽、芸子手踊りなどが行われていた。

 この行列のコースの一部変更をみたのが、昭和七年(一九三二)であった。

 昭和七年九月一日付の奥南新報の記事によると、その表題に「けふから大祭順路を変更して今年の渡御際は長横町廻り」とあり、行列はお通りの時に変更され、おがみ神社~停車場通り上三日町~上組町~二十六日町(裏通り)~六日町~長横町~吹上~長者山

となっており、例年は二十六日町の裏通りを進み、十六日町から寺横町へ折れて鍛冶町を通って長者山へ渡っていたのが、十六日町を通り過ぎ、六日町で右折して、長横町~吹上を通って長者山へと至るコースに変更されたのである。

 この変更の感想を、同年の奥南新報の九月四日付の記事で、「今年初めて通ることになった長横町に行列が入った。見物人は無いわけではないが、家並みのいまだ完全に揃っていない町内のこととて、吹上まで廻ってみた感じは、大工町鍛冶町通りに比ぶべくも無かった」と述べ、さらに「祭りを見る人はやはり人出の多い、繁華なところに集まるらしい。祭事を執行する人はこの見物人の動きも見過ごしてはならないと思う」と再考を促している。この昭和七年には、消防組が附祭りの監督として行列に加わるようになる。

 翌年の昭和八年、これまでお通りとお帰りが通っていた大工町、鍛冶町の人々と長横町の人々の間で、コース変更のことでかなり激しい紛争が起こった。

その結果、お通りの行列は、おがみ神社を出、長者山でお休みせずに吹上、長横町を通り八日町で解散することになったのである。

三日目のお帰りは、鍛冶町に集合の上、大工町~寺横町を経て右折、六日町~朔日町~十一日町~下大工町~柏崎新町から左折~下組町~塩町~二十八日町~十八日町~八日町~三日町解散となった。

 この紛争について、奥南新報八月二八日の記事で次のように意見が述べられている。「毎年のように町内町内の希望でお祭りの順路が変更されることは、お祭りを執行する人々の心も落ち着かないことであろうし、又お祭りを拝む人としても同様のことであって、煩わしいことである。執行の期日といい、この順路といい猶考えるべきだ。」として、コースの変更等に疑問を投げかけている。

ちなみにこの年に参加した山車は十一台であった。

 これ以後、昭和三五年(一九六〇)に祭りの日程が大きく変更され、九月一日からの開催が、八月二一日から三日間の開催へとなった。

 そして、山車の大型化などからその行列のコースの見直し論も出始め、ついに昭和三七年(一九六二)、お通りのコースの上組町から常番町へぬける道路の道端が狭いという理由で、上組町~平中~町組町へと通るコースヘと変更となり、お帰りのコースも柏崎新町から下組町に出た順路を、東北タンク横から八戸郵便局前を通り大通りへ出て、二十八日町~十八日町~八日町解散となった。

 現在は、山車がさらに大型化され、裏通りを通っていた行列はその順路をはずれ、平中から通称「ゆりの木通り」の広い道路を通り、鍛冶町、長横町へは入らず、つまり長者山に立寄らずにそのまま解散となってしまう。

 このように、江戸時代から続いている行列形態ではあるが、当初のおがみ神社、神明宮、新羅神社の三社の神事祭礼に始まった行列は、次第に附け祭りの「山車」が主役となり、行列の道筋も新しい道路の開通に伴いコースに変化がみられるようになり今日に至っていることがわかる。

本稿の写真は相馬の野馬追いのホームページのもの。この野間追いは廃藩置県後、明治五年、旧相馬家臣団一同は、妙見社の野馬追い祭を存続させるべく、当局に野馬追原(雲雀ケ原)ならびに野馬の払い下げを請願したが許されなかった。翌明治六年、磐前県は国有財産となった野馬を民間に移管し生育の途を開こうとするも、神威を重んじ、民意を考慮し、県令の特使を小高妙見社の派遣し神眷解除を奏請し、これを捕獲民間に払い下げた。

野馬の消滅で「野馬追い」は形を変えて再興され、民間の馬を集めて行われることになった。しかし、旧家臣団の土着と旧在郷給人・郷士の存続という条件は旧相馬藩の士風と民情を大きく変更させることがなかった。野馬追い神事のこのような再興は、単なる伝統としてではなしに、いわば旧相馬藩社会の現実的な敬受、持続に支えられて実現した。(東北、北関東の諸藩 人物往来社刊)

各郷の騎馬武者勢が祭場に着くと、馬場清めの儀式の後、三軍合わせての宵乗り行事が行われる。
古式再現の荒々しい競馬の熱気があふれる

(お行列)
 午前9時30分、夏空にとどろく花火を合図に、三番螺、陣太鼓が鳴り響き、出発を告げる。
相馬太田神社に供奉する中ノ郷勢を先頭に、相馬小高神社(小高・標葉郷勢)、相馬中村神社(宇多・北郷勢)の順に総勢五百余騎。
総大将、執行委員長、軍師、郷大将、侍大将、軍者、組頭、螺役長・・・などの役付騎馬が整然と駒を進める。
 行列は陣螺・陣太鼓の合図により時に止まり、時に前進して隊列を整えながら、約三キロメートル先の御本陣雲雀ヶ原の祭場地へ。
 騎馬武者全員が甲冑をまとい、太刀を帯し、先祖伝来の旗差物を風になびかせながらの威風堂々にして豪華絢爛な戦国絵巻は、まさに天下無比の圧巻であり、文化財的逸品が揃う「お行列」は動く文化財展として好事家に野馬追をもう一度見たいと言わせる所以である。

(甲冑競馬)
 祭場地に到着した行列は、神輿を御本陣に安置し、式典を挙行。しばしの休憩をとった後に、勇壮な古式甲冑競馬が行われる。
古式甲冑競馬の開始を告げる螺の音。
 若武者たちは兜を脱ぎ、白鉢巻をしめる。駿足に自信のある馬にまたがり、先祖伝来の旗差物をなびかせながら風を切って疾走する。この甲冑競馬は、一周千メートル、十頭立てで十回行われる。
 指旗のはためく音、鎧、草摺の摺りあう音・・・。渾然となった音のかたまりが、砂塵が舞う中を走り抜ける。迫力と感動のシーンだ。

【神旗争奪戦】
 午後一時、山上の本陣から陣螺が鳴り戦闘開始の合図を告げると、騎馬武者達は馬を駆し、雲雀ヶ原に格好の場求めてたむろする。
 陣螺が鳴り終え、空中に炸裂した花火の中から二本の御神旗がゆっくりと舞い下りると、数百の騎馬は一斉にその方向へ。旗の下に群がり、鞭を振りかざしての奪い合いは、抜刀こそないが、まさに戦闘さながらである。
 御神旗をとった騎馬武者は高々と誇らしげに旗をかかげながら、本陣山の羊腸の坂を一気に駆け上る。この時のどよめきと喝采は、旗を得た者の最高の栄誉だ。
 こうして花火二十発・御神旗四十本が打ち上げられ、そのたびに旗の波が揺れ動く光景は一幅の戦国絵巻をも彷彿させる。

五百余駒の軍団、その旗指物の華麗なこと。死ぬ前に一度見てもらいたい祭が相馬の野馬追いだ。

この華麗な戦国絵巻は武田の陣備えで読むことが出来る。講談「三方カ原の戦い」から、旗指物を紹介。三左衛門信成は一言坂の頂にトウトウと登り上げ馬の四足を踏み止め、眉庇に小手をかざしてはるかに姫子山の麓に備えたる武田の陣頭眺むれば二千一組、或いは千人、八百人、八方四面にたむろをなし、其の勢おおよそ三万、五、六千。魚鱗、鶴翼(かくよく)長蛇形、虎頭(ことう)円月、簑手形(みのてがた)、鉾矢、雁行(がんこう)、一文字、真ん丸一行もがり落としに八門遁甲と備え固めし有様は兜の星を輝かし大袖小袖を揺り合わせ得物得物を飾りたて、弓鉄砲、槍長刀、鉾、太刀、黄糸、赤糸、逆沢瀉(さかおもだか)、紺糸、黒糸、桶川胴、萌葱匂に浅黄糸、白糸、青糸、段だら落とし、紅白二段、紫蘇芳(むらさきすおう)、雨色、錆色、翁形、胴丸、赤皮、五色糸、市松、白黒縅(おどし)、鎧の毛糸の品々は物数限りに定めなく、定紋ついたる旗の手は皆真っ先に押しいだしたり。

町衆の毎年作っては壊す怒濤の如き勢いは新しい流れ、相馬のは武士の勢いにて古い流れ、新旧の流れを見せる所に祭の醍醐味。神社の横暴を見て見ぬふりをするか、神社を抜いて町衆と武士集団の武者押しを中心とする祭に変えるかが思案のしどころ。

巡回路、実施日月、ここらも再考し、打球の静に対し騎馬隊の動を組み入れるなどの工夫も必要だろう。長者山でも長根グラウンドでもいいが、武田の陣備を次々と見せるマスゲームは古さの中に新鮮さあり。古きをたずね新しきを知る。武士の旗指物は一度作ればいい。経費少なく効果大。    神社だけでは祭りはもたない。市役所は多額の補助を山車製作に補助。神社がそれを代行できるのか。神社だけで民衆の心はつなぎ止められる時代は消え去った。神社とて祭の参加の一粒と考え直し、参加させて貰える喜びを感じよ。どうしても主導権を握りたいなら、単独で祭を実行せよ。大衆、民衆、氏子からもそっぽを向かれて神社も仏閣も存続しないことを肝に銘じよ。大衆と時代と共にあることを認識しないと、時代から置いていかれる。江戸の昔からある祭、見える今に捕らわれず、数百年の流れを想起せよ。