2007年5月1日火曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 3

にしあり・ぼくざん 文政四年八戸湊、笹本豆腐屋の倅、曹洞宗僧侶となり明治期の廃仏毀釈に仏教護持の立場で政府と対立。明治三十四年八十一歳、火災で焼失した能登の総持寺を鶴見に移転する基を作り、永平寺管長をも務め明治四十一年(一九一○)没。三年後が没後百年。これを機に西有穆山の姿を現代に蘇らせ、南部人の魂を見せたい。殊に母親なを(八戸町西村源六の妹)の存在なくして偉大なる穆山は存在しない。というのも、慢心し故郷の僧侶になろうと帰郷するも、母の力強い諭しで再び江戸へ出て日本一の僧侶となった。
 さて、前回に引き続き、吉田隆悦老著の本より、
断食、潔斎の祈願
 さて金英上座は、こうした歴史に輝やく名刹の法光寺に師匠様のお供をして上り、山の新生活に入った。この山の生活は、気候の上からも、又食糧の上から見ても真に悪条件であった。昔は禅寺の食べ物は、何処のお寺でも、粥(かゆ)飯(めし)粥(かゆ)といって、朝は御粥に塩と漬け物だけ、昼は御飯に味噌汁と漬け物だけ、夜はお粥に漬け物とたまに御飯だけという粗食でありました。これで、栄養失調にならないのが不思議であると惑じます。特に法光寺のような修業寺では、お客さんが来てもその分米を増さないで、水だけ加えて、皆で食べるのでありました。粗食に加えて、八戸の長流寺から引越して来た疲労も加わり、師匠の金竜和尚様が病気となってたおれた。師匠思いの金英が一生懸命に看病したけれどもはかばかしくない。病床に臥した師匠様が日夜に衰えるのをみて、金英は観音様に御助けして戴くより外に方法がないと、決心し、
「私のご飯を御師匠様の血として下さい」
と断食、庫裏(くり・寺の台所。庫院)のわきにある井戸に行き、水をかぶって潔斎、
「どうぞ観音様、私の身にかえて御師匠様の御病気を治して下さい」と、三、七、二十一日間、断食潔斎(けっさい・神事・法会などの前に、酒や肉食などをつつしみ、沐浴・もくよくをするなどして心身をきよめること)の祈願をこめた。
すると、不思議なことに、御師匠様の病気は日々に快復、御師匠様は自力で起きあがれるようになり、弟子の金英が、井戸水をかぶって潔斎する姿を見て、思わず掌を合せ、
 「金英、有難う、私はお前のお陰で治るぞ」と、弟子を拝む。金竜和尚様の病気は、次第に薄皮をはぐように回復。

   粟(あわ)のつらさ
 御師匠様の病気も治り、金英は毎日勉強、修行、又檀家の法事も勤めたが法光時には、先任住職の弟子がそのまま居て金竜和尚様の弟子となった者がいた。これを譲り弟子と呼ぶが、金英より年上のため、兄弟子ということになる。
ところが、この兄弟子は檀家の後家さんと仲よしになり相当親密でありました。所が修行寺でもあり、又、出家の身でもあるから、毎日のように後家さんの所に行けない。ある日、金英がその後家さんの家に御経を読みに行きました。御経も終り、ご馳走を出し、御酒も持ってきた後家さんが、金英に御馳走する酒を、自分で茶碗についでガブガブと飲んだ。金英にもサアーめしあがれ、サアー飲みなさい、と茶碗に酒をついでくれる。
「なんでそんなにお飲みになるんですか」と、きくと、後家さん「逢わぬつらさで、やけで飲む」と答えた。
金英が経を読みにこないで、兄弟子に来て貰いたかったとの意味。
「金英さん、お前さんは、何故ガブガブ飲むんですか」と逆襲したので、
「粟のつらさでやけで飲む」と切り返した。法光寺は、それほど、粟粥の祖食だった。
    
江戸へ密行を策す
 天保七年(一八三六)、金英十六歳となり、法光寺に読む本も御経もないくらい勉強してしまった。もうこの南部の地では勉強にならない。何とかして、江戸で勉強したいと思っていたところ、八戸の檀家に法事があり、金英がお勤めをすることになった。この機会に八戸港より船に乗り込み江戸に出ようと、法事もそこそこに、江戸向の帆前船に乗りこんだ。ところが、今まで静かであった空模様が、急変して風が吹き、あらし模様となる。船長や、船員があやしんで、誰か何か悪いものを持ちこんだに違いないと、荷物をさがし始め、金英の荷物から御血脈(おけちみゃく・師から弟子に与える相承の系図)を取り出して、「これだ、この御血脈を、竜が敢ろうとしてあばれ出した」ということになり、金英が、「そうじゃない。御血脈を持っている私がいれば、暴風が静まる。波浪がなくなる」と頑張ったが、船員達の迷信を破る事が出来ず、とうとう下船を命ぜられ、無念やるかたなし。法事が終わっても寺に戻らないことから、実家と法光寺から追手がかかり、つれもどされる。法光寺に戻った金英は、悶々の中にも病気がちの師匠に孝養を尽しながら時期の到来を待った。そして、師匠金竜師の御遷化(せんげ・高僧の死去)まで法光寺にいた。金英十九歳。

   仙台松音寺和尚の門下となる
 天保十年(一八三九)八月九日、病弱であった師金竜様が遷化され、兄弟子が後任となった。この兄弟子は檀家の後家さんと仲良くなった「逢わぬつらさの兄弟子」で尊敬するより軽蔑すべき人柄。その弟子となる気持は微塵も起らず、師匠の葬儀万端を済ませ、湊の生家に帰り、御両親に自分の気持を詳細に伝え、修行の旅に出たいと申し出た。
かねて、そういう噂を聞いていた母、なをは「そういう地獄の道案内するような僧とは一日も早く手を切り、学問修行の本場に出立しなさい」と激励。金英は、母の激励の言葉に支えられ、法類近親に見送られ、覚悟を新たにし、意気揚々として上り街道に向った。そして、東北の森の都、仙台市新寺小路の松音寺住職悦音和尚の門下に身を投じた。
 松音寺は、仙台市北山の輪王寺と、南鍛冶町の昌伝庵と共に、六十二万石伊達候の城下の準菩提寺の格式高い修行寺。
悦音和尚は、金英の風貌と挙措(きょそ・立ち居ふるまい)を見て、心を惹かれ迎え入れた。悦音和尚の所蔵する漢籍、仏教書の閲覧の自由、更に、仙台城下の書籍研究に最大の助力を与えた。金英は、寝食を忘れ研究し続け一年間で仙台領内に読むべき書籍なく、又坐禅修行の指導を受ける人物も見当らなかった。悦音和尚は金英の傑物を見込み、自分の弟子となり松音寺の継承を熱望した。余りの親切と熱意に動かされ、金英は「まだ未熟のため、江戸での修行後に願います」と約束。
 仙台は金英に実のある場所だった。仏法を修行する者としての愛を悦音和尚より受け漢籍、仏典研究三昧に入ることが出来、更に、天保の大飢饉に遭遇し心魂の鍛錬が出来た。というのも、大飢饉の惨状は八戸に於ても甚だしく、新井田の対泉院境内にある飢饉の石碑には、「人肉を食う」と刻まれたのを見ても異状で非情。仙台でも、その被害甚だしく、死骸が道路に充ち、これを踏み越え、飛び越えて読経に歩いた。死んだと思っていたのが読経中にうめき声を挙げたり、ギョロっと目玉をむいたりと、肝を冷やすことしばしば。金英は、これではいかぬ、と死骸の集められた墳墓に坐禅し死骸と相向って魂胆をねると共に、人生のはかなさ、命のもろさを目のあたりにして、身心見極め度胸が定まった。

   天下の名門、栴檀林に身を投ず
 天保十二年(一八四一)金英二十一歳。恩師松音寺悦音和尚に、学資と選別を戴き、学問最高の府、江戸に向け出発。
 江戸に着いた金英は、芝、愛宕下(あたごした・品川区浜松町近く)の叔父を訪ね志を話すと、叔父は三百文を出し、綿入一着を調えて祝儀してくれた。金英はこの綿入一枚を大切に着て三年間寒暑を凌ぐ。
 金英は叔父とも相談し、かねてより調査していた宗乗(しゅうじょう・自宗の宗義および教典)専門の学問道場である駒込の吉祥寺(きちじょうじ・東京都文京区にある曹洞宗の寺。近世、禅学の中心道場)栴檀学林(せんだんがくりん・仏教をまなぶ大学)を訪問し、無事に入学を許された。入学してからの金英の生活は、文字通り苦学力行(りっこう・努力して行う)。今の学生のアルバイトとは本質的に違う。学資たるや、仙台の悦音和尚様から選別として戴いた一分(一両の四分の一で今の八万円位)だけ。
金英は毎日托鉢(たくはつ・修行僧が各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・こつじき。行乞とも言う)して学資をかせぐが本を買う金は得られない。それで下谷池之端、雁金屋という本屋で立読みして勉強。次第に腰を下ろし、多くの書を読破、要所要所をぬき書きする。最初は、いやな顔していた本屋の番頭さんも金英の熱意にうごかされ、又、店頭で一人にだけ読ませておくわけにもいかぬから、古本でも新本でも栴檀林に持ち帰って読むことを許してくれた。

  漢学者菊地竹庵先生に入門
 金英、天保十三年(1八四二)二十二歳。
如何に金英が秀才でも、又努力しても、専門の学門は独学では能率が上がらないばかりか独断になる危険性を伴なう。特に漢学は仏教学の基礎をなすもの、良い先生をさがしていると、栴檀林の門前に漢学の看板を立てた学者が居た。名を菊地竹庵と言い、幕府立(官立)の昌平校(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校。(元禄3)将軍綱吉が湯島昌平坂に移した。1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所)を卒業、松本藩(長野県)の儒学指南を勤めた学者。徳川時代の江戸の学問所(今の大学)といえば、墓府立の昌平校と吉祥寺の栴檀林が当時の両横綱。そして、昌平校を卒業した者が、栴檀林の学僧と問答し、学僧に勝った者が、儒学者としての金看板を、掲げる資格を得るということになっていた。菊地先生も、この金看板の資格を得る為に吉祥寺門前に、居を構え学僧に問答をかけて来た。そして、問答に勝って既に金看板組の儒者となっていたが、先生は窮屈ぎらいで宮立公立の学問所に勤めることを謙って、夏はふんどし一本の素っぱだかで、四書(ししょ・「礼記」中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称)五経(ごきょう・易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・礼記・春秋(左氏春秋)の五種が五経)を講義するという自由な世界を求める人物。金英は、この特異な漢学実力者、菊地先生に入門。
 ある夏の盛り、竹庵先生はふんどし一本の素っ裸で聖典の講義を始めようとすると、門弟の金英は、綿入を着て汗をポタリポタリと流している。竹庵先生「オイ、どうして綿入を着ているんだ」、金英「これしかないんです」
竹庵「そうか、頭を使え。その綿入を二つにしろ、そうすりゃ表と裏で二枚になる」
金英の学問修行は文字通り、汗と血の結晶。
   
宗参寺曹隆様との出合い
 さて当時の栴檀林経営の吉祥寺住職は、愚禅和尚、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう・曹洞宗開祖道元が仏法の真髄を和文で説いた書。永平正法眼蔵)の研究者。又、栴檀林の教授は慧亮、この人は、曹洞宗々学の正統派を継いだ萬仭道垣(ばんじんどうたん)系統の宗学者。金英は、この二人から栴檀林時代に正法眼蔵を学んだ。この二人と出会えたのは幸運。金英は生涯を通じ正法眼蔵を研究し、第一人者となる基となったから。
加うるに金英の宗教家としての運命を決定づけたのが、新宿区牛込弁天町の宗参寺住職泰巌曹隆様との出会い。
 牛込の宗参寺は、軍学者の山鹿素行の菩提寺で、駒込吉祥寺の末寺(分家寺)。その宗参寺の住職である曹隆様が、本寺吉祥寺様に御年始の御挨拶に参ると金英がお茶を持って接待。その態度、所作が大変立派で風貌もよい。
 曹隆「お前さん、何処からおいでかな」ときくと、
 金英「南部から参りました」
 曹隆「そうか、私も南部の出だ、南部はどこかな」
 金英「ハイ、湊村でございます」
 曹隆「そうか、私は松館の出だ。同じ小南部だな。しっかりやりなさい」
と観切に励ます。これが縁となり、金英は曹隆様に特別の御法愛を受け、後々曹隆様の孫弟子となって、出世街道に乗る。