2007年6月1日金曜日

三日町の中心市街地地域観光交流施設とは何だね


三日町に出来る箱物は何?
国の「町づくり交付金」を利用し中心市街地を賑わう場にしようというもの。
日本全体が宿場町を中心に滅びた。かつて人々が歩いて通った道が車の通過する道へと大幅に拡幅され、駐車場のない、あるいは車を止めるという発想のない場所は平成に入り急激に衰微。
八戸ならびに近郊も例外ではなく、昭和の末年ごろから車で来る客に注目し、田んぼや畑の真ん中に道路を通し、国道沿いに大型ショッピングセンターが進出。街中の駐車場で料金を払うより無料に人が集まるようになった。
このため宿場町のみならずかつての中心商店街は車対策をなおざりにしたツケが回った。人々が町に集まらなくなり、旦那様たち金持ちが苦労するようになった。これら旦那は広い土地を持ち、 固定資産税が景気の右肩あがりで、増税になっても店子が入り払える目算だった。
ところが、もともと商才がなく、ビルを建てれば店子が入り、家賃が貰えるとウスらぼんやり考えていたが、平成の大不況、昭和のバブルのツケがどっと。店子は減り、貸し店看板が増加。
このため大家たちは固定資産税の不払いが増加。これに国の役人はボンヤリと見過ごしたが、地方自治体の税収の伸びどころか鈍化をなんとかしようと重い腰を上げた。それが交付金だヨ。
地方自治体は痴呆爺体で、考えが姑息。メカケ根性丸出しで、貰えるものなら何でもいい、口に入るならなんでも食うとルンペン、ホームレス、家無き子同然に頂戴頂戴。進駐軍のジープに群がる浮浪児の昔は過ぎたが、今は形を変えて自治体がそれ。
国は進駐軍と違ってガムを子供等に無償で投げない。四割は出すが六割はお前が出せ。つまり自治体が借金を重ねるわけだ。
この計画は中村市長時代に決定したことではあるが、建物たてればいいの時代は終わった。つまり人の来ない中心商店街は車社会に取り残されたことが原因。人は行きやすい場所に寄る。
車を十五分も走らせれば隣町に抜ける、三十分も走れば隣の市に行ける。道路事情が改善され居住区ばかりが購買対象ではない。
つまり箱物を建てる前に駐車場の問題解決が先。東京浅草は浅草寺を中心に欲たかりの亡者が集まる場。そこに祭りの柱がある。東京名物、江戸名物とも言えるが、三社祭りだ。三社というから三つの神社かと思うだろうが、これは浅草寺に隣接した神社の名。三つの神社の連合祭りではない。
八戸の夏祭りは三社の連合もの。もっとも神社が参加しなくても祭りは成立。
この江戸からつながる浅草でさえ雷門側に地下駐車場を設けた。鉄道の十分なる発達、さらに隅田川には遊覧船の便もあるのにだ。
四百年の歴史を有する江戸の繁華街でも変貌した。それほど車社会の破壊力はすごい。破壊力は排出ガスの炭酸ガス増加で地球が熱くなっているそうだ。このため野菜からガソリンを製造しようと世界中が取り組んでいる。
トヨタは世界一の企業にのし上がった。中国人が 車を持てば一気に炭酸ガスが増加するとは三十年も前から叫ばれていた。トヨタは世界に謝罪しろ。電池自動車を開発できなかったことを。
同様に地方自治体も懺悔しろ、無策で中心商店街を放置したことを。税金をむしるより、いかに払える状況を作れるかにある。
もっとも自治体は八右衛門から与太郎に名義が変わるだけで税は取れるから無策でもいいが、困るのは金持ち。貧乏人は安気でいい。支えなければならない物がひとつもない。金持ちが困る時代が今。
すると、建物を立てて、いかにもお前たちの為にお上は努力していると見せるより、車社会に遅ればせながらも対応することが先だろう。
商店街の人も、自分たちの生存をかけて駐車場問題を解決しないかぎり中心商店街が廃絶するのは時間の問題。
かつての娘、今は婆たちが滅びれば、繁盛していた中心商店街を知るものはいない。この昔のお嬢 さんがたは車社会に対応しなかったから、歩いて通う、バスで出歩く以外に方法手段を持たない。ところがどうだ、昔のお嬢さんがたにタダでバスを利用させないときた。
ますます人が歩かなくなるぞ。昔だろうがお嬢さんたちがヨロヨロ、よたよたでも歩くから町だぞ。東霊園、西霊園で夜中にウロウロするのは亡者。亡者になる前に、出歩いてもらおう。バスはタダにしてやれ。幾らでもない金額だ。ところが、この問題を調べはじめたら妙なことに気づいた。市営バスに四億円ちかい金が高齢者福祉課から流れている。
この問題は近々調査予定。どうなってんのかね。
上の建物図は吹き抜けになっている。自殺者の名所になると大変。なんて言っても東北は自殺者が多い。景気後退の局面で家を新築した人は大変だ。払いができなくなれば、銀行は担保にしているから取る。家がなくなる恐怖は味わったことのない者には分からない。新築してアア、嬉しいの気分 の天国から地獄へ落ちる気持ちがする。前途に絶望すると、人生をはかなんで死にたくなるもんだが、よくよく考えると、それも人生の一部でしかない。しかし、その時はそれが全てのような気になる。だから自殺するんだが、何、人間なんてのは、どの道死ぬように出来ているんだ。あせって死ぬこともない。ダメでもともと。またやり直しが効くのが人生。
どうやったって死ぬまでは生きているんだから。今までが失敗でも、これから先はどう展開するか誰も分からない。サッカー籤で五億円あたることもあるんだ。
昔から言う。「いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と天罰」
せっかく新築する建物、市民のためのものが、自殺者の名所になるのは情けない。フラフラと弱い心に押されて飛び込みたくなるもの。八戸駅で近くにいた女性が列車に飛び込み自殺した。遺体を引っ張り出すのに一時間もかかった。生きること に絶望する人間てのはいるもんだ。
筆者も倒産してヤクザに追い回されたことがあった。それでも人間は慣れる。そこから逃げようとしなければ、その生活にも慣れる。ヤクザも仕事で金を回収に来るが、無いものはない。
命を取ると脅すが、自分で死ぬよりは殺されたほうが女房子供に言い訳が立つと思い直せば、積極的に殺されたくなる。
死にたいは自分の意思、殺されたいは、殺す相手の意思。殺したい方が殺すのも面倒となれば、生きていなければならない。すべて相手にお任せが人生だヨ。
真宗、浄土宗はこう教えている。道ばたの塀の上で子供が遊んでると思え。会社員の父親が帰って来たのを見て、子供は「お父さん、お帰り」って塀の上から飛び降りざまに父親に抱きつく。
子供にとって親は必ず抱きとめてくれる存在。危ないから抱きとめないなどと考えもしない。
絶対に父親が抱いてくれると信じているんだ。これが阿弥陀様だと言う。信じて飛び込んでくるもの全てを大きな手で抱きとめる。相手の心次第だ。生きるも死ぬも、この大きな人類の親の心次第なのだ。だから凡人の我々は助かりたいというよりも、生きるも死ぬもお任せだと思え。
必死にもがく、必死に努力しさえすれば、あとはお任せなのだ。たとえ、それが失敗に終わったとしても、更なる努力をする力を貰えばいい。
暫くは気力も失せるが、何、死ぬまでは生きているんだ。
さて、こんな妙な建物よりも、年間四十二万人が利用する図書館を建てろ。市役所に二千人の職員、図書館に千二百人の利用者。これが毎日来る。役所は休日は休み。だが、図書館は休日も来る。青森市の図書館は繁華街にあり利用者数は増加。
駐車場は役所の広場を開放する。まだまだ本気で考えること多くあるんじゃないの。
百年先を見ようよ。小手先細工でやらずに。
さくら野百貨店とつなぐことも考えているようだが、相手が倒産したらどうなるの?