2007年7月1日日曜日

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 1

国に国史、市に市史、企業に社史があるように町内にも歴史あり、それが町史。これを作ったのが南売市、他にも作った町内があるかと八戸図書館で調べたが糠塚にあるだけ。貴重な文献である。
こうした地域に根付いた史料は大事なもの。
その地域でしか知ることのできない事実が幾つもあるからだ。
これらの事柄を中心にして南売市町内会誌を見てみよう。
この貴重な本の存在を教えてくらたのが、西売市の「ギャラリーみち」での「第一回私のありがとう」聞き取り会に出席された北山栄子さん。
この人は絵心を持ち継続し個展を開く市井の画家。こうした文化活動を地道に続ける多くの人がいる。人口二十五万都市、八戸もなかなかなもの、内懐が深い。
さて、「はちのへ今昔」が最も興味のある記事、
その町にどんな人がいたかから紹介。
思い出の記 .明治の頃から大正の始め
      山田 国太郎
 ○7~8才のころ
 私は明治33年生れです。父、大太郎は師範学校を出て、教員でした。三戸郡舘村大字売市字売市21番地、山田銀蔵、孫、平民、国太郎、父大 太郎長男と届けてありました。
その頃、一家に一人1票選挙権が与えられ、それも男子でなければなりませんでした。私の家では祖父が戸主でしたので、すべてこの様に記されておりました。
 元の家は、細長い屋敷の奥にありましたが、その元家を取り壊して、道路側に征服で300円で建てた(当時、茅葺が多かった)と聞いております。祖父母と姉はここで暮らしていましたが、私は 親と赴任先の島守におりました。八戸に来たのは7才の春でした。牛の背中に乗せられて上り街道を下って来たのを80余年経っても鮮明に覚えています。
 小学校は、売市尋常小学校でした。お天満様(天満宮)の向いにあり、平家で教室が二つと玄関を入れば左が教員室、その奥が当直室でした。
7才で入学するのは当り前でしたが、9才位で入学する者もおりました。当時は余り厳しくなかった様です。
服装は筒袖に前掛を当てた、袴をはく子は売市には他に居りませんでした。ただ一人私だけ紋付を着ておりました。それは、母が大人の紋付きを切りつめて呉れた一つ紋でした。
 生徒数は全部で30人前後だったと思います。
入学式と云っても親が来たり来なかったりのようでした。学科は書き方(習字)、修身(道徳)、読本(国語)、算術(算数)でした。運動会と云っても大げさなものでなく、30間位(60)米の広場をはだしで走っただけでした。はせ比べとか、よせつんどと言い合っていました。その頃は尋常科は4年制でした。男の子は褌など当てていなかったので、先生が前掛を代りに結んで、スッペさみ取りして呉れました。
 O10~12才のころ
父は病弱でした それで、水目沢にあった田畑を売り、生活費としているようでした。その頃母が袴を作って呉れました。それは御年始に、父の代りに、常海町の某と云う先生の所や山ノ下の池田様といった士族方のお宅に行く為のものでした。勿論お顔を拝見する訳でもなく父の代りに名刺を置くだけでした。
 その頃父は、鶏卵の商いをしたり、教員あがりだと云う事もあり、館村の村会議員に推せんされたり、後に村長の役を仰せ付かる事になったようで、家には常に村の人達が集って居ました。
O14~15才のころ
 その頃の民家は現在の中村安江さんの所から 始って、大橋まで戸数71~72戸位でした。
 私の家の上隣りは本家の山田弥三郎の屋敷が あり、間口30間ありました。その上の小道を入 るとカラタチの木があり、その奥が南部様で、左に曲ると野沢様で、二階建の家がありました。
 その向こうに岡田さんの屋敷がありました。ま た大通には福田さんの土地、それを過ぎると根伝さん(川口さんの向いあたり)、その近くに川口初蔵さんがいました。長松の入り口(角コ)まで三春屋さんの田屋で、道路端にはオンコの木が植えてありました。
 一方私の家の向いから庚申塚のある所まで、岡田さんと云う人の上地で四00坪を四00円で三萬さんに売り、大久保山へ移ったと聞いていま す。三萬さんは、セイロ(穀物用倉庫)を建て、 その管理をする為に、今文壇で活躍なさってい る哲郎さんの父親さんが時折り見えておりまし た。人口にヒバの木を植えていました。その枝を 取り、根つけし成長したのが今私の屋敷に育っ ているしだれヒバの木です。庚申塚の道から西 側に田茂さんの土地、つぎが高崎さんの柿畑で した。その西奥の方は福田さんの土地で、同級 生の中村繁蔵さんの生れた,家がありました。そ のあたりは杉の林が多く、遊びに適さなかった ので、もっぱら表の通りだけでした。それも道 路の両側から木の枝が折り重なって、夏でも薄暗いトンネルのようでした。
 ○16~17才のころ(大正に入った頃)
 米は1俵4円でした。若い者達は角コ(大橋鉄男)のT字路の道端に置かれた3~4個の大きな石(35貫匁~27貫匁、重さの事は木村秋氏の説)があり、その石を肩まで持ち上げる若い者達の力競べが盛んで、夕方になると、T字路に集って来ました。今の重量揚げのようなことをして遊んでいたことをなつかしく思い出します。

.売市附祭のこと
     野沢  剛
八戸三社大祭、平成4年に売市附祭最優秀賞受賞、念願の最高の賞であり、子供たちの目も一段と輝き、掛け声も元気一杯、天候にも恵まれ、売市附祭にとって、今年は特別に忘れる事の出来ない素晴らしいお祭りとなりました。
売市附祭の三社大祭初参加は、昭和33年のことであり、南高市町内会が岡田実氏を初代会長として発足し、戦後の大混乱も漸く落着きを取り戻し、再建の足どり払いよいよスビードを早めつつある時であり、八戸でも日曹製鋼(現太平洋金属33年)火力発電所(33年)東新鋼業(35年)等の進出があり、又根城区画整理事業の施行区域、事業計画が決定(34年)され、進出した企業のアパート、社宅等がこの地域に建設される等、敗戦後の暗いイメージから明るい将来に向けての躍動が感じられる時期でした。
 新組町の附祭が一足早く(31年)参加したと云うこともあり、売市もと云う気持ちが若い人達にあったのだと思いますが、年明け早々に中村利雄(中村酒店先代)、宮沢三次郎(宮沢現委員長の父)、西村清一(西村燃料店先代)の3氏が発起人となって呼びかけがあり、鳥屋部町の村井さんの御指導を頂いて勧進帖の山車が出来上り、初参加となったのでした。お祭りとは見るものだとばかり思って居ました私に、附祭参加の相談があった時は本当に面食ったものでした。全くの無からの出発で、山車の台車、大小の太鼓、人形等、殆んどが二十六日町附祭組からの借物と云う状態で、新調したのは引綱だけであったと思います。旗、腰巻、浴衣等については、山田、岩沢両呉服さん始め多くの方々の御協力で、どうにか恰好がついたのでした。
こうした事から一度に準備できないので毎年人形を揃えたり、大太鼓(36年)、小太鼓、台車等順次に新調しなければならず、肝心の山車に充分な製作費が掛けられず苦労したものです。
初めは珍らしさもあって多数の子供達も参加しましたが、他所の山車より売市の山車が見劣りすると云う事から、年々参加者が少くなり、それを防ぐ為にバス旅行を計画し呼びかけた事も忘れられない事の一つです。参加当初の頃を考えるとよくここまでやって来たものだとつくづく思います。
 着工以来15年、売市区画整理もようやく最終段階となり、町内の様相もすっかり変ってしまいました。町内会発足当時の地域のことを想いますと、感無量のものがあります。町内の発展と共に歩んで来た売市附祭も昭和60年以来5年連続努力賞、昨年は優秀賞35年目の今年は最優秀賞に輝やく事が出来ました。この事は平成元年以来御指導を頂いて来た、夏坂和良さんの御力による所、大でありますが、それにもまして委員長を中心に若い方々の、やろうと云う結集した団結の力があっての事であり、これを契機に、今後より一層頑張って八戸三社大祭を大いに盛り上げ、より多くの人々を喜ばせてほしいものです。
     昭和33年初参加の顔ぶれ
発起人 中村利雄・西村清一・宮沢三次郎
山車製作指導者 村井四良
相談役 邨谷忠吉・幸崎幸市郎
会計 北村市太郎 会計監査 中村福次郎
山車製作者 月舘藤吉・元沢馬吉
  歴代委員長
初代 野洋 剛 昭和33年~昭和46年
2代 西村清一 昭和47年~昭和53年
3代 中村会松 昭和54年~昭和56年
4代 市川儀郎 昭和57年~昭和59年
5代 川口徳治 昭和60年~昭和62年
6代 中村明人 昭和63年~平成3年  -,
7代 宮沢文夫 平成4年~