2007年7月1日日曜日

八戸自動車史 2

O八戸から久慈まで自動車は行く
 営業路線の許可を得た岩淵氏は、早速、常盤商会を速してリパブリック箱型(または電車型とも呼び現在のバスと同様の型)を購入した。渡辺という運転手も付いてきた。
 そのころの一日、この渡辺運転手の助手台に乗せてもらって久慈まで行った上杉氏の談話をまとめてみる。
 この車は、なんとブレーキがきかず、スピードを落してゆるやかに止める程度であったが渡辺運転手はひどく慣れたものだった。この渡辺運転手のスタイルは、前に東京でどこかのおかかえ運転手だったといい、八字ヒゲを貯え、袴を着用し、麻裏草履をはいて出るといういでたちである。
 まず久慈行の客を扱う旅館に前夜、出立を告げ、客の有無をきいておく。
 翌朝、客のある旅館をひとまわりして、朝九時頃に八戸を出発、鍛治町、吹上を通ると通りすがりの旅館で、久慈行の客があれば赤い旗を軒先に立てていて、その客をも集めて一路中居林から十日市、田代へと向う。
 田代へ着くと小休止となり、ラジヱーターの水を抜き、冷水にかえる。旅客とともにそばを食べてから出かけることになる。この田代の出口から大道口と呼ばれる県境までが、最大の難関である。道路は深くえぐられ、とても自動車の通れるようなところではない。従って自動車には必らず、モッタ、スコップ、バケツ、ロープが用意されてあって、動けなくなると来客に降りてもらって、モッタ、スコップで路をつくり、路の両側の畑の高い所をロープを引いて歩いてもらうことになる。また大野の村の農家では自動車に会ってもこわがらない馬を用意して来ていて、この自動車を引っぱってくれたものである。太って力のある馬を自動車の通る頃にはいつでも用意しておいたという。この引っばり賃は、当時の馬車の駄賃の一週間分であったから大野の村の農家ではすすんで用意するようになっていた。こうした難行苦行の末、漸やく大野の村に入ると昼休みになり、乗客は思い思いにくつろぎ、運転手と助手はガソリンを給し、オイルを見てまわり、エンジンを冷す。
 午後の二時か三時になって、自動車は再び走り出す。熊の沢のダラダラ坂を下って、ニツ谷を経て久慈湊に着く。久慈湊で小休止して乗客は乱れた服装をつくろって、いよいよ久慈に入る。もう日暮れになっている。
 こうした悪落と長距離の事業では自動車の車体そのものの傷みのはなはだしかったのも無理はない。しかし、この事業は有志の努力と熱意によって自動車事業に光明をもたらし、草創期を脱したきっかけを与えたといってよい。
○上杉自動車部のこと
 岩淵氏の八戸・久慈間の乗合事業は遠距離区間の営業であったが、やがて一九一二年 (大正十一年)上杉修氏が小中野で自動車部を創設した。藤田金五郎氏宅に居住し、同宅の電話を借り、まだ若かった上杉氏の後見として会計は藤田金五郎氏があずかり、営業をはじめた。これが図に当り、一年経って、丁度自動車一台分の黒字になっていた。
これで自信満々とした上杉氏は、自動車を一年に一台ずつ増やすことにより、経費の欠損を防ぐとともに事業の存続に意をそそぐことにした。
 この計画がまた適切だったのであろう。一年一台ずつの増車は見事に果され、営業は順調に継続されていった。
 一年乗りまわした自動車は、すっかり痛んでしまうわけではなかったが、修理に多大の労力と出費を覚悟せねばならず、かえって営業の衰退に及ぶを恐れたからである。
 一年後、上杉氏は音喜多旅館に移転し、藤田金五郎氏の手からはなれ、完全な独立独歩の体制をとり、第一次発展期の最初の烽火(のろし)を打ちあげたのである。
○乗合業者の組合結成
 上杉自動車部の成功は多かれ少なかれ、自動車事業に関心を奇せていた人々を動かしはじめたようである。
 上杉自動車部創設の翌一九一三(大正十二年)藤田金五郎氏が吉田三郎兵衛氏名儀で自動車営業をはじめており、一方、自動車に対する人々の恐怖と危険感が薄らぐにつれて、この文明の利器を利用する人も増加しはじめていた。馬車の能力と比較にならぬ面が押し出されていて、やがて来る自動車時代を予知せしめるに十分だった。
 やがて、鮫の荷馬車業、相馬屋、角田一雄氏、庭田佐太郎氏も営業をはじめた。
 これら乗り合い営業権をもつ業者が「八戸乗り合い自動車営業組合」を結成した。
メンバーは吉田三郎兵衛、岩淵栄助、角田一雄、庭田佐太郎、小笠原八十美、相馬徳松、上杉修の七名であった。
 小笠原八十美氏の名前が見えるが、大正十四年二月一日現在で国鉄当局が国鉄各駅に起終点を有するバス事業の実態調査を行った資料をみると、小笠原八十美、阿部五兵衛の連名で八戸~久慈間を営業していたもようである。また、すでに大正末年であるか、昭和に入ってからであるか釈然としないが、氏が三本木で経営していた「世界公園」の支店のような形で、八戸にも同名「世界公園」の名称で貸切業をしていた。
 ともかくこのメンバーは八戸の大正末年における乗り合い業者の主要なものであっただろう。
 この組合の業者は八戸市内の路線及び駅構内営業権を順番に行使していたもようであるが、組合そのものは営業上の規制も格別に有するものでなく、大正十四年五月十六日の会合では、岩淵、相馬、上杉の三氏だけの加入になっている。のち小笠原氏が加入したのみである。
 他に大正十三年頃、田中タケシ氏が一持経営したらしいが詳かにしない。
 昭和に入ると業者はさらに増加する。
 市川氏、宮沢氏、梅本氏等があげられる。
 市川氏は八戸~尻内間を、梅本氏は八戸~新井田間を運行した。宮沢氏については不分明ではあるが市内路線であったらしい。
 勿論この頃は乗合、貸切の車別はなく、またトラックも兼業の業者もあり、いささか未分の態ではあったが、乗合、貸切ともに現在の乗用車を用いたもので停留所から停留所まで一定料金を徴収して走るのが乗り合い自動車であり、特定の注文によって走るのが貸切だったわけである。
○トラック業のさきがけ、目時千太郎氏 
乗合貸切自動車業の隆盛のさなかに、大正十五年十月二十九日付で、目時千太郎氏に貸切貸物自動車営業の許可がおりた。
 目時氏は当時を回想していう。そのころ、三戸方面(諏訪平)から毎朝野菜市場に人と野菜をどっさり運んでくるトラックがあった。丸の中に七の標識が威勢よく乗り込む姿を見てすごく便利なものもあるものだと、いつでも感心してながめていた。
目時家は代々、荷馬車業をやり三年ほど前には(大正十二年頃)逓送さえしたものであった。荷物は主として岩手県大野、久慈方面へ行く、塩、米、酒などと大野、久慈方面から来る木炭輸送で八戸~田代間を一日一往復するのみであった。この荷馬車の量と速度とトラックのそれを想像してみるとき、歴然とした差を感じないわけにはゆかない。青物市場に停車中のトラックの側へ行き、目時氏はしばしみつめたものだという。やがて、意を決した目時氏は、トラックも使用して営業することにし、購入した。かくして大正十五年十月二十九日、貸切貨物自動車運輸の許可がおり、営業のはこびとなったものである。
 某氏の記憶によれば、目時氏の貨物自動車は、藤金自動車部で貨物運送用として購入したけれども荷物の集積が思わしくなく間もなく廃した、その折に譲渡された、と伝えている。
 こうしてトラックを用意した目時氏の事業は、八戸~田代間の往復から、さらに岩手県大野村へ、そして岩手県乗入れの許可を得るや九戸郡一円に及んだ。当時の貨物運送の料金は一・五㌧につき一円五十銭であった。
 やがて目時氏に続いて、昭和二、三年頃から鳥谷部氏が六日町で、八戸~三本本間の管業を開始、前後して栗本氏も十一日町で、八戸~軽米間の営業を、また鮫方面では榎本氏が開業している。
○市営バスの発足
 八戸市内の乗り合い自動車業も隆盛に向っている折から、昭和七年、当時の神田市長の市営バスの構想が具体化されはじめ、市内の乗り合いの各業者への営業権譲渡方の話し合いが持込まれた。このころ乗り合い業者の組合も、ほとんど有名無実となっていたが、このきっかけを得て再び団結の機をつかんだ。が、小事を捨てて大義につくという旗幟(きし・はたとのぼり。はたじるし)と小笠原八十美氏の活躍によって譲渡の方向が確定的となり、昭和七年夏、小笠原八十美氏、市川氏、藤田氏、吉田氏、岩淵氏、上杉氏、宮沢氏の七氏の間に譲渡の契約が成り、ここに市営バスの発足をみるにいたった。この他に八戸~新井田間の権利をもっていた梅本氏一人が譲渡に踏み切らず、営業を続けたが、数年ほどおくれて営業権を市営バスに譲渡した。
 市営バスはこうして文字通り八戸市民の足を一手に引き受けるようになったものである。
 市営バスの経営には、市側からは室岡氏があたり、バスの運行、運転、技術等の面では当時藤田氏のもとにあった苫米地氏が迎え入れられた。バスの台数もわずかに十数台にすぎなかった。さらに翌八年には浮木喜四郎氏を整備担当者として迎えた。
 市営バスの営業は昭和七年十月一日に開始されたが、年を追って拡充されていった。