2007年8月1日水曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 6

西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。 
三十三、師家に講本を差図するとは不屈な奴
 禅宗の修行寺に於ては、入門希望者が来た時に、最初は庭詰といって、庭先で問答して、入門希望者の求道心の深浅の程度をテストする。その意志が強固であり、正しくあり、真剣であると認められた者を旦過寮といって仮に入門を許可して、試験する室に通す。そこで坐禅させ、又作法など指導しながら人物考査をする。そこで合格した者が入門となり、掛塔式といって、入門式と各自が坐禅し、勉学し、修行し、食事し、就寝する単という畳一枚の空門を与えられる式を厳粛に行なって、一人前の修行者の取扱をされるのであります。更に経典、祖録等の講義を聴くのにも、その人の力量によって、師家(教授)様の眼識によって、順序が定められるのであります。
 金英和尚が月潭老人に入門した時の力量は今の大学なら修士課程を終えて、講師を勤めうる段階であったと思います。駒込の栴檀林在学中に竹庵先生から四書五経を学び、一般宗教学は慧亮教授から学び、正法眼識を愚禅師から学んだのであるから相当の自信がありました。求道心に燃える金英和尚が、入門後間もなく「御老師様は正法眼蔵の権威者と聞いて参りました。どうぞ、眼蔵の御提唱を御願い致します」と申しあげると、
月潭「自分の力も知らずに、師家に講本の指図するとは不届きな奴だ。宗乗を提唱するには順序があるぞ。その位のことも知らぬ無礼者、出てゆけ」と、はげしく叱られた。ハッと気づいた金英和尚「お許し下さい、失礼しました」と平あやまりにあやまって、ようやく許されたのであります。
その後、余乗といって、一般の仏教経典の講義から宗乗といって、学道用心集とか祖録等の提唱を聞いている中に、相当の力量がある事が認められて、特に円覚経の請義を丁寧にして下さり、眼蔵提唱の準備を進められたのであった。昔の師家様は親切であると思います。更に金英の二字は雅訓の作法上まずいと仰ってて月潭老人自ら?英と改めて下さったのであります。月潭老人は、きびしい反面に、このように親切な心くばりのやさしさもありました。
 穆山和尚は、この年の六月十日に、どうしても、仙台に行かねばならぬ用件が出来たのであります。その時、月潭老人は、門下の者に円覚経の講義中でありましたが、わざわざ穆山和尚の為に餞別の掲(詩)を作って下さいました。それは
 穆山和上天暑中仙台に游ぶを送る。と題して、
 往昔文殊三越の居
 飲光槌を挙して親疎を絶す
 仙白道ふこと勿れ干余里と
 円覚場中都て一蘆
右月潭拝草
 己酉六月初十日
 有難いではありませんか、門弟に対して、「拝草」を書き、文殊様々飲先様を引き合せて、仏性のない、信心の薄いといわれる仙台に千余里の道程を踏破してゆく弟子に励ましの親疎を飛び越えた親しい愛情をかけて送って下さる御師家様の円覚(えんがく・円満な悟り。一切衆生しゆじようの中にある悟りの本性(本覚)をいう)の御心境は。
     三十四、穆山と担山
 嘉永三年(一九五〇)穆山和尚三十歳となりました。栴檀林に修学していた穆山和尚が、鳳林寺の住職や栴檀林の諸役を辞任して入門したという事を聞いた原担山がやって来て、月潭門下の人となりました。二人とも豪傑肌で意気投合していたが、或日二人が所用で出掛けて大井川を越える事になった。川岸に来ると一人の妙齢な女性が居て行先が同じであったので穆山がヒョイとおぶって川を越えてやった。ところが向う岸から一緒に歩いている担山が如何にも不服そうな顔をしていた。穆山が担山にどうしたんだと聞いたら、担山がかっとして
「なんだ修行中の者が女など背負って」と攻撃してきた。
穆山即座に「ナンダ君は未だ女な抱いているのか、僕は川岸で捨ててきて何もないよ」とやり返したのである。
二人とも負けず嫌いであったが、穆山は後世大本川総持寺独住第三世の貫首となり片や担山は総理大臣黒田清隆に応援されて、小田原市大雄山最乗寺の住職御前様となり、又帝国大学の印度哲学科の創立者として迎えられ、今日の東大印度哲学の隆盛の基礎を築いたのであります。
 この担山師には次の如き逸話がある。
担山和尚は明治政府が廃仏毀釈をやっておもしろくないので一時還俗して、浅草の雷門に陣取って、貧乏徳利を股にはさんでチビリチビリやりながら占い師をやっていた。そこにひげから鼻が出たような頁黒い奴がやって来て、見てくれというから、しばらくひげ面を見ていたが、
「お前のような奴は見る必要がない」と突ぱねた。ひげ面「どうして」というから、
担山「自分にきけ」と急所を突いた。
それから半月たって、内務省から担山和尚に出て来いという公文書が舞いこんだ。担山が出頭してみると、浅草で人相を見てやったひげ面がいる。黒田清隆大臣である。その外各大臣がずらりと並んでいて担山に仏教の話をせよという。
担山和尚は傍若無人にあごのひげをひねりながら「達磨にはひげがある。担山にもひげがある。達磨は酒を飲まない。担山は酒を飲む」とやってのけた。これが機緑となって、原担山和尚は小田原市の名刹大雄山最乗寺の住職となって活躍したのであります。
 明治三傑の大西郷も大久保利道も共に、大本山永平寺の六十世臥雲禅師について参禅し、無我の思想を学んだのであります。大久保内務郷の如きは暇さえあれば、省内で仏教の無我論を吹聴したということである。この大久保内務郷が或る日曜日に小石川の茗荷谷に居った原担山を訪問して、大いに仏教の無我論を礼讃してやまなかった。担山和尚は、にやにや笑っていたが、いきなり鼻血の出るほど強く大久保利道の鼻をねぢったのである。内務郷は真赤になって怒り
「この坊生けしからんことをする」と怒鳴った。担山和尚相変らずにやりにやりと笑いながら
「無我なら腹を立てんでもよいな」
といって平気でおった。
この豪傑担山和尚は月潭老人の門下生として三ケ月しか居らなかったが、この力量を得たからたいしたものである。穆山和尚は月潭門下として十二年間精励して、その真髄を全得したのだから、その力量は計り知れぬわけである。
     
三十五、後輩達に漢籍祖録を講義した
 嘉永四年(一八五一年)三十一歳
 穆山和尚は既に栴檀林時代に竹庵先生から四書五経を学び、愚禅老師から限蔵及び碧巌録等の祖録を学び、月潭老人より円覚経及び御経祖録等の提唱を受けて、典座(てんぞ・(ゾは唐音) 禅寺で、食事などの事をつかさどる役僧)の職に就いた頃(三十一歳)は月潭老人も認める一家の宗乗家となっていた。それで、直接月潭老人の提唱に葉歯が立たぬ修学僧も多く居たから、それ等修学僧の為に典座寮に講座を設けて、四書五経の素読をしてやり、典座教訓、参同契、宝鏡三昧、学道用心集など、その外簡易な宗乗を講釈して後輩達の実力をつけてやったのであります。
 暗夜の中で命ぜられた本を引き出す
 嘉永五年(一八五二)三十二歳
 月潭老人は大変な蔵書家で、二本立の本箱を三十箱も持たれ書庫にならべていた。穆山和尚はこの書庫の管理をまかされていた。
 月潭「穆山眼蔵註解書第何巻を持って来い」と命ぜられると、暗夜手さぐりで間違いなく、即刻持参出来るようになった。最初は「命ずると同時の催促」の老人の家風であるから、明りをつけ、目録を見、本箱をしらべている中に、「なにをしておるか、早く持ってこい、この間抜め」と怒鳴られたのでありますが、何千冊という書物は書棚の大きさと共に、穆山和尚の脳裏にきちんと整理されていたのであります。
 三十六、注文と催促が同時
     嘉永六年(一八五三)三十三歳
 月潭老人は来客があり用談が済むと典座和尚を呼び、「何か御馳走を頼む」と命じ、穆山典座が典座寮に帰ると、すぐ追いかけて行者(あんじゃ・小間使)にお膳を取りによこす、その時、速刻御膳を持たせてやらぬと御気嫌が悪い。そして御気嫌が治る迄、講義も提唱も中止となる。注文と催促とが同時である。又来客がこの老人の気性を知るようになって、典座寮を困らせない為に、老人がまあまあというのを無理に帰ったら、又大変、講義も提唱も中止でどうすることも出来ない。普通の心掛けでは老人の御気嫌を損ぜぬように出来ない。
穆山和尚は門の中に足音が間えると、障子を細目にあけて、あのお客には御膳を出さねばならぬと判断すると、即刻部下を集めて、お前はお米をとげ、お前は海苔をやけ、お前はやっこ豆腐をつくれ、お前はお燗の支度をしろといいつけて、それぞれ準備を完了して、老人の呼び出しを持つ、予期通り行者が呼びに来る。何くわぬ顔して老人のお話しを聞く、典座寮に引き返すと同時に行者が御膳を取りにくる、一品をつけて御膳を即刻持たせてやる。そして次から次へと準備の料理を運ばせる。月潭老人は大喜満悦で講義にも提唱にも一段と力が入るという工合でした。この典座の役を七ケ年間つとめあげたのが、穆山禅師であります。曹洞宗宗祖道元禅師は「典座教訓」という著述をなされ、料理人としての心得を「人間最上の聖なるつとめ」として親切丁寧に訓戒されております。真実人間の生命否聖人の聖体を保養し、その生命を活かす聖業が典座(料理部長)の任務であります。そして、俊豪月潭老人の活機論と俊英穆山和尚の求道の大願心とが来客用の料理板上に於て交錯転展して停止するところを知らなかったのであります。
 三十七、便所掃除して陰徳を積む
   安政一年(一八五四)三十四歳
 金沢加賀百万石の大乗寺に於て、開山五百年大遠忌が行われた。この大乗寺は、徹通義介禅師の開山した寺で、穆山和尚より十代前の先祖月舟宗胡禅師が中興となっています。
 こうした名刹の開山忌には多くの善知識が全国からお集まりになるので、そうした知識にお目にかかりたいと思って、一週間の大法要に参加したのであります。そして深夜人の寝しずまったのち、二百人の会衆がよごした便所をひそかに掃除して陰徳を積んだのであります。便所掃除ということは修行が相当進んだ人でなければ出来ないとされております。修行で染汚(せんお・けがれること。また、けがすこと)といってよごれている。きたないという心が起るようでは未だ未熟であるこれに対して不染汚というのはよごさない。よごれていないという意味でありますが、よごさない、よごす、きたない、きれいだという不染汚、染汚の二見が相対するようでは未熟であります。きたないと感じ、いやな臭いだと自覚を迷わせる便所を夜ひそかに自分が善い事をしているのだという考えを持たずに、徳行を重ねるのが陰徳であります。
 穆山和尚は禅師となられてからも「お前はまだ便所掃除は出来ないよ」と相当修行の進んだお弟子さんに申されたそうであります。穆山和尚は二百人もの善知識が染汚された便所を聖人の行として不染汚の行を積まれたのであります。
  三十八、三島市郊外如来寺を復興す
     安政二年(一八五五)三十五歳
 静岡県三島市郊外長泉町中上狩に如来寺と云う寺があります。この寺は穆山和尚が住職する以前は平僧地という一ケ寺の資格の無い寺でした。穆山和尚はこれを修理改築して、法地という一ケ寺の位を取り、恩師月潭老人を開山と請勧し、自分は中興二世となっております。私は昭和四十六年八月に如来寺を訪門して、穆山和尚の人間離れした威神力に打たれました。昔から「箱根八里は馬で越す」とか、「箱根の山は天下の嶮」というように、武具に身をかためて馬で通っても身の毛がよだつ場所がたくさんある箱根の嶮路を網代笠一つで毎日往復したというからその求道心と教支育児の激烈さに驚く。
 私が正確に計らせたところ、如来寺から海蔵寺までは十里あります。この十里の嶮路を往復して、如来寺では自分を慕い集まって来た修行僧の為に、経典や祖録を講義し、海蔵寺では月潭老人の正法眼蔵を活きたまま捉えるために、心血を注いだ穆山和尚の勇姿を、箱根の山中に立って偲んだ時、私の目から涙が無性に流れてどうすることも出来なかった。そして天下第一の正師に一度でも会いたかったという慕情の激流が静かな葦の湖の水面に向って、はげしく走っていった。
 如来寺八世黒田真禅師夫人の語るには「禅師様在住の時には檀家は二十戸しかなかった。現在は百五十戸になりました。禅師様のご苦労を偲ぶと涙が出てきます」と目頭を熱くしていました。
 今の如末寺は三門、本堂、庫裡、観音堂など立派に建立されて、禅師の徳を讃えています。