2007年8月1日水曜日

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」 2

売市のギャラリーみちで第二回の「私のありがとう」が6月22日第四金曜日に開催された。
参加者は根城の黒川弥生さん、高舘の木村由記子さん、尻内の松倉由紀江さん、新井田の佐々木秀子さん、尻内の三浦和江さん、長苗代の田茂広子さん、梅村一江さん、櫛引の佐藤隆さん、売市の大西昭子さん、上野ナヨさん、北山栄子さん、南部町の菅谷美月さん、中村澄子さん、白銀の清水政夫さん、南郷区の三浦テルさん、真紀さんたち。
北山さんから味噌汁の差し入れもあり和やかに百円で弁当と飲み物が出た。
これはギャラリーみちの経営者北村道子さんの気持ち。この店は北村夫妻が精神障害者の施設を営み、その利用者が社会復帰する場として設けられた。損得抜きで地域の人々に精神障害者とのふれあいの場になればと考えておられる。この場に は健常者、障害者が製作した小物、あるいは収穫した野菜などが陳列され、販売することができる。三日町に「町のえき」があるが、ここはその売市番と言えるか。
まず、前回の続きで風天の寅さんのタンカの世界、やけのやんぱち日焼けのなすび、わたしや入れ歯で歯がたたないなどの、奇天烈なことばを並べるのが、日本の話芸、講談、落語、浪曲のほかにある第四の民衆芸能、そのテキヤ諸君が育てたタンカの世界にあるロクマ(易者)の喋りが十二支占い、これを筆者が演じた。前回の続きで午年からはじめた。
痛快無比の芸で子年から亥年まで通しでしゃべると二時間芸。これを適当に切って喋るわけだが、八戸在住の人はまず見たことがない。日本でこれが喋れる人も少ないが、昨今は素人がこれに気づいて東京都が発行する大道芸許可証を持ち奮闘中。
日本の話芸普及を目指す筆者が講談も披露。五分 で「本能寺の変」を演じた。ギャラリーみちはこうした何でもありの空間、あれがダメでこれがいいではなく、何でもいい、どれもいいと人間のよさを認める所。
さて、今回の「私のありがとう」は興味深かった。皆さんからいろいろな話を聞かせていただくと、NHKの人気アナ、高橋圭三が「私の秘密」という昭和三十年から昭和四十二年まで放映された番組の冒頭で、名セリフ「事実は小説より奇なりと申しまして…」と言ったが、このギャラリーみちの「私のありがとう」も同様、来場の皆さんの話は実に不思議なことが盛りだくさん。
その内容を解説する前に、TV草創期の番組、「私の秘密」を少々解説、この番組の出演者は渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者が、珍しい体験、秘密を持った登場人物を探り出す。これで高橋圭三が茶の間の人気者になったが、この高橋は岩手県花巻出身、高千穂商科大を卒業し昭和四十二年、NHKに入社、東北なまりを治すために、トイレで必死に標準アクセントを練習、「どうも、どうも、高橋圭三です」と現れる語り口。ニュースやスポーツ中心のNHKの堅いイメージをかえた。軽妙な語り口でテレビ草創期のスターとなった。
この後、どうもどうも、ハイ、どうもと言う言葉に替わった。中国人はこの日本語を聞くと笑う。理由は、どうもは中国語では毛がおおい、ハイは女性の陰部を表す、つまり女のあそこは毛が多いと言うんだから笑うわけ。
さて、「私のありがとう」で貴重な言葉を聞いた。それは、自分が何者であるかがわからない、結婚もした、まだ、わからないが、ある日あるとき、実家で母親と暮らすようになり、ああ、これが私の求めたものだったと気づいたという。だから母にありがとうと言いたい。これには唸った。というのは、日本に仏教が伝来したのは538年とも552年ともいうが、釈迦が唱えた教えにそれがあった。
釈迦はキリストより五百年も前に出現し、キリストのように多くの奇跡は示さないが、たとえを多く語られた。比喩の方が多くの人に理解されるからだ。
法華七諭の一つに衣裏繋珠(えりはんじゅ)の譬えがある。それは、ある貧乏人が、親友の家を訪れご馳走になり、酒によって眠った。親友に急用ができ旅に出なければならい。
寝ている友を起こすのも気の毒に思い、貧乏をしている人のため、はかり知れない値打ちの宝珠を着物の襟に縫い付けて出かけた。
目覚めた貧乏人は親友がいないので立ち去った。そして、相変わらず貧乏暮らしの放浪生活。衣食に大変な苦労、少しでも収入があれば満足という状態。
月日が経ち、また親友と出会う。親友は哀れな姿を見て「何ということだ、君が安楽に暮らせるようにと、君の着物の襟に高価な宝珠を縫い付けておいた。さあ、この宝珠を売りなんでも必要なも のを買いなさい。何不足のない生活ができる」と告げた。その人は、最も身近なところにある宝に気づけなかった自分に気づいたのであった。
どうだ、カールブッセの詩のもある。山の彼方の空遠く、幸い住むと人の言うで、探しても見当たらない、返って来て聞くと更に遠くだと答えるが、これは幸いは足元にこそあるの逆説。
こういう話もある。アメリカ開拓時代、伝道師が来た。このように川が二つある場所の合流点あたりにダイアモンドが採れる。それは高価なものだと教えられる。その言葉にとりつかれて、男はダイアモンド探しにでかけた。三年も経って、何一つみつからず、憔悴しきって自分の小屋に帰って開墾に精を出す。
するとまた、その伝道師が来た。そして、風でドアがバタバタするのを止める石を見て、「とうとう探しましたね、ダイアモンドを、これが、そのダイアモンドです」と指差した。その石は探しに出る三年前、小屋の前に落ちていた石だった。
どうだ、これも含蓄があるぞ。
また、九州生まれの女性が豊橋に就職し、喫茶店で八戸の男性と知り合い結婚、そして八戸に在住する。遠い九州から八戸に住むなど、誰がかんがえただろう。
高橋圭三ではないが、まさに事実は小説より奇なりだ。ご主人を亡くした人、自身も患いを抱える人、いろいろな人がギャラリーみちに集まり、自分のことをもっと語っていただきたい。
歳をとると昔のことがいろいろ思い出されるようになるもの、それを孫を捕まえて喋ると三回聞いたなどと抜かされる。
豊富な経験、貴重な体験を誰かに喋りたいもの。そうした場にギャラリーみちがなることを希望する。そのお手伝いをしているのが筆者。難しいことを言うより、日本の伝統話芸の面白さを味わっていただき、なごやかな雰囲気のなかで、皆様の経験を聞かせていただく、そして、その中から心に残るありがとうを記録したい。