2007年8月1日水曜日

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 2

南売市町内会創立30周年に当り
    川口 喜助
 今から五十年ほど前の風景をスケッチで綴って見たいと思います。当時は舘村売市宇売市三十八番地と四十一番地の境であるこの道を「マイミツコ」と称した前の道のことだろう。私の通学路でもあり、又遊び場所でもあった。この絵の左側の大木は高崎さんの田屋欅の大木、右側の杉と欅は川口喜四郎さん宅の大木で、左側の茅葺き屋根は当時中川さんの住いであった。この道の突き当りは幸崎さんの住いであった。
 道の途中から左へ入った所にえんぶり神様があり、その祠そばにも欅の大木があった。売市に町の商家の田屋と言う屋敷が多く、どの屋敷にも樹が沢山あった。
 畑には作間路があり、家の前を村人が通り抜けしても大して咎める人もなかった。今のように道路が整理されていないので、人の家の前や横を通っていた。
 やがて戦争が強まり舟の材料に徴収され、切り倒された。今の人達には想像もつかないような風景があった現在のまほろば幼稚園の通りである。

.三十周年記念によせて 高崎 裕允
 昭和四十五年杉山に売市幼稚園を開園、昭和五十二年にまほろば幼稚園と園名を変更し、地域の皆様のご協力を頂き、今年二十五年目を迎えた。
 二クラスで始まった幼稚園も、現在七クラス二百四十名が在園している。
 幼い頃、まほろば幼稚園の辺りは一面の柿畑であった。果樹に造詣が深かった祖父が明治三十八年、日露戦争で日本が大勝利をおさめて帰還途中、朝鮮半島より長崎に上陸した際に、巨大柿の特産地より苗木を買い求め、杉山の畑に百本植えたものである。柿畑の周囲には丹波栗が植えられ、畑の入口から幸崎さんまでは、欅の巨木が並んでいたが、先の大戦に船材として供出され、鮫へ運ばれた。
 白山の小川は今の桜木町あたりでせき止められ、上堤と下堤に造られ、冬には村人総出で氷切りをし、八戸水利組合の氷庫に保存した。氷切作業は、村の年中行事であり部落の唯一の現金収入源であった。
 柿畑の一角にえんぶり小屋があった。大正年間に、祖父が村の長老達と計り、えんぶり神様を祀り、村の鎮守の宮とした。荒谷のえんぶりは殿様より唯一帯刀を許され、今も売市えんぶりとして伝統が受け継がれている。
 まほろば幼稚園では開園以来毎年2月には売市のえんぶりを鑑賞させていただいているが、最近ではエンコエンコや、鯛釣り舞に卒園生の顔も見られ、また8月の三社大祭には売市山車組に、お囃しや引子として園児や卒園生が参加している。
 明治以来、周辺の移り変りを見てきた柿の木は、僅かに幸崎さんとまほろば幼稚園に残るだけとなったが、秋にはたわわに実をつける。今後も地域の益々の発展を見守り続けてほしいものだ。

.中村繁蔵さんの思い出 東野 徳夫
 わが家は、南売市町内に転入し二十八年になります。私の記憶の中の中村さんは町内会長、農業委員等の要職を勤められた方と伺って居り私が会った頃は、七十才位に見受けられました。農家で屋敷が広く、周囲は槻木や杉、栗の大木で囲まれてました。
 屋敷が広いので、貸し家や菜園があり、いずれも広々として近所の子供たちの、かっこうの遊び場となっていました。
 家の前の畑の奥は耕作しないまま野原となっていて、ここでは昆虫採集からキャッチボールなどなんでも遊べました。中村さん夫婦は自分の土地を近所の子供たちの遊び場のままにし、元気に飛びまわる子供の姿を笑顔で見守りながら、静かに広場を見廻り、小石やガラスなどの破片を拾う姿に接し、私は感勤し、スイスの教育者のペスタロッチの物語を連想しながら感謝していました。
 私の所から新組町に出る近道は、中村さんの入口の2本の槻木から貸家の前の杉並木を通り、屋敷に入ると、栗の大木が3本あり、屋敷を抜けた畑頭は、また杉並木でした。隣地との境は、八戸市の木になっている、イチイが植えてありました。その脇の小道はやがて売市旧墓地にでた。そこは旧五戸街道の入口にあたり、大橋理容所や住吉食堂のところに出る道でした。
 ある日この近道を歩いて来たら、中村さんが葱畑の端に座っていて、日焼した顔に鉢巻がよく似合っていました。挨拶を交した私は、立ち止りほんのひとときでしたが、お話を伺った事があります。中村さんはすでに町内会長も辞し、毎日屋敷内を見廻ったり、菜園の仕事をしてる様子でした。
 中村さんは、ご自分の父親について、とつとつと語られた。病人はよく幼い日の思い出の事を話すとか、その話の中に幼少の頃の果物やおかずのことを言い出し、何かと中村さんに要求したという、今日のように食品の保存や加工が進んでいなかった。それでも後いくばくも生きられないと思うと、食べたいと言うものは何であれ一生懸命さがして歩いたそうです。夏の柿、春の秋刀魚、冬の苺等いろいろな店を訪ね聞き回りした話でした。
 私は話終わって自分の家へ向かいながら本当に優しい人だなあ、いい所に転入して来たとしみじみ思ったものです。
 今は亡き中村さん、その屋敷跡地のほとんどは、杉山公園用地になっております。私は犬と毎朝散歩しながら、あの日焼けしたまん丸なお顔を思い浮かべております。
 公園のあちらこちらから子供達を見守って下さっている、その優しさは接したみなさんの胸にきっと残っていると思っています。

町内会に寄せて
      松沢 初枝
 昭和十四年、舘村立明治尋常高等小学校に転任になり、終戦すぎの21年まで勤務しました。その当時舘村には明治小、田面木小、売市小と三校がありました。三校は青年学級、処女会など、村内の学事会で時折り交流があり、町内の方々とも顔を合わせることもありました。今にして思えば、その頃から売市地区とは何かの縁で結ばれていたような気がしてなりません。その間に舘村が八戸市に編入になり、売市小も二十二年には根城小学校と改名されました。
 時は流れ、その後二十七年に根城小に転任になりました。その当時根城小は十二学級でした。地区は田畑が多く、家屋も少なく、美しい小鳥の鳴き声がよく聞かれ、緑の多い静かな町でした。
 三十二年、私は町内の方のご厚意により、畑をゆずっていただき、現在の所に住居を構えることになりました。
 それからすでに三十数年過ぎ去りました。前の舘村時代のことをよく覚えていて、声をかけて下さる方も多く、なつかしく心強く思われます。たくさんの方々のお世話になりながら、町内の行事にも参加させていただいて今日に至りました。
 町内の方々の努力が実り、市街地は進んで区画整理も順調におこなわれ、道路も見違える程立派になりました。
 着々と環境が整備され、新しい形の住宅が建ち並び、町内の著しい変貌を見る時、全く隔世の感に打たれます。
 八戸発祥の地、根城史跡を有するゆかりのこの地区で生涯を暮せる仕合わせをしみじみ感じているこの頃です。この地区で住むものとして愛着一入でございます。
 今、町内会創立三十周年を迎えるに当たり今後の弥栄を祈るのみです。

.南売市の想い出 松田 マサ
 馬淵川の清流、町を囲む緑の山々そこにお住まいの皆様の事、私は何時も懐かしく思い出しております。
 昭和十七年8月の陸軍の移動で、弘前憲兵隊付き八戸憲兵分隊長に補す、の命令を受けた主人に従って、前任地の宇都宮から八戸市に参りました。想えば三十八年に亘る第2の故郷根城地区売市での生活は亡夫も私も二人の息子達もご町内の皆様の温いお情で無事楽しく過させて頂きました。
いま走馬灯の様に週ぎ去った歳月の出来事のあれこれを想い起しております。楽しかった事、嬉しかった事、喜びの思い出を沢山残しております。然し、人生行路には、悲しみもついて廻るものです。聖戦と信じ、戦勝を信じて居た戦は敗れました。職業軍人の戦後の生活はまことに悲惨なものです。そんな中にご町内の多くの方のお励しや、御親切の数々は私達にとって、どんなにか勇気と希望が与えられた事でしょう。
 息子喜重の許に身を寄せて十年余りになります。誰に憚る事のない我まま、自由な生活は身体の老化と頭のボケを早めた様です。昨日の事、今日の事も、何も彼も、遠い日の出来事は鮮明で忘れがたいもので、御地での美しい思い出は終生、いや涅槃の国へ参りましても決して忘れ得ないと存じます。ほんとうに有難うございます。
  うれしいな生きて居る家族がいる、犬がいる、うれしいな生きて居る。
 住み慣れし多摩路の宿よ、緑あり丘あり水良し仲良しも出来。
  大正二年生れ 八十歳
   東京都日野市平山3・38・2
.記念誌発刊にあたり 二沢平義雄
 人生は白駒なりと云うが、私がこの地に生まれ七十六年の歳月を迎えたが、かえり見れば、私たちの幼少の頃は、売市を通称荒谷と云って、八戸市の中心街まで徒歩で十分足らずの地にありながら、春はヒバリ、夏は耳をつんざくようなセミの声、秋はふくろうの淋しそうな鳴き声がきこえ る老杉が生い茂り、各家々は戸窓が少なく家の中は昼なお暗い藁ぶき屋根、朝は夜明けと共に家を出て、夕日が山に沈んでから家路をたどる。そのような労働、生活環境は明治年代以前からのもの、そのままであった。
 それが大正年代に至り、各家庭に電気が灯り昭和十六年の頃に道路はコンクリート舗装となり、その頃からどうやら人間の住むような部落になったような感じがする。
 それから三十年後の頃からこの売市地区各町内に急激な変化をもたらす、それが売市地区区画整理事業に依る変化、現在の町内環境の姿である。
 この環境の変化を見てここに住む方々は予期していなかった様変わりを見て白髪の多くなった方々は、昭和の初期の売市地区の姿を忘れ去る事であろう。このように考えると、冒頭の白駒の意味がうなづけるものと信じる。
 白駒とは辞書に依れば、「歳月の過ぎ易すきは白い馬が壁の隙間を過ぐる如く疾きを喩う」とある。人生はうかうかしていれば壁の隙間の向こうを白い駒が通り過ぎるを見る如く、あっという間に終ってしまうの喩え、気がつかないうちに終り、又忘れてしまうものであるとの意味であろう。
 この三十周年記念誌は古きを尋ね、現在を後世に残す意味からして真に意義あるものであり、これを編集して下さった方々に対し万感の謝意を表する次第である。

.敬老会に思うこと 民生委員 小林 綾子
 三十周年おめでとうございます。 三十年を最初から支えて、今を築かれた方々には心から感謝申し上げます。
 私は既に立派になった町内に滑り込み、居心地よくぬくぬくと過ごさせて頂いています。その中で民生委員を仰せつかり、6年を経過しました。それまでは十三班の中のことしか知らなかった私が、今では南売市町内会全体に視野が広がりました。
 殊に敬老会を通して、沢山のお年寄りを知った事は、とても嬉しいことのひとつです。昨年六十五才以上のご夫婦だけの世帯と、独り暮らしの世帯の調査がありました。
 私の担当地区では、老夫婦だけの世帯が6世帯、独り暮らしが5世帯でした。それらの方々の緊急連絡場所などをチェックする為だったのですが、皆さん心配の無い方ばかりなのは、心強いことでした。
 マスコミの伝える内容を見ますと、都会では大変気の毒な方もおられるようですが、南売市を見る限り、七十過ぎても外へ出て働いている方もあり、その元気なのに頭が下ります。
 整然と区画され、立派に舗装された道路、豪華な家々、すばらしい住環境の町内を、敬老会の招待状を持ってお訪ねしながら「豊かだなあ」と心から感じます。
 町内会としては三十周年でも、古くから住んでいる方が多いのですから、どうしても老人人口は多くなります。中には大半が該当する班もあるのですが、殆どの方が元気で、豊かで、幸せというのは、これから仲間入りする私達にとって、先行き嬉しいことです。
 住民のひとりとして、仲間入りさせて頂いたのですから、元気でいる間は町内のお役に立てるように努力したいと思っています。
風呂屋さん  佐藤 重男 
風呂屋さん、親しみのあるそして今では懐しくさえ聞こえる言葉になった。平安時代、京都の東山あたりが発祥の地だと聞いた事があるが、多分当時はまだ庶民のものではなかったのかも知れない。江戸時代には大衆化し明治の初期までは、男女混浴の銭湯(風呂屋)が多かったと云う。近年は広い駐車場を持つ○○温泉と称する郊外型の風呂屋に変って来て、イメージも、雰囲気もかつての風呂屋さんとは全く違ったものになったように思う。
 私が常備消防に入って、初めの勤務場所は鍛冶町の屯所だった。(昭和二十六年)そこには消防団員の外に家事仕事の息抜きに来る人、勤務明けの若者達、町内の隠居的な人、風来坊的な人などさまざまな人達が屯ろしていた。そして将棋、碁、花札、トランプ、マージャンと云った娯楽に興ずる人、専ら喋べる人、聞き役に徹する人、これまたさまざまだった。その中に風呂屋の主人も居た。屯所の筋向いに風呂屋さんがあり、近かったせいもあり、入浴客の少ない時を見計らって息抜きに屯所に来る。番台の話が出て「誰か番台を代ってくれる人いないかな三十分でもいいから」と番台の交替を探す話に、オレがと軽口をたたいている連中も、いざとなると誰もそんな勇気は持ちあわせていなかった。
 私が売市の住人となったのは昭和二十九年の5月でした。その頃、売市の風呂屋さんと云えば高砂湯のことだった。お客さんも多く、特に夕方から夜にかけての浴室の中は、話し声や、笑い声、それに子供達の泣き声、子を叱る親達の声など庶民的な賑かさがあった。それから数年後我が家の近くに、松の湯と云う風呂屋さんが、開業し、南売市は2軒となった。近いと云う事は何かと便利で、嵐の日や、寒い晩などはその有難さを痛切に感じたものだった、風呂屋さんはその地域のコミュニケーションの場、はだかでのつき合いの場、隣人愛を醸成する所でもあった。残念なことに、松の湯も高砂湯も数年前になくなってしまった。郊外型浴場の盛況と家庭風呂の普及と云う時代の流れに押されて社会に大きな役割を果した、街の風呂屋さんも年々残り少なくなり、実に寂しい限りである