2007年8月1日水曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 2

小学校の思い出 小佐田武紀
なにしろ、もうかれこれ五〇年余りも古い昔のことなので、大方記憶もうすれてしまったが、私が青森から当時の八戸尋常小学校に転校したのは、確か、大正二年小学校二年の二学期のことだったと思う。校長は、小柄な梁瀬栄先生、担任は小向健児先生、隣りの組の担任は西川栄一郎先生、隣接校の八戸高等小学校長は稲葉万蔵先生(御子息で当時私より二、三級上の方が今東京でどこかの小学校長をしている)だった。同級生は四十人位だったと思う。その頃級長とか副級長とか、組長という制度があって、成績順できまり、右肩だったか、左肩だったかに紐で編んだ桜の花びらをかたどった様なものをつけることに成っていた。当時の同級生といえば、郡長の孫だった船越博(今丹羽家に養子となる)町長の息子だった北村廉、油屋の橋本弘(今の和吉さん)寺井五郎(当時は久保姓を名のっていた)中里弘、角谷信治、寺下岩蔵、高橋利吉、生田久四郎、青井、大橋、松浦、類家、大村、岩村、途中から転校してこられた松本清、田名部の諸君。それに戦死された橋本徳五郎、病没された、鈴木乙治、江口源吉、佐野川弘二、黒沢岩吉、沼館の諸君のことが思い浮んでくる。工藤辰四郎さんは、当時工藤英太郎といって隣りの西川先生の級だったし、阿部雅之介さんは一綾上だった。四年に成って担任が、師範の一部新卒の川守田先生に代った。兵隊靴に似た茶色の靴をはいた細面の川守田先生は、なにか新鮮なものを感じさせた記憶がある。五年足らずの小学校の生活だったが、その頃おぼろげながら一つの反抗心をいだいていたことがある。それは、級長とか、副級長とか、組長とかいう順位が、成績の良否もさることながら、家庭の財産とか、親父の社会的地位とかに相当左右されているのではないか(もちろん例外もあるが)ということをこども心にも意識し、非常な反発を感じてたことである。それが、六年になったとき、当時着任した郡長の長男めが隣りの組に転校してきたら、いきなり、級長(?)か組長(?)にさせられたのを見て、大いに義憤を感ずると共に、よし、私も大きくなったら郡長になってやろうと思ったことがあった。今では懐しい思い出の一つである。
 汚い校舎だった。放課後交代で当番が掃除をし、すむと担任の先生の所に行って報告をし、先生の検査を得た後で下校するのだった。土ボコリが二センチも三センチもつもっていて、ちっとやそっとではきれいになるものではなかった。風でも強い日は、廊下は黄塵万丈だったような気がする。職掌柄、近頃全国各地の学校を視察するが、いつも自分の小学校の頃を思い浮べて、その立派なのに隔世の感をいだくのが常である。
 また当時豆本がはやり、ジゴマとか、忍術とかが、はやっていたので、よく教室の窓から、忍術のまねをしてとびおりる生徒が多かったことを覚えている。
 冬になると大きな四角な火鉢に火を起して暖をとるのだが、習字の時になると、墨汁が、寒さのために、すっているかたっぱしから凍るので、硯を火鉢にかざし乍ら、すみをすり、ほとぼりのさめない中に大急ぎでかいたのを覚えている。
 教室では、ずっと船越博君と並んでいた。彼とは、中学も一緒、そして、私は途中で腎臓炎に成り、県立病院に一年近く入院し、退院した年に弘前高等学校に入学したのだが、はいってみると私の丁度前の席に船越君がおったのでびっくりしたものだった。私のために、わざわざ入学を待ってくれたのかと冗談をいったものだったが。それから、東大も一緒、こうして彼とは小学から大学まで、ずっと一緒に成った。これはまことに珍らしいことと思っている。
 八戸を去って四十有余年、しかしなんといっても、小学校時代はなつかしい。時折今でも、その頃の数少い写真をひっぱり出しては、旧友をなつかしみ、思い出にふけることが多い。そんなとき、よくひょっこり、寺下岩蔵君が訪ねてくる。彼は東京にでてくると必ず訪ねてくる。私は、ずっと教官畑で今日まで終始したし、彼は社会人として今日まで終始した。彼と東京では、いつも一緒に歓談するのをきまりとしているが、彼の今日までの苦労、人生経験よりにしみ出る体験談は、私にとっても大いに稗益(ひえき・おぎない益すること。たすけとなること。役に立つこと)する所が多い。今では、彼の上京が楽しみの一つである。
 最後に母校の発展と、旧友の健康と、不幸にして早逝された方々のご冥福を祈って擱筆(かくひつ・筆をおくこと。文章を書き終えること)する。(文部省視学官)
なつかしい三つの音 法師浜直吉
 小学校を出てから五十年になる。いまでも私の耳底にのこっているなつかしい三つの音がある。
 それは、まず学校のガラン、ガランの休みのカネと、パンパパンと鳴らしたテギ(拍子木)のことである。こんにちではどこの学校でも、やさしいオルゴールの音楽が流れているが、むかしの学校の始業と休みの知らせは、このテギとカネであった。カネといっても、手のついた鈴で、一時間の勉強が終れば小使さんは、そのカネを振りながら廊下を回る。むかしも今もおなじであろうが、休みを告げる音は心を開放する喜びの音である。子供たちは敏感で小使さんが廊下を回るまでもなく、小使室から出かける第一音がガランの「ガ」がひびくとそれを聞きとって、みんなの顔が思わずニッコリとなったものである。休み時間の十五分は、降らない日は外に出る。雨の日は雨天体操場へ(こんにちは体育館というが、そのころは体操バといった)必ず出たもので、教室に残っていると叱かられたものである。いまでは休み時間は便所へ行ってきて、次の勉強の準備をする時間だから外ででんぶぐる(跳びまわって遊ぶ)ことはやめろといわれるが、そのころはそのようになっていても、やはりでんぶぐる時間になっていた。そんなことで休むカネの音はほんとうに子供にとっては喜びの音であった。一方始業のテギは逆に心をひきしめる、いねば鞭のような緊張の音であった。授業がはじまってから三十分になると半テギといって一つずつパーン………パーンと鳴らし歩く、これはおなじ緊張音でも「もう少しだ」というわけで、やや、やわらかな音にひびく、いつの時代もおなじで勉強はいやなもの、遊ぶことはうれしいものである。
 さて、もう一つの音は役場の時報の鐘の音である。なんといっても、おひるの食事はたのしいものであった。役場の鐘の時報は偶数を鳴らしていたので正午の鐘は十二鳴子、こんにちのように給食などはなく、お弁当をもってくる人と家へ行ってくる人とがあり、私は朔日町だったので、家に戻る組であった。正午のガラン、ガランが鳴ると、下駄箱の履物をとるのももどかしく草履をつっかけてとび出す。役場の前を通るときは、たいていは役場の小使さんが鐘楼で鐘をついていた。つく人はカネをつくとき鐘木を動かしながら調子をとってグンと引いてからゴーンとつく、それを見ていると鳴るのは、ソラ今だ、今だと思いながら鳴る瞬間の判断が当ると面白い。毎日のことながらヘンテツもないこんなことを見ながら通った。鐘が終ると急に空腹を感じて走る。履きものは草履だからマラソンの日が多かった。こんにちのように靴ははかなかったし、きものだったから下駄と草履だった、ぞうりも麻裏のような上等なものはマレで私のような貧乏ものはワラの冷飯ぞうりが外の常用であった。一銭のぞうりを買えば半月くらいも保てたのか一と月くらいも履けたのか記憶ははっきりしない。思うと同じようなぞうりが学校の下駄箱にたくさん並んでいても、よくも自分のものと他人のものとの区別はちゃんとわかっていたのは不思議のようなものである。このカネは朝の八時は登校のカネ、午後二時と四時は放課のカネ、一日中こうして聞くとはなしに役場のカネはわれわれを守ってくれた親しみの音であり、たのしみの音であった。思えば六年間は長い年月であった。明治から大正にかわり、四年制となり、男女別々の学校が合併になったし、長者校への分離もあった。いくつかの大きい変革があって大正二年の春、母校を巣立ったのであるが、今も私の机上に手垢に古びた一冊の辞書「言海」がある。この五十年間、机上に親しみ通したこの辞書は母校を忘れることの出来ない記念品である。われわれの時代に郡役所があって、地方きってのお偉がたである郡長があった。卒業のときには一校一冊、これを郡長賞として贈られることになっていた。どんな風の吹きまわしであったのか、その賞はボンクラの私がこの光栄に浴することになったのだが当時父も母も他に移住して私は叔父の家に預けられていた。卒業の日に、この分厚い言海を抱いて、畳も天井も煤けた誰も居ない室に戻り、たった一人でこの言海をひらいて遠い父母を思い出していたことをいまも覚えている。(岩手放送勤務)

歴史の回顧 校長 井畑信明
 日本にはじめて学制がしかれたのは明治五年、本校が名実共に学校として誕生したのは明治六年で、日本の学枚教育史と共に育ってきた。創立当時は八戸小学といい、堀端町に本校があり、三つの分校をもっていた。それ以前には特別階層のため藩学や塾があったようだ。この八戸小学は国民教育として、全町民に文化のあかつきを告げる暇々の雄々しい鐘声であった。これから星霜実に九十年、思えばそれは長い歴史であり、途中幾多の変遷があった道程でもあった。九十年のあけくれ先生も兄童もひたむきに歩きつづけてここに幾多の人材をはぐくみ育て、歴史と伝統が一つの校風をうちたて今日に至った。この意義ある年にあたって、ありし日の過去を回想し、先輩のみなさんに敬意を表し次代への再出発点としたい。顧うに本校は明治六年四月に授業が開始され、毎月十六日が休みだったのを日曜をもって休日とするなど生活体制を整え、開校式を行ったのは九月六日のことだった。それからこの日を以て創立記念日として今日に至っている。児童数は三一〇名で授業料は三等に区分され一戸一人の児童のところは二銭、二人は三銭、三人は四銭とされた。明治十四年になって洋風の一大校舎が新築された。やがてこの年の八月には明治天皇の奥羽ご巡幸があり本校が行在所となり講堂が玉座にあてられ学校の名誉この上なかった。その建物は旧市立図書舘として最近まで保存されたことはお判りのことゝ思う。明治十九年に小学校令が公布され、四月に八戸小学を八戸尋常小学校と改めた。明治二十一年には当時の文相森有礼氏がお出でになって講演したこともある。明治二十三年に教育勅語が公布になり本校にもその謄本が下賜され、教育の基本方針が確立され昭和二十年の終戦まで教育の大本として尊重された。明治二十五年八月に八戸尋常小学校と高等小学校を併せて八戸尋常高等小学校と称した。明治三十三年に小学校令が改正になって授業料が廃止された。又明治四十年義務教育年限が改正された。これまで尋常科四年だけ義務で高等科四年は義務でなかった。この年尋常科は六年に延長され義務制になった。高等科は二年乃至三年として自由と改めた。明治四十三年に高等科を分離して八戸尋常小学校と元の校名に改めた。やがて大正時代になりはじめて大正十一年八月、有志の寄贈によってピアノが設備された。そして智育、徳育、体育の人間形成の方針が樹立された。
 大正十三年五月十六日には八戸町大火により、児童の罹災九百三十三名に及び校舎を一時罹災者の避難の場所にした。この年七月に、校地を変更して県農事試験場たった現在の敷地を校地とした。昭和四年四月に新校舎即ち現在の校舎が竣工し、落成の式典を盛大にあげた。昭和十一年十二月柏崎小学校が新築され、学区を変更した。昭和十六年四月に国民学校合が制定になり八戸国民学校と改称した。そして所謂錬成教育の時代に入った。この間に集団学童疎開も行われた。昭和二十年八月九日敏艦載機の投下した焼夷弾により南校舎十教室を焼失した。昭和二十二年新憲法と教育基本法、学校教育法が新たに公布になり、教育方針と方法が一変した。そして校名を八戸小学校と改めた。一方今迄の父兄会が発展的解散をし、新たに父母と教師の会(PTA)が組織され新教育の基礎が出来た。やがて昭和二十三年に焼失した十教室も竣工し旧に復した。
 昭和二十七年学区の改正によって六〇〇名の児童が吹上小学校に転籍になった。この年現在の校歌が改定され全校児童が愛唱するようになった。施設、設備も新教育の方向に添うて整備し始められた。昭和二十八年に八十周年を記念し、先輩功労者の慰霊祭を行い、沿革誌を整理し、学習環境の設備をした。爾来十年新教育の基本的指導要領に則り当局の理解と学区民の絶大な協力によって、施設、設備を充実し、近代教育の効率を期しつゝここに九十周年の式典を迎えることになった。
 この九十年の歳月に万を数える卒業生と町民の協力によって築き上げられた本校の伝統は一つの校風を樹立した。この伝統は私どもに対する無言の啓示である。私どもは伝統に座することは易いがこれを時代に即応して次代に引きつぐことはむずかしいことであると思う。私たちは日に日に新たな心をもって精進をつづけ伝統の継承者であり、伝達者にならねばならない。名門の名に酔ってはいけない。然しこれを粗末にしてはならない。お互い自重して今後の八戸小学校を築き上げることを誓いたいものである。
伝統をさらに

八戸小学校創立九十周年記念事業協賛会長八戸小学校父母と教師の会会長 村山竹司
長い歴史と伝統をもった八戸小学校創立九十周年式典を十月十二日に挙げることができる意味において、誠に意義があると思います。
 九十年の歴史の中から、名門校として、いくたの人材が輩出して、現在多方面にそれぞれの立場で活躍されておられるのも、歴史と伝統のもつ強みであり、喜ばしいことであると信しております。
 過日、元校長先生から集まっていただいて開催した、「八戸小学校の思い出を語る座談会」でも、退職された先生方が、現在なお、学校に対する深い愛着をお持ちになられており、その当時、どんなに情熱を傾けて学校経営に当たられたかが推察されました。
また、開校当時の標識の石が、いくたびか校舎が移転した現在、玄関前の築山に自然の石として、風雪にたえ、九十年の長さと、そのもつ意義の深さを知って感慨無量でありました。一つの石の静かなたたずまいや、置かれた位置の確かさ。
 そのような静かで堅実な伝統が、八戸小学校をして声望を高からしめたものであり、さらに、次代に受け継がれていくものと確信しております。
PTAが主となって、記念事業協賛会を組織し、学区内および会員の皆様のご尽力、ご協力によって学校にテレビ受像機を贈って、教育の近代化を進め、さらに深めることにより、進展する社会に対処でき、しかも、二十世紀後半の担い手である創造性豊かな児童の育成に専念していただくことは、大いに意義があるものと思っております。伝統を受け、さらに伝統をつくり上げていくことこそわたしたちの願いであります。
 PTAが発足して、十七年になりますが、今日、九十周年記念行事をなし得ることも、会員の皆様のご支特のたまものであり、これまで育て上げてくださった先輩の皆様にも厚くお礼申し上げたいと存じます。