2007年9月1日土曜日

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 3

終戦前の思い出 山田  静
 南売市の町内のことを思い出して書いて下さいと云われ、考えて見たらこれまで大変なお世話を頂いて来たんだな、六十数年間、生まれてから、ずーっとこの事を省みて感無量と思うのが実感です。この聞目に見えない、気がつかない温い人情に甘え育って来ました。これが生れ故郷と云うものかも知れません。
 南売市といわれるようになったのはいつ頃からでしょうか、小学校の夏休みのラジオ体操を近所の空地でやった時はそのような町名を使った記憶はありませんので、多分戦時中の隣組編成の頃からではないかと思いますが、それにしても東売市、北売市がなく、南と西になったのも何か、理由があったのかも知れません。
 小学校、中学校時代(昭和十八年まで)は本当にのんびりしてました。家は何軒もあるわけではなく、木や林に囲まれた農村地帯だったのが敗戦を境に、然も区画整理後は全くと云ってよい程昔の面影は無くなって、町並も家の造りも一変して本当に、驚き以外の言葉がありません,昔の小学校の同級生も、戦死したり、他に転居したりで何か発展と逆比例して、淋しいものを感じる最近です。老いて来ると、懐古話しのみが多くなると云いますが、それにしても、昔の隣近所が皆親類のような、まとまりと人情が失われていくのは、何か淋しさを伴うものです。挨拶を交わすのも皆様からの顔馴染みの先輩の方ばかりです。又淋しさを感じるのに、林や木がどんどん切られ、子供達の遊び場と憩いの安らぎの場が失れてしまったことです。時代のうつり変りと云えばそれまでですが、しかしこうなってしまってから、取り返しのつかないことですが、せめてもう一度、町内の方々が昔と同様に、情味のある、暖い気持ちで接し合うことは何時でも出来ることですから、そのように願いたいものです。みんなで町内の為に関心を持ち直して、良い所を保ち、いつまでも暮らしたいものです。
三十周年記念誌に寄せて
      根城正一郎
 「根城地域はすばらしく立派になりましたね」とよく言われます。本当に私達の住むこの地区全体が、売市区画整理事業施行によって昔とは一変して美しく立派な町に生れ変りました.大都市のような喧噪的、非人間的、コンクリートジャングルと対比して、ここは静寂であり、町並も人間的で、詩的ですらあると思います。木の香もふくよかな建物の町並は、たしかに美しく健康的な空間であり自分の気持ちや体調に合わせながら、安らぎと充実感を与えてくれる町となりました。このあたり一帯の空間は精神の緊張を断ち切り、明日への活力を新らしく湧き立たせてくれる、とても素適な町だと思います。
 昔から、真に定着するには庭付きの住いが望ましいと考えられています。庭とは、自分自らが手を下せる自然を持つことだと云われ、手をよごして植物を育てたり、日光浴をしたり、食事をとったり、体操をしたり、読書を楽しんだり、作業をしたりできる自分だけの屋外空間であります。
 町並は、そこに住みついた人々がその歴史のなかで創りあげてきたものであり、その創られ方は、その風土と人間とのかかわり合いにおいて成立するものであります。世界中で一番美しい町、魅力ある所が、イタリーであると云われています。オランダでは窓の美しい町が有名で、どの家でも窓には美しい花を飾り、町行く人々の目を楽しませてくれます。窓のカーテンが開かれて、室内が見える美しい町でもあるのです。そこに住む人々にとって少しでも快的な住いの環境や美しい町並を創り出すことは、そこに住む人々の義務であります。人は町を育てるとともに、町は人を育てると申します。目に見える町も大切ですが、目に見えない町創りも大切だと思います。隣り同志が睦み合い助け合い、そこに住む人々の気に入る町、個性ある健康で明るい町を創りたいと切望しています。
.南売市に住んでおもう
      平賀 ミツ
 私が南売市に住むことになったのは、県職員として三戸地区から八戸地区に転任になったからで、早や三十年になろうとしている。
 あの頃の南売市は、まわり一面畑が多く、秋には真赤なりんごを見ることが懐しかった。道路は石ころが多く、あちこちに水溜りがあり、鬱蒼と茂った大木が昼尚暗い感であった。又、年数がたった藁屋があちこちにあり、まるで山村という感じであった。近所の人々は、垣根越しに声をかけ、野菜を分け合ったりして、朝夕の挨拶も楽しく、住みよい所だと思った。しかし、人情が深くても日常生活の習慣、地域環境に対する発展性並びに人間関係は、他に比較して非常におくれている様な感じがした。私が県内をよく指導して歩いたので、すぐその事に気がついた。
 先般或る家を訪問する機会に、訪問先には電話連絡をし、南売市を中心に、下久根、西売市をゆっくり見る機会を得た。目的の家は見つからず、お迎えをうけた始末である。周辺は素晴らしい変り様である。新住宅とアパートだけ、これだけに変貌した南売市は、住民の限りない理解と協力があったと思った。道を歩いている人は少く、只、車が我が道とばかり走ってゆく。道を尋ねるにもお互に高い塀をまわし、門構えは人を寄せつけない冷たい感じで、挨拶の仕様もなかった。新しい道路と新住宅であってもその中に住む人の心構えが変らない限り、三十年前の売市になりかねない。挨拶運動、青少年育成等々、今日的問題を各団体でよびかけているが、どれだけの効果があったろうか。それは家庭と地域に住む私達が、人に区別をつけず、人々の良さを発見し、口先ばかりでなく自分の発言に責任をもち、老も若きも大いに話合いの機会をもって活動ができたら、やがて誰もが通る老後生活も楽しいものに変るのではないかと、自分の幸を思いながら、より以上の住みよい南売市になる様にと祈りながら帰路についた。
.この地に住んで思うこと
      巻   隆
 私は、この地(売市狐窪)に移り住んだのは昭和三十六年9月でしたから、ここに住みついて既に三十一年が過ぎ去ったことになります。
 光陰矢の如しと云いますが、歳月の流れ去る早さを改めて感じております。
 私の住家は当時の松の湯(現在、豊田産婦人科駐車場)の向い側の少し奥まった所でしたが、この辺は杉や欅や栗の老木が鬱蒼としており朝夕小鳥のさえずりが聞かれる、とても閑静な場所でした。また、現在のスーパーみなとやの向い一帯は畑が広がっており、その畑の間に住家が点在しているような実に長閑な状態で、謂わばこの地区は無定型で自然発生的に出来た街といっても過言ではないと当時のことを思い浮かべております。それにこの辺は車が通行出来るような道路らしい道路は皆無に等しい状態であり、万一、火災でも発生したら恐らく全焼は免れなかったのではないかと今改めて当時の状況を思い浮べているところです。
 時期は定かでないが、巷に売市区画整理事業の話が彷彿と開かれるようになり、その後区画整理に開する説明会が数度にわたり開催されました。
 私はこの説明を聞いて光明が灯された思いで、早期実現を期待したものでした。
 いよいよ、街路工事が実際に開始されたのは昭和五十六年頃ではなかったかと記憶しておりますが、その工事が進捗するにつれて私共が住んでいる狐窪が他の地区に先がけて昭和五十七年から家屋移転等の工事が行われるようになり、私の所は五十八年7月に工事が完了しました。
 この区画整理事業は、その後も年次計画に基づき工事が進められており、最早、昔の南光市の面影を伺い知ることが出来なくなりました。
 他の地域にはあまり見られないような歩行者専用道路が整備されたり、街路が縦横に造成される等、昔の街を一新し、明るく住み良い街が現実のものになるうとしています。
 このことは、正に南売市町内会三十周年に相応しい街づくりと云えるのではないでしょうか。
 この地区は、市の中心部に近く、長根運動公園にも隣接しているうえ、住み良い生活環境に恵まれ、仕合わせを感じている今日この頃です。
明 る い 街
      稲垣 利衛
 出身地の五戸の上市川から三日町への南部バスのルートは何十年も変っておりません.此処売市を通るバスから見る売市は、しばらくの間全く変化がありませんでした。青森~東京間の駅伝コースでもありました。静かな街という印象でした。又バスから降りる理由もない街であったとも思っておりました。変化は急に此処4、5年のことでしょうか。その結果今は一部を除いて明るく立派な家と店と街並みになりました。市の中心部に近く、住むには本当によい条件を備えていると思います。
 売市に住んでこの十二月で十一年が経過します。 夢中の3年と祭りに期待しました数年であったと思います。此の地で3人の子供が生まれました。又今、医院と住いを新しくしております。周囲が本当にきれいになったものですから、もう此の地ウルイチが生涯の場所となることでしょう。と言いますのも当初売市に医院を開設しました時に何人かの人に言われました。売市は『仕事の場としては不毛の地である』……と。確かに歯科医院としては初め患者はそう多くはなく、というよりも他と比較してかなり少ない方でした。多分に迷いました。ところが今もそう変りがありません。このことは八戸で歯科医院がこの十年間にほぼ倍に増えたことを考えますと驚くべきことと思っております。隣近所にも恵まれました、名久井クリーニングさんであり、久慈電気さんです。又吉田内科の先生には急患等をお願いした事も度々ありました。こうして過ぎて来てみますと決して派手な街ではないけれども地道にやって来ますと底力のある街であると思っております。
 運動会や町内活動等色々の行事も沢山あります。又、前会長の鈴木さんの文化に対する考えも知る事ができました。色々の個性と実績のある方も沢山おられます。そうして売市には山車祭りがあります。長女から参加させてもらい最後の5人目も来年と思っております。横浜、横須賀、仙台と転々として来ました私達にとりまして子供が参加できる祭りが町内にあるということは大変に落ちつくものでありますし、豊かな気持ちになります。御承知の様に今、大変に活気のあります売市の山車祭りの周辺の風景です。あやかって仕事を通じ、又、町内の行事に参加して自分自身の活気を保って行きたいと思っております。殊に明晰な頭をもって隣の名久井さんと一緒に明るくして行きたいと考えます。(え、あ、うん?)
売市の思いで
      久慈 忠治
 私は市内十八日町の出生で、昔の八戸町で育った訳ですが、子供達の遊び言葉の中に「人まねこまね荒谷の狐」と言うのがありました。中学校(旧制)に入校してから同級生では下久根に、玉山千里君が居り、又新組には下斗米喜三郎君や物故した沢口由郎君等が居りましたので、遠くに来た様な感じがしませんでした。特に売市の通りについては、中学校で毎年(昭和3年~7年)校内マラソンがあって、大杉平を出発して、この売市街道に差しかかると、たるみこ(中村安江さん)の前から登坂となり丁度今の私の家の処が頂上で、道路の両側に大木があり、その枝葉で覆れ、昼尚暗く日照りが当らない為、雨でも降ったら道路が泥んこで足の踏む場を探しながら走った所で、その印象が強く残って居ります。
 昭和二十六年四月、縁あって現在地に住む様になりました。この道路は昭和十五年高館に陸軍飛行場が出来その頃出来たコンクリート道路でしたが所々破損して居りました、その後昭和二十八年に辻本建設の施工で、改修工事が行われたのが記憶にあります。当時の町内の様子はほとんど草葺屋根の家が多く、農家の方々のようでした。私が昭和二十四年十月に長者町で、食料品雑貸店を開業致しましたが、幸いにしてこの地が授かり、二十六年4月に新築転居して参りました。長者町に居った頃の売上は1人で十円、二十円と言うお客様でしたが、売市に開店しまして、時期も田植時でもありましたが100円、200円と云うお客様許りで大変助けて頂きました。
 当時は、十鉄と南鉄が日に何本かのバスが通って居りました。路上ではキャッチボールやバドミントンをやるやら悠長なものでした。市営バスは、二十八年9月から開通となり、私の店の前に、バス停留所を設置して頂き、バス券の発売もやらせて頂きました。
 私が転居して来た昭和二十六年度は、川口助四郎さんが行政員でしたが、二十七年から三十年まで邨谷忠吉氏、三十一年から松田久五郎氏が三十五年度まで勤められました。岡田実氏官職を退き、帰郷されて、南売市に町内会の無い事を憂慮され、三十五年の年頭に、町内の有志の方々を自宅に招いて町内会の設立について相談され、皆様の同意を得て、三十五年二月二十八日南売市町内会が創立されました。
 平成2年2月28日で南売市町内会創立30周年を迎えました。私が売市に来て皆様にお世話になってから、39年を迎える事に相成り、誠に感無量なるものがあります。町内会創立以来小使役として、今日まで町内のお世話をさせて頂きました。これも皆町内にお住みの皆様方の御慈愛を頂き、一家挙げてお世話に相成りました事を深く感謝申し上げる次第であります。
 売市区画整理完了後は、町内の状態は一変し世帯数も500戸を突破するものと思います。
 これからの町内会は、若い方々にお願いして立派な町内会活動をして頂く事を念願して、この一編を売市の思い出として終りと致します。
私の人生と南売市町内
      中村喜兵衛
 今私たちの南売市町内は近代的生活環境に恵まれた住宅街に変りました。世の中の移り変りを思う時、私の人生も又考えさせられる。
 過去の三面(戦前、戦中、戦後)の見聞を思うと走馬灯のように思い出が回る。
 幼少時代、いまのイトーヨーカ堂の西面に大塚屋という酒造店があった(ご主人は中村秀三さん)良く父と一緒に裏庭でトンボ取りした記憶がぼんやりと浮ぶ。その大塚屋が八戸大火により全焼し廃業した。私の生家も蔵を残しただけで全焼した。又、尋常2年生の時、湊の親戚に泊りに行っていて小中野の大火にあい、三日も消火が出来なかった怖い日の事が忘れられない。
 香月園の温室の見学等、少年期の思い出が尽きないが割愛する。
 中学卒業後、志願して長い兵役に服す。
 農地改革の終った昭和23年の7月に除隊して帰った。八戸はほとんど入隊前と変らない町並であった。
 あとで、鮫、小中野に少々の戦禍があったと聞く。
 昭和30年頃より南売市町内に世話になっている。良く休みには杉の葉拾いに自転車で根城の森か松園町の森に出かけた。新組町を通り、根城小学校を過ぎると民家も少く、両側は畑で土ぼこりを立てていた。町内には道路らしい道路はなく、農道的小道を町内の連絡道にしてあった。
 その為、町内の昼火事でも消防車が近づけず大通りからホースを何本も接続して現場に向った。そんな状態の消防活動の為、大半焼失した後の放水となったことを思い出す。
 私は一期、町内会長を勤めた事がある。その当時は生活環境清潔検査が春秋2回行なわれていた。各家庭の生活排水は裏に浸透桝を作り不衛生的排水をしていた。検査は家屋の清掃と共に不衛生的個所の検査に久慈さんの案内で各家庭を訪れ、検査済札と消石灰を配ったものである。朝9時から始まり夕方迄廻っても終らず、丸2日も掛り私達の町内は広いなぁと思った。
 そんな根城地区に、長者山下にあった裁判所が移転、これを機会に根城地区区画整理事業が始り、競馬場跡を中心とした広い畑地が一つの街に変った。続いて売市区画整理事業が始まり、新しく江南小学校、博物館が出来、根城隣接の町内から除々に畑地が住宅街に変っていった。
 私達の南売市町内も最近整備が始まり、新しい街が出来ようとしている。
 各家には救急車や消防車が横付け出来る立派な道路も出来、更に、下水道事業も加わり生活環境が一変し、何処の家庭も台所附近は奇麗な花が咲き乱れ最近迄の不衛生的思い出がうそのようである。もう、昔の面影は何処にも残っていない。 先輩が残した進歩的歴史が忘れられようとしている。この時に当り記念誌を発行し、後輩に伝える事が誠に意義深い事と思います。
 区画整理事業関係者各位に感謝し、新しい街となった町内に一層の文化を加え、益々の発展を願います。最後に、本誌編集に努力下さいました方々に感謝申し上げます。