2007年9月1日土曜日

東奥日報に見る明治二十三年の八戸及び八戸人

三戸郡下長苗代大字高館西山チヨ方より去る一日出火十戸焼失
星亨の行く先
○ 妖星の三戸着 妖星亨の一行は八時七分浦町の列車にて当地を去り正午十二時過ぎ三戸停車場に着せり獣党は往年来僅か該地によりて命を県下に繋ぎおれる所今回妖星の来遊と共にかねて現ナマの下付ありたれば一味の徒党は妖星の忠義のしどころは是れ此処なんめりと旗を押し立て出迎えあり警部巡査に護衛せられて八日町なる旅店田子宮太方に投宿せり同店に於いて昼飯をなしたる後午後二時より同心町なる長栄寺において演説会を開き宣伝の帝国の地位、臣雲平増租の理由、鈴木儀左衛門の日本目下の政党、妖星の我が党の本党皆例の怪弁をふるいたる後懇親会に移りしか会費は三十銭という名ばかりにて皆妖星のご馳走になれば愚昧の輩に至るまで来会するもの頗る多く二百五六十名と聞こえし午後七時三十分土地柄だけに無事平穏のうちに散会したるは獣党の万歳というべし妖星曰くああ今日は初めて少し息をついたと憐れ
○ 警戒中島保安課長石黒八戸警察所長は巡査八名を引率して妖星に随行し石黒署長は巡査と共に昨日一番下り列車にて八戸に帰署せり
○ 妖星の五戸行き 星一行は昨日未明三戸発の汽車にて尻内に出てそれより腕車にて五戸に向かえり依って三戸分署は巡査十名を派出して星を五戸へ送り更に八戸にても巡査五名を出して五戸に届けることになれり
○ 五戸村の政界 五戸村は由来憲政本党の根拠と目され正義の気澎湃として表れ盛んなるの地かつて源晟か村谷有秀と相携えて鹿を第一区に争うや晟等同地に至りて大に辱められほうほうの体にて逃走したることあるにても知るべし況んや政界の賊正気の敵なる星が足をこの地に入れるや謹直なる同地の士民も是れを見かねけん大に憤慨しおるといえば星等の赤恥も思いやるべきのみ為に其の筋にては警戒怠りなく三本木よりも巡査を招集することになれりと
○ 妖星の八戸行き 星は五戸を切り上げて今二日午後八戸に向かう予定にてそれより引き返して五所川原に向かい弘前に出る計画なりと星の恥さらし是れより続々と紙上に現れん
南部地方と星
五戸における星一行
星亨一行を五戸に呼び寄せたるは五戸の和田陸夫、中島太七並びに八戸の福田祐英など壮士の運動によりしものなればこれに加わりしもの大抵弥次喜多なることは言わずして知るに足るべし星一行は去る三十一日三戸町まで出迎えたる倉石村の古川伊代八、藤村耕一という二名の先導にて尻内に着するや五戸より差し向けたる腕車十三両に乗りて五戸に向かい午後一時過ぎ前記の和田中島その他五六名も知れぬ連中により「歓迎星亨君」「正義所向無敵」など書したる二本の旗を押し立てて町端まで出迎え中島保安課長間山警察分署長二十余名の巡査に護衛せられて新町なる浪岡旅店に投ぜり直ちに午餐をすませたる後二時より高雲寺において演説会を開きしに来会者四百十三名演説はいずこも同じ星以下菅伝鈴木雲平四名にして例の如くシャベルものなり右終わりて懇親会を開きしが来会者百四十名にしてこの演説及び及び懇親会には五戸の有力者は近寄りもせずただ主だった臨席者といえば戸来村の長嶺精治、戸来精治、三滝元衡位のものにして豊崎村長対馬精夫他助役村会議員主立ち十余名並び荒木田信一氏も臨席したれども氏等は五戸に来る以前に一同集会を催し決して星派と進退を共にせざるを誓いたるものにして只行ってみようじゃないかというので来たりしなりと臨席の一人なる某氏は五戸村役場において社員に語りて曰く星のご面相を拝んでおくにすぎないのだ誰があんなものに加担するかと
○ 星の来遊と八戸
八戸地方は五戸地方と同じく今は殆ど挙げて進歩派に属するというも過言にあらざるの地なるが今回星一行の来遊に付準星と渾名せらるる源晟を初め子分の無頼漢などが現ナマの為に歓迎などと騒ぎ回るより方法なく悪税の張本人なりとて党派の如何に拘わらず人皆これを嫌悪しおることなれば一層これを指弾して心ある者は少しも意にせえかけるものなかりし八戸の出迎え者は藤井、竹内伊助、川口小太郎
黒石の騒ぎ 星一行黒石に到着するや両側屋根より石雨の如く飛び星以下負傷、立川雲平は護身用ピストルを三発発射、巡査抜剣、大混雑を極め双方とも負傷者あり
八戸町大祭 二十五日は御輿通輿の初日にて各町附祭及び諸種の催し等にて市中賑わい申し分なく近県よりも観客群集し各宿屋は客室のなきに困却せる程なりき午後二時より郷社オガミ神社より繰り出し行列整然として屋台手踊り万般の催しにて停車場通りより三日町へ出て大通り新荒町より上組町裏通り十六日町より右折して鍛冶町より長者山に趣き新羅神社境内にて全く当日の式を終わりたるは午後五時なり夜景は降雨にも拘わらず芸子踊り屋台の通行及び種々の手踊りにて市中賑々しく毎戸軒提灯及び角灯等にて一層景気を添えり第二日目(二十六日)は中日と称し休息日なるがこの日晴天公園なる長者山にては打球の催しあり市中は虎舞大神楽芸子手踊り等にて賑わしくかりし、夜中は初日にいやまして賑わしく第三日目(二十七日)は御帰輿と称し初日の如く長者山より繰り出し裏通り六日町へ出て柏崎新町より下組町へ出て大通り八日町より番町通りオガミ神社へ帰社せり夜中は殊更人通り群集して賑わい申し分なかりき
三戸郡の政況 
○ 両派の候補者 由来進歩派独占独占のところ只一部腐敗漢の現ナマに眩惑して自由党に降りし一味あるのみにて未だ政界の勢力をなすに至らず進歩派は去る十日を以って予選会を開き八戸方面より関春茂、川勝隆邑、遠山景三、石橋万治の四氏五戸方面より江渡種助氏を推し三戸方面また目下協議中なりと言う之に反して自由党は大芦梧楼、進歩派の前議員諏訪内源司二氏の外新たに加賀利尭となん言えるを合して三名の候補を推したるも自由党の同地方に入れられざるは何処も同じこととて形成日に非なるは言うまでもなく勿論進歩派の勝利なるは疑うべくもあらぬことなり
○ 源と大芦との不和 人は彼等の名を耳にするだに不快の感を起すは彼らの平生を知るものの禁ずることを得ずところ合同の議あり進歩党支部を組織する時二名とも其の発会式にあずかり談笑の間に将来の提携を約したるに不拘今や現ナマに魔せられて自由党の奴隷となりしこそ是非なき次第なれ而して今回の選挙には如何にもして自由党の勢力を扶植せんと身の程も知らずおこがましくも我は候補者なりと名乗りいで先ごろ本部より一味の運動費として八百円の下渡を頂き自れ懐中してそしらぬ顔して独りホクホク喜びおりし甲斐もなくこの道にかけては兄たり難く弟たり難き源晟の為看破せられ其の分配を受けざるを憤り両者の間に不和を生じ大芦に負けずと江戸へ罷り出て現ナマを頂戴せんと意気込みたるも流石に人目を恥てか表面は自己所有の黒澤尻なる石膏山の用件と号して去る八日出京の途につきたるが彼が本部より受け取るべき現ナマは大芦同様八百円なりと言えば二人の価格は八百円宛てと知られさても安き人間一匹よな
郡会議員選挙の結果
八戸 石橋万治 浅水礼次郎 小中野 白井毅一 大館 和田議宣 島守 高畑幾太郎 上長苗代 馬渡又兵衛 下長苗代 高橋種吉 長者 岩館善次郎
県会議員 八戸方面
候補者四名、関春茂、遠山景三、石橋万治、川勝隆邑の四氏を推す自由派の微力到底進歩派と堂々争うの元気なければ漸く大芦梧楼氏一名を以って之と争うことなれども是とても当選おぼつかなき模様なりと無勢力も甚だしと言うべし
源義経の借用書
藤倉俊親氏なる人前年源義経の銅像を函館公園に建てんと計画し一万二千円の見積金を以って秩父、鞍馬、福山、衣川、水戸等縁故ある地の石を以って二層の台を築きその上に義経が甲冑に身をかためたる銅像を安置せんとの設計概略決まりしが二十七、八年の戦役にて計画を実行する運びに至らず次で藤倉氏病没してその志継ぐものなくその秘蔵せる源義経の遺墨も二百円の抵当として函館弁天町に質入となりと言うその遺墨は

一干海鼠 五石
一干魚色々 二十刺
右借用致し候後日遂本意候節返済可致すもの也
文治五年九月五日 花押
クレシゲ殿
義経が衣川に死せざりし一証ともなるべく二十五年五月臨時全国宝物取り調べ委員の検閲を経たり
県会当選者
江渡種助四百六点 関春茂二百九十六点 石橋万治二百五点 川勝隆邑二百四点 諏訪内源司二百四十七点 尾形及四郎二百四十点
落選 遠山景三、大芦梧楼、加賀利尭