2007年10月1日月曜日

手記 我が人生に悔いなし 二

中村節子
○ 三沢
三沢市は父の故郷で、お盆には父と共に何度か来たことがあったが、昭和三十一年の三沢市の印象は「外国に来たようだ」である。駅前広場に大きな映画看板があった。畳四枚ぐらいの大きさで、「エデンの東」とジェームス・ディーンの顔が大きく描かれキラキラと光る絵の具が使われていた。街のショウウインドウは外国人向けの飾りつけがしてあり、米軍兵が闊歩していた。
○ 映画
映画館は街の中心に洋画専門の大三沢劇場、マレン劇場、日本映画専門のセントラル劇場、そして中心街から離れた古間木駅(現三沢駅)の近くの古間木劇場と四軒。私の高校への通学路は必ず中心街を通り、洋画専門館の前を抜ける。日中でもキラキラと看板が光り、すごいなあと思った。映画館の客はほとんどアメリカ人と聞いていたので、私は一度も入ったことがない。高校生であったからでもあるが。鉄道官舎は薬師町といって駅と線路をへだてた向かい側にあり、古間木劇場は官舎から歩いて三分弱の近さだった。東千代之助、中村錦之助、大川橋蔵の映画が上映され、母と一緒に見に行った。官舎の奥さん方にも人気のある映画館で「今日は夕食を早くすませて映画に行くの」と言っていた。
古間木劇場は建物が古く、冬には前と後ろにストーブが一台づつあるだけで、寒くて湯たんぽを抱いて出かけた。ところが歩くたびにチャポチャポ音がする。後年、この音を聞くと映画館に行く青春の頃を思い出した。また、座席は椅子で防寒と固さしのぎに座布団を持参、映画の楽しさですっかり忘れ、また取りに戻ったこともあった。
その古間木劇場が駅前の大火の時、線路を飛び越えてきた火の粉で燃え上がった。鉄道官舎が燃えないかとハラハラした。学校の道具を風呂敷包みにし、避難準備をするほどだった。劇場は半焼し、のちに取り壊された。
中心街のセントラル劇場で赤胴鈴之助(チョコザイな小僧め、名を名乗れ!)「赤胴鈴之助だあ!」で、始まる連続ラジオドラマ・デビューしたのが、千葉周作の娘・さゆり役の吉永小百合。出演者に語り手、山東昭子、千葉周作、久松保夫、しのぶ、藤田弓子、竜巻雷之進、宝田明。原作、『少年画報』連載武内つなよしのマンガ)が上映されることになり、小学校五年生の弟がどうしても見たいと言う。「一人では心配だからお姉ちゃんも一緒に行きなさい」と言われ弟の同級生四、五人に付き添っていった。二部作、三部作と上映され都度見に行った。笛吹童子(一九五四)、紅孔雀(同年・興行成績は笛吹童子より上。・共に北村寿夫作のNHKラジオドラマ、それを映画化、東千代之助、中村錦之助が活躍)も弟と一緒に見たが、赤胴鈴之助(一九五七)とどっちが先だか忘れた。
やがて古間木劇場が再建されることになり焼けた劇場の三分の一ぐらいの小さなものが出来上がり、一月二日に開館した。美空ひばりの正月映画だったと思う。満員で椅子もふんわりしていたし、なにより暖かかった。
○ 日本舞踊
三沢駅通りに花柳流日本舞踊教室があり、母に連れられ入門、特に日舞が好きというわけではない。かと言って無理やりさせられたのでもない。しないよりしたほうがいいかなと思った程度。しかしする以上は真剣に取り組んだ。初めての稽古日、母が腰あげを取って着丈(きたけ)にした着物を持たせてくれた。私が端折(はしょり・和服の褄つまなどを折りかかげて帯に挟む)が出来なかったからだ。ところが先輩弟子の小学生が簡単にはよって着付けをしているではないか。高校生の私は恥ずかしかった。次からは腰あげをほどき、はしょりを取って着られるように練習した。
 父は三沢駅に三年勤務し、隣の向山駅に赴任。私は高校を卒業し、航空自衛隊職員となり、向山から汽車通勤することになった。
○ マヨネーズ
航空自衛隊に勤務した私は三沢基地業務部補給隊に配属になった。一番初めに導入教育が一週間あり、その年採用された職員が一緒に自衛隊のこと、基地のことについて教育を受ける。食事を扱う給養班に行ったとき、小隊長自ら厨房を案内し説明した。大きな炊飯器、巨大な冷蔵庫、調理台のある場所で「ここは何百人もの食事を作る。マヨネーズもここで作る。マヨーネーズを作れるかい?」と私の顔を見た。「ハイ。作れます」意外そうな顔で」なら、作ってみて」と言う。当時はマヨネーズは珍しかった。家庭科が嫌いで裁縫も料理もあまり好きでないのに、マヨネーズだけは作り方を知っていた。
三沢市に住んでいた高校生のころ、母は○ツの支店長の奥さんと親しくなった。東京出身の奥さんはお料理の先生であったらしい。そこで母は官舎の奥さんたちと料理を習いに行った。私の記憶にあるのはコロッケとポテトサラダである。母は習った料理は必ずその日に復習として、材料を買い込み私を助手としてそれを作り夕食に出した。コロッケはおいしく出来た。ポテトサラダにはマヨネーズが必要。母はマヨネーズと初めて出会った。我が家には泡立て器がないので、箸を代用したが、うまく出来なかった。次の日母は泡立て器を買い求め、私の学校帰りを待ちうけた。そして二人でマヨネーズを作りあげた。その時のポテトサラダの美味しかったことを今でも忘れられない。家族全員が大好きになり、三日に一度は作った。だから私は作れますと答えたのである。
 私は小隊長の前で卵二個を卵白と卵黄にわけ、卵白を別にし、卵黄だけをステンレスのボールに入れ、泡立て器で丹念に泡立て、マヨネーズの出来上がり。このことがあり、今度入った女の子はマヨネーズを作ると評判になったと後で聞いた。
○ 編み物
下田村向山に編み物の先生が住んでいた。その先生を探しあてたのは母である。八戸の編み物教室の先生をしていて日曜日はお休み、もちろん日曜は私も休みなのでお互いに都合の良い時に、先生のお宅に習いに行った。編み物機械で編むのである。今は手で編む時代ではない。機械編みを覚えなさいと言ったのは母である。今まで私たちのセーターを全部母が編んでくれた。当時は中細という細い毛糸が普通であったので、編み棒で一針一針編むのですごく時間がかかった。編み機だとシャーっと機械を動かすと一回シャーで二段編める。早いなあと一番喜んだのは母であった。
 たまたま隣の官舎の助役さんの奥さんも機械編みをする人だったので、私の編み機の音がすると見に来てアドバイスしてくれた。一枚目のセーターが出来上がったとき感動した。
 この日以来、家族のセーターを編むのは私の役となった。私は小学校三年の時に眼を怪我をしている。「良い方の眼を大事にしなさい。細かいものを見て眼を疲れさせないように」と口ぐせに言っている母が、細かい作業をする編み物を勧めるなんて矛盾していると思うこともあったが編み物は楽しかった。現在は極太など太い毛糸での手編みの方が手軽と思うが、一年に一度はシャーシャーと使っている。当時の編み機は今でも健在である。
編み針のように一つ心にひっかかることがある。編み物の先生への最後の月謝を払い忘れていた。向山駅で父は定年を向え八戸に引っ越すことになった。私も自衛隊を退職することにし、色々と心忙しくすっかり忘れてしまった。思い出したときは既に一年近く経っていて、そのまま現在に至っているのだが、ふと、街角で編み機の看板を見たりすると、なんとなくドキっと心に針が刺すのも不思議。生きてるうちにお支払いを済ませたいものと何十年もの借金を抱えている。