2007年10月1日月曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 8

西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
月潭老人の印可証明
 文久二年(一八六二年)穆山和尚四十二歳となる。後世、国立東京大学印度哲学科の開祖となった豪僧原垣山和尚が三ケ月で逃げ出し、後の大本山総持寺独往二世畔上楳仙和尚でさえ三ケ年しか居れなかった。海蔵寺の貧乏生活と、月潭老人の無類の厳格な膝下に十二年間隠忍自重、辛苦精励したのが穆山和尚ただ一人であった。
弟子の岸沢惟安師が「参禅学道は一筋繩でゆけるものでない。悟ったばかりにて好いことならば、古人がみな歯がぬけ、頭のはげるまで骨をおられるはずがない。身心脱落をも通りぬけて、山僧無仏法の平穏地にいたらなければ本物でない」といっておる。穆山和尚の天才優秀の器を以って、四十二歳まで実参実究した事を評讃した言葉であり、山僧無仏法の穆山和尚が月潭老人から与えられる仏法が一つもなくなったことを意味するものであります。
 かくして、師匠の月潭老人の方から如来寺の穆山和尚を訪問する場面となったのであります。
 昔の御師家様は親切です。如来寺を訪問した月潭老人は穆山和尚と夕食を共にし十二年間能く忍び、能く学び、能く行じた中に色々面白かったこと、つらかったことなどを語りながら一偈(げ・韻文の詩のこと)を作り穆山和尚に呈示したのであります。
それは、
   富嶽の巽兮三島の乾
   霊龕年古りて草??
   兎経一路水に随うと雖も
   采葉流れず徳自ら鮮なり(原漢文)
という一詩であります。
 日本一の秀嶺富士山の東南に当り、清冽な三島川の西北方に位する如来寺の霊龕に長年月わだかまっていた真竜が今や天高く伸びてその茂りが見ごとである。
 今日まで十二年間(早川の)小路をひたすらに水の流れに随って来たけれども采葉も流れることなく長年月練行の徳の光が自然と鮮明に輝いている。
 今や穆山和尚は、日本一の富士山のもと、三島川の清冽な水に身も心も浄め、その徳光富嶽に映じて清鮮な輝きを発するに至ったのであります。
 月潭老人の印可証明の詩は穆山和尚が東京駒込の吉祥寺栴檀林時代に於て、既に漢学宗学等を修得して博士の実力を持ちながら尚進んで海蔵寺に於て宗乗(しゅうじょう・宗義および教典)を学び眼蔵を窮尽し、如来寺に於て多くの若き雲水を説得している勇姿を讃歌したものであります。まことに穆山和尚の学徳は博士号を取ってから更にひたすらに専門の道に不惜身命の精進を、歯がぬけるほど、頭がはげるほど、骨身を削って得られた深く高い内容のものでありました。こうした深さと高さがあったので後世日本一の眼蔵の大家と評され、「穆山死して眼蔵亡ぶ」とまでいわれるようになったのであります。
第二部 宗参寺時代
瞋恚(しんに・自分の心に逆らうものをいかりうらむこと。怒り)徹底の教育法
 文久二年(一八六二年)穆山和尚は恩師曹隆様の寺、宗参寺の住職となる。穆山師を慕って集まれる者古知知常、折居光輪、野々部至遊、福永毫千等の老師を始め二十名程の学僧であった。その中の古知さんは、月潭老人の弟子であり、二十歳前の前途有望の学僧であった。古知さんは、毎日よく穆山師の提唱を聴いて、何かしきりに書いておった。穆山師は恩師の弟子である古知さんが、一生懸命筆記しているのを見て喜んでいた。ある日古知さんを方丈の間(住職の部屋)に呼んで、
穆山「古知、お前は毎日よく筆記しているようだが、何を書いているか?」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「わしが毎日みていると何か書いているようだかな」
古知「いえ、何も書いていません。」
穆山「何もかくすことはない。わしがちゃんと見ておるぞ。」
告知「叱らなければいいます。」
橋山「決して叱らぬからいってみよ。」
告知「馬を書いています。」
穆山師まさかと思いながら
穆山「毎日書いていたら、もう三年にもなるから、大分上手になったろうな。」
古知「へい。」といって頭をかく。
穆山「はじめて書いた帳面と、最近書いた帳面を持って来て見せろ。」というと、いそいそと立って、持ってきたのをみると、馬ばかり書いている。
 その馬たるや最初のものは保育園園児が書いたような絵で、五体ばらばらで、胸のあたりから足がはえていたり、背中から尾が出ていたり、馬とは見えぬものであった。それが三年目の最近のものは、足の出るところに足があり、尾のつけぎわもととのって、走るような、生きているような馬になっていた。
 穆山師は、叱ることも出来ず、微苦笑しながら「おう、上手になった。精出して書け、もっと上手になる。」というと古知さんは喜んで帳面を持って自分の室に帰った。
 これらの御話は、古知さんが十八歳から二十三歳頃迄のことで、古知さんは月潭老人の弟子であったから穆山和尚が特別温情をかたむけて教育した結果、後世曹洞宗大学林(今の駒沢大学)の学長となって恩返しをしています。(西有穆山門下の出世組の一人であります。)
傑人としての穆山和尚の教育法は、月潭老人譲りで、相手の不合理、欠点、無作法は寸分だに容赦せず厳しく叱正する方法で通した。この家風が宗参寺時代に既に激しく現われている。或時、古知さんが穆山和尚に叱られた。怒り出すと容易におさまらないことを知っている古知さんは、先輩達がやっているように、便所に逃げこんだ、ところがまだ中に入って戸を閉めないうちに追いつめられてしまった。進退ここにきわまった古知さんは、くるりと向きなおり、便所の戸を背水の陣として、合掌低頭して、穆山師にむかって、「前人悔を求めて、善言懺謝すれども猶ほ瞋り解けざるは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。」と称えた。これは穆山和尚の得意として、毎日宗参寺で遶行(にょうぎょう・お堂の中を巡りながら読経する)しながら読誦されられていた梵網経の一節でいかりを戒めた戒法であります。
 「御師匠様の前にいる私が、後悔して、おわびしているのにおわびを聴き入れずに、何時までも怒っているのは、不瞋恚戒を犯しているので、断頭罪でございます。教育者の生命を失ってしまいますが‥」と叫んだのである。
 古知の真剣な態度と顔を見た穆山和尚、くすくす笑いながら方丈の間に退却してしまった。穆山和尚は教育熱心であったから、門弟達の為に殆んど講義を休まなかった。ところが或日、宗参寺の元旗本家の檀徒総代長が来ていろいろ話を持ち出し、酒食を共にして、朝から夜まで尻長の長談義をしてしまった。ついに、その日は休講の余儀なきに至った。その旗本の総代長が帰ると折居光倫(後の曹洞宗大学学長)さんを先頭に代表三名の門弟が来て、
折居「講義をしてくれぬようなところにいても無益ですから送行(そうあん・お暇乞)します。」
と申しあげた。
穆山「そうか、師家(教育の最高権威者)に暇をくれて、門弟の方から送行するというのか、よし、さあ出てゆけ、すぐ出てゆけ、さあ出てゆけ」
一同は面くらって狼狽したが、
折居「荷物をまとめる耶合もありますから、明日まで、お待ちください。」と策をめぐらしたが、
穆山「いいや、ならぬ、一刻もおくことはならぬ、さあ立て、さあ立て」と追いたてられて、荷物に手をつける暇も与えられず、門外に追い出されてしまった。代表となって「これからは休講をしない。」という言質を取ろうと思って、交渉した析居さんは、とうとう門前の信者の家に蟄居(ちっきょ・家にこもって外出しないこと)して、そこの篤信の老人をたのみ、老人と共に、日参してお詫びすること七日間、やっとゆるされて講義に加わることが出来たのである。
穆山和尚は、終生この瞋恚徹底の熱心な教育法を一貫したが、それが為に「百姓坊主、無道心者」と怒鳴られた。無理解の軽薄僧侶遠の感情を害した点もあり、いわゆる世間的出世が遅れて弟分の畔上楳仙師が、大本山総待寺独往二世に昇進した当時「弟の楳仙さんに負けた。」と評されたこともあるが、真の宗教家、表裏や、掛け引きのない指導者は殷誉褒貶を気にするようでは役に立たぬ、無位の真人よ、憂国の真士よ、不正に対していかれ、無道心者、恥を知らざる者をゆるすな、真の人間、有能の人材を養成打出する為の瞋恚の鬼となれ、と穆山和尚の生涯は人間を叱咤している。我々は襟を正さねばならぬ。
   二、芝居の番附
穆山和尚が宗参寺の住職となり、一方の法将として幢幡(どうばん・堂内の荘厳具しようごんぐの一。竜頭または宝珠の飾りのある竿柱に六旒の旗を集めて六角形または円形に小旗を下げたもの。木製・金属製および金襴・綾製などがある)を高く掲げて多くの門弟が雲集し、恩師月潭老人の補助師家として機会ある度毎に随行して来たが、山梨県の有力寺院から、月潭老人に西堂(せいどう)職(僧侶修行の最高指導役)を拝請(御招待)に来た。その時、月潭老人は重病で応請できない状態でことわった。「それでは、御老人の代理として相応した師家様を差遣して下さい。」と要求されたので、月潭老人は、使者を宗参寺に派遣して、穆山師を呼び「これから後、私に代って、西堂職や、授戒会の戒師を勤め得るものは、お前より外にあるまい、御釈迦様に代って戒弟の懺悔をうける自信があるかな?」と念を押し、期待をかけて、老人が今日まで使用してきた三牌、紅幕、回向草紙、お袈裟、白浄衣等、結制授戒会という曹洞宗の命脈(生命)を継承する最高儀式の必要具を全部授与せられた。これで穆山師は月潭老人門下の第一人者という証明をされたのであります。
 月潭老人の門下は前述せる如く畔上楳仙師、原垣山師等後世名を挙げた方々の外文字通り多士済々でありました。この幕末のかくれた大宗将も因縁つきて遷化(せんげ・逝去)せられたのでありますが、その遺書をひらいてみると、海蔵寺の後住候補者として、次の如く書かれてあった。
 初筆 穆山瑾英
 二筆 徳山快豊
 三筆   義祐
 これによって、嗣法の弟子古知知常老師が、檀徒総代を帯同して、初筆の穆山和尚を拝請(御招待)する為に牛込の宗参寺にやってこられた。
 穆山師は月潭老人の大恩に報いる為にその招待に応じようと思って、浅草の本然寺の住職をしておる一番弟子の昶庵和尚を呼び寄せその話をすると、喜んで賛成してくれた。
 それでは御前が宗参寺の後住になってくれというと、わたしは、その器ではありません。ことに宗参寺には先住時代からの借金が千両もあり御師匠様の力量でなければ到底整理することが出来ません。小子(私)が住職になれば宗参寺は破産してしまいます。
 御師匠様(穆山師のこと)御本師泰禅様の寺(宗参寺)がつぶれても師家(月潭老人)に義理立てて晋住(住職となる)しなければなりませんかと突っ込んで来るのでやむを得ず海蔵寺行をおことわりした。
 ところが数日後の早朝、穆山師が朝の勤行をすませて玄関までくると、立派な篤が二挺そろって横づけにされた。
 それは関三ケ寺(総録の寺で大本山永平寺の貫首候補の寺)の一つである鴻の台の総寧寺様と、駒込の吉祥寺様であった。総寧寺は海蔵寺の本寺で、吉祥寺は宗参寺の本寺であるから、ただ事でないと思いながら書院に御案内申し上げた。
 上位に御着席願い、湯茶を差し上げると、
総寧寺「古知知常師の御話によりますと、海蔵寺への晋住をおことわりとのこと、色々御事情   もありましようが枉(ま)げて御出頭願いたく存じ、御本寺吉祥寺様も御同道願って、改めて   拝請に参りました。先住月潭師の御遺言もありますので是非御願い致します。」と、本寺吉祥寺方丈(住職)様と共に深く頭を下げられたのであります。
穆山「両御本寺様の御尊来を賜わり、誠に恐縮に存じます。大恩を受けました老人の御遺言で   ありますので、報恩の情をかたむけて、私自身は内諾申し上げましたが、本然寺の昶庵が宗参寺に来るといわぬので困っております。」と深々と頭を下げてお詫びしました。それでは私達から話してみよう。といって昶庵師を呼び、
総寧寺、吉祥寺「昶庵殿、御本師様が御承知であるから、貴殿も御承知願いたい。」
昶庵「本師(穆山師)が、老人の海蔵寺後住に晋住することは、有難いことであります。小子からもよろしく御願い致します」
総寧寺、吉祥寺「それでは、宗参寺に出て下さいますね。」と念を押しますと
昶庵「小子はその器でありませぬ。本師(穆山)以外に宗参寺を救うものはございません。」と頑として持論をまげません。流石の両御本寺様の権威も効むなしく、穆山師に、どうもお騒がせしました。と御挨拶して帰られ、穆山師、海蔵寺招待劇が幕を閉じたのであります。けれども自分が出られないと決まったからといって投げておくわけにゆかぬ、穆山師は書面を以て第二筆の快豊和尚を呼び、又古知老師も総代を帯同して宗参寺に集合した。
古知「穆山老師は種々の事情でおいで下さいませんので、二筆の貴師を拝請したいと思いま   す。」
すると、謙譲を美徳としていた快豊師であるから、
快豊「拙僧の如き無学不徳の者は、老人の後住となるなど恐縮です。」と辞退した。すると、古知老師は「そんならよせ」といってさっさと帰ってしまった。
 これは、古知師が恩師の穆山様なら無条件に心服しているが、その他では公平な態度をとった一証左である。古知師が帰った後に穆山師に向って、
快豊「あなたから御親切な書面を載いたから、適当な人材が見つかるまで席をけがす心算で出   て来たが古知師のあの態度ではね。」といって懐中から相当額の金を出して、この金も要がなくなったから使ってしまうまで置いて下さい」といって、江戸中を見物して帰ってしまった。
穆山師は古知師と相談の結果第三筆の義祐師を呼んで、
穆山「老人はお前さんを気に入りだったから海蔵寺に出てくれ。」と単刀直入に話した。
義祐「わしを後住にする気なら、何故初筆に書かぬ。三筆は要らぬという証拠だ。いやなこと   だ。」といって突っぱねた。
穆山師、突如として、義祐師に向い、
穆山「貴公は芝居の番付を知っておるか。」
義祐「知っておるとも」
穆山「芝居の寄附は、書き出しが女形で、中軸が殿様で、おつとめが座頭だ。」
義祐「うん、そうだ。」
福山「それで、初筆のわしが女形で、役に立たず、二筆の快豊は殿様役で大根だ。三筆の貴公   がおつとめ役者の座頭で老人が一番頼りにしたのだ。どうだ。それでも三筆は要らぬという証拠か。」と逆襲すると、
義祐「うん、わかった。よし。よし。」これで海蔵寺月潭老人の後住が決定したのであります。
穆山師が、長年月、月潭門下として、問答の飯を喫して、義祐師が負けずぎらいで、何を訊かれても知らぬということが大嫌いであることを知りぬいていたから芝居の番附をかつぎ出して、義祐師をうまくはめこんだのであります。
穆山師の機智策略以って知るべし。それにしても、この時代までの宗風が有難いと恩います。自分に古知知常という立派な弟子があるのに一顧だにせず、随身(門下生)中より人物本位で後任住職を遺言し、又、弟子の方も師匠の意志を尊重して、それの実現に一生懸命努力している点は真に、仏法尊重の精神に燃えているので、現代の僧侶に薬として飲ませたいものであります。