2007年11月1日木曜日

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」4

例会の私のありがとうは、売市、ギャラリーみちで九月二十一日に開催された。参加者は富田さん、大久保さん、晴山さんご夫婦、大橋さん、斗賀沢さん、吉成さん、斉藤さん、北山さん、それと杉森さんご夫婦。「はちのへ今昔」編集長、月館弘勝氏。
先ずは八戸の新名所になるべく、この場を提供して下さる精神障害者支援施設経営の北村さんご夫婦に感謝しながら、毎月一回、楽しい人々の交流の場とするべく、ハモニカの演奏から開始。次第に日舞、詩吟、手品などもご覧にいれる。
ハモニカの曲は嫋々として雰囲気がある。杉森さんのご主人がサンタルチアと裏町人生、この曲は昭和十二年、上原敏が歌い、作詞は島田磐也、作曲阿部武雄、暗い浮世のこの裏町を、覗く冷たいこぼれ日よ、なまじ 懸けるな薄情け、夢も侘しい夜の花、というもので一世風靡。演奏者の人生に対する思い入れがあるだけに、なかなか胸に沁みました。
継いで、編集長の風天旅行ばなし。この人は夫婦で一ヶ月も方々を旅行。風の盆から、広島、九州は鹿児島までウロウロ。その紀行を語った。
八戸から出ない人も多く、話に質問が続出。特攻隊の基地、知覧の話は涙なくては聞けない。ゼロ戦の話、パイロットの話、出撃の前に朝鮮人特攻隊員が、死んだら蛍になって皆さんの前に又現れると言って、亡くなった晩にホタルが出た話などなど、先人は苦労をされたもんだ。そんな、話のあれこれを、編集長が綴った。
風の旅   風天弘坊
長野県 上田市 別所温泉で
 ごぉーーん!寺の鐘の音で目が醒めた。
私の生涯にわたって、はじめてのことである。
しらじらと夜が明けはじめた五時に夢のなかで七つ数えたがまた深い眠りに引きこまれた。湯が効いたようだ。夢のなかの出来事か?山中では日の出は遅く、日没は早い。
旅の途中、長野県上田市に属する山中の静寂極まる温泉場に来てしまった。旅の予定も終盤になったが我が古里を出てからかれこれ一月あまり、ホームレスの生活もカマボコのようにすっかり板に付いた?ようである。
此処に来た目的は温泉に入るためではなく「無言館」という美術館が平成九年に開館されていて、そこが目的であった。それより先に建てられた本館は「信濃デッサン館」である。
この歳になっても物識らずの半端な美術愛好家だがお先真っ暗のこの社会の悪行の数々を冥土のミヤゲにと考えた末の行動とも言えるのだ。(ヤケッパチとも言うらしい)
見てやろう。聞いてやろうの旅である。
昨夜のお宿は長野の奥深いところにある別所温泉。
「おお、高級な、お宿でなんと贅沢な」と思ってはならぬ。宿はお粗末そのもの駐車場の一角、すなわち車の中に寝たのである。
南の都市の猛暑をくぐり抜け(36.5℃の日もあったが体温からすれば平熱か)此処は別世界であった。虫よけの網を張った車の窓から山の爽やかな風が吹き抜け心地いい。
無料駐車場には夜の九時を過ぎたら車もいない、人の気配もない静けさだが不気味さもなく清涼感は充分といったところだった。そこは巨大な石を積んだ城のような寺の境内の下にあった。北向観音八二五年の名刹である。ここにゆかりの慈覚大師がおられ、お入りになったといわれる由緒ある湯だそうな。大師湯と言う名である。
境内に入ると愛染カツラの大木があり、縁結びのご利益があるそうだが私ラ爺婆にはトンと関係はござんせん。
消費税の五円をあげて「腐れ縁でもどうにかなりぁんすか?」と掌を合すとバカモン!と観音さまのお声が聞こえたような気が・・。
私は出来ることなら、やってみたかった草むらのなかでの野宿、朝露にぬれての目覚めも悪くはなかったろう。漂泊の旅をした山頭火のようにである。(考えてみると文明の利器とやらの自動車とはなんと無粋なものか)
夜、此処の温泉に浸ったが、やんわりとした湯の質は疲れはてた躰にじんわりとしみた。
湯船に浸かっていたのは私と湯の主人だけであった。ひなびた温泉もこんなにも人の気配が少なくては萎びてしまうのではないかと余計な心配をしたものだ。不況の波はここまで来ているのか。
共同浴場の大師の湯は掛流し、湯船は少々小ぶりだが一五〇円也では贅沢は言えない。入口は本格的な破風造り(お寺の造り)で歴史を感じさせる立派なものだ。
ほんのりと硫黄の香がして飲用もよし。二〇〇円で五〇円もお釣りが来るのは嬉しいではないか。なにか此処の心意気が感じられた思いであった。感謝、感謝である。無料の足湯もあり道端にある飲用の源泉も無料であった。太っ腹!
立派なお宿では入湯だけで一〇〇〇円以上と表示している。宿泊は一五〇〇〇円以上である。私は貧乏人、このような処には間違っても立ち入らぬことである。
湯上りの帰り道は石畳、それがまた素晴らしい感動であった。暗い夜道に人の気配もなくトボトボと湯から駐車場まで歩いた。(一人じゃなく相方とよたよたとだが)たった五、六分ほどの道のりだったが足元の石が燦然と輝き出した。あちらこちらにキラキラとである。それが先が見えないほどのながい距離が続いていた。「わあー天空だ!」思わず口に出た。薄暗い小さな街路灯の光を反射し夜空にきらめく満天の星!となる。歩を進めるとそれがチカチカと点滅して見えるのだ「これは一体なにものだ」地べたに天空を見るなどの幻想は生来初めての経験であった。まるで夢のなか、なんと言う名の石なのか確めようがないが素晴らしいものであった。もう、生きている残りの時間で、こんな想いに浸ることはないのではないか?とふっと頭のなかをかすめたことだ。ここの温泉の効用で熟睡をした。.夢に登場したのは亡くなった親族、亡くなった幼馴染や久しく逢っていない知人達であった。(これはお寺の効用か)
技術の粋を集めたナビゲーションシステムも、使う人間が古いとこんなものか?と
迷い迷ってやっとこの地に辿りついたものだが、わが人生も同じくそんなものだった。と自分に苦笑しあきれ果てもしたが、もう、取り返しのつかぬことではある。最大の迷惑をこうむったのは他でもない相方の労災ではなかった老妻であったろうな。「許せ!」
武将のつもりであったが不精ヒゲほどか。軽いのぉー。笑
旅の最終目的は東京の二科会の展覧会、予定の旅の行程を果たせずに、この地にある「無言館」と「信濃デッサン館」の観賞となる。前館は戦没画学生の作品を集めた美術館である。ここでも目頭を熱くしてしまった。両館長は窪島誠一郎氏。作家水上 勉の子息である。
志半ばで戦争に散った若い画学生の遺作遺品の数々。とてつもなく大きい日本画の作品を見てまた涙。生きていたら、この道で大家になられておられただろうなーと思いを馳せた。建物は十字の形をしているが別に宗教的な意味は含まないそうだ。
光を落した薄暗い館内から外に出ると夏の雲がもくもくと信濃の山々から涌き出ていた。濡らした瞼にまぶしく映る。そして山も野も緑一面鮮やかで美しい。そのなかに紅く点々と花が咲いている。百日紅とも呼ばれる「サルスベリの花だ」出発の日にも我が家のサルスベリの花も咲いていた。
ここではなぜか暑い外気も心地いい。
自然とは「生きていても、死んでいても」自然なのであるがそこにはとんでもない(大きな隔たりがあり違いがある)
私はその風景を目にして「死んで花実が咲くものか」のことばを呟いていた。
あの終戦の日にも確かに我が故郷の山にもサルスベリの花が咲いていた記憶がある。
暑い夏の日も間もなく終わる。  旅は続く
 
編集長の旅の話は次回の「私のありがとう」でも続きます。今回の参加者はご主人に有難うと言う人が多かった。大体において女性が長生きで、亭主の方が先に逝く。そのかみさんから亭主が誉められないのは情けないけど現実。わが身に振り返っても、当然と思うが、今回の出席者連は素晴らしかった。異口同音に亭主のお陰で我有りとおっしゃった。
なかでも岩手県から夫婦で八戸に移住してきた奥さんの喋りに驚嘆。八戸でこんな軽妙な喋りが出来る人がいたんだと絶句。
リズムがある、くすぐりもある、おまけにどんでん返しも含むと、実に話芸の真髄を?んでいる。
この話が秀逸だったので披露。
亭主が小皿を手の上にひっくり返して出した。
「おい。お前、稼ぎが悪いなどと、寝言を並べるな、こうなるぞ」
「お父さん、それはどういう意味ですか」
「それも知らないのか、これはな、お皿が手の上に載っていて、これを放せばバッと落ちるんだ、お皿がバッと落ちるからオサラバだよ、つまり、俺とお前もオサラバだ」
次回のこの人の話を聞きに来てくれ。十分に聞くだけの価値あり。
そのほかに貧乏な父だったが、理美容学校に入れてくれ、そのお陰で今も美容院を営業できる、だから、父にありがとうと言いたいとの言葉もあった。親は有難いものだ。親への感謝の言葉は時折聞く。が、自身が親になって果たして、してもらったことを我が子に返すことが出来たのだろうかと自問すると、してもらいたいばかりが先で、してやる、させてもらえる喜びを忘れてはいないだろうか。
 又、してやったと恩着せがましく言っていないだろうか。前回の例会でも喋ったが、水沢の偉人、後藤新平(政治家、医師より官界に転じ逓相・内相・外相・東京市長などを歴任)が教えた、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして報いを求めぬよう」を実践できる人は少ない。
月に一度の会ではあるが、こんなことを聞いて欲しい、見て欲しいの心根のある人は是非参加してください。参加は自由、入場料百円で弁当、飲み物つきは人のあたたかいふれあいを願う北村さんご夫婦の心。