2007年11月1日木曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 4

佐々木 わたしが赴任した時、南側の校舎が戦災にあってなかったんです。それで体操場を仕切ったり、作法室、裁縫室をつぶして教室にしました。ところが便所がない。あまってたいへんだった。
 井畑 あの校舎が建ったのは佐々木先生の時でしたね。
 佐々木 はあ、そうです。わたしは校庭が狭くなるので、むこうにのばそうとして、市にPTAといっしょに再三陳情したんですが、「基礎ががんとしていたわしい。このまま使ったらよかろうというので、前のまま建てたのです。ところが建ったのはいいが昇降口と便所がない。これまた市に陳情に行ったが、予算がないというのでどうも困ってしまった。わたしが去ってから正部家先生の時、建ちましたね。
 正部家 そうです。おかげさまでわたしの時に昇降口と便所が建ちました。
  涙で送った六百名
正部家 わたしの思い出の一つに、学区の変更がありました。昭和二十七年の三月でしたが・:・:。八戸小学校児童のうち約六百名という児童を手放すという、八戸小学校長として非常に悲しい思い出があります。けれども八戸市の教育全体の上から言えば喜ばしいことかもしれません。当時六百名という約三分の一に当る愛児をむかえにいらっしやる鈴木先生に、おゆずりしなければならないのです。
 鈴木 フッフッフッフ。
 正部家 わたしとしては、手放すことは悲しかったが、しかし市の行政上のことに対しては、校長としては感情的には反対でも、事情止むを得ない。というので、まず送別会をということになりました。わたしはこんこんとして話を続けました。元、八戸は一つの学校だった。次に出来たのが長者小で、長者小に別かれて行くにも、それなりの理由があったのだ。次に出来たのが柏崎小であった。そこにも理由があった。そして今回もその通りである。市の発展にともない、とても一つの学校ではおさまらないのが分るだろう。決してここだけが、あなた方の学校ではない。長者だって、柏崎だって立派な学校になっている。吹上も、あなた方が行って、更に立派な学校にしてください。市が発展するにつれて人口が多くなり、学校も多くなるのが当然なことで、その点を理解しこころよく別れましょう。幸い吹上小学校には、鈴木校長先生を始め立派な先生方や、よいお友だちが待っていてくれます。長横町を大きな廊下と思っておたがいに行ったり来たりしましよう。
こういうことで悲しみながら喜んだふりをして笑い、お別れをして鈴木先生に無事にお届けしたのです。これが、わたしの悲しき思い出であり、八戸発展の一つの原動力となったと考えています。
 鈴木 正部家先生からお話がありましたように、ずいぶん苦しかったようです。八戸小学校から六百名いただきましたが、受け取るわたしとしましても、校長先生は勿論、先生方にも、もっと強い愛着の念があったように思っていました。第一、一学級から十五人~二十人近い児童が行くんです。すると今迄育ててきた子らの三分の一から四分の一行くんですから、学級ががらんとなるんです。あとは学級を編成しなおさなければならないのです。先生と生徒の別れのつらさ……。父兄と学校の別れのつらさ……。校長先生の苦衷。これはいろいろと問題があったのであります。初めは、半分は行かないだろう。二百名ぐらいかなという話がありまして……。これだと受け取る側としてあまりおもしろくない。(笑い)半分以上はこないかなと思いまして正部家先生にお聞きしたら、「どうかな」という話だったんですよ。ところがふたをあけたらほとんど行ったんですねえ……。
 正部家 ほとんどです。
 鈴木 これは正部家先生のご指導の。
 正部家 いやいや、親さん方と相談し、市が大きくなったんだから、これは当然なことと何回も話し合いました。父兄の方々もほんとうに残念だったんでしょうが、ご了解をいただき別れることにしました、別れはするけれど残念そのものだったのです。愛着に清涙ともに下りながら、数回の話し合いで皆さんが了解してくれたのです。
 鈴木 実はあの日、いよいよ三月二十九日でした.この日は非常に雪が降ってね……。きよう来るというので、わたしと加藤P・T・A会長さんと迎えに行くことになりました。校長室で待っていましたが・::・。校長先生のお話が長くてね……。(一同笑い)ハッハッハッ。しびれをきらして、待つこと一時間三十分。さあいよいよ行きましょうということで、ここを行きました。先生や南部会長にみ送られて、ほんとうに感無量でしたね。吹上小学校に着いたら旗を持って迎えてくれました。
 「よくきたね。ばんざい、ばんざい」とね。
 正部家 この時の情景は非常になごやかでありましたが、悲しみでいっばいだったんです。おたがいに「おら行かない。あの人も行かない」と言うことなしにしようと言いましてね。
 鈴木 わたしがとくに感心したのは、こちらからきた人たちが、実によく協力してくれたことです。こちらから来た父兄は教養が深いという感じでした。一たん別れてきたのでしょう。今度は、実に吹上によく協力してくれました。一度きまれば服従と言いましょうか協力と言いましようか。とにかくとてもよくしてくれました。
 正部家・鈴木 そうそう理解と協力がほんとうにありがたいと思いました,
  理解あるPTA
 井畑 八小PTAはたいへん教育に熱心で、協力活動も盛んなのですが、特に終戦後のPTAのご苦労や、協力活動について、お話しいただきたいと思います。まず佐々木先生から・: 
佐々木 先ほども話しましたが私のときは、終戦後の食糧難時代で、生徒の体位も、一年下まわっていたほどです。そこで学力とともに健康教育、体位向上をめざしました。アメリカから大量の脱脂粉乳がきたので、とりあえず、石炭小屋を改造して学校給食をはじめたんです。そのときに、町内から交代で給食当番が出て協力していただきました。中には、野菜などを持ってきてくれた父兄もありましてね。
 正部家 私も、八小の父兄の教育に対する理解と協力という点で一つの思い出をもっているんです。それは八戸市の発展にともなう学区改制 のため、やく六百名の生徒を吹上小学校に手離すという悲しい事態に立ったのですが、父兄の皆様方は、個人的な感情をおさえて、八戸市の教育の発展という大局にたって、なっとくしてくださり、スムーズに事が運ばれたことは、大いに感謝もし、また父兄の本当の意味での理解と協力の姿を示してくださったと思ったのです。
 鈴木 ただ今の正部家先生のお話の続きになるようですが、当時、私は吹上小学校の校長として、八小から六百名の生徒をむかえる側だったんです。私としては、生徒も父兄の方々も新しい学校に一日も早くなじんでくれるよう願い、また、なじんでくれるかという心配もしましたが、もとの八小のPTAの方々は、今度は、吹上小のPTAとして本当によく協力してくださったんです。うれしかったですね。
 井畑 次に松尾先生の頃から施設面での協力が、大きな活動になっているようですが。
 松尾 私も、PTAの方々の協力が忘れられませんね。とりわけ、施設面の充実が目立ちます。二十八年度の図書室、二十九年度の理科室、三十年度の放送施設、三十一年度の体育施設というように、さすが八小のPTAならではと思いました。また、それが無理な形でなくなされているのですね。それから母姉会の方々が毎月、図書費を集めて、本を買ってくださったことも、思い出の一つです。
 井畑 鈴木先生に引きつがれてからは……。
 鈴木 私のときも、第二次教育施設三か年計画で二百四十万円もの協力をいただいております。音楽室、理科備品、保健衛生施設など、どんどん充実していった。水飲場ができたのもこのときです。途中、私がたおれてしまって船場先生に大変、ご苦労をかけてしまいました。
 船場 本当によく協力いただいたと思います。今までは二教科に重点をおいて施設する学校が多かったのですが、全人教育の立場から、あらゆる教科の施設を並行的に計画実行し、これだけ立派なものをそろえているんですから大したもんです。
 井畑 たくさんの思い出話、本当にたのしく聞かせていただきました。まだまだお話ししていただきたいのですが、時間にもなりましたので、この辺で……。どうもありがとうございました。