2007年11月1日木曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 9

 首をかけて檀家室賀氏を救う
 明治元年(一八六八年)穆山師四十八歳となる。幕使、勝海舟時代の激流を察知し、智能く、西郷隆盛の豪勇を制して江戸城を無血で開城し新時代の夜明けとなる。
 穆山師、宗参寺の住職となり七ケ年の星霜を重ね、檀徒の信頼上下を通じて絶対となる。
 ここに、幕末明治の激動の余波を受けて、あわや首をはねられんとした事件が起きた。
徳川家三百年の恩顧を受けた保守的純情派の一部が遂に上野の森にたてこもり、新政府に一矢を報いんとして立ちあがった。これが彰義隊の乱である。既に前年慶応三年に徳川慶喜が朝廷に政権を返上申し上げ、今年、更に勝海舟が戦わずして江戸城を官軍の総将、西郷隆盛に渡した後であるから、物の数でなく且つ問題にならずに無駄な犠牲を出すにすぎなかった。この彰義隊に参加した宗参寺の檀徒、室賀甲斐守は追われて宗参寺に逃げこんで来た。檀徒に信頼されている穆山師、とっさに本堂の須弥壇にかくまった。追う官軍、およそ二百余人が宗参寺を包囲、七名が寺内に侵入し室賀の引渡しを要求した。
官軍「室賀は間違いなく、この寺に逃げこんだ。それを見て知らせた者がある渡してもらおう」
穆山「いや、室賀は居らぬ」
官軍「おらぬ筈はない。家捜しをするがよいか?」穆山「家捜しするとな、僧侶たる私の言うことを信ぜず、家捜しして居らぬ時は何とする。全員   腹かき切ってわびをするか」
官軍「生意気な坊主だ。室賀の代りにお前の首をはねてやろう、室賀を出すか、お前の首を   出すのか」
橋田「よかろう。居らぬものを渡すわけにはいかぬから、私の首を渡そう」
官軍「よし、それでは」と刀を抜いた。
穆山「持て、待て、私はな、生来酒が好きでな、冥土の土産に酒を飲ましてくれ」
官軍「よかろう。」
穆山台所より一升徳利を持参し、官軍代表七人の前に坐禅をくんで、チビリチビリ飲み出した。これを見ていた一人が舌なめずり。穆山、すかさず、
「貴公も一杯どうだ」
と杯を差し出す。思わず手を出して杯を取る。穆山、すかさず、さっとなみなみとついでやる。官軍うまそうに飲みほす。貴公も、ともう一人の隊長らしき者にも飲ませる。ここで穆山しめたと思い
穆山「貴公達、拙僧の首は差しあげるから、話しを聞いてくれ。」
官軍「よかろう。」
椎田「諸君が朝廷に御奉公する義心も、室賀が徳川家の家臣として長らく恩顧を受けた徳川に殉ぜんとするのも、忠義、義心に於て変りはない。貴公等の目指しているこれからの新日本建設は逃げる者は追わず、弱き者は前けてやった赤穂四十七士の義士の精神によらざれば出来ない難事業であるぞ。その精神の提唱者山鹿素行先生がそこに眠ってござる。まあ、私のいう真意が分ったら、何時でも首を持ってゆくがよい」と泰然自若として死線上の説明をなし終えた。
官軍達「この和尚、どえらい和尚だ。後日何かの役に立つだろう。」といって立ち去った。
 この事件が縁となって西郷隆盛が西有穆山を知る事となり、しばしば会見している。こうした事もあって、文明評論家の哲学者田中忠雄氏は、明治の三傑として、明治天皇、西郷隆盛、西有穆山の三人をあげている。
    
故郷八戸に対する慈悲報恩行始まる
 明治二年(一八六九)穆山師四十九歳となる。故郷八戸糠塚の光竜寺に西国三十三ケ所霊場の代替巡礼観音として、この年寄進した三十三観音像が現在も光竜寺本堂前の観音堂に整然と安置されてあります。穆山師は親孝行に於て有名であると共に非常に観音信仰に篤い方でその証拠が開山の寺、八戸市光竜寺様にも遺されていることは有難いことであります。穆山師は眼蔵の大家であり、坐禅の権威者であったから、近寄れない、いかめしい冷厳一徹の人と思われ、又、やかまし屋という印象が強いのですが決してそうした片輪者ではありません。人情に厚く、義理に強い、弟子愛、故郷愛がみちた方であったことは、これから述べる鳳仙寺時代、可睡斎時代の勝跡に出て参ります。

鳳仙寺時代
殺されても袈裟は捨てぬ
 穆山師は明治五年(一八七二)より同十年(一八七七)まで約六年間、群馬県桐生市梅田町の鳳仙寺に住職している。この時代は、穆山師に取って特異な時代である。
 人間は政治の中央に居れば、自分の力量以上に評価されポストも与えられ出世するものでありますが、穆山師は、東京の中心にある宗参寺を去り、群馬県の田舎町、桐生の鳳仙寺第二十五代目の住職として都落ちしたのである。都落ちした穆山師は、世の常識的軌道に乗らずに、逆に中央の要職に引っぱり込まれています。これも穆山師の偉大さを証する一つと思います。
 慶応四年三月十三日、新政府によって発布された「神仏分離令」(仏教教団の組織の中に含まれていた神事、神祭を分離し独立させ、神職の宗教的並びに社会的位置を高める為に発布した悪法令)が爆発の発火点となり、廃仏毀釈の気運を全国的に広める暴政を取るに至った。これは、水戸学や、平田篤胤の学風をうけた国粋主義者及びその影響下にあった政治家の行き過ぎであった。彼等は国民の心の糧となっている仏教を異端視し、邪教視して、神道の国粋性、(それは合理性でも合倫理性でも、合普偏性でも、合国際性でもなかった)を高揚し、仏教組織を行政の強権を以って圧迫し、仏堂を破壊し、仏像、仏具、経典を焼き払い、僧侶に「祝詞」をあげることを強要し、或は還俗を勧告し、大寺院の山門の前に鳥居を立てて神社なりと称して強奪する等現代の中国政府の文化革命や、統一新ベトナム政府の保守系僧侶の洗脳政策の人道的で、妥当な宗教政策とは比較にならぬ野蛮的暴力的狂乱政策を敢行したのが明治政府の廃仏毀釈の実体でありました。その悪性が大正時代となって、自由民権思想によって、影をひそめていたが昭和の初頭より再び、その極悪性を継承した日本の軍部及び右翼の政治家達が遂に日本を滅亡の大戦争に追いやり、「貸家(占領米軍駐留)と唐様に書く三代目。」(明治、大正、昭和)の憂き目に遭わせるに至ったのであります。
 穆山師は、こうした狂言的暴力行政の源泉である、神道国教主義者と能く戦い、能く説服して、仏教の破滅を防ぎ、自由主義、国際協調主義、博愛平和主義の新仏教、正法確立の先駆者として活躍したのが桐生の鳳仙寺時代であります。
 明治五年三月十四日、政府は、教部省を設置して、宗教政策を強化したのでありますが穆山師は、この年、牛込の宗参寺住職を辞し桐生の鳳仙寺(別格地寺院)に転住せられ、政治的大活躍をせられるのであります。穆山師のこの動きを正当に判断する為に、明治政府の宗教政策の内容を知る必要があります。教部省を新設した政府ぱ、その所管の事務を、
一、社寺廃立及ビ祠官僧徒等級格式等ノ事。
一、教義ニ関スル著書出版免許ノ事。   
一、教徒ヲ集合シ教義ヲ講説シ及ビ講社ヲ結ビ候者免許ノ事。
一、教義上ノ訴訟ヲ判決スル事。
の四条を定め、これを各宗派の事務局に通達し、且つ、従来の仏教の十三宗五十余派を勝手に七派に滅少し、その官製七派に官長一名を置くことにした。即ち天台宗は三派を合同、真言宗は十一派を合同、日蓮宗は七派を合同、真宗は九派、時宗は一派で合計で七派に強制統合して、有無を言わせずに仏教各宗派を弾圧したのであります。
 従って禅三宗十六派では合同で一人の管長しか持てなかったのであります。即ち禅宗管長という名の下に、明治五年十月三日より同六年三月三十一日までは、臨済宗の天竜寺住職滴水宜牧師に、曹洞宗、黄壁宗をも管理指導させ、又明治六年四月一日より同七年二月十九日までは、曹洞宗永平寺貫首久我環渓師に臨済宗も黄壁宗も支配させているのであります。こうしたことは到底長続きするものではありません。各宗派の不満、不平、攻撃にあって、一年四ケ月の短命制度で終っております。
 政府は、明治六年五月に神仏合併大教院を開設して、神職と僧侶を教導職となし、三条の教則を説くことを本務として体裁を飾ったが、それは、仏教と僧侶という名のみを残して仏教の精神を皆無にしたものを機械的に政府の御用精神を国民に伝達する機械人間にすぎなかったのである。その布教の目標を見て唖然とします。それは、仏教各宗の宗旨を説くことを禁止し、僧侶否全宗教者が時の為政者の誤れる政策を吹奏するテープレコーダーになれということです。
   三条の教則
一、教神愛国の旨を体すべき事。
一、天地人道を明にすべき事。
一、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむる事。
の三条でありますがこれを当時の国民道徳の範囲で説いて、日本の国体の尊貴を知らしめ敬神愛国の精神を高揚するよう協力してほしいというなら理解出来るが、仏教伝道を生命としている僧侶に対して絶対仏教を解くなというのだから承服出来ない。
 低級な政府の伝達講演をやって居れば無難であるが、少し高尚な比喩なり、学説を仏典の中から引用しても問題とされ、県令(県知事)より教部省へ上申され、教育職を免職すると強迫したのであるから気骨のある者は黙っておれず、衝突することしばしばであり、各分野から猛烈な反対運動が起り、遂に教部省は僅か五ケ年の短命で明治十年に廃止の憂目をみるに至ったのであります。
 こうした時代の激動変化期にわが穆山師の不惜身命の活動が生まれたのであります。今、その主なるものを二、三あげますと、穆山師は、明治六年五十三歳の三月に教部省の召喚に応じて上京し、いろいろ話し合いの結果、教導職中講義に就任し、継いで大講義に昇進しております。
 これは、外部で遠吠えしているよりも内部に入って直接阻止するなり、改革した方が賢明であり、早道であると思考したからであります。
 穆山師は、明治六年一月には、禅三派(普通、禅三派というが、曹洞宗、臨済宗、黄壁宗の三宗を呼ぶ時は禅三宗というべきだ)より選ばれて、大教院議員となり、政府の非道な廃仏毀釈の暴力政策に徹底的に抗戦し、その誤まれるを是正せしめた。
 特に僧侶の法服、即ち袈裟をかけ、法衣を着ることを禁止して、一般人と同様の着物を着用せよと議決した大教院の院議をやり直しさせ従来通りでよしとしたのは、穆山師の活躍によるとされている。穆山師は「他はどうあれ、私は殺されても袈裟をかけ、法衣を着る。」といって頑張ったのであります。
 明治六年三月には、大学八大区末派寺院説諭教法調査に任ぜられ、又神仏道各派管長の依嘱を受け、宗教調査の大任を托せられた。同四月に、権少数正に補任され、両大本山代理を命ぜられ政府の宗教政策に対する曹洞宗の代表者として活躍した。
 又、「護法用心集」を発刊して政府の廃仏毀釈の非道を批判し、正法の護持と僧侶の大反省を求めて大警鐘を鳴らした。
 又、同年九月には北海道巡教を拝し、同十一月大本山大会議議員となり、宗門行政の大綱を統置したのであります。
 穆山師は、明治十年四月、静岡県の可睡斎に転住するまで、鳳仙寺住職として、又政府の大教院の教導職として出でては廃仏毀釈の暴政に抗戦し、入りては仏教界の進路を明示し、又仏教信徒の教化開拓にと輝ける大活躍をしたのであります。
 北海道巡教と札幌市中央寺創立も亦、この時代の壮挙であります。
 観音菩薩の御冥護
 明治六年(一八七三)五十三歳となる。この年十一月、教導職第三位中教正に任ぜられ、曹洞宗管長代現として翌七年八月に北海道開拓の為、渡道することになった。
 穆山師は渡道に際して、師の帰依者である横浜の広島屋に一泊して旅装を調えたのであります。翌日、いざ出発と乗船の時刻を聞いたところ、船は既に一時間前に出帆したとの報告、穆山師、怒髪天を衡くの形相で、
 「今度の渡道は私用でない、公用だ。宿屋根性を起して二泊もさせようと考えたであろう。不届き千万、無礼者」
 穆山師の声は生来大きいのに、口宣策励(言葉にだして励ます)の叱声は広島屋の主人をふるえあがらせた。
広島屋「申し訳ありません。老師様の御宿りが有難いので、のぼせてしまいまして……。」と額を畳につけて、平あやまりにあやまって、老師の御海容(かいよう・寛大の心を以て、人の罪過をゆるすこと)を願ったのであります。
 翌日、乗船出帆し、金華山沖にさしかかると「昨日横浜を出帆した船が暴風雨の為に、木っ葉みじんとなり、船客全員海底の藻くずとなってしまった」と聞きました。
 穆山師は、行季の中に入れて来た観世音菩薩の尊像に向い、「御慈悲を賜わり、御冥護(みょうご・神仏が知らず知らずのうちに守ってくれること)と深く感謝申し上げると共に合掌して遭難者精霊の御冥福を祈ったのであります。               
 広島屋の、のぼせが変じて観世音菩薩となったのであります。
  札幌中央寺建立
     (札幌市南条西二丁目の一)
 海上無事に北海道に上陸した穆山師は、北海道開拓使庁判官松本十郎に会見を申し込んだのであります。判官はクリスチャンで大の仏教嫌いであったから、「まだ宗教家が入るには早い」といって、玄関払いしようとした。穆山師は、「ハ、そうですか」と引きさがるような不見識ものではない。「旱いか、旱くないか、意見を交換してきめたらどうだ」と強く会見を交渉し、遂に松本十郎判官と十日間の長きにわたって、問答激論を闘わし、政治、経済、教育、開拓、宗教等の百般にわたる意見の交換で、悉く判官の敗れるところとなり、判官は穆山師の人格と学識と熱烈な開拓精神に心服して、遂に無二の信者となり、判官自ら寺院設置の敷地壱万坪を選定給与して、小教院(大教院、中教院、小教院は明治政府の機関)を建立せしめ、北海道の精神開拓の根拠とさせたのであります。
 当時の札幌の周辺は人心未だ安定せず、また諸藩の武士や、旧幕臣や、北陸よりの移住者が多く、それらは曹洞宗の信者が多かった為この小教院に集合する者、日毎に多くなり、中教院に昇格した。後の札幌の中央寺がこれであります。穆山師随身の門下僧小松万宗師が主管となり、明治十年組織を改めて寺院となし、十一年から三ケ年に亘り本堂その他を建設して、明治十五年に中央寺と公称したのであります。而して、鉄道布設と墓地の移転が行なわれた為、明治二十一年転地を企画し、同二十三年十二月十七日許可を得同二十五年九月現在地に移転したのであります。
 そして、敷地が壱千六百二十坪に縮少されてしまいましたが本堂と庫院に加えて最近立派な位牌堂が建立されたのであります。今では文字通り宗門の名刹であります。
 穆山師は、自ら開基となり、親交厚かった当時の大本山永平寺貫首久我環渓禅師を拝請して開山となし、大本山永平寺様の直未寺院としたのであります。環渓禅師はこうした穆山師の思議に厚く、開拓の功績と眼蔵研究の功労に対して、明治十四年九月二十八日付を以って、宗祖道元禅師の御霊骨三顆贈与の最大の表彰を以って報いたのであります。
 穆山師は、明治初頭の大激動期に於て、仏教界内外に対して、自信に満ちた護法顕正の大活躍をせられたので、道誉益々あがり、遂に明治十年四月、東海の名刹可睡斎に懇請され、その住職となり、拾万石の「御前様」の待遇を受けることになったのであります。