2007年12月1日土曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 5

九十周年に思う
旧職員寄稿
思い出の一ふし
野 田 三 蔵
 昭和十年前後と申せば軍国主義政治の華やかなりし頃(教育も勿論軍国主義教育)しきりに軍部の明星等が八小校に講演に来られ我が陸海軍の威力を遺憾なくお話しされて帰られた。一日某海軍中将が見えられて一場の講演をされたがその一節に「日本海軍の砲弾の命中率は百発百中、某国海軍の命中率はよくみて五〇パーセント、発射速度は三対二、それに潜水艦の働き、駆逐艦の行動と合わせて万全を期するのである」と。私は実に聞きよい目出度いお話しだと思いました。
 その翌日私の空き時間に職員室で「もし中将閣下のお話しをそのまま受け入れて考えて見れば某国とは確かに米国を指すでしょう。当時米国は我が方の海軍力を実有せられている。もし両軍相対して交戦するとせば一対三の勢力で戦はねばならない。我が各砲の命中率を百パーセント、我が方から攻撃して敵艦一を撃沈しても尚二残る計算となる。次には敵から攻撃を受けると見なければなるまい。若し中将お話しの様に五〇パーセントの命中率として二の力が一を全滅せしめるわけである。敵を知らずして戦えば敗我れにありとは古哲の言である。中将のお話しは桃太郎の鬼が島征伐に彷彿とした講演と申さねばなるまい」と。
ところが私の言うことを聞いていた八小校配属軍人が怒ったの怒らんのって「生意気だ」「ぶんなぐるぞ」と立ち上った。私は「此処は戦場ではない、喧嘩の場所でもない、人をなぐれば刑法の制裁を受けますぞ」と、私の坐っている椅子を足げにしてけりがついた。配属軍人は満洲事変で戦死されましたが、今も尚其の軍人の俤が思い出されてなりません。

馬場町の校舎
       都 筑 ミサヲ
 私が初めて赴任した時のみなさんの学校は今の場所ではなく馬場町にありました。大変古い建物で棟ごとに日本の地名がつけられてありました。「四国」とか「九州」とか、そして冬など北風のあたるところの校舎を「北海道」と呼んでいました。半世紀もの昔はじめてここで教壇に立ちました。その年の六月頃だったと思います。一年男子組の修身の授業を見せてもらいました。
『坐礼』という厳とした先生の声がかかると生徒は一斉に椅子からはなれ、静かに坐り丁寧に頭をさげておじぎをしました。それからおもむろに授業がはじまりました。どんな内容のことをお話しなされたかは記億によみがえりませんが『坐礼』にはじまる教室の厳しゆくさだけがうかんできます。
 現在とは大変なちがいです。考えられないようなことがありました。それが時代というのかもしれません。
 これからは私たちの心のよりどころとして、今後愈々学校が発展されますことをのぞみ、九十年によする言葉といたします。

さいかちの木とプラタナス
寺 井 五 郎
 九十周年を迎える八戸小学校に私は大正のはじめ頃在学していた。
 パンパパン、パンパパンと打ち鳴らされる始業 合図の手木の音、休みを告げるガランガランという鐘の音、そして半手木といって学習の中頃に静まを破って遠く或は近くひびいて来るパーンパーンという音などこれは毎日の学習生活にくり返されたもので今でも印象深くのこる。
 校舎は市役所前のロータリー(明治天皇行在所跡)から市の水道部のあるあたりまで、長く長く並び立っていた。いろいろな建築様式の校舎で高等小学校もいっしょであった。
 校庭は細長くそこには通称もみの木、さいかちの木、ポプラの木の三本が目立って校庭にそびえていた。特にさいかちの木に元気ものはよく空洞をのぼった。みんなの樹といってもよい存在であった。
木馬(馬なりに木取ったもの)一つに鉄棒砂場が外庭での唯一の遊び道具で、市沢安恵先生が高等科の生徒を指導し乍らやる大車輪というものを物珍らしく眺めて居た。遊びは球技らしいものもなく、つなぎ鬼、馬乗り(騎馬戦)、陣取り、かくれんぼ、戦ごっこなどが盛んに行われた。
 校舎のつくりが非常に年代を経て居たためか釘や、板目や、机の角などで衣類(全部つつそで着物)のかぎざきが多くて困った。
 大小便所とも暗く不潔で泣き泣き用たししたこと、階段が大人でもどうかと思うほどの高きざみのところがあって危いと思ったことなども印象にのこる。
 第一次世界大戦の影響で黄金の景気があらわれそれがインフレに昂じて学校生活にも大変影響があった。修学旅行も六年生で野辺地までやったことがせいぜいの様子であった。
 低学年では飯田ひさ先生、高学年で八小向健児先生から教わった。先生はみな真面目で立派であったという印象が深い。
 同じクラスには有能で世の中に活躍している人たちが大へん多く、よい学校よいクラスで勉強出来たと思っている。以上は母校としての想い出の一ふしである。
 その次は、昭和三年から昭和二十年四月までの十七年間奉職することの出来た間のことである。これは八戸小学校が充実向上の一途をたどり、多方面に活躍した多彩な期間でにわかに語りつくせない程の内容をもっている。
 整備された理科室、工作室、図書室、音楽室がありその他柔道室、礼法裁縫室、教具室、中央階段下の消毒室、保健室には歯科治療機械等まで設けられてあった。
 校内には全校放送設備があり、講堂には暗幕が装置されて毎月定期的に映写会が催された。
 一六ミリの太陽映写機(三一キロワット当時では最新型のもの)が私の係りで、それを操作しながらよく弁士をつとめた。
 音楽効果を出すために伴奏レコードもフィルムに応じて用意されたものだ。
 外には講堂わきの弓場、南側外庭の相撲場、トラック、ジャンプ場、低鉄棒、高鉄棒、中庭周辺いっぱいといってよい運動用具(ジャングルジム、遊動橋は今も残っている)が子供等を楽しませ、体力向上に大いに役立ったようだ。現在は立派な足洗場に、新しいいろいろな運動用具に更新されたようである。
 従って対外試合でも、体育に学芸に大活躍し所謂八尋として注目された。
 ある時期には地方では常勝校の観を呈した。長者小学校もまた同様でよい競争相手であったし、種目によって八小中野、湊校もそうであった。
 青森にも何年も何度も遠征して優勝の栄誉も味わった。県下の弁論大会でも三ケ年連続優勝し、優勝盃も永久授与された。その折は三人一組のチーム戦で、外交官として将来を期待されている原富士男君も弁士の一人であった。当時在学の生徒諸君は誇り高い思い出の数々をもっていると思う。
 校門に高く大きくそびえるプラタナスは、一年から六年生まで担任した級の卒業記念に橋本香月園主の正次さんが(子息橋本誠一郎さんもこのクラスで卒業となるので)植えられたものである。市役所前の一本も同じ年のものである。
 校庭整備で植樹もたくさん進められた。その中で玄関前の築山と、道路に沿うたヒマラヤシーダーはよく育ったものである。高々とそびえるプラタナスは、その年輪を語るが如く、またすばらしい成長ぶりに驚いている。
 昭和三年には新卒八名という前代未聞の配置を含む職員の大異動があった。
 その新卒とは山根現湊中校長、宇都宮現三条小校長、田中キエ現福田小校長、私、それに亡くなられた田中未蔵、滝田栄次郎、松井秀雄、久保スヱの八名で張りきるのも当然であった。
 全国が紀元二千六百年にたたえられた前後、昭和十何年であったか全県視学の合同視察をうけ、古山正三校長先生を陣頭に頑張った頃はその最高潮ともいうべきであったろう。
 その後大東亜戦争のためにすべてが転換期につきあたった。或は渋滞し或はすたれて行った。学区も吹上にわかれたり柏崎校が創立されたりして大分変更となった。
 こう書いてくると、何か往時讃歌のように思われて恐縮かつ申し駅ないが、決してそうではない。その時代とその環境に応じて、それなりのことであって、今の八戸小学校は、より新しく、よりよく整備され、内外ともに九十周年を迎えるにふさわしい様子と思う。
 私が快い回想をかき得るのも、当時の職員の勉励と、学区の絶大な協力のあったお蔭である。その伝統は更にすばらしく今に発展して、今日の充実し且つ整備された八戸小学校をつくりつつあると思う。

小学校の思い出
 尋常一年生のとき
    野 田 龍 男
あさひと輝く、大正の
みいつの光、あらたにて、
六千余万のくにたみの
若やぐ血潮のイサミもて
祝え、君が代、万々才。
天長節のことぶきを
初めて祝う、めでたさよ、
六千余万のくにたみの………
 入学は大正二年でしたろう。浅水いさを先生に引率され、長者山からこの歌をうたって行進をおこし、上組町から下組町まで、日の丸の紙旗を振って、行列して歩きました。私らの前には、六年女生かいて、時々、「バンザーイ」と唱えると、私たちもつぎに「バンザーイ」とさけびました。校庭で、ワラでしばったセンベイ十枚頂いて解散しました。ふしぎに六十才のきょうまでも、この日の祝歌を忘れませんが、第二節の「六千余万」へくると、「旭と輝く」になり、あとの歌詞は思い出せない。淡水いさを先生は、いまの山本富士子のような、日本一の美人の先生のようだった、と記憶しています。現在は大阪市香里にお元気でおられるとか。
 梁瀬校長先生のお宅は、窪町の角屋敷で、毎月、一回講堂訓話をされ、二人用の腰掛けを二階の講堂に運んでお話をきいたし、「散歩というのがあって、一年生から徒歩で、舘鼻海岸まで行き、海べで遊んで、午前中に帰校しました。あの頃の一年生は、相当な徒歩力があったものと、いま考えるとふしぎです。友人では、いまもたまに出逢うと、なつかしく呼びかけてくださるのは、下組町の細越末太郎さん。私とちがって、親としての義務をりっぱにはたし、悠々自適の生活をしているようで、うれしく思っています。
なつかしの二年半よ
八戸市立長者中学校
   和 泉 み よ
 八戸小学校が、八尋といわれていた頃、私は、八東高の前身、青森県立八戸高等女学校の汽車通生で、朝夕、八尋の校門の前を通った。私には、この門を出入りする生徒、先生方があかぬけて見え、今から考えるとおかしいが、何か恐怖さえコの宇型の古い木造校舎に対して抱いていた。それが潜在意識となっていたのか、小中野中から突然の転任となったときは、気おくれと、困惑とで一時はうつうつとしていた。松尾校長在任最後の年で船場武志教頭と、名コンビといわれていた。私の担任は五年二組、学年主任はマダラ鬼、又はジュロチヤンこと大橋寿郎先生、三組はミッチヤンこと山田実先生、四組は、かっては若尾文子といわれたこともあるミセス・ボリューム村田(当時松倉)トミ先生であった。クラスにいってみると、いたいた、小さな子たちが、古い教室の中に、あるいは鼻をたらし、あるいはパッチリした目をしたりして、ハイ、ソプラノを響かせて、中学生とはおよそ異った、可憐なきまじめなふわふわしたような雰囲気を漂わせて坐っていた。その彼等よ、今は社会人として三年経た者もいるし、高校の三年生になって勉学にスポーツに青春を謳歌しているのだ。部屋は市庁舎よりの一ばんすみっこの天井近い正面のすき聞からは、直接陽光がみられる箇所もあったが、位置としては、子どもたちには好適であった。カーテンはやはり教室にふさわしく年を経て、大きく破れていて、それを見たときの穴に比例するように私のこの学校に抱いていたコンプレックスは消散した。それも先生方が親切だったし、子どもたちは全くかわいかったからだ。
朝、職員朝会のとき、輪番で所感を述べる時間があった。なかなか個性のあるもので二三分ぐらいの短時間だったが興味深く耳を傾けたものである。職員室には古びた学校調度が並び、私の椅子などは、明治時代の遺品ではないかと思われた。この陽あたりの悪い寒くて古い職員室は、次第に私にとって居心地のいい、楽しい場になっていった。今でも誰れ彼れの先生の笑顔、声音をなつかしくまざまざと思い出す。生徒朝会のときは、低中高と二学年ずつに分かれ、松尾校長の慈愛あふれる「お話」を聞いた。校舎は古かったが掃除はよくされて、広い廊下は光っていたのに、なお清掃の徹底の週訓など出されると私は中学校に比べて驚いたものである。クラブ活動も組織的に、よく運営されていた。この小さな子たちを自由に操ることのできる先生方の力は魔術にも似たものである。二学期には発表会があり、それぞれステージ発表をするが、中学校は生活が忙しいせいかそうした試みがなく残念である。卒業式にはこの学校独特の葉書大の金ぶち入りの卒業証書を、音楽にあわせて、ひとりびとりがもらいに出るのだが、その厳粛さ、またリズミカルなことはこの目で見た者ならではわからない。五六年を受け持って、翌年はジュロチャンと私は希望通り三年生、ミッチャン、ミセス村田のベテラン組は五年生と、一応四人組は解体した。五六年に比べて、三年生は更に小さくかわいかった。南校舎の昇降口のすみのせまい教室に、小さな秀才と才媛たちがいた。今この子たちは二中の二年生。この子たちと一しょの生活はまた楽しく、「虹の子」というクラスのテーマソングを鬼柳先生に作曲してもらって歌ったりした。しかしこの子だちとの生活は秋で終止符を打たれて、私は湊中へゆくことになった。あいさつまわりのときは日暮れまでも子どもたちは私のあとにぞろぞろついて歩いてくれた。この二年半、私は楽しく暮らした。しかし生徒に対しては、慙愧の想いがある。勝手に理想化し、それに到達しないと思われたときは強く叱ったことも度々であった。あのふわふわしたやさしい彼等の感受性にどんなにそれが激しく印象されたことか。許して、かわいい教え子たちよ、私はいつかこのことばを彼等の前で言いたい、そして心からその幸せを祈りたい。

八小をしのぶ座談会
時 昭和三十八年九月二十三日
所 江陽小学校放送室
 出席者 旧八小職員
(清川艶子、下斗米トシヱ、久水英一、立花みのり、八木田勝子)
 司会 八戸小学校も今年九十周年のお祝いをすることになったそうで、本当にお目出たいことです。そこで元八小にお世話になったかたたちで昔の八小をしのんでみようという意味でお集まりをいただいたわけです。この中で一番古い方はどなたですか。
 B 私が昭和二十一年四月ですから一番古いと思いますが
 D すると、私が二番目に古いことになりますね。二十一年八月三十一日付ですから
 司会 私はたしか二十二年三月だと記憶しています。今から十七、八年も前のことで、しかも終戦の翌年ということになりますが、その頃のことで、何か残っていることはありませんか。
 B ずい分昔のことで殆ど忘れかけていますが、食糧事情の一番ひどかった頃で、何でも午後まで授業をすると腹がヘって倒れるというので、午前授業だったことを覚えています。
 D 私は同じ年の二学期からでしたが、買い出しに行くからおいとまをくださいという子がおりましたよ。
 司会 あの頃は本当に大変でしたね、空地という空地、庭という庭はみな耕やされて、南瓜やいも畑になっていましたものね。焼夷弾で焼かれた校舎の片袖にも、新校舎が建つまで南瓜のつるがはっていたのが印象に残っています。
 A 私が八小にお世話になったのは、昭和二十四年ですが、その頃はもう焼跡に新校舎が建てられ、南瓜のはいまわっている様子を想像することは出来ませんでした。授業をするにもなにかと不自由だったでしょうね。
 B 体操場を仕切ったこともありました。又一学級の人数が非常に多く七十名近かったと記憶しています。
 D 私が赴任した時は、男女別学で、年度の途中なものですから男の子ばかりの組を預けられ、人数は多いし手をあげたことが忘れられません。
 B 男女共学は二十二年度からでしたが、共学別学の是非について、職員会議で議論したこともなつかしい思い出です。
 司会 ではここいらでその頃の給食についてどなたか。
 A 私が行った頃は脱脂粉乳と温食の給食が行われておりました。
 D 調理室は、今の理科室になっているところでしたね。せっかくお金をかけて作った調理室でしたが、食糧事情が好転してくると、学校の給食は「ジョウミズ」だとか何とか言う子もありまして、アンケートを取った結果やめてしまうことになりました。給食で思い出すのは、先生方がおそくまでドーナツ作りをしたり、またまんじゆうふかしをしたことなどです。
 司会 今年も共進会で教室を使われるとか聞きましたが、共進会では頭をなやましましたね。
 A 余り休んでばかりいると学力が低下するというので長者小学校や吹上小学校、柏崎小学校をお借りして午後授業をしたことが頭に残っています。小さい子供達は、学校に着いて三十分もすると、あくびをしたりいねむりを始めたりしてうまくなかったようでした。
 司会 八戸小学校は、八戸の学習院だなどとおだてられたりしたこともありますが、とにかく父兄の方はそろっているし、文化的環境には恵まれているし、やりがいのある学校でしたね。
 C 離れてみてその良さがわかると言われますが、私もよその学校に転任してみて、八小は良かったとしみじみ思っています。
 司会 今日はいろいろと思い出を話していただいてありがとうございました。八小の今後の御発展をお祈りしてこの会を終わることにしましょう。            (八木田記)