2007年6月1日金曜日

八戸自動車史 1


小中野の野田さんから拝借した八戸自動車史を紹介
○自動車は来たか
 はじめて自動車の姿を目のあたりにした人々のことばを、今でも時おり耳にすることがある。
 南部さんのお座敷に小林某という奉公人がいた。一九一〇年(明治四十三年)のいつのころだったか、八戸の町に自動車というものが来るそうだという話が人の耳から耳へと伝わっていた。当日の町の表通りには人々が朝から集まり出し、時ならぬ態であった。小林某は朝早くから主人に、「今日は自動車が八戸の町を通るというが、一度拝見しておきたい。お前は時折表通りに出て見張っていて、自動車が来たら知らしてくれ」
と云いつかっていた。言いつけ通り、小林某は時折表通りに出て見たが件の自動車はなかなか姿を見せない。新奇を好む人々の姿は右往左往しているばかりであった。
 ようやく昼近く、表通りの客がざわついて来た。小林某は手にしていた仕事を投げ出し、表通りに面した二階のてすりから身をのり出して街路に目を落した。街路にはおびただしい土煙りが立ちこめ、自動車の後姿がチラリと見えただけであっだ。急いでとってかえしたが、自動車の姿はもちろん見えなくなってしまった。
 「自動車が来ました」
息使いも荒く、主人の部屋へ注進に及んだ小林に、主人は
「うん、来たか」
と重い腰をあげて
「して、今、どのあたりを走っておるか」
小林某、事の次第を詳しく申しあげた。主人は残念そうに
「ほう、そんなに早いものであったか」
と想像もつかぬげな表情を浮かべていたという。
 今から五十年余り前、八戸町にはじめて自動車が走った折のエピソードである。この自動車は、当時、ライジング石油会社が、青森市浜町にあった東北タンク商会を視察のため表日本から裏日本をまわって通る予定の途次、鮫村石田屋旅館で昼食をとるため、立ち寄ったものといわれる。運転は勿論外人であったという。
この折、青森市で撮影した写真を所持している方があると開くが未見である。
 また、一説には、スタンダード石油会社がタンカーからの積みおろしに便利な港を探がしていて、最初八戸港を候補地にして、その視察にやって来たともいう。視察の結果、石油タンクの設置条件ととのわず、のち野内に建設されたものであるとの由。
 いずれにしろ、一九一〇年(明治四十三年)のこの出来ごとが、青森県に自動車が走った最初の記録ではなかろうか。
 ちなみに、日本にはじめて自動車が入ったのは一九〇〇年(明治三十三年)当時皇太子殿下であらせられた、のちの大正天皇の御成婚を祝して、サンフランシスコの在留邦人から寄贈されたものである。この自動車の試運転がお堀端で行なわれたが、スピード感覚がなかったせいか、ハンドルを切りそこねて、松の根方に衝突、以来、自動車は早いことは早いがきわめて危険な乗り物として名高くなり、かの自動車は、そのまま皇居の一隅に放置されたままだったという。
 しかし、翌一九〇一年(明治三十四年)には、松井民次郎氏が東京銀座にモーター商会を設立し、自動車の販売に着手していたようであるし、一九〇二年(明治三十五年)には東京銀座の亀屋や三越で、荷物の配達用として自動車を使用していたらしい。
 が、日本で自動車の普及にあずかつて力のあったのは、一九〇三年(明治三十六年)一月から七ケ月間、大阪天王寺公園で催された、第五回内国勧業博覧会に外国商社が自動車を出品、またその自動車を動かして見せたことなどから、前後して自動車事業を目論む人々があらわれたもののようである。
○八戸自動車株式会社のこと
 明治時代の日本は西洋文物の搬入に力を入れ、江戸時代とはうって変わった生活様式が次々にとり入れられて行った。学校制度、洋服の着用、選挙、証券取引所、そして何よりも人々の生活範囲を拡大していったのは交通の便益であった。旧来のカゴは姿を消しはじめ乗合馬車、人力車、などの台頭は目ざましいものがあったが、なかでも一八七二年(明治五年)の新橋~横浜間の鉄道開通は画期的なものであった。この鉄道の建設工事は着実にその網を広げ、東北本線は一八九一年(明治二十四年)に上野~青森間が完成、尻内駅の設置をみ、続いて一八九四年(明治二十七年)には尻内を起点とした尻内~八戸間が開通した。なお尻内~久慈間の八戸線の完成は一九二四年(大正十三年)までかかつている。
 また自転車は一九〇二年(明治三十五年)ごろ北村益氏が八戸輪友会を作り、普及につとめており、このころから人々の足ともなったであろう。
 かくて明治末年ごろの八戸の交通事情は遠隔地は鉄道で、近接地は馬車や人力車、ある者は自転車でその便をはかつていたようである。
 一九一〇年(明治四十三年)速いことは速いが危険な乗物である自動車を目のあたりにして、驚異を底じた八戸町の人々の中から翌年には早くも自動車による事業が目論まれ出したのではなかろうか。
 この一九一一年(明治四十四年)八戸には自動より一足先に電灯がともつた。これは橋本八衛門氏、北村益氏、滝沢治平氏等によって八戸水力電気株式会社の設立をみ、やがて事業をはじめたのである。これらの人々は電灯につづいて自動車の事業にも着眼していた。
 やがて、翌一九一二年(明治四十五年)千葉県木更津の某乗り合い自動車会社が事業不振のため自動車を売却することになり、これを買収することにした。ただちに八戸自動車株式会社を八戸水力電気株式会社内に設立、近藤元太郎を代表に十月一日事業開始を目途に準備をすすめた。この年の夏、明治大帝崩御、あくる七月三十一日から大正の御代と代ったため、この事業は、遂に明治年代のものとはならなかったわけである。
 準備は順調にすすみ九月中には運転手付でT型フオード二台にヴイツク一台が到着数日間の試運転の後、いよいよ十月一日を期して営業開始となった。
T型フオード二台は乗り合い用とし、八戸水力電気会社前(現在の東北電力八戸支店前)を起点に旧湊橋間、そのうちの何回かを、さらに旧湊橋から鮫まで走らせた。のちには電力会社前から鮫までの通し運転に切り換えたという。料金は旧湊橋までが十銭、鮫までが二十銭だった。
ちなみに当時の乗り合馬車の料金は八日町から小中野までの料金が五銭だったというから、まさに金持でなくては乗れぬ代物だったといわざるを得ない。
 発車時刻は決っていなかった。適宜来客の頭数が揃うと頃合いをみて走り出すのであったが、客は比較的集ったという。自動車は便利だ、早いという事実が人々をとらえたのであろうか。しかし、危険なものという恐怖感と料金の高かったのも事実であった。
 幸いなことに、他の地方で騒然と物議をかもし出した馬車組合とのもつれもなく、全く好調なすべり出しだったといわれている。
 きわめて順調に見えたこの事業も、自動車の修理に追われはじめると急速に赤字が増えはじめ三年ほど経て、遂に解散のやむなきに至っている。
 ところで、この頃、青森県にはまだ自動車取締令ができていなかったのかも知れない。一九一二年(明治四五年・大正元年)に営業申請した乗合自動車会社の一覧にその会社名が見当らなかったことを付け加えておく。
 この自動車事業は、けだし青森県内において、はじめての壮挙であったし、また全国でも数えるほどしか業者は存在していなかったことを考え合せると、まさに括目(かつもく・目をこすってよく注意して見ること)に価する事柄ではなかったろうか。
○岩淵栄助氏、八戸~久慈間に乗り合い自動車の路線免許のこと
 明治の末年から大正初期にかけては乗り合い馬車の全盛期である。自動車の便利さと速さは衆目の認めるところとしても、故障、修理、それに危険の度合もさることながら、料金の倍に及ぶ高さが人々をして、やはり乗り合い馬車に親しませたものであろう。
 しかし、一九一三年(大正二年)からは全国的に自動車事業を企てるものの数が激増しはじめ、一九一八年(大正七年)からは、急激に増加している。世情はようやく乗り合い馬車にかわって自動車時代に入るきざしをみせたのである。
 この大正の初期、久慈町に砂鉄工場建設の計画を抱いて、十五銀行の融資を背景に、松方元老の五男である松方五郎氏が頻繁に久慈にあらわれるようになった。松方氏は常盤商会を経営、久慈ニツ谷居住の砂鉄鉱山主佐々木氏と取引きしていた関係もあり、久慈産の砂鉄の良質なのに注目して、その企業化を思いたったのであろう。
 当時、八戸・久慈間は馬車にゆられて大野で一泊、翌日でなければ到着せぬ遠隔地であった。松方氏は、この不便さを解消するために、佐々木氏に呼びかけ、自動車ならば八戸久慈間は一日で行ける旨を力説し、常盤商会の斡旋で、リパブリックの幌型乗用車一台を売り渡し、自ら久慈へ乗るたびに尻内まで迎えに出てもらって利用した。自動車の速度は大野泊を不要にし、八戸・久慈間を直接結びつけるようになった。
 やがて松方氏は、たまたまの所用で訪れるだけの自分一人の利用から、さらに八戸久慈間に所用ある人々の多いのに気づき、佐々木氏に乗合事業をすすめた。たまたま松方のすすめを受けた佐々木氏は事業権の申請を岩手県に提出した。が、この路線は岩手・青森両県にまたがるものであり、青森県側からの許可も必要であるため進捗しなかった。
 青森県では岩手県からの申し入れが届くや直ちに八戸署へ連絡、久慈行の旅客を扱う旅館を糾合し急遽、岩淵栄助氏を申請権利者に、また客馬車組合取締の吉田三郎兵衛氏を中心に組合をつくらせて申請させた。かくして青森、岩手両県から、同時に八戸・久慈間路線一日一台でもって許可することになった。
一九二〇年(大正九年)のことである。
 なお一九一九年(大正八年)内務省今によって全国統一の自動車取締規則が出され、地方長官の許可を受けるようにされ、統計及び申請者もきわめて判然としているのであるが、大正九年の項には、新規業者として、岩淵栄助氏の名前は見えるが、佐々木氏の方は記されていない。

小中野小学校百年史から 2


小中野の昔を語る
出席者 月館宇右衛門 明治四十二年卒
稲葉米二郎  明治四十三年卒
夏堀正三   明治四十五年卒
佐々木哲夫  大正二年卒
大久保弥三郎 大正九年卒
山浦武夫   大正九年卒
石橋俊男   PTA会長
山内清栄   学校長
司会 木村昌平
記録 小笠原五百子
三船テル
会長 雨の中をご苦労様でした。百周年記念事業としまして記念誌を編纂することになり、その中に大先輩の方々の座談会を設けています。よろしくお願いします。
司会 出席者は病気療養中の音喜多富寿先生をのぞいてきょうお集りの方々です。他に職員の部と九十周年の時の未記載の座談会記録ものせた  いと思いますので重複しないような内容にしたいと思います。
小中野町の変遷
開校当時 生徒百人 先生三人
司会 九十周年座談会の第一集を読みましたら、学校のあった折本という場所は麦畑であったとか、ホイド宿があったとありますが昔の小中野の町についてお話しください。
大久保 折本にはいつできたのでしたか?
会長 明治二十三年です。
大久保 その当時は、うちの祖父が村長をしていたようですが、学校が火鉢を欲しいと頼んだらなべかままでつくってくれたといった話があります。文献がないのではっきりとしたことはわかりませんが、祖父はたしか一代目の村長でないかと思います。二代目は和田さん、三代目は川村さんでそれから中村さん、山浦さんとなるのではないでしょうか。
大久保 小学校が折本の前、どこにあったか確認   しておく必要がありますね。
会長 初めのあたりは、だいぶ校名が変っているようです。
校長 初めは新堀に湊小学校としてできたとあります。
会長 明治九年が創立と沿革誌にのっています。でも山浦さんのところから明治八年という辞令がでているそうですが…。
山浦 明治八年十二月二十八日づけで県から辞令がでています。五等教員に命ずるとありますから開校準備委員みたいなものではありませんか。
山浦 その頃あった私塾三つを統合して学校をたてたのではないでしょうか?
夏堀 辞令がでたのは学校ができてからのはず、湊小の沿革誌を調べてみては。
会長 その当時は三つの方面から生徒が集まり百名で教員は三名とありますね。
山浦 創立のころの教員は、山浦、浪打、一戸の三氏であったようでしたが、浪打さんは修験者で   もあったようですね。
大久保 明治十年頃、小中野に諏訪という神社があるのに川向うの御前神社が氏神様になったんですね。
会長 それではいつ頃諏訪神社ができたのですか。
大久保 建武の中興の頃のもの、昔から残っている神社とは、八戸とか小中野で湊は植民地であったし、町も小中野の方からの人のより集まりで湊より大きかったそうです。
大久保 昔の水産学校は下条にあったらしい。
山浦 下条にあった学校はアワジ屋さんだったらしい。
稲葉 水産学校は角万のあたりにあった。寺坂のわきの金物屋アワ忠、十王院のあたりに吉田アワ大がありました。
夏掘 小中野は変遷がはげしいということは社会増でありまた、人口増であると思います。
  繁華街は北横町新堀、新堀川と湊駅
司会 その当時あった大きな建物や、中心地はどうでしたか。
大久保 まんよう亭で、これは一番大きな料亭でした。その頃そんな料理屋は五十二軒ありました。小中野は物資の集散地で繁華街は北横町、新堀でした。今の中村医院の横に新堀川があり、普代方面から木炭などを舟に積んで中田さんあたりにあった船着き場におろしそこから湊駅にもっていったもので線路の向うは家がなかったんです。湊駅の発展は、小中野の発展に大切な要素となったもので、またそれら多くの人の出入りで、花柳界は栄えました。
月宇 今の新堀の道路になっているところが新堀川でしたね。川を埋めたてて道路にしたのです。
大久保 ゴンスケやのあたり、マルキチの中田加工場の付近は船着き場でした。あそこから湊駅へ行ったのです。
山浦 林業も盛んでした。小中野の歴史を考えるに湊駅をぬきにはできませんね。
司会 湊駅の開設、新堀川が小中野町の発展のみなもとであったわけですね。
木材の集散 新井田川のイカダ流し
大久保 昔の橋は寺坂からまっすぐあった。まるたに土をかけた土橋で津波かなにかでかけかえた。また新井田川上流からイカダで井上石灰のあたりにあげていた。秋木の支店もあった。小さい頃はその木の上を飛び歩いて遊んでいたものです。木材も小中野の発展のもとに考えられます。冬は川をかね下駄で走ったものです。欄干から川へ飛び下りたこともありましたな。昔は新井田川は飲みたいぐらいきれいだった。橋の下でうなぎとりをした経験もありますよ。
会長 つい十数年前までうなぎが取れましたね。                 
夏場 川にそって発展したのですが物資の集散だけでなく、米穀なども江戸に出していたのでは…。
山浦 当時は学校について考えても湊には高等科がなかったから、湊の人たちはみな小中野へ集って来たものですよ。

○小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
司会 小中野人の気質についてお話し願います。
大久保 成績も1、2、けんかをしてもI、2、クラブのキャプテンも小中野勢がしめていた。スポーツでも、学業でもよい成績をあげたのは、沢山の先輩が教育し、阿部のそば屋などで飲み食わせたり、先輩が先生であったり、学校が家なのか、家が学校であるのかというような生活から生まれたと思う。
稲葉 そのころ肩じるしというものがあって、1年は赤、2年は橙、3年は青、4年は黄でした。
夏堀 新興気風のあったことは、小中野は八戸から見ると漁師町、またご用商人の町であった。そのため八戸から見下げられていたので、絶対敗けられぬという反骨精神が原動力となった。今でもその流れはあり、小中野というとキカンボにみられる。上級学校入学も小中野はよかったものです。湊学友会はすごく優秀でそれに対抗して八戸でもつくったが小中野には及ばなかったんです。
大久保 亀徳さん、浪打亀次郎さんともにキリスト教徒です。明治末期にかけてこの道に入ったというのも小中野の気質のモーメントですよ。大正年間アメリカヘ行くのにも大低の人は、亀徳さんから指導を受けたものです。
会長 亀徳さんというのは、元立教大学総長松下正寿さんの生まれ家ですね。上番町にいく前には新丁にいましたね。
大久保 同級会を開けば芸者が何人も来る。それは同級生にあるから…そのため落第させられたものもある。
司会 高等科になるとかけもちの人があったそうですね。そして首のあたりにお白粉をつけ残したまま登校したとか。
佐々木 芸者の修練はきびしく、今はその修練に堪ええないでしょうね。

小中野出身で活躍した方、している方
枚挙にいとまなしの観
司会 小中野の出身の方で各界に活躍なされた方、現在活躍していられる人についてお話し下さい。
夏掘 三吉という同級生の芸者があったが大阪で出げいこをして十万円もらうそうだ。幾千代の養子はステンレスの工場を経営している。
会長 花柳会を話さなければ、小中野は話されないわけですね。月館さんの娘さんに有名な画家がありますね。
校長 学校にも絵があります。現在も中央画壇で大活躍ですよ。
佐々木 八戸のデパートの元祖は小中野でツキウが第一号ですよ。月館さんはかれこれ商人の道七十年です。ちょっとちがいますが漁民道場のはじまりも小中野です。修練所といって場尻にありました。
夏掘 押田吾有、毎日新聞の社長、人事官もやった神田重雄市長の弟さんです。
月舘 先代の上野学院長の石橋蔵五郎さんも。
校長 校歌の作曲家です。
夏椙 大関中五郎さんは地質学者でした。亀徳さんも船問屋で、幕末の頃にも海産物問屋をやりながらアメリカで教師をした人があるはずです。佐藤亮一、共立大学教授で慶応の講師。木村専太郎、京大出身の工学士、藤尾感之助、小樽高商を経て東北電気重役、木村直治、関西学院卒剣道の先生、東京絹糸株式会社社長で小児マヒで死亡しました。梅沢幸一は、歌人で若くして死亡されました。くめ八ねえさんは八戸小唄を吹きこんでいる。
会長 下田栄子、中央で舞踊家として活躍玉振バレーの山浦さんの姉さんも活躍している。
大火、津波等 左比代まで水びたし、
浦町は船で…
司会 災害についてお話してください。
月舘 三陸津波の明治二十九年は大きかった。今の和光旅館はホイド宿の跡ですが、そのホイド宿  の二本杉まで水が来た。そして家を二本杉につないだものです。明治四十三年にも水害があり、そのため堤防を築いた。左比代まで水があがり浦町を舟で歩いたものです。 
佐々木 小島横町にいましたが家の床より二尺ぐらいあがった。堤防は昭和二年につくられました。
夏掘 小松屋のあたりは、二年位沼であったですね。堤防を築いたのは山浦市長ですね。
山浦 湊より土地が低く日の出屋のあたりまで水がたまりました。
司会 小中野やけといって大火が何回もあったそうですね。
月舘 小中野の大火は新堀からおきている。しかし幾度の災害にもめげずによくがんばってきたものです。
司会 それではこのへんで座談会を終りたい
と思います。ありがとうございました。


三日町の中心市街地地域観光交流施設とは何だね


三日町に出来る箱物は何?
国の「町づくり交付金」を利用し中心市街地を賑わう場にしようというもの。
日本全体が宿場町を中心に滅びた。かつて人々が歩いて通った道が車の通過する道へと大幅に拡幅され、駐車場のない、あるいは車を止めるという発想のない場所は平成に入り急激に衰微。
八戸ならびに近郊も例外ではなく、昭和の末年ごろから車で来る客に注目し、田んぼや畑の真ん中に道路を通し、国道沿いに大型ショッピングセンターが進出。街中の駐車場で料金を払うより無料に人が集まるようになった。
このため宿場町のみならずかつての中心商店街は車対策をなおざりにしたツケが回った。人々が町に集まらなくなり、旦那様たち金持ちが苦労するようになった。これら旦那は広い土地を持ち、 固定資産税が景気の右肩あがりで、増税になっても店子が入り払える目算だった。
ところが、もともと商才がなく、ビルを建てれば店子が入り、家賃が貰えるとウスらぼんやり考えていたが、平成の大不況、昭和のバブルのツケがどっと。店子は減り、貸し店看板が増加。
このため大家たちは固定資産税の不払いが増加。これに国の役人はボンヤリと見過ごしたが、地方自治体の税収の伸びどころか鈍化をなんとかしようと重い腰を上げた。それが交付金だヨ。
地方自治体は痴呆爺体で、考えが姑息。メカケ根性丸出しで、貰えるものなら何でもいい、口に入るならなんでも食うとルンペン、ホームレス、家無き子同然に頂戴頂戴。進駐軍のジープに群がる浮浪児の昔は過ぎたが、今は形を変えて自治体がそれ。
国は進駐軍と違ってガムを子供等に無償で投げない。四割は出すが六割はお前が出せ。つまり自治体が借金を重ねるわけだ。
この計画は中村市長時代に決定したことではあるが、建物たてればいいの時代は終わった。つまり人の来ない中心商店街は車社会に取り残されたことが原因。人は行きやすい場所に寄る。
車を十五分も走らせれば隣町に抜ける、三十分も走れば隣の市に行ける。道路事情が改善され居住区ばかりが購買対象ではない。
つまり箱物を建てる前に駐車場の問題解決が先。東京浅草は浅草寺を中心に欲たかりの亡者が集まる場。そこに祭りの柱がある。東京名物、江戸名物とも言えるが、三社祭りだ。三社というから三つの神社かと思うだろうが、これは浅草寺に隣接した神社の名。三つの神社の連合祭りではない。
八戸の夏祭りは三社の連合もの。もっとも神社が参加しなくても祭りは成立。
この江戸からつながる浅草でさえ雷門側に地下駐車場を設けた。鉄道の十分なる発達、さらに隅田川には遊覧船の便もあるのにだ。
四百年の歴史を有する江戸の繁華街でも変貌した。それほど車社会の破壊力はすごい。破壊力は排出ガスの炭酸ガス増加で地球が熱くなっているそうだ。このため野菜からガソリンを製造しようと世界中が取り組んでいる。
トヨタは世界一の企業にのし上がった。中国人が 車を持てば一気に炭酸ガスが増加するとは三十年も前から叫ばれていた。トヨタは世界に謝罪しろ。電池自動車を開発できなかったことを。
同様に地方自治体も懺悔しろ、無策で中心商店街を放置したことを。税金をむしるより、いかに払える状況を作れるかにある。
もっとも自治体は八右衛門から与太郎に名義が変わるだけで税は取れるから無策でもいいが、困るのは金持ち。貧乏人は安気でいい。支えなければならない物がひとつもない。金持ちが困る時代が今。
すると、建物を立てて、いかにもお前たちの為にお上は努力していると見せるより、車社会に遅ればせながらも対応することが先だろう。
商店街の人も、自分たちの生存をかけて駐車場問題を解決しないかぎり中心商店街が廃絶するのは時間の問題。
かつての娘、今は婆たちが滅びれば、繁盛していた中心商店街を知るものはいない。この昔のお嬢 さんがたは車社会に対応しなかったから、歩いて通う、バスで出歩く以外に方法手段を持たない。ところがどうだ、昔のお嬢さんがたにタダでバスを利用させないときた。
ますます人が歩かなくなるぞ。昔だろうがお嬢さんたちがヨロヨロ、よたよたでも歩くから町だぞ。東霊園、西霊園で夜中にウロウロするのは亡者。亡者になる前に、出歩いてもらおう。バスはタダにしてやれ。幾らでもない金額だ。ところが、この問題を調べはじめたら妙なことに気づいた。市営バスに四億円ちかい金が高齢者福祉課から流れている。
この問題は近々調査予定。どうなってんのかね。
上の建物図は吹き抜けになっている。自殺者の名所になると大変。なんて言っても東北は自殺者が多い。景気後退の局面で家を新築した人は大変だ。払いができなくなれば、銀行は担保にしているから取る。家がなくなる恐怖は味わったことのない者には分からない。新築してアア、嬉しいの気分 の天国から地獄へ落ちる気持ちがする。前途に絶望すると、人生をはかなんで死にたくなるもんだが、よくよく考えると、それも人生の一部でしかない。しかし、その時はそれが全てのような気になる。だから自殺するんだが、何、人間なんてのは、どの道死ぬように出来ているんだ。あせって死ぬこともない。ダメでもともと。またやり直しが効くのが人生。
どうやったって死ぬまでは生きているんだから。今までが失敗でも、これから先はどう展開するか誰も分からない。サッカー籤で五億円あたることもあるんだ。
昔から言う。「いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と天罰」
せっかく新築する建物、市民のためのものが、自殺者の名所になるのは情けない。フラフラと弱い心に押されて飛び込みたくなるもの。八戸駅で近くにいた女性が列車に飛び込み自殺した。遺体を引っ張り出すのに一時間もかかった。生きること に絶望する人間てのはいるもんだ。
筆者も倒産してヤクザに追い回されたことがあった。それでも人間は慣れる。そこから逃げようとしなければ、その生活にも慣れる。ヤクザも仕事で金を回収に来るが、無いものはない。
命を取ると脅すが、自分で死ぬよりは殺されたほうが女房子供に言い訳が立つと思い直せば、積極的に殺されたくなる。
死にたいは自分の意思、殺されたいは、殺す相手の意思。殺したい方が殺すのも面倒となれば、生きていなければならない。すべて相手にお任せが人生だヨ。
真宗、浄土宗はこう教えている。道ばたの塀の上で子供が遊んでると思え。会社員の父親が帰って来たのを見て、子供は「お父さん、お帰り」って塀の上から飛び降りざまに父親に抱きつく。
子供にとって親は必ず抱きとめてくれる存在。危ないから抱きとめないなどと考えもしない。
絶対に父親が抱いてくれると信じているんだ。これが阿弥陀様だと言う。信じて飛び込んでくるもの全てを大きな手で抱きとめる。相手の心次第だ。生きるも死ぬも、この大きな人類の親の心次第なのだ。だから凡人の我々は助かりたいというよりも、生きるも死ぬもお任せだと思え。
必死にもがく、必死に努力しさえすれば、あとはお任せなのだ。たとえ、それが失敗に終わったとしても、更なる努力をする力を貰えばいい。
暫くは気力も失せるが、何、死ぬまでは生きているんだ。
さて、こんな妙な建物よりも、年間四十二万人が利用する図書館を建てろ。市役所に二千人の職員、図書館に千二百人の利用者。これが毎日来る。役所は休日は休み。だが、図書館は休日も来る。青森市の図書館は繁華街にあり利用者数は増加。
駐車場は役所の広場を開放する。まだまだ本気で考えること多くあるんじゃないの。
百年先を見ようよ。小手先細工でやらずに。
さくら野百貨店とつなぐことも考えているようだが、相手が倒産したらどうなるの?

山車出します出し出しで、互助会半分あと税金・ふざけるな


三社大祭参加資格なし、八戸市職員互助会の山車
平成八年度までしか帳簿を保持していないので明確なところは判明しない。
税金を使って山車を三社大祭に永年参加させていた。ところが、どう風向きが変わったのか、平成十一年から十五年まで、互助会費だけで参加させ、また平成十六年からは税金を使って山車を参加させている。これは全額が市の税金ではなく、おおむね半分が互助会の費用と判明。
それにしても不届きな金の使い方。
市民病院跡地を「祭り広場」としたが、ここに山車小屋が三つ建った。この年間の使用料は二十一万七千円。ところが、互助会の山車小屋は、美術館のとなり。ここのテント小屋の借り賃に年間百三十三万五千六百円支払っている。
つまり税金をこの山車小屋につっこんでいるん だ。今もそのまま。
市民には抽選してまで利用者を限定、しかし、互助会は自分の山車小屋に税金投入じゃ納得しない。
これを納得するのは市役所に勤務する親族だけだよ。
この解明に時間がかかった。帳簿がいい加減で、誰もこんなものを調査しないと高をくくっていたのだろう。実に判りにくい判りにくい。思いつきで書き込むために、あっちに行ったりこっちに分類されたりで腹立たしい程。
それでも、ようよう事態がつかめたのでお知らせする。
互助会は市長など全職員が加入。市長が互助会長で互助会に税金を投入。そのなかから職員の結婚祝い、子弟の卒業祝いだの医療費、永年勤続祝い金、出産祝金、銀婚祝金、退会金を支払った。
平成十年までは税金も職員の会費も区別がない。
平成八年からの資料しかないので三年間をみる
平成8 平成9 平成10 計
医療費 113744344 136283704 162730360 \412,758,408
結婚祝金 3340000 3780000 4250000 \11,370,000
出産祝金 2520000 2070000 2370000 \6,960,000
入学祝金 6680000 6540000 5860000 \19,080,000
卒業祝金 4300000 3740000 3960000 \12,000,000
永年勤続祝 7290000 7690000 6820000 \21,800,000
健康有良祝 190000 203000 199000 \592,000
銀婚祝 4830000 6090000 7910000 \18,830,000
弔慰金 4804570 3864900 3675000 \12,344,470
療養見舞い 700000 860000 950000 \2,510,000
出産見舞い 30000 30000 \60,000
災害見舞い 400000 500000 \900,000
給付調整 420000 140000 280000 \840,000
退会金 10818000 9483000 9855000 \30,156,000
人間ドック費 580000 520000 480000 \1,580,000
休業手当
160216914 181694604 209869360 \551,780,878
と、医療費が四億一千二百万、これは医療費の自己負担分を市の税金で払わせた。ただし職員の言い分では半分が税金負担で自分たちも半分は出していると寝言。
さらに驚くな、心を丈夫に持てよ、職員本人だけでなく家族全員がそれだ。つまり市役所職員になれば扶養家族は全員タダなんだヨ、だから母親、父親までが扶養に入るわけだ。
驚いたろう。そんなことだけじゃない。結婚祝いは勿論、出産、入学、卒業、更に火事になったら四十万、水害にあえば二十万、高齢になると祝金が貰えないからと、銀婚式になったら七万円くれる。さらに強烈なのは入会金も取らないのに、退会金と称して役所を辞めたときに出る退職金のほかにまた十万円くれる。規定のものの外に出すのは互助会を隠れ蓑に使った第二退職金。
これが大阪市で問題になった。八戸市職員は仕事はしないが、悪いことはすぐ真似する。
退職者優遇措置として毎年旅行に行っていただこうと一千万円を旅行券として配る。退職者慰労会費として五百万円、これが毎年、毎年、市の税金を投入しているんだヨ。
そのほかに職員慰安金として保養所利用券を千四百万、団体定期保険料を三百九十万、この但し書きには全国市長会保険掛け金とあるが、何だかは不明。
あまりばかばかしいので問い合わせる気にもならない。暇と好奇心のある人は追及をすすめる。
以前は地下の職員会館に床屋がいた。その床屋に家賃として金を支払った。運営費という名目。タダで貸して家賃まで支払う素晴らしさ。
生協が運営する食堂には年間千万円を支払う。家賃タダで金までやるんだ。それも税金。
職員会館の運営費に毎年二千百万。
平成十七年度は市職員食堂・交通部職員食堂運営費として六百六十五万円をしはらった。市民病院職員食堂運営委託料三百八十万。
時代時代で市役所も変貌する。市民病院が建ったり、交通部に食堂を出したりと、時代の要求を満たす必要がある。しかし、ものには限度があり、それに市役所人事課が気づかないはずもないが、何も言わないからとそのままで来たのだろうが、市役所職員ばかりが厚遇されるのもまずい。
景気後退の局面では、皆が相応に辛さを分担するべき。
山車の制作明細表が前ページにある。この山車に税金を投入したことが公金支出に違法性ありと監査委員会に申し立てをすると、結論は見えている。互助会が市から貰った金をどう使おうと問題はない。結論はたとえ見えていても、やはり手順として監査委員会に申し立てをする。
馬鹿げたことをして時間を消費していると我ながら思うが、それを看過できない己の根性がそれをさせる。
八戸は正論を吐いても無視する、潰すところだ。人がどう思うとそれは勝手で、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」でブチ殺されるまで主張はやめない。自身の主義主張のために道路に倒れて死ぬところまでやる。
それにしても市役所は腐っている。だが、二年後の市制八十周年は執念をもって成功させる。節目を迎えられる喜びがあるから。
三年後には西有穆山の百回忌がくる、市制八十周年を期して八戸時代祭りを五月一日に実施。京都の葵祭りのように、南部公から家老、武者行列に大沢多門、橋本八右衛門、西有穆山、羽仁もと子、神田重雄など八戸にゆかりのある人に市民が扮装し山車行列と同様にねりあるく。当然、えんぶりや山車も参加、ねぶたも呼ぶかネ。

結んだ縁組百二十三、出雲の神様代理、圃田三千也夫妻


圃田三千也(はたけだ・みちや)さん。
仏教の言葉に三千世界という言い方がある。これは世の中の中心に須弥山(しゅみせん・世界の中央で海に浮かぶ大きな山で太陽や月は皆この周りを巡るという)があり、それの周りに、日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界これを千個合せたものを千世界それを三つ合わせると三千世界、簡単に言えば宇宙で、世の中のありとあらゆるものを指すのが、この三千、それを強めて三千也という。
その名をいただいたのが、この圃田三千也氏。俗に名は体を現すというが実に巧い表現で、この三千也氏は世の中を知り尽くす人。
妙な表現だと思うだろうが、世界を知るとはどういうことか、地理を知り歴史を知る、それも世の中を知ることなれど、実際は人を知ることに尽きる。それも議員になりたくて人を知るものもいるだろう、報道をせんがために人を知る人も勿論いる。
だが、人の幸せを願い人と交わり、その人に喜びを与え続ける人がいるゾと言われたら、アンタ、本気にするかい、疑うかい?
人間てのは生まれ落ちての生活の中で人間性が決定される。氏より育ちというのがそれ。それって言ったからってキョロキョロ探すな、そこらに落ちている訳じゃない。
大体、この人の姓が変わっている田圃(たんぼ)を逆さにしたな。圃は(ほ、と読みはたけ。菜園。「田圃でんぽ・園圃えんぽ」と使う、又、農夫をも指す。畑、畠は国字といって中国から伝わった文字ではなく、日本人が作った文字。
ということは圃田さんの文字の方が畠、畑よりも伝統がある。
この人の生まれは岩手県大野村、昨今の平成大合併で種市町と合併しひろの町となった。
ここで昭和十四年に生まれた。父親は軽米の産、博労(ばくろう)をした人で、商才にたけていたんだろう。博労は現金商売、これをこつこつとやり大野村に田畑を買った。更に山林から酪農へと手を広げ、十一人の子を得た。
八人の男、三人の女兄弟の三千也氏は男の七番目。子供の頃は日が暮れるまで近所の子供と遊んでばかり、腕力もあり腕白を地で行く。親は懸命に額に汗して働くが、子供等に農作業はさせなかったという。
子供も事業をしている、つまり学業という事業をが親の心なのだろう。親の仕事を手伝わせるは、本来子供が持って生まれたものの邪魔になると思ったのだ。子は親の道具じゃない。俗に「あの子はいい子だ、この子はいい子だ」と言うが、それは親にとって都合がいいだけの話。
大人しく家で親の帰りを待つとか、聞き分けがよく買い物もしてくれるは、親が自分の都合で子供を評価しているだけ。
子供の時は子供として、伸び伸び育つのが本来の仕事なのだ。あまり早いうちに手を入れられ、ご都合主義の世の中に放り出されると悪く、そしてずる賢くなるもんだ。
その点、自分の仕事が忙しかった三千也さんの親は偉かった。貧乏人の子沢山のたとえの通り、三千也さんも上級学校へ行くのに苦労し、通信教育で盛岡第一高校を卒業、この学校に明治三十一年石川啄木が学ぶ、その同級生が金田一京助、アイヌ学の泰斗だ。
三千也さんは盛岡で親戚が書店を経営しているのをツテとして、そこで書籍の営業をする。当時は画報が出始める。印刷技術が向上し大判のカラー刷りの画で見る雑誌の登場だった。戦後間もなく誕生した世界文化社が家庭画報を発行、その他、婦人画報などを職場や家庭に営業に回る。そんな中、体調を崩し、このままでは死ぬかもしれないと悩む。すると警察官をしていた兄が、規律正しい生活をすれば、体も元にもどるからと、自衛官をすすめた。母親もそれがよかろうと言うので陸上自衛隊に入る。そのころ既に三千也さんは二十一歳、高校出たての十八歳の若者に負けるものかと、持ち前の根性が開花。入隊すると教育隊に配属になり、自衛官としての根本を十ヶ月で叩きこまれる。
この間に大型自動車、特殊車両などの運転免許証を取得する。そこを首席で卒業し普通科連隊に配属になる。そこが八戸の桔梗野。入隊から退官まで懸命に職務遂行、受けた表彰三十と五回。
入隊すれば兵舎で二段ベット生活を送る訳だが、友達の紹介で八戸十六日町の三元に勤めていた女性を知る。この人が尻内の名門小笠原家の娘。なかなか母親の承諾が得られない。
と、言うのは働き手の主人を軍隊にとられ一家の苦労は全て母親の背に押し付けられた。その苦労を娘にさせたくないという親心。そこで親戚の伯母さんに相談すると、農家は年に二度忙しい時がある。それを狙って汗を流して手伝えばいいだろうと智慧をつけられ、元気一杯で田圃の仕事を手伝ううち、母親が折れてOKが出た。
昭和四十二年のこと。三千也さんは六年間も二段ベットで生活。寂しい一人寝からようよう開放。
それから夫婦の間には三人の子供が生まれ、北海道の釧路へ転勤となる。
そこで自衛官の採用係りになる訳だが、全く知らない世界。それでも持ち前の根性でどうしたら自衛官を多く採用できるかと苦心。昨今は景気後退で自衛官になりたい人が多くなった。景気が良くなると民間企業が採用枠を増やすので、どうしてもそちらに人は流れる。二段ベットで生活なんてしたくないのが人情。ところが、最近の自衛隊もそこらへんを心得て、自宅から通うことも出来るようになったそうだ。
その自衛官募集係に配属された三千也さんは人から教えられることを拒否。自分なりに工夫をしてみる。先ずは未知なる町、釧路を散策。人口は約二十万、最高気温二十八度、最低がマイナス十五度と結構熱くて寒い。五月に雨が一番多く降る。そこに六年いた訳だが、抜群の採用成績を上げた。
さて、読者諸兄、この三千也さんがどのような工夫をしたか、先を焦って読まずに暫し考えてみなさいヨ。教えられると、ああそうかとなるが、三千也さんも必死の努力でこれをつかんだ。特別に読者諸君に開示するが、それはブラブラ町を歩いた。そこで家々の表札を眺める。ここには個人情報が書かれてある。戸主の名、次に女房、そして子供とある。
それを手帳にメモして、二三軒先の家に行き、○○さんの所に来たんですが、何処でしょうと知らぬふりして聞くと、近所のことだもの、ああ、その角を曲がればすぐですと教える。そこですかさず、お子さんのAさんは今幾つになりましたでしょうかと尋ねる。すると高校三年生だの中学生だのが判明。どこの高校に通っているかが分かれば、三千也さんは土日にかけて、その家を訪問、さらに高校へと押しかける。進路指導の先生に会い、自衛隊ですが、既に家族とも面談していますが、本人は就職先をどうしようか迷っています。先生、自衛隊は国家のために働く場です、云々かんぬんとならべる。大体、進路指導の先生は熱心に自衛隊へ行くことをすすめない。二段ベット生活よりも気楽な民間への就職をすすめるもんだ。
そこでさりげない会話から、進路指導の先生の奥さんの誕生日を聞きだす。そして、プレゼントを     持って先生の自宅を訪問し、ご主人から大変お世話になっている自衛官です、奥様、誕生日おめでとうございますとやらかす。すると、あら、いいわよから、それでは折角ですから頂戴しますに変わり、今度は三千也さんの味方になる。そこで、その高校に行くと、進路指導の先生が味方になってくれて、教師の側からの説得も加わりみるみる採用人員が月に五人程度の平均から十五人へと変身。
なに最初のうちだけ、その内息切れするよと高をくくっていた先輩がたも毎月、それをコンスタントにやるもんだから大騒ぎ。更に中央にもそれが届き、六年間で大金字塔を建てる。防衛庁長官表彰を受ける大騒ぎ。
そして又八戸に戻ってきた訳だが、そこに思わぬ仕事が三千也さんを待ち受けた。
昭和六十年のこと、八戸の陸上自衛隊のトップを司令というが、その司令から「結婚相談」をやれと命令が出た。自衛隊には独身者が多い。伴侶をみつけ健全な家庭生活をさせるのが大事だ、だから圃田、お前に命令すると来た。
ならば、わたしに結婚相談所を開設していただけますか、一生を決める大事な仕事、私も精一杯努力をさせていただきますが、まさか司令、そんな大事な話を相談所もなしに立ち話でやれとおっしゃいますか?
これはいい台詞だ。返事に困った司令は三日間待てと返事、倉庫を改装して、結婚相談所の看板を掲げめでたく初代相談所長となった。
ここで智慧を働かせる。男は沢山いる。相手の女性をどう集めるかと苦心。そして八戸の企業を回り始める。町内会もくまなく回ると、気心が知れればもう三千也さんのペースにはまる婦人部長さんたち、なにしろ三千也さん、弁舌がたくみで人のよさそうな顔つき、ここに良い娘さんがいると、情報は山。
そこで、隊員にこんな娘さんがいるけどどうだ、良い返事がくると隊員の親に会う。まだ写真は見せない。言葉だけで隊員側の了承を取り付ける。そして今度は女性側も同様に写真なしで話をつける。三千也さんが薦める人ならという所まで昼夜兼行(ちゅうやけんこう・昼も夜も休みなく道を急ぎ、または仕事をすること)で日曜土曜も返上し尽力。それが実りました。忘れもしません、昭和六十年十二月一日、野月会館で挙げたのが種市町から自衛隊にきた安藤さんと名川町のお嬢さんとの結婚式。三千也さん仲人もつとめ、それから結んだ縁が百二十三組。
出雲の縁結びの神様を現代版にしたのが、この三千也さん夫婦。自衛隊だけでなく、日曜返上で家族サービスゼロ、家族からは恨まれるが、一本気の三千也さんは家族を捨てて粉骨砕身。我が家に遅くまで男女ともに結婚希望者が押し寄せる。
離婚をしたのはタダの一組だけ。噂を聞いて青森市の女性が自衛隊の人と結婚させてくださいと何人も来たそうだ。
当然自衛隊でも大評判となり、各地の自衛隊から相談所の運営の仕方を聞きにくるが、自前でボランティアと聞くとしり込み。
実に、この三千也さんの偉大な所は銭を貰わないところに真骨頂。だが、三千也さんだけの力じゃない。奥さんが夜遅くまで押しかける青年たちの世話をしてくれたから、かくまで大勢の人々の縁結びが出来たわけだ。感謝感謝。
そんなこんながありまして三千也さんも無事定年退官し、今はのんびり暮らしていますと書きたいところだが、いまだに結婚相談を頼まれる。業者からも営業部長で結婚式を担当して欲しいと来るが全てお断り。それでも現代風な結婚式はこうやるべきの持論。それを聞きに青年淑女が集まる。
ところが退官後に健康に不安、胃を摘出、胆嚢除去と腹を三回開く大手術。八月が来ると体調を崩すことしばしば。それを気遣い奥さんが何処へ出るにも一緒、高砂の翁(おきな)と媼(おうな)のようなもの。こうした夫婦が共にいる姿も絵になるものとつくづく得心。さて、二人で縁結びした人たちがそろそろ銀婚式、めでたい日々が迎えられるのも夫婦がそろって元気なればこそ。こうした銀婚式を祝う習俗(しゅうぞく・社会のならわし。風習。風俗。また、生活様式)を八戸から日本全体に発信するのも大事な仕事。三千也さんの損得抜きの精神を我々八戸人がいただきたいもの。
さて、それでは三千也さんのお子さんたちはどうしたかというと、これは皆立派に育ったわけだが、親の背中を見て育つと言うように、自衛隊員は薄給と知り、長女は北高校から弘前大に進学し、東京で就職、職場で伴侶を見つけて今は埼玉県在住、次女は美容界に身を投じ、現今大流行のエステ技術のエキスパート、時折、新聞雑誌、テレビに話題を賑わす。
長男は昔で言えば陸軍幼年学校、これは明治二十年に設けられ十四歳から入学、ここを卒業すると陸軍士官学校に無試験で入学できた。日本陸軍を担う青年将校への登竜門。それが自衛隊にもあり少年工科学校がそれ。給料を貰いながら勉学に励む。そして今は二等陸尉、二児の父。自衛隊も国際貢献などを求められる難しい時代、それでも圃田一族は国家防衛の為に二代に渡り尽力中。
三千也さんも頼もしい次代を担う倅さんたちに囲まれ、今はお爺さんとなりましたが、どうしてどうして、これからは銀婚式の推進役として、ご自身の金婚式までは頑張ってください。

第二回そばやの二階・馬場町「おきな」で各々がた討ち入りの…


そばやの二階
第一回は筆者病気入院のため欠席。今回は席亭の加藤万次郎氏が体調不良のため参加者が二名とのこと、急遽知人を動員し第二回をようよう開催。
世の中不思議な経歴、経験、体験をされたかたがたくさんおられるものだと痛感。と、言うのはこの二回目会合に、筆者がこう切り出した。
私と編集長の月館さんがFM放送を八戸でやろうとして、郵政省にかけあった。すると地元商工会議所の協力を得て欲しい、そこで商工会議所に相談に行くと、待って欲しい、そのうち勝手に自分たちでやりだした。放送で筆者がしてみたかったのは、「私の有難う」と言う番組。
これは、人生を渡ってくる途中、これを渡世というが、いろいろな人と出会い、様々な経験をする、 それが良いことでも悪いことでも、その中で、終生心に残る人の情けを感じたものは何ですか、その人に有難うを伝えられましたか? もし伝えていないなら、ここで言いましょう、あなたの有難うを、と言うのが「私の有難う」と言う番組。
ところが、こうした番組を次から次へと発想する力がないから、ビーFMは相変わらず聞く人間がいない。企画力こそ全て、時代が要求するもの、時代を超えて残さなければならないもの、そのことに気づくのが報道の指名、それを忘れて、いや、それを持たずに報道の側に居ること自体が不都合。
さて、今回の「私の有難う」はいろいろな方からいただいた。次号からは「私の有難う」のページを作ってご覧に入れますが、今回はその予告編とでも言うか、心に残る話を先ず紹介。
読者諸兄の心の中に、木村庄之助のことが残っておられるだろうか。「はちのへ今昔」が提唱し、故金入明義氏が八戸市長に伝えてくださり、その 祝賀会が今年の二月に開催されたことを。
その席上、木村庄之助の恩師、久水先生が心のこもった言葉を添えられた。温情溢れ胸にせまる教師側の教え子に対する心持を淡々と語られた。列席の人々の中には目頭を押さえる人もあった。
まさに錦上花を添える心のこもったスピーチだった。その久水先生にありがとうを伝えたいの言葉が、今回の参加者の口から飛び出した。母親に感謝する、父親にの言葉は参加者の口から次々に出たが、教師へのありがとうの言葉が出たのは、まさに主催者側の意図するところであった。
「私の家は裕福ではありませんでした。当時の八戸にはそんな人がたくさんいたのかもしれません。私はいつも姉のお古を着せられていました。母親は新しい服を買ってやりたいと、勿論思っていたことでしょう、いつだって自分のことより子 供のことに気を配ってくださる優しい母でした、でも父の稼ぎが少なく、そのわりに子沢山なので、してやりたくてもできなかったのでしょう。私もこの年になり孫と一緒に暮らすようになって、母の心が分かるようになりました。誰だって自分のことより血肉を分けたわが子がいとおしいものです、でも、したくても、してやりたくても出来ない時があるものです。
私はいつも継ぎの当たった靴下を履いていました。同級生の薬屋の娘さんは、いつもこざっぱりした服装で、私は羨ましかった。そして、その子の履いている靴下はいつも可愛らしいもので、ため息がでるほど羨ましかったんです。下駄箱があって上履きに履き替えるときが私はいつも嫌だったんです。継ぎの当たったのを見られるんではないかと、小さな胸がドキドキしたのを昨日のようにも思い出せます。
今にして思えば、あの頃は特別私の家だけが貧乏だったのではなく、多くの国民が等しく貧乏だったんですけど、幼い私は、どうして私だけがこうした惨めな気持ちにならなければいけないのだろうかと、チョッピリですけど親を恨んだこともありました。
そんな私の心持に気づいてくれたのが久水先生でした。私が靴下の破れを気にしているのを、どこかで見ていらっしゃったのでしょう。ある日、下駄箱を開けると新品の靴下が入っていたんで す。私はびっくりして、すぐ先生のところに飛んで行きました。だれかが間違って入れたのかもしれないと思ったからです。職員室の久水先生は、私の言葉を黙って笑顔で聞いていました。
そして、「ちょっと時期は早いけど、きっと、サンタクロースがくださったんだヨ」と言って私の手を握りしめました。その時、私ははっきり悟りました。先生の手は大きく、そしてなによりも暖かかったんです。ああ、久水先生こそサンタクロースだったんだと。
先生は素晴らしい人です。その時は嬉しいばかりで、家に戻って母親にそのことを誇らしげに伝えました。母親はその言葉を聞いてエプロンの裾で涙をふきました。私はなんで母が泣いたのかを理解できませんでした。
でも大人になってお勤めをして、最初のお給料で母にプレゼントをしたとき、又母は泣きました。その時、初めて私には分かったんです。私は勤めたばかりでしたから、勿論安月給です。そして学校の先生もそれほど多くない給料で生活をやりくりしていることに気づいたんです。
私は久水先生の心根に初めて気がついて、母と共に涙を流しました。でも、私の涙は母の涙とは違うんです。母の涙は娘が成人しその初めての給料からプレゼントを貰えた喜び、母として子を一人前に出来たという喜びです。
私のは人としてなかなか出来ない人情への感謝の涙でした。あの当時、戦争が終わって間もないころに私たちは生まれ、そして長ずるにしたがい、大勢の子供たちが学校に通いはじめます。先生も急遽採用になり、一学級が五十五人などという大勢の子供が、それこそびっしりと机を並べます。今は一学級は三十数名と昔から比べると、めっきり生徒の数もへりました。
あのころはいつでもどこでもおなかを空かせた子供たちがいっぱいいました。食べることすらそんなものなのですから、衣服になんてまで手が回らないものです。私は兄弟が多くて、いつもお下がりの服でした。そんな大勢の生徒を抱えながら久水先生は一人ひとりの子をしっかりと見ておられたのです。そしてご自分の給料をやりくりして私に、この私に靴下を買ってくださった。私は自分で働いて、初めてお給料を手にしたとき、心の奥にしまいこんでいた久水先生への感謝の念がじんわりと、しかし明瞭に浮かびあがってきたんです。
それだからこそ、私は母と共に涙しました。
私もいつか、人のためになれるようなことをしてみたいと心に決めたのがその時からです。
でも私には久水先生のような大きな慈愛に満ちたことはできません。でも地区の婦人会などを通してボランティア活動に汗をながしています。かならず、どこかで久水先生からいただいた人としての大事な心根を、この社会に還していきたいと願っているからです。だから私の有難うは吹上小学校時代の恩師久水英一先生へ感謝をこめて申し述べます。有難うございました」

デーリー東北新聞刊「町内風土記」からおよそ四十年前の売市を再現


南売市
いまは格好の住宅地
明治二十二年帝国憲法が発布され、同時に町村制度も実施され、地方自治体は建設、整備期にはいった。藩制時代から荒谷村と呼ばれていたこの地域は新町村制によって舘村と改称された。
 当時の村長は村議会が選出するしくみになっていたため村議会議員にたいする買収、贈賄工作が活発なのとあいまって八戸の奥南派と土曜会の争いが持ち込まれ、小さな村に政争が続き、乱闘国会ならぬ乱闘村会までみられたという。とくに明治も四十年代にはいって遠山景三村長時代から近藤喜衛氏のひきいる奥南派と北村益氏を頭領とする一派の主導権争いがあり、この両氏や遠山景雄氏などが交代で村長になった時期もあった。すなわち村議会のいずれの派から村長を出しても円滑にいかないため、第三者である八戸からの「輸入村長」にたよざるを得なかった。このため松原民夫氏が地元初の村長として就任したのは相当長年月を要してからのことであった。
 また、この館村にみられるような政争は周辺の是川、大館、下田の各村もその例外ではなかった。その時代の中央政界が政友会と憲政会の二大政党に分かれて争い、政権の交代が県知事や地方の警察署長交代にまでおよんでいたのだから、館村の主導権争いも当然、起こり得べくして起こった事態であったといえよう。
 またいずれも故人だが野沢清二氏、山田大太郎氏などは憲法政友会系議員として小軽米亀松氏、川口末太郎氏などが政友会系議員として活躍していたのは旧館村村政史の一ページを飾っている。なお館村役場は新組町に置かれていた。
 八戸市に編入されて売市と改称した昭和十五年ごろは四十戸の専業農家ばかりだったが、サラリーマンが増加した今日ではその数は五%にすぎない。アイスクリームといえば盛夏時だけのたべものという時代から四季を通じて愛用されるようになったが、町内の一角に近代設備を誇る明治乳業八戸工場は昭和三十二年に進出している。北奥羽経済圏内へ販路拡張をはかっていた同社は、当時飲用牛乳の生産、販売をしていた東北乳業を買収し、工場にしたものだが、現在の年間生産能力は飲用牛乳三千三百キロリットル、アイスクリーム千八百キロリットル、練乳五百六十八トン、バター六十五トン。販路は青森県下はもちろん、秋田、岩手全域から北海道南部に至るまで、その販売網はきわめて広い。酪農事業を主体とした農業構造改善事業を着々と進めているこの地域にあって、明治乳業の存在は貴重で、低所得に悩む農民の期待を集めている。
 西、南の両売市をつらぬく県道は南売市の久慈商店の付近からなだらかな坂になっている。まっ すぐで単調な道は、ややもするとドライバーの注意がにぶりがちで、しばしば交通事故が発生しているが、先年五月も母親のもとにかけ寄ろうとした幼児がわき見運転のダンプカーの下敷きとなって、即死するという痛ましい事故などがあったりしてから、町内会は交通安全協会売市支部と提携し、交通安全運勣にも積極的だ。
 小学生、中学生は隣町の根城小、中学校へ通学しているが歩道と車道の区別がない道路を通うのは危険だということで道路拡張問題が持ちあがっているが、進んで私有地を提供しようという住民も多く、市当局と具体的な交渉の段階までこぎつけている。
 サラリーマンが増加したのに伴いアパートもふえているが、三十世帯ぐらい、はいっている規模のものは六戸を越えようとしている。また電電公社の職員住宅はなかなかしょうしゃな建て物で町内の人は、モデルハウスだといっている。
 売市下久保に八戸ガス専務の滝崎清男氏が住   んでいる。氏は初めて八戸にゴルフを紹介した人で、更上関にインドア・ゴルフ楊を開いた。八戸バラ会々長、商工会議所工業部会長、総合振興会電力部会長などの要職にある。近年、医院や商店などがふえ生活面でいろいろ便利になってきている。八戸地方酷農農業協同組合がある。
 世帯数四六〇。町内会長、行政員松田久五郎氏。民生委員邨谷忠吉氏。納税貯蓄組合員本村光男氏。婦人会長北村なをさん。
 西売市
寒村から住宅地に
売市から馬淵川に架けられている大橋にかけて、藩制時代は道路両側に沿ってうっそうたる杉木立がつつみ昼なお寂しい街道であった。
 売市という地名は、かって市がたったことからつけられたという説もある。地名といえばこの辺一帯はいまでも「あらや」と呼ぶ年よりがいるように明治、大正のころまでは館村字売市の名前よりは通称「あらや」といわれていた。
                     売市など田面木以東の地域が八戸市に編入されたのは昭和十五年一月一日からだから、市制施行後十年にしてようやく「市内」となったわけである。
 四十年前は、いまの長根湯から県道までの間に九戸しか民家がなく、道路沿いの農家を含めて二十数戸という寒村であったことからすれば、現在のように八戸のベッドタウン化したのと比べて隔世の感がある。
 かって長根湯のすじ向かいには四学級という小じんまりとした売市小学校があり、そのころ沼館小学校は売市小の分校だったという。昭和五年に移転し、いまの根城小学校の前身となった。
 馬淵川を見おろして小高い丘に建つ青森県警察「馬淵寮」は、かつて南部子爵の別荘があったところ。もっともいまでも南部恭秀氏の別荘で凝った茶室が新築 され、その伝統と手入れのよく行きとどいた邸園は往時をしのばせるにじゅうぶんだ。
 よくフクロウの鴫く声が聞こえた緑カ丘の一角に市川登志美さん宅(農業)がある。ここは藩政時代に八戸藩が頒民にいろいろな布告を知らせる制札が立っていた場所だったことからいまでも市川さんは「制札さん」と呼ばれている。
 大橋は、かつて増水のたびに流失物がたまって揺れ、危険なことから戦前にコンクリート橋となったが、県内では二番目の堅固なものだった。ところが橋ゲタが低くまたまた流失物がたまるため、戦後しばらくたって改修され現在に至っている。
 南部、十和田、市営バスの三路線が通っていることと地価が比較的安いことなどからサラリーマン住宅が多くなり、二百二十世帯の約三分の二はそれである。
かつて農家ばかりであったものが工場、商店、会社づとめの人がほとんどの世帯から出るようになり、専業農家はわずか十戸にも満たない。
 大橋をはさんで河原には民家の建っていた時期もあったが、水害でやられてからは戦争中松根油をとる小屋のみであったが、原始的アブラを必要としなくなった今目はそれすらもみえない。
 道路巾が交通量に比べて狭いため事故発生を心配した町内会では交通安全協会の支部と協力して住民に注意をうながし、いまでは交通安全のモデル地区に指定されている。
 館村時代からある天満宮は村のやしろとして親しまれているが、毎月八日、二十五日の例祭日には売市地区のおばあさんたちが集まり、懇親会を開くなど重宝がられている。
 世帯敬二七〇。町内会長、行政員、納税貯蓄組合長稲葉愛さん。民生委員柏崎源一氏。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 4


今月も引き続き吉田隆悦氏の本から
曹隆様と宗参寺
 ここで少し、曹隆様と宗参寺について御話します。曹隆様は、八戸南部藩の日記に記載の通り、八戸大慈寺十五世南冥曹水師の一番弟子でありました。(筆者・吉田隆悦は曹水の五代目の法孫であります)この人は松館の大慈寺の直ぐ下の方(門前)にある現戸主大西良吉家より出家して、青雲の志を抱いて江戸に上り修行、その人格力量を認められて、浅草の永見寺十八世貫道師の法派を継承して中央の人となったのであります。現在、京浜間に永見寺法類が三百五十数人居りますが、その中、曹隆様の直系が壱百九十数人となって、中央、地方の宗門の学界、政界に一大勢力を持っています。現在の曹洞宗の宗学の最高権威である前駒沢大学総長博林咬堂博士は、曹隆様直系五代目の法孫であります。
 曹隆様は、道心堅固で、内外明朗な高潔な人格者でありました。徳川幕府の政治の特色である隠偵政策の密偵が、江戸城下の全寺院の僧侶の生活内容を内偵した所、内外明朗にして清潔な人格者が、二人居たそうであります。曹隆様はその一人で、幕府から表彰されています。金英は、この高潔な人格者曹隆様に社会的、渉外的、道徳的人間形成の一大感化を受けたのであります。
 曹隆様は、下谷の法清寺と浅草の永見寺の住職を経て、牛込の宗参寺の住職となっていたのであります。そして、この宗参寺は徳川家御朱印付の格式ある寺でありました。赤穂四十七士の武士道を生んだ山鹿素行先生の墓もある名刹であります。後年、金英・西有穆山師もこの寺に住職して大活躍をするのであります。
 金英は二十二歳の冬に、この名刹宗参寺に於て長老の位に昇る立職の式を行なったのであります。この立職の式は、集合した修行僧の食費その他の経費三ケ月分二十五両を納めなければならないのであります。金英には、そんな大金はありません。曹隆様は、これを全部免除したばかりでなく、儀式に使用する祝衣も着物も新調して無料で授与して、立派な式典を挙げさせたのであります。この立職という式典は、僧侶として第一の出世であります。宗教界に一人前の待遇を受ける資格を得たことになります。
 金英は、曹隆様の御指導により、曹隆様の弟子である浅草の本然寺第十一世泰禅様の法脉(ほうみゃく・仏教を伝える脈)を相続して、和尚の位に昇進し、第二の出世をし、社会の指導者、教化者としての完全な資格を得たのであります。そして、翌年、二十三歳で、東京都牛込の鳳林寺の第十五世の住職となり、中央に於ける指導者として、脚光を浴びるに至ったのであります。これ皆、曹隆様の金英に対する同郷の御厚誼と、その人物を見抜いての御親切な御指導の賜物であります。そして又、反面金英は、大切にされ、認められ、応援されるだけのことをしております。その一例を述べましょう。
日天托鉢して、先住の借財を整理す
 曹隆様が、金英を吉祥寺に於て見知ってからは、宗参寺の檀用は勿論、鳳林寺の檀用にも時々頼んだのであります。特に鳳林寺の住職は老年であり、その上弟子がなかったので、しばしば鳳林寺の檀用を勤めたのであります。金英は檀用に行った時「今日の法事は、どちらでありますか」ときいて、誰に頼まれなくとも、施主の墓を奇麗に清掃しました。その行き届いた親切が、住職や檀信徒の心を感心させて、二十三歳の若さで、鳳林寺の住職に請われたのであります。
 又吉祥寺住職愚禅和尚さんについて正法眼蔵を学んだのであるが、愚禅様が新潟県魚沼郡川井村の真宗寺に招かれて、眼蔵会を開講した時、愚禅様の荷物と自分の荷物の計十八貫の笈を背負って、徒歩で江戸から碓氷峠(うすいとうげ)を越えて随行(ずいこう・人の供となって従い行くこと)しました。その時の熱意は勿論驚嘆すべきものがありますが、愚禅様に対する親切ぶり親近の態度は師家と安居者(あんごしゃ・修行をする 者)のしきりを取った観密さであったといわれます。
 ところが愚禅様は三ケ月の短時間で、九十五巻全部を素読と同様に、かけ足で提唱(ていしょう・禅宗で、教えの根本を提示して説法すること)してしまった。汗を流し、足に豆を出して、お伴して来た金英は不満の顔をして、「もっと丁寧に願います」というと、「お前一人ならどんなにも詳しくやるが大衆が相手だからな、お前だって聞かぬよりはよかろう」といわれて、師資(しし・師弟のこと)ともに笑い合ったそうであります。
 かくして金英は、二十三歳(天保十四年、一八四三年)にして、法幢(ほうとう・仏教の目印の旗)師曹隆様、御本師泰禅様の御すすめもあり、鳳林寺住職及び檀信徒の懇請を容れて鳳林寺第十五代目の住職となったのであります。現在の鳳林寺は杉並区高円寺南二丁目にありますが、金英和尚が住職した当時は、牛込の宗参寺の近所にありました。金英和尚は住職するや、雨の日も風の日も、毎日、日中托鉢をして、その収入を毎日檀
徒総代の酒屋さんに届けて置きました。それが何時の間にか、一年半経った或夕刻、総代の酒屋さんが、怪しんで「どうして私の所に浄財を何時までも預けて置くんですかと」訊ねると、金英「先代住職さんが、貴殿から借りた借金を弁済する為であります。どうぞ受け取って下さい」と改めて挨拶したのであります。
 総代「先代住職の借金を返す為に、毎日托鉢な    さるとは感心な事です。貴僧のその心意気    に感じ入りました。これ以上の返済は要り    ません」といって、借用証文を金英和尚の    前で焼いてしまいました。
 このような信義を重んずる道義心は曹隆様の人格より受けた影響が多かったのであります。
 住職後の参師問法工風坐禅
 弘化一年(一八四四)金英和尚は二十四識の青年学僧として頭角を現わして来たが、怠堕の心や、慢心を起すことなく、一層の学究心を奮い起こして、師家仏関師や宗桓師等の門をたたいて、参禅弁道(べんどう・仏道を一心に修行すること)を怠らなかった、又吉祥寺の大拙愚禅宗匠からは進んで、願って、正法眼蔵の提唱を受けたのであります。
 更に、曹隆様から生活指導や、倫理道徳面の御指導を受けて居りましたが、二十六識の時、鳳林寺の伽藍を改築した所、御本師の浅草の本然寺住職泰禅様を始めとする法類の皆さんから勧誘されて、当時としては若輩と恩われる二十七歳で法幢(仏法を宣揚する大旗)を建てて、天下の修行僧や学僧を集めて、祝国開堂の一大説法会を敢行して、大和尚の位に昇られたのであります。
 今や、金英大和尚は、江戸中の新進気英の学僧、徳望(とくぼう・徳が高く、人望のあること)家として頭角を現わすに至り、周囲の人々から称讃され、自らも慢心を起す傾向が見られたのであります。
父の訃音(ふいん・訃報)に接して帰郷、母の激励を受く
 嘉永二年(一八四九)金英和尚二十九歳となり、学問もあり坐禅もしている優秀な指導者として、江戸の宗教界に活躍していましたが、故郷八戸より「父死せり」の訃音に接しました。
金英和尚は、早速く帰郷して、父の仏事万端を世話し、糠塚の大慈寺の智法宣隆様や、新井田の対泉院の祖堂様等とも御目にかかり暫く、帯在していました。又、法光寺を訪ねて授業恩師金竜様の墓参りをして旧恩に深く感謝して、感うたたなるものがありました。長流寺及び法光寺は、昔日、最も感激性の強い少青年時代に通算七年間も暮した思い出深い道楊であり、対泉院は親友祖堂師が居り、大慈寺は慈恩師の法幢師である曹隆様が出家したゆかりの寺であり、修学時代も常に手紙のやりとりをしていた仲の住職であります。誰から話が出たか、問う必要のない間柄でありまして、一致して、金英大和尚を八戸に留めようという意見がまとまり、「金英さん江戸の鳳林寺をやめて、法光寺に晋住(しんじゅう・住職になる)しませんか」と、一同が熱心に勧誘したのであります。その当時までは、法光寺は、大慈寺や対泉院の法類寺であって、対泉院の住職が法類総代をしていました。だからこういう話の出るのは無理なことではないのであります。
 金英和尚が、明治十四年九月二十八日に、穆山?英という名で、法光寺第三十世の住職に勧請されたが、その当時の法光寺の法類総代は対泉院住職上田租堂師であった。又筆者は、まぎれもない大慈寺十七世智法宣隆和尚の四代目の法孫でありますが、私の法系の、覚翁俊才大和尚様が、法光寺末寺の六戸の海伝寺の開山で、現在も法系相続しているし、又同じ法光寺末寺の岩手県軽米町の三光寺の開山様は、十三代前の法祖風山慶門大和尚様であるが、現在は、長流寺法類の高山光麟師が住職しているというわけで、法光、大慈、対泉の三ケ寺は、各寺の先代諸大徳様方の法愛関係を熟慮するなら、宗会議員や、所長の選挙などで対立抗争してお互にいやな感情で暮らすべきではないと反省しております。
 話を正道に戻しまして、兎も角、金英和尚も故郷に錦を飾って、東北一の学力徳望を思う存分発 輝して見たいという気持になったのも無理からぬことであります。
 この無理からぬこと、人情的な事には、普通の人間なら賛成する。所が金英和尚の母親なをさんは、これを聞いて、大変悲しみ、且つ怒られた、金英和尚を自分の室に呼んで
母「金英や、聞くところによると、お前は、八戸に留まる気持らしいが、汝聞かずや、古来より偉人は一生涯の勉励努力を肝要とする。十年に満たざる修行を以て、奥州第一の学僧なりと、慢心を起したのか、又、汝が、出家に際して何と誓いしや、此の地に留まって、地獄の先達となる気か!すぐさま江戸に帰って一層の修行すればよし、八戸に留まる如き解怠慢心を持つならば、親とも思うな。子とも思わぬ!」
と、きびしく訓戒したのであります。
 金英和尚の心は、大波瀾を起しました。父上が亡くなった今日、母上の近くに居て孝養を尽したい。故郷の法類や友人の真情を容れて、自分の力を思う存分発揮して、地方教界の革新を計り、報恩の一端としたい。釈尊も御悟りを開かれて後、釈迦族の救済に尽力せられ、故郷に於て教化活動をせられておる。自分が母親に孝養を尽しながら故郷の人々の為に活動するのも、決して無意味でない。間違っていない……と考えて暫らく地方を中心として教化活動をしようか……。と心を動かしたのであります。
 これに対して母親の心境と立場が違います。「金英は、まだまだ未熟だ。青い、加うるに、この南部地方は、酒飲みが多く、悪い風習が強い。
金英の若さでは、この悪習に敗けてしまう。出家させた以上は、地方の名刹で満足させてはいけない。日本一の好出家―親族ばかりでなく、日本人全員を極楽参りの案内をする立派な名僧知識にしなくてはならぬ。悲しみにも、親子の愛情にも負けてはならん。と、心を鬼にして大愛を堅持したのであります。金英和尚の心に母親の必死の愛情が、ジーンと伝わりました。「母上、申し訳ありませんでした。母上の仰せの通り、すぐ江戸に戻ります。御心を傷めて申しわけありません」と御詫びして、旅仕度を始めたのであります。
 金英和尚の慢心と油断の心が一片の雲となって、八甲田山連峰の彼方に散り去り、太平洋の荒浪の響きが舘鼻の岩盤に飛沫を上げて、金英和尚の全身を浄めてくれました。
 金英和尚は、真底から、深く、母親に御詫びして、生家を辞したのであります。母は玄関に立って「日本一の出家となり、父母を間違いなく極楽に案内出来る先達となるまでは、断じて、この敷居をまたいではなりません」と涙を流しながら、強い言葉で見送りました。

東奥日報に見る明治三十年の八戸及び八戸人

八戸の馬市と中村熊太郎氏
本年八戸の馬市に於いては出場の馬匹頗る多く価格は一頭平均五円以上にて中々高値の方なる由が数多の馬主の中にあって三戸郡名久井村中村熊太郎氏の馬匹においては逸物多く市中尤も評判なりしという氏は名久井方面にて有数の豪農にして酒造業を兼ね人望なかなかに盛んにして産馬組合に於いては創立の際より委員となり今は郡会議員の職をも帯いる由本年氏の引き出したる馬匹の主なるものを挙げれば退去雑種鹿毛代金百円一回雑種鹿毛代金百五十円退却雑種鹿毛代金百五十円、一回雑種鹿毛代金二百十円、以上四頭は種馬牧場へ買い上げられる四回雑種鹿毛代金百二十一円、初谷某に買い上げられる、二回雑種鹿毛代金三百十円、退却雑種青毛代金二百二十円以上○馬所に買い上げらるる一回雑種青毛代金百九十円、四回雑種青毛代金七十円、純洋種栗毛代金八十円以上三頭は軍馬育成所に買い上げられる等にしてこの以下なお数頭ありし由なるが同氏の馬匹は本年に限らず例年の如しという
三戸町通信
当町に於ける戸数は九百四十八戸人口は四千六百三十八人内士族百一戸平民八百三十七戸にして士族の内男二百五十九人女二百五十二人平民のうち男二千百五十一人女千九百七十五人なり
●当町に於いて本年の徴兵適齢者は三十壱名あり
●当町大字久慈町二番戸平民菅原直氏は本県第一中学校生にして本年徴兵検査なりしが今般一年志願兵を出願せり
●三戸病院当直医下山千代吉氏は留崎検梅医を辞したると同院には外一名の当直医あるに何の都合にや過日本郡長より開業医たる山田某に検梅医を任命せりという
●三戸病院の欠員なるにより今度東京より聘せんとす不日理事者たる栗谷川町長上京する由なり因に記す同院は明治十年以来継続し来るに過般より本郡役所より昨年県令第三十八号により更に設置認可を経ざれば消滅且つ医員の如きは反則なる旨通牒に接し栗谷川町長には郡衙に出頭して従来設置に係るものは前段認可を経ざるも消滅となる理由なき意見を持して陳情せるに第三十八号県達の主意は認可を経ざれば消滅なり且つ其の筋よりも右の次第を申し越せりとのことにて其の手続きを為すなりと一旦帰町せんとするに山本県参事官郡衙に出張せるに際し同参事につき伺い出たるに従来より設置の分は認可手続きを経ざるも消滅せざるの法意なり併し取締上届出でだけは為すべしとのことなりし由前項検梅医の任命も多分役所にて法文誤解の点より取りはかるべしというものあり
●三戸町の赤痢
三戸町の通信によれば同地にては今回赤痢患者三十名発生し警察及び町役場にて日々厳重に消毒を施行しおれるが右は大抵腸カタルの変症なる由にてこれまでは余り世間に知られざりしも警察にては日々巡査をして戸毎に患者の有無を取り調べしめ施療の医師にも注意したるところ一時に届け出となりて前記の患者を出すにいたれる由之がために町役場にては吏員一同消毒に尽力して朝は六時より晩は六時ころまで執務するが如き俄かに繁忙をきたしおれりと尤も右三十名の患者中二名は全治の旨去る二十七日医師より届け出であれりその他二三名を除くの外は真正の赤痢ならざるべく臥床しおるものはなき由斯く腸カタルの気味あるものは悉く赤痢として取り扱うが故に新患者は却って医師の診断を厭い隠蔽するが如き有様なれば世間の浮評もとりどりにて隣郡福岡地方においては三戸町は町内過般赤痢に悩まされ交通遮断しおるなど噂しおる為用事のありたる者も見合わせるがごとき勢いにて昨今の同町は寂寞たる景況なりという
●自転車の速力 英国にて進行中の汽車中にある窃盗に追いつき之を捕縛したる巡査あり、今其の方法を聞くに巡査は前進せる汽車に窃盗あるを知るや直ちに自転車に乗り次の停車場に駆けつけ汽車の未だ到着せざる故暫く待ちおり遂に之を捕らえたるなりと其の機敏驚くの外なかるべし
これを読んだ日本人は驚いたろうなア、自転車とは一体、いかなるものだと驚嘆したろうが、何、汽車がのろいだけサ、現今の者なら知悉だが、まだ自転車を見たことのない当時の日本人には驚嘆だったろう。俗に百聞は一見にしかず。まさにこれ。
●五戸組牡馬競売
五戸組にては本月十日より同十八日まで二歳牡馬競売の景況を聞くに内国種五百三十二頭其の代価二万千二百四十八円七十銭一頭につき平均三十九円、最高三百五十円、最低四円雑種十七頭代価三千六百三円、平均百八十円、最高四百十五円、最低四十二円なるが内軍馬購買に係るものは和種五十七頭雑種九頭にして最高二百十二円、亦奥羽種馬牧場に於いて買い上げたるは和種十三頭、雑種五頭最高二百七十円、最低七十円なりと
●三戸郡有志大懇談会
政界まさに多事中なりの今日、気骨稜々の政客なんぞ黙して止まるや三戸郡の有志此処に見る所あり去る三日大懇談会を八戸町城西武蔵野軒に開く相会える者県会議員、郡会議員、町村長と土曜会派の有志たち無慮百名ばかり座定まりて先ず時の政治問題につき協議するところあり終わりて直ちに酒宴に移り席上発起人岩山高充氏起て開会の趣旨を述べ次に奈須川光宝氏今の政界に関する氏の所見を開陳、次に坂本●の進氏より痛快なる演説あり其より赤石辰三郎氏は源代議士を始め各地より到着したる祝電を朗読し終わりは献酬となりて酒間胸襟を開き快談をなす
●八戸商業銀行 過日の紙上に掲載したる八戸町新設の銀行は八戸商業銀行として出願したる由重役の予選については二派に分かれて未だ決定せざる由
●八戸盲人会 三戸郡八戸盲人会はかねて記せし如く設立数年前にあり爾来熱心盲人の教授に接し生徒は他郡よりも来たり居る由なるがこのほど按摩科に卒業生五人針治科にて一人ありしと目下同会の教授を担任しめるは医師中野健隆盲人永洞清吉十日市茂吉岩間某氏にして同会にて教授等に従事しおるものに対しては別に報酬とてもなきことなればいづれ有功章にても寄贈したきことにて会員等思案中なりとここに八戸町豪商加藤万吉氏病死の際同子息より同会に対し功徳の為とし金二円を寄贈し第二尋常中学校教諭斉藤文学士も同会の挙を賛成し在任中毎月金二十銭づつ寄付するなりと定めの如く出金し居り殊勝というべし
●戸盲人会の事については過日の紙上にも記するところありしが同会の卒業生は田中作太郎、一戸万次郎、清川丑松、東熊吉、松倉久六、小笠原兼松の六名にして尚同会にては算術及び○学等も教授する由にて其の講師は中里正賢氏なるが同氏は盲人なれども嘗て昌平黌(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校)に遊びたることあり算術は当時の中学校教師位の比にあらざる由階上銀行監査役石岡徳次郎及び武尾徳太郎の両氏も同会の為に尽力しおれりと
●八戸町の有給助役 同町は従来名誉助役ありしが更に一名の有給助役を置くこととなりこのほど盛岡の某氏推薦せられて来任したる由南部一の都会と呼ばるる八戸町にも助役に適当な土着人無しと見えたり
●第二回水産博覧会受賞者 
田作  市川村  三浦直哉
    八戸町  川越松五郎
鮑油  小中野村 大久保弥三郎
田作  鮫村   深川治郎
干鮑  同    高橋虎之助
端折昆布  同  高清水蔵之助
島田昆布  同  高橋勝太郎
同     同  田中常吉
干ホッキ  八戸町  槻館門蔵
鰯搾粕   同    富岡新十郎
同     同    富岡重三郎
同     同    関野喜四郎
鮑味付け  同    田中常吉
鮪○    同    槻館門蔵
○皮    同    阿部松助
網     同    大岡嘉蔵
釣具    同    富岡新十郎
鰹節  階上村  平戸小助
つのまた  階上村  島守浪雄
○○    同    佐京彦松
ホッキ万牙 港村  長谷川勝次郎
●八戸の強盗捕縛 本月四日のことなり八戸町において二箇所強盗騒ぎあり一は午前二時頃大字上組町五番戸戸館西松方他は同三時三十分頃大字二十六日町二十六番戸菓子商平田安太郎方にしていずれも忍び入りし強盗は一名なりしが双方とも家族の騒ぎにて近所合壁の知る所となり遂に其の目的を達するを得ざり其の筋にては注進に接するや早くも手○を為して之が逮捕に着手せしも賊はいずれに逃亡せしや跡白波容易に手がかりもなかりけり是より先同町大字上組町十一番戸に立花柾次郎(二十二年)てうあり年に似合わぬ悪漢にしてこれまでも詐欺取財にて一回窃盗にて二回都合三回処分を受け近頃監視規則違反として其の筋の注意を受けたるのみならず其の問題更に詐欺及び窃盗等数罪現れ来たりいよいよ逮捕に着手しおれるものなるが今回の強盗もこのものの仕業なると知られたるより八戸警察署のみならず八戸憲兵屯所にても数名の角袖(これがデカの語源・カクソデの下字のデと上字のカ)を派し種々の手勢を為して熱心に是が逮捕に従事し我こそ其の功を得んとしてあせりしもこの賊は白鞘を懐中しおりて危険のおそれあれば容易に近寄ることならずとの評判あり且つ何処に跡をくらましおるにや更に見当たらずして両日を経過せしが七日に至り賊は小中野遊郭の在りて一夜の春を買いおりしとの噂あり八戸署在勤刑事巡査雑賀重八郎氏は早くも之を聞き込み探偵方々単身にて取り押さえに向かわんとせり署長初め其の危険を注意せしも日ごろ大胆にしてこの道に熟練なる同人なればあえて意にかいせず日暮れごろブラブラ小中野に向かいし(この先破損)身振りにても今時分戻るも怪しや或いは目指す曲者にあらぬかと思わず柾次郎でないかと口走れば果たして曲者柾次郎この声聞くや否や車上より飛び降り肌脱ぐ手も見せず己がはきし足駄をもて雑賀刑事めがけて飛びかかれり柾次郎は大胆不敵の強者腕力にてはもとより数人を敵として屈せぬというもの殊に凶器をさえ携えしおることなれば雑賀刑事も容易ならぬ敵とは知りつつも初めよりより覚悟しおることなれば直にこれに手向かい先ず身をかわして打ちかかる柾次郎に空をうたせながらかねて用意の棍棒を以って心地よく柾次郎の小びんをなぐりて鮮血淋漓たりしも柾次郎は少しも屈せずかえって是までと覚悟しけん益々狂い廻りて抵抗し組み付かれ組み付かれずと争いし雑賀刑事も遂に柾次郎のために組み付かれかくては雑賀刑事も今は危うく見えつつやや暫く争いおるうち柾次郎を乗せ来たりし車夫の注進にて加勢の八重田巡査を初め溝江、岡田の三巡査駆け来たりて暫し争いたる末難なく之を取り押さえたりと言う尤も柾次郎の逮捕せられたるを聞くや同地方にてはいずれも安堵しおる由
●山崩れ人死す 三戸郡上長苗代村大字根岸山崩れ死亡三人、負傷者数人は三戸町諏訪内出水の為
●三戸郡水害 三戸郡において最も甚だしい水害に罹災しは小中野村にして同村の浸水家屋は三百七十戸新町は三尺位に過ぎさりしと雖も浦町すなわち遊郭地の如きは床上の浸水五尺以上に達したれば二階のあるところは家具を二階に持ち運び二階なきものは屋根に取り運ぶなどなかなかの騒ぎにてありしが郡吏役場事務員巡査等は舟筏に乗りて二階或いは屋上におる老若男女の救護に尽力し又一方はまさに流失せんず有様なるを以って消防夫等は専心之が防衛に従事したるため幸いに流失を免れるを得たりその他各村とも浸水家屋多く是川村部内の如きは○を流失したるもの十戸以上もありし由なれども家屋の流失せしものなきは不幸中の幸いとや言うべき小中野の罹災者へは八戸町の主だちより炊き出しを給与したりという
馬淵川は以前の洪水より七尺位水量は少なき方なりしも各小川は一尺五寸も増水したり
農作物は過般再○の洪水に罹りたれどもその後天候順に帰したる為其の景況至って宜しく今後一週間位もこの天気続きたれば稲作の如きは昨年に比して五割以上の増収あるべしと農家一般に喜びおりたるところなんぞ図らん去る月二十八日の暴風にて二十九日洪水となりて川岸近傍の田畑は大河と帰したることとなれば五割どころか翌年の籾さえ獲ることあたわざる所も数多あるべく今尚浸水か所ありしという

昭和犯科帳 其のニ

「鬼平犯科帳」なる時代小説は、池波正太郎の著書だが痛快である片面では人間の暮らしのなかの悲哀までを書き綴っている名作である。現代であっても、またあの時代であっても、途中の時代であっても「事実は小説よりも奇なり」と言われ人間の業の深さに自分に当てはめてみてため息が出るばかりなのだ。昭和の初期の事件簿の裏にははたしていかなる事情や謂われがあったのだろうか現代ではテレビの番組では似たものがあるが、たったこれだけの活字の数にあなたはどんなことを頭のなかに描きだすことでしょう。 

奥南新報
昭和十二年一月四日報から
荒れ狂った白魔
文明の利器を奪ふ
暗黒街と化した八戸市
東北地方としては珍しい雪の少ない八戸地方は二十九日の晝から翌三十日の朝にかけて大雪に見舞はれ積雪尺余に達してゐた處へ二日未明から三日未明にかけて猛烈な吹雪に見舞はた為電信、電話、電燈の各線は各所に於て切断され全く不通に陥った。
猶本市を中心として三本木、五戸、三戸、百石、大舘等四方に通ずる定期自動車の運行も途絶されるに到ったので之等文明の利器を白魔に奪はれた地方民は元始時代に逆転したかの如き多大の不利不便を嘗めさせられた。二日の晩の如きは全市は暗黒街と化して道行く人もなく荒れ狂ふ白魔の中を辛うじて車庫と陸奥湊驛間を運轉した市營バスのへ ッドライトが偶々猛獣の眼光の如く闇の中に輝き凄惨なものがあった。
親の欲心が棄却され
戀のご兩人に凱歌
 貞操蹂躪訴訟に判決
下る
インテリ女性の貞操蹂躪訴訟として世人の興味を惹いてゐた八高女出身の三戸郡中澤村大字市野澤村山ナヨ(假名二〇)が父貴七を法定代理人として債務者同村大字大森字嶋田豪農藤井金蔵(三四)と保證債務者同村鳩田小學校教員鳥喰興吉の兩名を相手取って去年の八月八戸支部に提起した貞操蹂躪を理由とする慰謝料五千圓請求訴訟の諸々
抑々の發端はナヨが八高女研究科に在學中の去年の春金蔵の言葉を信じて貞操を捧げた處その後金蔵は約束を履行しないので詰問に及び同年十月金蔵、ナヨの二人にナヨの母キヱと金蔵と親交の間柄である興吉とが仲にはいって四人が市内小中野町松尾旅館に於いて懇談の結果金蔵は慰謝料として五千圓を提供しようと云ふ契約を結び興吉はその契約を保證しようと云ふことになって解決をつけたのに言を左右して支拂はないと云ふのでナヨが債務者の立場に立って金蔵、興吉の兩名に支拂命令を發した。
之に對して債務者の立場に立たされた金蔵、興吉の兩名は先方が能動的に此方が受動的立場に於いて結ばれた戀愛で貞操を蹂躪されたとは此方の話だとナヨが金蔵に女性の命とも云ふべき黒髪を切って添へた血書のラヴレターを始めとして数十枚の艶書を證據品として異議を申立て兩者の争ひは法廷に展開される事になった。そこで原告側ではナヨが八高女時代下宿してゐた市内鍛冶町松井三蔵ナヨの母キヱ、市内小中野町松屋旅館の女中石田スエの四名を證人に申請、被告側ではナヨの父喜七が徑營の料理店に酌婦をしてゐた現在湯田温泉千葉舘の女中小野フミを申請した處原告側では證人の費用も出さぬ始末だったので訴訟代理人の林便辯護士は弁護を辞退するに到った。その後開廷された口頭辯論に原告側は出廷せずこの訴訟はナヨ本人の意志に依って提起されたものではなくナヨの兩親の背後には黄金魔がゐて種々策動してゐるものでナヨと金蔵の本人同志は「シネマ 見ませうかお茶のみましせうか」で睦ましい交際を續けてゐると噂され訴訟は去月二十五日結審となって一日原告の請求を棄却すると云ふ判決が柳瀬係裁判長から下された
虚榮心にかられ
万引を働く
思春期  十七歳の女中
市内 八幡町井上ツネ方女中三戸郡市川村大字在所戸主孫作四女山村ハツヨ(假名一七)は思春期の乙女特有の虚榮心にかられ奮冬十二月下旬市内三日町三萬デパートから銘仙一反とハンドバック(時價五円代)を窃取したのを手始めに去る十七日午後四時ごろ同店から婦人用手袋(時價八十五銭代)を窃取更に去る十九日午後五時ごろ同店からショル(時價六十銭代)を窃取した事が發覚八戸署に檢挙された。
無軌道教員
父の金で大盡遊び
市内 十三日町八戸アパート内八戸盲唖學校教員下斗米幸雄(二七)はさる十五日實父の金三百餘圓を持ち出して青森市に赴き旭町料理店で大盡風を吹かせ更に酌婦むを浅虫温泉に連出して旅館に夫婦氣取で投宿中を二十一日手配に依つて青森署員に取押へられ翌二十二日身柄は家人に引渡された。同人は元カフエーロンドの女給良子といい仲になってアパートに愛の巣を作った事もある
舘信組元書記
嫌疑晴れて釋放
一部の者の不純な策動の受難
組合 金二千五百圓を横領の嫌疑で東郡蟹田信用組合に勤務中檢挙され八戸署に留置取調を受けてゐた元舘村信用組合書記木村興作(二四)は取調の結果嫌疑が晴れ晴天白日の身となって二十三日午後十時ごろ釋放された。木村が横領費消の嫌疑を蒙るに到ったのは舘村の或る一部の者の不純な策動に依る受難と云はれてゐる