2008年1月1日火曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 2

八中時代
水産とは別の道へ
 私が八戸中学校に入学したのは大正十三年。実は、その前の年に八中を受験したんですが、落第してしまったのです。湊小からは私も含めて五人が受験したんですが、全員ダメでした。先生には「出来の悪い子供たちだ」と、こっぴどくしかられました。
 当時は湊小から進学する人は、ほとんどが水産学校へ行く。私の兄やいとこたちもみんな水産学校でした。私は二人兄第ですが、二人とも水産をやることもなかろう、別な進へ進もうと考えて八中を選んだのです。
 私の叔父で秋山倉吉という人がいます。八中で、元八戸市長だった夏堀悌二郎さんと同級生。倉吉は八中四年生の時に士官学校を目指して勉強していた最中に、急性肺炎で亡くなっています。
 後年、夏堀さんが「君の叔父さんが生きていればなあ」とよく言っていましたが、非常に優秀な人だったそうです。祖父にとっては末っ子で、かなり期待もしてたんでしょう。
 私が八中を目指して夜遅くまで勉強していると、隣の部屋で寝ている祖父が「皐二郎、夜遅くなった。寝るんだ」と声を掛ける。「ああ、ウチのジジイは倉吉叔父のこと思い出して、オレを心配してくれてるんだなあ」と。あの時の声を、しみじみ思い出します。
浜須賀から大杉平まで小一時間歩いて通学
 祖父・初代熊五郎は、私が八中に入ったのを見届けるように、一年生の十二月二十九日に世を去りました。葬儀の時、素足にワラジばきで浜須賀から海安寺まで兄が位はい、私が写真を持って歩きました。足が冷たかったのを覚えています。
 八中に入って驚いたのは、八戸小や長者小などから来ている生徒が大変に優秀だったこと。私の入学時の成績は全学年百五十人中八十番ぐらいでした。これは、相当頑張らないといかんなあ、と思いました。かなり本気で勉強して、一年の終わりには学年で七、八番になりました。
 それから驚いたのは柔道部。体育の授業では、柔道か剣道どちらかを正課としてやらなくてはならない。私は背が低いから剣道は不向き。柔道を取ったんですが、道場に行ったらものすごいのが居る。後で聞いたら湊中校長の前田(正吉)さんのおやじさん。無敵といわれた八中柔道部でしたから、中学校という所は大変な所だと感じました。
 通学は浜須賀から山越えして湊橋を渡り、小中野にあった蝦名商店の息子で今は大阪の箕面に居ます同期生の保三君と一緒に大杉平まで歩く。足腰が随分鍛えられて、四十五分ほどで浜須賀から大杉平まで歩けるようになりました。通学の時は必ず靴。ゲタを履く時は「今般、靴修理のため、何月○日~○日まで、下駄使用を許可願いたい」という届けを出さないとダメだったんです。校内では特に規定はなかったんですが、全員、厳寒の中でも素足。ヘタに何かはいたりすると「ニヤけるな」とビンタを食らう。
 真冬に靴箱をずーっと見ていくと、たった一足だけ「スベ」、つまりワラグツがある。これをはいてくるのが大久保弥三郎。大変なバンカラで、小中野から素足にスベで歩いてくる。
 四年終了で旧制弘高へ進み、後に仙台で振東塾というのを開く。天城山で満州国皇帝の一族愛新覚羅慧生と一緒に亡くなった大久保武道は弥三郎の息子なんです。その頃八戸には中沢直道を中心にした東天塾があり、堀野虎五郎元八戸市議会議長も参加していました。
 南郡大鰐町の町長を務めた油川久栄さんも卒業は私と同じ昭和四年。弘前中学校から八戸中学にやってきた。卒業後のクラス会にもよく出て来ました。先の(平成二年三月)国体スキー競技会を成功させた今の油川和世町長は油川さんの息子さんで、さすが、わが同期の息子と思います。よくやったものです。
陸上部に入ったが胸患い運動禁止
 八中一年の秋の運動会で、湊から行っている悪童連で「マラソンさ出るべ」というわけで出場した。コースは大杉平~湊橋往復。毎日、通っている道だから…というので走った。
 そのうち、だんだんに周囲の人間が居なくなった。旧魚町あたりまで来たら応援していただれかが「オイ、秋山お前は四番目だぞ」。「ヨーシ」というんで頑張った。湊橋を折り返して、間もなく、もう一人を抜いて三位人賞。
 早速、陸上競技部から誘いがかかりました。「秋山、すごいんじゃないか。競走部に来て、駅伝を走れ」というわけです。当時、駅伝というと青森~弘前駅伝。大釈迦の峠を越えて走る。八中は、それまで一回も優勝したことがなく、津軽勢が強かったんです。
 やるしかないなと決意したのですが、二年生になって夏休みが終わったら、胸が痛み出した。診察を受けたら「乾性ろく膜炎」。一年間、運動禁止になって体育の授業も受けられなくなった。
 二学期の試験なんかも休んだりしたものですから、一年生の時に七、八番までいった成績が三十六番に下がってしまいました。私のいとこがそれを聞いて「いやいや皐二郎、お前、大したもんだ。試験受けなくても三十六番だ。百五十人の中だからなあ」と変なほめ方をされました。
 マラソンの思い出では、胸が痛くなる前の大正十四年の六月。この時もマラソン大会があり、ランニングシャツにパンツ姿で、グラウンドに出ていたら小中野大火。近くの生徒は「すぐ帰れ」ということで帰された。
 私も母の実家が小中野でしたから、手伝いに走った。気が付いてみたらランニングにパンツひとつ、とても火事場に行く格好じゃない。火事場に行けなくて、知り合いの果物店で片付けるのを手伝って、もう一度学校へ戻って服を着て帰った。「なんと知恵の足りないやつ」と思い返すたびに冷や汗が出ました。
 八中二年の終わりごろに、叔父・秀之肋の命令で、三重県の四日市から秋田まで、製品の売上代金の回収に行きました。四日市に水谷さんという家があって、そこヘシラウオの佃煮を出荷していたんです。
 私の家でシラウオをアメとしょうゆで炊いた佃煮の粗製品をタルに人れて出荷していた。塩だけで煮たシラ煮も浅箱に人れて出していた。その粗製品を水谷さんのところで精製して、製品として売っていたんでしょう。その点ではわが家の加工というのは、かなり進んでいました。
 この時期に、それまで手こぎ船でやっていた巻き網漁に機械力を導入しようというので、船頭二人を茨城県の大洗へ派遣して動力船による巻き網漁法を勉強させて、昭和三年に八戸では初めて動力船で巻き網を始めたんです。
野球部マネジャーに
 昭和三年というのは、私にとっても忘れられない年でした。なんといっても最高の晴れ舞台、甲子園へ出場したんですから。
 病気が洽って三年生になった二学期のこと。運動部のマネジャーを決める時期に柔道部から頼みにきた。私が「高等学校に行きたいから」と断ったら次に野球部がきた。「いや、ダメだ」と言ったんだが「どうしても、お前しかいない」と言う。
 「オレは柔道部を断ったのだ。今さら野球部のマネジャーを引き受けるわけにはいかん」と言ったら「そっちはわれわれで話をつけるから、なんとしても」と説得されて、引き受けるハメになってしまったのです。
 当時の野球部は、監督は有名な大下常吉さんだったんですが、早稲田を卒業して「わが住む所は日本広しといえども、この町しかない」というわけで、北海道・帯広市で今の農協みたいなところに勤務されていた。
 時々、八中に顔を出して練習スケジュールを十日分ぐらい作って、マネジャーの私に渡して「秋山、ちゃんとやれ」と言って帰って行く。初体験 の野球で、いきなり監督業まで引き受けてしまったわけです。
本を読んで野球勉強
 運動部のマネジャーというのは、予算の分捕り合戦をやる。柔道部は後に浅虫病院長になった沼畑哲三君。テニス部は南部直久君。野球部は私という顔ぶれでした。
 野球部のマネジャー兼監督を引き受けたものの、私自身は野球をやった経験は無かったので、本を読んだりして一生懸命勉強しました。大下常吉さんは基本に厳しい人で、毎日二十分間はキャッチボールをきちんとやれと言う。相手の胸元にボールを返すようにと、きつく注意されました。
 鍛えてくれた諸先輩
 先輩で我々を鍛えてくれたのは、五年上で投手だった高島勝治さん。高島さんのころは東北大会は六県一本でした。大正十四年に奥羽大会が分かれて青森、秋田、山形の三県で甲子園出場を争うようになったのです。
 高島さんは東北大会で五連投して決勝まで進んだのですが、最後は疲れ切って仙合一中に敗れた経験を持っています。現在、華道小原流の八戸支部長を務めておられる高島一華さんの長兄です。