2008年3月1日土曜日

火消し魂は何処から来る?親子二代に渡り消防士の佐々木一族

武輪水産五十年史で工場が火災にあったことが判明。当時のデーリー東北新聞を調べると、その消火中殉職者が出た。
早速消防本部に出向き、殉職者を調べた。四名おられた。燃え盛る炎と戦う消防士には絶えずこうした危険が背中合わせにあるものだ。
それをものともせずに、消防の仕事に飛び込む魂はどこから来るのだろう。人々の生命財産を命をかけても守る根性はどこから生まれるのだろう。こうした謎を解くべく、八戸消防団史の殉職者の記録を見た。すると、そこに、佐々木康勝氏の記録を見つけた。
「火災現場への途上消防車が川に転落」
   三戸消防署名川分署長
消防司令長  佐々木康勝
 昭和五十一年一月十六日午後三時十三分、名川分署は分署から八・五キロの山間地帯にある青鹿長根バス停付近の火災に出動した。現場は名久井岳の山裾にある世帯数百六十二戸、人口六百九十九人の部落で消防力は可搬式小型ポンプ一台のみであった。このため分署長は隊員にこれを認識させ急行した。道路は未舗装の砂利道で幅員三・七メートルと狭溢、それに新雪が薄く積っていた。分署長は出動五分後「道路状況が極めて悪い後続車注意」を無線で指示してきた。消防車はスノータイヤにチェーンを装置し万全を期していたが、火災現場約四キロ手前の地点で砂利道のためチェーンが切断された。分署長は火煙が一層上るのを望見しチェーンの脱着を命じスピードを落して進行した。起伏の激しい山間道は登りでは陽をうけて砂利が露出し、下りは日陰となりアイスバーン状態になっていた。長い下り坂に差しかかり消防車はアイスバーンの新雪に乗りハンドル操作の自由を全く失い滑走して路肩から四・五メートル下の如来堂川ヘ一・五回転し転落した。後部席の隊員、機関員は脱出したが指揮者席にあった分署長は消肪車の下敷となり水中におし込められた。後続の消防隊の応援を得て救出し南部病院に搬送したが、午後四時二十五分その職に殉じた。
 佐々本分署長は常に職務に精励格勤し、最短期間で消防士長、消防司令袖、警防係長と昇進し三十五才の最年少で分署長に昇進した。この間消防大学校警防科に派遣される等、将来の最高幹部として期待される人材であった。身長百八十センチ、体重八十キロの覇気溢れる偉丈夫で消防の使命感、部下の抱擁力特に厚くその殉職は誠に痛恨であった。一月二十一日執行の消防葬は八戸広域圏一市七町三村の消防関係者の外、県下の消防機関、議会議員、多数の地域住民も参列し二時間余に及んだ。この壮烈な殉職に二階級特進、勲六等瑞宝章、消防庁長官功績章、全国消防長会功労章、青森県褒章等が捧呈された。昭和十三年十二月三日生れ、県立八戸高等学校卒、昭和三十二年八月海上自衛隊八戸航空隊、昭和三十七年七月一日八戸市消防本部採用、昭和五十一年一月十六日殉職、三十七才であった。
更に詳しく見てみよう。デーリー東北新聞は次のように報道。
昭和五十一年一月十七日付け
名川分署長が殉職
火災現場に向う途中、消防車川に転落
十六日午後三時半ごろ、三戸郡名川町島谷橋野合の県道左カーブで、同町青鹿長根部落の火災現場へ向かう途中の三戸消防署名川分署の消防車が、約七・五が下の如来堂川に転落した。この事故で消防車に乗っていた八戸市石手洗京塚、同分署長司令補・佐々木康勝さん(三七)は、消防車の下敷きになり、南部町の南部病院に収容されたが、脳ザ創で同四時二十五分死亡した。また、消防車を運転していた名川町高瀬櫓長根、同分署 署員消防士四戸一保さん(二三)も腰や右ヒジに二週間のけがをした。
 現場は名川町の役場から岩手県軽米町に向かって約十一㌔入った青鹿長根部落の入口で、道路の幅が三・五㍍と狭く、左側が山はだになっているうえ、左にカーブする見通しの悪い所。路肩も軟弱で、路面が凍っていたため、火災現場へ急ぐ消防車がスリップしたまま右側の如来堂川に転落、運転席側を下にして横倒しになって水深五十㌢ほどの流れにつかっていた。途中は地ハダがめくれ、川べりの木が折れて転落のシヨックの大きさを物語っており、消防車はメチャメチャ。周りには積んでいた器材などが散乱していた。消防車には、佐々木分署長をはじめ消防士四人が乗り、転落当時、同分署長は助手席に乗っていた。
 なお火災は、名川町鳥谷小山、船員上城長一さん(二九)方住家の火災で、午後三時ごろ台所から出火、木造一部二階建ての同住家一棟五十平方㍍を焼き、同三時五十分消えた。三戸署の調べだと原因は、プロパンガスコンロの消し忘れらしい。
 最初は火事の方だけに気をとられていた部落民も転落事故を知って現地に駆けつけ、事故の大きさにビックリ。「火災を起こしたばっかりに大変な悲劇を招いてしまった」と同情していた。現場に駆けつけた八戸広域消防本部の佐川消防長も、あまりにも大きな犠牲に「申し訳のないことをした」と肩を落としていた。
 殉職した三戸消防署名川分署長佐々木康勝司令補は三戸郡名川町虎渡の出身。三十二年三月県立八戸高校を卒業後、海上目衛隊八戸航空隊に三年八ヵ月勤務。三十七年七月八戸消防本部入り、八戸署を振り出しに消防士となった。四十二年一月本部予防班へ配属され、四十四年に八月消防士長に昇任。四十六年七月、広域消防本部の発足に伴い同本部警防係長心得を経て、同年十月司令補昇任と同時に同係長。四十九年四月、三戸消防署名川分署長となった。
 遺族は妻弘子さん(三四)と小学五年生を頭に一男二女。
 佐々木分署長は豪放らい落な性格で、率先して仕事の範を示すなど部下の信頼が厚かった。また分署長のなかでは一番若手で、同消防本部の幹部として将来性を期待されていただけに、突然の死が惜しまれている。
「死亡」の報に沈痛な空気流れる
八戸広域消防
「十六時二十五分、佐々木分署長が南部病院で死亡」救急車からの無線連絡に、消防本部は沈痛な空気が流れた。佐川消防長は事故発生と同時に現地へ。本部で指揮をとっていた西村和男次長らは「まさか、あのがん丈な男が…」と信じられない様子。つい二年前まで机を並べていた同僚のなかには「消防という仕事柄、多少の危倹は覚悟している。だが、火事場ならともかく、事故で死ぬなんて…」と机に顔を伏せ、男泣きする職員も…
 消防本部職員から殉職者を出したのは去る四十二年七月十一日、八戸市鮫町の水産加工場の火災現場で消防作業中に、小杉武男司令補(当時消防士・二階級特進)が崩れてきたモルタルの下敷きになって以来。広域消防体制になってからは初めて。
 昨年七月十五日にも、今回の死亡事故現場から約一・五㌔しか離れていない名川町鳥谷妻神の県道で、火災現場へ出動中の三戸消防署のタンク車が、路肩が崩れたため約一・八㍍下の水田に転落するという事故を起こしている。幸いけが人はなかった。同本部ではこれまでも機会あるごとに、緊急出動中といえども安全運転を心がけるよう厳重に注意しており、先月初めにも路面が凍結しているためスリップ事故に注意するよう消防長名で各署に通達を出したばかり。またきょう十七日開く予定の司令補以上の幹部会議でも再確認することにしていた矢先の死亡事故だけに、幹部はショックを隠し切れないでいる。

この事件から三十一年後の平成十九年十一月の晴れた風の無い日に、旧福地村役場の裏にある消防分所を訪問した。佐々木さんの遺児、当時小学校五年生だった息子の隆一さんに逢うために。
隆一さんは救急隊に属し、日夜人々の生命を救うために尽力される。
どうして、命をかけても消防の仕事につくことを決めましたか? どうしても聞かなければならない質問をぶつけた。
 即座に返ってきた言葉は、「父と同じように人の役にたつ仕事をしたかったから」
でもお父さんは、その仕事の為に命を亡くされましたよね、「ええ、でもやはり私は消防士になろうと決めました」
お母さんは賛成してくれましたか
「ええ、私がそのことを告げたとき、少し黙って考えていましたが、そうか、しっかりおやりと言ってくれました」
お父さんが亡くなって、お母さんは苦労してあなたたち兄妹たちを女で一つで育てられました、どんな仕事につかれたんですか
「母はうみねこ学園の給食を担当していました」
役所はそうした所だ。仕事に命をかけ、ひるまず命を差し出した男の家族が路頭に迷うような破目にはけしてさせない。
気の毒な母子を人垣を作り人目から守り、そして又、力強い一歩を踏み出せるように職員は励ましつづける。明日は我が身の人生なのだ。
八戸一の企業である八戸市役所には仲間の輪がしっかりと存在する。だからこそ安心して日々の業務に人は励むことができる。
この佐々木母子の場合にもそれを見て、そして血の通わない役所にも人情の春風がそよぐくことを喜ぶ。
隆一さんは父親参観日に母が来たとき、寂しい思いをしたそうだ。男親がずらりと顔を並べるなか、仕事をやりくりして母が顔を出したのだろうが、父を亡くした子供は、母親を気遣う心くばりはできない。そして、それを誰も咎められない。幼い子供も必死に耐えているのだ。妹たちも父親がいない寂しさを口に出したことはなかったそうだ。
隆一さんは工大一校に進学し、消防士になった。そして結婚し息子を二人、娘を一人授かった。息子が消防士になれば親子三代に渡ることになるが、今は野球に夢中だそうだ。
女手一つで育ててくれた母親も病を得て、今はゆっくりと積年の疲れた体を休めている。昔のことをしゃべらないので、父との馴れ初めを聞いたこともありませんが、五所川原の出身ですと教えてくれた。
人は一人では生きられない。生涯の伴侶を必死に捜し求めるもの。その杖にも柱とも心丈夫に思った世界に一人の存在の亭主が、突然、何の別れの言葉もなくこの世から消えてしまう。
人間誰しも生まれた以上、死ななければならない。これは人間の摂理・理法であるから仕方のないことではあるが、残された妻であり母である女は必死だ。
女は弱し、されど母は強しの言葉の通り、亭主を亡くした女は、髪振り乱しても励む。わが子を飢えさせてはならない、立派に育てなければならないと、我が身を律して血みどろの戦いをする。
その亭主から託された子供が、長じて同じ消防士になることを告げられたとき、どんな気持ちになっただろうかと考える。
 落命した仕事に就かずとも世の中は広い、もっと違う仕事もあるだろうと、他へ仕事を求めるように勧めるか?
それとも、世の為人の為になる消防士の道をえらばせるか、難しい選択ではある。もし、又、この子も父と同じような落命も考えられる。どんなに世の中が進歩し、文明が発達したとても、火事の現場に消防士が立たなくていい日は絶対にこない。
まして六ケ所のような原子力関連の職場で一旦緩急あれば、現代消防の能力を超えるは必定。
命を的にする仕事なのだ。だが、尊い仕事なのだ。佐々木隆一さんは、ためらうことなく消防の道に飛び込んだ。そしてそれを支え、サイレンを鳴らし夜中でも雪で凍る国道をも全速力で疾駆する。救急車の遅れで助かる命を助けられないことのないようにと、細心の注意と人類愛という最大の勇気を持って全速力で走る。
我々市民は交差点で緊急車両に遭遇した時、片側に車を寄せて道を譲ろう。生命と財産を守るために我が身を忘れ、智慧と汗を流す勇気ある人々に畏敬と尊敬の念をもって車を片側に寄せて道を譲ろう。彼等こそ、人を愛し、人を守り、災害、災難から救助する使命を片時も忘れることない人々の集まりなのだ。
怪我のないように、そして怯(ひる)むことなく全力を尽くすことを心より願い、ありがとうと最後に記す。