2008年4月1日火曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 4

学生時代
悩み抜き一年間浪人
 八中を卒業したのは昭和四年三月。叔父・秀之肋は、私が家へ帰ってくるものだと思って、羽織、はかまをそろえて待っていました。私は、なんとしても上の学校へ行きたいと考えていましたから、母と母の長兄の関川五郎蔵さんに口添えしてもらって秀之肋叔父に頼みました。
 叔父は「ウーン、そうか。いいだろう。ただ、事業の金を使うわけにはいかんから、別にもうけなきゃならんなあ」。そう言って大福帳を一冊、用意しました。「皐二郎学資帳」と書いて。
 大学を卒業する時に見せてもらったら総額四千八百円。昭和十年ごろの四千八百円というと二、三十トンの動力船と巻き網一カ統を出せる金額でした。ありがたいと思うと同時に身の引き締まる思いがしたものでした。
 高校は水戸高校を受験しました。理科の甲。中学時代から物理が好きで、今から思うと湯川秀樹博士のまねなどは、どだい無理な話なんてすが、その時は「どうしても」という気持ちでした。早稲田大の理工も受けましたが、両方とも落第。担任の先生に相談もしたんですが「ウン、ウン」と話を聞いてくれるだけで、どうも煮え切らない。
 悩みました。「父が生きていてくれたら」と、この時ほど痛切に感じたことはありませんでした。結局、一年間浪人して、翌年もう一度、水戸高校に挑戦しましたが、数学の試験で失敗。結果を見ることなく、そのまま、上京して中央大学の法科へ転進して入学することになったわけです。
 後年、市長になって湊中学校で生徒たちに落第した話をしました。「八中を一回、水戸高校二回と落第しました」と言ったら、中学生たちがニヤッとして「オラホの市長、落第坊主か」なんてささやき合ったりしていました。その時に言いたかったのは「一度や二度の失敗ぐらいなんだ」ということ。
 私は神田重雄さんに、よく「秋山君、男わらしというものは、一度方針を決めたら、真っしぐらに突き進むものだ」と言われました。戦争という国を挙げての大変動の中で、水産業に転じ最後は政治の世界にまで入った私は、その点では「異端児」と言われても仕方ないんですが、自由に進路を選択できる現在の中学生諸君には、失敗を恐れず信じる道を思い切り突き進め、と訴えたかったわけです。

叔父の援助を得て結局中人法科に進学
 さて、中央大学では、初めて東京へ出た私は、紺がすりの着物を着た田舎っぽでした。中央大は、もともとイギリス法の専門学校でイギリス法律学校としてスタートし、後年、東京法学院そして中央大学となりましたが、私が入学したころは、法学、経済、商学の三学部。法学部は英法二クラス、独法一クラスで、一学年全体の学生数は二百人ぐらいの小さな大学でした。
 八中の先輩では、ドイツのボン大学に留学されて帰国したばかりの浅石大和さんが、すでに有能な弁護士として活躍されており、山崎岩男さんも、東京・高円寺に弁護士の事務所を持っておられて、しばしば上京されていました。八中出身の中央大生の会合には、お二人とも、よく顔を出してくれました。
 印象に残っている先生方は「天皇機関説」で有名な美濃部達吉教授。憲法を講義されていました。私たちが最後の教え子になります。行政法は宮沢俊義教授。
 刑法では、当時の法曹界を二分した刑法論争で「客観説」の立場だった泉二新熊(もとじしんくま)教授がいました。沖縄出身の方で大審院判事でもあったのです。一方は牧野英一東大教授の「主観説」でした。

    講道館仕込みの柔道
 中央大では、比較的まじめな学生でした。同期には元法務大臣の稲葉修君、最高裁判事を務めた塚本重頼君、在学中に高等文官試験、いまの国家公務員一種職(旧上級甲職)試験に合格して日本興業銀行に入ったが、請われて、そごう百貨店に行き、社長となっている水島広雄君といった優秀な人たちがいました。
 地方行政を担当している時には、大変、助かりました。特に稲葉君とは、私が柔道部、彼が剣道部で同じ道場でけいこし、地下にあったふろは一緒という文字通りの裸の付き合いでした。
 柔道部に入ったのは、校内に道場があったから。校内でやれるのは柔道のほかには剣道、相撲、卓球しかなかった。八中の同窓生も何人かいて、先輩では工藤千代吉さんが五段。同級生では大久保弥三郎さんの弟の大久保正、それから尾形四郎といった八中柔退部出身者が誘いにくる。
 「柔道着を用意したから、秋山、お前もやれじゃ」「何、言ってんだ。八中卒業の時、オレに三級くれと言ったら、ダメだと言ったじゃないか。六級のままだぞ」としぶると「いや、八中の寝技の柔道は邪道なんだよ。お前は立ち技の本物の柔道やればいいだろう」なんて妙な説得を受けて入部しました。
 本当にやりたかったのはラクビー。足は速かったし、タックルには自信を特ってましたから。ところが、調べてみたら、練習グラウンドは郊外で遠く、実力的には弱くて、とてもダメだというのでやめました。
 柔道は、この体で大変な苦労して身に着けたものですから、左右どちらでも戦えるようになった。講道館で指導を受けて立ち技専門。初段をとるの に一年かかりましたが、予科を終わって学部に入る時には三段。終始一貫、攻める柔道で、めったに負けなくなりました。苦手な技は、身長のある人がかける大外刈り。ケンケン飛びをやられると体が浮くんです。
 三段になって柔道部の委員になったら、学費免除組に仲間入りしました。稲葉君も、もちろん学費免除。彼は旧制山形高校でトラブルを起こして中央大に来たんですが、成績は抜群でした。剣道も強かった。私の学費免除は、成績よりも柔道部委員の側面が強かったのかもしれません。

めったに負けぬがビールは一杯でダウン
 柔道部の委員というのはマネジャーみたいなもので、体育会の予算分捕り合戦をやったり、全国各地への遠征を計画したりする。私が委員になったころは、先輩たちがトラブルを起こしたらしくて、柔道部だけは禁止措置を科せられていた。
 担当教授は契約法の片山義昌教授。「理論的におかしい」と交渉に行きました。「先輩たちの起こしたトラブルの責任は、先輩たちを禁止にしたことで終わっているはずだ。お前たちもトラブルを起こせば禁止にするぞ、というのなら納得するが、先輩たちの責任をずっとわれわれに背負わせるのは納得できない」と、へ理屈を並べて。
 教授は苦笑しながら「そうか。仕方ないな」と許可してくれました。それで九州各地を巡業して歩いた。各地に先輩がいて、後輩が行くというので地元の中学生を集めておいてくれる。
 腰に手ぬぐいをはさんでおいて、汗をふきながら中学生十人ぐらいにけいこをつける。時には地元のチームと試合もやりました。終わると先輩たちが歓迎会を開いてくれて…。酒は全く飲めなかったのですが、楽しいものでした。
 初めてビールをジョッキで飲んで、前後不覚に陥る体験をしたのもこのころ。札幌一中の諸君と気が合って、一軒家を借りて一緒にいた時のこと。国鉄の柔道全国大会があって札幌鉄道局が優勝して、祝勝会に連れて行かれた。
 「なんだ、酒飲めないとは何事か」と言われ、黒ビールをジョッキでグーツと空けたら、たった一杯で意識不明。翌朝「秋山、お前を運ぶのに大変な目にあったぞ」とみんなに言われて…。

広い南部邸へ引っ越し
 東京では、友達とあちこち移り往みました。三年目に札幌一中出身の諸君と妙にウマが合って、東中野に一軒家を借りて「北青荘」という看板を掲げて、七人で一緒に暮らしました。柔道部五人、剣道部二人。中に学生結婚していたのも居て、彼らは一階。賄いのおばさんを一人頼んで…。
 ところが、その年の秋に南部子爵邸にいた福田剛三郎さんが訪ねて来た。福田さんは奈須川光宝代議士の次男坊で、鮫の石田家から石田チヨという人が嫁いでいて、親類なんです。
 南部子爵が、渋谷にあったお座敷から北沢の方へ新しい家を建てて移り、お屋敷の留守番として福田さん一家が住んでいたんです。
 「実は不用心でダメなんだ。オレが南部邸へ詰めてると、広大な屋敷に女子供しかいなくなる。秋山、お前、用心のために一緒に住んでくれ」というんです。現在、茶道をやっている福田和子さんが長女で、まだ小学校入学前。長男も中学生でした。
 早速、トラックを頼んで引っ越し。荷物は布団 袋に本と机、書棚、こうりが一つ。トラックの荷台が余って、手伝いの学生たちがいっぱい乗っての引っ越しでした。福田剛三郎さんは東京の美術学校を出て中村不折(画家で書家・新宿中村屋のロゴも書く)さんに師事。八戸で最初に油絵を描いた人としても有名です。
 なんといっても、大名屋敷ですから実に広くて居心地がいい。卒業するまでいましたが、次から次へと八中の後輩たちが集まって来て、私は寮長みたいなものでした。まいったのは福田夫人が茶道や華道、謡曲を勧めること。正座してやると窮屈で…。あのころは学生も同好会なんかがあって盛んでした。
 お屋敷では毎日、ふろを沸かす。まきの調達が面倒くさいものですから、庭の片隅にあった小屋を次々にまきにして、とうとう小屋一軒を燃やしてしまった。
 とんでもない時に福田さんが気付いて「あれっ、秋山。ここに小屋があったはずだが、どうしたんだ」「エッ!あれ実は、ふろのまきにして燃やしてしまったんですが」「なんということを」と福田さん真っ赤になって怒って…。

実家からは海の幸 せんべいやリンゴも
 今も同じでしょうが、実家からいろんなものが送られてきて、実に楽しい学生生活でした。
 後輩で市野沢出身の細越信太郎君は、必ず一升びんに詰めたハチミツを待って来ましたし、柔道部で大将を務めた鈴木君というのが山形出身。入梅前にサクランボが送られてくる。「おい、きょうは、わが下宿に集合だ。桜桃が来たから食うべし」と誘ってくれる。
 私のところは漁師でしたから中羽イワシに塩したものとか、小名浜からは「頬ざし」が来る。ある時、秋田沖へ出漁していた巻き網船から四斗だるに氷水でタイが送られてきた。何匹あったか、とにかく大変な数で、福田さんと相談した。
 「東京のと真ん中で、これだけのタイをどうしよう」というわけです。福田さんはタクシーを頼んで、南部さんなんかに配ったが、それでも余る。最後は近所の魚屋さんに頼んで「欲しい分は食べて、あとは料理して冷蔵庫に保存してくれ」。三日間ぐらい毎日タイの刺し身とウシオばっかり食べていました。
 スルメやセンベイも、ふんだんにあり、母がリンゴを送ってくれる。必ずマルメロを入れてくれました。
 神田には一個三銭のにぎりずしもありました。少し小ぶりでしたが、日本橋では一個十銭。当時、太巻きのチェリーというたばこが十銭でした。けいこ帰りに、よく食べに行きました。大将の鈴木君と古庄君、私の三人で百三十八個というのが最高記録。
 古庄君は九州男児で熊本出身。満州電業から野戦重砲の幹部候補生になり、近衛文麿さんの長男・文隆さんが部下にいたそうです。まじめでいい人間でしたが、内地で演習帰りに列車事故で亡くなりました。惜しい人でした。

放校処分が次々と
 楽しい学生生活を送っていた私でしたが、徐々に軍部の力が強まり、学内でも放校処分なんかが、かなり出るようになってきたのは、昭和七、八年ごろ。私も突然、配属将校の中佐に呼ばれました。
 「どうも共産主義思想が入り込んできていかん。ついては、君が中心になって学生を指導する団体を組織してくれんか」というんです。私は即座に断りました。どう考えても、そういう運動を一生続けることは考えられませんでしたから。
 後で、瑞穂会というのが学内に旗揚げして学生を指導しましたが…。学生運動も、激しくて随分と放校処分も出ました。
 私が大学に進んだ昭和五年の十二月、大下常吉さんに早稲田大学野球部監督の就任要請があり、六年から大下さんが監督として登場しました。本郷に住んでいて、玄関先にノートがぶら下がっている。「用事のある方は書いて下さい」というわけです。美食家で私の顔を見ると「おう、メシ食いに行こう」と随分ぜいたくなものをごちそうになりました。
 後年、私が青森五連隊で少尉だったころに、大下さんが病気で戦線から帰ってきて、衛戌(えいじゅ・駐屯地の陸軍)病院に入院していると聞いて見舞いに行った。大下さんは軍曹で、毒ガス対策班の班長で華々しく出征したんです。私も見送りました。
 病院に行ったら、まるで牢名主みたいにしてべットの上でアグラをかいて「おう、秋山、きたか」「先輩どこか悪いんですか」と尋ねたら「何も、どこも悪くないんだよ。どうもオレには軍隊が向いていない。演習とか嫌だったから、神経痛と称して出なかっただけだ。それで帰されたんだよ」。みんな居る前で平気な顔。
 「ところで、ここのメシがまずくて、ハムとかソーセージなんか、うまい物を食いたいから買ってきてくれ。食器も汚い。そろえてくれよ」。膳椀とハムなんかを届けました。
 監督時代の大下さんは、大学リーグ脱退事件(昭和七年春、神聖な大学野球を興行に利用したとして早大が学生野球連盟を脱退した)や早慶リンゴ問題(同八年秋、慶応の水原茂三塁手=後年巨人監督=に早大応援席からリンゴが投げつけられた事件)などで、随分話題を呼びました。監督は三年間やって、昭和八年の十二月に辞任しました。

三陸では大津浪 柔道満州遠征の一員に
 八年の三月三日の三陸大津波も印象深い出来事でした。ちょうど予科三年の最後の試験の最中にグラグラッと揺れて「三陸に大きな被害が出た」。それを聞いて、すぐ午後の汽車に飛び乗った。
 船が入っている小名浜にまず下車して、見に行った。船頭たちに会ったら「いや、こちらは被害はなかったぞ。網を干していたが、潮が引いたのを見て、すぐ取り込んだんだ」
 「そりゃ、よかった」というんで、汽車を乗り換えて、盛岡駅に着いたら、ちょうど秀之肋叔父とバッタリ出会った。「おお、皐二郎。お前も来たか。一緒に行こう」と山田湾へ急いだ。
 鈴木善幸さんの地元の山田町の隣の大沢村というところに秋山漁業部の出張所があって、昭和七年の秋からイワシが大漁で、干し上がり一万俵のシメ粕が捕れたそうです。二千俵ぐらいが出荷待ちで保管してあったんですが、行ってみたら一俵残らず流されてしまっていた。
 幸い人命には被害はなくて、潜水夫を頼んで海中からシメ粕を引き上げたんですが、六百俵しか上がらなかったそうです。
 大学では卒業の前年、昭和十年夏に久しぶりに関東学生柔道連盟で満州遠征をすることになり、早大、明大、中大などから十五人が選ばれた。私も四段で事務局長兼選手で選ばれて、下関からウラル丸、ウスリフ丸という三、〇〇○トンクラスの船で大運へ渡りました。
 それから十年後に敗走してさまようなどとは夢にも思わず、意気高く満州に第一歩をしるしたわけです。