2008年4月1日火曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 7

八小の杉と語る
         福 井   清
         (昭和十一年三月卒業生) ロータリーに、幾百年の風雪に耐えて毅然と立っている古木(高野槙と言う杉の一種)がある。私はこの杉を八小の杉と名づけたい。と言うのは、明治大帝もお泊りになったと言う往時、最もモダンなあのステンドグラスのある旧校舎(旧図書館)の前庭にあったからだ。私たちは最初に今の校舎に入ることの出来た一年生でもあった。その時は、余りの面白さに新校舎の廊下で暴走して、某先生に叱られたことを思い出す。
 さて、この大樹はいつごろから植えられているのか知る由もない。しかし、少なくとも、最近世になってから、このあたりは文教、政治、治安の中心をなして来たが、そのまん中に立っているこの古木こそ、語らざる生きた歴史であろう。
 春の雨、秋の霜、幾星霜の間、この木の下を子供たちが元気に通いつづけて来たことだ。そして、その子供達の行く末の幸を暖かいまなざしで、祈っていたことであろう。今日又、校庭に遊ぶ子供たちの喜々とした笑い声を聞き、教室で鉛筆を持つ真剣なる子供たちをじっと見守っている。私は、この古木を仰ぐ時、何かしらほのぼのとしたものを感ぜずにはいられない。
ちょっと話をしてみよう。
私「母校が創立九十周年だそうで、ご感想は?」
杉「感無量だ……」私「今日を記念して 今後、貴方を八小の杉と呼びたいと思いますが:一人ぽっちで淋しいでしょう」
杉「まあね。十年ばかり前、昔から同じ校庭にあった仲よしのさいがち君が亡くなってね。今では私一人だ。二十世紀のなかばというのに、アカテコのお化け話なんか貰って気の毒なことしたよ」
私「八小の子供たちも成人すれば、八戸市民として活躍するわけですが、八戸の現状について一言……」
杉「武家時代からみると隔世の感がある。特に最近、新産業都市に指定され、前途は洋々としたものだ。私は八小の充実と市の発展を車の両輪のごときものと考え、今後とも見つづけるのが楽しみでなあ……。ただ何と言っても主体は人であるから、立派な人間がどしどし出て貰らわないことには面白くない。私の言う立派な人間とは、必ずしも形式上の社会的栄達を得た考や又富の蓄積を以って人間価値の最高度に達したつもりでいる連中ではなく世の中の色々な問題をより良いものにしようとする高い頭脳と暖かい心の持主 だ。年輩の人の中には昔の良き時代をなつかしむ傾向があるが、これから本当の良き時代をつくることだ」しみじみと古木は語る。
私「恩師故北沢義明先生をはじめ、諸先生の愛情ある薫陶を受けたにかかわらず、パッとしたこともしないまゝ既に中年になってしまい恥かしいと思っています」
杉「何を言う。北沢先生だけが亡くなられたが、他の諸先生は尚、かくしやくとして居られるではないか。幸いお前は健康だし、頑張る時ではないか。しっかりやれ」
私「いや、恐れ入りました。では御元気で」
来年も又、十年後もこうして大空を背に立ちつづけ、八小の卒業生であり、そして、八戸市民である我々を、励ましてくれている八小の杉の幸を、母校の発展と共に折りたい。
                     野々口 昌 子(旧生千葉)
    (昭和十一年三月卒業生)
 昭和十年当時の八戸尋常小学校六年生の二十七学級は生徒数六十二名の現代で云うすしずめ教室でした。授業中「先生、おしっこに……」と云い終らぬ内に失敬してしまう様な内気な男の子の居た時代だ。その頃からおっちょこちょいだった私は小使室へすっ飛んで行き、あと始末のためのお湯を貰わなくてはならない。
 当時は二人小使さんが居た。堅い大きな馬鈴薯の様な頭で眼のギョロリとしたおっかない顔の小使さんが居てくれるとほっと安心してうれしかった。あの小父さんは見かけによらず、とても優しかったから。
 小使い室から屋外の渡り廊下をつたい、職員室の前の階段をなるべく音を立てない様に上る。階段を上り切った廊下が少し広くなっているので、そこが男の子の結構な精力のはけ場で寒い冬の日の休み時間など子供達が何時もクリクリ坊主に黒い小倉服でまるでまっ黒い犬ころが幾匹もぢゃれてる様に重なり合って遊んでいたのが目にうかぶ。
 始業のベルが鳴り全部教室へ引きあげたあと猫とあだ名のある子がきまって最後に坊主頭を後から両手で撫で乍ら泣きじやくって隣りの寺井先生の教室に入るそれから先生が階段を上って来られて授業が始まるのである。私達の担任の先生は教え方のとてもお上手な(特に算術が面白かった)先生だった。でもおっかなかったな。
 読み方の時間一人の生徒が立って本を朗読している際、聞いている先生が突然大音響連発放屁をして、子供達は二尺も飛び上ってそして吹き出した。途端に先生はお尻をさすり乍らしかつめらしい顔で笑った子達を叱ったっけ。「屁をたれて何がおかしいと」……
 先生にたまに街でお目にかかる。いつも若々しくて御元気のご様子、その都度三年間訓えを受けた感謝の念とおっかなかった子供心とをミックスして感情をこめて丁寧におじぎをする。仰げば尊し我が師の恩と………。
 三十年は夢のごとく去り、あの猫君も小使さんもあの校舎も全て懐しさでいっぱい。
 
鈴木あじや(昭和十三年三月卒業生)
 家から机を持って行って学んだ寺小屋が廃止され、数多くの八戸人の母校となった八戸小学校が今お目出たい九十周年を迎えます。第一回生として祖父が入学してから母、私、子供と四代にわたって様々の思い出と共に育くまれて参りました。
 祖父の頃には鞭で教えるので子供らは余り学校が進まなかったとか。
 時が経って私共の頃は、其の様な事はなかったのですが、女の先生方は和服に紺袴。洋服の方はお隣りの組の浅香先生、船越先生方ぐらいではなかったでしょうか。生徒等にしても、着物の子も多く、しかも共布の前だれの人もあったもので、風邪でもひけば必ず和服に袴だったのでした。
 男女は南北の校舎に画然と別れ、一学年は男女二組づつ。講堂に集る時だけ一緒なので学芸会等で目立つ子しか知りません。
廊下に帽子掛があって、お弁当や襟巻がゆさゆさと掛り、昇降口には各組の下駄箱がずらりと並んでいたものです。つい最近まで、此処がよく夢に現れたのは、六年間一日の課業から開放され、楽しくおしゃべりしながら別れた所だからでしょうか。
 運動会での寺井、野田先生方の若々しい白ズボン姿。どうしていらっしゃるか当時の古山校長先生の真面目な禿げたお顔、思い出は次から次へと尽きる事を知りません。
 ついぞお目にかかった事もない若かった先生方。そして火に当りに行ってはどなられた小使さんたち。同じ思い出を持った数多くの幼かった友だち。立派に身を立て、得意の日々を送る方も多く、又、悲しくも亡くなった方々も多い事でしょう。私たちには今はもう、学舎としてよりも心の故郷となった当時の八戸小学校よ、いつまでもいつまでも私共の心の支えとなってください。
 そして九十周年記念を迎え、益々内容も、又、外観も充実して行く八戸小学校よ、明日への人造りの為に愈々栄え、発展してくださいますよう。
 
鈴木ルリ子(昭和十四年三月卒業生)
 三年生の秋に転校して来た私は、八戸がどんな処か、それが市である事も知らない程でしたから今の子供にくらべて何と無知だった事かと思います。青森から来てさえとても遠い処へ来た様な心細い気持でした。
 柏木テフ先生の担任の級は一年生からのもち上がりで、当時でも珍しく卒業までつづけて受持っていただけた事は何よりも幸いでした。皆に笑われた私の「マイネー」がまもなく「ワガネー」となった時にはもう何の不安もなしに八尋にとけこんでいたのでした。
四年生の頃転校生にSさんがいました。遅刻の常習犯でしたが、それというのも旅舘で働きながら通学しているとの事で年も多い様な気がしました。恐らく不幸な境遇の人だったのでしょう。いつも髪はぼうぼう、汚れじみた和服に虱をはわせている彼女を私たちは何かにつけ馬鹿にしいじめました。いじめられながらも教室のおそうじでは人一倍一生懸命働いていた彼女に心の中ですまないと思ってはいたのですが。
 校門の左右にあるプラタナスは卒業生にとって忘れ得ぬ木だと思いますが、私にはもう一本思い出の木があります。
 秩父宮様の御成り記念に植えられた小松の世話をするのが当時六年女子の名誉ある仕事で、国旗掲揚台の傍の白い柵にかこまれた一劃はいつも一本の草もない様清掃されていました、毎朝の国旗掲揚のたびに若々しい緑が目に映え、日ごとに成長してゆく木は私たちに誇と勇気を与えてくれました。
 私の子供が同じ学校に学ぶ様になって、思い出の中にすっかり薄れていた木が再び身近なものとなって浮かび上がりました,どんなに大きく立派な木になったかとひそかな期待をもっていた私の眼にうつったのは忘れられた存在の様に、あたりとはちぐはぐな感じで枝も少なく立っている一本の松でした。かつてのあの松とはどうしても思えません。枯れてしまったか、或いは私の知らない中に何処かへ移されてしまったのでしょうか。いずれにしても私はそこに過ぎ去った長い年月の移り変わりを見た様な気がしました。
 いろいろと楽しい事があったのにこんな事を書いた私はいささか感傷に溺れた様です。むしろプラタナスにつながる明るい思い出を書くべきだったかもしれません、

思い出の馬っこ教室
   前原義一(昭和十七年三月卒業生)
 現在、四人の父親として。いらっしゃいませの商人として、激しい商戦のまっ只中にある私にとって、よく晴れた朝に子供を連れて、三八城公園に行くほど楽しいものはありません。
なつかしい八戸小学校の校庭を横切るとき「おとうさんの勉強した教室は、あそこだったよ」子供の肩に手をやり、指さす二階は……そうです。今から二十二年前、六年生のときの馬っこ教室です。
先生の仇名が馬っこ、現在豊崎中学校長、工藤正雄先生です。乗馬ズボンのよく似合うスマートな若い先生のもとで、数々のエピソードを残して我々は卒業しました。
戦時色いっぱいの当時は、食糧増産のため校舎裏の日当りの悪い土地も利用して畑作りをやりましたが、出来た大根などどれもこれも、馬っこ先生みたいなスマートなものばかりでした。
 級長の柏本学君(日立研究所)はすごい秀才でした。スポーツ万能は泉山正二君(中央駐車場)でした。どうして自分とあまりにも違いすぎるのだろうと劣等感に悩んだものです。
 坊ちゃんコト広沢安一宜君(明治乳業本社)をリーダーに我々番町グループは団結が固く、ずいぶん悪童ぶりを発揮して、馬っこ先生を手こづらせたものです。
 小学二年の時父親が戦死しましたが、馬っこ先生に引卒されて靖国神社に参拝し代表として、NHK弘前放送局より感想を放送したあの感激は一生涯忘れられぬ事です。
 現在の校舎は私がはいっていた当時とチットモ変っていません。母からネダったわずかなお金でよく買い物をした真向いの田村商店も、なつかしい事の一つです。
 長女も今で八小学校一年生。「小学校が近くなりにけり」を実感として今朝もトンボの行きかう校庭を子供の手を引き横切るのでした。
        
クラスメート鼻の高い級友
 大友善二郎(昭和十八年三月卒業生)
 幼き頃の学び舎を去り二十有余年、省みますれば早いものです。まぶたに浮かぶ思い出は、昨日の事の様に思えてなりません。悪戯をして廊下に立だされたり、雨の降った日、プラタナスの下で喧嘩をし泥んこになったり、今更ながら腕白だった自分を省みております。
 我々の級はどこへ出ても恥ずかしくない程の人が、社会の第一線にて大活躍してますので我々も一応は鼻が高いと云うものです。
 それで主なる人をこの紙上を借りてご紹介致したいと存じます。先づ第一は、級長の永山文男君、彼は東京水産大学の教授で農学博士と云う立派な肩書を待つ学者で只今米国へその道の研究の為留学中です。副級長は、誰でもが知っている郷土の誇り「忍ぶ川」で芥川賞授賞の三浦哲郎君です。当時私と席を同じくした時が二・三度ありやはり綴方は群を抜いて居りました。
 組長クラスには、日赤の歯科医長の立花義康君、彼は剣道の選手で他校試合には気迫のこもった勝負をし我々を喜ばせてくれたものです。工藤伸夫君は勉強は勿論、優秀なスポーツマンで、クラスは当然、市内の小学校対抗には、スケート、剣道、柔道、相撲、バスケット等、彼の右に出る者なく、優勝ばかり味わって居りました。その彼が我国鉄鋼界の先端を行く日本鋼業に勤務し若手のホープとして活躍が期待されてるそうです。その他学界に実業界に教育界に皆それぞれ持味を発揮して活躍しております。当時軍国主議華やかなりし頃でしたので教育も全て戦争につながっておりました。将来の希望と云えば陸海軍大将若しくは大臣、等と誰もが答え、学者、医者、作家、社長などと云う人は全然ありませでんした。この様に時代の移り変りは激しいものだと今更ながら驚いてまります。

十五才の涙
    岩岡三夫 昭和十九年三月卒業生)
 昭和二十年のたしか八月七日か八日だったと思います。戦争も終わりに近づいて、本土は毎日B29やグラマンの空襲をうけておりました。
 その日は朝から八戸市もグラマンに襲われ、防空壕に出たりはいったりでした。町内の人たちは、ほとんど疎開してしまい数えるほどしか残っておりません食べ物のなくなったイヌやネコがうろうろしているだけでした。
 わたしは、八戸中学校の二年生でしたが、どうしても疎開する気になれず、鉄かぶとにゲートルという勇しい姿で頑張っておりました。何度目かの空襲のとき金属性の爆音が近づいたかと思うと、かなり近い所へ。「ズシン」と爆弾が落ちたような衝動がありました。しようい弾だったら消さなければならないと、すぐ防空壕を飛びだしてみると、すぐ近くからまっ黒い煙がもくもくあがっておりました。その方向がどうも学校の方らしいのですぐ屋根の一番高い所へあがってみました。(まだその辺にグラマンがおりあとで命知らずだと、父親におこられましたが。)その時は夢中でした。見ると小学校の男子の校舎、いまの市庁よりが燃えており、黒い煙から、間もなく何本も火柱があがり、みるみるうちに校舎は火煙に包まれてしまいました。わたしは校舎が焼け落ちるまでの相当長い時間屋根の上から見ておりました。そしてポロポロ落ちる涙をどうすることもできませんでした。
 その日の夕方焼け跡へ行ってみましたが、六年間学んだ教室はあとかたもありません。どの教室のどの場所にどんな落書きがあり、どこがどんなにこわれているか、知りつくすほど親しんだ校舎が無くなったということは、六年間の小学校生活にまつわるすべての想い出が失われたような気がして、たいへんセンチな気持ちで焼け跡へ立ちつくしたものでした。
 あれから十八年もたちました。今の子どもたちは、もちろんのこと、わたしたちでさえ戦争のことを想い出すことはなくなってしまいました。十五才のとき母校が焼けるのを見ながら流した涙。この涙と同じ性質の涙をもう二度と流すことはないでしょう。
 その後もこの通りに校舎が復旧したときはとてもうれしく思いました。どんなに古くなっても、いつまでもあのままであればよいと思っております。

八小の思い出 杉 本 武 男
         (昭和二十年三月卒業生) 私には八小の北側校舎半分は未だぴんとこない。六年の時は隣りが女のクラスだったが、ちょうど職員室を境にして「女の舘」の様な感じの北校舎は、卒業してからもしばらく神秘的なものだった。音楽室に行くにはみんな群をなして女生徒の中を走りぬけた。何時だったか、いたずらした級友が二・三人女の教室へつれて行かれ勉強したが、目を赤く泣きはらして来た事が記憶にある。今のように男女共学でない頃の八小の校舎は、黒光りのする奥深い城みたいな印象をうけた。
 我々の担任、馬っ子先生は剣道の達人。五年の時だったかな、ちょびひげをたてた。
 県下の優秀教員として、「雷電」?と云う爆撃機にのった話を全校生徒に話した。剣道の練習はきびしかったな、先生は背が高いので、「メン!」と一発くらうと頭の後の方に火が出て、じじんと涙がうかんで来た。だが招魂祭で小中野、長者をやぶって、ひさしぶりに剣道の優勝旗をもって帰り、作法室でキミを腹一杯たべて喜んだのも忘れられない。馬っ子先生との思い出はいっぱいである。級友では、石川、田北、村田、稲垣君などが秀才だった。でも腕力と学問が両立しないでみんなぼっちやん。今は一流大学を出て都会で活やくしている事だろう。運動では、晴山、スケートの畑中両君がずばぬけていて、隣りのクラスの板橋君などと、運動会ではトップ争いをしていた。私はハナたらしの方で、教育勅語を校長先生が読む時は苦しくて仕方がなかった。しかし、小学校の思い出は一番祝日のおごそかな式と″雲にそびゆる高千穂の″などの式歌、女の先生のハカマなどとむすびついている。戦時中とは云え幸せな良き八小時代の思い出ばかりである。

「八尋」  豊 島 弘 尚
        (昭和二十一年三月卒業生) 遠い記憶しかない。第二次大戦、戦局ますます日本にとって不利になり、私らも銃後の人間として「八紘一宇」「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」の精神で、高舘飛行場開墾に狩り出され……モッタをかつぎ、草の根をおこし、豆を植え、また校庭一ぱいで飛行機の上にかける網(飛行機の地上濠の上にかけ草をさし込んでカモフラージユする)を作る作業が毎日であった。私は級長などという管理職を奉命していたので小さい体のため人一倍のパッションとファイトを持たないとつとまるものではなかった。幸(?)にして戦局急、学童疎開ならぬ任意疎開で北郡十三村へ行ったのだが、そこもソ連艦船の毎夜の哨戒におびえていなくてはならずだった。だが八尋の学力より一カ月もおくれていたため、何もしなくてもよかったことを記憶している。
 敗戦――私は六年生だったと思う。八尋のコの字の三分の一が焼け、ガラスがトロリととけ、柱が黒くまだ灰にはなっていずー意外と太い柱でできているものだと感じ、焼け跡の破壊のニオイにハラを立てーそれからは生きるべき兵糧に悩まなくてはならなかった。そのころから絵を描き始め後に八尋で総合展やらをやったことがあり、教室に宿泊したことがある。あの広くもない校庭の一隅、プラタナスの大木を背に傷心のバイキングの様に冷たい天の川を見、その根元にエメロルドに光るサソリのあたり、黒く浮かぶ八尋の校舎をやはりいうならば「母」だと感じたことである。星の運行表の遠い空間のようである。 今私は人間について考えている。(画家)

ふ た 昔 久保田実
        (昭和二十一年三月卒業生) 二十年足らずの学校生活の中でもやはり思い出に残るものは、何と言っても小学校時代であろう。
 コの字形の校舎、校庭の築山、ブランコ鉄棒、ジャングルジム、廻転シーソーそして砂場等に思い出されてなつかしいものである。
 正面玄関左側のガラス戸棚の中には「努力の跡」と書いた諸先輩達の残して行った優勝楯やカップがぎっしり飾られて居り、ピカピカ光る講堂の脇の廊下には木製の薙刀がかけてあった。
 また二階中央の作法室という畳敷きの部屋もあったと記憶している。礼儀作法と言えば、小学校入学当時、担任の小杉先生と廊下で初対面の際に挨拶をする事も知らなかった自分を今になって恥しく思っている。
 当時の教育は、先生任せのいわゆる学校教育中心で、家庭でのそれはあまり厳格ではなかったもののようである。
 小学校時代の大半は戦争中であったので、校長以下「忠君愛国」「滅私奉公」の精神で貫かれて居り、朝礼の最初は先ず皇居遥拝をもって始められた。古山校長は小柄な方であったが、自ら校歌を高唱するなかなかの名校長であった。ある日長者山に焚きつけ燃料の杉の葉拾いに行った帰り、坂のあたりで校長先生と出会い、挨拶すると「ああ、感心々々」とおほめの言葉を頂いていい気持ちになったものである。ところがそれから暫く後で、何であったか一クラス全員が講堂に集められてシコタマしぼられた時には身の毛もよだつ思いであった。
 現在の生徒諸君は誠に明るく伸び伸びとしているが、半面先生を友だちの一人のように扱っているように思われてならない時がある。
 型にはめられたような我々の時代の教育とは違い、これも個性を伸ばすための民主教育のしからしむところであるのかもしれない。
 戦前の教育を受けた私などから見ると、まさに隔世の感がする。古いと笑われるかもしれないけれど今の生徒諸君にも「三歩さがって師の影を踏まず」といった気持ちがあっていいのではないかと思うが。

あ の 頃 橋本千鶴子
        (昭和二十三年三月卒業生) 小学校といえば今も変らない大きなプラタナスとコの字型の校舎が思い出されます。敗戦の時四年生だった私は小学校の後半をコの宇の一片を失った校舎で、今のことばを借りるならすしづめ学級の中に、色々不自由しながらそれでも楽しく送りました。
 疎開から帰り、なつかしい学校へいった時、私の胸は驚きと悲しさでいっぱいになりました。空襲で被害をうけ、校舎の片方がなく、赤く焼け曲った鉄材や黒くこげた木がたくさんころがって、戦災の恐しさを見せておりました。卒業後、校舎がもと通りに建てなおされた時、別に用事がなかったのですが、はだしでそっと誰にもみつからないように歩いたことがありました。八戸小学校の卒業生として新しい校舎を歩きながら、成長した自分をふりかえったものです。
 六年間を通じて、自分にとって残念な事が一つあります。それは大切な元日の式に遅刻したことです。昭和二十年の元日、父につれられて妹と八幡の八幡様に元朝参りに行きました。その頃はバスもなく、小学校三年と二年の私たちには八幡までの往復は相当負担だったようです朝三時に起こされ、父にはげまされながら八幡まで歩きました。雪でほの明かるい道、きゆっきゆっとなる足音も初めは軽快でしたが、次第に足どりもにぶりがちでした。あの時は、戦争に勝つようにと一心に祈ったものでした。白々と明ける頃家に帰り疲れとねむさでこたつにはいり、二人で寝入ってしまいました。九時からの新年の式に出るため、母におこされてもねむくて起きることが出来ませんでした。学校にいった時は、すでに式ははじまっておりました。大切な式に遅刻したので、先生のこわい顔を思い浮べたり、皆の前で叱られることを考えると、胸がどきどきし顔が赤くなってくるのでした。廊下でうろうろしていると、上級生が親切に式場へつれていってくれました。後で先生に理由をお話したら、担任の宮重先生は「えらかったこと」とにっこり笑って下さいました。それでも今だにただ一度の遅刻が気になって残念でなりません。年を積んでいく程、小学校の頃がなつかしく思い出されます。九十年もの歴史を持つ母校の卒業生として、大きな誇りを持っております。

放送室の猫は  及川明雄
        (昭和三十二年三月卒業生) 三、四年前の夏、八小の放送部でお世話になった先生を母校に尋ねる機会に恵まれました。私八小学校の後半三年間を放送部に籍を置いていた。住み馴れた我家に戻った気持ちで部室を覗くと、あのマスコットの。首振り猫が昔のままチョコンと座っていた。それは言い知れぬ満足感を私に与えてくれた。夕暮近く旧校舎の長い廊下を歩きながら、「伝統の香」とも言えるあの懐しい匂いの中で、私はまだ改築されていなかった前の古い放送室のことを思い出していた。旧式の機械一組に一本だけのマイク。そんな設備の中で、かたちばかりの放送劇に勢いっぱいの情熱を傾けていたあの頃。無情なまでの先生の稽古に、それでも一生懸命についていこうと頑張っていたあの頃、先輩たちの卒業で味わった寂しさと重い責任感は幼い私を成長させてくれる責重な礎となった。あのボロ放送室には数々の思い出の集約がみちみちていたのである。放送室の改築が本決まりになった時、まっ先に先生は皆を集めてこう言われた。「君たちの努力が報われたのだ」と。その時の皆の喜びが、あのマスコツトの黒猫に象徴された。
 先日、上京しているかつての部員T君と会った。彼は手に握った小箱を私に示しながら「覚えているかい」といってその蓋を取り除いた。そこにはあの黒猫とそっくりのものがニユツと顔を現わしていた。今私の机上にはそれがチョコンと座っている。
        
 故郷に小学校までの思い出しか残らなかった私にとって、八小は唯一の懐しい母校である。都市と呼ぶにはあまりに貧弱な駅に降りて間もなく、右側に鈴懸の大樹――それは秋の日の午後ひっそりと落葉を散らしながら私の再度の訪れを歓迎してくれることだろう。
 寄稿いただきました原稿は原文のままといたしました。