2008年5月1日木曜日

郷土八戸の偉人 自由学園創始者 羽仁もと子 1

西有穆山の完結で二人目の八戸の偉人として羽仁もと子を掲載。昭和四十七年に八戸図書館が発刊した「永遠の教育者 羽仁もと子」から

序に代えて
千葉学園高等学校長 千葉富江
 郷土の生んだ教育者羽仁もと子の教育観をいま、あらためて考えてみると、既に生誕百年をむかえた過去の人でありながら、その思想、その業績が、何と新鮮で、形式にとらわれない独自なものであるかにおどろくばかりである。「画一的な詰めこみ教育でなく、子ども自身から勉強の態度を引出す教育」「自治自労の生活教育」が、彼女の長い夢から生れた信念であった。
 現在、大学入試を目当てにしたような教育の実態が問題になり、中、高校の教科課程の改定が検討されていることを思うと、羽仁もと子は二人の子供の母親として、早くに教育は教師が与える技術や手段でなく、子供自ら進んで自らを教育しようとする白発心を育て、共に学び合うものであると主張していた。
 大正十年、自由学園を創立し、夫羽仁吉一と二人、精魂をこめて、幼児から大学までの一貫教育に没頭したのである。昭和七年、仏国ニース世界教育会議に出席して、「教育と変遷しつつある社会」というその会議の主題に対して、彼女が日々感じ体験しつつあった教育の真随を語った「それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校」と題する講演が、多くの参会者に感銘をあたえたのも当然であったろう。
生活即教育の実践は、日常の学校生活の中ばかりでなく、彼女の歩んだ生涯をたどってみると、それぞれの時代に応じて、活き活きとした実例が数えきれない。
 創立後間もなく大正十二年、関東大震災が起ったときの救援活動、ふとん作りと配布、乳幼児、病人へのミルク配給、本所太平小学校に給食奉仕など、みな、生徒の机の上ではない生きた勉強であった。その後、友の会の家庭生活合理化展覧会の製作、開催手伝い、昭和十年には東北冷害大凶作を援ける「家族日本をつくりましょう」「食べもの着ものを一つにする運動」の展開など、すばらしい学校教育であり、社会教育であった。
 昭和十三年の北京生活学校の開校も、中国と日本の間に、真の近隣の友好を求めて、文字通りの生活即教育の実験場であった。
 学問をしても役に立たない人間であったり、頭や口ではわかったつもりでも、その生命には何も解っていない人間に成長するのでなく、教室で習った知識が実生活に体当りして、自分の実力を育て磨いてゆくのが、彼女のねがう真の教育である。
 羽仁もと子は教育者であると共にジャーナリストであり、文筆の人でもあり、これらの教育の理想、人生行路の標語を「思想しつつ生活しつつ祈りつつ」と美しい言葉で表現し、多くの人々に知られている。彼女の深い信仰の祈願がこめられたこの短い言葉は、これからも更に新らしく、若い人々の心に語りかけてゆくであろう。
座談会 「羽仁もと子先生を語る」
 館長 座談会を開催するにあたり、お礼を申しあげたいと存じます。
 当年は八戸市立図書館開館百年(注・明治七年新聞縦覧所を嚆矢)の記念すべき年でございます。そこで昭和四十五年から毎年行なってまいりました郷土の先人顕彰を全国読書週間から繰り上げて、羽仁もと子先生のお誕生日の前日であります今日、生誕満百年記念として、自由学園々長 羽仁恵子先生、婦人の友社々長千葉貞子先生を囲んで羽仁もと子先生を偲ぶ顕彰座談会を計画いたしたのであります。
 生前のもと子先生は、形式よりも心を大切にすることを教えておられるように拝察いたしますが、この会場は誠にお粗末でございまして形式を超越したと申し上げましたらよろしいのでしょうか。座席その他ご覧のような状態でございますので、遠く東京、大阪、仙台などからわざわざおいで下さいました友の会中央委員の皆様方、また その他の地域からおいで下さいました皆様方に対しましてもご不便をおかけしますことをまずもってお詫び申し土げたいと思います。ご了承願います。
 さて、本日司会をお願いしました島谷部陽之助 先生は、明治時代人物評論家として中央で活躍されました島谷部春汀の一族に当る方であります。展示会でお気づきになられたかと存じますが、学生時代から羽仁先生を尊敬され、いろいろ研究されておりますので、ご多忙のところを無理にお願いいたしました。
 羽仁恵子先生、千葉貞子先生には、もと子先生の郷里であるというとところから特別なご配慮をもって、公私共にご多忙中のところ遠路おいで下されましたことを厚くお礼申し上げます。なお、この席を借りまして、このたびの事業をご後援下さいました報道関係各社及び写真をご提供下さいました婦人の友社、いろいろご協力下さいました八戸友の会に対し深く感謝の意を表する次第でございます。それでは、これから座談会を開催したいと思います。
 司会者 島谷部でございます。先年来八戸市立図書館では、「先人を語る」という企画をなさいまして、いろいろな郷土の先人顕彰を行なってきました。今までに顕彰された中には、江渡狄嶺、西有穆山、安藤昌益という方々があったわけです。それで当地の生んだ、その方々に匹敵する人物を大正期の八戸に求めるとすれば、羽仁もと子先生ではなかろうかと考えております。したがって本年は羽仁もと子先生を取り上げまして、ここに座談会を開くことになりました。私が司会を命ぜられまして大変光栄に存じますが、皆様のご協力により実りある座談会にしたいという考えでおります。よろしくお願いいたします。
 羽仁もと子先生についてお話をするとすれば、まず三つの柱を設定したらどうかと考えます。一つは羽仁もと子先生の家系と人間形成といった面、それからジャーナリストとしてのもと子先生、教育者としてのもと子先生、こういうことで話合いを進めて行きたいと存じます。それでどなたでも結構ですから、もと子先生についてお話下さい。
 稲葉 八戸市の教育長でございます。ここに秋山市長の名前がでておりますので私が立ちました。午前中、羽仁恵子先生が市長室へおいで下さいましてご挨拶をいただき、市長は感激しておりました。実は市長もこちらへ参りまして、親しく皆様方にお目にかかりお礼申し上げたいということでしたが、午前中、中居林小学校の百年記念式典、そのあと、校舎の落成記念の式典がございます。そちらの方に出席する関係上こちらに参上することができませんでしたので、教育長から皆様方にお許しいただくようにとのことでございました。
 八戸としては、さかのぼれば安藤昌益という方がおられる。次には西有穆山、そして明治になって羽仁もと子が八戸から生れた。まことに八戸として肩身の広いことである。あたかも図書館百年記念、羽仁もと子先生ご生誕百年記念、そしてもと子先生が卒業なさった八戸小学校も去年は満百年、然も、もと子先生は八戸小学校の教壇にお立ちになったという羽仁もと子をめぐる八戸の関係が、みなもと子先生同様、百年という不思議なご縁であると思います。図書館としては、よい時期によい先人を得られて、ここに記念事業をやられたということ、私はかねがね思うことですが、八戸の松岡家という家はなんてすばらしい、明治初年における八戸の第一級の先覚者をだしていられる。ここに教育の偉大さということをしみじみと思うのであります。まだ汽車のなかった時からご姉妹と弟さんを上京させ、もと子先生を東京の旧府立第一高女をおだしになられたればこそ、今日の八戸の誇りが出たのだと思います。
 私が替りまして市長の言葉を皆様にお伝えいたしまして、ご挨拶にかえます。
 司会者 市長さんが、今日おいでになれないので先ほど教育長さんからご挨拶がありましたが、私も先程、生活即教育展を見まして、あまりに立派でこれは今日の司会ができないのではないかとびくびくしてきたわけでございます。私は羽仁もと子先生が亡くなりましても、やっぱり人間としての偉大さが後進ふるいたたせて、あのようなすばらしい成果を生みだしたのではないか。然もその成果は偶然なものではない。もと子先生の緻密な頭脳によってその基礎がつくられているのではないか。今日の「婦人の友」を考えてみても、その外郭団体としての「友の会」があり、売切制を断行するといった着眼のすばらしさがあったと思うのです。では美濃部先生、
 美濃部 実は、この座談会のご案内をいただきまして躊躇したのでございますが、よく考えてみますと「羽仁先生と私」と申し上げると大変せん越でございますが、先生とのご縁を感じますので、お話を申し上げられなくても皆さんのお仲間に入れていただきたくてこうして出てまいりました。と申しますのは私の実家は「宗」といいます。母の母、祖母は「宗しげ」というのですが、母の実家は古川といいまして、その古川の家は長横町九番地でした。私がその母の里の屋敷で生れました。それで物心がつく頃から松岡さんというご苗字は始終聞いたような気がいたします。ご本籍は長横町の何番地だったのか、それを伺いたいと思いまして。
 羽仁 長横町六番地です。
 美濃部 私は大変おくてでございまして、昔のことを知りたいと思うようになったのはつい最近で六十を目の前にして昔のことを知らなければと思いつきました。しかしもう母もおりませんし、親せきもなくなりまして、それがくやしくてなりません。なんだか残念な気持でいただけになつかしい、そういう気持がしみじみいたします折からでもございますので、今日はここで母のその当時のことを皆様のお話の中からいろいろ思い出させていただけるんじゃないか。今おうかがいしてますと六番地といたしますと三番地の違いがあります。その九番地が私の生れたところでございます。それも一つのご縁の深さと思っておりますが、その後私の母がぼつぼつと中しました中に、(私はあまり昔の事を聞きたがらなかったし、母もあまり話しませんでしたが)たった一つ私の思い出に残っておりますのは「私は東京へ行きたかったんだ、なぜかというと、おもとさんが東京へ行ったんだから」と、そう申すのです。私も小学生の頃から、どういうわけか羽仁先生のことをおもとさん、おもとさんと大変厚かましいのですが、ああ、おもとさんのことでしょうと、そのように呼んで育ったということは、今にすれば母と先生とのご縁が深かかったために、子ども心にもおもとさんという言葉を親しく覚えていた。そして母は今の東高を出まして、一人娘でございましたので、私ごとで恐縮ですが、これで娘も一人前になったと母の父が喜んでおりましたら、母が東京へ行きたいと云い出したそうです。その当時のことで、母が明治二十年生れでございますから羽仁先生は東京で活躍なさっていた。皆がびっくりして「とんでもない、そんなことを言ってもらっては困る」と言いましたら、「これは小さい時から考えていた。おもとさんのように東京へ行きたい。」と泣いたそうでございます。私の祖父がその当時にしては物わかりがよかったのでございましようか、「そんなに行きたかったら連れてってやろう。行ってみて、もし戻ってくるならそれでもよし、まず連れていってみよう。」と云って、どうやって思いついたかわかりませんが、今のお茶の水大学の前身であります女高師の本科に入る運命になったようでございまして、その話を私が女学校を出まして東京に進学したいと申しました時に母は、「本当はおまえたちには、たもとを着て帯を締めて歩いてもらいたい。東京に行って洋服を着たり、袴をはいて休みに帰ってきて歩かれると肩身が狭いのだ。」「だけれどもお母さまが行ったじゃありませんか。」「それを云われると弱いんだ、私はおも とさんにあこがれて東京に行かせてもらったから、おまえたちもやらないわけにはいけないだろう、だけど八戸に帰って来たら袴をはかないで帯を締めて歩いておくれ」と念入りに云われまして、私も袴をはかないで東京へ出してもらいました。そういうようなことで私の一生にいろいろな面で影響がありました。私の現在あることは、私と母とそれから、おもとさんと申しましたら、失礼にあたりますが羽仁もと子先生につながるものがあるのだとしみじみ思います。きれいな装丁の「羽仁もと子著作集」がつぎつぎとくるのをまちかまえて、包みを開いたものでございます。
 司会者 美濃部先生から貴重なお話を伺ったわけですが、美濃部先生のお母さん、その方も若い時上京されたわけです。その頃、八戸では若い方々が上京して勉強するというムードがあったように私は聞いております。つまり八戸の方々は、昔から勉強意欲があったのではないかと思います。大分上京していたようですが、それに関係したお話はありませんか。
 羽仁 美濃部先生、長横町九番地は現在なにになっていますか。
 美濃部 ただ今、バイパスの角の一画でございます。戸部さんという薬局、あの辺でございます。