2008年5月25日日曜日

読者の広場 1


桜と○ん○
                北村 道子

 冬に主人が剪定した庭の桜が咲き始めた。
友人と花見をしよう、と声をかけた。
昔は観桜会と言った。
庭で炭火に網をかけシイタケ、ホタテを焼いた。
ワインが程良く体に回り出し四人は皆、饒舌になった。てんで(それぞれ勝手に)に自分の話を主張する。ワイワイガヤガヤ。
ご馳走をたっぷりと食べながら青年のようなる七十二歳が話しだした。
 「戦後、間もなくだが、我のガキの頃なあ、農家の人が馬車に肥樽(こえだる㊟木で出来たドラム缶状の樽)を沢山積んで、来たもんだ」「何しに?」「決まってるべな、雲古せー」大家族なので大量だ。「銭、なんぼ払うの?」「払わない」「まさかー」農家の人が良質?な畑の肥料を求めてやって来る。「雲古にランクがあるなんてー」
あるんです!伸び盛りの若者を扱う学校のはカスだったようだ。成長期の子供は栄養を全部吸収するのでか?納得。
代償は農家の方が持って来る。現場は見てないが親父から聞いた話で雲古の品質鑑定?に直接、指を突っ込んで舐めてみて酸性だかアルカリと言ったとか。「信じられなーい」
当時は、農作物の貴重な肥料であった。
 そんな訳で、当時の人は皆んなでお腹の中に回虫、サナダ虫をかかえていた。
私の主人が言うに、現代でも農業博士等は、やはり土を舐めてチッソ、りん酸、カリ、何%と言うそうだ。「ほーら同じじゃないかハハハハ」(笑)
「だから真面目に雲古は宝もの、そう、上物?は金色をしているもんな、今は水に流してしまい、もったいない」と程よく焼けたホタテをぱくりと食べて平気の平左の七十二歳。
 秋になると、我が家にはジャガイモ、大根がどっさり届いたものだ。小中野の人達は豊富な魚を食べていたので栄養価の高い雲古で農家では定評?だったそうだ。
戦前生まれの彼と、戦後生まれの私では簡単に話が噛み合わなかったが、笑いすぎて目から涙。いや、目からウロコ。はちのへの今昔の勉強になりました。
まさに、これとてベン学だがとんでもないお花見になったものだった。
食べ過ぎ飲みすぎ浮かれすぎ
最後の締めは、
「花より●ん●」とイキマスカ。
「あなた早とちりしてはいけませんョ」
花よりだんごです。
サクラも満開とても素敵な花見でした。
 



鹿児島への旅
                北村 道子
 五月の連休に知覧と桜島と篤姫の故郷を訪ねた。
知覧の特攻隊の平和祈念館は涙なくしては語れない。恋も愛も知らない若者たちのワンちゃんを抱いた少年たちは、大空のひとひらの花びらとなって散って逝った。
胸をえぐられるような思いの遺品の手紙、遺書の文章は涙で霞んだ。
爆弾を積んで片道の燃料だけの神風特別攻撃隊一〇三六名の散華。二十歳前後、十六歳もあった。彼らはいったいどんな思いで飛んで逝ったろうか。到底現代の若者たちでは理解でないでしょう。
そして「日本を守る」の精神はどこから生まれたのでしょう。
 桜島を一周したが噴火爆発の岩石がごろごろとあり、自然現象のその凄さ、恐ろしさを足の裏で感じて身震いするおもいだった。そんなとき遠くに聞くウグイスの音に心が救われた。
 篤姫の生まれた指宿や島津の殿様の考え、別荘、産業、西郷様の身を寄せた穴、洞くつに触れてみてすべてに感慨深いことであった。  



浅水川に桜を植えたい!
 北 大介(元PTA会長)
桜といえば弘前公園。お濠の周りで、水上に覆いかぶさる桜の連なりは圧巻だ。満開を見れた人は、次は、散った直後のお濠も見るべし。水辺に漂う桜の花びらが、絨毯になって鮮やかな桜色を空に向かって放っている。お濠の水は流れがないから桜絨毯ができる。
流れがある川辺の桜並木も壮観である。
静岡県河津町(かわづちょう)には、天城山系から流れる河津川で、五十年ほど前、地元の住民が河川敷で一本の苗木を見つけた。それが、八百本にまでなった。「河津桜」という新種の桜だ。早咲きで、一月下旬につぼみになり、三月上旬までに開花する。一足速くお花見観光客が訪れているとのこと。桜があれば、河川敷をきれいにしようという気持ちが湧いてくる。
八戸駅の近くには、三条小学校がある。その隣には浅水川。この川は、一級河川馬淵川の支流で、新郷村の野沢温泉近辺から注がれ、五戸町の浅水を通り、尻内で馬淵川と合流する。平成十一年十月の大洪水を機に、張田のあたりから馬淵川へ向かって、浅水川放水路が造られた。これは洪水を逃がすための大切な川。洪水がなければ、水は流れていない。草や木が生い茂るばかりだ。あんまり草木が多いと、川の流れを妨げる障壁になり、草木は根で土をしっかりつかむので、洪水のときに放水路に水を流すと、土をつかんだ草木が、土ごと流され、その結果、放水路の土がたくさん流されてしまう。川は、水が流れるところ。雑草や雑木を生え放題にしてはならない。
平成十九年十月、上長地区住民が、三条中学校校庭の本格的造成工事に挑戦し、見事に完成した。その立役者の一人は、「上長に育てられた」と言って、地域に恩を返すために参加。そして、浅水川放水路の河川敷に、一人一本の桜の苗を植えることができないかと考えている。自分で植えた苗木は、栄養をやったり、草刈をしたりと手塩にかけるから、河川敷の管理もすることになる。この植樹は、地区のご老人方が主体となって、「孫のために」行うことがポイントだ。自分のためではなく、地区を担う次代の子供達のためなら必ず成功すると確信している。桜が大きくなれば、河津町のようにたくさんの人が訪れることは間違いない。そうすれば、国も県も注目して、河川敷をもっと安全に対応してくれるはず。
かつては、浅水川に桜があった。昭和十六年五月十五日付け奥南新報には、同年五月三日に、浅水川の正法寺にある姥水門の堤防に桜見に訪れた磐城セメント八戸工場の小室工場長と、日東化学八戸工場の秋葉工場長が、地域で作った蓬もちとそばかっけを食べて、たいそう喜んだという記事がある。
「・・・上長の姥水門の堤防に桜見と洒落れた去る三日、野趣たっぷりな蓬餅や蕎麦かっけがでた。これを食べた異郷の人、小室磐城セメント八戸工場、秋葉日東化学八戸工場の両場長が口を極めてほめたたえ、石田屋などでなぜこれを出さぬだろう、こんな結構なものを出してくれるなら、旅行する人々はいかに旅情を感じ、八戸にあこがれることとなるであろう、と。」
さて、河川敷に工作物を設置する際には、国(国土交通省)の許可が必要だ。
河川法第二十四条(土地の占用の許可)
 河川区域内の土地(河川管理者以外の者がその権原に基づき管理する土地を除く。以下次条において同じ。)を占用しようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、河川管理者の許可を受けなければならない。
そして、細かい基準が「河川敷地占用許可準則」に規定されている。その中で、許可を受けることができる者は、地方公共団体等公共性又は公益性を有する者に限定している。
また、植樹については、「河川区域内における樹木の伐採・植樹基準について」(平成十年六月十九日建設省河治発第四十四号)というのがある。この中でも植樹の実施主体は、原則として地方公共団体又はこれに準ずる団体となっている。民間団体が植樹した場合は、その樹木が地方公共団体等に引き継がれることが条件らしい。維持管理が確実だからであろう。堤防への植樹については、堤防の安定性を損なうことがあることから、堤防部分に植樹することはできないとのこと。しかし、「桜づつみモデル事業」というものがある。堤防保全対策(盛土や縁切り施設及び水抜き施設等)をした植樹事業だ。これは、国土交通省が昭和六十三年度から始めたもので、最初は、弘前市の岩木川が認定された。この事業の対象となる河川は、①河川及びその周辺の自然的・社会的・歴史的環境との関連から、良好な水辺空間の形成が求められている河川、②市町村及び地域住民の良好な水辺空間の整備及び保全についての熱意が高い河 川、③桜づつみに必要な用地が既に確保されているか、市町村等により確保されることが確実な河川、④事業実施予定区域が、河川改修事業等の区間に含まれていること(一級河川の指定区間、二級河川及び準用河川の場合)、となっている。
上長地区の住民が、浅水川に桜を植樹するには、この4つの条件をクリアするのは極めて困難だ。なにしろ河川改修計画がない。しかも、植樹用地の確保や維持管理のためには八戸市の協力も不可欠になる。柳が生え荒れ放題の浅水川放水路は、人の手で管理する植樹は許可制。しかも、堤防には植樹は許可されない。
ところで、福井県鯖江市(さばえし)にも、「浅水川」という名前がある。鯖江市は、人口六万七千人で、眼鏡フレームの製造業が多く、国内九〇%以上のシェアを誇る。市の木はつつじ、市の花は、桜だ。同市のホームページを覗いてみたら、なんと桜並木のある浅水川だった。
さあ、はたして浅水川に桜を植樹することができるだろうか?不可能を可能にする醍醐味を、また味わいたいものだ。(本稿は、三条小学校PTA新聞「みらい」第二十一号平成二十年三月十九日発行に掲載した筆者原稿を加筆修正したものである。)
売市の読者から八戸にこんな勇敢な人がいたことを伝えて欲しいと連絡があった。
時は昭和十五年五月十二日、世界は風雲急を告げ、ドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグへ侵入、戦火は次第に拡大。日、独、伊三国同盟の日本は中国各地で戦火を交えていた。
奥南新報 五月二十五日号
売市出身、川口曹長奮戦
共産軍を殲滅す
殊勲 僅か十二名で
市内売市二九出身川口愛丞曹長の武勇伝、去る十二日午前二時頃北支京漢線臨洛○付近に千六百名内外の共産軍が襲来しその内の二百余名は駅南方の我がトーチカを攻撃し来たった。急を聞いた臨洛○駅警備隊では直ちに市内売市出身川口曹長以下八名をして之が救援に赴かせたが線路に沿って千米程南進した地点千六七百名の敵と遭遇し敵の監視兵が生意気にも誰何(すいか・誰かを訪ねる)してきたので川口曹長は直に部下を展開せしめ敵の側面から猛烈な攻撃を開始した。激戦一時間半に亘った。川口曹長は足部に貫通銃創を負い相当の重傷であったが責任感の強い曹長は部下にも知らさずなおも指揮を続け遂にこの大敵を撃退しトーチカに駆けつけた。トーチカの中には我が守備兵は僅か四名だけであったが二百の敵を引受けて少しもひるまず応戦し敵も攻めあぐんで退却したのを元気な兵士等はソレッと東南方に壊走する敵を追撃して散々に射ち破り凱歌を奏して引き揚げた。敵の遺棄死体五十余、負傷者は捕虜の言によれば百を下らず我が兵士 等のあまりの強さには敵は驚いておるとのことである。しかも重傷を負った川口曹長は救援に来た装甲列車の到着を待ってはじめて負傷したことを告げ応急手当を受けたがその責任感の強い郷土出身者の行動を激賞されている。
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