2008年7月9日水曜日

三日町交流センターは本当に市民のためになるのか3


昨日は羽仁もと子の遺徳に触れたが、今日は西有穆山だ。この人は自分がつけた妙な名前で損をする。それは、宗門の長を決める選挙で、穆山の名前が書きにくいことで選挙からもれたそうだ。これは西有研究家の弁。
 さて、西有穆山(にしあり・ぼくざん)のことについて簡単に記す。文政4~明治43(1821~1910)
三戸郡湊村(八戸市湊町本町)の生まれ。俗姓笹本万吉、豆腐屋の倅。諱(いみな・忌み名に同じ、死後にいう生前の実名)は瑾英(きんえい)、号(ごう・学者・文人・画家などが、本名のほかに用いる雅名)を穆山。天保四年八戸市類家、曹洞宗長流寺で金竜和尚のもとで剃髪(ていはつ・髪を剃って仏門に入る)、十三歳。名久井法光寺、仙台松音寺で10余年の修行の後、禅門の巨匠小田原海蔵寺、月潭和尚のもとに弟子入り、前後12年修行。火災で焼け果てた能登、大本山総持寺の再建を誰に頼むかと、宗門が困難を打破できる人材を選挙で求めた折、万票を獲得したのが西有穆山、明治34年81歳。後、永平寺管長にも就任。
 西有穆山の素晴らしいのは、長年芽がでない。静岡の古刹(こさつ・古く由緒ある寺)で開祖道元が著した「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の研究家として第一人者だが、宗門の長への声がかからない。ところが、81歳でお声がかかった。それが焼け跡に一本の杭もないという大惨事にだ。
 明治24年に東北線は開通するも、能登の本山は遠い。本山は永平寺と思う人もあるだろう。実は曹洞宗は一枚岩ではなく、永平寺と総持寺が両立している。共に本山で、西有穆山は両方の長となった。西有が八戸中学(八高)に来て講演。81歳の花婿が出たようなものだ、諸君は政治家になる人達だ。81になった私に白羽の矢がたったとき、面倒だから嫌だとも言える。しかし、いいか、南部の人間は火急存亡(かきゅうそんぼう・火が燃え広がり存在することが難しくなる)の折、後ろは見せない。これが南部人の魂だと教えた。
 八十一(やそひとつ)百にもならぬ小遣いで、能登へ行くとは気の強い旅。西有が詠んだ狂歌だ。杖を頼りに西有は能登へ再建のため足を運ぶ、81歳のご高齢だぞ。
 誰が喜び勇んで行くものか、しかし、困難に後ろを見せないのが八戸の衆だぞ、八戸人の魂だぞと西有は己が背中で見せた。そして90歳で亡くなった。
 西有が八戸に建てた寺が、小中野の常源寺、糠塚の光竜寺、そして横浜の西有寺だ。この横浜の寺は、商業都市横浜に、是非、西有に来て、教化して欲しいと檀家が建てたてた。
 その西有穆山の没後百年が来年だ。八戸市政80周年と重なる。さて、この西有穆山の部屋も欲しくないか、81歳で腰を上げる魂を戴きたくないか。筆者もデカイ口をきいて歩くが、81まで生きている保証もない。生きていてもこの巨大な魂を持てるのだろうか。誰も出来まい。その遺徳を偲ぶこともない我々は、大事なことを忘れてはいないか、粗末にしていないのか。
 この西有穆山の遺徳に感銘し、京都の産、無一文で八戸に来て、屈指の資産家になられた武輪水産会長、武輪武一氏は、西有穆山の記念館が建つ時は一肌脱ぐと言われる。先頭に1が来て、後ろに0が幾つあるかが問われるが、人情家の武輪会長だ、百万や一千万じゃない。巨額な金を惜しげもなくポンと投げられるだろう。八戸市はその恩顧に応えろ! 市長自らご高齢の武輪会長を訪問し、礼を述べるだけでなく、その好意に対して応分な処遇を考えろ。それが人の道だ。
 人は死んで冥土に金は持っていけない。金は有効に使うべきだ。まして、八戸市に寄付できるも、これもまた喜びだ。だが、貧乏人はできない。巨万の富を持つからこそ許される芸当なのだ。
 八戸にはこうした隠れた徳を持つ方が幾人もおられる。それを知らないだけなのだ。今こそ、小林市長の思い、八戸中心街を活性化したい、それにはシンボルタワーが欲しい、それが、交流センターだ。
 さすれば、西有穆山を顕彰する部屋が必要だ。景気後退で人心は疲労困憊の極みだ。だからこそ、先人の智慧を戴け。西有穆山の宗門から開館日に檀家を集めていただく、その数が三千人。さらに生きている宝がいる。それは三浦哲郎だ。林芙美子記念館が東京、新宿落合に建つ。彼女の住居だった所だ。昨年末から筆者が四ヶ月の放浪をした時、広島、尾道に行った。そこは林のゆかりの地だ。そこに林芙美子喫茶室があった。広島県人は林を大事にしている。死して後もこれだ。我々はどうだ、三浦氏の友人も沢山おられる。最近、三浦文学碑の建立がなされた。しかし、友人、知人は出席されたが、肝心要の三浦氏の姿はなかった。
 三浦氏も人間、寿命の尽きる日も来る。だが、生きておられる今こそ、彼の偉大な才能を、いまいちど評価する部屋があっていいだろう。林を愛する広島県人と同様に、我々も三浦氏を誇りに、そして敬愛するべきだ。
 開館当日は三浦氏を故人となられた偉人、先人の代表として、南部の魂を未来永劫消さない、絶やさない証として、彼から祝辞を貰おう。我等八戸人は、不屈の魂を持つ者の集合なのだとの、煮えたぎる熱い魂を更に掻き立てるような言葉を。
 八戸図書館はかつて、郷土の偉人を本にされた。今から三十年も前、小瀬川氏が館長だった頃だ。その本は西有穆山、羽仁もと子、北村益、江渡狄嶺(えとてきれい)等だ。三十年前、一世代前の八戸人は偉人を知っておられた。ところがどうだ、その後伝える努力を怠って、現今の若者は偉人の存在すら気付かない。
 それは若者の側に問題があるのではない。若者を指導できなかった筆者世代の怠慢のせいだ。勘弁してくれ。私達が間違っていた。前非を悔い、今こそ力を出し、交流センターでそれを伝えたい。
 羽仁もと子で動員二万六千人
 西有穆山で三千人
 三浦哲郎で千人
 合計四万人 筆者の大風呂敷の十分の一でも四千人。それが三日町の大通りを埋める瞬間を想起せよ、どうだ、見事だろう。ホラや大風呂敷はこうして拡げる。
 担当課長も前非を悔いろ。そして、設計図を書き直せ、予算が足らずば、筆者が各課を廻って、余分を削り四千万でも五千万でも捜してくる。決して見殺しにはしない。