2008年7月12日土曜日

郷土八戸に新聞誕生 奥南新報 明治四十二年 1

余の見たるはちのへ子 のれん小僧
新年そうそう悪口を言うでもあるまいし、茲(ここ)に謹んではちのへ社人の健康と万福を祈り、併せて、本年も花花しく戦争されんことを希望するの挨拶までに左に。
△ 北村益氏 はちのへ新聞社長たる氏は、百雷と号し、なかなか筆まめの人にして論説に、雑報にからをやかずに書く、三段通しの雑報は、殊に氏の妙と頼む所、然しそれを読ませらるる読者は、少々迷惑の至り、本年よりは、要所要所に、見出しを附して貰いたし。
△ 女鹿氏 美髯(びぜん・美しいひげ)の紳士、昨年迄は東京に在りて、私立学校の英語教師たりき、昨春主筆としてはちのへに入る、記する所の論説は、多く世界的なことにして、眼中小八戸なし。曰く東洋の平和、曰く独帝の不謹慎、流石に欧州思想の大家たり。
△ 奈須川保光氏 邦画に巧みなる人なり、位置は記者としてよりも画家として目さる、准カイザル髯を弄して、従容迫らざるの態度は、正に代議士の息たる貫目あり、紫狂と呼ぶ。
△ 苫米地虎衛氏 薪太の洋杖(ステッキ)をついて往来しスタイル甚だ珍たり、社に行っては、帳場の内に鎮座し、さりとて事務の人らしくも非らず、世人相伝てゴロの頭取という。
△ 東條鉄太郎氏 工場の活動は氏の左右するところ、かつて石直に従い石直の知遇を受く、今また北村に仕えて北村の寵愛を受く、蓋し、如才なき処世児たるなり。
苫米地惨火の賠償に就いて 一月十六日
去る五日郡内苫米地全村の惨火に罹りし原因は、鉄道列車通過の際汽缶車の飛焔に出しは明確なる事実なりと伝う、汽缶車の飛焔に因りて、沿線民屋の惨火に罹りし例従来極めて多し、是不可抗力にあらずして全く不設備に出つ、就中(なかんずく)、同村に於ける全焼は惨中の至惨。被害中の最も大なるものなり、この際、罹災民は、其の原因を証明し其の損害を計上し、鉄道庁に向かって速やかに賠償を求めよ、鉄道庁は必ずや其の惨火の飛焔に原因せしに同情し、幾分の賠償に応することとなるべし、他の焼失とは同一視すべからざるものあるによる場合は、あくまで法理に訴えるも解決すべし、是れ当然の要求当然の権利なれば也、聞く、鉄道庁理事某、昨同村に出張し、罹災の実況を視察せりと、或るは賠償調査の為ならん乎、兎に角賠償を要求するは、刻下救惨の急案にして忽諸に付すべからざる問題なり、郡当事者もこの解決に対しては、充分の保護を与えざるべからず