2008年7月21日月曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 2


八戸図書館に新聞切り抜きがある。東奥日報が16年前に掲載した、昔今未来というシリーズ。
それに八戸・陸奥湊がある。庶民の台所、ヤミ商い中心に、戦後急速な発展と題され以下の文。
JR八戸線陸奥湊駅前。港八戸を象徴するように魚市場がずらりと並一び、夜が明け始めるころから、背負いかごを担いだ商店の人の仕入れの姿や鮮魚を積んだ小型トラックでにぎわう。道の両側に広げられた露店でも売り買いの声が上がる。戦後からこれまで変わらぬ光景だが、近年、かつてのにぎわいに幾分陰りも見えてきた。これまでの歩みや今後の活性化の道を探る。
 「戦前の陸奥湊はボッサリしていた」と湊町上中道の畑中末吉さん(八八)は当時を思い出すように静かに語った。畑中さんは、陸奥湊地区を含む第一久保町の町内会長を昭和二十三年から五十五年三月まで務めた町内の長老の一人。昭和三十四年から、駅前に千軒文化市場を開いている。
  「戦前は旅の人(八戸以外の人)が多かった。スルメや煮干し、ワカメなどを商いしていた。にぎわうようになったのは戦後。鉄道の駅員たちがにぎわいのきっかけをつくった」。宮城、秋田、岩手、新潟などから農産物やあめなどを持ったヤミ行商人たちが、駅に降り立ち、スルメや煮干し、鮮魚、塩辛などと交換した。その人たちは、鉄道の運賃がかからない駅員やその家族が多かったという。「あれよあれよという間に、自然発生的に家の軒先を借りた商い人が増え、開けていった」と畑中さん。スルメはドラム缶に詰めて出荷、当時の金で一日二万円稼ぐのは簡単だったという。
 そのうち、陸奥湊は安いと評判が立ち、旧市内の奥さん方も買いにくるようになった。「陸奥湊はおっかないと言われたのは、このころだな。これは仕方がなかったんだ。とにかく忙しかったし、大量出荷が多く出荷向けにこん包していたから家庭用に分けて売ることはできなかった。店の人たちも大きな声で『だめだ、売られない』と叫んでしまった」
  「仕入れの缶を背負ったがんがら部隊や各店が違法に線を引っ張ってつけていた裸電球の電気代で電力会社と交渉したのも懐かしい思い出だ。今は買い出しの人も少なくなったかな」と語った。
 この畑中さんは昨日の記事の父君。まだ、力が16年前にはあった。図書館職員が昭和五十一年に青森県と八戸市、それに商工会議所が作った再開発の書類を発見。それには完成予想図まで書かれてある。今から三十年前、陸奥湊には力が充満していた。次回はこの図を中心に考察。