2008年8月9日土曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 7

ソ満国境で鉄道を警備
 ノンジャンでの部隊名は第二四九部隊。チチハルに本部があり、われわれは独立守備隊としてチチハルから国境近くの双橋までの鉄道線路を警備するのが任務でした。二ー三人ぐらいで行動して、鉄道線路そのものの補修や列車に乗っての警務、スパイ防止や情報収集なんかもやるんです。
 オロチョン族の人たちに銃を与えて、守備隊を組織しようとしたこともありました。私が教育に行ってたんですが、ある時、一人が「隊長さん、銃の弾丸を十発余分にくれないか。くれたらイノシシ十頭捕ってくるから」という。「よかろう十発ぐらいなら」と渡してやったら、本当にイノシシを六、七頭も穫って持ってきた。
 ケモノ道をらゃんと知っていて、そこに木を交差させて銃座をつくり、歩兵銃を構えて待っているんだそうです。習性で、イノシシはその道を走ってくる。それを撃つんだということでした。歩兵銃ですから体に弾丸が当たると食料にはなりにくいんですが、見事に頭を射抜いていました。猪突猛進なんでしょうね。
  冬は氷点下三十度
 私が召集で満州へ出征した後に、東京で長男が誕生しました。男の子だーというので名前を考えて「秋の山に新しい熊が生まれたのだから新熊と名付けたい」と手紙を出しました。
 もちろん尊敬していた刑法の泉二新熊教授のことを考えてのことでしたが、手紙を見て叔父・秀之助が首をかしげたそうです。「いくら皐二郎が付けたいといっても秋山新熊じゃ、ちょっとなあ」。家族も反対だったようで、結局「熊郎」という名前になりました。
 ただ、この子は、生後八十二日目で世を去りました。ちょうど食糧が手に入らない時代になっていました。妻が女手一つで長女と乳飲み子を抱えての生活でしたから、かなり無理をしたようです。出征していて、私は何もしてやれなかった。ふびんだと思いましたー。
 後年、妻も、この時の無理がたたったのでしょう。病魔に苦しめられることになりました。
 ノンジャンでは、戦闘部隊でないこともあって、比較的のんびりした日常でした。各部隊対抗で野球をやったり銃剣術の試合をしたり。五連隊出身の兵隊は強かったですよ。ほとんど負けなかった。
 チチハルの本部にもよく行きました。われわれの駐屯していた所は雪が降らないんですが、チチハルは雪のある都会。まるで八戸から青森に行くようなものでした。慰問の芸能人もよく来ました。接待は私の担当でした。酒保には酒なんかもふんだんにあって、不自由はしませんでした。
 ノンジャンは黒竜江(アムール川)の支流の松花江(スンガリーともいう)の近くで駐屯地のそばは、そのまた支流のノンコウという川が流れていた。冬は氷点下三○度にもなりますから完全に結氷してしまう。
 私の部隊は守備隊ですから消防団もあってポンプなんかも持っていたんですが、氷点下三〇度の中での消火活動というのは始末に負えない。水は出ないし、とにかく破壊するしかないわけです。
 八戸市長になった時に消防団の諸君に「戦車みたいなのを二台ぐらい買ってきて、冬場の火災では突っ込ませたらどうか」なんて冗談を言ったら「そんな乱暴な」とだれもとり合ってくれませんでしたがね。
 結氷は一様じゃなくて、所々に氷の塔ができる。ソ連軍のスパイなんかは、それに身を隠して近付いてくるんです。もちろん靴なんかは履かない。ンカの足跡に似せたものとかをつけたり、常盤御前が牛若丸らを連れてワラジを前後逆にはいて雪道を逃げた故事に倣って靴を逆に履いたりしたようです。
結氷した川で魚捕り
 結氷した厳寒期の川でも、北満水産なんて会社があって網で魚を捕っていました。五十㍍ぐらいの間隔で穴を二つ開けて、上流から網を流して下流の穴から引っぱり出すだけなんですが、けっこう魚が捕れていました。小川原湖でも結氷期に似たような漁をすると聞きましたが、実に上手なものでした。
 結氷した川が春先になり流れ始める時は、まことに壮観でした。兵隊たちは、みんな楽しみにして「いつ割れるべ」と待っているんです。バリバリバリという、ごう音とともに、厚さ一㍍を超える氷が、グーンと立ち上がったり、ガシーンとぶつかり合ったりしながら、馬淵川の河口部よりも広い川を一面に埋めてゆったりと動き始める。素晴らしい光景でした。
美しい芽吹きの季節
 北満の春というのも美しいものでした。五月末ごろになると草原に一斉に迎春花(黄梅)が咲き始める。シラカバの林なんかもあって芽吹きの季節を迎えるわけですが、無礼講のお祭りなんかもあるし、雄大な満州の山野をながめていると、本当に戦地にいるのかなあーという感慨を覚えたものでした。
うまかったワラビ潰け
ノンジャンでの駐屯生活は昭和十九年六月まで。私は単身で弘前から一緒に来た諸君と別れて、ソ満国境のハロン・アルシャンに赴任しました。
 阿爾山と書いてアルシャンと読むんですが、ここで国境守備に当たっていた第一〇七師団九〇連隊の第五中隊長を命じられました。当時、関東軍は、南方への兵員増強を受けて盛んに部隊の編成替えを行っていまして、九〇連隊は東北の青森、山形、秋田、岩手県出身者が多く、郷土部隊をつくろうということで、私が派遣されたようでした。
 私が赴任したら中隊の諸君は「やっと人間扱いしてもらえる隊長が来た」と大喜びしていました。なんでも、前にいた将校の多くは四国出身だったらしくて、東北弁が通じなくて困っていたそうです。
 アルシャンの近く、師団本部のあった五叉溝には、名川町法光寺の住職をしておられる楢山大典君がいましたし、第236野砲隊には竹中修一前代議士もいたそうです。楢山君は、連絡で師団本部に行った時に、どこかで見た顔だと思っていたら「名久井の楢山です」と話しかけてきて「そうか、君もここにいたのか」と言葉を交わしました。  
 中隊の諸君が、青々としたワラビを着けたのを食事に出してくれた。「おっ、うまいなあ。どこで採れるんだ」「ハイ、この周辺には、いっぱいあるんです。塩をふりかけて保存していたものです」岩手県出身の兵隊でしたが、うまかった。八戸に帰ってきてから漬け方を妻に教えたんですが、どうもあの時の味は出せないようです。
 アルシャンは、大興安嶺の山すそにある所で標高は一三〇〇㍍ぐらいある。一㍍も掘ると下は凍土でした。対戦車用の壕を掘ったんですが、苦労しました。三㍍も掘って、掘り出した土をさらに三㍍ぐらい積み上げるんです。
 周辺には小高い山がいくつかあって、そこに監視所を設けて常時、交代で兵が詰めていました。
 私が赴任したころ、関東軍から命令がきて、農作物を自給するようになった。畑にトウモロコシやジャガ芋なんかを植え付けて、隊で使う分のほかに、収獲物三トンを連隊に納める割り当てがきたんですが、自分たちで苦労して作ったものを納めるのはバカらしいというので、周囲の山からワラビを大量に採ってきて納めた。
 満州の原野ですから土は肥よくで野菜は実においしく育つんです。ワラビは一面にあるんで、シートを敷いて座ったままでも随分採れる。後で、他の部隊の諸君から怒られました。
 「毎日毎日、ワラビばっかり食事に出る。おかしいと思ったら、五中隊ではワラビばっかり納めたそうじゃないか。ひどい」というわけです。
スキーは専ら直滑降 蒙古相撲も楽しむ
 アルシャンの兵舎は丸木を組み合わせたもので、ペチカの暖房がよく効いて、冬は氷点下四七度にもなるんですが、部屋の中では汗ばむほどでした。ビールなんかは窓のそばに二、三分置いとくと冷えて、真冬にペチカのそばで飲むのはうまいものでした。
 雪は一㍍ぐらい積もる。風が終日吹いていて、サーッと雪が横に飛ばされる。一時間も戸外にいると体がしびれるような厳しい寒さでした。スキーもやりました。私もやりましたが、専ら直滑降だけでしたがね。
 春から夏にかけては実に住みやすく、おまけに温泉がわいている。六月になるとモンゴルの人たちがダーチャという荷車に家財道具一式を積み込んで大挙して温泉にやって来る。ヒツジの毛皮で作ったパオーテントを建てて一ヵ月ぐらいも滞在するんです。私たちも祭りをやって、蒙古相撲なんかを楽しみました。
病の妻の手術決断
 昭和十九年の国境付近にはそれほど緊張感はなく、平穏でした。中隊に秋田県出身で本荘中学校の先生をしていた作佐部忠君という大変、器用な軍曹殿がいて「アルシャン小唄」というのを作詞した。音楽学校出の露木次男君が作曲して、本荘中学校に送ったりもしましたが、みんな、よく歌っていました。
一、興安嶺に春が来りゃ
  五色の花が乱れ咲く
  サァサ よいとこアルシャン お湯の街
二、温泉祭りのにぎやかさ
  蒙古相撲にラマ踊り(以下繰り返し)
三、白雲飛んでカリ渡りゃ
  野火が燃えるよ赤々と(同)
四、雪の荒野をひとすじに
  流れる湯の川どこまでも(同)
 歌われている通りの雰囲気で、温泉では野天ぶろも楽しめました。「野火」というのは敵のスパイなんかに火を放たれるのを警戒して、春早いうちに幅百㍍ぐらいで防火帯を作るためにやる野焼きのことなんです。部隊全員が総出で、シラカバの枝で作ったほうきを持って火を逃さないように野焼きをする。
 私が指揮して、野焼きした時は、火を逃してしまって、弾薬庫のすぐそばまで火が来て、冷や汗をかいたこともありました。幸い雪が降ってきてやっと消し止めました。
 二十年一月に、山形から最後の兵員を輸送するために内地に帰りました。食糧も乏しいに違いない、というので満州から背広二着分の生地、これはシンガポールの戦利品で将校に分配されたものでした。それに綿布、子供用の毛糸の帽子、ワイン、羊かんなんかを特って八戸に帰り大変、喜ばれました。
 軍隊の羊かんというのは長さ三十㌢ぐらいもある大型のもので硬く固めてある羊かんで当時は貴重品でした。夜間演習の時などの疲労回復用に兵隊に特別支給されていました。
 八戸に者いて湊本町まで来たら、めいの澄子に会った。雪の降る中を髪を濡らしながら歩いてきた。「あれっ!おじさん、いつ帰ったの」「ウン、今昔いたばかりだ。今晩泊まって、あす出発するんだ」。女学生でしたが、勤労動員で島守地区に陣地を築くためのセメント運びをしてきたとのことでした。
 妻は長女の敏子とともに八戸に帰ってきていましたが、おいの晃一君(実兄の長男)が六歳ぐらいで、敏子とちょうどいいケンカ相手だったらしい。義姉が「晃一、敏子ちゃんのお父さんは満州にいて軍刀持ってるんだよ。お前が、あんまり敏子ちゃんをいじめると切られるから」とよく言ってたようです。
 そこへ私が帰ったものだから晃一君は、随分とびっくりした。私の顔をじーっと見つめてー。「コラ晃一、刀を抜くか」とおどかしたら、かなりおとなしくなったそうです。
戦局、悪化の一途 長女を残し八戸あとに
 家に着いたら石田家のおやじと叔父・秀之助が「お前ちょうどいいときに帰って来た。実はトヨが病気で、手術した方がいいか、判断を下してくれ」という。事情を聞くと外科の先生は切るべきだというし、内科の先生は切らなくても薬で冶るという。三八城病院の泉山博士に会って話を聞くと「手術した方が早く冶る」と言われたので妻と相談して「手術しよう」ということで八戸を後にしました。
 私自身は、この後、満州へ帰れば、ほとんど生還することは無理だろうと思っていました。戦局は、悪化の一途をたどっていましたから。妻も東京での無理がたたって、大手術を受けなくてはならない。長女・敏子は、元気のいい子供だし、石田家のおやじでも叔父・秀之助でも、ちゃんと育ててくれるだろう。
 「ああ、この子も幼いうちに父を失うんだなあ。もしかすると母親をも亡くするかもしれんなあ」と率直に思ったものでした。
 翌朝、八戸をたって、山形からみやげにつるしガキを買って下関、釜山と経由して兵隊を満州に連れて来た。海は、すでに米軍の支配下でした。船に乗る時に、ロープを三㍍五〇ずつ切って兵隊に渡せ、という。機雷に当たったりして沈没したら浮遊物にロープで体を結ベーというわけです。
 船はジグザグ航行でやっと満州へ着きました。
山形から最後の兵隊を連れてつるしガキをいっぱいみやげに部隊に帰って、みんなに随分喜ばれました。冬の食べ物は、毎日、豚汁とラッキョウの潰物ばっかりでしたから、つるしガキは、実にうまかったんですね。私自身も豚汁とラッキョウには飽きて飽きて、閉口してました。豆腐が食べたくて兵隊を後方に派遣したりもしましたが、このつるしがきが内地からの最後の食べ物になりました。
 われわれの九〇連隊が警備を担当していた国境線は約百四十七㌔。当時の満州国とモンゴルの国境線で、最北のハンダガヤに第一大隊、その南側からアルシャン、白狼までが第二大隊の担当区域。第三大隊は師団本部のあった五叉溝での築城作業に出ていてアルシャンにはいませんでした。
 昭和十九年中は、平穏だった国境線でしたが、二十年の春ごろから緊張が強まってきました。標高一、二○○―一、三〇〇㍍の山頂にいくつも監視所を設けて百二十―百七十倍の望遠鏡で常時ソ連軍の陣地を監視していましたが、このころから女性のスカートを洗たくしているのが目につき始めました。
 わざと敵陣に姿をさらすと確かに女性兵士が見える。ドイツとのレニングラード攻防戦で兵員が底をつき、満州方面は女性兵士で肩代わりさせていたらしいんです。ただ、関東軍参謀本部がわれわれに出していた命令は「国境でことを構えることは絶対に避けよ。応戦まかりならん」というものでして、今から考えると、いかに敵情を正確につかんでいなかったか、よく分かります。