2008年9月25日木曜日

戦前、マニラに日本村があった

宮本常一 私の日本の地図 瀬戸内海2
田島・横島
 百島の南にある田島へわたって、最初にたずねていったのは門前又三郎翁の家であった。門前翁は明治前期長崎県五島の有川へ鯨組の網大工としていっていた人である。網大工というのは網をつくり、また修理をする人のことで、田島は昔から網をすく者が多く、その技術をかわれて、五島の鯨組までかせぎにいっていた。有川の寺の過去帳には田島の者の名も見えており、最後の網棟梁が門前翁であったということもそこできいた。毎年多くの網大工をつれて五島へゆき、その一部は双海乗(そうかいのり)として網船にものって活躍した。しかし明治二〇年すぎには旧式の捕鯨法では鯨はとれなくなって、有川への出稼ぎはやみ、その他平戸島生月や、佐賀県小川島への双海乗の出稼ぎもやんできた。双海というのは鯨をとるとき、鯨の頭からかぶせる網を張る船のことである。田島の人は船をこぐことがたくみで双海乗には適していた。
 門前翁の家へゆくとその孫にあたる人の妻女がいて翁の記念になるようなものは何もないが、網に用いた細引がのこっているというので、それを見せてもらった。
 鯨組への出稼ぎと、村の主要漁業であるウタセだけでは生活がむずかしい。どこかへ稼ぎにゆかなければならないというので、門前翁や中井万蔵たちが中心になって、フィリッピンのマニラ湾への出漁が計画されたのは明治三七年であった。
「そのことについては長沢義夫というくわしい人があるから、そこへいって話をきいたらよかろう」と、門前家の妻女は言ってくれた。
 マニラ出稼ぎ
田島の町はあるいて見ると、りっぱな堂々とした家居が多い。そのほとんどはマニラ漁業出稼で財産をつくったものであるという。長沢さんの家をたずねていくと、長沢さんは留守だったから町の中をひととおりあるいて見て宿へいった。宿といっても普通の農家の表座敷である。夕はんをたべていると、そこへ長沢さんがやってきてマニラ出稼のことについていろいろと話して下さり、深更におよんだ。ここの人たちは漁船を汽船に積んでマニラ湾まで持っていって操業し、女たちがその魚をフィリピン人に売りあるいた。マニラ湾にはおびただしい魚gおり、漁業はたのしいものであった。言葉は通じなかったし、フィリッピン人はあまり魚をたべなかったからはじめは行商も思うにまかせなかったが、妻女たちはすぐ現地の人たちと仲よくなり、販路はひらけ魚はいくらでも売れた。そこで次々に郷里の人がやって米で、多いときは三〇〇人も四〇〇人もの人がマニラの一隅に田島の出村をつくったほどであった。そしてその村は日本が敗戦に追いこまれた昭和二〇年までスついた。フィリッピンを占領していた日本兵およびそれにともなって来た日本人はフィリピン人をいためつけ、そのつよい憎悪と敵慨心をうえつけたが、田島の人たちは別であった。敗戦のため引あげて来るとき、別れをおしんで泣き、世の中がおちついたらすぐまたマニラヘ来るようにといってくれた。田島人が引きあげてきた後も、マニラからたえず早くやって来るようにと連絡があったが、占領軍はそれをゆるさなかった。講和条約が結ばれて日本は一応独立したのだからと思って広島県庁へ出向いてマニラ渡航を申請したが容易にゆるされなかった。マニラから引きあげた人たちはあてにならぬマニラ行きの日をいつまでも待っていては生活がただなくなるので、次第に京阪地方へ出るようになっていった。それでも長沢さんはなお望みをすてず、広島県庁と交渉をつづけていた。私は長沢さんの話に心をうたれた。民衆の動きと政府の政治的な取引には大きなズレがある。政府は決して民衆の味方ではない

国後、択捉の問題、政府は二島返還を拒否。正しい選択だったのか。追い出された島民にとって渇望の返還を政府は受け入れなかった。ソ連もロシアと変ったが、基本的に四島返還はなかろう。相手が返すと言ったとき、不本意でも受けるべきであった。
 この二島があれば八戸の漁業にもなにがしかの恩恵もあったろう。まさに、宮本の言う政府は決して民衆の味方ではない。マニラの日本人のように威張ったのは役人で、こうした民衆は川の水が海に溶け込むように自然に同化したのだ。