2008年9月3日水曜日

小中野常現寺に来たおいらん道中解説三遊亭圓生噺

三遊亭圓生 って落語家がいた。博学な人。六歳で義太夫語り、十歳で噺家になった。自分が自分がという性格が災いし、落語協会の長に選ばれないことに腹を立て脱退、弟子の円楽が忠義を尽くし共に出て苦労。寄席が呼ばないので自前の寄席を造り、借金を抱え込んで心労。日本人の良さを示した。その圓生の博学から、花魁道中を拾う。
吉原にあるいろいろな慣習というのは花魁の道中でございます。現在は錦絵とかあるいは歌舞伎で見るよりほかにいたしかたがございませんが、髪を立兵庫、あるいは横兵庫という、それへかんざしを後光のようにさしまして、金糸銀糸で縫いをとったしかけをはおり、黒塗りの高い三歯のぽっくりで、内外八文字という::おっそろしくどうも複雑な歩き方をして、両側のお茶屋ではこれに合わして、清掻(すががき・江戸吉原で、遊女が張見世はりみせに出る時に弾く三味線の曲。見世清掻)という三味線を弾きまして花魁道中をするという。これがもう、仲の町張りといって、吉原では最上等の花魁でございます。それからここでは廓の言葉というものを皆つかいます。これを一名まほう言葉ともいう……。「ああしまほう」「こうしまほう」。あるいは「そうでありんす」「そうざんす」「そうざます」なんという……。どういうわけでそんな言葉を使ったのかというと、吉原の花魁が残らず江戸子というわけにはそれアいきませんよ。何しろ三千人という数の中ですから、丹波の国のへっころ谷なんというところから花魁が出てくる…どうもその、訛りがとび出しては具合が悪い。これをかくすために廓の言葉を用いました。
「ぬしは酔いなんしたによって、もう寝なまし」
 なんてえと、たいへん色っぽくなる。
 「駄目だよ、お前。酒べえくん飲んで、俺アまだまわすあるだでよ、眼玉くッ潰してくン寝ろよ、この野郎」
 なんて、どうも花魁から「この野郎」なんて言われては色気もなんにもない。そこでああいう言葉を考えたんでしょうが…。
 『吉原細見』というのがありまして、これは吉原の案内記でございましょうね。何という楼にはこれこれの名前の遊女がいるという事を明細に記してある。年は何歳とか、前科何犯とか…
それから名前のあたまンところへ印がついている。山型とかあるいは星とか、いろいろあります。
あれは花魁の位取りだそうです。入り山型に二つ星というのが、これはもう最上等の花魁……そういうのが申し上げたような花魁道中をいたします。
 さてそういう花魁がいくらぐらいで買えたのかというと、まア時代によりまして物価はいろいろ違いますが、玉代というものが昼三といいますから、昼間だけで三分とられたといいます。三分というのは一両の四分の三、これア高いものです。そういう花魁には、みな新造というものがつきます。新造というのは花魁の候補生みたいなもので禿(かむろ)だちといいます。
ま、禿になるのは十歳ぐらいの年からでしょう。十六くらいになると年頃になってきたというので、これから新造というものになる。いろいろ花魁の教養をつんでもうこれならばという見定めがつきますと、器量のいいのを花魁に仕立てる。もちろんこれは、名だたる花魁の妹分というので後見役になりまして突き出しというので太夫になる……。ですからそのいい花魁にはみんな新造がついている。これも振袖新造、留袖新造、番頭新造とありました。
(新造・しんぞう、しんぞ共・遊里で、「おいらん」と呼ばれる姉女郎に付属する若い遊女の称。出世して座敷持・部屋持となるものもあり、新造のまま終るものもあった)
振袖新造・江戸時代、禿かぶろから新造に出てまだ部屋持とならず、振袖を着ている若い遊女
番頭新造・江戸新吉原の遊郭で、上位の遊女の諸事世話をする新造の位の女郎。普通の年若い新造とは違って、世事に長じた年輩の女郎