2008年10月18日土曜日

小林市長の市内漫遊 2

八戸市役所職員の二割が町内会に入らないかいは、これは本庁の数。市民病院や交通部、広域事務組合、消防、水道は数えられていない。
 小林市長は市民病院の管理者を降りたが、それ以外は長を兼務。すると、この数も当然入れるべきだが、市役所職員はそんなことはしない。彼らは他団体だからという。他団体でも八戸市から金が出ている。金を貰っているなら、それなりの責任もあろう。
 何故、この市役所職員の町内会未加入を問題視するかというと、未加入者が増加、戸建ての加入は多いがアパートが問題。渡り鳥のように暫く居るが、また辞令の紙一枚、あるいは職探しのため飛び立つと、居住者には特有の理由があり、地域との結びつきなどは眼中にない。
 町内会も運動会などへの参加を呼びかけ連携を深める努力をしているところもあるが、多くは会費徴収だけが目的、集めた会費が適正に処理されたかの報告書すらなく、ただ、金出せじゃ強盗、追いはぎと何処が違うのか。
運営する側、管理する側の理屈、屁理屈もあるだろうが、徴収される側に会費を払うだけの見返りをしているのか。
 タダで動くのは地震と風、町内会役員も動けばそれなりに活動費も必要、が、その徴収した金で、徴収する側に同じ町内に住んで良かったを実感させることができなければ、永遠にこの未加入問題は解決できない。
 これは同様なことが市役所にもいえる。八戸市に住んで良かった、働いて良かったを実感させる取り組みを市役所はしているのか? 寡聞(かぶん・見聞の狭いこと)にしてそれを知らない。
 変質者のように週に四回から三回は市役所に行く「はちのへ今昔」でも、そうした取り組みをしている課に巡り遇わない。
 ただひたすら税を徴収するだけでなく、それを返す仕組みは八十歳になると祝い金を出す。あるいは、70歳になるとバス乗車証を出す。これすら無料ではない。利用者負担が市役所の原理、原則。
 日本はこうした銭集めだけを至上主義としてきたのだろうか、けっしてそうではなかろう。
 人は生まれてから死ぬまでの間、世間にさらされる。世間とは貴方でしょと言ったのが津軽の大作家太宰治だった。世間は遠い存在ではなく、自分の身を置く周りでしかない。つまり、地域的存在。
 生まれると七日目に名づけの祝い、三十日か五十日で宮参り、百日目をももかの祝い、ここを過ぎると生き残れる、昔は医療体制もなく、百日を幽明境とした。一年目が誕生祝、三歳で髪おきの祝い、五歳で袴の祝い、七歳で裃の祝い、女十三歳で腰巻祝い、十五歳で元服の祝い、女三十三歳で厄除け祝い、男四十二歳で初老の祝い、六十歳で還暦の祝い、七十は古稀の祝い、七十七、八十、八十八、九十九、百と続く。
 これらは地域が祝った
。何、金を出さずとも共に喜べばいい。町内会は率先してこれを実践する、これら通過儀礼の他にも町内会がしなければならないのは、新しく住民となったところへでかけて、住民祝いをする。新規に縁があって越してきていただき誠に喜ばしい、ついては、町内会でのゴミの出す日にちはこれこれで、分別、識別、鑑別はお宝探偵団でと、チラシを置きながら、困ったときには町内会長に相談してくれと、ここまでを説明解説し、めでためでたの高松様よじゃないが、えんぶり口上のひとつも鳴り物入りで奏でりゃ、これは妙な土地に来たと、新参の者は驚嘆して生涯忘れない。
 これは当然、市役所にも言える。筆者が東京から住民票を異動したのが五年前、このとき広報が配られてこなかった。苦情を言ったら配達された。
 住民課は転入者になにやらチラシをよこしたが、広報のことは説明しなかった。このとき、広報調整課に行き、住民課と連動し、転入者宅へ広報を配達する仕組みに改めよと建言。
 プライバシー保護で住民課は広報調整課には知らせないと言う。役所の中でプライバシー保護もなかろうと言ったが、ダメの一点張り。
転入者は税金を取れる新規客、それを冷遇するはまずい。市長が出てきて礼を言えとは言わぬが、担当課の工夫は大事。
 つまり、市役所が新生児の受付をする、そのときにおめでとうございます、丈夫に育ちますようにと命名された子どもの名を祝う色紙をくれる、市長が○○さん、八戸市民として丈夫に育つよう祈ってます、との手紙を出し、親を喜ばせる、祖父母を感激させるを仕事と考えることだ。
 通過儀礼は幾つもある、新入学ともなれば、二年生は新入生に手紙を書く、それも近所の子が書く、その子の顔を知らずとも、二年生には親しみを感ずる。こうした地域のつながりを一つひとつ着実にせず、ただ、税金を払え、町内会費を納めろで誰がうなずく。
 する側八戸がされる側になって考えなおすと幾つもの手段方法が見えるもの