2008年10月21日火曜日

翁の八戸よもやま話


四〇数年前の番町付近の地図を見た。私の店「おきな」が其処にあった。忘れ欠けていたことが、つむじ風のように脳裏を駆け巡った。 

母は半ば諦めるように云った。「小中野ではもう無理よ」母は旧市内進出を望み私に話しかけた。この言葉が馬場町に「おきな」の店を創ることになる。
母、加藤きち、昭和四十四年十一月二十二日死去、享年六十六。蕎麦屋の営業を続けるには二代にわたった小中野の地をあきらめなければならない時がきていた。母の読みは正しかった。縁があって番町で経営している写真館主の一部を借り八戸支店として蕎麦屋を開業した。その時はまだ小中野の店は料理店として活気を呈し芸者衆の出入りで賑わっていた。小中野の店は妹にゆだね、私は支店で妻と夢中で働いた。
蕎麦屋にとって番町の店は魅力的であった。前は市役所、同じ通りに、警察署、幼稚園、隣は料理屋、医院が二つ。左の四つ角には県税事務所、少し離れて税務署、昼客には困ることはなかった。そして夜は忙しい妹の店に駆けつける。その間、私は趣味の8ミリ映画作りと縁を切り、小中野の店と番町の店を自転車で行き来した。
店の後ろに遠山家があり、その二階の一室を借り、妻と住み込みの従業員(妻の友人)三人の住居とした。苛酷な営業は優先され禁欲の生活は続いた。遠山家は若い御夫婦と小学生のお子がいて、その子とキャッチボールで楽しんだりした。名は影久君。過日、劇的な再会をした。束奥日報社の八戸支社長として赴任してきたのだ。彼が入社して間もなく記者として私を訪れたことがある。当時私は県の麺類環境衛生組合の理事長だったため彼の取材に応じたときだった。蕎麦の価格を値上げした理由の取材だった。お子のときと今も小柄だが南部藩筆頭家老の血を受け継ぎ、今尚、確たる風格を保っている。
番町の店は殆ど昼のみ営業し、夜は本店となった小中野の店への応援を続けた。時は流れ小中野から灯が消え、まるで八戸の孤島のような存在となった。番町の店は連日昼席は満員、苦し紛れに夏は「ざるそば」だけを販売した。
数年が経ち大家が代わった。店子付きで買った新しい大家はわが店を除き、屋根を壊しシートで覆い、それを跨ぐように二階建ての食堂として新築し華々しく開店した。壊れた惨めな裸になったような店を八戸の週刊紙が写真入りで「これでも動かぬ店子」として報じた。著しくプライドが傷つけられた記憶は今でも心の隅に残っている。ところが、この大家の食堂は静かに衰退し、私の気付かぬまま蕎麦屋つきで土地と共に極秘裡に売りに出した。
8ミリ映画の趣味を忘れ欠けたとき、三八五貨物の社長泉山信一氏が訪ねてきた。用件は八戸東京間の貨物自動車を追って一本の映画を作って欲しいと云うことだった。その時の彼の言葉は不思議な程、記憶に残っている。
 「その代わりと云っては何だが、近くにバスセンターを建てる、其処に株主として、あんたを入れてあげる」
場所も魅力的だし、今の借家よりは、と考え好きな道でもあるし店を休んでもと思い、撮影を引き受けた。結果的には想像をこえた撮影行脚となった。貨物自動車を追うカメラマンの車はルノーという小型の外車、運転手はたしか荒木田と云う人。眠くなるとウイスキーーをなめるように呑んだ。これが私の居眠り運転防止策ですと彼は云う、社長には内密にと付け加えた
八戸東京間の道路は半分以上は未舗装だった。A車を追って仙台で一泊、B車を追って東京と記憶しているが東京まで四、五日かかったような気がする。なにしろ途中名所旧跡などを撮りながらなのだから……。
東京では、私は皇居と議事堂をバックに半ば強引に貨物自動車を走らせた。映画が完成し試写の際、そのカットが映し出されたとき、泉山社長の嗚咽の声が聴こえた。スクリーンから反射された明かりで社長の顔が見えた。涙で目が光っていた。