2009年5月18日月曜日

ブログ移行のお知らせ

当ブログは、日本救護団に移行いたします。

日本救護団URL:http://kyugo.exblog.jp/

今後とも、よろしくお願いいたします。

2009年5月17日日曜日

盟友岡山矢掛の佐藤征夫さん


明治大学応援団の同期の佐藤氏が病気になった。七ヶ月も入院し、二度手術し、地獄の三丁目から戻ってきた。
 癌だ。37キロまで目方が落ちたそうだ。電話をしても、「オイ、コラ、ペテン師、元気にしておるか」の声が聞こえなくて、情けない思いをした。応援団が整列をする、一番前の列には三年坊、次が二年坊、一番後ろが一年坊で、佐藤氏が一番背が高いので右端、次が「はちのへ今昔」で、次は諸君の知らぬ人とならぶ。
 この佐藤氏は静岡県立富士高校の出身で、明治大学も工学部に籍を置き、応援団一の秀才だ。これが、酒飲みで平気で一升はいける。
 一年生の時の合宿が群馬県の妙高高原、列車から応援団が降りると、地元の群馬県の校友会が待ち構える。そこで駅舎を背に一列に並び、団旗を掲げる。こうしたときに一年坊は団旗を手早く出す者、団旗を掲げる旗手長に鎧のような皮と金具で出来たベルトを体に装着する者、旗棹に竿頭をつけ、あらかじめ旗手長からの指令のある、大団旗を結びつけ、一年坊はそれを三名で捧げて、左端で待ち受ける旗手長に「大団旗よろしくお願いします」と気合のこもった声をかける。団長が列の前に立ち、交友会長らと共に並ぶ観衆に頭を下げる、同時に団旗も地面すれすれまで降ろされる、旗手長の顔には朱が注がれる。大団旗は畳で十六畳もある。棹がしなる。棹は籐で重ねられ、漆黒の漆が施されている。棹の直径は6センチもある、それが旗手長の腕力でグンと引き起こされる。棹の野郎が、その力に負けて、クンと泣き声を上げる、団旗は紫紺、団長が観衆を背に向き直り、さあ、校歌だ。
 日本三大校歌の一つとされる大正九年、作曲、山田 耕筰、作詞は児玉花外による白雲なびく、駿河台、眉秀でたる若人がを、団長の「天下に冠たる明治大学校歌」の腹に響くような声を待って、吹奏のコンダクターのタクトが振られ、三角錐の団旗の竿頭に陽光がキラリと映える。団長の大きく鷲が翼を広げるような明治大学特有な華麗なテクが展開され、おお、明治の時に胸の前でMの字を作る。
 それから、地獄の合宿の開始だ。佐藤氏は体力があり、兎跳びもこなす、腕立てなんぞは三百も四百も平気な顔だ。毎晩、校歌、応援歌指導があり、また、明治大学にはやたらと応援歌がある。第一応援歌「紫紺の歌」、第二が「血潮は燃えて」 第三は「紫紺の旗の下に」 第四は「勇者明治」 第五は学生歌の「都に匂ふ花の雲」、よくもまああるもんだ。それも一番から長いものだと五番もある。
 それを真剣に覚えた時代もあった。合宿の最終日、納会で佐藤氏は酒を飲みすぎて素っ裸にされ風呂場で夜明けを迎えた。酒豪で先輩連も舌をまいた。
 この男は一級建築士をとり、身に過ぎた女房を娶り、岡山で暮らしている。女房は美容院を経営、それが繁盛して、佐藤氏は俗にいう髪結いの亭主、人もうらやむゴルフ三昧。人生六十年を遊んで暮らしている。
 なかなか、こうした人生カードを手にする者は少ない。皆、人生の辛酸にあえぎ、女房子どもの頸木(くびき・人生の自由を奪うもの)に悩まされ、いやいや日々を送るを常とする。ところが佐藤氏は人生を遊んで暮らした。
 こんな話がある。一年を二十日で暮らすいい男、これは江戸時代の相撲とりだ。これより少ない時間で一年を送るのが、一年を三日で暮らす御酉様(おとりさま・酉の市のこと)。おとりさまは、ばくち打ちの神様だ。佐藤氏はその神様の上を行った。一年を遊んで暮らすいい男。それも貧乏たらしく暮らすのじゃない。信号機のある交差点を思い浮かべろ。四辻にビルが建っている。その二ヶ所がかみさんの稼ぎで購入だ。
 そのビルの二階に明治大学の校旗が掲げられている。応援団中毒がここに現れている。ヤクザもテキヤも暴力団も、それがどうしたといえるのが応援団中毒だヨ。
 それでも、佐藤氏はキチンと大学を卒業され、建築事務所を開設されたが、「はちのへ今昔」はいい加減で、月謝が払えず中退だ。応援団も中途半端だが、人生の応援団、「日本救護団」を構成し、その団長になったゾ。
 佐藤征夫さん、地獄の三丁目からの帰還おめでとう。そして、岡山に「日本救護団」の支部を作って一緒に、世間を蹴飛ばして、また、肩を組んで歩こうナ。おお、明治その名ぞ吾等が母校、おお、 明治その名ぞ吾等が母校と大声上げて。

2009年5月16日土曜日

三日町にあった丸光1


丸光の話をする。こう書いたら佐々木聡は、丸光が話をしたと錯覚する。藤川優里市議の話をすると書いたら、藤川優里市議が言ったと錯覚しキイキイ言って騒いだ。
 盲信した佐々木聡は、このことを週刊誌に語り、連休に東京から週刊誌が来た。藤川優里市議から頼まれて書きましたか?
 そんなことはない、「はちのへ今昔」が独自に書いただけだ。この「はちのへ今昔」の文字も来週からは別のブログで「日本救護団」に変わる。今、移動作業中だ。
 さて、丸光だが、八戸に進出してきたのは昭和四十三年六月二十八日。この進出で、二十三日町から三日町に繁華街が移動した。この百貨店の総帥は佐々木光男。創始者は丸山とか丸岡光男とでもいうのかと考えていたが、佐々木だとヨ。どこかで聞いた名だナ。
 この進出年に佐々木は死んでいた。前年に六十三で逝去。
 佐々木はどうして八戸に出店したのか、それを探る。
郡山店を除く他の四店が、いずれも海岸線に沿った都市である。出光興産の出光佐三が敗戦直後の混乱のとき、内地はもちろん外地から引揚げてきた大勢の社員達を救済する手段として、ラジオ修理を全国的組織でやったことがある。その際営業所として選んだ場所が殆んど海岸沿で、業界が再興されたときそれらが全部出光の貯油基地に一変した。
「国策として昭和三十七年制定の全国総合開発計画に基づく新産業都市は有望。都市立地として、港と鉄道を同時に持っている街は発展性がある。東北本線等中央幹線に沿った都市は先ず、中央大手が狙って進出を試みるであろうから先手を打つ意味において海岸通りの脇線を結んで固めておく。」
結果としてみた場合、東北の太平洋岸を貫く国道四十五号線の完成により、丸光は仙台・石巻・気仙沼・釜石・八戸が見事に一本の線に連なった。
 青森県八戸市。東北地方の人々は別として八戸と書いて「ハチノヘ」と正確に読むひとは少ない。しかし、唄に夜明けたカモメの港、船は出てゆく南へ北へ、鮫の岬は潮けむり、のうた(八戸小唄)で名高い三陸漁場随一の港。うみねこで有名な蕪島。名作映画「幻の馬」の出生の地。さらに「忍ぶ川」の作家三浦哲郎の出たところと並べてくるとはっきりしてくる。
 青森県の南東隅に位置する叙情的なこの街も昭和三十九年。新産都市の指定をうけるや俄然時代の脚光を浴び、活気あふるる工業都市へと変貌を遂げつつあった。
 しかし街の急速な発展とはウラハラに、商業面での立遅れが目立っていた。
 既に佐々木の手許にある出店構想には、この都市の部分に赤で大きく二重丸がしるされてあった。
 そんな或る日、ひとを介して耳よりな相談が佐々木のもとに届いた。八戸きっての有力者である金入氏が新しい商業開発に並々ならぬ意慾を燃やし協力者を求めているという話である。
 佐々木が早速社員を現地に派遣して調べさせてみると、噂に遼わず金入氏は熱心な商業振興推進の先鋒であり、しかもそのために八戸きっての繁華街の中心部に在る自らの土地をその場所に提供しても差つかえないという意気込みであった。
 着々と進む新産都市づくりの力強い街の状況と睨みあわせ、商業発展の限りない可能性をみてとった佐々木は一も二もなくこの話を受けた。
 昭和四十一年四月には株式会社八戸丸光を設立。釜石店の完成をみてから僅かに九ケ月目というスピードであった。
 しかし一時はトントン拍子に進むかにみえたこの出店計画も、目抜きの場所によくある土地買収問題で難行した。大部分は金入の土地であったが、佐々木の店舗構想は更に大きなものであったために、隣接の土地をなんとしても手に人れねばならなくなってきたからである。
 父祖伝来の土地であったり、それぞれ長い間商売を続けけてきた歴史もあり、現に発展を目前にして居住者の土地に対する執着は並大抵のものではない。門前払いを幾度も味わいながら牛歩の如くねばり強く、着実に話を進めた。
 山積する難問題対処に、これまでの出店にかつて例をみなかった現地折衝駐在社員を家族ぐるみで常駐させた。当時のもっとも重要な最後の詰めの段階に任に当っていた佐藤功は、田舎における警察官派出所を通称駐在さんと呼ぶが仕事の内容は違っても、その苦労がよく分ると云っていた。
 結局難問題解決し漸く建築敷地面積二、七〇〇平方米、の八戸市はもちろん仙台以北最高最大の百貨店が登場。
 続

大番1

連続テレビ小説といえば「おはなはん」、これは1966年の一年間放映。これで全国に名が通ったのが樫山文枝、ほんとうはこの役は森光子が演ずるはずだったが、運命の女神のいたづらで、森が乳腺炎、代役が樫山に、話の筋立てがよく、大当たり。視聴率は56・4%。脅威の大ヒットだ。
この連続テレビ小説の第一作が獅子文六の「娘と私」。これもいい味を出した。1961年の一年間テレビドラマ。この獅子は劇作家、九州中津の出身、当然同郷の大先輩の福沢門を叩き、慶応大学へ進学。業界小説の第一人者。その獅子が書いたのが「大番」株屋の話だ。これが実にいい味を出しているが、冗長な部分が多い。それを省略し圧縮したものを分割掲載。
大番 1
その年の八月二十八日は、ひどく暑い日で、日盛りの午後一時三十五分に、姫路発の鈍行列車が、東京駅へ入った時には、機関車も、汗みずくで、フーフーと呼吸を喘いでいた。
吏京へ着いたら、職を見つけるのは、造作もないだろうが、それにしても、誰かの世話になった方が早道だろうと、ふと、俵子長十郎の兄のことを思い山したのは、昨夜の汽車の中だった。
 長十郎の兄は、弁五郎といって、東京の日本橋のソバ屋で、働いてるという。ソバ屋という店は、鶴丸町にも、姫之宮市にもないが、ウドン屋のようなものであることは、弁五郎が帰省の時に、本人の口から聞いている。日本橋という場所の、そういう特殊な店で働いているからには、訪ねていけば、すぐわかると、思っていたのである。
 ところが、改札係りは、忙しそうに、「そういうことは、広場の交番で訊きなさい」と、次ぎの旅客の渡す切符に、手を出した。
 広場という語も、交番という語も、彼には、初耳であったが、そのとおり真似て、人に訊くと、駅前の巡査の立ってる場所に、辿りつくことができた。
「え?日本橋の橋かね?それとも、日本橋区かね?」若い巡査だったが、親切に、丑之前の相于になってくれた。
「さア、どがいですやろう」
「日本橋の橋だったら、わかりいいが、日本橋区となると、広いからね。せめて町名でもわからん限り、教えようがないよ」
「なんぼ、広うても、ソバ屋いうたら、すぐ、知れますらい。日本橋の方角を、教えてやんなせ」
「君、東京は、ソバ屋が、非常に多いんだよ。日本橋区だけだって、何百軒あるんだか、知れやしない。それだけの目当てで、訪ねていくのは、ムリだよ……。一体、君は、どこから、何の目的で……」と、巡査は、職務的な訊問を始めた、
 丑之助は、包み隠さず、一切を迷べた。所持金が、八十幾銭ということまで、話したが、家出の原因だけは、ボカして置いた。
「君のような、無鉄砲な男が、時々やってきて、交番を困らせるんだ。どうだね、旅費は、何とかしてやるから、このまま、郷里へ帰らんかね。.肉親も、心配してるだろうし、第一、東京で宿無しになったら、どんな人間でも、不良化するからな。警察の厄介にならんうちに、郷里へ帰り給え……」と、型のような説諭が、始まったが、この陽気な家出人には、無効だった。
 「そがい、いいなはらずと、せっかく東京へ出てきたのですけん、早う教えてやんなせ」
 丑之助は、確信を捨てなかった。日本橋、ソバ屋、俵子弁五郎と三つの条件が備わっているのに、いかに東京が広いといっても、目的を達しない道理がないと、考えていた。百軒近いソバ屋を歩いたが、今日探せなければ野宿してまた、明日探せばいいと考えていた。茅場町裏のあるソバ屋へ入った時に、天プラでも揚げてるのか、芳香が特に烈しく、彼は、まったく抵抗を失い、弁五郎を訊ねることも忘れて、ベッタリ、椅子の上へ、腰を下してしまった。
「入らっしやい」女中が、注文を聞きにきた。
「ウドン、一杯、やんなせ」
「おウドンは、何に致します」
「何でも、かんまんです、十銭のを」
 彼は、ソバ謎を歴訪してる間に、もりかけ十銭という字を、どこの店でも見ていた。
 運ばれたウドンかけを、彼は、驚くべき速さで、食べた。なんという美味であるか。汁まで全部吸ったが、とても、一杯では、我慢ができなかった。三杯、統けて、丼をカラにした。
 八十銭あるわ。もう一杯食べても、何とかなろうわい。
 四杯目を、注文した時に、人ロから、積み上げた空のセイロを片手に、ハチマキをした出前指持ちが、帰ってきた。
「オータ(喘きの間投詞)、あんた、弁五郎はんやないかい!」
 丑之肋は、イスを撥ね飛ばして、立ち上った。
 丑之助は、勝利を味わった。
 見なはれ、やっと見んけれア、わからんもんや。わしア、弁五郎を探し当てたやないか。
 誰にともなく、彼は、心の中で叫んだ。
 ところが、やっと採しあてた俵子弁五郎は、帳場で眼を光らせてる、主人の手前もあるのか、至って非友情的な態度で、
 「お前や、何しに、東京へきよったんぞ」
 と、頭ごなしに、叱りつけた。
 丑之肋は、一向に怯まず、頗る人に会った嬉しさを、満面に表わしながら、大きな声で、出奔の顛末を、話し始めた。ソバ屋の店先きとしては、異様極まる風景だから、二、三の客も、女中さんも、忍び笑いをして、見物している。
「おい、弁どん……」
 果して、帳場に坐ってる主人から、声が掛った。
「お客様のご迷惑だぜ。そんな話しは、裏へ行ってしなさい」
 弁五郎は、ソレ見ろという顔つきで、シブシブ、丑之助を連れて、裏口へ回り、釜場の熱気が、ムーッと流れてくる路地で、立ち話を始めた。
 「なんちゅう、トッポ作かいね。アテもなしに、国を飛び出してきよって……東京はな、今ひどい不景気やけん、職なぞありはせんぞ。量見変えて、早よ、国へ戻れ」
 俵子弁五郎のいうことは、結局、東京駅前の巡査と、同じなのである。
「そがいにいわんで、この店でええから、わしが働けるように、頼んでやんなせ」
 「いけんてや。お前のような田舎者が、自転車乗って、よう出前に歩けやせんわい」
「それでも、弁やんも、最初は、田舎やッつろ」
 丑之助も、負けていなかった。ウドンを三杯食ってから、一層、腹がすわってきたような、気分なのである。
「とにかく、わしア、お前の世話はできん、国へ戻れや」
「ほたら、職は自分で探すけん、それまで、ここへ泊めてやれんなせ」
「阿呆やな。そんな勝手が、雇い人のわしにでくると思うとるんか」
 丑之助のネバリが強いので、弁五郎も、声高に、争ってると、
「弁ちゃ,ん、ザル三つに、冷麦一つ、大急ぎで、xxさん……」
 と、女中が、出前を命じにきた。
「おい、ほんまに、量見変えないけんぜ」
 弁五郎が、店の方へ、立ち去った後で、さすがの丑之助も、これは、容易ならぬ事態が生まれたと、考えずにいられなかった。
 弁五郎、頼むに足らず。
 あの様子では、全然、丑之助を庇護しようとする意志が、ないらしい。彼も、東京へ出るうちに、すっかり、郷土愛を失ってしまったにちがいない。そんな男にすがっても、無益である。この上は、頼める人といったら、東京駅前の巡査だけである。あの巡査も、彼に帰郷を勧めるだろうが、既に販京の上を踏んでるのに、オメオメ、国へ帰ることはない。その決心を、あの巡査に話して、何とか、職業の道をつけてもらおう―
 そう思って、再び、東京駅へ引き返すべく、ズックのカバンを、肩にかけた時に、
 「あの、ちょいと……旦那さんが、あんたを呼んでますよ」
 と、また、女中が、姿を現わした。
 あ、そうか。
 彼は、先刻のウドンの代を、まだ払ってないことに気がついた。その勘定を、催促してきたにちがいない。こうなると、夢中で食ったウドン三杯の代金が、惜しまれるが、今更、仕方がない。
 女中に導かれて、熱い釜前を通り抜けると、帳場にたってる畳敷きがあって、そこに、主人が坐っていた。
「お前さん、何かい、東京で働きたくて、国を飛び出してきなすったのかい?」
 彼は、丑之助の頭から足の先きまで、ジロジロながめながら、訊いた。
 「はい、そうだすらい」
 「体は、丈夫そうだね」
 「はい、病気は知らんですらい」
 「年は、いくつ?」
 「十八だすらい」
 「どうだね、一所懸命、働く気があるかい」
 「はい、働くことやったら……」
 丑之助の瞳が、明るくなった、ソバ屋の主人は、どうやら、彼を雇い人れる気があるらしい。
「弁五郎に負けんで、働きますけん、どうぞ、使うてやんなせ」
「いや、あたしの家は、人手が足りてるんだ。お顧客さんから、小僧を一人頼まれてるんだがね。太田屋さんという株屋だが、大変、用の多い家だよ」
 「用の多いのは、かんまんですが、カブ屋ちゅうのは、何商売だすかいな」
 これには、ソバ屋の主人も、苦笑したが、さて、一口には説明がつかないのに、弱った。近代資本土義の申し子なんて、言葉を、彼は知らない。
「別に、悪い商売じゃないよ。まア、住み込んでみれば、わかるさ。といって、お前さんの仕事は、商売と関係はないんだ。店の掃除と、使い走りの小僧が、欲しいというんだからね」
「それやったら、一所懸命やります。あんた、さっち(是非)世話してやんなせや」
 丑之助は、顛を、ぺこぺこ下げ、そして、懐中に手を入れ、
「先刻のウドン、なんぼだすかいな、お払い申しますけん」
 と、ご機嫌をとるような声を出したが、
「お前さんから、金もとれないよ」と、主人は、横を向いた。
 そこへ、弁五郎が、出前から、帰ってきた。
「お前、こがいな所へ入り込んで、何ぞ」
 と、彼は、丑之助を叱りつけたが、主人は、
「そう、ガミガミいうもんじゃない。国の者の面倒は、見てやるもんだよ……。ところで、弁どん、坂本町の太田屋さんから、小僧を頼まれてるから、この人を世話しようと思うんだがね、あすこの旦耶が、お宅へ帰らないうちがいい、すぐ、連れてってやらないか……」
 その夕から、丑之助は、坂本町の現物店、太田屋に住み込む身となったのである。
 ほんとに、運のいい、丑之助だった。家出人が、東京へ着いて、その日のうちに、職にありつくなんて、滅多にあることではない。それというのも、日本橋区のソバ屋を、一軒一軒、尋ねて歩こうという根気に、運の神様も、根負けがしたのかも知れない。そして、頼りにした弁五郎が、意外に薄情だったことも、彼の好運に味方した。ソバ屋万久庵の主人も、弁五郎が普通の友情を示していたら、惻隠の情なぞ、起しはしなかったろう。
 そして、丑之助が、微々たる現物屋であるが、とにかく、株というものを扱う店に、ワーンジを脱いだということが、生涯の運勢に、関係することになったのである。
彼が、最初の奉公を、乾物屋とか、履物店とかで、始めたとしたら、恐らく、この小説は、生まれなかったと、考えられる。
 しかし、その晩の丑之助が、維からもチヤホヤされた、というわけでもなかった。
 「よし、置いてやるよ。ただし、月給は、五円しかやらないよ」
 太田屋の主人は、ゴマ塩の頭を、角刈りした男だったが、ロクロク、丑之助の身許も訊かないで、雇い入れをきめてしまった。まるで、駄犬でも、飼う時のような態度だった。
 五円の月給というのは、当時としても、低額に過ぎた。女中さんでも、七、八円から、十円の給料だったのである。しかし、そういう相場を知らない丑之助は、何の不服も、感じなかった。知っていたとしても、彼は、東京で、自分を雇ってくれる人に対して恩恵を感じたろう。
「それから、誰か、この男を、湯に連れてってやらないか。何だか、少し、臭うよ、この男は」
 主人は、本宅へ帰るために、履物へ足を下しながら、ニコリともしないで、そういった、店の者たちは、声を揚げて、ドッと、笑った。
 その時から、丑之助に対する軽蔑が、始まった。
「名前、何てえの?」
「赤羽丑之助だすらい」
「国は?」
「四国だすらい」
「モのダスライっていうの、やめねえか。気になっていけねえよ」ゝ
「やめますらい」
「まだ、やってやがら………君、万久庵の弁公の友達らしいな」
「友達の兄だすらい」
「何でもいいや。これから、弁公が働定とりにきても、おれの分は催促しないように、頼んでおくれよ」
「そら、いけんですらい、そがいなことは……」
 やがて、彼は、新どんという一番若い小僧と、銭湯ヘやられた。あんな大きな浴場も、風呂桶も、見たことがなかった。鶴丸町の森家の湯殿を覗いて、立派なのに、ビックリしたことがあるが、その比ではなかった。東京の偉大さを、痛感しないではいられなかった。
「おい、君、氷水飲んでいこう」
 新どんは、氷屋の前を通ると、丑之助を誘った。
「いや、わしは……」
 彼も、一日歩き回って、湯に入ったので、喉がカラカラだが、所持金のことを考えた。
「いいよ、オゴってやるよ」
 新どんは、事もなげにいった。
 二人は、氷アズキを、一杯ずつ食べた。
「わしァ、こがいにウマい氷水を、始めて、食べよりました」
 丑之助は、お世辞でなく、感想を述べた。
「驚いたね、君の国にァ、氷アズキないのかい。じゃア、今度、アイスクリーム、食わしてやらア。この方が、もっと、うめえよ」
 勘定を払う時に、新どんは、小僧服のポケットから、ジャラジャラと、五十銭銀貨をつかみ出して、その一枚を、抜き出した。丑之助は、横眼で、それを見ていて、ドキリとした。
 新どんの年齢は、彼と同じぐらいらしいし、店員のうちの最下位らしいが、それなのに、こんなに、金を持っていて、惜しげもなく、彼に氷水をオゴってくれた。察するところ、よほど、収入があるのだろう。彼の給料は、五円ときまったが、新どんの方は、五十円ぐらい貰ってるにちがいないと、羨ましかった。
 店へ帰ると、大勢いた店員の姿が見えず、残ってるのは、新どんより、少し年上に見える小僧一人だった。
「由どん、鈴木さんや、松本さん、もう帰っちゃったの」
 新どんが、訊いた。
「ああ、みんな、オタノシミだよ。おれは、このところ、大曲り(相場で損をすること)だから、店で飯を食うより仕方がねえや」由どんという小僧も、黒いセルの小僧服を着ていたが、上着は、脱いでいた。どうやら、小僧は、この二人らしく、以前、三人いたのを丑之助で、補充するのであろう。
 いつか、日が暮れて、飯時になった。店の片隅に、チャブ台が置かれ、サバの煮たのと、香の物だけが列んでいた。六十ぐらいの爺さんが、炊事の世話をして、女気はないらしかった。
 丑之助は、二人の間に畏まって、座を占めたが、飯を食い如めると、職を見つけて、安心したせいか、実にウマかった。汽車弁の白米も、ウマかったが、大きな飯ビツに充満している米粒の味は、また別だった。先刻、ウドンかけを、三杯も食ったのに、いくらでも入った。
 翌日から、丑之助は、丑どんになり、小僧の制服を着る身となった。 冬は紺のヘル地、夏は黒いセルの詰襟服で、黒いボタンがついてる。大会社の給仕の服だが、それを、株屋街の小僧さんに、数年前から、一斉に着用させるようになったのも、震災後の興隆気分と、何か関係があったかも知れない。それ以前は、角帯前垂れ姿で、呉服屋の小僧さんと、何の変りもなかった。続

2009年5月15日金曜日

弱者救済実践報告1 長坂保育園の巻

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
 その実践が長坂保育園だ。これは根城にあるそうだ。存在を電話帳で知る程度だが、ここの待機児童が14名。保育内容が評価され、入所希望者が多いところだそうだ。
 これは子ども家庭課からの聞き取りで判明した。51億円が保育料として支出される。乳幼児は一月16万円だ。そうなると、一年間会社に行かず育児休暇で子どもを面倒見て、勿論、自分の子だから当然ではあるが、その間、16万くれてやれば、子どもは育ち、保育園での手荒な保育の心配もいらぬが、昨今の母親は猫より悪く、自分の子を殺すのもいるが、それはさて置き、幾許かの給料をあてにするより、16万円を一年間支払えば、保母の数を乳幼児に何人などの制限もなく、伸び伸びと子を育てられる制度こそ大事だ。
 妙に保育園に巨額な保育料を支払うより、子育て休暇で実母に金をやり、情愛のこもった保育をさせることだ。社会福祉法人の看板の陰で悪辣なことをし放題、野放し状態が現状だ。
 理事会は名ばかり、実体を知らせず理事の印鑑を自前で用意、総会を勝手に一名の参加者もなく開き、利益を国債にし、施設老朽化の立替に備えるは泥棒という。
 立替の原資は給料の中から出せ、この話をしていると今回の焦点がボケるので、これもシリーズで糾明だ。
 さて、長坂保育園は定員90名、この25%増を国が認めた。「日本救護団」団長の小川の友人、小泉が総理大臣をしていた時の話だ。
 90人の25%増は112・5人、それで八戸市役所は112人まで容れた。ところが0・5、これは切り捨てだ。半分でも人間だ。これを切り上げろと噛んだ。
○国からの保育料は25%を超えると出ないのか?
● そうではない
なら、切り上げで一名増員にしてやれ、直ちに今から、その手続きに入れ。明日は長坂保育園に行き、それが実行されたかを確認するぞ。
さて、コケコッコーで夜が明けた。ボツボツ長坂保育園に出向いて確認だ。
狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため今日も楽しく一日を送るゾ。高齢者になって、こうした楽しみがあるとは知らなかった、知らなんだ。

2009年5月14日木曜日

八戸市役所人事異動に異議あり

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
子ども家庭課長の貝吹賢一氏が役所を退職された。身だしなみのいい、腰の低い、そして仕事熱心な紳士だ。この好人物を八戸市役所は失った。
 その理由は市民病院への異動。これに氏はやりのこした、積み残した仕事があると、異動を拒否した。これは当然の権利だ。
 大体、今回の異動の愚かなことは、万年赤字垂れ流しの市営バスの責任者を防災室長とし、嘘ばかり抜かした防災室長をバスの責任者にした。これをデンスケ賭博という、右に左に置き換えて、市民の目玉をごまかした。
 大体、男には二種類ある。男っぽい男に女っぽい男だ。オカマの話じゃない。男の話だ。大木がある。夏には大きく広げた枝の下で、人々は暑さをさけて憩う。にわか雨には木陰で雨宿りだ。遠くから見る人には、ランドマークとして、心の拠り所にもなった。
 貝吹賢一氏はまさにそれだった。この課は51億円の保育園への補助をする、市役所でも指折りの支出が多い課だ。その保育園は社会福祉法人、これらが定期総会もせず、隠した所得で国債を購入、無税を悪用しシコタマ悪銭を貯め込んでいる。
 これらを解明し、不届きな社会福祉法人糾弾の狼煙を上げるのが今、そのための「日本救護団」だ。諸悪を潰し、金の流れを透明にし、庶民の難儀を救う。
 補助金は支出行為にそれぞれ、領収書を添付しなければならない。積年、役所はこれを見過ごし、業者と癒着を繰り返した。
 今までは月刊誌、ブログで糾弾したが、これからは都度、街頭で宣伝カーで糾明していく。もっと、庶民に我々「日本救護団」の運動を知らしめる必要がある。昨日から、「日本救護団」は複数で行動している。佐々木泌尿器科の倅が、「はちのへ今昔」は暴力団と二人で市役所を脅かしていると書いたことがあったが、一人でも世直しが出来ると盲信していただけだ。そんなことで世の中は変わらない。人が嫌がることを徹底して行動し、相手に存在を認識していただかなければ、ゴミ、塵の類でしかない、あるいは無いほうが喜ばれる。ところが、人間の面白いところは自ら行動するところにある。
 相手に認識してもらうことから始まる、それにはうるしさい、面倒だの顔に現れるささいな表情から悟ることができる。相手の認識度が深まったのだ。武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業で、拡げる努力は並大抵じゃない。
 さて、ランドマークになれるような大樹、大木は台風にも立ち向かう。うまく凌げればいいが、ダメなときは倒れる。ところが柳はナヨナヨして風を受け流し、台風も難なくこなす。これが女っぽい男だ。その場をなんとか取り繕い、その場で生きることに執着する。だから、ああでもないこでもないと、相手に迎合しながら、立場を理解させる。
 大樹は折れるときは倒れる、柳は残る。貝吹氏は大樹だけに折れる。人事異動を再考すべきではなかったのか。人事課の考えに間違いはなかったのか。既定路線を押し通すことで咎めが出た。それが、辞任だった。惜しい人材だった。何十年もかけて役所は人物を育てる。それが最後の最後で折れた、倒れた。いや、倒したのサ。
 総務部長の猛省をのぞむ。

2009年5月13日水曜日

「はちのへ今昔」廃刊

ながらくお見せしたが、間もなく、このブログは閉鎖し、世直し政治結社「日本救護団」を立ち上げる。
 月刊誌、ブログを通じ、行政の矛盾にぶち当たり、これを是正することこそ、己が稼業と知り、政治結社の届けを昨、五月二十一日青森県選挙管理委員会に提出。公認の政治結社「日本救護団」が誕生。
 これからは、「はちのへ今昔」単独の動きではなく、団員ともども行動する。街頭宣伝車を大型ベンツと定め、ただいま工場にて改装中。6月からは街頭にて、主義主張を訴え始める。
「日本救護団」の趣旨は団則の中に記載されている。
日本救護団団則
第1条(名称・所在地)
  本団は、日本救護団と称し、主たる事務所を青森県八戸市に置く。
第2条(目的)
  本団は、生活弱者・障害者及び高齢者の救護を目指し、その実現にむけあらゆる政治活動を行い、あわせて青森県政、八戸市政の発展と県民、八戸市民生活の向上を図り、さらに団員相互の親睦を深めることを目的とする。
第3条(事業)
  本団は、前条の目的を達成するために次の事業を行う。
   1 講演会、座談会等の開催
   2 団報等の発刊及び配布
   3 関係諸団体との連携
   4 その他本団の目的達成のために必要な事業
第4条(団員)
  本団は、第2条の目的に賛同し、入団申込書を提出した者をもって団員とする。
第5条(役員及び選出と任期)
  本団に次の役員をおく。
  団長、副団長、幹事、会計責任者、事務局長、監事。
団長は総会において選出し、それ以外は団長が任命する。役員の任期は2年とする。ただし、再任を妨げない。
第6条(団議の種類・招集)
  団長は、毎年1回の通常総会その他必要に応じ、臨時総会、及び役員会を招集する。
第7条(経費)
  本団の経費は、団費(年額5000円)、寄附金その他の収入をもって充当する。
第8条(団会計年度及び団会計監査)
    1 本団の団会計年度は、毎年1月1日から12月31目までとする。
    2 団会計責任者は、本団の経理につき年1回監事による監査を受け、その監査意見書を付して総団会議に報告する。
 附則 本規約は平成21年5月10日から実施する。
 
趣旨に賛同のかたは45・3344「日本救護団」まで連絡を乞う。庶民の声を国・県・八戸市に必ず届ける。

2009年5月12日火曜日

司馬の東條英機3

日本軍が深刻な砲弾の欠乏になやんだ最後の大会戦である奉天会戦もそうだった。日本車はありったけの兵力を横一線にならべてロシア軍に対し、自分の大を見せた。その実用兵上必須ともいうべき予備隊(後方に控えさせる兵力)まで前線にくりだして横の線をながく大きくした。実際は絹糸のようで、どの部分にも厚味がなく、もしロシア車がその気になれば突きやぶれたのだが、ロシア軍はそのつど幻惑されて後退し、結局はアメリカ大統領による調停によって、戦いそのものを終えた。
 敗者のロシア陸軍はその後、このときの戦訓を研究し、やがてソ連軍に継承され、かれらは「縦深陣地」という新奇なものを考案した。それがソ連の野戦における型になり、ノモンハンの戦場にも、その祖形というべきものが登場し、攻勢主義の日本軍をそのつどくだいた。縦深陣地という野戦陣地は、かつての日露戦争のときのように横一線でなく、タテにふかい矩形なのである。
 タテ長の矩形の陣地内部は縦横濃密に火線が構成され、たとえば攻撃主義の日本軍の戦車がとびこんできても、まず前面のピアノ線でキャタピラーをからめとる。ついで対戦車砲でうちとってしまう。たとえ日本軍がわずかに内部に入ったところで、側防火器とよばれる火力でくだき、また攻撃主義の日本の歩兵部隊が肉弾突撃してきても自動小銃によってなぎたおすというものであった。
 この双方のちがいは、日本陸軍が日露戦争の肯定から出発したのに対し、ソ連陸軍は否定から出発したことによる。すでに日本の参謀本部も陸軍大学校も、日露戦争後、墨守しつづけてきたお家芸の対ソ戦法がなんの役にも立たなくなったことを知りはじめていた。しかしそれを反省するまもなく、二年後にかれらは日本国を太平洋戦争に突入させるのである。
 そういう無思慮集団のたばねとして東條がいた。
 アメリカにはゆらい戦術というものがありません。わが陸軍にはあります。という意味のことを、東條の子分のひとりである軍務局長・陸軍少将佐藤賢了が国会の答弁でいったことがある。
昭和十八年三月一日の衆議院決算委員会での質問に対し、佐藤が、アメリカ軍について詳細なる解剖を加え(「朝日新聞」)て、以下のように答弁した。
 一、米陸海軍は実戦的訓練にとぼしい。
 一、大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
 一、米陸軍の戦術はナポレオン戦術にあって、多くの欠陥をもつ。
 一、政略と軍略の連繋が不十分きわまる。
 正常な人間のいうことではない。
 明治時代のある時期まで、陸軍大学校には教科書がないということが誇りとされた。が、その後、教科書ができることで、日露戦後の用兵思想は慣習として集積された。終戦のときの陸軍大臣で、終戦とともに自決した阿南惟幾は、大正七年(一九一八)、陸軍大学校を卒業した。かれは和平原に反対し、あくまでも抗戦を主張し、その理由の一つとして、「わが陸軍はまだ主力決戦をやっていない」といったといわれる。日本陸軍は現実には潰滅してしまっているのに、学校でならったこと(主力決戦)をまだやっていない、というのである。
 東條とは何者か、などということを語る必要もない。繰りかえしいうようだが、かれはたいていの事務所に一人はいる謹直な書記といった資質のひとだった。
 カミソリという異名をもったほどに事務やその運営についてこまごまと遺漏なくやる一方、他人の事務的ミスをめざとく見つけ、きびしく指摘したりした。
 が、独自の世界把握の思想があるわけでもなく、人生観についても借りものでない哲学をもっているわけでもなかった。陸海軍の実勢さえ知らないのに、格別な軍事思想をもっているはずもなかった。とくにあるとすれば、士官学校時代に学んだ。弱気になるな必ず勝つと思え。味方が苦しいときは敵も苦しいのだという素朴な戦争教訓だけだった。
 かれは、卵形の頭をもっていた。メガネと口ヒゲを描くだけで似顔ができ、一種の雄弁家で、鳴る薬曜といった感じでもあった。軍隊には、中隊長(ふつうは大尉)以上の団隊の長は精神訓話という演説をする習慣があり、かれもそのことに馴れていたのか、よく演説をした。
 『東條首相聾明録』(昭和十七年、誠文堂新光社刊)という本がある。
 開戦より六ヵ月前の昭和十六年六月十三日、かれは早稲田大学にまねかれて講演した。ときに五十八歳、陸軍中将で、第三次近衛内閣の陸軍大臣だった。
 このときの演題は、「学生諸君に要望す」というもので、まず世界情勢を説き、欧州においては「大部を席捲したる盟邦独伊は……疾風枯葉を捲くの電撃作戦に成功し」といい、一方において英国は「血みどろの大決戦を展開」し、米国については「授英態度は日一日と硬化しつつあるのでありまして」といったぐあいに平板につづいてゆく。
東條は自分自身について政治家とよぱれることをきらった。が、それなりに政治的能力を発揮した事歴があった。第三次近衛内閣のとき、中国からの撤兵問題が出た.東條は撤兵問題は陸軍の生命にかかわる、絶対に撤兵しない、と主張しつづけて、結果として近衛内閣をつぶした。
 あとたれが首相をやるか。陸軍さえおさえれば国がすくえるという良識をもった要人が多くいたが、ただかれらをおさえるだけの政治力をもった首相適任者はもはやいなかった。前首相の近衛文麿は、皇族しかないだろうと考えたりした。
 ところが、おもいもよらぬことに、東條そのひとに大命が降下してしまった。
 当時、内大臣(宮内大臣とはべつ)というふしぎな職があり、一八八五年以来、政府ではなく宮中に設けられてきた。この当時の内大臣は、木戸幸一だった。大正末以来、西園寺公望がその任を負ってきた。その西園寺が昭和十五年になくなると、内大臣の木戸幸一がその任を負うた。その木戸が、東條を推したのである。
のち、東條は、戦況が悪化するとともに、全国を兵営にしてしまうというふしぎな全体主義を進行させた。また世論を閉塞させるために、本来、陸軍のポリスであるはずの憲兵をかれは政治警察のようにつかい、恐怖政治を布いた。
 東條政権の後半は、不評判だった。しかしながら、首相としてのかれの生みの親だった木戸内府(内大臣のこと)だけはかれをかばい、支持しつづけ、さらには東條を批判する声や意見、あるいは戦況の実態については、いっさい奏上しなかった。
 まことに、木戸は明治憲法国家を滅亡させるための要の役をなした。かれが酋相としての東條を生み、その政権を維持させた。国家も民族もほろびようとしているなかでも東條がその座にいることができたのは、単にそれだけの事情だった。ついでながら、この場合、天皇は、なにをすることもできなかった。
 明治憲法にあっては、天皇は自分自身の発意による政治行動はせず、すべてその衝にある者(この場合、木戸や東條)の輔弼(明治憲法の用語)にまかせるということが、あるべき立憲的態度とされてきた。
 となると、当時の日本をうごかしていたのは、東條という木偶で、それをささえているのは木戸という黒衣だったことになる。こういう形態も仕組みも、明治以来かつてないものだった。戦後、明治をふくめた日本の体制について天皇制国家などと断定されたりもしたが、そういうことは、東條時代だけのことで、他の時代にはない。
 さかのぽったところでせいぜい十年程度で、そのもとはといえば、軍が、統帥権という憲法解釈上の慣習の項に入るべき大権をことごとしく擁し、本来の三権(立法・行政・司法)を超越するものとして魔法の杖のようにつかいはじめてからのことである。
 どのような超法的行為でも、統帥権をもちだすことによって一見合憲的になるなとは、明
治時代、憲法草案者の伊藤博文たちが生きていたころにはおもいもよらないことであった。
 東條は、日本国をヒトラーのドイツに似た全体主義にしたかったのだが、明治憲法が停止されているわけでもないために、臣道ということばをキーにして、国民の一人一人をステロタイプの小さな缶のなかにとじこめようとした。人間を成り立たせている精神的要素のほとんどをとりのぞいて臣道だけに縮小しようというもので、のちに、この時代のことを。天皇制ファシズム’などというのは、そのせいでもあったろう。臣道などというふしぎなことばは、東條以前、近衛内閣のころからつかわれはじめたが、戦時社会における唯一の国民精神の規範にしたのは東條であった。
もはや、東條の驀進を阻む機関も、その非を鳴らす機関もなくなった。
 独裁者はつねに自分の死を質草に入れて成立している。東條が国家と民族をほろぼす、とおもったひとびとにとって他の薬殺がなく、東條の死をつくりだすしかなかった。
 が、東條は他の国のどの独裁者よりも凛然としていた。
 かれは、官邱への通勤にはオープン・カーをつかい、殺すなら殺せというふうに自分を露出していた。
 かれは、一種のひま人だった。庶民の家のゴミ箱をつつくのが大好きで、それをすることで国民が無駄をしていないかどうかを(つまり戦時経済がどうなっているかを)しらべたりした。少尉か中尉がつとめる週番士官のようなことを宰相でありながらやっていた。そのような点検(軍隊用語)をするためにも、オープン・カーをつかった。

2009年5月11日月曜日

司馬の東條英機2

 のちに、戦争の末期、右のような銃さえ十分ではなくなり、東條英機によって民間人の竹槍による訓練が奨励されるようになった。東條は、右の陸軍准尉以上に陸軍准尉的だった。
 たとえば、軍事の専門家なら、東條がいくら陸軍軍人とはいえ、当然、対米戦争を決断するにあたって、日本海軍の成りたちとしての本質や実力も知っているべきだったろうが、ほとんど無知にちかかった。
 当時の日本海軍についてひとことでいえば、長期戦には耐えられなかった。日本海軍には固有の戦法があって、仮想敵国の主力艦隊が日本近海(日露戦争でいえば、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストック港にむかうべく入ってきた対馬海峡)に接近したとき、総力をあげて(連合艦隊を組んで)これを迎えうち、撃滅するというものだった。くりかえすと、日本列島付近でまちぶせして主力決戦をするということである。
 ひろい太平洋で戦うようにはできておらず、従って、連合艦隊は一つきりのセットしかなく、一会戦で消耗すれば、それっきりのものであった。
 もともと、当時の日本としてはそれでよかった。大海軍というのは、国威などという国家的虚栄でもつべきものでなく、地球規模の植民地をもつ大帝国(十六世紀のスペインや十九、二十世紀初頭の英国)にとっての実用品というべきものだったのである。
 植民地大帝国は、世界じゅうの植民地を結ぶ商船隊の保護なくして成立しない。
 ただしアメリカ合衆国の場合は、本国じたいが長大な海岸線をもち、かつ大西洋と太平洋にわかれているために、大艦隊は最低二つのセットが必要だったし、それに二十世紀初頭、フィリピンを植民地にしたために、そのぶんだけ海軍力をふやさざるをえなかった。
 日本の場合、かつてのスペインや、盛時の英国のような地球規模の植民地があったわけではない。
十九世紀末、日露戦争の前段階、ロシア艦隊に対抗するために大海軍を建設せざるをえなかったのである。
 日露戦争でロシア艦隊を沈めることに成功したあと、日本としては二十世紀後半の英国のように海軍を縮小してもよかったのだが、軍の縮小は軍を構成する職業軍人の首切りを意味するため、抵抗が多く、とうてい不可能だった。幸いというわけでもないにせよ、日露戦争の前後からアメリカがフィリピンに対して本格的な統治をはじめたために、日本海軍は、仮想敵をアメリカにかえた。しかもその仮想敵は、日本海軍が思うようなコースをたどって日本列島にやってくることになっていた。
 つまりかつてバルチック艦隊が沖縄の列島沖をへて対馬海峡に入ってきたように、来たるべきアメリカ艦隊も、フィリピンを中継基地として北上してくると見、そうあらねばならぬとしていたのである。
 この机上の仮定は、海軍の存亡を賭けたほどに牢固としたもので、その仮定をマスタープランとして、二十世紀のはじめごろから、建艦をし、戦術をたてた。
 たとえば、潜水艦にしても、ドイツのUボートやアメリカの潜水艦のように通商破壊が主任務ではなく、日本の場合、フィリピンから北上するであろうアメリカ艦隊を、日本への途中、海面下でまちぶせしてすこしずつ艦艇を減らさせ、のちにおこなわれる艦隊決戦のときの敵兵力を軽くしておくというために存在した。
 このように、軍事という一面からみても、戦争というもののおろかしさがわかる。敵が都合よくフィリピンからやってくるなど、妄想のようなものであった。
 しかし妄想を公算の大きさというあいまいな言葉に置きかえられると、いかにも妥当性を帯びる。
 この妥当性の上に海軍の基本戦略がたてられ、予算のかたちで国民に税負担が強いられた。それが、基本としての日本海軍というものであった。
 この基本戦略は、太平洋戦争がはじめられる二年前の昭和十四年でもなお維持されていたことは、海軍大学校に入った知人からきいた。兵棋演習においてくりかえしシナリオが演じつづけられていたという。あたかも、日露戦争の再演だった。
 兵棋演習というのは、駒を進退させているうちにほぼ両者の実勢がわかる。敵味方が。主力決戦をして、日本の損害が四割ですむ場合もあったし、ときに六割の損害をうけて敗北することもあった。つまり勝っても負けても日本海軍そのものが半身不随になるわけで、連合艦隊がそれっきりしかないためにそのあとの戦争の遂行などはできなくなってしまう。
 要するに、日本海軍は、世界を敵にまわして戦うようにはできていなかった。
 ついでながら、兵棋演習を裁定し、評価する戦術教官のことを統裁官という。さきにふれた私の知人の海軍大学校学生が、内心、戦争はその後もつづくのに、この主力決戦で幕というのはどういうことだろうとおもい、あるとき統裁官にきいてみたという。
「これでおわりでしょうか」
「これでおわりだ」と、統裁官はいった、という。さらに知人が質問をかさねると、統裁官は一段と大声で「これでおわりだ」と言いかさねた。おそらく実態を察せよ、ということだったのだろう。
 東條は長年、軍で衣食してきた。たとえ陸軍といえども軍事の専門家である以上、海軍の基本的な形質を知るべきだったとおもえるが、とてもそういう知識をもたなかった。たとえ海軍がその実態を陸軍に教えなかったからといって、この程度の把握は自分の頭でまとめることができるのである。
 結局、かれらは、太平洋戦争をやった。
 日本にとって戦争をする国家としての資格を欠いていたのは石油を産出しない国であるということだった。二十世紀のある時期から、軍艦も陸軍の車輛も石油でうごきはじめるようになっており、このため戦争を継続する以上は産油地である南方のボルネオその他をおさえる必要があった。そのためにぼう大な陸軍兵力を南太平洋の島々に展開せざるをえなかった。
 この大作戦は、日本陸軍の伝統的用兵思想とも相反するものだった。伝統的用兵思想とは、明治三十年前後、陸軍参謀本部でつくられ、かつ日露戦争で成功したため、昭和になってもその用兵上の型が牢固たる習慣になった。
 日本陸軍の型というのは、まず攻勢主義であることだった。
 ついで、兵力を集中して短期決戦によって敵の野戦軍主力を撃滅するという思想だった。短期でなければ補給がつづかない。
 これらについては、日露戦におけるいくつかの大会戦が、その成功例になっていた。この慣習化した思想のためには、敵主力が都合よく一定の戦場に集中してくれないとこまるのである。むろん、海軍と同様、敵がこちらの慣習用兵の注文に応じてくれるわけではない。が、海軍と同じように、それを願望した。
 つまりは、陸軍の場合も、敵が注文に応じてくれるという願望の上に基本用法がなりたっていた。
 さらに、短期決戦であるためには、日露戦争における日本の首脳がアメリカ合衆国の大統領を仲裁役にひきこんだように、いつの場合でも中立的な友好国を用意しておく必要があった。
 中立的な友好国を得るには、世界の嫉妬心や猜疑心あるいは人道主義的世論を刺激することは極力避けねばならないが、軍の謀略による満洲帝国の樹立(昭和七・一九三二年)や、中国本土に兵を入れて四方を駆けまわらせ、中毒患者のようにその事変をやめることができなかったことなどから、日本は国際的に孤立した。
さらには、日独防共協定(昭和十一・一九三六年)を結ぶにいたって、わずかな友人を得て大量の敵をつくった。つねに仲我国を想定しておくという戦略思想は、軍人のほうから忘れた。満洲事変から日独伊三国同盟にいたるまで、すべて陸軍が主唱し、主導した。
 東條やその陸軍仲間が陸軍大学校で学んだ用法は、すでにその実をうしなっているはずだった。たとえば昭和十四年のノモンハン事変のソ連軍の新戦法によって、くじかれた。ソ連軍は、日露戦争の敗北についての戦訓をよく研究し、あたらしい野戦形式をとっていた。
 このことについてややくわしくいうと、日露戦争における満洲の平野での数次の大会戦では、日露ともに鷲がつばさをひろげたように横に展開し、たがいに対峙した。たとえば遼陽会戦では双方二万人以上の損害を出しながらも、ロシア軍が後退してくれたことによって日本軍が勝った。

2009年5月10日日曜日

司馬の東條英機

東條英機(一八八四~一九四八)という名には、滑稽感がともなう。
 むろん、昭和史という暗澹とした時代を、いっそユーモラスにみたいという後人の衝動から出た滑稽惑であって、歴史の惨禍はそれどころではない。
 まして東條その人に諧謔精神があったわけではない。このひとにそんな高度な批評能力をともなう感覚などはそなわっていなかったし、たとえば明治時代の小学校教員のようにまじめで、篤実な小農のように働き者というだけの人だった。
 そういうひとが明治憲法による日本国をほろぼしたことは、たれでも知っている。
 しかし同時に、たれもそうは思っていない。東條が日本をつぶすほどにえらかった、などとは、むかしもいまも、たれもおもっていないのである。
 ドイツの場合、ヒトラー一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。
 その程度の人が、憲法上の(慣習もふくめた)あらゆる権能をにぎって、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが、昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にもおもっていなかったのである。みじめこの上ない。
 机というものは単に木製か鋼板製の物質にすぎない。ただ、日本では、官僚組織における机が、権限とそれなりの思想をもっている。厚生省某局某課の課長の机がその人の行動をきめるのであって、その机を前にしている個人の思想はさほどに機能しない。
 日本史には、英雄がいませんね。
 といったアメリカの日本学者がいて、じつに的を射ているとおもったことがある。この場合の英雄とは、始皇帝とかアレグザンダー、シーザー、ナポレオンといったもので、強烈な世界意識と自己への崇拝心、旧来のすべてを破壊してあたらしいものをおこす者、さらにはカリスマ性と戦法の一新という要素などをもつ存在のことかとおもえる。
 ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただ、かれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって国民革命を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米宣戦を布告し、戦争を遂行したのである。すべて天皇の名においてやった。
当時、無数の小東條がいた。陸軍はその巣窟だったし、それに迎合する議会人、官僚や言論人、あるいは無数の民間人がいた。
 その種の時代的気分が、寄ってたかって憲法における統帥権の悪用を可能にしたといっていい。
 陸軍に秀才信仰というのがあった。日露戦争の陸戦をなんとか切りしのげたのは、そのおかげだったということを、陸軍そのものが組織をあげて信じていた。当時、各軍の軍司令官や師団長というのは年寄りで正規の軍事教育をうけなかった者が多く、これらに対し、そのそばに陸軍大学校を卒業した参謀長や参謀をつけ、結果として、他の多くの因があったにせよ、勝利をえた。
 以後、陸軍は秀才主義をとり、津々浦々の少年を選抜して陸軍幼年学校に吸収し、さらに中学四年修了者をふくめて陸軍士官学校にかれらを入学させ、卒業のときの成績順をもって生涯の序列とした。カーストのようなものだった。
 さらに少尉任官後、一定年限をかぎって全員に陸軍大学校の受験資格をあたえ、ごく少数を選りぬいて、高級用兵に関する学術を習得させ、参謀と将軍を養成した。この場合の卒業席次も、その後の栄進に影響した。
 東條を成立させたのは試験によるそういう制度だけだったといえる。
 かれは、べつに国家を支配したり、大戦争をやってのけたりするうまれつきの器質をもっていたわけではなく、ただ履歴によってうまれただけの人物だった。大正四年(一九一五)、歩兵中尉のときに陸大を卒業し、以後、その基礎に立って官歴をへた。数度の部隊勤務があ
ったものの、ほぼ中央でのポストを経、昭和十二年(一九三七)関東軍参謀長、その翌年は陸軍次官、昭和十五年、第二次近衛内閣のときに陸軍大臣になり、いわゆる昭和軍閥の頂点にたった。
 かれはあるとき、言葉のやりとりのなかでのことながら、「ヒトラーは兵卒あがりである。しかし自分は陸軍大将である」といったことがある。
 軍人の社会は、一般社会からきりはなされたところで成り立っている。束條がこの官歴のなかで、人間世界の過去と未来、さらにはその交点にあって進行している現代というものを、ときに歴史規模で、ときに国家や人類に責任をもって見つめるという成熟した知性、良識、あるいは哲学などを養った様子はなかった。
 かれは、子供っぼかった。ヨーロッパでいえば、聖歌隊の優良少年のように、教会のすべてを信じるというぐあいで、日本国を一個の聖堂とみて、その神秘をあどけないほどに信じていた。その点、善良ということばをつかいたくなるほどである。
 しかし、軍事専門家としても宰相としても低能に近かった。
 いったい、東條の資料をみると、何を考えて生きていたのかと呆然とする。かれが日中戦争(一九三七~四五年)をはじめたのではないにせよ、陸軍の要衝にいたとき、中国大陸では戦争が泥沼におちいっていた。宣戦もしていないのに、戦争状態をつづけていたのである。
日本は事変とのみ名づけ、このためにぼう大な戦費と兵員を中国大陸に送りつづけており、終わるめども立っていなかった。
 帝国主義は本来、利益計算の上に立っている。
 あなたは、国家としてどんな利益を中国からひきだすつもりだったのですか。と、もしここに東條その人がいるならば、きいてみたいところである。中国からひきだせる利益などなにもないのに、陸軍は、頭脳のない戦争機械のようになって自他の人間を殺しつづけていた。
 その上、中国との戦争を一方でやりながら、その間、関東軍(旧満洲)が独走して、べつな場所でソ連軍とのあいだでノモンハン事変(一九三九年)をおこしてしまった。陸軍は、国力の消耗についての計算など、まったくやっていないようだった。
 ノモンハンでの相手は、ヒトラーとともに、二十世紀が生んだ悪魔ともいうべき、スターリンなのである。かれは西方のヨーロッパ問題にぞんぶんに鼻をつっこむために、東方での後顧の憂いをのぞいておこうという政略判断から、この辺境問題を重視し、当時のソ運でもっとも有能とされるジューコフ将軍を起用し、かれが要求するままにふんだんな兵力と火力と機械力をあたえた。
 ついでながら、ジューコフは兵卒あがりの将軍だった。名将というものはうまれつきのもので学校教育によって生産できるものではないということの典型のような存在であった。
 関東軍はソ連軍についての実態をほとんど察していなかった。当初、軽悔さえしていて、このため兵力の逐次投入という戦街上の禁忌をおこない、死傷七〇%を超えるという惨憺たる結果をまねいた。
 日本陸軍では、関東軍が最強とされてきて、世界一だという自負心まであった。この事変によって、日本陸軍は、自らの装備がおそろしく旧式だということを、敗北によって気づかされた。しかもなんの手もうたずに、さらなる対英米戦争に突入するのである。東條はじめ陸軍の首脳が、正常な軍事専門家だったとはとてもおもえない。
 私事になるが、ノモンハン事変の昭和十四年には、私は旧制中学生で、すでに新聞を読む年齢だったが、この事変についての敗北も実相も伝えられたことがなく、どの記事もなにやら勝ったらしいという印象だった。このことだけでなく、総じて煙のようなリアリズムの時代だった。
 さらに小さな個人的経験をいうと、大阪城にちかい府立清水谷女学校の前の坂をのぼっていたとき、電柱にノモンハンの敗戦を公表せよといったふうな駄菓子っぼい色彩ビラが貼られていて敗戦という文字が私をおどろかせた。日本軍はむかしから不敗であるという神話をきかされていただけに、中世のキリスト教徒が聖母マリアの醜聞でもきかされたように思えた。
 (敗けたのか)
 と、少年の頭にも、そのことがまんざらデマでないような気がした。このときから五年後に、私は当時ノモンハンで凄惨な敗北を喫せざるをえなかった安岡戦車団の後裔の連隊に属するということになり、ようやく日本の戦車団の敗因が、物理的なものであったことを知った。こちらの戦車の装甲が薄く、砲が平射砲でなく、貫徹力がにぶかったことによる。むろん戦車の数が比較にならないほどすくなかったし、さらには、その程度の戦軍団でさえ、戦いの途中で上部の命令によって戦場からひきあげてしまい、あとは裸の兵士たちが草原に残された。兵たちの多くがソ連のBT戦車と火カのえじきになった。軍がこの戦場から戦車をひきあげたのは、全滅してしまえば、せっかく育成されはじめた戦車連隊の種子が絶えてしまうことをおそれたためであった。
 ついでだから、中学生当時のちいさな記憶を述べておく。当時、学校教練というものがあって、現役の少佐一人が配属され、その補助者として、予備役の中、少尉や准尉が歩兵訓練を施していた。そのうちの古ぼけた准尉のひとりが、「よその国には自動小銃というものがあるが……」といった。小銃ではあっても、機関銃のように、引鉄をひきっぱなしで五、六十発も連続発射できるものを自動小銃という。これに対し、日本の小銃は、ボルト・アクションとよばれる構造のものだった。
 一弾ずつの操作で遊底(ボルト)をうごかして弾をこめ、一発うつと、また空薬莢をはね出さねばならない。この日本陸軍の携帯火器の主力をなす三八式歩兵銃といわれるものは明治三十八年(一九〇五)の日露戦争の末期に制定されたもので、ほかにノモンハンの年の昭和十四年(一九三九)に制式になった九九式が併用されていたが、両者は原理も構造も大差がなく、要するに自動小銃の出現によって一挙に古道具になってしまったものなのである。といって、日本はそれを廃棄していっせいに自動小銃にしてしまうような経済力はなかった。
 「そのほうがいいんだ」と准尉はいった。おそらく師団に講習でもうけに行ってきかされた内容にちがいない。
 その理由はだ、一発ずつ遊底操作をすることで心をしずめることができるからだ、とかれはいった。
 いいか、射撃の要は、風なき日の古池の水面のように心がおちつかねばならん、一発ずつの操作があってこそ、それが可能である。自動小銃だと、狙撃のいとまがなく、弾がばらついてしまって効果がない………
 要するに、日本の小銃のほうがいい、と准尉はいう。旧式であればこそ、あるいは弱点をもてぱこそ人間は精神的になりうる、という神学としか言いようのない昭和時代の日本陸軍の思想は、軍隊でない学校教練の場にもあらわれはじめていた。

2009年5月9日土曜日

司馬の土地所有観

さて、奈良時代の仏教のことをのべねばなりません。
 隋・唐は、国家仏教でした。なにしろ大乗仏教は小乗仏教とちがい、金がかかるのです。造寺造仏を伴います。結局は国家仏教になるわけで、これに帰依しますと、帝王といえども三宝の御奴として仏教の下に入るのです。僧は官僧として国家公務員であり、鎮護国家という国家的原理を背負っていますから、ときに俗官俗吏を圧倒します。
 その上、平城京に巨大官寺が集中し、弊害が多かったろうと推量させます。
 奈良朝国家がわずか七十年余で奈良をすてて、のち京都とよばれる平安京にうつった、その主要な理由は、おそらく鎮護国家という大それたものをふりかざす仏教から脱出したかったのでありましたろう。奈良仏教は、ソ連や中国における共産党のようなものでありました。
国家の上に立ち、それを鎮護する形態においてです。
 この機微については、あたらしい平安京(京都)にあっては、官寺を置かせなかったことで察しがつきます。さらには、新しい都では、最澄と空海に、国家よりも人間を救済する新教義をひらかせました。かれらの寺も、叡山と高野山といったように、都から遠ざけました。以上で、仏教についてのことは、とどめます。
 平安京にうつると、律令制がくずれてきます。律令制、つまり公地公民であるべきことをたてまえとしつつも、荘園という貴族や大寺などの私有農場がふえるのです。
 平安期は、荘園という私領の時代であります。そのくせ、官制だけは、名のみの律令なのです。
 明治維新までそうでした。日本史は、こういう体制の基本的矛盾を平然とかかえてきました。
 平安後期ごろから、おそらく鉄が安くなったせいか、農業器具がふえ、各地で力のあるものが浮浪人をあつめて荒蕪の地を水田化する開墾、墾田ということが流行しました。とくにその流行は、坂東(関東地方)に集中しました。
 それらの農場主を、武士とよぶようになりました。
開墾すれば、その水田は、貴族や社寺の荘園に組み込まれます。この天の下に私有地はな
いという律令のたてまえは依然生きていて、いかに自ら開墾したからといって私田はゆるさ
れないのです。このために貴族や社寺にさしあげて、その土地の荘司などにしてもらいます。
管理人であります。しかし所有権は不安定で、京都の荘園領主からあの土地は汝の叔父のものだ、といわれればそれまでです。
 この不安定さに耐えかねて起ちあがったのが、十二世紀末の坂東武士の反乱でした。かれらは源頼朝を擁して鎌倉幕府をつくるのです。
 武士の世になりました。全国の土地に守護・地頭を置き、日本国を支配しました。余談ですが、鎌倉彫刻におけるリアリズムは、時代の風でありました。武士たちにとって、自分、もしくは自分の父親が開墾した土地が、やっと自分のものになったのです。律令という絵空事の世は去って、じかに手触りのある世になったのです。
 鎌倉の世がいかにいきいきした時代であったかは、その後の日本仏教が独自のものになり、武士をふくめた民衆のものになったことでもわかります。法然、親鸞、日蓮、道元という独創的な思想家が簇出したことでも、この時代の元気が察せられます。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
革命というのは、一つの民族の歴史で、いちどやればこりごりするほどの惨禍をもたらすもののようですね。江戸時代の大商人のほとんどが、潰滅しました。たとえば、江戸時代、大坂の大商人は、諸大名に金融をしていたのですが、かれら金融資本家は革命のために一夜で路上にほうりだされ、乞食同然になりました。
 農民も、大きな損害をうけました。江戸時代、農民は現金で租税を支払わず、コメで支払っていました。
 それが、明治四年(一八七一)、西洋なみに現金で支払えということになったのです。金納制とよばれています。それまでの農民のくらしの原則は自給自足的で、現金をもたないということが倫理にまでなっていました。このため農民の一〇パーセントほどは現金をどう手にいれていいのかわからず、現金をもつ大農民または醸造業者などに頼んで、みずからの田地を無料で譲りわたし、いわば志願したようにして小作農になりました。むろんこれらの変化をきらって各地で農民一揆がおこったりしました。

2009年5月8日金曜日

小中野芸者総覧

80年前は小中野、鮫は八戸ではなかった。小中野は八戸に編入されずとも、十分ひとり立ちできた。
それは紅灯の巷(こうとうのちまた・花柳界)で稼ぎに稼いだ。一葉の美文体の小説の中にも、吉原に向かう人力車の音で夜も眠れぬほどとある。
金を生み出す仕組み、つまり制度を発明した奴らは、市に編入され、折角の財源を浪費され、自分の町を守る方策を無くすことをおそれた。
結句、市制80年は鮫、小中野を無人の巷とした。合併など美名に酔い、実を無くした、あるいは無くさせたのは無能な官吏と、自分さえよければの政治屋たちだ。
小中野には教員上がりの広田という政治家がいた。市民から住民票の請求を受けると、自転車で役場に走った。その時間を生業にあてて欲しいの念願がそうさせた。
こうした立派な政治家は滅びた。今の政治屋たちは自分たちが食うことだけを考えている。市議の報酬を十分の一にしろ。だれも選挙に立たない。したい人よりさせたい人にだ。
小中野は人力車が走り、料理屋の窓からは歌声や三味線の音が響いた。銭さえ払えば股ぐら立てて蔵たてた女たちがいた。
くだらねえ女におべっか使って金使い、一発やりたいで長横丁をウロウロする馬鹿野郎が多いが、そんなのは糞くらえだ。昔の方がよっぽど気が利いている。
銭さえ払えば欲望を満足させられるのと、銭だけふんだくられて泣きべそかくのとでは、どちらが風(ふう・ぶり、物事のしかた)がいい。これは時代が悪い。まして青森県が無策、無能だ。若い女を中心としてシャッター街をなくさせろ。それは女の股ぐら立てて蔵たてるんだ。股を開いてシャッターを開くのサ。
つまり、青森県の風俗を特殊浴場解禁すれば再び小中野は生き返る。馬鹿な80年。八戸市制80年は没落倒産の八十年。長い時間、ひたすら八戸を悪くした。市も県も市民をひたすら食い物にしただけで、援助、幇助の手を伸ばさない。馬鹿野郎が、県であり市だ。八戸も岩手県に編入されるがよかろう。さすれば、八戸は再度にぎわう。
八戸に繁栄をもたらした美人たち、芸者名を記載し往時の匂いでもかごう。
1浪二
2三吉
3才八
4幸吉
5五郎
6丸子
7小奴
8国八
9駒助
10力弥
11桃太郎
12さと子
13小夜子
14きな子
15ちよ子
16梅八
17笑子
18君勇
19駒龍
20粟子
21桃千代
22梅勇
23りせ子
24二葉
25みわ子
26葉子
27愛丸
28八重司
29吉代
30信子
31喜久龍
32牡丹
33蔦丸
34時栄
35梅奴
36万平
37梅幸
38千松
39糸司
40小高
41小梅
42ひろ子
昭和十二年版
芸者解説
割烹料亭は料理人の居る店
料理人がいないのは貸座敷・貸席
芸者には三方あり、立ち方は踊り手、
地方芸者(じかた・立たないで座るから地につくで)音曲・三味線・唄の担当、それもできないのが、寝方芸者・芸がないので女郎まがいで寝る。
男芸者が幇間、幇助罪などの助けるを使うが、間がもてないのをたすけることから
タイコモチは太閤秀吉を持ち上げたことから、たいこもちに転じた。曾呂利新左衛門を祖とする。豊臣秀吉の御伽衆と伝える人物。本名、杉本甚右衛門、また坂内宗拾ともいう。堺の人。鞘師を業としたが、その鞘が刀を差し入れるとき、そろりとよく合ったことからの異名という。頓知に富み、また和歌・茶事・香技にも通じたという。
秀吉のほうびに新左衛門は米を一粒ほしい。ただし、明日は二粒、3日めは四粒で一ヶ月間願うと言った。
10日で512粒。15日で16384粒。20日で524288粒。30日では米俵で450俵、石高で180石。(6万粒で1升)
秀吉が「奥山に紅葉ふみわけなく蛍」と詠み、下句をつけよと命じる。曽呂利はすかさず「しかとも見えずともし火のかげ」

2009年5月7日木曜日

司馬の熊本

肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである。
 ただし、難治の国といわれてきた。国人・地侍とよばれる室町期以来の土豪たちが田地と非自立農民をかかえて割拠し、大勢力によって統一されることをのぞまなかった。また自分たちの仲間から大勢力が出ることもきらい、このため無数の小勢力がたがいに揉みあい、凌ぎぎあいをくりかえしていた。ただし、末期のころは島津氏についたり、秀吉に味方したりした。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
 肥後の場合は、まことに厄介だった。秀吉は、当初、佐々成政にこの国をあたえたところ、はたして国人・地侍による一揆が暴発し、成政の独力では鎮圧できなかった。ついに成政は失敗の罪をとわれて所領没収の上、切腹させられた。
 このあと、秀吉は肥後を半々にわけ、子飼いの加藤清正と小西行長にそれぞれをあたえ、肥後史は新局面に入る。
 清正の生いたちはさだかでないが、尾張の無名人の子だったことはたしかである。寡婦になった母親が、少年の清正をつれて近江長浜領主時代の秀吉をたずね、子を託したという。およそ、幽斎や三斎のように結構な家柄ではなかった。
 清正は年少のころから秀吉に近侍し、戦場では秀吉の床几まわりで働いた。肥後半国の国主になる前は、わずか三千四百石ほどの給人の身にすぎず、統治経験はまったくなかった。
 それが、肥後においてみごとな統治をしたのは、天成の器量だったというほかない。
 肥後はふるくから、尚武の国として知られていた。
 この肥後人の気質が、武者ぶりのいい清正という入を好ませたのにちがいなく、さらにはかれの人情の深さにもひとびとは服した。たとえば、清正は地元の肥後人を多く召しかかえ、またかつての佐々成政の旧臣三百余人や、その後、関ケ原の敗者になった小西行長や立花宗茂の遺臣たちなどについても惜しみなく家臣団にくみ入れた。
 清正は、関ケ原のあと、肥後一国五十四万石にまで加増された。かれの肥後における治世は天正十六年(一五八八)閏五月の入部からその死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十の死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十三年にすぎなかったのだが、治績は大きかった。
 その最大のものは、農業土木による肥後農業の仕立てなおしだった。
 かれは各水系に堤をきずき、堰を設け、治水と灌漑に役だてた。こんにちなお、そのうちのいくつかが、熊本県に恩恵をあたえつづけている。
 それらによってできあがった新田は二万五千町歩という広大なもので、このおかげで農地にありつけた農村の次男・三男は推定何万人という数にのぼったろう。かれらが清正を神のようにあがめたのも当然だったといえる。
 そういう清正の最後の仕事が、熊本城の築城で、完工後、ほどなく死ぬのである。そのあと、子の忠広が繕いだが、結局、幕府によって加藤家はとりつぶされる。三代将軍家光の治世がはじまった寛永九年(一六三二)のことである。
 その肥後五十四万石を、幕府は、豊前小倉(中津をふくめる)三十九万九千石の細川氏にあたえた。
 肥後は、豊臣期から徳川期にかけて、天下を防衛する上での要地だった。
 その理由は、薩摩おさえということによる。
 なにぶん薩摩の島津氏は豊臣初期に七十七万石の小天地におさえこまれたとはいえ、いつ爆発するかもしれなかった。
 薩摩は、風土あるいは言語・習慣・気質からして特異なのである。さらには薩摩人は他地域に対して自負心がつよく、その上、島津氏を擁しての結束力がきわだってつよかった。島津氏がいつかは天下に勢いをひろげるだろうということを、秀吉も家康もおそれていた。
 秀吉が、九州攻めに成功しつつも当の島津氏をその故郷におしこめただけで分割支配をしなかったのは、その場合の反発をおそれたためだったし、また家康が、関ケ原の敗者の立場に島津氏を追いこみながら、その領国安堵という異例の処置をとったのも、おなじ理由による。

八戸の料亭・女郎屋一覧

昭和十二年料亭・女郎屋 経営者 創業年月
小中野浦町 喜月 尼崎市五郎    昭和9 3
小中野浦町 千代の家 森クケ    昭和5 12
小中野浦町 菊水  塩田花代    昭和4 5
小中野浦町 きらく  阿保鶴松   大正13 11
小中野港町 吉田家  吉田タカ   大正13 6
小中野港町 梅之家  音喜多アサ  昭和8 12
小中野浦町 旭楼   熊野スエ   昭和9 12
小中野浦町 島守楼  紬越ョシノ  昭和9 12
小中野浦町 住吉楼  左館きく   昭和9 12
小中野浦町 花月楼  山内あやめ  昭和9 12
小中野港町 千登勢  音喜多熊次郎 昭和9 3
小中野浦町 志賀十  福士とよ   昭和5 3
小中野新地 末広亭  長谷川スエ  大正6 8
小中野新地 小松家  音喜多もと  大正8 10
小中野新地 しのぶ  山下亀蔵   大正15 3
小中野新地 五明様  植木重蔵   昭和9 12
小中野新地 開扇楼  田中いし   昭和9 12
小中野新地 冨貴楼  藤谷キチ   昭和9 12
小中野新地 輪島楼  稲本ョシノ  昭和9 12
小中野新地 花泉楼 佐々木はな   昭和9 12
小中野新地 新菊楼 丸谷とみの   昭和9 12
小中野新地 曙楼  音喜多ウメ   昭和9 12
小中野中條 喜代志 音喜多キョ 4 昭和9 12
小中野中道 藤見楼  佐藤クマ   昭和9 12
鮫  青葉   駿河高子      昭和12 5
鮫  西欧   宮崎マサ      昭和4 4
十六日町 きらく  荒谷クマ    明治40 3
六日町 魚周  沼館周太郎     明治10 5
鳥屋部町 根城家  根城いし    大正12 1
鷹匠小路 君乃家  若松キミ    大正13 8
朔日町  八百万  若松ナオ    明治42 5
八日町  かねやま 千葉得寿    昭和9 5
八幡町  鯉寿   中村得次郎   昭和6 8
六日町 金山支店 千葉しめ     大正11 5
八幡町  川得長春閣 佐藤ナカ   昭和3 8
尻内駅前 吉田屋  吉田孫兵衛   明治24 9

2009年5月6日水曜日

司馬遼太郎の魂魄

中国では霊魂は魂と魄とにわけられる、としました。
 この歴史的中国の魂魄観では、死によって魂は天上にゆきますが、魄は死体とともに地下でくらす、というのです。中国人の墓参は、この意味の中において大変論理的です。生者(子孫です)が、墓という魄の場所に行き、天にいる死者の魂をよびもどします。地下の魄と魂魄一つになったところを、すかさずかれらは拝礼するのです。相当の運動神経が要ります。

ひねり・中国人の墓参
叔父さん、今日はいくら祈ってもたましいが降りてきませんネ
うん、天上の魂はきょうは降りてコン

2009年5月5日火曜日

無能呼ばわりされた山内亮市長


デーリー東北新聞起原 5
昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原をさぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。

小笠原八十美とともに県畜産界の巨頭。昭和十七年八月、神田市長任期満了で一票差で当選。在職中は戦時中で食糧不足、昭和二十一年五月食糧危機突破で辞任。

2009年5月4日月曜日

昭和四十九年の八戸、高齢バス無料証の出た時代 1


磯の真砂と盗人は
の名文句は石川五右衛門が悪行の限りを尽くし、捕まり、そして釜茹での刑になる時の時世の句といわれているが
時代は現代ともなると。
釜茹でどころか凶悪この上なくとも死罪もまぬがれ、のうのうと生き延びる。「俺は殺す気がなかったんた」とぬかせば辯護士たちが寄って集って被告をくいものにする卑劣な所業だ。「もっとイサギのいい生き方はできぬか」と言いたい。殺したら、死罪になるは当然の報い。因果応報のことばも古くからある。釜茹での刑も復活したらどうかと思うがのう・・・・なぬ!君は反対かね?これから将来悪業を働こうとおもっているのかな?なーにその時はカニになったつもりで釜に入るのせー
頃合よく茹であがったらカニだば旨い旨いと食われて喜ばれるが人間はどうにもならぬゴミせぇな。まあ、悪いごとしねぃごったな。殺したり、火着けるなどしたら死罪せ!
昭和四九年一月一一日の
デーリー東北新聞紙から

タラバガニ二億円相当密漁
八戸の漁船、九州で捕まる
大分海上保安部は十日朝、北洋海域で密漁したタラバガニを積んで大分県臼杵湾に停泊していた青森県八戸市、熊谷漁業所有の遠洋底引き網漁船第35浜善丸(三四九トン)=出河尚船長ら二八人乗り組み=を漁業法違反の疑いでタラバガニを押収したうえ、調べている。
 調べでは同船は昨年十一月に八戸を出港、底引き網漁船では捕ってはならないタラバガニ五〇トン(二億円相当)を捕獲した。同船はこれを積んだまま太平洋を回ってカジの修理という名目で、八日から臼杵湾に停泊していた。
 同海保では同船のカジの傷み具合がひどくないため、密漁の発覚しにくい九州で売りさばこうとしたとみて、同船長らを調べている。

盗みで手配の少年、東京でご用
八戸署から盗みの疑いで指名手配されていた八戸市売市鴨ヶ池、無職少年(一八)は、九日午前八時ごろ警視庁池袋署員に逮捕され、同日夜八戸署に押送された。調べによると少年は、昨年十一月二十八日午前七時半から午後五時半までの間に同市城下二丁目、月館アパート内、会社員北城久雄さん(一九)の部屋に侵入、ブレザーコート一着(一万四千円相当)、同山田幸作さん(二七)の部屋からも現金二千円を盗み逃げていたもの。同署で余罪を追及している。

サンルート八戸
一七日にオープン
八戸一の高層に
 ホテルサンルートのチェーンホテルであるサンルート八戸(八戸市六日町)がいよいよ一七日オープンする。
 同ホテルの建設工事は岩徳ビル新館工事として事業費約三億五千万円で建設していたもので、鉄筋コンクリート地上九階(建て面積延べ三千三百平方㍍)建物の高さは三十二㍍余で八戸一の高層建築となる。
 完成した新館ホテルサンルートのテナントは三十二店で合わせて五十五となる。サンルートの施設は一階ショッピング二階飲食店街となり、三階から七階までは客室で八一室が完備されている。このほか施設フロントロビー、会議室、展示室、研修室、宴会場などが設けられている。ホテルサンルートチェーンとしては既に郡山、東京、名古屋、松本、坂出、沖縄で営業しており、八戸は七番目の開業。このほか宮崎、福島、仙台にも建設されており、近日中にオープンの予定。したがって同ホテルは周遊観光基地として利用出来るほかビジネス活動の基地としても気軽に活用出来るわけで期待されている。



大ウケ 映画館、飲食店
八戸繁華街
 三が日の表情
正月休みも終り、再びふだんの生活にもどろうとしているが好天に恵まれたことしの正月三が日八戸地方ではどのようなレジャーが人気をよんだのか!。
とあり連日中心商店街特に三日町を中心に群がった人の波。映画館と飲食店は超満員
どこからこんなに人が出てくるかと思わせるような混雑ぶりを見せた。車道まであふれ交通渋滞の原因になったほど。バス列車などの交通機関はどれも満員、バス路線はいずれも増便を出したくらい。
次ぎの行き先は映画がもてた。
テレビは普及し全盛たがやはり大きな画面の味は
忘れられないらしく洋画、邦画とも入りは上々。「燃えよドラゴン」「日本沈没」「私の寅さん」などが人気のマトで、特に“寅さん”の八戸松竹では大入で恵比寿顔。一方ボーリング場は斜陽化が目立った。
と写真入りで報じている。

途中割愛したが現在とくらべ「古き良き時代」を垣間見て隔世の感がある。

一月一〇日付

八戸平原開発
前途多難の世増ダム
東北農政局が南郷村で初の現地説明会
「犠牲はごめんだ」
水没地域住民が反対意見

 計画だと総貯水量は二千八 百万トン。それにより水没戸数は六十四戸。

平成の現在は「青葉湖」名が付けられ完成している。
一月十三日付
昨夜八戸小全焼
 老朽校舎 早い火の回り
 十二日夕、八戸市の中心部にある八戸小学校が全焼した。風はなかったが、校舎が古かったことなどもあって火の回りが早く全焼はまたたく間だった。同校も冬休み中だったが、来る十六日から始まる第三学期を前に,児童たちはただぼう然としていた。市教育委員会では、三学期は燐接の学校など児童を分散して授業をすることにしている。損害は約四億九千万円。原因については、きょう十三日、八戸署が現場検証をして調べることにしている。
出火原因不明、ろう電、放火でも捜査
出火場所理科準備室付近か
16日市体育館で始業式
市教育委が臨時委開く
学級数は従来通り
松本清治校長、生徒数千五百四十八人

2009年5月3日日曜日

デーリー東北新聞起原 4


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原をさぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
文明堂は三日町にあったレコード店、ヤマハ楽器を販売、千葉校のそばにピアノ教室を出すも、業績不振となり手放す。
昭和十二年の八戸商工案内には三日町は支店とある。十和田にも店があったのでそちらが本店だったのだろうか、昭和五年創業。大変栄えた店で、八戸の文化の発信地、となりの伊吉書院とともに中央の香高い文化が方やインクの匂いと共に、こなたは耳をくすぐると、八戸の中心街華やかなころの記憶あり。
この文明堂は積極広告の店で、デーリー東北新聞を自由に駆使、教育界に絶大の信用、また、八戸の吹奏楽の質の高さもあり、楽器販売高は全国でも有数。創業者の没後、次第に下火となり、平成になり閉店。今はシャッターを閉め、種差海岸の写真で覆う。
広告は時代を映す鏡。

2009年5月2日土曜日

市役所互助会の山車は全額税金?だから受賞も三十回

市役所の職員で構成する互助会、これには全職員が参加している。つまり市長から運転手までのすべて。
ここに市が金を出す。これは職員の福利厚生のため。その金額の決め方に問題あり。この額は誰が決める?
市長でもなければ市会議員でもない。人事課員が勝手に決めた。そして、この金額は毎年適当に加算されたり減算される。何のために? それは裏金の金額の増減のためにだ。人事課員は必死に裏金ではないと言い張るが、それなら帳簿を開示せよと言うとああだのこうだのと言を左右。
職員たちから集めた金が入っているが、その理由だが、オイ、それなら市民の税金も入っているんだ。それを開示しないは不当だ。
人事課員は適正に処理されているという。それなら見せろ。見せない、見せられないは悪ダクミをしていた証拠に外ならない。昭和二十三年からの負担金総額は十九億二千万円。
これを呑んだり食ったり餞別に使った。そして余ったから、いや、もてあましたから市に返した。それも寄付だとヨ。寄付ってのは自分の金を投げる行為をさす。他人の金、それも税金を返して寄付は日本語を知らない。
騙しきれずに戻しただけだ。市民を眼が見えないと思っているんだろう。天網恢恢(てんもうかいかい・天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意)疎(そ)にしてもらさずだ。
こんな巨額な金を何処に隠していたのか。昭和五十五年十一月に本館、市役所庁舎の右の建物が建築されたとき、互助会は一億五千万円を市に寄付したので地下の職員会館部分は職員のものであると大島市議は筆者に告げたが、一億五千万円の金も、もともと不当に市から貰っていたのを返却しただけだろう。
その言い分が正しければ、地下部分の持分は互助会として登記されなければならない。しかし、そのような登記はない。さらに、地下部分の建築費を寄付したというが、当時の記録を調べると建築費は二十三億二千二百九十七万六千円。六層の建物だから、一層は四億円、互助会は一億五千万しか出してしないので、そんな理論はたわごと、寝言、うわごとは病気になっていうことだ。
二億五千万も足りないのに、よくも図々しく言えたもんだ。それも市からふんだくった金。前ページの市が負担した額を見てくれ。昭和四十九年だ。七千二百万円だ。給料は五万円程度だったろう。そんな時に巨額な負担をさせているが何に消費したのだろう。ここから負担額が急増。市民の暮らしは困窮するなか、市職員ばかり優遇、厚遇されていないか。
市と互助会はどのような契約を結んでいたのかと調べたところ、そのような契約は今までなされていなかったが、今回初めて小林市長との間で締結したとのこと。それが上のもの。
この第一条を見てくれ。ここには①職員食堂の運営とあるが、職員食堂は互助会が生協に又貸ししている。これは前号でも知らせたように、又貸しはできない契約。つまり違反。
②③はどうでもいいが、問題なのは④八戸三社大祭への参加事業とある。これが筆者が表題とした、税金を投入し三社大祭への参加だ。他の山車組は町内の 住民へ頭を下げ、腰をこごめて今年も山車の制作費をお願いして歩く。ところがどうだ、互助会の山車は税金を投入する。これはけしからん。
責任者出て来い。
大阪の漫才師でこう叫ぶのがいた。人生幸朗って芸人。右写真。人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというものだ。ほかにこのジャンルを得意としたのは人生幸朗の師匠である都家文雄・静代、東文章・こま代などがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやいていた。人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心をがっちり掴んだ。また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。
1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
役所の話もここまで来ると腹が立つどころか、メチャクチャで大阪弁なら「どもこもならん」で、可笑しくなってしまうが、これが現実。筆者が睨んでいる通りだとすると、山車に対しての市民の反感は尋常一様ではなかろう。互助会の山車参加は昭和四十七年から。
職員互助会の三社大祭参加
昭和47年 鎮西八郎為朝 強弓にて敵船を沈める 秀作
48竹取物語 かぐや姫天女昇天    優秀
49 大阪夏の陣          最優秀
50 菅原伝授手習鑑        最優秀
51 かぐや姫            優秀
52 白波五人男           秀作
53 義経八艘飛び          優秀
54 七福神             優秀
55 竹生島             優秀
56  歌舞伎十八番暫     
57 歌舞伎舞踊 女車引       優秀
58 十人石橋            秀作
59 空海入唐            秀作
60 双面道成寺          最優秀
61 新歌舞伎 ヤマトタケル    最優秀
62 国姓爺合戦           優秀
63 五人娘道成寺         最優秀
平成元年 南部発祥八百年 豊年祝の舞    優秀
 2   新・里見八犬伝       最優秀
 3 京鹿子娘二人道成寺       優秀
 4   浦島伝説 乙姫と太郎の別れの場   
5  新・国姓爺合戦          秀作
 6  鮫ケ浦に遊ぶ七福神     努力賞
 7   琵琶湖伝説竹生島      
 8 竜虎相博つ(新)め組の喧嘩    秀作
9   石橋            特別賞
10 菅原伝授手習鑑 車引きの場   優秀
11 西遊記 金角・銀角との戦い    秀作
12 歌舞伎十八番のうち 不動    優秀
13   京鹿子娘道成寺       
14 三貴神と君が代松竹梅      優秀
15   審査なし
16 夫婦愛おしどりの精と山内一豊… 優秀
17  八大竜王・八戸三社大祭…   最優秀
18  歴史浪漫八戸義経伝説…   最優秀
三十五回参加して賞を取れないのが四回 勝率八割八分
協定書にもあるように、五項目のうち金のかかるのは④だけ。つまり筆者の推測の如く、山車の制作費に費やしたのだ。この互助会の帳簿開示を求めているが、職員から集めた金も入っているとグズグズ。四月十日現在。悪く消費していなければ見せられるはず。
市民には山車製作の金を集めさせ、自分たちは高見の見物。金をかければ見栄えのある山車を作れるは自明の理。なにしろ税金、それも自分勝手にチョイチョイと数字をいじって吐き出させる魔法の小槌ならぬ人事課裁量。
どうしてこんな仕組みになってしまったんだろう。不思議と思わぬ神経がおかしい。金銭感覚が麻痺しているんだ。市民の血税を真摯に使う気持ちなくして公僕(こうぼく・公衆に奉仕する者の意) 公務員などの称)とはいえない。悪党、非国民の謗(そしり)、罵(ののし)りを受けよ。
市会議員はこれを知らない。知ろうとする努力もしない。何のための議員か。市民のためより自分の為しか考えていない。
市長は知ってても黙っている。それでも協定書を作ることには同意した。しかし収支報告は見たのかね。第四条に規定しているが。
役人のすることだけに、嘘は書かない。書いた以上責任はある。収支報告はするだろうが、費消した金が不正流用だから返せとは言わない。
今後注意せよ程度。一般社会では通用しない論理と倫理。どうなってる八戸市役所。総員ぐるみの犯行ではないが、歴代人事課長の頭を疑う。
続今年の三社大祭に互助会の山車は参加する資格はない。各山車組に百六十万の補助、しかし互助会は貰ってない。当然だ、これ以上とれば泥棒に追い銭の言葉あり。

2009年5月1日金曜日

デーリー東北新聞起原 3


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。演歌の大道を貫いた作曲家戦後間もなく大ヒットを飛ばした歌謡曲が並木路子の「リンゴの唄」。この人はこれ一発で元祖一発屋と呼ばれた。
戦争が終り、空襲の心配もなくなり、ゆっくりと眠れる当たり前の世の中になり、人々も唄を歌う余裕もでた。
そこでレコード界も新人歌手発掘に注力。こうした流れが青森県にも来た。それが、この広告。キングが審査員に上原げんとを連れてきた。この人は青森県出身。本名・上原治左衛門、青森県西津軽郡木造町生まれ。 
 上原の父は金物屋、楽器やレコードも商い、民謡を拡声器で流す。上原は木造中学時代、マンドリンクラブを結成。二十歳の上原は作曲家を志し上京、郷里の先輩作曲家・明本京静を訪ねるが、門前払い。作曲家になる決心は更に燃えた。チンドン屋、サーカスでクラリネットを吹き、流しの演歌師となり仲間二人で全国放浪、ついには北海道からサハリン(樺太)まで。1937年、仲間の兵役召集により、新たなコンビを組むこのが上野松坂屋の万年筆売り場の岡晴夫、上原が世に出る大きな転機となる。 1939年、最果ての北の国境までさすらった体験をもとに作曲した「国境の春」がキングレコードから、岡晴夫の歌とともにデビュー。「上海の花売娘」に始まる一連の「花売娘シリーズ」がヒット、一躍人気作曲家へと駆け昇った。 美空ひばりの「港町十三番地」、島倉千代子の「逢いたいなああの人に」などを作曲、1965年、全三千曲を遺し、五十歳で死亡。

2009年4月30日木曜日

デーリー東北新聞起原 2


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
死亡広告起原
吉田昌平、祖母フチ、葬儀は来迎寺にて、昭和二十一年四月二十一日
死亡広告はデーリー東北新聞の重要な資金源。また、この広告費が高い。これを値切る人もいないので大事なドル箱。 この死亡広告はデーリー東北新聞が始めたのではなく、奥南新報なども盛んに掲載。この奥南も戦後は命脈を絶ち、新聞不在の状態が八戸に出現、そこに穂積が政界進出の足がかりとしてデーリー東北新聞を発行。これほどまでに充実したのは、執筆陣もさることながら、専売所の支援があった。これを忘れてはいけない。

2009年4月29日水曜日

八戸図書館の手抜き

白井権八の落語をラジオで聞いた。その中の一言に気を惹かれ、それを調べてみようと思い立った。パソコンで蔵書を調べるがない。そこで県立図書館をしらべると該当あり。本の題名は立川談志、一応相互貸借の申し込みをしたが、八戸図書館蔵書の落語本に掲載されていないかと、落語、講談本を全部しらべた。すると、立川談志全集に白井権八が掲載されている。
 八戸図書館の図書検索機には、外題が載っていない。外題を載せればこうした二度手間、三度手間はないので厳重に申し込んだ。
 文学全集も同様、誰の全集の第何巻にあるかがわからないから、ひたすら目次を次々と探す。昭和のじだいじゃない、平成の御世、もうすこし知恵を廻せ知恵を。
 そこで探した一言は、「お言葉、まことにもってかたじけなくはあれど、聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、と、幡随院長兵衛どのにはよしなにお伝えを」
この山賊が鈴が森に居る、山賊退治中に出るのが、長兵衛、「お若いのお待ちなせぇ」「待てとおとどめなさりしは、手前がことでござるよナ」と有名な掛け合いになる、歌舞伎「ご存知、鈴が森」となる。
 たった、これを探すのに苦労だ、苦労だ。
武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、これは八戸市役所に聞かせたいもんだ。

デーリー東北新聞起原 1


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
オリエンタルダンスホール
三日町の今度建つ市の施設は昔はユニバースの前身、三万百貨店、戦時中は飛ばない飛行機、実物大の模型を造り高館飛行場に陳列、毎日、位置を変えて、動いているように見せた。敗戦後、駐留軍相手のダンスホールになった。オリエンタル酒店は社長の佐々木正太郎の店、今でもロー丁にあり。
会長が三浦萬吉、常務が伊藤裕、総務部長も兼務、取締役に穂積の名も。同、大津毅、監査役に佐々木耕平、同、泉山重吉、テキヤの親分、後に中央劇場を経営し大儲け、水目沢の米軍キャンプから米兵がオリエンタルダンスホールで無法なことをした。当時の警察は国警と市警察で腰抜け、互いに相手が出ろとしり込み、それを私警察の泉山がたたき出す。暴力には暴力が解決。ところがMPが出てきて、泉山を探す。捕まれば沖縄送りで重労働、これを隠しに隠すのが日本人たち。この功績が映画館設立に結びつく。業務部長に戸田雄三、経理部長、中村弘、総務課長馬場弘一、第二課長佐々木興平

2009年4月28日火曜日

横のつながり欠如の教育委員会

クサナギって男が公園でチン出して逮捕だ。この男は他人の家を覗き込むような格好で、テレビが見えなくなりますと、地デジの広告だ。見えなくなったのじゃない見えるようになったのが、地デジだけにチン出じだ。
新聞も書いたナ、出金男、金を出したのじゃない、世の中、金と玉とあるが、金をだした。金(かね)を足長おじさんで恵まれない子等にだせばいいが、金だして子等からコラと怒られたのも妙。この男はスマップとか素モップとか床を磨く道具のようなグループにいた。その中に稲垣吾郎ってのがいて、こいつの親父と大学が一緒だった。なかなか活躍したグループだったが、金出しておこられるのも不思議だ。
さて、枕はこのくらいで、鮫神楽が国立演芸場に出演したことも、教育委員会は知らない。それが、郷土芸能を保存するのだから、物知らずに道を尋ねるようなもの。
 これが八戸の現状だ。それでも、市政は廻るのサ。職員は目先しか見ていない。十年先は夢の又夢、五年先は御念がいるよで、念入りにはならない。御念がいるは念の尊敬語だが、からかい半分に、そうなるのかという意だ。
いやいややるんだ、職員たちは。だからいい仕事ができるはずはさらさらない。このDVD作成も、郷土芸能を保持、保存する点にある。少子化で演者があつまらない。今回の撮影に小獅子がある。これは角兵衛獅子。角兵衛獅子は越後獅子を指す。これには親方がいて、子獅子をつとめる子供を養子にもらい、彼らを育てながら芸を仕込み、そうした子供を数人連れて日本各地を廻り生計を立てていた。
そのとき、いくらかの金銭の授受が親方と実の親との間にあり、子供の身売り金ということになる。芸の諸国巡業は江戸中期から、明治に入り減少、大正期にほとんど姿を消した。昭和八年には少年虐待防止法ができ、金儲け目当ての子供の獅子舞は禁止された。
新潟県西蒲原郡月潟村(つきがた)村の郷土芸能だが、もとはかどづけ芸。扮装(ふんそう)は、小さな赤獅子頭を頂き、筒袖(つつそで)の着物にたすき掛け、まんじ紋の胸当、裁着袴(たっつけばかま)に白手甲、下駄を履き、腹に腰鼓。芸は、金の鯱(しゃちほこ)、蟹(かに)の横這(よこば)い、獅子の乱菊、よどの川瀬の水車の一人芸、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越し、唐子(からこ)人形の御馬乗り。江戸風俗を飾り、長唄、舞踊劇、下座(げざ)音楽などの題材となった。
また、これは美空ひばりの越後獅子の唄で全国に知られた。作詞:西条八十、作曲:万城目正
笛にうかれて 逆立ちすれば山が見えます ふるさとのわたしゃみなしご 街道ぐらしながれながれの 越後獅子
今日も今日とて 親方さんに芸がまずいと 叱られてバチでぶたれて 空見上げれば泣いているよな 昼の月
 この二人芸を八戸の鮫神楽は小獅子と呼ぶ。この芸の収録中に力がなくなって最後まで演じきれなかった。この鮫神楽の親方だった高橋下駄屋のご主人も昨年十一月になくなった。
 大層、鮫神楽の保存に尽力した人だった。惜しい人を亡くした。肺ガンだった。この人が後継者問題を憂いていた。たまたま、発表会を見に来た子どもが母親と来たと嬉しそうに語っていたのが、昨日のような気がするが、一年半も前になるか。人の生き死にはわからないものだ。
 その子どもに体力がなく、小獅子が収録できなかった。後継者育成が叫ばれる。教育委員会文化財課がこれを作成、その本数は40本。小中学校には一本も配布されない。また、八戸図書館も置いていない。このDVDを見る機会をふやし、子等にやってみたい、テレビに出たいの欲望を起こしてもらうことだ。ところが、学校教育課は同じ階にあれども、相互連絡がないため、40本のうち12本は文化財課で眠っている。
 貸し出しはするというが、一般市民に見せるより、小中学生に見せ、演目に参加させることが大事だ。北稜中には郷土芸能「えんぶり」組がある。このように、学校単位で郷土芸能の担い手を探す必要性に迫られているのも実情だ。
 その音頭とり、旗振りを行政がやらずして誰ができる。それも教育委員会が一丸となってやる必要があるが、これら職員はダルイ。仕事は好んでしたくない。だから幾ら言われてもやらなかろう。市役所全体の課長会議、係長会議をしろと叫ぶも誰もきかない。が、こうした馬鹿げたことが現実にある。
 もっとDVDをプリントし、これを各学校に配布し、子どもたちにまねをさせ、小獅子発表会として、全校とりくみの郷土芸能発表会をすれば、体の柔らかい子から演者がでるかもしれない。要は動機づけだ。するのは子どもたち、その気にさせるのが大人の仕事だ。どれほど面白くても、爺が子どもの役はできない。背骨を折るのが落ちだ。年寄りの冷水ヨ。
 税金は子どもたちのために使うのサ。それには郷土芸能保存のために補助金を出すことだ。そうしないと、折角の芸能もしなびるゾ。クサナギ同様に……

2009年4月27日月曜日

入札の仕組み知らずに割り食ったサウンドクリエイト

沼館にサウンドクリエイトという音響とTV会社からニュース映像の下請け取材会社がある。もっとも、十年ほどつきあいがないので、最新情報に欠け、TVの撮影下請けはしていないかもしれぬ。
 その会社名を久々に教育委員会の入札でみた。鮫神楽のDVD作成に国からの助成金を得て、それを資金源として教育委員会が計画。
 市役所の中でも、一番胡散臭い仕事をするのが教育委員会、いい加減のチャンピオンのような所。三八五に昭和46年から随意契約で給食配送を出していた。市内に給食センターは三つ、これを競争入札にしてくれた、結句、三八五は一つしか取れなかった。ズルイことをしていればとがめが来るのサ。
 さて、このDVD作成にあたって、設計書を作成する。教育委員会は詳細がわからないから業者に聞く。そして設計書をその金額にする。それを随意契約で、聞いた業者に出す。その業者が設計書より少し下の額で請け負う。こうした図式が八戸市役所の一般的構図だ。
 これは「はちのへ今昔」に言わせると官製談合、彼等役所は黙して返答せず。ダメなものはダメ。
 先般、サン・コンピューターが落札した防災のホットするメールはパソコンの入札価格が175万、最高額は500万、どうなっているのだろう。仕様が決まっているのにこれじゃあ、しようがない。
 こうしたとぼけた金額の差も、市役所はかまわないという。それは物品購入はやすければ安いほどいい。だから出精値引きがまかり通る。ところが、パソコンだけだとタダの箱、これにソフトを付ける。これを随意契約でサン・コンピューターに出した。予定より高い金額でだ。
 この一連を見ると、安い価格で落とさせて、あとで面倒見る図式だ。これを暴露するのは簡単なのだが、市長選を睨んでいるのでまだ見せない。補助金詐欺が見えたからだ。これは従来の方法では見せない。新手の見せ方を検討中。これが出れば小林市長は打撃を食うは必至。
 さて、サウンドクリエイトは教育委員会から電話を受けて設計書の作成に加担。これをサウンドクリエイトが書いたのか、それとも教育委員会は聴取しただけで、サウンドクリエイトから書類は貰わなかったのかが、役所の担当者が替わったから不明。ともかく、サウンドクリエイトを上手に使って設計書、これは業務委託をするには、これなくしては予算編成ができないので必須書類。これを作成、いつもだと聞いた業者に随意契約で出るが、どういう訳か入札になった。
 入札だと一番安い所に落ちるとサウンドクリエイトは思ったのだろう。ここに落とし穴、どういうことかと言うと、物品購入はサン・コンピューターで見たように最低価格に決定、ところが工事や請負契約には最低入札価格の設定がある。
 その制限は予定価格(これが設計価格、あるいは積算価格ともいう)より65%以上、80%以内とある。これを忘れてサウンドクリエイトは入札に参加。入札業者は三社、途中でカメラの和光が辞退。RABサービスとサウンドクリエイトの二社が応札。結果、サウンドクリエイトは取れなかった。それも一万円の差で。
 入札予定価格書に左欄は消費税込み、右欄が抜き、入札は抜きでやる。サウンドクリエイトは199万円、最低価格が200万。鼻の差で取れなかった。
 それは、この最低価格を失念していたのか、あるいは教育委員会に提出した書類を忘れたか、それとも、メモを取らずに喋ったのか。いずれにせよ、妙な話だ。これが随意ではなく入札になったのは国からの助成金利用だと思う。普通は随意契約が主だ。
 さらにこの設計書で問題視しなければならないのは、鮫の神楽の出演者に涙金しか出ていない点。鮫神楽が出した領収書は十五万円、落札価格は二百三十万。神楽を演じたのは十七名、いかに安い金額で演じさせたかがわかる。
 教育委員会がこうした郷土芸能保存に金を出さず、収録業者に手厚いは癒着だ。人を何だと思っているのだ。神楽をホイト同然に思うから、こうした低料金で人を使う。郷土の宝だという気持ちが欠けている。鮫の神楽の保存には死んだ福島漁業の社長が金を湯水のように注いだ。だから衣装も幕もしっかりしている。
 こうして、見えないところで金を撒く奇特な人がいて、初めて郷土芸能だといえる。ところが、市役所は鼻くそのような銭をくれて鮫神楽の社中を使う。日頃、福島漁業の社長のように銭を出せ。それなら、話もわかるが、人を使うときだけ鼻くそ銭を出すな。だすなら収録業者の金額の三割は出せ。演者なくして収録はできない。本末転倒だ。
 サウンドクリエイトから出たのか、聴取したのか不明だが、出演者には製作雑費として25万を予定。もともと少ないのサ。人を安く使って業者だけが甘い汁を吸おうの図式だ。
 それでも神楽の社中は八戸市のためと思い張り切る。悪ズレしているのヨ、業者も教育委員会も。
 積算価格は262万になっていた。役所の仕組みは複雑だけに、入札最低価格も頭に入れないと安ければ落ちるは短絡、短絡。

2009年4月26日日曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 1

八戸小学校の思い出 岩岡徳兵衛
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
 私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
 ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
 そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
 
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
 何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
 私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
 
ああ、半世紀  北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
 というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
 小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
 なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
 それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
 今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
 八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
 北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)

2009年4月25日土曜日

東奥日報に見る明治三十年の八戸及び八戸人

八戸の馬市と中村熊太郎氏
本年八戸の馬市に於いては出場の馬匹頗る多く価格は一頭平均五円以上にて中々高値の方なる由が数多の馬主の中にあって三戸郡名久井村中村熊太郎氏の馬匹においては逸物多く市中尤も評判なりしという氏は名久井方面にて有数の豪農にして酒造業を兼ね人望なかなかに盛んにして産馬組合に於いては創立の際より委員となり今は郡会議員の職をも帯いる由本年氏の引き出したる馬匹の主なるものを挙げれば退去雑種鹿毛代金百円一回雑種鹿毛代金百五十円退却雑種鹿毛代金百五十円、一回雑種鹿毛代金二百十円、以上四頭は種馬牧場へ買い上げられる四回雑種鹿毛代金百二十一円、初谷某に買い上げられる、二回雑種鹿毛代金三百十円、退却雑種青毛代金二百二十円以上○馬所に買い上げらるる一回雑種青毛代金百九十円、四回雑種青毛代金七十円、純洋種栗毛代金八十円以上三頭は軍馬育成所に買い上げられる等にしてこの以下なお数頭ありし由なるが同氏の馬匹は本年に限らず例年の如しという
三戸町通信
当町に於ける戸数は九百四十八戸人口は四千六百三十八人内士族百一戸平民八百三十七戸にして士族の内男二百五十九人女二百五十二人平民のうち男二千百五十一人女千九百七十五人なり
●当町に於いて本年の徴兵適齢者は三十壱名あり
● 当町大字久慈町二番戸平民菅原直氏は本県第一中学校生にして本年徴兵検査なりしが今般一年志願兵を出願せり
● 三戸病院当直医下山千代吉氏は留崎検梅医を辞したると同院には外一名の当直医あるに何の都合にや過日本郡長より開業医たる山田某に検梅医を任命せりという
● 三戸病院の欠員なるにより今度東京より聘せんとす不日理事者たる栗谷川町長上京する由なり因に記す同院は明治十年以来継続し来るに過般より本郡役所より昨年県令第三十八号により更に設置認可を経ざれば消滅且つ医員の如きは反則なる旨通牒に接し栗谷川町長には郡衙に出頭して従来設置に係るものは前段認可を経ざるも消滅となる理由なき意見を持して陳情せるに第三十八号県達の主意は認可を経ざれば消滅なり且つ其の筋よりも右の次第を申し越せりとのことにて其の手続きを為すなりと一旦帰町せんとするに山本県参事官郡衙に出張せるに際し同参事につき伺い出たるに従来より設置の分は認可手続きを経ざるも消滅せざるの法意なり併し取締上届出でだけは為すべしとのことなりし由前項検梅医の任命も多分役所にて法文誤解の点より取りはかるべしというものあり
● 三戸町の赤痢
三戸町の通信によれば同地にては今回赤痢患者三十名発生し警察及び町役場にて日々厳重に消毒を施行しおれるが右は大抵腸カタルの変症なる由にてこれまでは余り世間に知られざりしも警察にては日々巡査をして戸毎に患者の有無を取り調べしめ施療の医師にも注意したるところ一時に届け出となりて前記の患者を出すにいたれる由之がために町役場にては吏員一同消毒に尽力して朝は六時より晩は六時ころまで執務するが如き俄かに繁忙をきたしおれりと尤も右三十名の患者中二名は全治の旨去る二十七日医師より届け出であれりその他二三名を除くの外は真正の赤痢ならざるべく臥床しおるものはなき由斯く腸カタルの気味あるものは悉く赤痢として取り扱うが故に新患者は却って医師の診断を厭い隠蔽するが如き有様なれば世間の浮評もとりどりにて隣郡福岡地方においては三戸町は町内過般赤痢に悩まされ交通遮断しおるなど噂しおる為用事のありたる者も見合わせるがごとき勢いにて昨今の同町は寂寞たる景況なりという
● 自転車の速力 英国にて進行中の汽車中にある窃盗に追いつき之を捕縛したる巡査あり、今其の方法を聞くに巡査は前進せる汽車に窃盗あるを知るや直ちに自転車に乗り次の停車場に駆けつけ汽車の未だ到着せざる故暫く待ちおり遂に之を捕らえたるなりと其の機敏驚くの外なかるべし
これを読んだ日本人は驚いたろうなア、自転車とは一体、いかなるものだと驚嘆したろうが、何、汽車がのろいだけサ、現今の者なら知悉だが、まだ自転車を見たことのない当時の日本人には驚嘆だったろう。俗に百聞は一見にしかず。まさにこれ。
● 五戸組牡馬競売
五戸組にては本月十日より同十八日まで二歳牡馬競売の景況を聞くに内国種五百三十二頭其の代価二万千二百四十八円七十銭一頭につき平均三十九円、最高三百五十円、最低四円雑種十七頭代価三千六百三円、平均百八十円、最高四百十五円、最低四十二円なるが内軍馬購買に係るものは和種五十七頭雑種九頭にして最高二百十二円、亦奥羽種馬牧場に於いて買い上げたるは和種十三頭、雑種五頭最高二百七十円、最低七十円なりと
● 三戸郡有志大懇談会
政界まさに多事中なりの今日、気骨稜々の政客なんぞ黙して止まるや三戸郡の有志此処に見る所あり去る三日大懇談会を八戸町城西武蔵野軒に開く相会える者県会議員、郡会議員、町村長と土曜会派の有志たち無慮百名ばかり座定まりて先ず時の政治問題につき協議するところあり終わりて直ちに酒宴に移り席上発起人岩山高充氏起て開会の趣旨を述べ次に奈須川光宝氏今の政界に関する氏の所見を開陳、次に坂本●の進氏より痛快なる演説あり其より赤石辰三郎氏は源代議士を始め各地より到着したる祝電を朗読し終わりは献酬となりて酒間胸襟を開き快談をなす
● 八戸商業銀行 過日の紙上に掲載したる八戸町新設の銀行は八戸商業銀行として出願したる由重役の予選については二派に分かれて未だ決定せざる由
● 八戸盲人会 三戸郡八戸盲人会はかねて記せし如く設立数年前にあり爾来熱心盲人の教授に接し生徒は他郡よりも来たり居る由なるがこのほど按摩科に卒業生五人針治科にて一人ありしと目下同会の教授を担任しめるは医師中野健隆盲人永洞清吉十日市茂吉岩間某氏にして同会にて教授等に従事しおるものに対しては別に報酬とてもなきことなればいづれ有功章にても寄贈したきことにて会員等思案中なりとここに八戸町豪商加藤万吉氏病死の際同子息より同会に対し功徳の為とし金二円を寄贈し第二尋常中学校教諭斉藤文学士も同会の挙を賛成し在任中毎月金二十銭づつ寄付するなりと定めの如く出金し居り殊勝というべし
● 八戸盲人会の事については過日の紙上にも記するところありしが同会の卒業生は田中作太郎、一戸万次郎、清川丑松、東熊吉、松倉久六、小笠原兼松の六名にして尚同会にては算術及び○学等も教授する由にて其の講師は中里正賢氏なるが同氏は盲人なれども嘗て昌平黌(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校)に遊びたることあり算術は当時の中学校教師位の比にあらざる由階上銀行監査役石岡徳次郎及び武尾徳太郎の両氏も同会の為に尽力しおれりと
● 八戸町の有給助役 同町は従来名誉助役ありしが更に一名の有給助役を置くこととなりこのほど盛岡の某氏推薦せられて来任したる由南部一の都会と呼ばるる八戸町にも助役に適当な土着人無しと見えたり
● 第二回水産博覧会受賞者 
田作 市川村 三浦直哉
   八戸町 川越松五郎
鮑油 小中野村大久保弥三郎
田作 鮫村  深川治郎
干鮑 同   高橋虎之助
端折昆布 同 高清水蔵之助
島田昆布 同 高橋勝太郎
同    同 田中常吉
干ホッキ 八戸町 槻館門蔵
鰯搾粕  同   富岡新十郎
同    同   富岡重三郎
同    同   関野喜四郎
鮑味付け 同   田中常吉
鮪○   同   槻館門蔵
○皮   同   阿部松助
網    同   大岡嘉蔵
釣具   同   富岡新十郎
鰹節 階上村 平戸小助
つのまた 階上村 島守浪雄
○○   同   佐京彦松
ホッキ万牙 港村 長谷川勝次郎
● 八戸の強盗捕縛 本月四日のことなり八戸町において二箇所強盗騒ぎあり一は午前二時頃大字上組町五番戸戸館西松方他は同三時三十分頃大字二十六日町二十六番戸菓子商平田安太郎方にしていずれも忍び入りし強盗は一名なりしが双方とも家族の騒ぎにて近所合壁の知る所となり遂に其の目的を達するを得ざり其の筋にては注進に接するや早くも手○を為して之が逮捕に着手せしも賊はいずれに逃亡せしや跡白波容易に手がかりもなかりけり是より先同町大字上組町十一番戸に立花柾次郎(二十二年)てうあり年に似合わぬ悪漢にしてこれまでも詐欺取財にて一回窃盗にて二回都合三回処分を受け近頃監視規則違反として其の筋の注意を受けたるのみならず其の問題更に詐欺及び窃盗等数罪現れ来たりいよいよ逮捕に着手しおれるものなるが今回の強盗もこのものの仕業なると知られたるより八戸警察署のみならず八戸憲兵屯所にても数名の角袖(これがデカの語源・カクソデの下字のデと上字のカ)を派し種々の手勢を為して熱心に是が逮捕に従事し我こそ其の功を得んとしてあせりしもこの賊は白鞘を懐中しおりて危険のおそれあれば容易に近寄ることならずとの評判あり且つ何処に跡をくらましおるにや更に見当たらずして両日を経過せしが七日に至り賊は小中野遊郭の在りて一夜の春を買いおりしとの噂あり八戸署在勤刑事巡査雑賀重八郎氏は早くも之を聞き込み探偵方々単身にて取り押さえに向かわんとせり署長初め其の危険を注意せしも日ごろ大胆にしてこの道に熟練なる同人なればあえて意にかいせず日暮れごろブラブラ小中野に向かいし(この先破損)身振りにても今時分戻るも怪しや或いは目指す曲者にあらぬかと思わず柾次郎でないかと口走れば果たして曲者柾次郎この声聞くや否や車上より飛び降り肌脱ぐ手も見せず己がはきし足駄をもて雑賀刑事めがけて飛びかかれり柾次郎は大胆不敵の強者腕力にてはもとより数人を敵として屈せぬというもの殊に凶器をさえ携えしおることなれば雑賀刑事も容易ならぬ敵とは知りつつも初めよりより覚悟しおることなれば直にこれに手向かい先ず身をかわして打ちかかる柾次郎に空をうたせながらかねて用意の棍棒を以って心地よく柾次郎の小びんをなぐりて鮮血淋漓たりしも柾次郎は少しも屈せずかえって是までと覚悟しけん益々狂い廻りて抵抗し組み付かれ組み付かれずと争いし雑賀刑事も遂に柾次郎のために組み付かれかくては雑賀刑事も今は危うく見えつつやや暫く争いおるうち柾次郎を乗せ来たりし車夫の注進にて加勢の八重田巡査を初め溝江、岡田の三巡査駆け来たりて暫し争いたる末難なく之を取り押さえたりと言う尤も柾次郎の逮捕せられたるを聞くや同地方にてはいずれも安堵しおる由
● 山崩れ人死す 三戸郡上長苗代村大字根岸山崩れ死亡三人、負傷者数人は三戸町諏訪内出水の為
● 三戸郡水害 三戸郡において最も甚だしい水害に罹災しは小中野村にして同村の浸水家屋は三百七十戸新町は三尺位に過ぎさりしと雖も浦町すなわち遊郭地の如きは床上の浸水五尺以上に達したれば二階のあるところは家具を二階に持ち運び二階なきものは屋根に取り運ぶなどなかなかの騒ぎにてありしが郡吏役場事務員巡査等は舟筏に乗りて二階或いは屋上におる老若男女の救護に尽力し又一方はまさに流失せんず有様なるを以って消防夫等は専心之が防衛に従事したるため幸いに流失を免れるを得たりその他各村とも浸水家屋多く是川村部内の如きは○を流失したるもの十戸以上もありし由なれども家屋の流失せしものなきは不幸中の幸いとや言うべき小中野の罹災者へは八戸町の主だちより炊き出しを給与したりという
馬淵川は以前の洪水より七尺位水量は少なき方なりしも各小川は一尺五寸も増水したり
農作物は過般再○の洪水に罹りたれどもその後天候順に帰したる為其の景況至って宜しく今後一週間位もこの天気続きたれば稲作の如きは昨年に比して五割以上の増収あるべしと農家一般に喜びおりたるところなんぞ図らん去る月二十八日の暴風にて二十九日洪水となりて川岸近傍の田畑は大河と帰したることとなれば五割どころか翌年の籾さえ獲ることあたわざる所も数多あるべく今尚浸水か所ありしという

2009年4月24日金曜日

小中野小学校百年史から 2

小中野の昔を語る
出席者 月館宇右衛門 明治四十二年卒
稲葉米二郎  明治四十三年卒
夏堀正三   明治四十五年卒
佐々木哲夫  大正二年卒
大久保弥三郎 大正九年卒
山浦武夫   大正九年卒
石橋俊男   PTA会長
山内清栄   学校長
司会 木村昌平
記録 小笠原五百子
三船テル
会長 雨の中をご苦労様でした。百周年記念事業としまして記念誌を編纂することになり、その中に大先輩の方々の座談会を設けています。よろしくお願いします。
司会 出席者は病気療養中の音喜多富寿先生をのぞいてきょうお集りの方々です。他に職員の部と九十周年の時の未記載の座談会記録ものせた  いと思いますので重複しないような内容にしたいと思います。
小中野町の変遷
開校当時 生徒百人 先生三人
司会 九十周年座談会の第一集を読みましたら、学校のあった折本という場所は麦畑であったとか、ホイド宿があったとありますが昔の小中野の町についてお話しください。
大久保 折本にはいつできたのでしたか?
会長 明治二十三年です。
大久保 その当時は、うちの祖父が村長をしていたようですが、学校が火鉢を欲しいと頼んだらなべかままでつくってくれたといった話があります。文献がないのでぱっきりとしたことはわかりませんが、祖父はたしか一代目の村長でないかと思います。二代目は和田さん、三代目は川村さんでそれから中村さん、山浦さんとなるのではないでしょうか。
大久保 小学校が折本の前、どこにあったか確認   しておく必要がありますね。
会長 初めのあたりは、だいぶ校名が変っているようです。
校長 初めは新堀に湊小学校としてできたとあります。
会長 明治九年が創立と沿革誌にのっています。でも山浦さんのところから明治八年という辞令がでているそうですが…。
山浦 明治八年十二月二十八日づけで県から辞令がでています。五等教員に命ずるとありますから開校準備委員みたいなものではありませんか。
山浦 その頃あった私塾三つを統合して学校をたてたのではないでしょうか?
夏堀 辞令がでたのは学校ができてからのはず、湊小の沿革誌を調べてみては。
会長 その当時は三つの方面から生徒が集まり百名で教員は三名とありますね。
山浦 創立のころの教員は、山浦、浪打、一戸の三氏であったようでしたが、浪打さんは修験者で   もあったようですね。
大久保 明治十年頃、小中野に諏訪という神社があるのに川向うの御前神社が氏神様になったんですね。
会長 それではいつ頃諏訪神社がでぎたのですか。
大久保 建武の中興の頃のもの、昔から残っている神社とは、八戸とか小中野で湊は植民地であったし、町も小中野の方からの人のより集まりで湊より大きかったそうです。
大久保 昔の水産学校は下条にあったらしい。
山浦 下条にあった学校ぱアワジ屋さんだったらしい。
稲葉 水産学校は角万のあたりにあった。寺坂のわきの金物星アワ忠、十王院のあたりに吉田アワ大がありました。
夏掘 小中野は変遷がはげしいということは社会増でありまた、人口増であると思います。
  繁華街は北横町新堀、新堀川と湊駅
司会 その当時あった大きな建物や、中心地はどうでしたか。
大久保 まんよう亭で、これは一番大きな料亭でした。その頃そんな料理屋は五十二軒ありました。小中野は物資の集散地で繁華街は北横町、新堀でした。今の中村医院の横に新堀川があり、普代方面から木炭などを舟に積んで中田さんあたりにあった船着き場におろしそこから湊駅にもっていったもので線路の向うは家がなかったんです。湊駅の発展は、小中野の発展に大切な要素となったもので、またそれら多くの人の出入りで、花柳界は栄えました。
月宇 今の新堀の道路になっているところが新堀川でしたね。川を埋めたてて道路にしたのです。
大久保 ゴンスケやのあたり、マルキチの中田加工場の付近は船着き場でした。あそこから湊駅へ行ったのです。
山浦 林業も盛んでした。小中野の歴史を考えるに湊駅をぬきにはできませんね。
司会 湊駅の開設、新堀川が小中野町の発展のみなもとであったわけですね。
木材の集散 新井田川のイカダ流し
大久保 昔の橋は寺坂からまっすぐあった。まるたに土をかけた土橋で津波かなにかでかけかえた。また新井田川上流からイカダで井上石灰のあたりにあげていた。秋木の支店もあった。小さい頃はその木の上を飛び歩いて遊んでいたものです。木材も小中野の発展のもとに考えられます。冬は川をかね下駄で走ったものです。欄干から川へ飛び下りたこともありましたな。昔は新井田川は飲みたいぐらいきれいだった。橋の下でうなぎとりをした経験もありますよ。
会長 つい十数年前までうなぎが取れましたね。                 
夏場 川にそって発展したのですが物資の集散だけでなく、米穀なども江戸に出していたのでは…。
山浦 当時は学校について考えても湊には高等科がなかったから、湊の人たちはみな小中野へ集って来たものですよ。
小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
○小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
司会 小中野人の気質についてお話し願います。
大久保 成績も1、2、けんかをしてもI、2、クラブのキャプテンも小中野勢がしめていた。スポーツでも、学業でもよい成績をあげたのは、沢山の先輩が教育し、阿部のそば屋などで飲み食わせたり、先輩が先生であったり、学校が家なのか、家が学校であるのかというような生活から生まれたと思う。
稲葉 そのころ肩じるしというものがあって、1年は赤、2年は橙、3年は青、4年は黄でした。
夏堀 新興気風のあったことは、小中野は八戸から見ると漁師町、またご用商人の町であった。そのため八戸から見下げられていたので、絶対敗けられぬという反骨精神が原動力となった。今でもその流れはあり、小中野というとキカンボにみられる。上級学校入学も小中野はよかったものです。湊学友会はすごく優秀でそれに対抗して八戸でもつくったが小中野には及ばなかったんです。
大久保 亀徳さん、浪打亀次郎さんともにキリスト教徒です。明治末期にかけてこの道に入ったというのも小中野の気質のモーメントですよ。大正年間アメリカヘ行くのにも大低の人は、亀徳さんから指導を受けたものです。
会長 亀徳さんというのは、元立教大学総長松下正寿さんの生まれ家ですね。上番町にいく前には新丁にいましたね。
大久保 同級会を開けば芸者が何人も来る。それは同級生にあるから…そのため落第させられたものもある。
司会 高等科になるとかけもちの人があったそうですね。そして首のあたりにお白粉をつけ残したまま登校したとか。
佐々木 芸者の修練はきびしく、今はその修練に堪ええないでしょうね。

小中野出身で活躍した方、している方
枚挙にいとまなしの観
司会 小中野の出身の方で各界に活躍なされた方、現在活躍していられる人についてお話し下さい。
夏掘 三吉という同級生の芸者があったが大阪で出げいこをして十万円もらうそうだ。幾千代の養子はステンレスの工場を経営している。
会長 花柳会を話さなければ、小中野は話されないわけですね。月館さんの娘さんに有名な画家がありますね。
校長 学校にも絵があります。現在も中央画壇で大活躍ですよ。
佐々木 八戸のデパートの元祖は小中野でツキウが第一号ですよ。月館さんはかれこれ商人の道七十年です。ちょっとちがいますが漁民道場のはじまりも小中野です。修練所といって場尻にありました。
夏掘 押田吾有、毎日新聞の社長、人事官もやった神田重雄市長の弟さんです。
月舘 先代の上野学院長の石橋蔵五郎さんも。
校長 校歌の作曲家です。
夏椙 大関中五郎さんは地質学者でした。亀徳さんも船問屋で、幕末の頃にも海産物問屋をやりながらアメリカで教師をした人があるはずです。佐藤亮一、共立大学教授で慶応の講師。木村専太郎、京大出身の工学士、藤尾感之助、小樽高商を経て東北電気重役、木村直治、関西学院卒剣道の先生、東京絹糸株式会社社長で小児マヒで死亡しました。梅沢幸一は、歌人で若くして死亡されました。くめ八ねえさんは八戸小唄を吹きこんでいる。
会長 下田栄子、中央で舞踊家として活躍玉振バレーの山浦さんの姉さんも活躍している。
大火、津波等 左比代まで水びたし、
浦町は船で…
司会 災害についてお話してください。
月舘 三陸津波の明治二十九年は大きかった。今の和光旅館はホイド宿の跡ですが、そのホイド宿  の二本杉まで水が来た。そして家を二本杉につないだものです。明治四十三年にも水害があり、そのため堤防を築いた。左比代まで水があがり浦町舟で歩いたものです。 
佐々木 小島横町にいましたが家の床より二尺ぐらいあがった。堤防は昭和二年につくられました。
夏掘 小松屋のあたりは、二年位沼であったですね。堤防を築いたのは山浦市長ですね。
山浦 湊より土地が低く日の出屋のあたりまで水がたまりました。
司会 小中野やけといって大火が何回もあったそうですね。
月舘 小中野の大火は新堀からおきている。しかし幾度の災害にもめげずによくがんばってきたものです。
司会 それではこのへんで座談会を終りたい
と思います。ありがとうございました。

2009年4月23日木曜日

昭和二年八戸税務署所得金額調査書

八戸町
石橋源三郎 2642
   五郎  527
石橋冨士保13469
  あさ   143
伊智    31
昌平    27
昭和二年八戸税務署所得金額調査書石橋要吉  3260
石橋幾代  3265
石橋甚三郎 1951
石橋徳右衛門1468
石橋禎助  1603
石橋忠一  1210
石鉢文三郎 1602
石村春松  5462
石村三之助 1788
石岡万吉    88
  なか  5270
  佐蔵  1467
泉山吉兵衛47591
  千代吉 4276
  岩次郎16820
泉山和三郎 1786
泉山松三郎 1973
  みや   129
  正太郎  643
  慶三   657
泉山儀助  2149
泉山忠蔵  2733
泉山惣治  3346
 佑一郎   961
泉山太三郎  216
  善七  2407
泉山亀之助 1081
  寿之助  341
泉山新太郎 1399
岩岡常蔵  6140
 治六     86
岩岡徳兵衛 1323
岩舘作兵衛 5592
 タマ     67
  泰三   447
岩泉亀松   920
  タキ   470
岩岡範     14
  スエ  1340
岩崎恒哉  3842
伊藤富三郎 2751
 芳助     24
伊勢崎亥八郎1754
伊藤恒雄  1306
今淵正苗  9336
今淵正太郎22574
稲葉万雄  1014
  寿喜   318
稲葉正馨   733
 正美     60
  ナカ   459
市川定盛  4590
江口喜三郎 1985
石橋徳蔵  1308
伊藤正純  1328
板橋吉蔵  1000
  テツ   400
市川徳次郎 1272
板橋民助  1549
石木田勇太郎1200
橋本磯吉  1725
橋本和吉 13071
橋本友吉  2990
橋本源蔵  7964 
 喜吉     98
橋本貞助  3720
橋本八衛門53246
橋本磯五郎 2164
橋本鉄蔵  1632
橋本徳松  1791
林市太郎 16224
  直蔵   126
林崎為蔵  1244
  タマ   720
正雄   583
長谷春松  6103
萩野三平   500
  ナカ  1120
  利吉   116
花田実   1697
西川銀三郎 1342
  亀次郎 7702
西久保亀五郎 904
西久保政寿 1032
西村春秋  1523
  育三   486
西村龍雄   400
  重三郎 1104
西村幸助   679
  源一郎  848
西村喜助  3757
  ナミ    20
西塚民次郎 3882
二宮中輔  1342
仁科礼三郎 1504
  うの   160
星三蔵   5474
本間吾市  3257
蛇口邦雄   624
  トモ   476
  得政   503
逸見鶴亀  1250
富岡新太郎 5176
  富松   678
富岡重三郎 5137
  秀太郎   76
富岡宗助  1455
遠山景雄  4627
豊山逸機  9966
  たけ    14
  ひさ  1040
  静邇    27
栃内八太郎  305
栃内純一郎  560
  稲男   478
  真三郎  659
苫米地岩次 1550
苫米地福蔵 1360
豊巻亀太郎 1312
千葉得寿  1336
地代所新蔵 2115
沼田嘉蔵  2659
沼館友治郎  660
  義郎   556
類家要助   215
  市太郎 1200
類家千松  1819
小笠原夢助 1379
小笠原慶蔵 8807
   たね  105
  幸次郎   72
小笠原治  1368
小山田義郎 5411
   なか  109
小山田寛  1218
大野一作  2244
大橋豊次郎  189
  吉次郎  599
  てる   500
大橋勝三郎 3088
  久治   155
大橋兼八  3140
  とめ   478
大橋孝一    14
大橋酉松  1210
大橋菊松  2637
大橋豊吉  1807
大久保又吉 1837
大久保平蔵23866
大久保千尋 5454
   たか  165
大久保キミ 4326
大久保浅吉  941
   岩次郎 379
大久保幸太郎1500
大岡嘉蔵 10578
大南○亮  1316
太田康○   710
  ふで   569
及川ハルエ 4181
奥秋確   4188
奥寺悦郎   300
  サダ  2105
於本重義  1242
及川恒広  3469
及川万治  1202
岡田八弥  1201
大沢蔵松  1202
大里雷太郎 2850
岡建寿   1999
大久保万之助1426
大橋浅五郎 1811
和田トヨ  3152
和井田喜一郎7499
若松タキ  1567
渡辺武雄  2019
亘理杏造  1365
渡辺嘉幸  1678
神田吉穂   744
加藤末次郎 4805
加藤庄五郎 1764
 リツ     72
加藤善次郎 5828
 なか     11
 やえ     15
鴨沢熊太郎 1540
鴨沢直次郎 1225
金入文吉 15885
  正七   170
 義三郎    16
 もと     83
金子安兵衛 2620
金田文助  2922
  堅次郎  512
金田鉄三郎 4012
金沢慶蔵  3270
  新太郎  180
金沢敏雄士 1300
風張酉松  1326
 みつ     42
河野市兵衛 1339
加藤彦四郎 2656
川勝要一  2205
加藤勝男  3182
  義夫   394
金沢篤   1250
神山不二  1500
吉田万衛門 3412
吉田昌平  3181
  トミ   683
  ふち   503
横沢新太郎21033
 信夫    600
種市良一  5469
 良貞   2740
種市精一  2931
高屋敷与五郎4225
  とめ    95
  いし   107
  スエ   109
高橋政美  1851
高崎寿   1453
立原伊八  2971
  たけ   260
  ちな  1500
高橋久次郎  563
  幾久三  673
高村吉郎  2462
高島清助  1701
高橋保次郎 1262
槻館門蔵  5361
  せき    28
槻舘幸吉   164
月館弥八  1379
月館弥七  1910
根市茂吉  1201
根城松太郎 3430
根城とわ  1837
  いし   616
  次郎   140
根城藤太郎 1164
  繁吉   180
成田昌治  9229
南部直道 11717
南部四郎  1484
 トモ     91
南部利克 11094
楢舘弥三郎27924
 貞次郎    44
 秀太     12
正一郎     12
 ひで     12
 こう     12
 よね     12
楢舘要四郎 5721
 ナカ     13
中村福松  3222
  福蔵   144
 むら     23
中村秀三  5846
内藤勝   2452
中島梅吉  2408
中島平助  2640
中島末吉  1279
中里好幸  1248
長瀬虎五郎 2074
  直蔵   500
夏坂与吉  1825
中居仁太郎 1019
  よし   234
中島陽三  1844
七尾徳蔵  1400
村井善蔵  5817
村井亦八  2558
  善七  1259
室岡千里  1332
村上重吉   921
  きえ   460
村上新八郎 1820
村田大作  3250
村本ソメ  1580
植村彦太郎 5429
漆沢昇   1802
牛島万吉  3460
  源三郎  139
内田辰五郎 2139
内山正尚  1480
 圭吾     14
浦山政吉  1224
内野義太郎 1523
梅原徳治  2989
上野右衛門太 735
  元太郎  465
後村三郎  1718
上口安太郎  480
  リヤ   880
  キミ   346
牛島源五郎 1395
工藤新助  9039
工藤辰四郎 2196
工藤安之助 1669
桑原林蔵  1500
久慈憲吉  1563
久慈政勝  2285
工藤利蔵  1201
国香直治  3000
久慈恭一郎 1250
山田文次郎18972
山田文左衛門 336
山本勝次郎15120
  栄助  3681
山本武次郎 1681
柳川保蔵   886
  ちとせ  420
山本勇次郎 1560
山岸柳蔵  1681
蒔田茂穂  1272
蒔田増蔵  1953
松原富男  9418
松原季男   207
  邦也  2038
松橋宗吉  9947
  イシ 1074
松井要三郎  146
嘉蔵    812
 ふさ    444
松舘徳次郎 1743
松村房吉  1312
前田弓矢  1196
 利見    288
牧野熊太郎 4626
 十一郎   300
前原寅吉  1350
松橋繁蔵  2250
福田大助  1210
  寛   1119
 進     201
福田祐義 37113
福井富治  2482
福井留次郎 2694
吉平      51福田三男   583
ふみ      62
  ふめ  1471
古館東次郎 1601
古川広淳  2566
船越香織  4255
藤田末蔵  430
藤田英一   317
愛次郎   4540
武藤三五郎 3024
昆野清一  1236
せつ      14
昆正三郎   376
さた   189
 直次郎   423
正太郎   376
近藤元太郎 8633
  元二  3960
近藤重治  1784
近藤喜衛   858
  てい   528
近田新九郎 1200
木幡清風  1398
小瀬川真太郎3521
  マツ    18
   チヨ  105
宗吉 2000
小森常吉  1224
小瀬川友三郎4278
  勝太郎   37
小島弥八  3551
  忠蔵   190
小舘吉三郎 1340
小森只蔵  1670
駒嶺賢治  1244
  ちさ   639
  みつ江  432
  泰    240
天摩由太郎 8113
 はる     71
寺井親    735
  ミネ   645
浅水まつ   515
 むめ    391
 航三    564
浅沼堤   2500
キチ      30
阿部正治  3392
宗三      55
良三     584
阿部真之介 4262
いと      40
はな      15
八太郎     12
安藤善太郎 2348
青村善太郎 1804
赤沢健蔵  2035
佐野川菊次郎1358
佐藤常吉   912
孝吉    88
信吉   239
佐藤源太郎  500
  源次郎  725
坂本源兵衛 5949
  源三郎  125
坂本末吉  1180
  イネ    39
嵯峨倉吉  1725
斉藤大次郎   73
  佐助  1294
斉藤信雄   114
秀丸   484
哲四郎  276
銈三郎  421
斉藤芳次郎 2496
笹森孫五郎 1073
  イク   490
木村秀   4612
 ヤス     14
木村芳美  1142
  和歌   960
木村源吉  3199
  ツネ   155
 源一郎    12
北村益  17617
北村石太郎 1397
 宗      14
北村久蔵   768
  久次郎  625
菊地直七  1290
亀徳しづ  1200
三田藤吉  1500
清川佐太郎 1611
菊地武雄  2600
女鹿左織  1396
三井惣助  8165
三上権次郎 2067
 トキ     21
三浦万吉 22375
 荘介     67
  喜七   453
 孝吉     73
三浦啓佐  1217
三浦庄七  1795
三浦甚三郎 1491
宮沢万次郎 3500
正部家鉄三郎2369
   くま  255
   二郎  721
満三  317
正部家誠   720
 千代    520
下斗米多嘉吉2526
   直吉   29
下斗米謹八 4161
下斗米石太郎4307
下斗米嘉之 2274
志賀十二  1510
四戸貞弥   500
  正利   513
  てる   508
猪内文弥   258
清一   724
ツネ   392
広沢安宅  3567
  朝平   444
平野八重子 1536
森平一郎  2000
関野重三郎 1926
接待利紀   505
寛   1061
てる   399
接待一治  1208
接待麻雄  2346
関春茂   1290
鈴木吉十郎22041
  吉太郎 3068
鈴木孝太郎  177
  正春  1210
 トミ     54
 文雄     60
鈴木昌実  3334
鈴木正一郎 1507
鈴木通孝  1279
鈴木吉次郎 1403
鈴木安言  2025
杉本吉太郎 4507
  きさ   429
  よし   216
角谷市松  2481
田村欣造印刷 540
八田セン販売 400
福井政次郎販売490
中居徳太郎販売700
加藤善之丞販売820
古川菊太郎販売450
高橋菊次郎販売510
根城亀之助販売540
島守専之丞販売610
北村金四郎販売720
根城政次郎販売610
西館宗次郎販売510
中島きわ販売 580
荒井三郎販売 400
藤本長寿郎販売400
工藤正三郎販売400
藤井徳次郎  640
柴田吉蔵   400
山田徳次郎  800
田名部竹松  770
松橋健蔵   510
村井兼八   400
柴田幸三   400
高橋長次郎 1180
石橋雄太郎 1000
沢田弘司   800
高橋孫四郎  450
村井吟次郎  560
金田徳蔵   420
浦山邦二写真 480
広瀬石太郎 1050
中村かく   400
金沢礼次郎  450
八田宇吉   930
福井年三   900
関野郁郎   950
高島福次郎  64
三井フチ    75
井上贅    450
工藤久兵衛  400
中村せき   880
市川苗吉   445
中村権次郎  404
根城鶴松  1000
福井常治  1390
岩織又吉  1100
立花熊吉   630
最上光男   700
近藤かつ   580
新渡戸巌   610
竹沢兼太郎  400
三浦幸市   400
石橋友吉   400
石橋仁太   400
村上源次郎  940
藤原福蔵   720
松橋倉吉   440
奥村隆吉   440
鴨沢喜助   710
松井鉄蔵   600
宮本善三郎  420
内藤豊五郎  494
田名部定雄  420
蛭子由松   723
松橋いし   680
岩淵栄助運送 420
高橋元吉   420
阿部金次郎  490
村上孫四郎  450
中奥市太郎  450
村上五兵衛  550
松館兼松   410
岩淵麻五郎  590
近藤喜太郎  400
木村慶治   600
牧野豊吉   830
浅野吉三郎  540
大橋福蔵   420
上斗米専治  700
村井文次郎  400
江刺時次郎  400
佐藤松次郎  500
志村丈之助  720
軽米福太郎  420
福井喜作   600
志村栄一   440
西村徳助   800
荒谷タマ   450
高橋万吉   400
大向重兵衛  500
畑内太郎   580
金浜福松   400
塚原豊八   400
野里サキ   410
三浦茂一   530
澤藤長吉   560
関野三吉   500
石橋修吉旅人宿710
菊地清一   480
沼館周太郎  500
木村文吉   400
橋本覚三運送 450
滝川チカ   460
千葉しめ料理店583
小山晋之助  440
中島晋吉   830
福田直太郎  520
戸田みき   400
久保田晋之助 420
大山富助   640

2009年4月22日水曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から 続

したがって相互の生活経済面で、競合する物がない。また両地区にまたがる浜川は物資集散の動脈となって、共通のミナトをなしている。
 これが学友会に「湊」を称させた起因ではなかろうか。ところで前記の明治二十三年は、青森県に初めて地方制度実施令が公布された年でもある。この政令のねらいは多方面にわたるが、いまこれを教育行政面だけにしぼれば、末端の学区を整備する事によって「教育の地方分権をはかる」というにあった。が、この本音は、その建前とは大分ちがう。すなわち後前の学制を実施する段階で、もうこれ以上の財政負担には耐えない、という所まで逼迫していた。そこでオタメゴカシの「教育の町村自治」というゲタを地方にあずけよう、というのである。その結果が三小区の盛湊校を小中野尋常小学校(左比代)とし、また新しく湊を四小区に定め、下条の簡易小学を湊尋常小学校(むつみなと)としたのである。
 そして、そこを巣立った俊英たちが、開校まもない尋中八戸分校の難関を越え、やがて湊学友会に拠って、浜のルネッサンスを展開する。
学友会の胎動
 さて、ここで尋中八戸分校と、それから派生する校外団体について略述しておこう。まず、この分校は明治二十六年七月に設置され、その修業年限は一二ケ年だったが、幸運にも明治二十九年に五年課程の独立校に昇格、青森県第二尋常中学校 となった。つまり俗称、県立二中だ。
 そしてこの二中が、当時、県南で唯ひとつの最高学府なので、人呼んで南部の帝大といった。が、実は腕をためそうにも相手がないので、まずはお山の大将だ。だから湊学友会を筆頭に上北の上南会、三戸の郷友会、五戸の北嶺会などが続出して、技をきそいあったわけである。
 なお、これら諸団体中、特筆に価いするのは八戸学生団であるが、その出現はおそく大正四年、すでに各地に県立校が設置されたため、二中校外団体存続の意義は、ようやくうすれた頃であった。
 さて、ここで筆を元にもどせば、湊学友会では、最初の会員を音喜多政治(富寿の父)と神田品次(ただじ・重雄の次第)の二人としている。
 したがって学友会の結成時には、この二人は三年生、浪打石丸が二年生、山浦武夫(先代)が一年生である。はたしてしからば、当時この人たちに上級生会員がなかったかと言えば、実は四年級に山田誠、五年級に宗元苗 (そお・もとたね)がいたのである。そこでまず山田だが、かれはもともと神田、山浦、上田とは縁続きの会津衆である。そして当時、田名部の生家を離れ、湊下条の小林家から八戸の中学校にかよっていたのは、絶家寸前にある小林の名跡をつぐためだった。ところが山田は、なぜか「白盛社」という団体づくりに夢中である。ちなみにこの白盛社は、多分に飯盛山の白虎隊にあやかるものだが、かれはいささか図にのって三戸、五戸、三本木方面まで間口をひろげ、結局、竜頭蛇尾おわる。が、この不屈の オルガナイザー山田は、性こりもなく今度は、白盛社と同工の湊精進団というものに手を染める。されば従来この精進団をもって学友会の前身とする説は、一概にうがちすぎの論とは言えない。なお山田は、その後、東京高商(現商大)を経て米スタクトン神学校を卒業、牧師として在外活動に当ること二十数年、一時帰国したのが関東大震災の年である。そして心友・植村正久、賀川豊彦らと行動をともにするが、昭和二十五年、七十三才をもって神に召された。ついでながら学友会の外様(とざま)会員として鳴らした山田(のち小林)陸典雄は、その甥であり養嗣子でもある。さて、次の宗元苗については、いまさら詳述するまでもなく、八戸中学第一回生であり、かつ同窓中、最初の八中校長になった人である。また、この人を身近な所で知るために、あえて美濃部洋子の父、と附記しておこう。
そして、さらに宗を偲ぶために、かれの従兄で地質学者として高名だった大関久五郎の略歴を添えよう。大関は館村売市のひと。青森師範学校を卒えて湊小学校の教師となり、ついで東京高等師範学院(現教育大)に進み、同校卒業後、千葉県立安房中学教諭。のち東京高師教授に迎えられ、ドイツのフリードリッヒ・ウイルヘルム大留学、文部省視学官となる。その間、地学における未開の分野を科学的に体系づけながら、瞠目(どうもく・驚いたり感心したりして目をみはること)すべき幾多の著述を世におくる。
 大正七年、北海道講演旅行中、折からのスペイン風邪に感染、四十四才でこの世を去る。
 筆を宗元苗にもどせば、それからたどる宗の前半生は、そっくりそのまま大関の前半生である。つまり大関が安房中学教諭から高師教授になっ たとき、宗がそのあとがまに坐るところまで、同じ路線だ。だから宗は、その敬仰(けいぎょう・うやまいたっとぶこと。)する従兄の中に、人間の理想像を見いだしていたであろう。そう言えば宗は、大杉平に回帰するころすでに旧制高校教授の資格をえていた。それが母校の校長におさまると、そこに痛恨の後半生が彼を待っていたのである。が、ここでは、もっぱら宗と学友会の出あいを探求することにする。
 さて宗元苗が、母校の校長になったのは、やがて関東大震災に見舞われようという大正十二年四月。母校の創立三十周年にあたる年であった。また翌十三年は八戸大火の年であり、かつ学友会、三十周年式典の行われた年でもある。いまこの年を対比すれば、学文会の誕生は明治二十九年以前、ということになる。この点につき、さきに宗が五年生、山浦が一年生の時と書いたが、この推定もあてにはならない。
 というのは、宗たち第一回入学者八十四名が、そのまま一年級を編成したわけでなく、この中の三十六名が再試験の結果、二年級を編成しているからだ。つまり宗は、五ケ年の修業年限を三年数ケ月ですませ、すでに湊小学校の先生さまになっていたわけだ。なお、この速成組三十六名は、その間きびしいフルイにかけられ、まともに卒業したのは十名にすぎない。だから宗元苗や山田誠は、郷党(きょうとう・郷里)の仰ぎ見るエリートであり、学友会の誇るべき先輩だったであろう。
群像と人脈
 さて従来、小中野で石橋姓を名のる人びとは、おおむね与兵衛屋一族であろう。たとえば石橋蔵五郎、石橋道麿、松や旅館の石橋宇吉、かつての料亭「万葉」などである。また、その連枝(れんし・枝をつらね本を同じくする意)兄弟。特に貴人にいう)である夏堀悌二郎が八戸市長、その弟正三が小田原助役、石橋宇吉が八戸市収入役とあれば、まさに学友会ならではの三役そろいぶみである。さらに前記、宗元苗は、この一族とは血脈のつなかりをもつ人だ。そして、これに類似の関係は、のちの神田市長、久保節助役、山浦武夫県議の場合にも見られる。また山浦の場合に父系において松岡正男(羽仁もと子の弟、八中二回生)とは緑辺(えんぺん・婚姻による縁続きの間柄。親族。縁故のある人)につらなり、とくに生徒学生時代の交友が密である。おそらく当年(とうねん・その頃。その時代)の山浦は、のちに松岡が日本有数の新聞人となり、またラグビーの草分けとうたわれる姿を、想っても見なかったであろう。またこれとは別に、かつての国立第百五十銀行頭取・富岡新十郎の外孫が、ほかならぬ学友会の音喜多富寿である。
 なおこの富岡頭取は育英事業にも熱心で、野田正太郎らの英才を世に出したが、その最後の給費生は、宗元苗である。また富岡のもとで銀行支配人をつとめた野崎和治の実弟登太郎は、のち松岡家に入夫して、羽仁もと子、松岡正男の父となった。この幾重にも織りなす人間模様の出来不出来はさておき、ここで小中野女の才気を知るに格好な逸話を示したい。たぶんこの話は、富岡が銀行の危機をのりきるために安田善次郎に救援を求めた時のことであろう.行きつけの万葉亭で、大事な客だから「山海の珍味でもてなせ。カネに糸目はつけない」と富岡が女将に申しつけた。
そのせいかこの会談がうまく運び、さて勘定ということになった。が、その法外な請求額に、さすがの富岡も目をまるくした。なんと一家が、らくらく一ケ月は暮らせようという金額だ。そこで富岡が事の次第を女将に聞くと、且那さんがケッパレというので「タキギがわりに三味線の棹だけ焚いたので、こう高くつきあんした」と答えた、というのである。そして、このような才気が、男性にのりうつると「学友会の三太郎」のようなタイプになる。この三太郎は木村千太郎、室岡政太郎、浪打季太郎で、かれらのたどった途は、それぞれ異なるが、才気縦横という点では同型である。このうち木村については、歌人・靄村の長兄であり、かつ奇行の人として書き古されているので筆をはぶくが、室岡と浪打は自分を韜晦(とうかい・自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと)するような生活態度だっただけに、この際、略伝程度ながら書き残したい。
そこでまず室岡だが、かれは写真に見るとおり、八戸中学、旧制第二高、東大を通して三浦一雄(のも農林大臣)夏場悌二郎たちとは友人である。
 まだその姓字でも判るように、小中野の室岡医院とは同族であり、八戸市庁在勤の室岡一の父でもある。さらに渋民小学校の啄木と心のふれあった稲田ひで子の従兄でもある。
それはさておき室岡は、東大法学部、九大工学部の双方を卒業したので、どの職場でも引く手あまたのはずだが、なぜか浪々(ろうろう・さまよい歩くさま。さすらうさま)孤高(ここう・ひとりかけはなれて高い境地にいること。ひとり超然としていること)の青年期を送る。が、やがて川村竹洽(青森県知事・台湾総督)の知遇をえてからは、そのフトコロ刀となって敏腕をふるった。一例をいえば関東大震災時に台湾ヒノキを移出して東京復興に寄与し、あるいは綿花の移出によって本土の綿布需要に応える等、やることがでかい。それが官を辞して帰郷すると、あえて市井の無名に甘んじ、隠士のような生涯をおわる。なお彼の弟が省三、妹が松岡きく子なので、そのつながりは、川村竹治夫人の川村女学院、松岡洋子、羽仁説子に及ぶわけである。
 さて次の浪打季太郎については、現在のところ、まぽろしの人物である。が、わずかに知られている点は、若くして名古屋の特殊学校教師になったことである。この学校は、徳川政権のいわれない圧制で長く人間あつかいされなかった平人(のち新平民)の教育施設である。つまり今の同和運動の原形であり、八戸の類家堤におけるカンタロウ部落の解放、といっていいだろう。また、八戸におけるカンタロウの悲話が、大正中期まで小説または芝居に仕組まれ、子女の紅涙をさそったが、浪打の進路は、あるいはこれらの稗史(はいし・昔、中国で稗官はいかんが集めて記録した民間の物語。転じて、広く小説をいう)演劇によって方向づけられたのではなかろうか。
学友会の本領
学友会の本領とするのは、水泳と野球であった。泳法の習得は今ではプールだが、もとは海岸である。そういう地の利もあり、ことに水府流の浪打石丸を師範にいただく学友会は、水泳におけるメッカであった。もっとも、その泳法はあくまでも古式の実用流なので、湊川口から蕪島までの遠泳をハイライトとする物であった。が、この例会には、きまって旧藩主が臨席された所からみても、浜通最大の催しであった。ところが大正十二年、時の八中校長宗元苗が、後輩の高師選手をコーチに迎え、初めてクロール泳法を導入した。
 この新式泳法を体得した学友会の椛沢幸一・波打浩・鈴木弘道らは、やがてその名声を東北一円にとどろかすことになる。
 次に野球については、早大生時代の山浦武夫がこれを導入し、慶大野球部員・石橋道麿が習熟させたとされる。が、これよりさき、野球史にも名をとどめるょうな有名選手が、八戸中学のコーチをしているので、むしろ長く郷里にとどまり、その間の状景に接している大久保弥三郎(先代)あたりが、学友会野球の主軸をなしたように思う。なお参考までに、明治三十八年代の八中野球部選手をあげれば、註記のとおりであるが、この顔ぶれがさかんに四部試合(柔・剣‘野球・庭球)をかけもちで他校にいどんでいる。
 したがって、柔道の御大が竹刀をっふりかざして惨敗したり、テニスの神さまがグローブ片手にエラーの続出、という場面もある。
ま、ここまでは笑ってすまされるが、この背後に容易ならぬ事態が待ちかまえていたのである。
武田知事の禁止令
 とかく試合は、クロスゲームになればなるほど面白い物だが、それがエキサイトすると、あとは言わずもがなの乱斗になる。これを県史に求めれば「明治三十八年、時の武田千代三郎知事が、県下中等学校の対校試合を禁止したので、学校スポーッは漸次おとろえたが、各地で倶楽部を組織し、素人先輩を加えて試合を行い…」となる。この点、八戸中学も例外ではなく、ために校外団体である学友会が、思わぬ人気を博したわけである。それにしても武田知事の禁止令はちと俯におちない。というのは、すでに武田は、一地方長官としてよりは、むしろ日本体育協会の生みの親として有名なはずである。すなわち彼は、その大学予備門(旧第一高)時代の盟友(めいゆう・ちかいあった友。同志)岸清一とともに、英人教師ウィリアム・ストレンジについて英国流スポーツを習得し、さらに東大に進んでからは、有名な赤門運動会(体協)を結成し、あらゆるスポーツ団体をその傘下に糾合(きゅうごう・一つによせあつめ、まとめること)した。そして初代会長嘉納治五郎、二代会長岸清一博士のもとで、引き続き副会長をつとめる最高実力者である。それが青森県に赴任したとたんに、対校試合まかりならん、というのである。その原因は、かれの頑迷なスポーツ・アマチュアリズムにもあるが、直接には県立一中(弘前中学)と秋田県下中等学校の試合に乱斗が絶えなかったからである。そしてこの禁止令は、前記「学友会の三太郎」の時代まで続く。また時の八中野球部には、次の学友会員がレギュラー選手として活躍している。投手薄正義(すすき・まさよし、会津衆)捕手久保(のち三島)利義、セカンド夏堀悌二郎、センター神田三雄(内閣人事官)、レフト安藤安夫(種市町)、また、これにOB外様組が加わり、小中野が、一見、野球部落の観を呈したのである。
やがてこの伝統を受けついだ会員中から月館(のち尾形)留吉投手やカーブを多用したので「魔法」の異名をとった大久保一郎投手、さらには甲子園の舞台をふむ大下健一がうまれ、また捕手としては室岡杯の玄悦医師および田中泰・功兄弟、それにナラカン(奈良貫一)で鳴らした今の田中清三郎、名ショート佐藤義一・亮一兄弟が輩出する。
 ここで、いきなり大正十三年の三十周年式典に飛ぶが、その前に初代会長山浦武夫の作詞になる会歌に触れておきたい。この曲の原歌は、明治三十七年第一高等学校の記念祭に歌われた征露歌であるが、「ああ玉杯」と並んで特に喧伝(けんでん・世間に言いはやし伝えること)されていたので、かつて東京に遊学した山浦は、自作の歌詞にこのメロデーをつけたのであろう。さて次に三十周年記念歌であるか、この作詞作曲にあたった奥村勝治は、相棒の音喜多富寿とカネタ湯でひと風呂あびていた。所が突然「おお、できた」と叫ぶなり、褌一本で外に飛び出した。びっくりしたのは音喜多で、早速奥村の着衣をかかえ小学校の講堂にかけつけると、オルガンを前にして「春さくら花咲く目の本のォ」と唸っていたのである。 なお、この記念行事中、岩見対山と夏堀正三、奥村らによる「出家とその弟子」の上演があり、さらに対山師の「神経衰弱」と題するパントマイムもあって満堂を魅了したわけである。また五年生大久保幾次郎は、その主宰するマンドリン楽団を指揮し、いやがうえにも式典のムードをもりあげた。ころしも新旧の思潮うずまく大正末期。さしもの学友会も時計の振子のように、あるいは左し、あるいは右したが、しかしたゆまず時を刻みつつ、昭和期にはいるわけである。     

2009年4月21日火曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から

前号の田村邦夫氏の話から、吉田トミエさんを想起。この人を中心に八戸の音楽文化を探ろうと、八戸図書館で色々と調べると、小中野小学校百年史を発見。この冊子の凄いのは卒業生一覧がある。唸った。少年野球指導者、広田真澄氏の文もある。早速紹介。
思い出の野球と陸上競技
小中野体育協会長広田真澄
    小年野球
 八戸地方での野球処、小中野からは大石選手をはじめ沢山の名手を出して仲々盛んであった。私達は小学一・二年生頃から応援団に混って、遠く八中グランド迄歩いたもので、何時しか見よう見まねで野球知識を得、道路で布製ボールベースボールを楽んだものである。私達が六年生になった大正十二年春、青森の松木屋呉服店主催で県下少年野球大会が初めて開催されることになり、小中野からも参加する為早速学校に合宿練習。久保・稲葉・佐藤の諸先生から指導されたが、担任の関係から主として佐藤先生が担当、猛烈果敢なスパルタ教育を受けたもので、ハンブルしては怒嗚られ、悪投してはバットが飛んで来る有様、八重沢捕手は、ノックの時などバットで終始小突かれ被害甚大であったと今でも笑話になっている程である。三戸郡大会には八戸町をはじめ他の町村不参加で当時未だ村であった小中野が不戦優勝し代表となった。青森の県下大会には第一回戦で弘前大成に一勝したものの、第二回で東郡大野に惜
第一回
メンバー
投田中直
 小野寺
捕八重沢
一福岡勇
 泉山
二市川
三広田
遊福岡孝
左桜沢
中小野寺
 田中直
右中村敗した。
 翌十三年の第二回大会は、小野寺―瀬越のバッテリーで決勝に進み、青森莨町と決戦、瀬越のホームランラインを越す大ライナーを、驚いた                   観衆が逃げながらダイレクトで捕らえたので、着地点が不明で紛糾したが結局ファールを宣言されて二点がフイとなり、二ー一で恨みを呑んだのである。
 十四年の第三回大会は、猛練習で鍛え一肩充実した選手団であって、郡代表決定選は勿論、県大会に於いても破竹の勢いをもって次ぎ次ぎに相手を撃破し、全く文字通り鎧袖一触(がいしゅういっしょく・よろいの袖でちょっと触れる程度のわずかな力で、たやすく相手を打ち負かすこと)そのもので県下の覇を握ったのである。
     防犯少年野球
 戦後の混鈍たる世相の中に、小中野出身の八高生等によって野球チームが編成され、心身の鍛練を企画したことは、如何にも小中野らしい風情がある。その頃青少年の非行救済策として全国野球大会が、防犯関係者によって常行されることになり、二十五年には北友チーム(北横丁新丁)が八戸代表となったが、県大会では優勝した十和田チームに敗退し、二十六年にはインデアン跣ズが八戸市で優勝し代表となった。裸足か草履、服装は各自銘々の普段着、如何にもインデアンスにふさわしい。県大会では準決勝で弘前と対戦し、三回までに九―○と離されあと一点でコールドゲーム、誰しも負を予想したが、四回俄然投打開眼、最終七回で九―九の同点、延長八回で十五―十で苦戦ながら決勝に進み、堀越を破って県代表となり、仙台の東北大会に進んだのである。選手の気力と自信には全く敬服もので、自主練習の効果覿面(てきめん・結果・効果などがその場ですぐあらわれること)というべきである。
 東北大会でも決勝で宮城代表岩沼と対戦、先取得点されたが結局三―一で優勝した。いよいよ後楽園の全国大会である。一回戦は北九州大川チームに六―一と快勝したが、二回戦で名古屋中京クラブに三―一で惜敗、翌年を期して帰八した。
 二十七年は市・県・東北大会何れも予定通り優勝し、他の十五チームと共に後楽園に進んだのである。一回戦は広島を五―○、二回戦は新潟を五―○、準決勝で優勝候補の横浜と対戦し一ー○で之を倒し、新聞で散々に誉められるし、在京八戸人会では沢山の応援団を繰り出して一大声援、いよいよ決勝に臨んだが、相手は強豪、呉の三津田、速攻よろしく戦力の陣容整なわぬ間に四―○と離されたが、後半から東北人らしくねばりにねばってハ回三点を入れて五―三。九回は二アウトながら満塁、一打同点か勝越しの追上げムード、観衆は大いに湧きに湧き、一球一球の声援に球場は興奮の坩堝(るつぼ)と化して、決勝戦に適しい熱戦を展開したのである。結局玉川主将の捕邪飛で万事休したが、場内からは絶讃され八戸の名を高らしめた快挙と自負している。メンバーは
二十六年・投手・佐藤充、藤本、捕手・宮本、小笠原、一・玉川庄、二・佐藤洋、三池田、遊撃・岩淵、左・八並、中・根世、右高橋正、熊谷行、高中、杉村、月館孝
二十七年
投・藤本、渡辺、捕・橋本、一・玉川恵、二・月館孝、三・池田、遊撃・風張、左・高橋正、中・鈴木理、右・佐藤洋、音喜多、柳沢正、道合博
 尚監督四名、部コーチ玉川恵・川村久・鈴木清・市場駿の諸君で、現在も小中野で続いている防犯少年野球大会は、先輩の偉業を讃えながら、その精神を受けついで行なわれているのである。
    陸上競技
 大正十四年は、小中野小にとって野球と競技に於いて、空前の全盛を誇った年であると云っても過言でない賑いぶりであった。前述の県下少年野球の優勝をはじめ各種大会優勝のほか、陸上競技に於いても尋常科高等科共に県内最強のメンバーで、優勝に次ぐ優勝と誠に往く処遮(さえ)ぎる者なく全く破竹の勢いであった。参加した大会も郡教育会主催の三戸郡大会・八戸中・青中並びに鶴岡青年団主催の県下大会と権威ある大会に優勝、更に県森師範創立五十周年記念大会には、県内各校の俊英が多数参加したもののよく善戦し、瀬越(百・高・巾・三・円)下野(砲)リレー(瀬越・下野・熊野・内藤)のタイトルを得た尋常科と、広田(百・巾・三・砲)福岡(槍・円)、リレー(広田・中島・小野寺・石橋)の高等科と殆どタイトルを独占する形で共々優勝を飾ったのである。
  此の年優勝旗・優勝杯の総数三 十六の多望に達し、優勝旗祭を催して祝ったことを思い出すのである。前述の野球指導の諸先生と競技指導の対馬先生や、スポーツと勉学の両立をモットーとした八木沢校長先生の、共に喜んでくれた笑顔が今でも懐しくて仕方がない。

柔道
八戸柔道協会々長古川誠
 明治の中頃、盛岡から来た藤田と言う人が小中野町左比代に柔道場を開いた。これが当地に於け る柔道の草分けであろう。浜通りの青年が集まり隆盛を極めたが大正半ばに閉鎖したと聞いている。比道場は古流である。昭和初期岩田男也の開いた道揚がある。柔剣道合同であった。柔道の師範はいなかった。
 講道館柔道は湊学友会と水産学校の洋友会によって普及されたと言われている。
 学友会からは柔道の偉材が輩出している。夏堀悌二郎・正三兄弟、木村千太郎、夏堀道麿、工藤千代吉、大久保正、藤田久蔵、吉成武久、等等……。これらの人々のエピソードは数知れない。紙数の関係上割愛しなければならない事は遣惑である。私は学友会の末輩である。小学生の頃、学友会の柔道部に憧れた事を今でも忘れない。洋友会出身では柳谷一家の存在が大きい。柳谷明義は、大久保・藤田の諸先輩と共に一時代を画した名選手である。戦中から戦後にかけて大きな足跡を遣した柳谷勝雄はその次弟である。
 戦后は、柳谷勝雄・古川誠がその中心的存在であろう。八戸柔道界の重鎮、佐藤孝志先生を招聘し昭和二十七年柔道を建設し当地の柔道の発展普及に努めた。斯界の為に大いに寄与したものと思う。
 戦后に活躍した人々に、柳谷弟吉、勝美兄弟、大久保完美等がいる。道場出身者には、木村書店の木村忠雄(警視庁師範)土方博敬、町田勝巳等枚挙に暇がない。
 小中小学校に柔道クラブが創設されたのは昭和三十一年、三月二十二日、板橋校長時代である。板橋校長は八戸中時代名選手であった。
 役員は次の通りである。会長或は部長・板橋勇次郎師範・佐藤孝志理事・藤田久蔵、武田実、重茂得一、柳谷勝雄、橘喜助、古川誠、事務部・川村三郎、指導員・河野康之丞、阿部幹、桜庭健、高山惣一、石橋志郎 女子部・植村てる。
 部員数男子約百五十名、女子約十名、小学校柔道クラブ結成は県下で最初であろう。此クラブ出身者が高校で活躍した事は承知の通りである。
 星霜移り変わり道場もさびれつつある。然し有志相募り、昭和四十五年以来再び浜通りの青少年育成に意を注いでいます。現在、稽古日・月水金の三日間、指導員、大野恭衛・川口正範・横町健悦・佐藤武・達中清志であります。
 小中野小百周年に当たり小中野柔道を振り返って見た。自他共栄精力善用を通じ健全な青少年の育成を心から念じる。

  湊学友会の誕生
  青年会と学友会
 八戸市教育誌によれば、八戸青年会(北村益主宰)の発足は明治二十二年、湊学友会のそれは明治二十九年、とある。そこでいま、この両団体を乱暴に短評すれば、さしずめ「文明開化的村塾」と言ったところだろう。が、しかしこの村塾的存在が、いやしくも公的機関の記録に値いするのは、それぞれ[地域社会の文化水準を高めた]とする 社会教育評価にほかなるまい。ところでこの八戸青年会が、青森県尋常中学校八戸分校(八高の祖型)と湊学友会の設立に大きく作用したと言われる。そう言えば、尋中八戸分校の草創期における青年会が、この分校に占めるウェートは、かなり大きい。すなわち分校七名の教師中、五名までが青年会員であり、新入生の過半数もまた青年会員といったぐあいなので、尋中八戸分校の構成は、さながら八戸青年会PTAである。
 それかあらぬか青年会の鼻息が荒く、これを蔽(へい・つつみかくすこと。おおうこと)して遠ざけた町方が「青年会のドンドゴドン、袴コはいて草とりコ」というザレ唄を巷に流した。この、ちょっと捨て難い味の里謡は、多分にアンチ北村の響きをもつが、そんなら、この槍玉にあがった北村の人と成りは、どのようなものだったろうか。他意なく評して北村益は、一種の精神的巨人である。すなわち幾多の高僧哲人について道を求め、文武百般を目ざして「難行苦行ヲ以テ業務トシ」ながら、一方では八戸最初のピアス号自転車や今のスライドに相当する幻燈機、さらにはブラスバンドまで持ちこむという開化ぶりも示した。が、その心底は、どうやら自身の雅号たる△古心▽への回帰であり、錬成につぐ錬成をもって「コノ勤行ニ耐ユル者二非ズンバ会員タルヲ得ズ」と声をはげました。だから長男の北村小松などはグウの音も出ないほどシゴかれたし、京大柔道部の荒行
で今弁慶の勇名を洛中洛外にとどろかした甥の浅水成吉郎でさえ、こうあしらわれた。
  明治三十五年二月二日
      諧武員候補者浅水成吉郎
 右ノ者一月二十六日不都合ノ所為ニヨリ負傷致シ侯ニツキ一日ノ欠勤ヲ以テ三日ノ欠勤二算ス
 つまり北村によれば「たるんでるからケガをするのだ、このまぬけ」なのである。もっとも、これは北村の武断的一側面にすぎない
だろうが、とにかく時の中学校長をして拝跪(はいき・ひざまずいておがむこと。かしこまること)せしめたとあるから、剛気なものだ。ま、それはともあれ、前記尋中八戸分校が第二尋常中学校と改称されたこと、折からの八戸三社祭のさ中で炎上、時の県会で物議をかもした。このとき青年会が△八戸ノ発展上、中学校ヲ小中野ト大杉平ト何レニ置キテ可ナリヤ▽を討議し、票決により小中野十四票、大杉平二十票でケリがついている。
 これは、小中野の立地に青年会が無関心でなかった事を示しているが、しかし青年会が学友会に決定的な影響を与えた、という事にはならない。また当時、浜通在住の青年会員としては神田重 雄・石橋蔵五郎・中野菊也、それにのち小中野校の松木興身先生となった河原木興身ぐらいのものだ。そして、この中には個人として北村の知遇(ちぐう・人格や識見を認めた上での厚い待遇)をえた人があっても、全体としてどの程度に両団体のパイプ役をはたしたかも定かでない。そこで、このような考察よりは、むしろ学友会が青年会の△文▽を音楽演劇の領域にまでひろげ、またその△武▽をスポーツのレベルにまで高めた、という点に意義があろう。
  港から湊ヘ
 浜学友会の生れ育った土地は、浜ではなくて小中野である。それが、なぜ会名に△浜▽を冠するのかちと解せないが、これに似た例は、ほかにもある。すなわち新堀に残る湊駅、今は小中野局となっている旧湊郵便局などがそれだ。とすれば、あるいは明治二十三年の記録△小中野、昔ハ折本村ト称シテ今ノ二本杉近辺ニアリシヲ年号何レノ頃ニヤ今ノ所二移レリト。当村ハ元三小区ニシテ湊村ト言イシヲ其後、小中野村トナレリ▽に由来するかもしれない。 また小中野は平坦な土地に浜の主要機関や商店街ばかりでなく、花街や銭湯もあるという一種の文化センターであった。また、その花街や銭湯は当時警察の所管なので、そこに駐在所もあるというぐあいで、一見、タダイ(消費者)の集落をなしていた。これにひきかえ段丘からなる湊村は、ヤマド(山人)ハマド(浜人)と称されたカセギ手(生産者)の集落であった。

2009年4月20日月曜日

無から有を生む、八戸市川にイチゴ生産を実現させた偉大な魂の持ち主、教師であり農民、何より慈愛の人だった細川重計氏1

「水を飲む人は井戸を掘った人の苦労を偲べ」
こういう言葉がある。本州の北端、青森県にイチゴ栽培を提唱した男がいた。暖かい地方でしか育たないイチゴ、何故それに気づき、それを育て、市川地区に根付かせ一大事業にまで伸ばすことが出来たのだろう。
市川公民館が地域の歴史を掘り起こす努力を開始、その第一号の新聞に細川重計氏が載った。その記事で人間細川重計氏の大きさを教えていただいた。
昭和二十九年にイチゴに手を染めた。チョッと前の様な気のする昭和、ところが探すとなると遥かに遠い。どこまで、この重計氏の偉大さを記せるかおぼつかない筆でシリーズ物として追ってみる。
一九九七年、市川地区のイチゴ販売額はおよそ六億六千万円、提唱者も偉かったが追随した農家の努力が、無から六億円の事業を興した。人間力は偉大で、そして素晴らしい。ここにこそ、人間の人間たるを知る。貧乏のどん底、あれも無い、これも持たない。が、何も無いことは全てを持つに等しい。
細川重計氏はこれを実践した。
人間てのは経験の産物で、何を見、何を聞いたかで性質ってのが定まるもの。昔、長谷川伸って作家がいた。股旅物を書かせたら随一の評判を得たもんだ。
旅から旅への渡り鳥、何故旅をしなければならないのか、それが自身を探す心の旅なのか、渡世の義理立てをするためなのか、それは一人一人の境遇にもよるけど、長谷川自身が幼い頃、母親と生き別れたことが、深く心に影を落とし、母の無い子の寂しさ切なさが文章の端々に色濃く出る。
それが、大衆に支持され偉大な作家として未だ人口に膾炙される。「瞼の母」「一本刀土俵入り」などが代表作だ。現今のように、皆が中流暮らしになれば、不遇だの貧困の言葉は遠い昔の彼方に霞む富士の山のようなものにて、確かにそんな時代もあったような無かったような、奇妙奇天烈な話にも似て、長谷川伸も今の時代なら違った書き口を求められたことだろう。
人生は謎解きのようなもの、自身が求め訴えたことが叶わずして、それを不満に思いながらも子を生せば、その子にはそうしたことを味あわせたくないと、精一杯に気張って、それと異なることをさせるもの。それとても自身の裏返しで、子にとっては迷惑千万なもの。しかし、子はそれに気づくはかなり後年。母親が何を為すかは、そのときは知らぬもの。
さて、幼くして親元を放り出され、自分の知恵と才覚で世を渡れと言われたら、その子はどんな人生を歩むと思う?
世を拗ねて泥棒や人殺しになるか、それとも人の為に尽す人間になるか。細川重計氏は後者だった。
細川氏は明治三十七年和歌山県日高郡南部(みなべ)町で誕生。
南部町のホームページにはこのように記してある。
平成16年(2004年)10月1日、南部町と南部川村が合併して誕生したみなべ町は、和歌山県の中央部に位置し、黒潮の海に面した気候温暖な町で、日本一の梅の産地、また当地特産の「紀州備長炭」も多く生産されています。 海岸線は田辺南部海岸県立自然公園に指定されており、梅林や鹿島などの景勝地のほか、世界遺 産でもある熊野古道が町内を通り、遺跡など文化遺産にも恵まれています。また、熊野古道のコースの中で唯一海沿いである千里の浜は、本州随一のアカウミガメの産卵地でもあります。 早春には観梅、夏には海水浴、磯釣りと、観光の魅力もいっぱいです。 また、町内に湧く良質の温泉を利用した宿泊施設は、これからも近畿圏を中心に、各地からのお客様に広く利用していただけることでしょう
重計氏の長女、ユウさんからお聞きした話を軸に人間細川に肉迫。
重計氏が四歳の時、生木を裂かれるように親元を離れ、養子に出された。わずか四歳、何も知らぬからこそ親元を離れることができたのだろう。でも、草木をゆする風の音、瓦を濡らす雨の声にも、あっ、お母さんが来たのではないかと、幼い心は揺れ動いたことだろう。子にとって母は全幅の信頼を置くもの。又、母は子に無償の愛を注ぎ込むものなのだ。
貧しさ故に幼い、可愛い盛りの我が子を手元から離さなければならなかった母親の心根を思えば涙を禁じえない。
紅葉のような手を虚空に伸ばし、全幅の信頼を得ようと幼子が必死に母親の像を探し求める。平成の御世、国民等しく中流になれど、子が親を捜し求めるは不変。昔はこうしたことが多くあったもんだ。
重計氏の父親は僧侶。貧苦にあえぎながら人生の道を模索、生きる場を探し求める。人生は万人に等しく求める、お前の寄る辺は何処なりしや、身の置き所は何処にあるのかと。
重計氏の養子先は富裕な岩崎呉服店、順調に育ち和歌山県立田辺中学校を卒業、この中学は明治二十九年に創立された、八戸中学は明治二十六年、田辺市は和歌山県第二の都市、人口八万五千、和歌山県は郡部に人口が分散している。つまり農業県。
重計氏が中学を卒業したのは大正十一年、日農(日本最初の全国的農民組合、日本農民組合)が結成された。翌年には関東大震災(9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6。被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生)と世相は混乱し昭和へと突入するわけだが、重計氏は高等学校、今の大学に進学を希望するも養子先は商人に学問は無用と拒絶。
反物を担いで行商をするも、どうも性に合わないと飛び出す。人生の寄る辺を求め始めたのだ。坊さんの父親は知己をたどって青森県の南郷、昔の島守で高松寺を守っていた。そこを頼りに虚無僧となり北を目指した。
途中、瑞巌寺にて半年修行したというが、書き物に残っていないので、あくまでもそのようだったというだけだが、重計氏を知る手立てにもなろうと記す。瑞巌寺は皆様ご存知の著名な寺、松島にある臨済宗の寺。もと天台宗で延福寺と称し、828年(天長5)円仁の創建と伝える。北条時頼によって改宗。1610年(慶長15)伊達政宗により再興、瑞巌円福禅寺と改称。
そして無事島守に着き、八戸の尋常小学校の代用職員となった。今でこそ島守は南郷となり八戸市に合併したが、昔は田舎も田舎で通うは到底無理。そこで村重旅館に下宿。
村重旅館は寺横町、当主を村上重吉、それで村重なわけ、重計氏が教員としての振り出しが八戸だった。この後、鳩田小、鳥谷小、松舘小、島守小増田分校、田代国民学校長、鳥谷部国民学校長、多賀小校長と歴任するのだが、多賀小時代に市川地区の人々と交流があった。これがイチゴ栽培へと開くのだ。
市川地区が細川重計氏を求めたという言い方もある。身の置き所が教員以外にもあったと言う事実に驚嘆。普通の人間なら、教師になれたことで満足するところだが、重計氏はそれだけでは飽き足らなかった。小井川潤次郎って民族学者が八戸にいた。この人は昭和7年、八戸市の郷土史研究家で「工芸」17号に紹介した、藤右衛門の小絵馬は民芸愛好家たちを驚嘆させる。日本民芸運動の提唱者であった柳宗悦氏は「日本の民画史は、この発見で立派な一章を追加した」と、小井川氏の功績を称賛したほど。この小井川氏から様々なことを吸収、ことに植物に対しては広く深く知識を得る。市川地区で農業に初めて手を染めたのではなく、島守時代にすでに青果物に興味を示していた。
重計氏は八戸の青果業、仙台屋の娘ヨシエさんと結婚、生まれた子供に小井川氏から命名して貰う間柄。長女が幽。長男が黎で、幼い頃は幽霊姉弟と囃されたそうだ。近所の子供には理解できなかったのだ。そうしたもんだ。自分の経験しないこと理解できないことはなかなか進んで実践しないのも人の世。しかし、小学校校長の意見を入れ、市川の人々はイチゴを物にする。(つづく)

2009年4月19日日曜日

明治四十二年の八戸

当地には開業医十三名の多きに達し戸口に対しては過剰の方に有之候得共先輩あり新進あり各自特色特徴を有し夫れ相応に流行致居候就中世間に最も信用有之候は種市、武藤、藤田、羽生の四国手にして其呼声別して高き方に承知致居候
一に親切二に手当てと言える諺の如く医師には親切と同情無之候ては如何に技量が抜群にても又衣服が雅美にても患者には左程効能を感じ不申候貧家にもあれ夜中にもあれ請求次第往診し貧家なれば夫れだけ同情を表し富家との差別を立てずして診療可致は仁術の仁術たる所以にて可有之然るに十中の八、九は患者の身元を本位とし富家なりと聞けば道路の遠近と昼夜の区別とを問わず診療中の患者を放棄してまでも飛び出すが常態にて有之又之に反し貧家なりと知れば現に在宅でありながら不在を唱いて玄関払いと致し百万遍請求したればとて梃子でも動く者に無之若し其患者に薬価の停滞等有之候場合は反対に全部の払い込みを求め候など為に診療の時期を失し急症患者は往々非命に斃れ候者も有之其の不仁術の所為実に悪むべき次第と存候
種市良一国手の今日に於ける盛運を開かれ候には種々なる遠因近因も有之候得共同氏は先天的親切と同情に厚き人に有之内外両科の衝に当たり日々暇なきに関わらず患家より急聘これ有候時は如何に劇忙中にても又就寝中にても往診し其の患者に対する言動の親切なること宛も慈父母の如く所謂一視同仁にしておきがたき患者なりとすれば請求を待たず回診いたすのみならず薬、診療費如き正確不足あればとて決して過当の請求なく十年一日の如く其の職に精励せられし結果にほかばらざるものと存候
しかも氏は深く公共事業の観念に富み又後進養成の義侠にも富み篤志看護婦会外二、三の嘱託講師を担当しかつ多年避病院の主医師として尽力せらるる所あり後進生の為には自費を擲って学資を供給しよく其の器をなさしめたる者少なくこれらは世間の未だ知らざる所は貧家に対する氏の同情にこれあり候医師の多くは仁術の名を売りて患者を招致せん為め故らに貧困者には施療すなどと吹聴いたしおり候得共其の実は偽善的名義のみにして適々施療を乞うものあれば役場の証明書を持参せよとか申し込みの言語が横柄にして無礼なりと種々理屈を主張し容易にその請求に応ぜざる者多き由然るに氏は患家の内情を実見し薬価等の支払いに差し支え候者と観察いたされる時は施療と言わずして仮に五円ある分に対しては五十銭若しくは一円として名義を付し実費なりとて申し受け又真の貧困者に対してはかなり手数を省略し施療を快諾せらるるが例なりとうけたまわり候などは全く氏が天性の発揮する所にして他の容易に企て及しあたわざるところの義と存候
氏は資性温恭にしてしかも精敏の気眉宇間に充溢し侵すべからざる所これあり
医師と看護婦もしくは患婦等に醜聞関係のあるは当然、之なきは寧ろ不可思議位の今日に際し氏には更に右等の醜評これなく以って氏が如何に身を奉ずること謹厳かつ方正なるを知り得べく候氏が嗜味は医学上において旧説にも深甚なる趣味を以って研究し又新説に対してはあらゆる著書を渉猟し出京の折は大家について研鑽修得せらるるの一事にこれあり畢竟職に忠実熱心なる結果と推考致し候とにかく氏の如きは斯業界にめずらしき一人物と称するも決して溢美ならずと確信致しおり候

○ 魚市場不認可
十一日町に新たに魚市場を設置すべしとて小松辰次郎より出願したる件は調査の結果知事より不認可の結果を受けたりと
○ 舘村役場移転問題と正義派
現在の舘村役場は一時民家を賃借し充用し来れるものなるがいやしくも一村の政務を取り扱う公衙としては不適当不体裁なるより之が新築の必要は数年前より村内一般の認める所となりし結果右費用としてすでに七百余円を準備せしより愈々機熟して本期の通常村会於いて満場一致新築を可決し事なるがその際位地に就いて寺沢議員より建議あり其の大要は従来の役場は一部の村民には便利なりしも多数の村民は二十余年も不便を忍び来たれりを以って今回の新築を機とし一般の便利を図るが為め大字八幡に卜定すべきと言うにあり採決の結果五名に対する七名の多数にて可決確定したるに関わらず反対派は個人利害を本位とし無知の村民を扇動して種々運動を取りしより出町村長は無責任にも超然主義を言明して尻を監督庁に持ち込み其の処断を放擲し更に頓着せざる有様なるより正義派の寺沢、吉岡、佐々木、三浦、出町、松田、岩沢の諸氏を首めとし村民四百余名は大に村長の優柔不断を憤り村会の確定議を無視し暗に疑いを反対派に通じ両天秤を振り回すに於いては先ず不信任を決議せざるべからずといきまく者ありいづれ本問題の解決如何によりてはひと活動を見るべき形成なり監督庁は宜しく世論の趨勢に稽いこの際速やかに解決を与えるが必要なるべし

明治四十二年四月十九日版
鯨体解剖所再挙の絶望
沿岸漁民に対する報復手段
解剖所設置の絶望 大日本捕鯨会社の企画せる蕪島に於ける鯨体解剖所の設置は地方庁より不許可の指令ありたるを以って彼らは更に鮫沿岸の私有地を卜し再挙を企つべしとの説ありし故、吾はとりあえず之を前号にて報じおきしが尚聞く所によれば彼らが目指せし該私有地は鮫村松橋兵八氏所有の由にして、同氏は捕鯨問題の起こるや率先挺身解剖所設置に反対したるのみならず、資性狷介剛直利益に叩頭(こうとう・頭を下げる)して公益を無視するが如き人物にあらざれば、捕鯨会社の交渉には到底応ずべくもあらず、かつや幸いにして適当の地点を得て之に設置するとても激昂せる沿岸漁民は袖手(しゅうしゅ・何もしない)彼らの為すがままに委(まか)すべきや、多数の利益に反したる企業化に対する高圧的運動は、吾のしばしば目撃する所、○○彼の鉱毒問題やトロール事件にても一般の知らるるべきに非ずや、今日当地沿岸に於いて捕鯨解剖所を強いて設けんとするが如きは吾は一営利会社の為に之を取らず、かの如きは徒に地方の公安と安寧を害うのみにして、百害あって一利あらざればなり、之を○するにかく漁民の一致反抗ある以上、近海沿岸に於ける解剖所設置は当分絶望なりと言うべきなり
はちのへ紙の狂態
捕鯨問題の起こるやいち早く之に賛辞を呈し社員を石田亭に伺候せしめて解剖所設置に助力至らざるなかりしは「はちのへ」新聞社なりき、彼らは捕鯨解剖を以って何等漁業に有害なるものに非ずとなし、捕鯨会社企画を以って地方における一美挙と頌し之に反対するは狂愚の所為と断ぜり、すべて一朝漁民の大反抗来し、我が社亦漁民の言うところに聞き敢然として本問題解決の任に当たるに及び天下の信望○然としてわが社に集中するを見るや、「はちのへ」紙の懊悩煩悶言わん方なく遂に去る十三日の紙上に於いて一大狂態を演出するは読者諸君のつとに知らるる所なるべし、彼らは冒頭第一に水産家の言に聞き漁業に対して妨害になるものではないとの言を信じ漁家の間接なる利益なるべしと思うて書きたる迄なりと弁ぜるも、之何等弁解の辞となるものに非ず、いやしくも一管の筆を握りて職を操觚(そうこ・文筆に従事する)に任ず、一言一句も直に幾万生霊の安寧幸福に影響する事あるを思はば、何ぞ軽々に速断盲動を許すべけんや、「はちのへ」紙の言の如きはただ自家か無定見無方針無見識を表白するのみと知らずや、而して二つ石事件の当時極力尽瘁(じんすい・一所懸命に力を尽して労苦する)して漁家のため貢献しても一文も強請もせず恩を売ったこともなし、何時も漁家の不利益を図る様なことはせじ、今回の事も決して漁家の不為になることではない元々利益する所あれと祈る所から報道をした迄である。口吻は宛然としてよく小説にある「お前をアノ旦那の愛妾としようとするのは、決してお前の為悪かれと思うからではない、お前をこう大きくするまでには並大抵な苦労ではないのだ、お前に三味線や遊芸を仕込んだが如く愛妾とするのも、お前が立身の為」との強欲婆が養女を猫なで声で説得するにも似たらずや、彼らが沿岸幾万人の犠牲とせる、捕鯨会社の企画に賛助を与えながら一方漁民に対しては其の利益を保護すると称し、又次号にては翻然反覆遺憾なる指令なりとか、理事の懐旧談とかの泣き言を陳ね、首尾転倒支離滅裂論旨の透徹せざる吾はむしろ気の毒の感にたえざるなり、殊にわが社に対する讒誣(ざんぶ・他人を陥れるため、事実を曲げ悪く言うこと)の材料として二つ石事件と福田祐英氏の往事を並べし来たり、石橋、福田の両氏ともわが社同人の同志なるは事実なり、然れども是は或る限度の社会上の行動における同志で、二つ石事件や漁業組合やに於ける二氏の行為は例え如何なる行動ありしにせよ、責任は両氏において負担すべき一個人の私行為にして、決して吾の責務に煩いすべき限りにあらず、然るに「はちのへ」紙は鬼の首でも得たるが如く之を以って吾が行動を律して中傷を試みんとす、あたかも黒布を以って太陽の光輝を奪わんとするの愚と選ぶなけん也、かつや「はちのへ」紙の陋態(ろうたい・いやしい様子。みぐるしい姿態)として二言目には必ず金銭問題に非ずんば選挙の際に於ける利益問題を云為す曰く奥南社は運動費若干を強請して拒絶せられたりと、曰く選挙の際に於ける利益の提供を迫りたりと、是等は自己のみにくい心を以って他を忖度するの甚だしきもの也、吾は政見の抱負より時に逐鹿場裡馳駆することなきに非ず、又金銭は或る程度まで社会的活動に必要ならん、然れども是あるが為に吾が究極の目的はこれありとなし、吾の行動は一々之に拘束せられるとなすはあやまれるも亦甚だしと言うべきなり、殊に本問題の如きは地方沿岸幾万人の利害休戚(きゅうせき・「休」は嘉、「戚」は憂の意 喜びと悲しみ。よいこととわるいこと)に関する一大問題にして、決して党派関係や利益私情を挟むべきの問題にあらず、勿論「はちのへ」紙の妄言の如きは世上一人の之を信ずるものなく我が社の公明正大は既に大方識者の諒知せらるる所なるを以って敢えて弁妄の要を見ざるも一言ここに真意を陳せん、吾は彼の権勢におもねりて言を枉げ黄白に眩して説を二、三にするが如きは断じて之に与せじ、世の詼諧かいかい・おどけふざけること。おどけ)売文の徒と同列視するに至っては吾は実に片腹痛きに堪えざる也
腹癒せ的報復手段 
長谷川一輩の徒は沿岸に於いて到底解剖所設置の場所を得ざるより、漁民に対する腹いせ的手段として利益の損得に係らず、近海地先専用漁区域外に捕鯨船を引き来たり、面当てかたがた捕鯨解剖に従事すべきを公言しつつありと専用漁区外にての彼らの行動は法制上或いは沿岸漁民の如何ともする事能はざる所なるべきも漁民の凡ては申し合わせたらんがごとくに実に左の決意を有せるを知らざるべからず
一沿岸漁民は捕鯨船の近海に立ち寄るを断じて許さず
一漁民はこの目的の為めにはあらゆる手段を講ずるを辞せざるべし
かかる決意を有せる漁民に対抗して捕鯨業に従事せるは捕鯨会社の立場として決して策の得たるものにあらず、捕鯨会社たる者宜しく事件の大局に注視して速やかに近海沿岸における一切の企画を徹し漁民をして一日も早く不安の念を絶たしむべき也、今や本問題も一段落を告げたるを以って吾は一先ず筆を置かんとするに当たり大方識者の指導に依り、吾が微力を以って本問題解決に涓埃(けんあい・しずくとちり。転じて、極めてわずかなことにたとえる)の資をいたしたるは、吾の密かに快とする所なると共に諸君が指導に向かって其の労を謝せんと欲するもの也
三戸郡第二回物産展
評価ニ二等賞を得たり
箪笥家具小細工業
八戸十六日町上角
西村徳助
春肥用格安魚粕種々仕入れ置き候
八日町
大岡肥料店
弊館調整の写真は色沢鮮美不変色にして最新流行各種写真大勉強貴需に応ず
写真 各種大勉強 中番町
高野写真所
弊館は懇切を旨とし且つ御満足を充すに努め多少に拘わらず出写のご依頼に応ず
各種博覧会品評会において
銀牌銅牌及び賞状を得たり
十六日町六十番地
最上醤油
しら藤印
味噌各種
加藤庄五郎
新流行
教員学生服
元浅沼
清野裁縫店
二十三日町

2009年4月18日土曜日

奥南新報続

三戸の昨今
松十旅館の改良
昨今諸事改良加え勉強と誠実を旨とするより投客の気受け頗る良好なりと

八戸町会議員名寄帳
今淵正苗氏
今淵さんは医者だと言い、高利貸しだと言い、湯屋の亭主になったとまで言う、それもそのはずか、何時先生の前を通ってみても看板が真っ黒になってしまっていて医院とも診療所とも読まれぬ、それは患者も薬収も見えたことがない、一方には大分お金を貸し出し召される、高利の事とて貸す方にも借りる方にもそれ相応の無理も魂胆もあるものと見えて始終刑事沙汰が絶えぬ、我々も其の手練手管を聞いてはいないが滅多には明かさぬ、この事実からして今淵さんが医者から高利屋に転業したと思うのは全く以って無理もないけれど僕が名寄帳を作るについて調べた所によれば正に金貸しを営んではござるが医者も其のまましてござる、昔から医は仁術と言う、その仁術の看板揚げた表には日がな一日人っ子一人寄りつかないで、血を吸い肉を殺ぐような裏手の高利屋が爪も立たぬ程な繁盛とはそもそも浮世は不思議なもの、裏と表とは元より反対に相違なけれどこれほど違った両面を一っ胸で使い分けるとは到底事実が合点せぬゆえ気に叶った一方のみ発達するのは当たり前のことならずや、ヨシヨシ分かった、そもそも湯屋の亭主とは如何、それにも曰く因縁があれど(以下不明)
を以って推されたる一人なりしが廃校後上京して医科大学中の別科生となり業卒って郷に帰り開業以って今日まで経るが先生は斯道における学術経歴共に奥南医界の牛耳をとるに足るのみか其の豪儀の気性と不屈の意思とに至っては更に歓称すべきものあり、僕が初手からして先生と崇めるのも単に医者だからばかりでない所が思いきや、それが高利貸しの方へ発展しようとはだ、併し其の所が先生のことだから大に貯めるは大に散ぜんが為かも知れぬ未だにわかに非難するべきでないと思う
(以下略)
○三本木通信
当村において最も信用ある各種を挙げれば益川呉服店を首めとし酒造家は三浦由竹、小間物屋は川崎新兵衛、請負師は南専松、金貸し業は大竹久八、医院は佐竹左門、菓子店は中島曙庵、貸し座敷は福遊楼の島田某、料理屋は三輪兵太郎、写真師は○原某、侠客は中村倉松、米やは三浦友次郎、豆腐屋は菊池茂、湯屋は佐々木クラ(以下不明)
八戸町会議員名寄帳
石橋源三郎
同じ石でも玉につく石もあれば瓦にも劣る石もある、石橋叩いて渡ると言えば至って堅いはずなるに其の実は焼け石ボロボロ箸にも棒にもかからぬ代物ありとぞ、同じ石族の中にも石橋源三郎と呼ぶ軽石みたような浮かれ男はあれは全体とうの昔、小中野へ男妾に住み込んだと聞いていたに驚いた、驚いた、町会議員とは驚いた、初めてそう聞いた時は定めし何かの間違いであろう、小中野廓内に日曜会とか呼ぶ四角張った名前の売女団体があるそうだからその役員でも為ったと思うたに、これは案外千万なるご出世、去るにても刷新凄まじくかかる名議員達を吹き集めて何事の誤相談召さるにや、八戸も段々道化てきていずれ其のうちには役場からエンブリでも出るように刷新するであろう、その時はこれらの人も満更役に立たぬでもあるまい、源ちゃんは第一背器量がいい、さしづめ藤九郎という役目だ、老後の思い出に一踊り踊るもこの上のご名誉であろう、ただしこれは未来のことだ、何かさし当たっての仕事があるまいか、あるある、好いのがある、写真を撮ることを知っている、先ず町会議員を一人一人撮影させて芸者なみに技術の標本とてもして「はちのへ新聞」に掲げることは当人も議場で口を叩くよりかお易い御用であって掲げられた仲間が嬉しがっておまけに新聞が一段と器量を上げるに極まったり、唐にも天竺にもこんな妙案が又あるべきやは、傍聴席の我々も大いに頗る賛成申す、右の次第でこの先生八戸には滅多にいないが、それでも何時の間にか、男の子を三人までも拵えた長男は或る料理屋が蝶よ花よと育て上げたる娘を孕ませた、さすがにおれの子だと喜ぶかと思いの外の大立腹で手を切らせた、己目の前に実行を見せ置きながら親の真似をしたとて怒るとは甚だ聞こえぬ理屈だが次男も三男も家の金銭を持ち出して女と賭博に使い捨てたことはいくら 「はちのへ新聞」に頼んで奥南を虚報呼ばわりしても打ち消し難き事実である、結構でござらぬか、親に似ぬ子は鬼っことさえいう「お前によう似たやや生んだ」カカアからして誉めねばなるまい、豪傑の子多くは豪傑にならざるに反して放蕩者の息子を立派な放蕩者に仕立てるとはなかなか人の及ばぬ所、ハハア議員になる値打ちはこの辺にてもあるのか畢竟実物教育の効験恐ろしや恐ろしや
○愛国婦人会当町有志の義捐金募集
金一円柏崎新町正部家キヨ、金五十銭二十三日町金子キク、八日町藤田ミ子、金三十銭番町武藤ナホ、二十三日町藤井ミ子、同藤井カク、長横町西舘ノブ、山伏小路柳川テル、八日町大岡リヨ、金二十銭十三日町中村サイ、同中村カク、同村井トミ、同大橋トメ、荒町西川トメ、同下斗米トラ、同吉田コト、同滝沢リチ、同滝沢スエ、糠塚大原ヤエ、六日町岩岡フジノ、同小野寺ツキ、長横町西舘マス、同高木リキ、朔日町古内フク、同松館ミナ、十一日町広田トク、同田村キヨ、同西舘エキ、下大工町羽生ミドリ、同石橋カシ、柏崎新町接待ナツ、類家白井シゲ、同吉川ソノ、二十六日町大久保コト、三日町橋本トク、大工町杉村キン、田代村小野寺イシ、八日町米川フジ、二十八日町石橋トヨ、金十五銭六日町岩岡コノ、同岩岡アサ、金十銭八幡町井上マス、同植村ミワ、鳥谷部町佐藤ツユ、同岩崎カナ、十三日町加藤ハマ、同三上トキ、同高橋ムラ、同高橋トク、同大橋ヤス、同加藤カ子、同林タキ、同林ミセ、同安藤アヤ、同大橋トヨ、同八田ユミ、荒町福井カ子、同更沢カ子、同下斗米ハツ、同大島ミチ、同川口トク、金十銭荒町島守ツル、同船場トラ、新荒町八田セン、同大久保マツ、同北村イツ、同大野ソノ、同斉藤イワ、同斉藤ミヨ、同三井ヒサ、徒士町鈴木セイ、稲荷町山崎ウタ、同稲城タカ、同稲城ヨノ、上組町大久保トミ、長横町木村クラ、同江刺リエ、朔日町大山ヨシ、同宮本サト、十一日町石橋まさ、下大工町高橋ナヨ、柏崎新町玉内チャウ、同久水リエ、岩泉町楢舘 ナカ、番町小野寺スカ、同大村スエ、山伏小路寺井ミ子、同折壁トウ、鍛冶町岩崎イツ、同扇藤スエ、同上野トク、大工町高橋イシ、同松宮トミ、同安藤キイウ、同松村キヨ、類家工藤リセ、同工藤キサ、糠塚河合トヨ、六日町工藤ハル、二十三日町大久保イシ、下組町名久井チヨ、同安藤キク、同牧野ヨシ、同下斗米スエ、同河原木サダ、八日町小笠原タ子、同稲田スエ、同荒木田フク、三日町村井ヤヨ、十八日町桑原ヒデ、番町楢舘ツナ、上徒士町都築テル、町組町西久保ナカ、金五銭十三日町村井カヨ、新荒町根城サヨ、本徒士町稲葉ミチ、下大工町杉山ハル、長横町滝沢チヨ、山伏小路神山ヤエ、三日町中里ナカ、下組町千葉キン、同千葉スエ、鍛冶町久慈トク、
○前浜遭難溺死者弔慰金寄付人名簿
佐々木馬吉、猪内孝三郎、久保沢三郎、熊野石太郎、林岩松、清水三郎、荒川三郎、佐々木市三郎、軒申松、松田成松、富田忠次郎、磯谷熊吉、富田長治郎、株五郎、荒川岩松、清水松三郎、富田丑松、富田由松、柾谷宇之松、伊保内寅之助、佐々木金蔵、佐々木寅之助、佐々木熊太郎、浜田弁吉、佐々木孫三郎、佐々木元太郎、浜浦八太郎、沼田岩松、佐々木孫市、寺戸直太郎、新町三太郎、佐々木石松、佐々木ふく、山内丑松、小林藤松、佐々木寅吉、荒川吉五郎、佐々木三郎、南五郎、磯谷甚太郎、磯谷仁蔵、佐々木千之助、磯谷由松、山内與吉、高橋初太郎、清水八十八、佐々木末吉、清水丑松、清水菊冶、清水兼松、清水三郎、鍋島五郎、清水三之助
○八戸町会議員名寄帳
石橋万冶
石橋家は八戸町の旧家たると同時に名族である、したがって人物も輩出したが近代に於いては先ず万冶氏を推さねばならぬ、宗家の寿備翁は飄逸高雅の人であったが常に「我が一門中幸いに万冶のあるを以って我徒を代表せしむるに足る」と人に語られた翁の明鑑宏量も又称すべきである
石橋万冶氏は町会議員中最も長く勤続しつつある且つ郡会議員もしたり県会議員ともなられた人である、実業方面に於いてはこれまた長年の間階上銀行の重役をも兼ねられた事がある、そうしてこの節は家政をば令嗣直三郎氏に任ぜられて自分は徒士町の別邸に専ら養蚕を事としておられる、氏は斯業を以って地方開発上重要なる事業の一として身をもって之に当たらるので、氏が出るにも入るにも常に地方公益の為に心を致さるるのは今更の事ではないが他にあっては安逸を貪るべき位地を以っては事業の為に老いの将に至らんとするを忘れらるるとは宜しく多とするべき所である、氏の如きは実に政治方面に対しては八戸町の元老と称すべきである
氏は性質沈重温厚しかも内に毅然として侵すべからざるの精神気魄を蔵せらる、他に対して任せらる限り任せる、譲られるだけ譲る、しかも其の限度を超えるに至っては断じて許さぬ、氏の政派を起こせる乃至選挙を争えるもの詮なしこれはみなこの精神の実現に外ならぬ、かつて土曜会の企てあるや氏実に発起者の一人にてありき、しかるに創立総会において気に食わぬ会員を名簿から除きおきて退場を迫るの狂態を演じせしよりさすが温厚の氏も別に公民会なるものを設けて一旗幟を立てるのやむべからざるには至れりき、しかして氏は該会領袖の一人として概会の益々隆盛に赴くと共に氏の名声も亦愈々重きを内外に加えたりき、氏は元より自ら陳頭に立って華々しく剣戚を振るう所の戦士ではない、しかしながら枢機に参して大体を案じ作戦の計画をめぐらすについては頗る大切なる名将である
○六ヶ所村通信
山役人の休職
野辺地小林区署当平沼保護区詰なる森林主事菅英氏は昨年六月中より隣村甲地村長者久保保護区を兼任することなり爾来両村を受け持ちおりしが先般青森地方裁判所において官印盗用森林窃盗の罪名の許に重禁固一年半の処罰を受けたる天間林村榎林千葉三郎との間に該事件に付如何わしき風説ありしが、それかあらぬか本月中旬に文官文限令により休職を命ぜられたり