2009年1月4日日曜日

悪ガキばんざい パート6



戦後の風景 風の又五郎
なにか平常でない気分になり車座のなかから急いで立ち上がった。目眩がして道端に、どーんとあおのけに倒れた。夏の空の明るすぎる青がまぶしく目の底が痛かった。顔が火照り、むかむかと吐き気がして頭のなかがおかしい。どうしたものか身体が思うように動かない。何が起こったのか、始まったのか、よくわからない。五人は私の顔を心配そうに覗き込んだが私の身体は硬直をしたままだった。酔っ払ったのだ。悪酔いしたのだった。これはお花見の宴でもないし、青空酒場でもない。ましてや大人の酒盛りでもない。
私は小学四年生、同年が二人と六年生二人、親分風情の男は十八、九歳であったろうか。噂で聞くところによると、この若者のことを「予科練くずれだず」と言う。
悪ガキ仲間に誘われて、「なにか面白そうな遊びをやるらしい」と集まった。
敗戦となり、大人も子供も混沌とした世の中をどのように生きていくのか、またどのように変化をし、どのように楽しんでいくのか、全く予想も見当もつかない状況であったのだ。自由という敵国のアメリカから押し付けられた、訳もわからぬ二文字をどのように解釈をしたものか、そして誰にも簡単に判りやすく説明もしてもらえなかった。学校の先生でさえ180度の方向転換の世の中を説明できなかったものだ。それがなんとも不思議な出来事であったと、今にして見てもつくづくと思うのだ。
この予科練くずれの青年の名は忘却したがその行動は子供心に強烈な印象を残した。予科練にちなんでこの青年をYと呼ぼう。背丈はそのころの日本人の標準で五尺二寸ほど、(約1.6m)、現代では決しておおきいほうではない。細身でキリッとした風貌、色白で面長、今風で言えば、「イケメン」だが眼光は鋭い。身の動きは小きびのいいほど速く、常人にはとても真似ができるものでない。筋金入りの特攻隊訓練をうけ、土壇場で終戦となった。「故郷に帰ってよろしい」の一言で敵国であったアメリカの占領下になってしまった混乱の社会に放り出されてしまったのだ。命は失わなかったが失ったものはとてつもなく大きい。人間ひとりのエネルギーは果てもない量と不思議さを、こんな老爺となった今つくづくと感慨しているところである。Yはそのエネルギーをなにかに差し向けなければ生きる自信も、誇りも持ちこたえることができない。生きることとはたったそれだけのことの理由なのかもしれない。
Yはどぶろくを見つけてきた。古くからどぶろくは農民や漁民のささやかな楽しみとして存在したものだが、国家はそれにまで統制をし税金をかけた。当然隠れて製造して飲み、売った。当地の隠語で「オッホ」と呼ぶ。鳥のフクロウやみみずくをこのように呼ぶが語源は知らない。夜行性の鳥だから闇に引っかけたか?
警察や税務署の目を逃れて豚小屋のなかや地下の室に隠して製造した。製造などという大がりのものではなくくず米や澱粉質のものであれば芋でも麦でもよいのだ。しかし、出来が悪ければメチール分が多く、飲んだら頭痛がおきる。悪酔いして嘔吐する。また、不衛生きわまりないので雑菌が増え、呑んだ人間に悪さをする。隠れて仕込んでも醗酵がはじまると一面に匂いが漂い警察に踏み込まれたりした。
Yは一升ビンに白い液体を満たし持って来た。「それは何?」「牛乳せ、呑ませすけぁ、こー」呑ませるからおいでということだ。
みんなでついていったら遊郭街の裏、細い道無き道の、ある民家と民家の間にある草むらだった。袋小路でひと気のないところになんで入り込んだものか?たかが牛乳を飲むためにである。車座になってYは湯のみ茶碗を取り出し廻し飲みをした。私は口にしたときに酸っぱさと妙な甘さと鼻につく臭いに「これは牛乳ではない」と気がつ いたが、みんな平気な顔をして飲み干していた。私も知らん顔をしなければと平気を装った。終戦直後の食い物も酒も枯渇して偽物、まがい物が横行して、酒もどぶろくもアルコールの度が上がらず改善策?として安く出回っているメチールアルコールを混ぜこんだ。いつの時代でも悪い人間はいる。メチルは燃料用で毒性が高く、飲んだら内臓や視神経がやられ、死亡することもしばしばであった。この危険な飲み物はバクダンと呼ばれていたが、これは正当?な、どぶろくだったであろう。それには、死にもせず、目もつぶれなかったのがなによりの証拠だろう。
私がひっくり返って間もなく、あとを追うように「うーん」とうめき声をあげて倒れた。骨に皮がついたように痩せたSだ。お菓子屋の息子で、まだ砂糖や材料が出回らずに親父の仕事は休んだままだ。私は一杯で出来上がってしまったが、Sは二杯で昇天状態、ゲロがはじまった。間もなく悪ガキどもは全員ゲロで滅した。
「呑め、のめ、もっと呑め」Yは持ち前の鋭い眼光が消えて、信じられないほどのやさしい童顔になった。がぶがぶと水でも呑むようであったが一向に酔った風も具合の悪い風もない。やはりYはこんなことまで鍛えられてきたのか。
「わらしぁ酒呑んだらわがんねーだどー」子供は酒呑んだらいけない。
Yが次の日に口にした言葉であった。二日酔いで頭痛の子供の図は、今でも強烈な印象としてのこっている。ガキどもは、酒とは恐ろしいものだと感じたのだろう。(恐ろしさも慣れれば快感になるか?)これは実践の教育であったと感謝している。おかげで私はこの歳まで酒で失敗をせずに過ごして来たものである。
Yは野球にも長けていた。投球のスピードもコントロールもプロ選手並。「ほんとうは野球選手になりたかった」とぽつりともらした事があった。当時はめずらしい存在の左腕も右腕も同様に使い分けた。
しかも剛速球なので草野球が盛んになりつつ あるチームでは引く手あまたの人気だったが、どこにも所属せずに、あちこちのチームを手伝いのように、神出鬼没で渡り歩いた。それらのチームはみな勝利を手にした。
ボールはまだ全部がゴム製(軟式)になっていない。布を重ねて巻いたものがほとんどで古い布は各家庭にあったので簡単にできた。大きさもボールの重さも千差万別、硬球様、軟式様、中には鉄球並の重いものまであった。こんなものでデッドボールでも食らったら、と考えると、ちょっと恐ろしくなった。市内の空き地では三角ベースの野球が流行りだした。ダイヤモンドのベースを一つ減らすとバッターの順がまわるのと試合運びが早いのでみんな好んで三角ベースで遊んだ。グローブはたったひとつ、ファストミットだけで、これをキャッチャーミットとして使った。あとは素手なのだ。
ある日のことYが監督でとなりの剣吉町のチームから試合を申し込まれた。はじめての遠征だ。汽車賃が足りずに小中野から尻内の駅まで線路をとことこ歩く。七人の侍ならぬ、七人の悪ガキである。家もまばらな長苗代の危ない鉄橋を渡って行った。長い鉄橋なので汽車の通過時間に遇ったら大変なことになる、これで何人も死んでいた。
Yは尻内で列車を2時間も待つ間に色々と教える。「ほら、あれみねぇがー」指差す方の高い壁に大きな時計がついている。あれを見ろということだ。真中の紙に二文字、不良と書いてある。
「あれぁなーわんどのごどだんでぇー」我々ガキ集団はみな悪い人間、すなわち「不良」だということだった。時間を正確に、が仕事の国鉄も時計はぜんまい仕掛けなのでよく壊れた。役に立たぬはみな不良と言うことだ。
試合は夕方まで続いたが、何もかもコテンパンに負けた。トンネル、フライは顔面で受け青タンをつくり、膝はすりむき、突き指、12対0の惨敗であった。あとで分かったことだが、みんな、Yに「不良」と呼ばれたのがショックでがっかりしてしまい、試合に集中できなかったのだ。試合に負けたのは監督のYの責任であったが、「子供の分際でどぶろくを呑んだり学校をサボったりするのはやはり不良と呼ばれるのが当然か」と真剣に思ったり悩んだりした。けれど学校はサボるといっても、二部授業のために午後に登校したら午前に終わっていたり、またその逆などであったりで欠席になっていたものだ。なにもかもが混乱の時代だった。悪いことを実践させて、それを諭す、極めて危険なことではあるが、それは真の教育の理念であったと思う。
私はそのような数々の出来事によって戒められたせいで、この老爺になるまでに大罪を犯さなかったと言ってもいいのだろう。小さな罪を重ね、自分を許す、それを繰り返し、何もかも拡大解釈をする。そのようなことのないように、子供のころの根っこは生きるのだ。と私は信じている。
そんなある日Yは元気がなさそうに足を引きずってきた。包帯を巻いた右足には血が滲んでいる「どうやったの?」どうしたの?悪ガキ連中は心配だ。「うん、船を跳んだら転んでなー、」
運動神経は常人の数倍も機敏なYには似つかわしくないことを口にしたのはおかしい。でも、それ以上のことはなにも口にしない。
Yは川に係留している休漁中の漁船をねぐらにしているらしいが、その日によって川下だったり川上だったりする。だから、こちらから訪ねる事などは一切叶わない。時として身の軽さで沖に出て漁を手伝ったりして金子を得ていて、窃盗などといったものには手は染めなかったのだろう。強烈な正義感の持ち主であったことから窺えるのである。Yが怪我をしてから一月ぐらいが経過した、暑い夏もおわり朝夕にはひんやりとした風が吹き、街角では、きみ(とうもろこし)を煮て売る。甘いものはまだ一般には出回っていない。これは、おやつではご馳走の部類なのである。大人も子供もおしゃべりしながら、あたかもハーモニカでも吹いている格好で食べる。
「まだ、ゆんべ新地でなМPぁピストル10発も打ってなー。わげー者一人うだれだずー」だれかМPに打たれたらしい。新地は色町、進駐軍が入ってきてからここも占領されたようだ。パンパンと呼ばれる米兵(ヤンキー)相手の女にありつけないのがぞろぞろとこの街に現れる。そんなヤンキーに日本男児はキンタマを抜かれた馬のように大人しい。黙って見ているだけで、好きに、大和なでしこをシコシコさせて(でかいのでギィコギィコか)いいのかョ。悔しくないのか。子供ながらも浅学の知識をフルに使ってそう考えたものだ。(まっせたガキやなーの声あり)しかし、しかしである。私が成人した頃のその筋の関係者?から聞いたところによると、正にその通りのことであった。女たちはヤンキーを相手にしたら一週間も仕事が出来なくなる。車のエンジンならボーリングして排気量が増えるので馬力が出ようが人間はそうはいかぬ。
ヤンキーが来れば、お女郎たちは皆、逃げ回ったそうな。100キロ爆弾や500キロ爆弾は、やはり相手にしないほうが安全であったらしいのだ。
「やーやー済まぬ、ちょっと脱線したがこれもエッセンスや」 筆者
小学生のわんどだって戦争負けたことの悔しさも無念も残っていた。ましてや大人たちも歯噛みするほどの悔しさだ。若い良家の子女も生活に困り、喰うものだけで腹を膨らませられるのならまだしも、下から喰わせ、腹が膨らんで青い目の児を生む、黒い肌の児を生む。そしてこの悲劇はなんともこの上ない屈辱であった。こんな話が巷にあふれた。
時として私らガキの集団で石をポケットにつめ、この町内の闇に潜んだ。ヤンキーが現れると「投げろー」掛け声で一斉に投石をした。ゴムパチンコは効果が絶大であるが、もし捕まったときには証拠が残るので控えた。幾人かのヤンキーに傷を負わせた。真珠湾攻撃はまだ続いていたのだ。
悪ガキたちの戦法はこの程度だった。うっぷん晴らしにしかならないこの程度だった。こんなことを続けていたら駐留軍の憲兵МPがこの街を頻繁にパトロールするようになった。持ち物はピストルもデカイ、腰に一丁、ズボンの中のと、いつでも二丁拳銃な訳だ。あんな奴等の弾に当たったらひとたまりもない、昇天じゃ。ヤンキーは臆病だ。特に得体の知れない出来事には過剰といえるほどの反応を示す。これはアメリカ大陸を強奪した歴史から始まったようである。安心できるのは相手を「根絶やし」することのみだ。
二日を空けずにYは私らガキと遊んでくれたが、ここ一週間ほど姿を見せない。ガキ仲間からもなんの情報もない。
巷の大人たちの噂ではここ三月ほどの間にヤンキー(米兵)が襲撃され傷を負ったので、駐留軍司令部から町内の会長あてに抗議の書類が届いているらしい。「わんどの石の攻撃なー」「知らん振りしなければ」
話の続きを聴いて驚いた。闇にまぎれて辻斬り、のようにだとのこと。忍者のように黒い装束で日本刀を携え米兵に切りかかるらしい。左の手首を切り落とされたヤンキーが一人。鼻を切りつけられ人相の変わってしまったのが一人。股の下から切りあげられ睾丸摘出が一人。でも殺しはしないのだ。当時の日本男児としては、痛快このうえない話であった。キンタマ抜かれた日本男児がその相手のキンタマを抜くとは、快挙な出来事であった。
Yのことが地元新聞にでた。ヤンキー
切りつけ事件の容疑がかかっている。
「そうかもしれない、きっとそうだろう」
予科練で鬼畜米英と叩き込まれ、死んでこの国を親族を守ることを覚悟した人間に簡単に「状況が変わったので忘れてくれ」は通用しない。男、日本男児として正義の理念と情熱は持ち続けなければ生きていけないのである。Yは足の怪我を負ったのはМPのピストルで撃たれたのだった。その傷が癒えた一月後に、また撃たれた。今度は十発も発射した。ここは戦場でもないのに、である。道端に点点と血液がしたたり落ちた。それは、新井田川の川岸まで続いていた。大きな はしけ船の前で滴る血液はぷつりと途切れていた。
「川に入ったものだろうか?」
「やはり死んじゃったものか?」
「いやいやYことだ、あの機敏な身体とちょっとでは、へこたれない精神力と強靭な正義感できっと生き延びている」
わんど悪ガキ。