2009年2月16日月曜日

司馬遼太郎の八戸の話


講談社文庫 日本歴史を点検する
海音寺潮五郎と司馬遼太郎対談集
八戸の話が出ている部分を抜粋。半分当っている。
海音寺 津軽家がそうですね。あれは元来は南部家の家来ですが、南部氏が家中の事情でもたもたして行けないでいる時に、さっと秀吉のところへ行って、津軽の領主たることを認められたのです。南部氏の領内では、津軽地方が一番よいのですよ。水田が沢山あり、十三湊などという北海道から越前や若狭を経由して京都地方に北海道物産を運ぶ船の寄港地もあってね。そこをちょろっと取られてしまったのだけど、秀吉がすでに認めた以上、南部氏としてはどうすることも出来ず、泣き寝入りなんですよ。だから、南部人はずっと津軽を恨みましてね。江戸時代末期に相馬大作の事件が起こったのはその恨みのためですよ。今日でも、青森県の西部と東部とは仲が悪いのです。西部は津軽、東部は南部ですから。
司馬 八戸市というのがありますね。あれはもと南部藩の藩史にとってはまあ創業の地でもあり、藩体制のなかでも、盛岡が首都、八戸が副首都といったところだったのですが、明治のときに、それが南部一藩が岩手県になったのに、ここだけが、旧隣藩の津軽藩の方にやられて資森県に編入された。
 八戸人はそれが不服で、今でも八戸の人で、ぼくの友人ですが、青森県だといったことがなくて、南部だ南部だと言ったりしている。私も南部というのは岩手県だと思っていますから、あいつらは岩手県だと信じこんでいたところ、なんかの時にその友人の略歴を宛ると、青森県と書いてあるんですね。
 最近、盛岡市へ行った時に聞いたのですか、工業専門学校という新制度の国立学校が、青森県に置かれることになって、その予定場所が青森市と八戸市ということになった。当然、両市取りあいの大騒ぎになったのですが、青森市の方が最初有力で、県出身の国会議員やら県会議員にずっと働 きかけてなかなか盛んだった。そこで八戸市は悲痛です。青森県八戸市ですが、本来は南部の八戸ですから、もはや青森県との縁はこれまでとばかり、旧南部藩の岩手県に頼った。
 本来隣県です。そして岩手県出身の国会議員と、盛岡にある岩手放送と、岩手日報という新聞社に頼んだ。それら「南部県」は、「本来八戸は南部領である。可哀想に明治になって津軽へ貰いっ子にやられているが、旧誼によって扶けてやらねばならない」ということで大いに政府筋に働きかけて、とうとう工業専門学校は、青森から八戸に持って来ることに成功してしまった。
 八戸はおかしなところで、町でも、地方紙は県紙である青森新聞(東奥日報の誤り)はあまり購読しない。ほとんど岩手日報(デーリー東北新聞の誤り)という南部エリアの新聞を取っている。旧藩の領域というのは自然地理と人文地理がぴったり合ったところが多くて、この悲喜劇はあるいは明治に県域をつくった時のむりがいまだに無理になっているかも知れませんてすね。
海音寺 維新戦争に官軍に反抗したところは損してますな。普通なら、今の青森県東部と岩手県中部以北とは旧南部藩領なんですから一県になるべきであり、岩手県南部は旧仙台領ですから宮城県に編入さるべきだったのでしょうかね。全然それを無視して、バサッと機械的な区分をされたので、いろいろ不便だろうと思いますね。