2009年2月22日日曜日

八戸及び八戸人9増田ダンス教室四十周年、親子で日本一に挑戦

市役所のそばに増田ダンス教室、窓から流れ出すリズムに、ウン、この曲、聞いたことあるなァ、その歌の流行っていた当時を思い出す。すると、今度は違うリズム。ダンスはルンバ、タンゴにワルツと様々な曲に合わせてステップを踏む、音感の鈍い者には難しい。
 「綺麗なドレス着て毎日踊ってる」っていうフレーズのある歌を守屋ひろしが昭和三十四年に「僕は泣いちっち」のB面に入れて、共に流行ったことがある。当時社交ダンスと言えばナンパの場、頭にコテコテのポマード塗りたくったリーゼントの兄ちゃんがポケットに手突っ込んでヨタって歩いてた。こうしたアンチャンを船長と呼んだナ。何故って「難破船の船長だヨ」
八戸は戦後間もなく三日町に駐留軍相手のダンスホールが出来た。アメちゃん相手にダンサーがいただろうが、どんな踊りをしたんだろう。ナニャドヤレや八戸小唄なら得意だろうが、ダンスのステップ軽やかに踏める人がいたべか。
 その後、キャンプホーゲン、高舘の部隊は朝鮮動乱で出撃、その後も部隊は入るが米国ってのは戦争好きで、他人のもめごとに割って出る癖あり。三日町のダンスホールもまたもとのデパートに戻った。すると、ここでダンスの味を知った八戸人がホールが欲しくなったんだろう。
 登場するのがクローバーダンスホール。山田郁三氏が経営。ここには大勢の若者たちが集まった。ダンスの魅力にとりつかれたんだ。六日町の喫茶店「凡」の奥にダンス教室を開いたのが伊藤栄氏、この人のもとでレッスンし日本一の美女、ミスワールドになったのが奥瀬寿子、喫茶店「凡」を経営してたのが、番町の森眼科の先生。この人の人生も奇妙奇天烈(きみょうきてれつ・なんとも変わっている)、一度紹介してみたい人物。
 この伊藤ダンス教室に通ったのが増田勝文さん昭和十五年生まれ。この人は八戸高校の野球部で投手、なかなかいい球を投げたそうだが、三年生の時、結核にかかり、(当時はこれで命を落とした人多数)卒業はしたものの、進学も就職もできない。俗にいう八方ふさがり暗剣殺。
 そこでぶらぶらしているうちに、ダンスが体にいいと教える者。そこで伊藤ダンス教室に通った。そこで妻となる野坂優子さんと知り合う訳だが、この人は県南「新人社交ダンス大会」で昭和三十四年に優勝している。デーリー東北新聞から
一位に奥谷・野坂組
デーリー東北、県社交舞踏教師三八支部共催の第四回県南地方デーリー杯争奪新人社交ダンス競技大会は八日正午から八戸市民会館で十六組が出場して開かれた。出場各組は日頃鍛えた巧みなステップにものをいわせ、フロアいっぱいに美しいダンスを展開、集まった約三百の観衆をわかせた。
タンゴ・ワルツ総合①奥谷広・野坂優子②工藤啓一・松坂澄子③神山純一・庭田誠子④大久保三男・寺下タキ⑤笠石定吉・沢頭ゆき子⑥田村哲夫・中野啓子
第四回とあるので昭和三十年に開始された大会。これがコンペのダンス。つまり競技ダンスだ。優子さんは天性のものがあったようで、伊藤ダンス教室に通いはじめて二、三ヶ月で出場をすすめられ、コンビを組んだのが奥谷さん、男をリーダー、女はパートナーと呼ぶが、この息がぴったり合わないと優秀な成績を取れない。男も女も、あの人はダンスは上手でも、人柄が好きじゃない、人柄はいいけどダンス技量がイマイチとなかなか難しい。増田勝文さんは八高で投手をやっていたほど、病気をしたといっても、足腰のバネがそんじょそこいらの難破船の船長とは大違い。そこに優子さんが惚れ込んだ。この人となら全日本チャンピオンもとれるかしら…
そこで夫婦になって精進、どうしても日本一になるには、当時池袋で教室を開いていた紳士、ダンスの神様とまで称された永吉彰さんのもとでレッスンと荷物をまとめて上京。立教大学のそばに部屋を借り二人で修行に励んだ。立大の相撲部のそばで朝からドスコイで部屋が揺れたそう。永吉教室で生徒を指導しながら日本一を目指すうちに生徒としてダンスを習いに来ていたのが松下正寿氏、当時は立大総長(明治三四年、京都生まれ青森県で育つ。立大卒。弁護士。哲学博士。戦後の極東軍事裁判の弁護人を務めた。参議院議員。1986年逝去)。松下さんに夫婦二人とも励まされる。というのも、松下正寿さんの母は八戸の産婆亀徳しづ、結婚して亀徳になるが旧姓は松下。二人の子を得るが弟が正寿氏、だから松下正寿氏は八戸人。この人が応援してくれた。増田夫妻もAクラス入り、全日本のファイナリスト(最後の六人、つまり五輪なら入賞)に残るようになり将来を嘱望(しょくぼう・将来や前途にのぞみをかけること。期待すること)されるが、増田勝文さんの親が亡くなり、東京での五年修行、泣く泣く 八戸に戻る。東京の仲間が慨嘆(がいたん・うれいなげくこと。なげきいきどおること)、もう少しで日本チャンピオンを見れると思ったのに…。
八戸に戻り番町の実家を改装し昭和四十年に教室を開く、ダンスホールを一階、二階が教室、八戸の難破船の船長たちが沢山来て、商売順調、その中から筋の良い人に特別レッスン、その人たちが続々独立、八戸のヌマグチダンススクール、田中昭寿ダンス教室、サカモトダンススタジオ、久慈市の柴田ダンス教室、三戸の和田ダンス教室などなど。増田夫妻は偉大な指導者。
さて、日本チャンピオンになるということが、どれほど難しいか、ここで競技ダンスの歴史を勉強。
昭和二十六年日本舞踏競技連盟は初めて競技会を主催。“第1回全日本単科選手権”を見ようと、会場となった新橋フロリダには千五百人もの観衆がつめかけた。毛塚睦雄・野中桂子組がW・Qともに優勝。十一月に銀座美松で行われた後期大会ではカムバックした三桝良一・三桝静江組がFを、毛塚睦雄・野中桂子組がTを制した。
昭和三十年、毎日杯、第5回全日本社交ダンス選手権”が後楽園アイスパレスで開催され、八千人もの大観衆が見守る中、英国より招聘したレン=スクリプナー(全英チャンピオン)の単独審査によって、無名の新人、伴野八郎・四本恭子組が優勝。
昭和三十一年、第1回サンケイ杯全日本選抜選手権が開催伴野八郎・四本恭子組が優勝
昭和三十七年、メルボルンで第4回世界選手権に初の代表団を派遣。桝岡肇・桝岡栄子組、丸山梅雄・田鶴子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、篠田学・篠田雅子組が参戦し、篠田学・篠田雅子組がモダン6位、ラテン7位に入賞。
昭和三十八年、東京都体育館で開催された“第13回全日本選手権より正式にラテン部門が加わり、桝岡肇・桝岡栄子組が初代チャンピオンに輝いた。モダン部門の優勝は小嶋鉄治・小嶋滋美組。
この年桝岡肇・桝岡栄子組、篠田学・篠田雅子組は日本人として初めて全英選手権に参戦。
昭和四十年、日本舞踏競技連盟はついに武道の殿堂、日本武道館での競技会開催を実現した。“第十五回全日本選手権では夢に見た大舞台を一万三千人の大観衆が埋めた。モダン部門、ラテン部門ともに篠田学・篠田雅子組が優勝。英国留学から帰国したばかりの関真・関利子組が前年6位からモダン部門、ラテン部門ともに2位と大躍進。NHKのカラー放送も高視聴率を挙げた。
昭和四十四年、待望の“世界選手権”を日本で開催。参加国は十カ国。日本代表は篠田学・篠田雅子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、斎野友次郎・松村有希子組、石原市三・石原佳代子組が参戦。篠田学・篠田雅子組がモダン部門5位でラテン部門3位、斎野友次郎・松村有希子組がモダン部門、ラテン部門ともに6位と大健闘した。
2回目の“世界選手権”(日本武道館)を開催。モダン部門は毛塚鉄雄・山本千恵子組が3位、田中忠・田中節子組が4位に入賞。ラテン部門はこの年に世界十ダンス選手権を制した鳥居弘忠・鳥居洋子組が3位、毛塚道雄・毛塚雅子組が6位と大活躍した。
昭和五十五年、「栄光へのステップ」第1回日本インターナショナルダンス選手権”が日本武道館で華々しいスタートを切った。激戦を制したのはモダン部門が毛塚鉄雄・山本千恵子組、ラテン部門が鳥居弘忠・鳥居洋子組。

この毛塚鉄雄さんと増田夫妻は親友。ご子息の直紀さんを修行に出す。毛塚アカデミーは東京新大久保、この長男も野球選手、血だネ、足腰がいい、すぐにA級入りし妻のゆう子さんとコンビ、98年の日本インターナショナルダンス選手権で四位、99年は六位、全日本では三位、二千年全日本ショウダンス選手権二位、セグエ選手権四位、プロダンス選手権では四位、○一年全日本セグエ選手権では三位、プロダンス選手権では四位と常にファイナリスト。だが、どういうものかチャンピオンが取れない。パトナーのゆう子さんともピッタリの呼吸。一位、二位の差はカレーライスとライスカレーの差、その時の一瞬の呼吸の差で勝敗が決まるのかも。
増田直紀・ゆう子増田夫妻には三人のお子さん、長女は日本女子体育大で新体操からダンスに入るも、リーダーとの出会いに恵まれず、八戸に戻り、次男の大介さんを指導。この子も高校で野球をやり天性のバネを持つ。姉の特訓、親の指導よろしきを得て、ダンスの道をまっしぐら。兄が独立し東京南青山に増田ダンスアカデミーを開き、そこに入門。○三年にはB級優勝、○四年にA級昇進、スパージャパンカップ、チャチャチャで六位、○五年セグエ選手権七位と躍進中。
この若者は二十歳代、これからが楽しみ。人生を二度生きる者はない、だが、二度も三度も楽しむことはできる。それは、これと思った青年、娘の行く末を楽しみにすることだ。声援、応援は誰でもするが、それは人生を二度楽しむことではない。
生きてる人間と死んだ人間どこが違う?
それは金を自分の意志で使うことだ。死んで仏になって線香あげてもらうより生きてるうちに金おくれと言ったのが北野タケシの親。
死に損ないが何を抜かすか、人の顔さえ見りゃ金、金と、夏の林のセミのようにカネ、カネカネは、そりゃ強欲な、と兄弟に言ったそうだ。
死んで親の貯金通帳見たら、タケシからせびった金が手もつけずにそっくり残ってたとヨ。
タケシの親は、タケシの無駄遣いを知って、金をよけておいたんだ。
 タケシの銭を守ることでタケシと人生を一緒にした。どれほど楽しかったことか、TVで名が売れて、馬鹿な格好してトボケ演じて、すり減らすような人生で、金を無くせばおしまいよと、心底思ったんだろう。
 今、義経の増田大介さん、この青年が親が兄夫婦ができなかった、取れなかった栄光の日本チャンピオン目指し必死の鍛錬をつむ。千日を鍛、万日を錬という。天性の美男、脚が長く腰高く、ステップと身のこなしが言葉を喋る。ボディラング エッジて言葉があるが言葉が会話してくるんだ。こんな凄い男を見たことない、兄の直紀さんも踊りは息が止まるほどうまい、ところが、弟に比べるとまるで頼朝、人気抜群の弟義経は千年通じて日本の美男に数えられる。兄も男前だが、増田一族の傑物が大介さん。息が止まるどころか卒倒するナ。
この人に八戸人は後援するべき。年会費を増田ダンス教室に送る、すると○月○日に全日本選手権に出るなどの案内が送られる、NHKのテレビに出たら、金送って後援会に入った婆さんは、心臓の鼓動激しく、今にも昇天するばかり、こんなに胸がドキドキするのは、三八城公園で死んだ爺さんに手を握られた時以来と、TVの前、座布団に座ってガンバレ大介、思わず座布団塗らして失禁。
それぐらい興奮するのは間違いない。人生は何があるかわからない。まして人生二度楽しませてくれる今義経に逢えるも幸せ。八戸に来たらサインして握手してもらう権利は、声援、応援じゃなく後援すること。銭残して死んで、兄弟の遺産争いの元つくるくらいなら、美男に老いの血道あげてスッテンテンにおなりヨ。
地獄で迎えに来た爺さんにこう言え。つい爺さんの若い頃にそっくりだったもんで…と。
爺さんも喜ぶこった。見てくれ写真のキリリとした男ぶりを。また最近はパートナーにバレエ界の星、作間草とめぐりあい、言葉を発せずとも、体全体がものを言う。空間芸術との言葉もあるダンス。昨今は高齢者がダンスして若返る、背筋が伸びて痩せると美容・健康によいと大人気。ことにご婦人は綺麗なドレス着て毎日踊れると、うっとりとした眼をなさる。女は幾つになってもかくありたいもの。
さて、増田大介さんのファンになりたい人は東京都港区南青山3・8・37第二宮忠ビル4階増田ダンスアカデミーまで、電話03・5785・3048