2009年2月23日月曜日

小倉要一氏八戸鉄鋼界の話

造機業の発達
帆船時代から発動機船時代になって、ガスエンジン、モンタ式エンジン、焼玉エンジン、ディーゼルエンジンと五十数年の間に急速な変化をした。これらのエンジンは全部、東京、名古屋、大阪方面より売り込まれたもので、八戸で独自な発展をしたものはなかった。で、あるから、この頃でエンジンの構造、機能の進歩を書くことは意味のないことである。従って主に、工場の変転を主として現在の造機界の姿になった過程をさぐることになる。而しガスエンジン、モンタ式エンジンについてはこれを知らない人が多いかも知れないので始めに紹介しておきたい。
明治三六年頃、神田重雄氏が千葉県九十九里浜より発動機をもってきたことを知っている人は少ない。多くの人が知っているのは明治四一年ごろ、鰹船に入った発動機のことである。その当時の人はこのエンジンをガスエンジンと呼んだ。その現物が残っていないので、その構造、機能を正確に つかめないが、この機関を一番多く扱った牛田雄也氏より、その概況を聞いたら、つぎの如くであった。まずガス発生炉で木炭ガスを作成する。図の如き発生機に木炭を入れ、手回しハンドルを回し、ブロアーから空気を送って木炭を加熱する。木炭ガスが出ると機関に導く。主機関は電気点火式機関でバッテリーを電源としてスパークを出し爆発させる。この電着の構造は実に幼稚なもので圧縮もれが多くなかなかかからなかった。当時のエンジンはこの方式に限らず次々に現れた焼玉エンジンに至るまで、「補助カム」を使用していた。この補助カムは足で踏むとシリンダー内の圧縮空気が(ガスが)もれて減圧される仕組みになっており、始動の初めにはカムを踏んでクランクを回し、勢いがついたらこれを離すと本式にガスが圧縮されて着火し爆発がおこり力強く回ることになる。けれど、この機関には幾多の欠陥があったので、モンタ式がちょっと出て、焼玉機関が出るに及んで一気に廃棄された。この機関の製作所は名古屋の上野鉄工所のが多く、名前は「大阪ラム式電気着火エンジン」と名づけられた。八戸では神田氏、槻末商店、熊谷氏が使用した。宮古以南では木下鉄工所のガスエンジンが多く入っていたという。
古川鉄工所の古川寅蔵氏は、このエンジンを一度修理した思い出をこう物語っている。
「各地を旅行し据え付け、運転等をしていた古川氏が体験を得て八戸に帰宅(北横町弥生座のところ)したとき、浜でそのエンジンを取り付けた船が調子が悪い、一時間も続けて回らないと、皆で首をひねっていた。牛田氏もおられるので出る幕ではないと家にいたところ、その船の船主が古川氏をみつけ、知っている人だったので見てくれるように頼まれた。今晩東京に発つので切符も買ってあるので駄目だと断ると、どうしてもと頼まれ、原因だけでも調べようということになった。船に行ってみると、潤滑油が滴下式であり、軸受けには溝も何もないので、これでは焼きついてしまう。まず、メタルに溝を掘ること、そして、そのメタルに油が行くように穴をあけ、ポンプで油を送るようにする、と申し上げた。又点火時期がおかしいので調べると大分狂っているので、これを調整した。こんなことをしているうちに列車に間に合わなくなり、一日延期し、翌日全部加工してエンジンを回すと調子がいい。船主に多分良いと思うが、湊を出て鮫に行って沖を走ってこい、と言いつけて船の帰るのを待ったがいつまで待っても帰ってこない。止まったかと心配して聞いてみると鮫に入って荷を積んで南の方に向かったといった。性のない奴だと思いそのまま東京に行ったがあとで聞いてみると、そのまま久慈まで走って何の異常もなかったということだった。八戸の工場の人々は理論をあまりやらず、又他所を見ていないのでわからなかったのだとおもう」
この機関は大正五年頃には頃にはすっかり姿を消し、木炭の多い田舎で時折利用される運命となった。
この次に出たのが「カカン式着火式(またはモンタ式)石油発動機であった。この発動機は焼玉発動機の前身ともいうものであったが、大正三、四年頃二、三台入荷したのみで、誰も実用には使用しなかった。そして、有水式(注水式)焼玉発動機が入るに及んですぐに姿を消した。その原理の中でノズルに相当する機構が変わっているので紹介する。この説明は牛田雄也氏が工員時代から手がけてきた記憶に基づいたもので図はその点火部を示した。がある。
次の図を参照。

上の図はその頭部でシリンダーは模型である。燃料パイプより重力によって加圧された軽油はバルブで止められる。頭部を炭火で加熱すると中も焼けて封入されていた鋼帯板が焼ける。ホイルを回し、補助カムを止めるとシリンダーの空気が圧縮され温度が昇る。クランクと連動して連動シャフトが動き、バルブが下がると燃料が滴下し着火してピストンを押し下げる。次からは燃焼の熱で鋼板が過熱されているので次々と着火する。
この型の前のノズルは上図の通り、ノズルの先を曲がり金で塞いだ型であったが、油漏れが多く実用的でなかったので改良され上の図の如くになった。しかし、頭部を焼かなければならない点や、油がうまく調整されて出ない点やガスが貯まる点等順調でなかった。滴下式石油発動機というのは大体この形式であった。
ここで大阪、東京方面で日の出の勢いの焼玉式発動機を赤坂鉄工所の史書を例にして、発達を書いてから当地方への進出を回顧する。
赤坂の創始者、赤坂音七が各所、各業を転々とした後、池貝鉄工所に入ったのは明治四十年十一月であった。この頃の池貝は印刷機、製粉機などの動力として、2サイクル式のミーツ&ワイズ型発動機で無点火式と称した焼玉機関を陸用スタンダード石油会社発動機として発売していた。たまたま、下田港の植田七兵衛より神社丸にと陸用十二馬力を求められたので、船用一号機として作りはじめた。
赤坂が幾多の苦労と失敗を重ねてこれを完成し、とにかく神社丸に納め、国産焼玉発動機が初めて漁船に用いられた。始動のときホイルを振ることは彼が発見した最も主要なことである。その後焼津港は遠洋鰹、鮪漁業に出るため発動機を据え付けることとし、四一年、川岸丸に二五馬力を注文した。そして引き続き鈴兵丸外四隻にも同機を取り付けることとなり、馬力も三○にまでなった。当時は発動機といえばユニオン式電気点火式であったが、焼玉が現れると故障、取り扱いの点で赤坂の焼玉が信頼された。当時の赤坂鉄工所は十五、六人位の職工で船用は二、三人であった。明治四三年焼津生産組合の要請で、池貝の修繕工場が港に作られ、大正三年には組合の願いにより自営した。
さて、八戸に焼玉が入ったのは何年頃であったかというと、大正五、六年であった。製造所は池貝を始めとし新潟、松尾、各鉄工所がこれに続いた。その後木下鉄工所が進出してきた。古川鉄工所は新潟の代理店、淡三鉄工所が木下の代理店を行った。
この頃、焼玉発動機は相当発達してきたが、これを取り扱う機関士や修理工場が未熟であったのでいろいろ面白いエピソードがある。ある漁船にこの発動機をとりつけたらエンジンが振れてしかたがないので、マフラー、シリンダーに木の支柱をした。それでもまだゆるんでくるし、支柱が落ちそうになるので、機関士は金槌で締めるのに忙しかった。そのうちにシケ模様となり船の動揺とエンジンの揺れで立っていることが出来なくなり、危険になり腰縄を数珠繋ぎにし、その端を船首の立つに縛った。無事海に落とされずに帰った。勿論、漁はだめだった。どうも焼玉発動機をつけて大漁する漁船がなかったので、漁民は「あのエンジンは駄目だ、第一、音がソンソンという」と笑った。
そこで焼玉機関の異端児フェヤーバンクスモース式機関が大正八年、尾崎定吉氏が据え付けた。それは政府が一世紀あぐり網漁業を行うことを奨励し、補助金一万円を出すことにした尾崎氏はこれを行うこととした。条件は五ヵ年損失あっても行うことであった。この時、氏は三四歳であったのでヘルム商会に行き、このエンジンの取り扱いを十分習得して帰り、取り付けて漁をはじめた。この機関は電着と焼玉のアイノコで空気始動、二気筒、四五馬力、逆転機つきで油と空気の両方の調整付き、しかも燃料は軽油でも重油でも魚油でも良いという便利なものであった。
特に歯車を使用しない多板式のものは珍しく、今でもその原理はちょっとわからない。
八戸にスカンデャ式発動機三十馬力が昭和十年頃、尾崎市之助氏の船に据え付けられた。人は皆ディーゼルエンジンと考えたらしいが、この馬力よりみて、無気噴油式のセミ・ディーゼルともいえる焼玉機関と推察される。久保卯三郎氏も購入したというが内容は明確でない。
注水式から無水式への変化は古川、牛田、船木、各氏が改造その他で行ったと申し立てているので諸氏にきけばわかる。相当早い時代であった。大正十五年五月十七日、柾谷造船所新造の福栄丸(四五トン)に新潟鉄工所無水式五十馬力発動機が据付られたので、その頃は切り替え時期であったと思われる。その機関は清宝丸に据付られて最近まで働いていた。
八戸の発動機界では蒸気機関は漁船に一度も使用されていないこと、無水式よりディーゼル式になり現在に至った。
明治時代は鉄工所というより鍛冶屋であった。八戸に原田鉄工所が金庫を主として行い、坂本鉄工所は何でも鍛冶仕事を行い、その他個人の船釘屋等あったが、職工といっても精々二、三人というものであった。
一番早く鉄工所の形として出来たのが牛田雄也氏の牛田鉄工所であった。牛田氏は十四の時から丁稚をつとめ名古屋の久米鉄工で職を見習った。そして紀州方面に出かけエンジンの据付をして、一通りの船用機関を習得した。そして当時大阪で作られたカカン式石油発動機をもって大正元年七月三十日に八戸駅に降りた。その十日前に八戸来た坪田という人が小中野で鉄工所を始めた。大変頭の良い人だった。船を相手に仕事を始めた。又、牛田氏が八戸に来て二十日ぐらいして菅原勇造氏が八戸に来た。菅原氏は三○貫もある大男で友一郎氏の父で角万と同じ宮城県の人であった。彼は角万を頼って来たと思われる。主に和錨四爪を作り、当市では彼の右に出る者はいなかった。錨の外に船釘等も叩き下条で働いた。古川鉄工所の主人古川寅蔵氏は大正二年、船に乗り東京へ行った。その船のエンジンは上野、桜田鉄工所製の焼玉発動機であった。彼はそれから東京、大阪を主として機関の据付技師として日魯漁業の嘱託を務めて、北海道は勿論、日本中を航海して歩き、大正十年頃、八戸市へ帰り古川鉄工所を始めた。牛田鉄工所には後の陸奥鉄工所の菅原正枝、宮本鉄工所の宮本萬之助氏が弟子として働いており、貨物船長栄丸の機関の取り付けをはじめ、漁運丸、大福丸等機関付き船の修理を行い、旋盤も新しいものを入れ有数な工場として当時注目された。大正八年には前に述べた湊造船鉄工株式会社が出来た。造船の方は衰退した。鉄工部には遠藤、湊川鉄工所の先代、富田、船木(兄)等が働いていた。しかし、これらの人も会社の衰退と共に後年独立して行った。
陸奥鉄工所が出来たのは大分後になってからであり、宮本氏も独立して鉄工所を開いた。そして、大正期には鍛冶屋として野中、西村氏が現れた。
 この頃、発動機に技術的恩恵をもたらしたのは中村一徹先生(現日本漁船機関協会長)である。大正二年職員試験の講師として水産会の招きで八戸に来られた。試験官の函館の人はスティームの専門の人であったので発動機については知らず、中村先生に試験官が教わっていたくらいであった。中村先生はその時、中央のガスエンジン及び焼玉エンジンについて詳しく紹介され、八戸の造機界はこの人のために大いに学んだ。
大正十一年に高橋勘次郎氏が鋳物工場を設立、菅原喜四郎氏も間もなく八戸にきた。喜四郎氏と勇造氏は兄弟であるので、現在の喜四郎氏と勇一郎氏とは従兄弟になるわけである。
昭和になって船木兄弟は汐町に六年、船木兄弟鉄工所を創立。出川留蔵氏を加え八年三晶鉄工所を作った。共同経営はうまくゆかず、昭和十三年仁三郎氏は独り東京に出て川崎で働いた。その間、出川氏は夏堀源三郎氏と仕事を提携するようになり、十五年、仁三郎氏帰八を機会に三晶鉄工所を解散し、船木氏は独り船木鉄工所を設立、出川氏は個人で三晶鉄工所をやった。その後、中小企業整備法により高崎甚之助氏と共同で八戸重機有限会社を昭和十八年六月の設立。高崎氏はセメント会社と共に八戸に来た福島県人で、イワキセメントで働いたが、昭和十一年個人で八戸機械を設立していた。
昭和に入って初めて八戸内燃機工業会が作られた。会長に牛田雄也、専務理事に高橋治作、理事に高崎甚太郎、高橋勘次郎、田畑等がいた。会社設立は昭和八年であった。そして解散は昭和二十三年である。
昭和になって出来た工場として淡三鉄工所、大原鋳造工業所、小森鉄工所、喜四郎鉄工所、湊川鉄工所、青森金物等がある。淡三鉄工所は船木兄弟鉄工所の少し前に出来、良い工場として信用があったが吉田氏は体が弱くて苦労した。尾崎さんが後援して鉄工所をやらせようとしたが、遂に健康を害して廃業した。
そのために彼は子供を一人は医者に一人を教師にとした。今の吉田耳鼻科はその子である。
小森さんは機関士をしていたがシナ事変で召集され、戦地で暮らしたが帰ってから下条で自ら鉄工所を昭和十三年に開いた。喜四郎氏も同時だった。大正十三年に無水式焼玉が出るに及んで各鉄工所の競争は激しくなった。そして、新しい機関を作ることに工場の力が注がれていった。しかし、それは鋳物、鍛造から工作、組み立てをする新造ではなく、部品を買って加工組み立てをする程度であった。
その部品は昭和商会が取り扱い、東京、阪神から取り寄せたものである。一番初めに組み立てたのは湊造船鉄工であった。それは三十馬力位で間もなく会社が潰れるまで、数台扱ったらしいが、なかには分解して送ってきたものを、組み立てて船にすえつけたようで、新台を作った部類には入らないようだ。自分で計算し考えて組み立てたとなると、古川鉄工所が昭和六、七年頃三五馬力を二台作ったのが最初ではなかろうか。
形式は日本鉄工株式会社(池貝系)のものらしく、しかも陸上運転を行っている。今の津取場氏の家の空き地で、この機関を回したそうだ。
その時はサーカス小屋の如く黒山の人だかりであったと語られている。この機関は無事完了して船に取り付けられた。牛田鉄工所も間もなく同じ日鉄製のものを作ったがなかなかうまく運転できなかったようで、牛田鉄工所が当時苦しい経営をしたのも、新台がうまくいかないためらしい。船木氏もやがて新台を作った。船木氏のものは日発の型で設計図も日発を使い東京にまで行って細部の研究をして行ったので、次第に良いものが出来るようになり、新潟、木下、池貝、日発、赤坂と優秀な品が入ってくるに及んで、漸く鉄工所も鍛冶屋より工場という風に変化した。
中小企業整備法によって小工場は企業合同が勧告され、戦争体制は強化された。まず八戸は東部内燃機ブロックの一員として海努院型焼玉機関ができるように推進され、各工場が調査された。
まず第一に事業の売上高、数量が報告させられた。大東内燃機と古川鉄工所はそのまま報告したので指定工場となった。他の工場は正しい報告をせず、指定統制もうけない三万円未満の報告をしたので、これら小工場は企業組合をつくるようにいわれた。淡三、三晶、宮本、小森、船木等八工場は合同すべく集まり、出来かかったところ、三晶は夏堀源三郎氏と合同して内燃機の南方輸送の事業に転向し(これは船が途中で沈んで欠損となった)、宮本氏は川崎に出かけてしまい、小森氏も招集となったので企業合同はバラバラになってしまった。八戸重機が出来たことくらいが整備法の現れであったろうか。統制法や動員法のために鉄工組合はいろいろの工作機械、材料の配給を扱ったが、終戦となると借金が組合に三十八万円もあった。
組合の理事長は古川氏であったので、清算責任者として資材を調査したところ、これらが組合員の手で勝手に名義変更されたり、売却されたりしていた。その内紛については明確な証拠があるわけではないから、詳しく述べることはできないが、その清算の段階で古川氏と牛田氏が対立したことは事実である。
両者はそれ以前より同じ業者として、競争相手であったが、この時より相反したらしい。古川鉄工所は指定工場として多くの焼玉機関を作ったので、その利益も大いにあるものと算定され、相当の税金がきた。他の工場がそれ程でなかかったので、特に古川鉄工所は多くこの時破綻をきたした。
戦後各工場は一斉に出発した。昭和二一年六月船木鉄工所、古川、牛田鉄工所その他、現在活躍している。
工場は出発した。そして漁業界の好漁、復興とともに年々発展した。しかし、未だに内燃機工場は協同体制が出来ないのは、過去におけるいろいろの事件が残っているからである。協同してやった事業が不仲で解散した例は多い。
否、一応の工場がそういう体験を経てきたし、戦争中はいろいろな利害で、戦争終了時は、又、清算で多くの人が反目した事実が頭を去らないためである。鉄工連が出来たり、親睦会があっても、一つにまとまることは二代目の人々の明知と良識によらなければ出来ないことであろう。
近時、鉄工所も木造船と同じような立場に追い詰められてきている。資本の不足、労務の問題、そして技術の進歩と。
そして大資本の下で動くか、家内工業的に健全経営を進むかのどちらかで、その中間というものがなくなってきているようだ。即中間となると、労務者を、良い技術者を確保しておかねばならず、一通りの良い機械を備え付けねばならないし、税金は非常に多く取られる。加えるに金融は大企業の如く後援してもらうことは期待できない。其の上、漁業者相手の売掛も多く、この処理も容易ではない。筆者は修理のみでなく、何か一つ、特許的な特異性のある品物、技術を各工場が持ち、八戸の漁船のみでなく、総ての地方の漁船も対象に商売する道でも考える必要があるのではないだろうかと考える。新潟の小野鉄工所が町工場より、一躍日本の小野鉄工所になったのは「ヘリカルギヤポンプ」を考案し、ポンプのみを製作するようになった為で、これらの例は東北にも二、三あると考える。次代の人々の研究と勉強を期待してやまない。
付記
八戸の農具、鍛冶屋一覧(昭和十二年)
二十三日町 荒井農具店 荒井正冶 明治十年
同     淡萬商店  吉田龍一 大正十四
同     金子商店  金子新助 慶応二年
大工町   丸孝商店  三浦孝吉 昭和八年
湊白銀   菅隆鍛冶屋 菅原隆橘 大正十二
同     宮本鉄工所 宮本正吉 大正八年
吹上元町 百目木鍛冶 百目木作太郎明治四五
新組    松橋鍛冶屋 松橋啓三 明治三二
同     立原鍛工所 立原長太郎明治五年
長者    山徳煎餅型 山下徳蔵 明治三九
鍛冶町 山下金物製作 山下栄太郎 明治二五
同   増尾打刃物  増尾市太郎 昭和三年
同   兼春     大巻源五郎 明治二○
下大工 島守鍛冶屋  島守仙之助 大正五年
十一日 宮本煎餅型  宮本由蔵  天保三年
朔日町 宮本鉄工所  宮本丑松  明治三○
朔日町 山萬     宮本萬之丞 慶応元年
塩町  柏木煎餅型  柏木兼八  嘉永三年
同   美玉煎餅型  美玉幸一郎 天保一○
吹上仲町小野寺製作所 小野寺冶三郎大正一三
塩町  石要煎餅型  石橋要吉  明治三○
八幡町 中屋鋸製作所 中屋富次  大正一五
二十三日 洋式ヤスリ 小笠啓三郎 昭和五年