2009年2月17日火曜日

水産業の衰退

宮本常一著作集13
8 弱体な漁業資本
 水揚げを競って 私は九州沢辺の島々を、昭和二五年から二九年にかけて、しばしば歩いたことがある。そのころ、この一帯の漁村には、すばらしい活気かあった。巾着網船が海面をうずめ、夕方になるといっせいに沖へ出てゆく。船はディーゼルで点灯して魚をあつめるのだが、そのおびただしい光りは海面にはえて、昼のように明かるかった。
 もと、巾着網は無動力で、集魚にも肥松のかかり火をたいていた。それがしだいにカーバイドになり、バッテリーになり、ディーゼルになっていった。より明かるい光りに魚があつまるので、一隻が新しい集魚灯に切りかえると、他もそれに切りかえざるをえない。動力をはじめ、機械整備についても同様である。船は水揚げを競って動力化し、大型化していった。
 借金はつもる一方 そのはじめ、わずかな資本でスタートした巾着網も、こうして技術の革新や経営の改革のために、いくら豊漁がつづき、またその利益をつぎ込んでいっても及ばないほどであった。そして、経営規模と借り入れ資本だけは増大していった。その競争の、もっとも激しかったのは昭和二九年ごろである。
 ところが三十一年ごろから、イワシがめっきりとれなくなった。まったくとれなくなったわけではなく、とれ方が、ずっと減ったのである。だから、いちおうは出漁するが、とれた魚では経営費が出なくなってきた。網を維持するためには、いきおい多額の経営費をつぎ込まねばならず、それはすべて借金になってゆく。といって、網を売ってしまっては乗組員の生活の問題もあるし、あるいはもういちど豊漁を、という期待もある。網一統を経営するためには一億円から一億五千万円くらいの資本がかかるが、それを売るときは三分の一の価値もない。しかも、網を売って得た金は借金のアナうめに消えてしまうのだから、できることならいかに苦しくとも、赤字がふえても、網は維持したいというのが、網主共通の本音であった。
 李ラインを越えて が、ついに借金には耐えられなくなって、網を売りはじめた。長崎県野母の樺島は、一三統あった網を一〇統まで売り、残った三統のうち二統が売られるのも時期の問題とされている。おなじ長崎県平戸島の北にある度島では、六統のうち五統が売られた。そのなかには網元として二〇〇年の伝統をもつ吉本家も含まれている。
 資本の弱いのは、農民資本ばかりではない。漁業資本も大手の十数社を除いては、まだ虚弱なのである。世界的にみれば日本の工業資本も弱い(自己資本率二割)といえよう。しかし、漁業資本における自己資本の割合いはわずか一割、さらに弱体である。
 イワシ漁は、全国的に少なくなっているが、日本の沿岸すべてでとれなくなったわけではない。鳥取県の東、また東シナ海の朝鮮半島の西南、いわゆる李ラインのかなたではとれている。そこで地元の網子だったものは、島根、鳥取、石川方面の巾着網漁に雇われてゆくものが大半で、また生き残った巾着網は李ラインを越えて、密漁に出かけるものも少なくない。
 前記の度島では、網子としても出かせがず、ひきあわない地元の網鉛にも乗り込まないものが、二、三トンの動力漁船をつくって、釣り漁に転じる傾向が目立ちはじめた。大型化・近代化をきそったすえに、ふたたびもとの原始的な漁法へともどらざるを得ないとは、なんという皮肉だろうか。そして彼らは、農民以下の低い生活に甘んじて、ほそぼそと生きている。
 工場しのぐ生産性 静岡県清水市に、マグロ船、盛秋丸の事務所をたずねた。清水港は年間水揚げ高三五億円、とりわけ遠洋マグロ、カツオ船の根拠地として知られている。盛秋丸も三〇〇トンから一五○○トン級のマグロ船八隻、四○○○総トンを保有する個人会社だが、いずれも船齢のわかい優秀船で、子会社として冷凍倉庫や、マラヤのペナンには海外漁業会社を経営している。
 「遠洋マグロは、出たら必ず満船して帰ってきます。漁場調査も行き渡っているし、船の装備も近代化しているから、当たりはずれというようなことはありません。漁業といっても工場生産のようなものですね」
 この会社の場合、管理部門をふくめて、従業員一人あたりの年間売上高が二三〇万円前後というから、たしかにオカの工場をしのぐ生産性である。乗組員は年間ふつう三ないし三・五航海、二〇歳前後で経験四、五年ならば、食べて五、六〇万円の収入になるという。
 この詩水港や、静岡市をへだててすぐ隣の日本一の水揚高を誇る焼津港(年同一一四億円、昭和三六年度)の繁栄は、主として安定したマグロ、カツオ漁に負うところが多い。
すすむ盛衰の格差 いうまでもなく、日本は世界一の漁獲量を誇る(六二五万トン=昭和三六年)の水産先進国である。しかしそれは、焼津、塩釜、下関、三崎、長崎といった漁港を繁栄させるとともに、一方では漁村の衰微という格差をますます進行させている。全国二三万の漁業経営者のうち、三トン未満の沿岸漁家は一九万三〇〇〇、それで漁獲高は全体の二割を占めているにすぎない。
 焼津港が今日の繁栄をみせたのは、はやく協同組合を組織し、漁法の近代化をはかったことにもよるが、見のがせないのは地の利である。ここに水揚げされた魚は、翌日には東京、大阪の巨大消費市場に、また四日以内に、北は礼幌から南は熊本まで送り込まれる。冷凍設備、輸送手数で飛躍的に発達した今日では、たとえ船籍がどの県に属していようとも、この根拠地を利用するのが便利である。そういうところには、ますます冷凍、加工などの処理工場、あるいは船腹の修理ドックなども集中してゆくと同時に、全国に散在する小さな漁港をおとろえさせてゆく。
 血みどろのあらそい 愛媛県二神島(周防灘の東部)は、有数な漁村の一つである。この島では、いくつかあったイワシ引網を二統に整理し、これを漁業組合の直営にして船引網から巾着網に切り替え、もめん網をアミランにし、経営の近代化をはかった。ところが、それを完成したころからイワシがこなくなってしまった。そのため経営費がすべて赤字になってゆく。なんとかして立ち直リたいと苦心しているが魚のこない限りはどうしようもない。
 瀬戸内海のように、外海からくる魚を待つよりほかはない漁村では結局、魚の入り口で魚をとることを制限してもらうよりほかに方法がない。が、西瀬戸内海の入り口、豊予海峡には八幡浜のような底引網の大きな根拠地がある。もとは、東シナ海をかせぎ場にしていたが、いまは、内地の沿岸でかせがねばならず、豊予海峡ばかりでなく内海へも侵入する。それが違法とわかっていても、大型漁船がやるとなると、小型のローラーゴチ網なども禁漁区へどしどしはいってくる。
 こうした底引網の密漁を防ぐためにもと、岡山県では、コンクリートブロックの魚礁をたくさん海底に入れたが、こんどは網の下に大きな丸太をつけ、魚礁にローラーをかけるようなやり方で魚をとる漁船まであらわれた,積み上げてあるコンクリートブロックをくずして、平らにしてしまうのだから、漁船自身も馬力の強いものでなければならない。内海の漁民は、こうして生きるために血みどろの争いをつづけている。