2009年2月25日水曜日

市長たるものの心構え

司馬遼太郎が考えたこと(新潮社刊)11に次の文あり。現在の日本の汚職というのは構造化しています。役人や代議士、あるいは市会議員や県会議員までもがアジア化(シナの役人・賄賂制)しているようです。
 公共の十水事業における談合などが問題になっていますが、江戸時代の土木というのは、宝暦の木曽川の冶水工事は江戸幕府が薩摩藩にただでやらせたものでした。薩摩藩をほとんど疲弊さすまでにやらせたわけでしょう。薩摩藩は、自領と何の関係もない濃尾平野の治水をして、伊勢までにいたる三百余カ村をうるおすことになります。費用は全額薩摩藩負担で、予算は二十万両ほどでした。それが結果としては四十万両になり、藩に損害をかけたというので、総奉行平田靫負以下五十一人の藩士が工事がおわってから現場で切腹します。これが、江戸期の役人道でしたし、土木工事でした。

 明治になると、徳川慶喜はいっさいの什器、宝物、兵器を置いたまま風呂敷包み一つで実家の水戸へ帰ってゆく。そのあとに天皇がお入りになった。でも徳川家の財産を相続したという考えは、だれも持ちません。要するに.百姓を搾った金で出来あがったわけですから、江戸城もそうやって交替しました。
 小さなお城はどうなんでしょうか。松山城などは、もともとは秀吉の部将の加藤嘉明が一所懸命につくった名城です。市街地のちょっとした丘の上にあります。石を運んだりいろいろやるのは、全部侍だったんです。もちろん百姓もやりましたが、侍がモッコを担いだんです。
それは高知城もそうでした。山内家が高知に入って、高知城を興すときも、百々越前という設計の上手な人が雇われて設計をやり、山内家は身分の上下なしにモッコを担いだ。松山城の場合、城主嘉明の奥さんが景気づけのために路上で握り飯をつくって働いている者にふるまったそうです。
築城ばかりではない。一旦緩急あればと読み代えよ。
市長たるもの、その女房は部下を動かすためには汗を出し身銭を切れと教えているゾ。