2009年3月1日日曜日

八戸市鮫町のこと

江戸の昔、鮫を訪れた噺家がいた。噺家と書いたが、落語家を噺家とも言う。口偏に新しいと書くが、これには理由あり。日本の伝統話芸に落語、浪曲、講談の三つがあり、落語は江戸の末期に登場する。
つまり、江戸の末期には落語家の話というのは、新しいものだった。新しい、聞いたこともない噺をしてみせるので、人々に珍重された。そして、その噺を聞く場を、人を寄せる場、つまり寄席が誕生した。江戸の末だけに歩ける範囲に寄席がある。簡単に言えば町内に三つも四つも寄席があった。噺家はあっちこっちと出稼ぎをする。客が待っていて、そこに噺家や音曲などの出し物が顔を並べる。当然、あたりを得る噺家が高いギャラを取り、寄席の経営者を席亭と呼ぶが、これが興行師だと思えばわかりいい。これが、次ぎに誰を出すかを決める。その巧拙で寄席の収入が決定するだけに、ボケは出来ない利口はしないのが席亭の仕事。
江戸の末に都々逸が盛んになった。茨城県石岡の医者の倅がいたと思え。医者は食い合わせを研究していた。サバとなんとかを食うと体に悪く、死ぬ恐れもあるてんで、倅に食わせたナ。するてえと、倅は死ななかったが目が見えなくなった。悪い医者がいたもんで、倅はそれから江戸に出て三味線ひきになる。都々逸が上手で寄席にも出るようになる。当時も今も寄席に出るには誰かの弟子にならないと出れない。そこで適当な師匠を見つけて弟子になり、その噺家の名前の一字をもらい、扇歌として、都々逸坊扇歌と名乗った。都々逸よりも、即興で当意即妙な歌を作るのが得意。
客が題を出し、それをひっかけて答えてみせる。 これが人気を呼び、師匠をしのぐ有名人となった。都々逸は俗曲、1800年(寛政12)名古屋の熱田神宮の門前,神戸(ごうど)町の宿屋に私娼を置くことが許され,女たちを〈おかめ〉と呼んだ。遊客の間で歌われたのが〈おかめ買う奴あたまで知れる、油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がつけられた歌で,《神戸節(ごうどぶし)》と呼ばれた。この歌は明和(1764‐72)ころから江戸で流行していた《潮来節(いたこぶし)》に似た曲調で,まもなく地元ではすたれたが,江戸や上方に流れて《名古屋節》と称された。 1838年(天保9)江戸の寄席音曲師だった都々逸坊扇歌(?~1852)が,同じ《潮来節》を母体とした《よしこの節》の曲調を変化させ,名古屋節の囃し詞を加えて〈どどいつ節〉を大成し,旗揚げしてから〈どどいつ〉の名称でもてはやされるようになった。
いまでも人気を持ち、たまに歌う通人もいる。この都々逸坊の師匠が八戸の鮫を訪問した部分を紹介。
盛岡から八戸へと来た。
十三日に八戸に着いた。松前から竹田甚太郎の子分がきた。去年から扇蝶が親しくしていた。この甚太郎は江戸の小網町の田辺南子という講釈師で、蝦夷の松前にゆき、芝居や角力の興行師の所へ養子に入った。それで講釈はやめていい男にあなりになった。甚太郎の話だと松前は不景気で旅人は船で足止めをくって上陸ができないそうで、松前行きはとりやめる。
二晩林兵衛さんに泊り、十五日から荒町のしまり役の清兵衛さんという人の家へ引き移った。ここの願主は松太夫さんで、江戸麻布十番仲町の万屋さんで知り合った心やすい人。
林兵衛さんの妹婿に河内與兵衛さんという人は大変世話好きで、落語の席なども取り持ってくれた。市兵衛さん西町屋という屋敷にゆき、番頭の惣助さんと仲良くなった。この人はおじさんにあたるそうだ。
鬼柳さんというお屋敷にいった。家老の家来がきているそうで、小南部様がご隠居をされていた自分にたびたびお屋敷にうかがったことがある。
八戸はとても魚が豊富なところで、目の下一尺ぐらいの鯛は目方が百五十匁もあるだろう、サバやいわしは一文で十匹も買える。
昨今は夕立が降りつづく、與兵衛さん、市兵衛さん、惣助さんらと湊に行った。城下町から一里ほど離れている。遊女屋が沢山あり、大谷屋へ行った。與兵衛さんの妻の家にお熊って女がいますが、これは昔遊女であだ名があら熊、酒が強く三味線をひきおもしろい女だ。
鮫の遊女屋はみな後家で侍の家や町人の金持ちの世話になっている。
そこから鮫に行った。ここにも遊女屋が十二軒もあった。湊は鰯網を引き、油を絞って取る。魚油役所がある。
鮫も湊も芸者はいない。遊女がみな三味線をひく。かまど返しという歌を歌うが、これは道中節のたぐいだが、少し違うところもある。どんちゃん騒ぎの中に琴を入れる。
海辺を方々見て歩いた。景色のいいところだ。
林さんあたち十五名で石手洗という村の川原行き名主の家で大騒ぎの宴会、あら熊や遊女が来て夜通しで遊んだ。その帰りに、湊から鮫に寄った。川口屋という所へ泊まった。
ここは東回りの回船問屋でたばこやお茶は江戸から来る。私の弟子の都々逸坊扇歌の作った都々逸トッチリトンの本もあった。盛岡より鮫の方が江戸に近い。
台所、唐人までもうかれなん、わかいのもとのかまどかえしに
とり組みて、さて、おもしろし金時も、酒の相手に負けぬあら熊
二十七日、八戸を立った。櫛引村から剣吉をぬけて三戸へ行った。云々
鮫を佐女と書いてある。当時そう呼んだのだろうか。湊とあるのは小中野のことだろう。川口屋という回船問屋があったのだろう。
詳細に書いてあるのが面白い。当時は誰でも知っていること。だが、江戸の噺家には珍しく、記録していたから現代人も目にできる。フムフム。