2009年3月2日月曜日

八戸及び八戸人14続 八戸造船業の歴史 速水造船四代目速水金一氏

図書館の住宅地図の八戸港造船は現在速水造船のある場所に間違いはなかった。この土地の由来を速水さんにうかがった。
蕪島は陸続きではなかった。細い吊り橋が渡っていて、そこを歩行するのは恐ろしい。チビなどは途中で足がすくんで渡れなかったそうだ。
蕪島は独立した歴然たる島、その前は磯で左右に砂浜が広がる。右手は海水浴場、左手の浜に速水造船があった。そこで四代に渡る速水一族が糊口をしのぐために船づくりに精を出した。前号で紹介したように明治期は勿論木造船、船は荷物を運ぶ重要な手段。また、漁労にも役立つ。おのおのの必要により舟形が変化する。
 木造だけに木の手配が至難な技、速水さん一族は名久井や福地、三戸、五戸まで足を伸ばし、どの山にどんな木があるかを調べた。荷物を運ぶには平らな底、漁船は水を捕らえ、いかに後方に流すかに船大工の腕がかかる。
速水造船は独特な舟形を誇り多くの漁民から支持を得て、数え切れないほどの船を造った。
初代の速水金蔵は長内大治郎の三男で、速水家に養子にきた。十四歳の時だ。言い伝えでは長内家は久慈の武家だったそうだ。
戸籍を見ると長内家の文字の上が空欄になっているので、戸籍係の人は士族とかかれていた可能性があると断言。しかしながら、長内家は上組町だかに居住していたようにも見える。
郷土史研究家の富岡明先生は、幕末の記録に武家の長内一族があるので、この流れではなかろうかと教えてくださった。
上写真前列右端が三代目金作さん。木造船の舳先が見える。船は水をかきわけて進む、このかきわけた水をいかに処理できるかが試される。漁船は作業がしやすくなければならない、そして獲った魚を沢山積めなければならない。そして重心が上がっても安全に港に戻れなければならない。当たり前に思えることだが、これが重要なのだ。だか らこそ船大工の腕のみせどころでもある。船の底の竜骨(りゅうこつ・船底の中心線を船首から船尾まで貫通する船の背骨にあたる材。キール)には曲がった木材を探さなければならない。家を建てるには適さない曲がり木材も船大工には欠かせない。こういう木は谷間に生えている。それらを丹念に見て歩く船大工の努力は並ではない。大きな船を建造するには肋骨にあたる部分も曲がり材を必要とする。巨大な木材を切り出すには木挽きの力を必要とする。上の写真でも大きな板が前に並んでいる。これらは木挽きがひいたもの。
造船所は多くの人間を必要としていたのだ。船の図面をひく者、木を組み立てるもの、木を乾燥させるものなどの共同作業なのだ。現今は木材も外国産、日本の木は高いと買わないようになった。だが、考えてもみてくれ、木造船のころは水が漏ってこないように木をいかに組み合わせるかを、絶えず頭に入れて作った。木挽きが挽いた木材を乾燥させるための広い場 所が必要となった。蕪島の左手、つまり鮫漁港よりの砂浜近くには船に使う木材の山が出来ていた。ところがこれが昭和三十五年のチリ津波で八太郎まで流れてしまう。船大工は注文が来る前に木材の手配、木挽きへの賃金支払い、船大工たちへの給料と、相当に懐が暖かくないと出来ない仕事。上は長横町の神代から養子に入った貞吉さん。船大工は技術は要求される、寝かす木材の代金は前払いと緻密な経理感覚がないと倒産する。
 速水さん一族は若い内は方々の造船所に働きにでる。東京は隅田川造船、静岡や宮古、石巻と大型船を造るところで、その技術を盗んで帰るのだ。漁船は獲る魚に合わせて舟形と装備が異なる。舳先を前に大きく出すカツオ・マグロ船、イカ釣りやサバは胴間を広くし釣り子が作業しやすいようにと、それぞれ特徴がある。船の装備を艤装と呼ぶ。木造手こぎ船から次第に船が大きくなり帆走から、エンジンへと変っていく。速水一族はそれらに機敏に対応していく。時代の流れに巧み に乗ったのだ。木造船の船体を造り艤装を施し、エンジンを載せ、船一杯に大漁旗をつけて、いよいよ進水式だ。八戸特有の魂入れも大事な儀式。鮫の漁港は砂浜で、満潮を利して船を進水させる。
晴れの日、船大工は一張羅を着込み、船主は船から紅白餅や銭を惜しみなく投げる。
それが楽しみで付近の洟垂れ小僧たちが集まる。船主は無事の航海と豊富な魚を賜れるようにと、精一杯の心をこめて、我が船の門出を祝う。船大工は精魂こめて育てた娘を嫁がせる男親のように、どうぞ、行った先で人々に愛されるような働きをして漁民たちに幸をもたらすようにと、それぞれの思いを込めて潮に舳先を入れるのだ。
これこそが海洋で仕事をする者達の心意気に他ならない。
尊いものだ。先の見えない人生、誰だって不幸は望まず、幸多かれと祈るが、なかなかそんなに簡単、一筋縄でいかないのが世の中だ。多くの船主が倒産し、千艘もあった八戸船籍は今は二百余、
速水さんが重い言葉を吐かれた。
「人生には必ず一回はチャンスが来る、それをどう生かすかが大事、商売にはふけさめがあるから」ふけさめとは八戸特有な言葉で蒸け冷めとでも書くのが至当か、つまり好不況を指す。
 戦後間もなくは徴用の対象にもならなかったようなボロ船で沖合に行けば魚は豊富にいた。若者が戦地から帰り、農林省の国策で飢えた国民の腹を満たすように、船を二つに割り、板でつないで漁獲量を増やした。八戸沖の海は沸き返るように魚で一杯。マグロがなんぼでも獲れた。イカも勿論、サバは釣りから網で掬うようになり、八戸の魚市場は好況で笑いがとまらなかった。造船、造船で船大工も忙しかった。
ところが乱獲で水揚げが落ちた。遠洋まで出るようになり、船は大型化の一途。何故って北洋に行くには大型船でなければ波が高くて恐ろしい。船が大きくなればエンジンも大きくなり、八戸のエンジンメーカーでは追いつかなくなり、ヤンマー
やヤマハ、トーハツのバイク、農機具メーカーが進出。船も鉄鋼船の時代に突入した。
速水さんはチリ津波で丹精こめて集めた木材が流された時に、これでもう木造船の時代は終わったなと感じたそうだ。多額な資金を必要としても、船代金の支払いは盆暮れの節季払い。ただ、八戸港が特定第三種の港に指定され、海上保安庁の船を造る、あるいは水産高校、海洋学院などの注文は国や県の仕事で支払いは確保され、銀行も容易に資金を用立ててくれたが、船大工は手間の割に収入にならない。
初代中央金蔵さんは鮫の漁民の魚を買い取り、それを八戸六日町に運び、その市場で売却しコツコツと蓄財、それで畑や土地を購入。木材の干場も必要だったからだ。その資産をすべて船大工に注ぎ込んだ。後列中央二代目、右隣が三代目二代目の腕の中。三代目の時代が一番盛んだった。四代目は木造船からFRPへと変わることを予測し積極的に取り組んだ。これは型を作り作業を分担しながら作成できる画期的な方法だった。速水さんの造った型から同じ船が何十艘も太平洋や小川原湖で活躍した。いまでも現役で頑張っている 船もある。FRPはベークライトのお椀のようなもので、浸水の心配はない。このため船大工の腕のみせどころの水漏れのしない船が誰でも造れるようになった。しかしながら、だからこその船の形が要求されるようになった。船が押しのけた水をプロペラにどう伝えるかの技術が問われた。速水さんが進水した船と同じようなものが直ぐに出てくるようになった。苦心に苦心を重ねた艤装などを、大手のメーカーが盗んだのだ。大量生産で全国どこへでも陸送する方式に、地元だけを対象とする造船所は苦労をさせられた。
それでも、漁民たちの声を聞き、すこしでも使い勝手のよい船を作成しようと速水さんは努力を 重ねた。ところが蕪島を観光の名所にするべきだの声が上がる。八戸港造船所は鉄鋼船を造り、付近住民から鉄板を叩く音がうるさいとの苦情、速水さんも鮫の砂浜も浅くなり使いにくく、沼館に移転した。時代が変わり又、鮫へ。大きく勝負すると大きく転げる、小さく商売をしていれば転げることはないが、儲けも知れたもの。多くの船主が消え、わずかばかりの人たちが生き残り努力を重ねている。船主から水産加工業へと変身した人も出た。皆、必死の食う努力で誰が良くて誰が悪いわけでもない。遠洋で稼いだ人も二百海里で行き詰まった。海洋王国日本の面目は全く無くなってしまった。多量の魚を水揚げしさええすればいい時代は過去の物。新井田川に係留される船の数もめっきり減った。乱獲がたたったのかも知れない。速水さんはこれからは栽培漁業だという海洋学院の先生の言葉をいれてコンブの養殖に手を染めた。造船所を経営しながら取り組んだためにえらい苦労をされた。房総からタネに なるコンブを買い、それを水温管理した水槽で胞子を出させ、試行錯誤の繰り返しで鮫の港に養殖コンブの基を開かれた。今から三十年も前の話だ。いまではこれが立派に華を開かせ、鮫の漁民の多大な収入源。この種つけは今は水産高校が実施するそうだ。上の写真は水産高校のカッター。無論速水造船が造った。並んでおられるのは水産高校の先生方。
速水さんは四代目、長年の水産に対する功労で県から水産賞もいただいた。感謝状や賞状は青森県から水産庁といろいろあり、長年の苦労がしのばれる。蕪島海水浴場は今は利用されないが、かつてはここが八戸一のにぎわいを誇った場、そこに貸しボートがあったのを覚えているだろうか。そのボートを製造したのも速水造船。長根公園の貸しボートも同じ。時代が変わり速水さんも高齢になられ五代目は登場することなく速水造船は幕を閉じるが、なんの、速水さんは全く仕事をされていないのじゃない。建造した船、それ以外の船 の修理や艤装はいまでも手がけられておられる。今回八戸市長になられた小林氏は速水さんの親戚筋。二代目の葬儀に参列している小林市長の祖父の写真もあったが紙面の都合で掲載できない。
 八戸は水産の町、その水産に元気がないのは半身不随な病人状態。鮫浦漁協は沿岸漁業、遠洋の組合のような大負債もなかったが、百七十億円を踏み倒す漁業組合もあり、国は漁協の一本化をねらう。こつこつ手堅く努力した漁民たちも国の政策には逆らえない。長年の組合の歴史の灯も消える。それでも、海洋学院が教えた栽培漁業も地について、全国初の県立漁民道場の面目躍如。速水造船四代目は八人兄弟の長男坊、学校出ると気仙沼の高橋造船所で丁稚奉公、辛く苦しい修行を終えて、北は北海道から南は神奈川県まで船造りに精を出す。昭和九年生まれの御年七十一歳。足腰しっかり重い材木自在に担ぎ、蕪島の横で養殖コンブのブイ握る。波を押さえ波を征する船大工速水金一ここにあり。