2009年3月7日土曜日

昭和33年の八戸

行政
一億四千万円という膨大な赤字のため、三十一年四月の市議会で論議の末、ついに同年五月、地方財政再建促進特例措置法の適用を議決してから二年、八戸市の財政はようやく好転、三十二年度は五千四百万円の余剰金が出る見込みとなった。もちろんこれは地財法適用恩恵による地方交付税大幅増額が第一の原因で、いわば他力本願によ るものだが、このほか、税の自然増収、一般経費の節約も大きかった。この結果、市理事者は当初七ヵ年の予定だった再建償還期間を二ヵ年短縮し、三十五年度までには残りの債権債(一億八百万円)を償還したい意向で、市財政の将来はようやく明るいメドがついてきた。
 三三年年度当初予算は六億七千万円だったが六月定例議会で五千万円が追加更正され総額では七億三千万円となった。これは三二年度実行予算に比べて七千万円減、内訳は市税が五十三%、国庫支出金十六%、地方交付税十六%の割合。歳出は社会及び労働施設の一億六千万円が一番大きいが、前年度に比べると三百万円の減、また公債費の占める割合は十二%。財政事情は好転してきたといえ、一般ならびに特別会計を合わせ起債その他の合計五億三千万円に上る借金、その償還とさらに市政充実にふり向けねばならぬため、ここ二、三年、再建団体の枠内での緊縮財政の形が続くものとみられる。

機構改革 三二年度二月設立された民間有力者からなる総合振興会とタイアップして市の産業振興を強力に推し進めるため同年七月、企画室が新設された。部内の助役、交通、水道両部長なら びに庶務、土木港湾、農林、商工、水産各課長が委員となった。室長は林商工課長の兼務、また同市の都市計画は三一年一月認可を受けたがこの仕事を推進するため、従来の土木港湾課から都市計画課が分離独立し、庶務秘書係りが一月一日付けで昇格、秘書室として新設され、全部で二部一一課三室となった。
合併問題 三二年三月、県の合併勧告を受けて以来くすぶりつづけていた大館村(八六二世帯、六千六人)の合併問題は三三年三月に至ってようやく村側が合併に踏み切り、市側に意思表示をした 結果、同年九月十日を期して合併が実現する運びとなった。またかねて五戸町に分布を希望していた豊崎町豊間内部落(二三四世帯、一六五七名)は関係市町の円満な話し合いがつき、同年六月一日から分布、五戸町に編入となった。
第二工業地帯造成と港湾建設 三角地帯の北側にある八太郎沼及び北沼付近一帯約一五○万坪を第二工業地帯として造成、大工場の誘致にあてるものだが、東北砂鉄鋼業八戸精錬所が製銑、製鋼一貫工場を建てるため敷地一五万坪を市に要請したことが契機となったもので、市では八太郎 地区の地主九六名の離作について十月頃から交渉を進め、三三年五月末に至りようやく全地主の用地買収を完了。
市民会館と故神田市長銅像 三二年八月三十日、千六百万円の工事費で着工した市民会館が三三年四月末、第一期工事が完成。木造モルタル約二三○坪の大ホールで収容人員は最高千五百名、引き続き第二期工事(木造モルタル二階建て三四五坪、会議室、郷土品展示室、食堂など)が同じく一六○○万円で行われる。
港湾計画生みの親の故神田市長の銅像除幕式が 三三年四月、市内湊町上ノ山の館鼻公園で行われた。八戸市出身の彫刻家名久井十九三氏の手による。
小中野魚市場新築と館鼻開削街路の着工 水揚げ量の年々の増加にともない従来の鮫魚市場だけでは処理できず工費一億三千万円で鉄筋一部三階、のべ建て坪三四六三坪の新魚市場を新井田河畔の小中野場尻に二ヵ年計画で建てる。
三二年大火で焼失した尻内駅前を区画整理、組合を設立し、約六○米の整理。
八戸沖のイカ大量貧乏解消として、地元業者は県知事の許可制を要請していたが、十一月期間を三五年三月末までとして水産省から認可、三三年一月県イカ釣り漁業臨時調整規則として交付、同年の夏イカ漁期から全面実施。この結果許可対象船は三一、三二年度の操業実績を持つ者に限定。許可申請船は四五○隻に達し、八戸漁業のガンとい われるイカ釣子の身分確立なども遅遅として進んでいない。
不振な三八漁協組の育成と生産者の団結で経営 合理化と安定を計るため、三二年七月八戸漁業連合会(会長秋山皐二郎)が十七単協参加によって 誕生。
三三年度以降の市の主な事業 市庁舎の新築(二ヵ年で建築費一億八千万円)衛生センター(汚物処理、し尿処理施設)、第二期上水道、(給水人口十五―二十万人)。
三十五年度から全市国保が施行される予定で、これに先立ち県厚生連三八城病院を譲り受けて私立病院とする計画も三三年度に終わるが三四年度には白銀三島上に労災病院も予定。定例市議会で敬老年金(八十歳以上、年額二千四百円)の支給条例も決定。