2009年4月22日水曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から 続

したがって相互の生活経済面で、競合する物がない。また両地区にまたがる浜川は物資集散の動脈となって、共通のミナトをなしている。
 これが学友会に「湊」を称させた起因ではなかろうか。ところで前記の明治二十三年は、青森県に初めて地方制度実施令が公布された年でもある。この政令のねらいは多方面にわたるが、いまこれを教育行政面だけにしぼれば、末端の学区を整備する事によって「教育の地方分権をはかる」というにあった。が、この本音は、その建前とは大分ちがう。すなわち後前の学制を実施する段階で、もうこれ以上の財政負担には耐えない、という所まで逼迫していた。そこでオタメゴカシの「教育の町村自治」というゲタを地方にあずけよう、というのである。その結果が三小区の盛湊校を小中野尋常小学校(左比代)とし、また新しく湊を四小区に定め、下条の簡易小学を湊尋常小学校(むつみなと)としたのである。
 そして、そこを巣立った俊英たちが、開校まもない尋中八戸分校の難関を越え、やがて湊学友会に拠って、浜のルネッサンスを展開する。
学友会の胎動
 さて、ここで尋中八戸分校と、それから派生する校外団体について略述しておこう。まず、この分校は明治二十六年七月に設置され、その修業年限は一二ケ年だったが、幸運にも明治二十九年に五年課程の独立校に昇格、青森県第二尋常中学校 となった。つまり俗称、県立二中だ。
 そしてこの二中が、当時、県南で唯ひとつの最高学府なので、人呼んで南部の帝大といった。が、実は腕をためそうにも相手がないので、まずはお山の大将だ。だから湊学友会を筆頭に上北の上南会、三戸の郷友会、五戸の北嶺会などが続出して、技をきそいあったわけである。
 なお、これら諸団体中、特筆に価いするのは八戸学生団であるが、その出現はおそく大正四年、すでに各地に県立校が設置されたため、二中校外団体存続の意義は、ようやくうすれた頃であった。
 さて、ここで筆を元にもどせば、湊学友会では、最初の会員を音喜多政治(富寿の父)と神田品次(ただじ・重雄の次第)の二人としている。
 したがって学友会の結成時には、この二人は三年生、浪打石丸が二年生、山浦武夫(先代)が一年生である。はたしてしからば、当時この人たちに上級生会員がなかったかと言えば、実は四年級に山田誠、五年級に宗元苗 (そお・もとたね)がいたのである。そこでまず山田だが、かれはもともと神田、山浦、上田とは縁続きの会津衆である。そして当時、田名部の生家を離れ、湊下条の小林家から八戸の中学校にかよっていたのは、絶家寸前にある小林の名跡をつぐためだった。ところが山田は、なぜか「白盛社」という団体づくりに夢中である。ちなみにこの白盛社は、多分に飯盛山の白虎隊にあやかるものだが、かれはいささか図にのって三戸、五戸、三本木方面まで間口をひろげ、結局、竜頭蛇尾おわる。が、この不屈の オルガナイザー山田は、性こりもなく今度は、白盛社と同工の湊精進団というものに手を染める。されば従来この精進団をもって学友会の前身とする説は、一概にうがちすぎの論とは言えない。なお山田は、その後、東京高商(現商大)を経て米スタクトン神学校を卒業、牧師として在外活動に当ること二十数年、一時帰国したのが関東大震災の年である。そして心友・植村正久、賀川豊彦らと行動をともにするが、昭和二十五年、七十三才をもって神に召された。ついでながら学友会の外様(とざま)会員として鳴らした山田(のち小林)陸典雄は、その甥であり養嗣子でもある。さて、次の宗元苗については、いまさら詳述するまでもなく、八戸中学第一回生であり、かつ同窓中、最初の八中校長になった人である。また、この人を身近な所で知るために、あえて美濃部洋子の父、と附記しておこう。
そして、さらに宗を偲ぶために、かれの従兄で地質学者として高名だった大関久五郎の略歴を添えよう。大関は館村売市のひと。青森師範学校を卒えて湊小学校の教師となり、ついで東京高等師範学院(現教育大)に進み、同校卒業後、千葉県立安房中学教諭。のち東京高師教授に迎えられ、ドイツのフリードリッヒ・ウイルヘルム大留学、文部省視学官となる。その間、地学における未開の分野を科学的に体系づけながら、瞠目(どうもく・驚いたり感心したりして目をみはること)すべき幾多の著述を世におくる。
 大正七年、北海道講演旅行中、折からのスペイン風邪に感染、四十四才でこの世を去る。
 筆を宗元苗にもどせば、それからたどる宗の前半生は、そっくりそのまま大関の前半生である。つまり大関が安房中学教諭から高師教授になっ たとき、宗がそのあとがまに坐るところまで、同じ路線だ。だから宗は、その敬仰(けいぎょう・うやまいたっとぶこと。)する従兄の中に、人間の理想像を見いだしていたであろう。そう言えば宗は、大杉平に回帰するころすでに旧制高校教授の資格をえていた。それが母校の校長におさまると、そこに痛恨の後半生が彼を待っていたのである。が、ここでは、もっぱら宗と学友会の出あいを探求することにする。
 さて宗元苗が、母校の校長になったのは、やがて関東大震災に見舞われようという大正十二年四月。母校の創立三十周年にあたる年であった。また翌十三年は八戸大火の年であり、かつ学友会、三十周年式典の行われた年でもある。いまこの年を対比すれば、学文会の誕生は明治二十九年以前、ということになる。この点につき、さきに宗が五年生、山浦が一年生の時と書いたが、この推定もあてにはならない。
 というのは、宗たち第一回入学者八十四名が、そのまま一年級を編成したわけでなく、この中の三十六名が再試験の結果、二年級を編成しているからだ。つまり宗は、五ケ年の修業年限を三年数ケ月ですませ、すでに湊小学校の先生さまになっていたわけだ。なお、この速成組三十六名は、その間きびしいフルイにかけられ、まともに卒業したのは十名にすぎない。だから宗元苗や山田誠は、郷党(きょうとう・郷里)の仰ぎ見るエリートであり、学友会の誇るべき先輩だったであろう。
群像と人脈
 さて従来、小中野で石橋姓を名のる人びとは、おおむね与兵衛屋一族であろう。たとえば石橋蔵五郎、石橋道麿、松や旅館の石橋宇吉、かつての料亭「万葉」などである。また、その連枝(れんし・枝をつらね本を同じくする意)兄弟。特に貴人にいう)である夏堀悌二郎が八戸市長、その弟正三が小田原助役、石橋宇吉が八戸市収入役とあれば、まさに学友会ならではの三役そろいぶみである。さらに前記、宗元苗は、この一族とは血脈のつなかりをもつ人だ。そして、これに類似の関係は、のちの神田市長、久保節助役、山浦武夫県議の場合にも見られる。また山浦の場合に父系において松岡正男(羽仁もと子の弟、八中二回生)とは緑辺(えんぺん・婚姻による縁続きの間柄。親族。縁故のある人)につらなり、とくに生徒学生時代の交友が密である。おそらく当年(とうねん・その頃。その時代)の山浦は、のちに松岡が日本有数の新聞人となり、またラグビーの草分けとうたわれる姿を、想っても見なかったであろう。またこれとは別に、かつての国立第百五十銀行頭取・富岡新十郎の外孫が、ほかならぬ学友会の音喜多富寿である。
 なおこの富岡頭取は育英事業にも熱心で、野田正太郎らの英才を世に出したが、その最後の給費生は、宗元苗である。また富岡のもとで銀行支配人をつとめた野崎和治の実弟登太郎は、のち松岡家に入夫して、羽仁もと子、松岡正男の父となった。この幾重にも織りなす人間模様の出来不出来はさておき、ここで小中野女の才気を知るに格好な逸話を示したい。たぶんこの話は、富岡が銀行の危機をのりきるために安田善次郎に救援を求めた時のことであろう.行きつけの万葉亭で、大事な客だから「山海の珍味でもてなせ。カネに糸目はつけない」と富岡が女将に申しつけた。
そのせいかこの会談がうまく運び、さて勘定ということになった。が、その法外な請求額に、さすがの富岡も目をまるくした。なんと一家が、らくらく一ケ月は暮らせようという金額だ。そこで富岡が事の次第を女将に聞くと、且那さんがケッパレというので「タキギがわりに三味線の棹だけ焚いたので、こう高くつきあんした」と答えた、というのである。そして、このような才気が、男性にのりうつると「学友会の三太郎」のようなタイプになる。この三太郎は木村千太郎、室岡政太郎、浪打季太郎で、かれらのたどった途は、それぞれ異なるが、才気縦横という点では同型である。このうち木村については、歌人・靄村の長兄であり、かつ奇行の人として書き古されているので筆をはぶくが、室岡と浪打は自分を韜晦(とうかい・自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと)するような生活態度だっただけに、この際、略伝程度ながら書き残したい。
そこでまず室岡だが、かれは写真に見るとおり、八戸中学、旧制第二高、東大を通して三浦一雄(のも農林大臣)夏場悌二郎たちとは友人である。
 まだその姓字でも判るように、小中野の室岡医院とは同族であり、八戸市庁在勤の室岡一の父でもある。さらに渋民小学校の啄木と心のふれあった稲田ひで子の従兄でもある。
それはさておき室岡は、東大法学部、九大工学部の双方を卒業したので、どの職場でも引く手あまたのはずだが、なぜか浪々(ろうろう・さまよい歩くさま。さすらうさま)孤高(ここう・ひとりかけはなれて高い境地にいること。ひとり超然としていること)の青年期を送る。が、やがて川村竹洽(青森県知事・台湾総督)の知遇をえてからは、そのフトコロ刀となって敏腕をふるった。一例をいえば関東大震災時に台湾ヒノキを移出して東京復興に寄与し、あるいは綿花の移出によって本土の綿布需要に応える等、やることがでかい。それが官を辞して帰郷すると、あえて市井の無名に甘んじ、隠士のような生涯をおわる。なお彼の弟が省三、妹が松岡きく子なので、そのつながりは、川村竹治夫人の川村女学院、松岡洋子、羽仁説子に及ぶわけである。
 さて次の浪打季太郎については、現在のところ、まぽろしの人物である。が、わずかに知られている点は、若くして名古屋の特殊学校教師になったことである。この学校は、徳川政権のいわれない圧制で長く人間あつかいされなかった平人(のち新平民)の教育施設である。つまり今の同和運動の原形であり、八戸の類家堤におけるカンタロウ部落の解放、といっていいだろう。また、八戸におけるカンタロウの悲話が、大正中期まで小説または芝居に仕組まれ、子女の紅涙をさそったが、浪打の進路は、あるいはこれらの稗史(はいし・昔、中国で稗官はいかんが集めて記録した民間の物語。転じて、広く小説をいう)演劇によって方向づけられたのではなかろうか。
学友会の本領
学友会の本領とするのは、水泳と野球であった。泳法の習得は今ではプールだが、もとは海岸である。そういう地の利もあり、ことに水府流の浪打石丸を師範にいただく学友会は、水泳におけるメッカであった。もっとも、その泳法はあくまでも古式の実用流なので、湊川口から蕪島までの遠泳をハイライトとする物であった。が、この例会には、きまって旧藩主が臨席された所からみても、浜通最大の催しであった。ところが大正十二年、時の八中校長宗元苗が、後輩の高師選手をコーチに迎え、初めてクロール泳法を導入した。
 この新式泳法を体得した学友会の椛沢幸一・波打浩・鈴木弘道らは、やがてその名声を東北一円にとどろかすことになる。
 次に野球については、早大生時代の山浦武夫がこれを導入し、慶大野球部員・石橋道麿が習熟させたとされる。が、これよりさき、野球史にも名をとどめるょうな有名選手が、八戸中学のコーチをしているので、むしろ長く郷里にとどまり、その間の状景に接している大久保弥三郎(先代)あたりが、学友会野球の主軸をなしたように思う。なお参考までに、明治三十八年代の八中野球部選手をあげれば、註記のとおりであるが、この顔ぶれがさかんに四部試合(柔・剣‘野球・庭球)をかけもちで他校にいどんでいる。
 したがって、柔道の御大が竹刀をっふりかざして惨敗したり、テニスの神さまがグローブ片手にエラーの続出、という場面もある。
ま、ここまでは笑ってすまされるが、この背後に容易ならぬ事態が待ちかまえていたのである。
武田知事の禁止令
 とかく試合は、クロスゲームになればなるほど面白い物だが、それがエキサイトすると、あとは言わずもがなの乱斗になる。これを県史に求めれば「明治三十八年、時の武田千代三郎知事が、県下中等学校の対校試合を禁止したので、学校スポーッは漸次おとろえたが、各地で倶楽部を組織し、素人先輩を加えて試合を行い…」となる。この点、八戸中学も例外ではなく、ために校外団体である学友会が、思わぬ人気を博したわけである。それにしても武田知事の禁止令はちと俯におちない。というのは、すでに武田は、一地方長官としてよりは、むしろ日本体育協会の生みの親として有名なはずである。すなわち彼は、その大学予備門(旧第一高)時代の盟友(めいゆう・ちかいあった友。同志)岸清一とともに、英人教師ウィリアム・ストレンジについて英国流スポーツを習得し、さらに東大に進んでからは、有名な赤門運動会(体協)を結成し、あらゆるスポーツ団体をその傘下に糾合(きゅうごう・一つによせあつめ、まとめること)した。そして初代会長嘉納治五郎、二代会長岸清一博士のもとで、引き続き副会長をつとめる最高実力者である。それが青森県に赴任したとたんに、対校試合まかりならん、というのである。その原因は、かれの頑迷なスポーツ・アマチュアリズムにもあるが、直接には県立一中(弘前中学)と秋田県下中等学校の試合に乱斗が絶えなかったからである。そしてこの禁止令は、前記「学友会の三太郎」の時代まで続く。また時の八中野球部には、次の学友会員がレギュラー選手として活躍している。投手薄正義(すすき・まさよし、会津衆)捕手久保(のち三島)利義、セカンド夏堀悌二郎、センター神田三雄(内閣人事官)、レフト安藤安夫(種市町)、また、これにOB外様組が加わり、小中野が、一見、野球部落の観を呈したのである。
やがてこの伝統を受けついだ会員中から月館(のち尾形)留吉投手やカーブを多用したので「魔法」の異名をとった大久保一郎投手、さらには甲子園の舞台をふむ大下健一がうまれ、また捕手としては室岡杯の玄悦医師および田中泰・功兄弟、それにナラカン(奈良貫一)で鳴らした今の田中清三郎、名ショート佐藤義一・亮一兄弟が輩出する。
 ここで、いきなり大正十三年の三十周年式典に飛ぶが、その前に初代会長山浦武夫の作詞になる会歌に触れておきたい。この曲の原歌は、明治三十七年第一高等学校の記念祭に歌われた征露歌であるが、「ああ玉杯」と並んで特に喧伝(けんでん・世間に言いはやし伝えること)されていたので、かつて東京に遊学した山浦は、自作の歌詞にこのメロデーをつけたのであろう。さて次に三十周年記念歌であるか、この作詞作曲にあたった奥村勝治は、相棒の音喜多富寿とカネタ湯でひと風呂あびていた。所が突然「おお、できた」と叫ぶなり、褌一本で外に飛び出した。びっくりしたのは音喜多で、早速奥村の着衣をかかえ小学校の講堂にかけつけると、オルガンを前にして「春さくら花咲く目の本のォ」と唸っていたのである。 なお、この記念行事中、岩見対山と夏堀正三、奥村らによる「出家とその弟子」の上演があり、さらに対山師の「神経衰弱」と題するパントマイムもあって満堂を魅了したわけである。また五年生大久保幾次郎は、その主宰するマンドリン楽団を指揮し、いやがうえにも式典のムードをもりあげた。ころしも新旧の思潮うずまく大正末期。さしもの学友会も時計の振子のように、あるいは左し、あるいは右したが、しかしたゆまず時を刻みつつ、昭和期にはいるわけである。