2009年5月16日土曜日

三日町にあった丸光1


丸光の話をする。こう書いたら佐々木聡は、丸光が話をしたと錯覚する。藤川優里市議の話をすると書いたら、藤川優里市議が言ったと錯覚しキイキイ言って騒いだ。
 盲信した佐々木聡は、このことを週刊誌に語り、連休に東京から週刊誌が来た。藤川優里市議から頼まれて書きましたか?
 そんなことはない、「はちのへ今昔」が独自に書いただけだ。この「はちのへ今昔」の文字も来週からは別のブログで「日本救護団」に変わる。今、移動作業中だ。
 さて、丸光だが、八戸に進出してきたのは昭和四十三年六月二十八日。この進出で、二十三日町から三日町に繁華街が移動した。この百貨店の総帥は佐々木光男。創始者は丸山とか丸岡光男とでもいうのかと考えていたが、佐々木だとヨ。どこかで聞いた名だナ。
 この進出年に佐々木は死んでいた。前年に六十三で逝去。
 佐々木はどうして八戸に出店したのか、それを探る。
郡山店を除く他の四店が、いずれも海岸線に沿った都市である。出光興産の出光佐三が敗戦直後の混乱のとき、内地はもちろん外地から引揚げてきた大勢の社員達を救済する手段として、ラジオ修理を全国的組織でやったことがある。その際営業所として選んだ場所が殆んど海岸沿で、業界が再興されたときそれらが全部出光の貯油基地に一変した。
「国策として昭和三十七年制定の全国総合開発計画に基づく新産業都市は有望。都市立地として、港と鉄道を同時に持っている街は発展性がある。東北本線等中央幹線に沿った都市は先ず、中央大手が狙って進出を試みるであろうから先手を打つ意味において海岸通りの脇線を結んで固めておく。」
結果としてみた場合、東北の太平洋岸を貫く国道四十五号線の完成により、丸光は仙台・石巻・気仙沼・釜石・八戸が見事に一本の線に連なった。
 青森県八戸市。東北地方の人々は別として八戸と書いて「ハチノヘ」と正確に読むひとは少ない。しかし、唄に夜明けたカモメの港、船は出てゆく南へ北へ、鮫の岬は潮けむり、のうた(八戸小唄)で名高い三陸漁場随一の港。うみねこで有名な蕪島。名作映画「幻の馬」の出生の地。さらに「忍ぶ川」の作家三浦哲郎の出たところと並べてくるとはっきりしてくる。
 青森県の南東隅に位置する叙情的なこの街も昭和三十九年。新産都市の指定をうけるや俄然時代の脚光を浴び、活気あふるる工業都市へと変貌を遂げつつあった。
 しかし街の急速な発展とはウラハラに、商業面での立遅れが目立っていた。
 既に佐々木の手許にある出店構想には、この都市の部分に赤で大きく二重丸がしるされてあった。
 そんな或る日、ひとを介して耳よりな相談が佐々木のもとに届いた。八戸きっての有力者である金入氏が新しい商業開発に並々ならぬ意慾を燃やし協力者を求めているという話である。
 佐々木が早速社員を現地に派遣して調べさせてみると、噂に遼わず金入氏は熱心な商業振興推進の先鋒であり、しかもそのために八戸きっての繁華街の中心部に在る自らの土地をその場所に提供しても差つかえないという意気込みであった。
 着々と進む新産都市づくりの力強い街の状況と睨みあわせ、商業発展の限りない可能性をみてとった佐々木は一も二もなくこの話を受けた。
 昭和四十一年四月には株式会社八戸丸光を設立。釜石店の完成をみてから僅かに九ケ月目というスピードであった。
 しかし一時はトントン拍子に進むかにみえたこの出店計画も、目抜きの場所によくある土地買収問題で難行した。大部分は金入の土地であったが、佐々木の店舗構想は更に大きなものであったために、隣接の土地をなんとしても手に人れねばならなくなってきたからである。
 父祖伝来の土地であったり、それぞれ長い間商売を続けけてきた歴史もあり、現に発展を目前にして居住者の土地に対する執着は並大抵のものではない。門前払いを幾度も味わいながら牛歩の如くねばり強く、着実に話を進めた。
 山積する難問題対処に、これまでの出店にかつて例をみなかった現地折衝駐在社員を家族ぐるみで常駐させた。当時のもっとも重要な最後の詰めの段階に任に当っていた佐藤功は、田舎における警察官派出所を通称駐在さんと呼ぶが仕事の内容は違っても、その苦労がよく分ると云っていた。
 結局難問題解決し漸く建築敷地面積二、七〇〇平方米、の八戸市はもちろん仙台以北最高最大の百貨店が登場。
 続