2009年5月9日土曜日

司馬の土地所有観

さて、奈良時代の仏教のことをのべねばなりません。
 隋・唐は、国家仏教でした。なにしろ大乗仏教は小乗仏教とちがい、金がかかるのです。造寺造仏を伴います。結局は国家仏教になるわけで、これに帰依しますと、帝王といえども三宝の御奴として仏教の下に入るのです。僧は官僧として国家公務員であり、鎮護国家という国家的原理を背負っていますから、ときに俗官俗吏を圧倒します。
 その上、平城京に巨大官寺が集中し、弊害が多かったろうと推量させます。
 奈良朝国家がわずか七十年余で奈良をすてて、のち京都とよばれる平安京にうつった、その主要な理由は、おそらく鎮護国家という大それたものをふりかざす仏教から脱出したかったのでありましたろう。奈良仏教は、ソ連や中国における共産党のようなものでありました。
国家の上に立ち、それを鎮護する形態においてです。
 この機微については、あたらしい平安京(京都)にあっては、官寺を置かせなかったことで察しがつきます。さらには、新しい都では、最澄と空海に、国家よりも人間を救済する新教義をひらかせました。かれらの寺も、叡山と高野山といったように、都から遠ざけました。以上で、仏教についてのことは、とどめます。
 平安京にうつると、律令制がくずれてきます。律令制、つまり公地公民であるべきことをたてまえとしつつも、荘園という貴族や大寺などの私有農場がふえるのです。
 平安期は、荘園という私領の時代であります。そのくせ、官制だけは、名のみの律令なのです。
 明治維新までそうでした。日本史は、こういう体制の基本的矛盾を平然とかかえてきました。
 平安後期ごろから、おそらく鉄が安くなったせいか、農業器具がふえ、各地で力のあるものが浮浪人をあつめて荒蕪の地を水田化する開墾、墾田ということが流行しました。とくにその流行は、坂東(関東地方)に集中しました。
 それらの農場主を、武士とよぶようになりました。
開墾すれば、その水田は、貴族や社寺の荘園に組み込まれます。この天の下に私有地はな
いという律令のたてまえは依然生きていて、いかに自ら開墾したからといって私田はゆるさ
れないのです。このために貴族や社寺にさしあげて、その土地の荘司などにしてもらいます。
管理人であります。しかし所有権は不安定で、京都の荘園領主からあの土地は汝の叔父のものだ、といわれればそれまでです。
 この不安定さに耐えかねて起ちあがったのが、十二世紀末の坂東武士の反乱でした。かれらは源頼朝を擁して鎌倉幕府をつくるのです。
 武士の世になりました。全国の土地に守護・地頭を置き、日本国を支配しました。余談ですが、鎌倉彫刻におけるリアリズムは、時代の風でありました。武士たちにとって、自分、もしくは自分の父親が開墾した土地が、やっと自分のものになったのです。律令という絵空事の世は去って、じかに手触りのある世になったのです。
 鎌倉の世がいかにいきいきした時代であったかは、その後の日本仏教が独自のものになり、武士をふくめた民衆のものになったことでもわかります。法然、親鸞、日蓮、道元という独創的な思想家が簇出したことでも、この時代の元気が察せられます。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
革命というのは、一つの民族の歴史で、いちどやればこりごりするほどの惨禍をもたらすもののようですね。江戸時代の大商人のほとんどが、潰滅しました。たとえば、江戸時代、大坂の大商人は、諸大名に金融をしていたのですが、かれら金融資本家は革命のために一夜で路上にほうりだされ、乞食同然になりました。
 農民も、大きな損害をうけました。江戸時代、農民は現金で租税を支払わず、コメで支払っていました。
 それが、明治四年(一八七一)、西洋なみに現金で支払えということになったのです。金納制とよばれています。それまでの農民のくらしの原則は自給自足的で、現金をもたないということが倫理にまでなっていました。このため農民の一〇パーセントほどは現金をどう手にいれていいのかわからず、現金をもつ大農民または醸造業者などに頼んで、みずからの田地を無料で譲りわたし、いわば志願したようにして小作農になりました。むろんこれらの変化をきらって各地で農民一揆がおこったりしました。