2009年5月7日木曜日

司馬の熊本

肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである。
 ただし、難治の国といわれてきた。国人・地侍とよばれる室町期以来の土豪たちが田地と非自立農民をかかえて割拠し、大勢力によって統一されることをのぞまなかった。また自分たちの仲間から大勢力が出ることもきらい、このため無数の小勢力がたがいに揉みあい、凌ぎぎあいをくりかえしていた。ただし、末期のころは島津氏についたり、秀吉に味方したりした。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
 肥後の場合は、まことに厄介だった。秀吉は、当初、佐々成政にこの国をあたえたところ、はたして国人・地侍による一揆が暴発し、成政の独力では鎮圧できなかった。ついに成政は失敗の罪をとわれて所領没収の上、切腹させられた。
 このあと、秀吉は肥後を半々にわけ、子飼いの加藤清正と小西行長にそれぞれをあたえ、肥後史は新局面に入る。
 清正の生いたちはさだかでないが、尾張の無名人の子だったことはたしかである。寡婦になった母親が、少年の清正をつれて近江長浜領主時代の秀吉をたずね、子を託したという。およそ、幽斎や三斎のように結構な家柄ではなかった。
 清正は年少のころから秀吉に近侍し、戦場では秀吉の床几まわりで働いた。肥後半国の国主になる前は、わずか三千四百石ほどの給人の身にすぎず、統治経験はまったくなかった。
 それが、肥後においてみごとな統治をしたのは、天成の器量だったというほかない。
 肥後はふるくから、尚武の国として知られていた。
 この肥後人の気質が、武者ぶりのいい清正という入を好ませたのにちがいなく、さらにはかれの人情の深さにもひとびとは服した。たとえば、清正は地元の肥後人を多く召しかかえ、またかつての佐々成政の旧臣三百余人や、その後、関ケ原の敗者になった小西行長や立花宗茂の遺臣たちなどについても惜しみなく家臣団にくみ入れた。
 清正は、関ケ原のあと、肥後一国五十四万石にまで加増された。かれの肥後における治世は天正十六年(一五八八)閏五月の入部からその死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十の死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十三年にすぎなかったのだが、治績は大きかった。
 その最大のものは、農業土木による肥後農業の仕立てなおしだった。
 かれは各水系に堤をきずき、堰を設け、治水と灌漑に役だてた。こんにちなお、そのうちのいくつかが、熊本県に恩恵をあたえつづけている。
 それらによってできあがった新田は二万五千町歩という広大なもので、このおかげで農地にありつけた農村の次男・三男は推定何万人という数にのぼったろう。かれらが清正を神のようにあがめたのも当然だったといえる。
 そういう清正の最後の仕事が、熊本城の築城で、完工後、ほどなく死ぬのである。そのあと、子の忠広が繕いだが、結局、幕府によって加藤家はとりつぶされる。三代将軍家光の治世がはじまった寛永九年(一六三二)のことである。
 その肥後五十四万石を、幕府は、豊前小倉(中津をふくめる)三十九万九千石の細川氏にあたえた。
 肥後は、豊臣期から徳川期にかけて、天下を防衛する上での要地だった。
 その理由は、薩摩おさえということによる。
 なにぶん薩摩の島津氏は豊臣初期に七十七万石の小天地におさえこまれたとはいえ、いつ爆発するかもしれなかった。
 薩摩は、風土あるいは言語・習慣・気質からして特異なのである。さらには薩摩人は他地域に対して自負心がつよく、その上、島津氏を擁しての結束力がきわだってつよかった。島津氏がいつかは天下に勢いをひろげるだろうということを、秀吉も家康もおそれていた。
 秀吉が、九州攻めに成功しつつも当の島津氏をその故郷におしこめただけで分割支配をしなかったのは、その場合の反発をおそれたためだったし、また家康が、関ケ原の敗者の立場に島津氏を追いこみながら、その領国安堵という異例の処置をとったのも、おなじ理由による。