2009年1月31日土曜日

ふるさとの味八戸せんべい 組合創立五十周年記念座談会


デーリー東北 昭和三十五年二月二十六日
八戸せんべいが四百年以前から、地方人に「ふるさとの味」として親しまれ、明治四十三年に業者が、品質の向上をはかるため組合を作ってから今年で五十年を迎える。組合では三月一日、五十周年事業として「せんべい祭り」を挙行する計画だが「せんべい」が我々の生活にあまりにも近いため、無関心にすぎている面があるようだし、ようやくその雅味ある味覚が全国的に認められ、みやげ品として折り紙つけられているが、その反面、生産に販売に多くの困難があるようだ。この機会に八戸名産「八戸せんべい」について、その過去や現状、あるいはこれからのことなどについて関係者からいろいろ意見を聞いてみた。
出席者
八戸物産協会長      牧浦好之助
同協会せんべい部会長   宇山博明
同協会事務局長      加藤一夫
業者
八戸せんべい組合長    坂本幸一郎
             岩館作太郎
             山下福太郎
司会   角田本社編集局長
九割は地元で消費
生産量も昔より減る
司会 まず八戸せんべいの現状について坂本さんからアウトラインを。
坂本 八戸地方現在の業者は組合加入者六十八人、未加入者を入れて百人ほどです。焼き方も進歩してきて、二枚型機械が十四、五業者、ハネ型が十業者、残りは手焼き式です。年間生産量は消化小麦粉二十二キロ入りの粉袋で三万袋ほど、製品の販路は地元消費が九割、残り一割が県外へ出ています。
司会 組合創立当時のことを
坂本 創立は明治四十三年組合員は六十八人、全業者は百十二人で、当時の生産量は現在よりも多く約四万袋もあった。当時八戸といっても人口八千人ぐらいの町だったから、相当食べられていたことがわかります。そのころのせんべいは今のより厚く形も大きかった。いまの人はわからないかも知れないが「せんべい汁」というのがあって毎日のように食べていたようです。
司会 機械焼きが始まったのはいつごろからですからですか。
岩館 ハネ型が早かったが二十五年から三十年前です。
司会 そのころでしょう、機械焼きは味が落ちると言われたのは。
山下 機械化という新しいやり方び抵抗するためにそういう話も出たことでしょう。実際に機械焼きはせんべいが空気にふれないため、重曹が発散しにくいことは考えられる。しかし今でも手焼きでなければ…という人もいますが、機械焼きも進歩しているから、味はむしろよくなってるとおもいます。
坂本 当時の組合は業者も多かったので競争も激しく卸売りのダンピングを防ぐためと、あとから進出してきた日本、日清製粉の大会社に対して業者の小資本力をカバーする動きもあった。せんべいの中に「八戸名産」の文字を入れること、厚さは三分以内とするなど細かなことまで規約に載っている。
司会 八戸以外で作られている南部せんべいとの関係はどうですか。三戸せんべいや弘前、盛岡などの「南部せんべい」について。
山下 三戸で作られている「流しせんべい」などは八戸せんべいとはつながりはないと思います。
坂本 盛岡のは八戸から持っていったもので、こちらの分家だ。今でも焼き型や機械などは八戸で研究して作ったものを盛岡へ持っていっている。南部の本家なので、せんべいも本家だと思っている人がいるが間違いだ。
山下 せんべいを焼いているところはほかにもあるが、機械を研究しているのは八戸だけだ。ひとつの型を作りだすのに十年近い期間研究している。携行食料にも試作
浦山さんは県外販売の恩人
司会 地元だけでなく、県外へ販路を広げたのはいつごろですか。
岩館 本格的に始めたのは山内市長の時だったでしょうか?軍隊の携行食料にしようと非常に力を入れたのもそのころ、焼き型を市長が作って業者に与えたほどだ。
司会 物産展などへの出品は…
山下 神田市長時代の少し前に、三越へ出したのが初めじゃないですか。もう三十年以上前です。
坂本 そのためか、東京へ持っていくときは他のデパートより三越でやった方が売れ行きが良かった。最近は上野の松坂屋が一番よく出る。
岩館 ここの出身者で、元代議士だった浦山助太郎さんが電気協会の副会長をしていたころ、大阪や東京にこの「八戸せんべい」を自費で宣伝してくれ、販路開拓に尽くしてくれた。いま大阪に持っていって売れるのはそのためです。八戸せんべいにとっては恩人の一人です。
県外にも伸ばせる
小売の利益を増せば
司会 東京などで組合で共同して作業場を作ったらということを言う人がいますが。
坂本 ちょっと無理です。利益が低いし、東京で買う人は今のところほとんどが地元からの出身者で数が限られている。この前、大阪の大丸で現地焼きをしてみた。しかし、現地の水や木炭に対する研究が十分でなく、いい味が出なかった。
加藤 十分な研究期間があれば良いものは作れるんでしょう。現在、機械焼きの燃料としてガスや重油の使用が研究されている。
司会 業者もなかなか容易でないことはわかったが、その点の解決にこれからどうしたらいいでしょう。
坂本 利益が低いので製造者が小売するという方法で、いくらかでもカバーしたい。現在の業者は駅通りを除いて、表通りに面していながら、店舗を飾ろうとしない。小売に対する意欲がないからで、この天の改善からしなければ…
司会 南部せんべいという名が一応通っているのはどのへんまでですか。
岩館 大阪あたりまででしょう。
山下 業者は小売値はどこでも同じでなければという気持ちから、高い送り賃がかかって利益もない所へ宣伝してまで売る必要もないという考えだ。
加藤 いくら宣伝しても、小売値を地元と大差なく全国の都市で売ろうとすれば、利潤の薄さ(二、三%)から小売店は扱わない。そこでこの間、大丸では適当なマージンを見込んで現在の二割高の試験価格で販売。物産協会の特製マークを入れて百円は百二十円、持っていった三百筒は二日間で全部なくなった。これで値段を変えても売れるということがわかった。
宇山 今までの地元と東京、大阪などの小売値が同じでなければいけないという考え方が間違いであって、輸送すると送料もかかるし、破損も見込まなければならない。小売店の利益もみて、新しい小売値を決めていい。全国で小売すれば地元五割、県外五割くらいは伸ばせる。
包装に新趣向を
土産品として魅力も

司会 盛岡や弘前の「南部せんべい」の影響は。
宇山 どこで作っていてもいい。良いものが最後まで残る。地元の製品のよさを認めて貰う方法として、包装や品質の改善などが必要だ。
司会 業者が今までそういう改善に積極的であなかったというのは、どうかこうかやってゆけたからではないですか。
坂本 たしかにそれもありますね。
宇山 せんべい業界でつぶれたというのは聞いたことがないし、蔵を建てたというのも聞かない。
坂本 せんべい業者はほとんどが、夫婦二人で焼く小企業だから。
山下 今でも各業者の焼き方は秘伝として公開されない一種の名人気質があり「○○屋のせんべい」の観念が強く、組合のせんべいとして一本にまとめられることをきらうことも、組合への未加入者が多く、呼びかけがすぐ行われない一つの原因だ。
岩館 戦争前、味自慢の業者たちがグループを作って共同で県外販売をしたことがあった。戦争でつぶれたが、今は共同でやるわけにはいかない。その原因は二つある。一つは原料粉の問題。昔はまじり物のない粉を使うために、業者が石臼や水車小屋などで製粉するほどだった。現在、大会社の粉はほとんど外粉が混じっているため、業者は各自で質の良い粉を探して使っている。第二はゴマ。この地方は良質のゴマがとれていたのが現在タバコにくわれてしまって、ほとんど作付けされない。茨城などから来るゴマは質が落ちて、混じりものがあり信用して使えない。業者は各自で質の良いゴマを見つけるためや、混じりものを除くために苦心している。そんな状態だから、使う粉やゴマを画一的に押し付けるわけにはいかないので共同作業は望み薄だ。
司会 せんべいも何十年もの間にいくらかづつ変わってきたと思いますが、その変わりぐあいを一言でいうと。
宇山 非常に上品になった。よくこれまでになったとびっくりするほど品が良くなった。このあとどこまでいけるか楽しみですね。どうでしょう。どんどん県外へ販路を広げるという意味で、新しい型のせんべい、たとえばバターせんべい、するめせんべいなどの珍種も作って県外販売に力を入れるというのは。
坂本 しかし、いろいろなものは線香花火みたいにほとんど消えていく。やはり最後まで残るのはゴマせんべいだ。
加藤 北海道へはゴマ、関東、関西では豆せんべいが良く売れる。そういう各地の好みの違いがあるから、その地方にあわせた物に力を入れて売り出す研究も必要である。
司会 最後に牧浦会長さんから一つ。
牧浦 新聞紙の袋に入れて売っていたころからみると包装も一段と良くなった。しかし、八戸名産のみやげとして売り出すにはまだ弱い。他の弘前や盛岡で作っているのも南部せんべいだけど「南部八戸せんべい」の良さは何回か食べているうちにわかるだろう。その味がわかる前には、やはり買いたくなるような包装が必要だし、買いやすい駅売りなどに良い物を出して早く良さを認めてもらわなければならない。八戸名産として全国に宣伝され、みやげの一枚のせんべいから八戸のことが語られるようになるとき、それは八戸を盛り立てる大きな力となる。そうなるためにこれからも組合長や部会長を中心に大いに研究してもらう。
司会 このへんで。

2009年1月30日金曜日

地域公共交通活性化会議2

さて、交通行政の観点から見れば、公共交通手段は捨てられない。八戸にもトテ馬車が走っていた。馬車組合はバスの出現に脅威を感じ騒動となった。
 バス会社の先陣をきったのが小笠原八十美、それに対抗し弱者馬車組合の用心棒が本多浩治、無産党で貧乏人の味方、こいつは骨のある奴で散々に小笠原をとっちめる。小笠原は代議士になるわけだが、この本多には手をやいた。そこで知恵のある小笠原は新聞をやりたがっていた本多に三本木にきて新聞主幹をやれとボロ新聞を買い取り与える。これにコロっときて本多はそれ以後小笠原の手下ヨ。この小笠原が選挙で銭を撒いて逮捕、その苦衷を救うのも本多だ。当時、小笠原は貧民病院を経営、その事務長が本多だ。警察に拘引された買収者が警官から殴られたのを発見し、ある医院をすすめ診断書をとれと命じた。買収された農民が医院を訪れるがたいしたことがないと戻す。
 ここに本多の知恵がある。いきなり自分の病院で診断書を書けばグルが露見、他の医院が書かなければ堂々と診断書が書ける。それで警官三名が逮捕され暴行凌虐罪でうたれた。これが有名な晴山事件だ。このぐらい知恵の廻る男だ。これだけの男だ、バス騒動の時は余程小笠原は苦しめられたのだろう。それで味方に引き込んだ。そして、小笠原他のバスを買い取り昭和七年、八戸市営バスが誕生したヨ。
 当時は黒字サ、それが戦争で統合され、戦後は南部バスになっちまった。これを八戸中学出身の夏堀悌二郎が同級生の五戸の代議士三浦一雄(この男は農林大臣歴任)に選挙協力を申し入れられ、反対給付で南部バスが八戸市に戻った。
 ところが、ドル箱が今度は苦痛箱になり下がりだ。市営バス売上げ19億、そのうち八戸市の補助が5億5千万、さらに高齢者乗車証として4億5千万、つまり八戸市から10億円の金が流れ出している。自分の努力での売上げはたったの9億円だ。これでよく倒れないものだ。民間企業ならとうに倒れている。
 これは毎日、三百万円を市営バスにくれてやっている。また、南郷村参入でここにバス路線を持たないため毎日十一万円をくれている。南部バスへは年間四千万円。
 この体たらくはどうしたことだ。この現状を八戸市民は知ろうとしないし、また声高に八戸市も伝えない。そこに今回の公共交通の会があった。バスへの乗車数が減っている理由は高校生の減少などが上げられるが、根本的にバスが実情に合っていないのだ。
 バス以外の交通手段にはタクシーがある。これをワゴン型にし障害者、高齢者でも座れる工夫をし乗り合いとすることだ。そして、これで路線を走らせる。朝の混雑時にはバスをタクシー会社に呉れてそれを走らせてもらう。あるいはワゴンの便数を増やすなどを考慮するべきだ。
 タクシーの売上げ、一日二万円目標、二百台のタクシーを八戸市内に走らせると、一年で14億円でしかない。八戸市の負担を十億円継続させると足りないのは4億円。これをどのように支払わせるかが問題。
 さて、乗り合いタクシーという以上、これは基本的にドアからドアとはしない。路線の停留所近くで降ろすを基本とする。路線を外れると別メーターにするなどを考えることだ。
 さて、もうすこし、話を根源的なことに移そう。回数無制限、載り放題タクシー定期券、その金額年間五万円というのはどうだ。乱暴な数字だが市民を24万として100億円だ。この定期券は24時間乗車できる。それも路線に出さえすれば無料で乗れる。高齢者になれば自動車運転免許証を返納する。
 個人で車を所有する時代は終ったと考えればいい。車を購入すると税金がかかり車検、毎年の自動車税、さらにガソリンが必要と、トヨタの宣伝に踊らされ車の借金地獄に陥った。
 これが車を放すことに力点を置けば、通勤の混雑は緩和、勤務先での駐車場の確保、市役所職員は毎月六千三百円を支払い年額では7万5千円。まして一杯飲めば運転代行と銭はかかるような仕組みだが、これらから全て開放されるのだ。
 一人あたり5万円の負担で百億円、これで24時間タクシーに乗れる。百億円では1400台のタクシーが市内を24時間走りまわるのだ。こんな都市が出現してみろ。近隣から移住してくる。
 世の中は知恵だ。トヨタの車にも口車にも乗らず、自動車運転免許証も不要、タクシー乗り放題(乗り合い)なら、免許証を持たない人も持つに等しい。もうすこし言えば、車を持たない人も車を持ったに等しくなる。
 チマチマとバスを残すことを考えるが、もう少し大きく輪ッパを廻そう。どの道人生はタダの一度なのだから。八戸人は金の使い方を知らない。どうせ使わなければならないなら、自分たちの使い勝手の良いように使うべきだ。それが生きた知恵だゾ。
 都立大の吉田氏は具体的に八戸を浮き彫りに見せてくれたが、今一歩踏み込み高齢者・障害者への無料バス券の支給4億5千万円をどう考えるかを忘れずに願いたいもの。
 また、参加者の質問も質問のための質問になっている。優秀な若い衆が来る以上、突っ込んだ質問ができる好機、それを市役所に頼まれたから来たのか、愚問を投げるは優秀な頭脳に無礼だ。簡単に結論は出ぬが、これを交通行政と取るか、新規の地域興しは車社会からの脱出と捉えるべきか、いよいよ事態は煮詰まってきたゾ、おのおのがた。

2009年1月29日木曜日

地域公共交通活性化会議1


昨日のバスを考える会合は痛快だった。名古屋大の助教授加藤氏と都立大の助教の吉田氏の話に引き込まれた。共に若い衆だ。
 全国を見て歩いただけあり、物の核心を衝いている。世の中こうした若い衆がいることを知っただけでも生きてきた甲斐を感ずる。「はちのへ今昔」の知人も次々滅びた。世の中、まだ見ぬ子らのために論議を尽くすは大事なことだ。現状がすべて正しい訳がない。
 勝海舟が咸臨丸で日本人の威信、(日本人ばかりがそう悲壮に思い込んでいただけだが)サンフランシスコに着いたとき、移動は馬車だった。モーツァルトの時代は、この時よりも百年も前だったが、やはり移動は馬車。
 人類が車輪を発明したのは6千年前、それを牛馬が曳く時代が千何百年かあったことだろう。ところが鉄の馬が出た。このことを予想した人がいた。それはベーコン、600年前の学者だ。学者はまだ誰も見ぬことを学問の力で見通すところにこそ、その存在理由がある。
 人々が困惑する事態が出現、それを全国規模で眺め、つまり巨視的、これを具体的に狭隘な地域に押し嵌める。これが有効か無効かは時間が決めることになる。つまり時代の篩だ。
 コミニュティーバスの例を挙げておられた。加藤氏の話でウッ? と思ったのは岐阜だかの例でバス定期の値上をしたら利用が増えたという言葉だ。
 これがあったなと痛感。利便向上なら高くても払う。住民と行政、企業はその地域なくしては立たないという運命共同体なのだ。企業からも応分の負担を求めるという意見だ。
 と、いうことは車社会にしたトヨタからも応分の負担を求めることなのだ。唐突に言い出した根拠を示す。
イギリスの産業革命以後、資材や製品輸送の必要で、タールを敷く簡易舗装路網が全国に建設された。1830年には蒸気機関バスが運行された。時速35キロも出たという。ところが、これに客を奪われた馬車組合が議会と結託し蒸気バスは道路を傷めると課徴金を取った。つまり規制だ。これでイギリスがもたつく間に他国の技術が上回りフランスで独立懸架前輪、二つのV形2気筒エンジンで別々に後輪駆動のバスが開発された。蒸気機関からガソリンエンジンの時代へと移った。ところが電気自動車も当時にはあった。変速ギアがないため簡単で上流夫人連の人気を博するも電池が弱く主流とならず。
勝海舟がメリケンに悲壮な覚悟で乗り込んだ時期は、世界は自動車の萌芽期でもあった。明治維新は1868年、フォードがT型を発売するのが1908(明治41)年だ。ここにメリケンの力が発揮された。何故メリケンが幕末に強大な力を発揮できなかったか、それは南北戦争で16代大統領リンカーンが国を二分し奴隷解放を旗印として血を流した。だから日本に介入できなかった。しかし、その後、猿真似日本人に自動車生産世界一を譲るまで、メリケンは世界の覇王だった。
メリケンには富者は貧者に施しをせよの義務がある。それがボランティアの精神だ。世界一のトヨタは地球温暖化の原因となった炭酸ガス発生についての責任があろう。これに対して金を拠出する義務がある。しかし、それをしない。温暖化の原因が炭酸ガスにあるというのも疑問が残るが、これは間もなく日本が飛ばした監視衛星で解明するだろう。が、本当に自動車に責任があるならば、これは生産者責任を負わなければならない。
つまり、自動車保有台数により県に金を交付する義務がおありだよというのが「はちのへ今昔」の主張だ。
自家用車が交通混雑に拍車をかけた。このため路面電車が追われ、トロリーバスも姿を消した。その責任は車の生産者にあったのだ。便利は不便でしかなかったのだ。
この延長線上に地方都市に悩みがあることを忘れるな。八戸のバスは撤廃することから考えるべきだ。加藤氏がこう言った。これは特区ですと。小泉政権で特区という超法規で地区を再生しようの考えが、小泉が去った現今でも省庁の中に生きている。このことひとつ知っただけでも参加した意義があった。
そして、それを実行、実施できる立場に若い衆の加藤氏がいる。これも目頭が熱くなった。国はけして阿呆ではない。なんとか国民のためになることをしたいと念願すれど、知恵がないのだ。断水時の八戸市と同様の人材のなさを露呈しただけなのだと感じた。それを外部の知恵者が助ける。世の中は知恵と才覚で堂々と渡る時代なのだ。勝海舟がオランダ語から英語に切り替えるように、福沢諭吉も同様な努力を払い、新時代に乗り出して行った。今も同じだった。
世の中を渡るには個々人の努力以外に無い。その必死の努力があれば堂々たる人生を送る。人間は覚悟なのだ。日本人を良くするには、必死に時代を読み解く、見通すだけの能力を要求される。誰に? 百年後のまだ見ぬ子どもたちにだ。
この気概だけが日本人を支える。恥を知ることだ。町人は金のために命乞いをする。侍はそれをしない。自分が信ずる道を走る。それが間違いであったら、腹を斬ることを知っている。ここが武士と町人の違いなのだ。今日本人は町人化した。だから、見えるものも見ようとしない。ゆえに間違いを犯すのサ。
続く

断水で判明した八戸市役所職員足軽以下3

八戸には市会議員が36人いる。これらが断水でペットボトル一本、耳の聞こえない人、眼のみえない人、高齢者独居老人の家に運んだのか。
 選挙の時は誰でもお願いしますだ。お願いした以上、それに応えなければならない。健常者はよいとしても障害者、高齢者は給水場から水を自宅に運ぶも大変。それは誰が考えても同じだ。一般市民は何処に高齢者がいる、障害者がいるのかを知らない。
 知るのは役所だ。その役所を意のままに動かすは市長の仕事であり議員の仕事だ。議員は担当課長に水を運びたいので住所を知らせろといえる。個人情報うんぬんと役人はぬかすが、非常時は超法規だ。難儀をする人間を助けるのが市議の仕事だ。
 この議員に情報を提供する課がある。それが貧弱な座布団バッチを偉そうに胸に付ける議会事務局。ここに15人の職員がいて、何もせずに正月を目いっぱい満喫して登庁だ。これらは人間以下。誰も登庁しなかったは防災室が開示したリストで明々白々。役所の仕事は記録をつけることだから、何でも隠そう見せないはできない仕組みになっている。
 議会事務局は議員全員に携帯電話でメールを同報する仕組みを持っていない。刻々と変化する断水情報を正しく伝える義務はないのか。議員に情報を正しく伝えなければ議会運営はできない。と、同様に非常時の情報伝達手段の構築すら議会事務局は考えていないのだ。己の職分を何と考えるのだ。それらは市長の仕事と考えるのだろうか。タワケ!
 議員が存分に動けるように情報を流すのは防災室の仕事か? そうではあるまい。それは議会事務局の仕事なのだ。日頃、議員に同調しまるで幇間のように駄法螺に相槌を打つのが議会事務局の仕事ではない。もっと真剣に己が仕事の根源を探れ。人生は短い、まして仕事をできる時間は極限られている。さらに、市役所職員の場合は慣れたころに異動だ。
 物事の本質はなにか? 自分の仕事を先達はどうこなしたのか、更に改革、改変ができないかを問われているのだが、議会事務局のボケにはそれが判らぬ。頭数はいてもカボチャばかりだ。時代は変化し同じ時間は二度はない。その機微を感じ機に臨み変に応ずる柔軟な態度がとれるのかが問われるが、今の山内局長には無理。知恵がない。人に感謝する心もない。全てを当たり前だと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかなで、事故、事件への議員伝達方法を講じない。そもそも、電話で連絡する手段もあるが、一人も登庁せずしてどうやってそれが出来る?
 議員は勝手に情報収集せよが議会事務局の仕事か? そうではあるまい。市民一人ひとりは言葉に出さぬが断水時に議員が何をしたかを知っている。何も出来ない議員ばかりなら定数を半分にすることだ。18人でも議会は何も痛痒を感じない。市民のために動けない議員はいらないのだ。
 水道企業団に消防は出向いた。何かあったら電話くださいと帰った。そして消防も消防団もペットボトルを市民に配給しなかった。こいつらも知恵がない。頭は帽子をかぶるところだとしか考えていない。こんな消防長、消防団長でいいのか。機能しないだろう。ペットボトルを議員の一人が考えついたとしても、その運搬をどうするの疑問が出る。
 消防署員の半分を割く、消防団にそれを実施するなどの知恵を誰も持たない、持てないはマズイ。市長にも副市長にも知恵がない、水道企業団は全くない、防災室はペットボトルの存在すら知らないでは弱者はどうすれば救済されるのか。
 神戸のような大地震が発生したとき、消防に専念するのが消防署、人命救助に専念するのが消防団の色分けが出来ているのか? 今回の断水でもポンプ車でも水は搬送できる。しかし、それを実施しなかった。飲料水ではない、便所用に使ってくださいと説明しながら給水もできたはずだ。こんなことは素人の「はちのへ今昔」でも気付くが消防指令は無能ばかりなのか、それともしたくなかったのか?
 市民は信頼している。必ず役所が助けてくれると。しかしながらこれが現状なのだ。高い給料を貰う部長は糞ばかり、会計管理者は市長のそばで応急処置を施す水道企業団職員、あるいは情報伝達に必死な市役所職員に弁当を支給せよと市長に耳うちしたのか。銭の番人は財布の有り高を市長に告げ、職員の士気を鼓舞するために財布の銭を投げ出すのだ。市長からの暖房カイロだ、市長からの弁当だにどれほど勇気が出、そして活力が生まれるだろうか。ところが間抜け金庫番の出納室長はこれまた15人の兵隊を有しながら動かなかった。
 戦をすれば銭がかかるは誰でも知っている。市長は3日、四日の両日を水道企業団に宿泊。それでも出納室は動かない。兵糧を考えるのは誰の仕事だ? 財政部長か? ここも動きが悪かったが、財政の仕事ではあるまい。やはり出納室の仕事だ。つまり市役所は雁首ばかり揃えているが、市長の片腕になる人材に欠けている。
 市長選挙が今年の10月にあるが、四年かけても小林市長は職員から尊敬を得ていないのだろう。市長は演技で泊まりこんだと思っているのだろう。そうかも知らぬ、が、そうであっても職員諸君は市民のために汗を流すべきではなかったのか。
 水道企業団は飲料水の確保、一日3㍑を七日分確保しなければならない。市役所職員は水道企業団の味方でないことははっきりした。それも日頃の水道企業団職員の高慢による。誰を恨むこともない己がいたらぬを悟れ。
 一旦緩急あれば水道企業団だけで処理はできない。市役所の総合力を発揮しなければ処理はできない。マニュアルがと小林市長は叫んでいたが、己が信ずる八戸市役所職員はやる気がない。ごく一部の職員が自発的に出ただけだ。
 今回の断水は正月早々、これが夏場でなくて良かった。物が腐る、不衛生な状態が出現しただろう。小林市長は今回を教訓とし、市役所職員は動かないものと知り、動かす方法を構築することだ。議会事務局も正しい迅速な情報を議員に伝えることだ。さもないと、議員たちから総スカンを食うハメになる。
 平時にヘラヘラしている議員連も、有事の対応如何では失職する立場に追い込まれる。諸君らは市役所の監視員だと思い込んでいるが、市民に監視されているを忘れるな。もっとも議員は半分でいいいは「はちのへ今昔」の主張だ。不用なものはいらないのだ。その他の部署についても苦情を言いたいが今回はこれで一応終りにする。はりきれヨ、市役所職員たち。

2009年1月28日水曜日

断水で判明した八戸市役所職員足軽以下2

一旦緩急あればおっとり刀で城に駆けつけるは武士の習い。ところが来なかった。それも部長級ですら。太平楽を決め込んで餅にキナコでもつけて食っていたのだろう。
 そもそも大将は床几に腰掛け動かない。これが大将の仕事、武田信玄は謙信の刃を座って受けるがそれだ。大将は言葉を発せずとも副将がそれをする。ところが八戸市の副市長は一人は年寄り、一人はヘナヘナじゃ、大将自らが動かずばなるまい。そのための副市長だが彼らは己が仕事を弁えていない。
 部長級に招集をかける。取水管の取替えに時間がかかることは判明している。給水は水道企業団に任せると防災計画にはあるが、肝心の水道企業団が機能していないのだから、断水していない水路の消火栓を開かせ、断水地区への給水をしなければならない。
 部によっては高齢者、障害者、外国人への断水の知らせ、給水場の案内、水の運搬などを敏速にしなければならない。乳幼児を抱える家庭にも搬送しなければならない。
 これらの命令を誰が出すのかも不明だ。防災室の課員は全員が出勤しなかった。産休一年経過の婦人、青森県から派遣された職員の出動を室長は命じなかった。これは怠慢。緊急用員として雇用しているのが防災室勤務者。その大事な力を発揮する場に、緊急全員集合をかけられない室長では情けない。
 副市長のする仕事は先ず弱者救済。水道復旧は市長に委ね副市長は給水に専念しなければならない。水道企業団は非常用にガンジャの水のペットボトルを三千本所有。この水は他県の非常用として二千本送付された実績を持つ。
 ところが水道企業団のボケはこの水を一本も市民に供給しなかった。他県の痛みを知り送るはすれど、八戸市民の痛みは屁ほどにしか感じていない。これは馬鹿野郎といわれても仕方がなかろう。水道企業団の職員はワンサワンサと白山台のお山に寄せても知恵がない知恵が。
 水道企業団のボケに知恵がなくとも八戸市の副市長二人に知恵があればいいが、これらも同様の腑抜けだ。肝心の指令、命令ができない。
 さて、ペットボトルの水に二人のお飾り副市長が気付かずとも市役所の幹部、つまり部長が気付けばいいが、もともと水道企業団は他団体の意識だから、汗も知恵も出そうとも思わない。そうした奴等よ。
 これは水道企業団が悪い。総務課長も水道企業団は他団体だからと平然。だから水道部を自分たちの所有だと主張。この話は昨年来、いやっと言う程書いてくれたが、毛ほども感じていない奴ばら。だからこうした咎めが出る。自分の主張ばかりして義務を果たさぬから言われるのだ。給与を三割削減しろ。それだけの働きをしていないのだから。
 副市長も、部長も気付かなくとも防災室長が気付くべき。その理由は防災室は防災倉庫を根城に持ち、千食の非常食と米を持つが水は持たない。水は水道企業団に頼っているから。が、非常食管理人としては水のペットボトル活用に思いが至らなければ何のための防災室か。
 この歯止めも利かなかった。そして一本の水も市民の手に渡ることはなかった。
 市民一人当たり三㍑を確保せよ、それを七日分と防災計画書に記載あり。されど三千本ではどうにもならん。規定通りなら525万本が必要だが、水道企業団は五百人分、それも一日だけしか準備していない。これは防災計画無視。
 自分たちの給料を貰うことは決して忘れない。が、市民のことは片隅にもない。これが役人の現状だ。それを嘆くは愚かだ。彼らはそうした人種なのだ。人の痛みは百年我慢できるが、自分の痛みは一日でも我慢できな手合い。
 こうした馬鹿さ加減に我々市民はもっと眼を向けなければならない。奴等はあてにならない。あてにならない奴等をあてにするには、働かせることだ。市民が監視するなかで愚行をさせないことだ。今回の人災断水の顛末を見届けることだ、通水したから良いではダメ。通水は当然のこと、何で断水したのか、その後の処理は正しかったのかの検証なくしては再発するぞ。
 ところが防災室はその検証がいまだに出来ていない。今回の事故で幸いだったのはボケ部長でも課長でもない、係長級で自発的に出勤した者たちがいた。
 これらがインターネットを利用し情報を発信するも、限定的。防災室はホットスルメール利用者4000人に情報送達、これが効いて一月には加入が千件あったそうだ。
 が、高齢者、障害者に情報は正しく伝わったのか? 東奥日報が書いた。外国人に情報が伝わらなかったと。それはそうだ、国際交流、男女参画課は一人も出てこなかったのだ。
 自発的に出る者もいる。知ってても来ない奴ばらもいる。一人一人の資質なのだ。言われて嫌々する者、言われずとも自発的に出る者、この差は大きい。嫌々するなら役人お辞めよ。
 続く

2009年1月27日火曜日

断水で判明した八戸市役所職員足軽以下1


室町の頃、鎧具足もつけずに身軽に飛び出し刀をふるって実力をみせつけた奴らを足軽と呼んだ。己が働きを示さんがためだ。やる気があるものにだけ世は道を譲る。世界に冠たるノーベル賞を昨年は多くの日本人が手にした。歴史的快挙だった。独創の世界を歩んだ結果だ。他に負けないものを持つ人間に世間は拍手喝采する。
 横を見て他と同じことをする人間は勝利の美酒を飲む権利はない。まして、右を見て左を見て横断歩道を渡らない奴ばらには堂々たる人生を歩む意味と意義を見出さない。 
 断水で小林市長は水道企業団に泊り込んだ。率先垂範だ。大将が陣を張った。鮮明な旗幟(きし・はたじるし)が見えれば侍は鶴翼(かくよく・鶴が左右のつばさを張ったように、敵兵を中にとりこめようとする陣形。両翼に鉄砲隊を配置)、魚鱗(ぎょりん・陣形の一。魚のうろこのような形に並ぶもの)と日頃恩顧を頂く武将は直ぐ備えを立てるものだ。
 平時はヘラヘラしていていい。一旦緩急あればすわ、鎌倉が侍の心得ではないのか。ところが平時に慣れすぎて、すわ(さあっ)に腰が抜けたは大たわけだ。日頃の恩顧に応え奮迅、存分の働きを示すはこの時、これ以外に我が身の働きを見せる好機はない。まさに、男を揚げる運動会だ。天変地異、この時にこそ公僕の存在極まれりだ。
 此の期(このご・この時)に臨んで右を見て左を見て動かないは人非人(にんぴにん・人間以下のもの。特に、人の道にはずれたことをする人間。ひとでなし)。
 八戸市には緊急対応の手引きがある。震度6は全員登庁と規定。給水に対しての手引きも用意。それには消火栓から水を出して給水せよとある。ところが、これは水道企業団職員がすると規定。だから八戸市役所職員は手をこまねいて傍観。
 さらに、この給水の規定の上を見ると地震編とある。断水は地震じゃないから、この規定は適用されないと傍観を極め込んだ。タワケ!
 文字が読めるからこうなる。人は文字で規定されるものじゃない。平成十三年一月二十六日十九時十五分、新大久保の駅でホームから人が落ちた。その糞野郎を助けんと二人が線路に下りた。列車に三人とも轢かれて死んだ。糞野郎は日頃から左官の親方や同僚に酒で迷惑をかける奴だった。筆者は左官の親方と知り合いだ。だから、そのことを知るが、そんなことを救助せんと線路に飛び降りた人は知らない。嫌な奴でも人は人だと飛び降りて命を捨てた。一人はカメラマン、もう一人は朝鮮人だ。国も人種も関係なく、すわと飛び降りた。総理大臣が朝鮮人の葬儀に参列した。
 立派な朝鮮人だ。韓国とか北朝鮮と朝鮮人を二色に分けるな。ソ連と米国の代理戦争をさせられた民族だ。もともと三十八度線を挟んで無理やりに分けられた。朝鮮は今も昔も一つでしかない。
 異国の人間でもこれだ。ところがほとんどの八戸市役所職員は自身の家が断水になっても市役所に出向き、市民のために働こうとしなかった。
 市役所の構成はこうなっている。市長、副市長二人、部長九人、会計管理者、教育委員長、交通部責任者、病院長、議会事務局長、農業、選挙管理、監査の下に課長69、係長154がいる。これらが幹部職員だ。ところが、部長で一月一日の断水にもかかわらず登庁しないものがいる。
 防災に請求して、一日から四日までの登庁者の数を出させた。実に馬鹿野郎たちめと叫びたいだろう。これだけしか出なかった。さて、その原因と追求は明日のココロだ。

2009年1月26日月曜日

一月二十八日午後二時から 地域交通活性化会議 参加無料

赤字バスをやめてタクシーに切り替えができないかを考えよう、会議場所はワシントンホテル9階
 垂れ流しのバスは実情に合わない。これは廃止し、乗り合いタクシーに補助を出し、現バス路線を走らせる。停留所を設けず、路線内は自由に乗り降りができる。路線を外れることは想定しないが、ここらも論議の必要あり。
現在の八戸市役所を見ると幕末の幕府で手足が満足に機能していない。市民のためを考える頭脳が欠落している。市長の必死さは感ずるものの。取り巻きにロクなのがいない。偉そうにする議員も断水で水を配って歩いたのか。腕をこまねいて見ていただけだろう。市民のためなどはお題目さ。皆自分のことしか考えていない。
こんな議員しかいないのだから定数を半減しろ。十五人でも同じだ。歳費は半分になり風通しはよい。ついでに職員の給与を三割カットだ。給与、保健当で年間188億円出ている。50億は減る算段だ。景気後退のときは職員も痛みをわかて。税収が落ちてくるからノンキな御託はあげていられなくなる。
バスも高齢者社会を考えると公共交通の足となれるのか。今一度考慮のとき。南郷村が参入し新しい街づくりをかんがえなければならぬ。
一度、通年で乗り合いタクシーを走らせて都合不都合の検証も必要となろう。タクシーも青息吐息、バスをやめて、その補助でタクシーだけでも路線を存続する考えや、福祉タクシーのような考えもあろう。様々な意見を出し、五十年先の八戸の公共交通を考える時が今。

2009年1月25日日曜日

昭和30年八戸で活躍した人々8


● 水道建設部 部長大西浅市 監理課課長和井田退助 庶務係長磯谷仁淑 資材係長黒澤喜太郎 課員片山誠 古内富代 阿部陽子 藤沢八千代 岩館慶一 滝川正夫 嵯岐谷信雄 
● 建設課課長藤井与一 建設係長金浜孫助 課員金浜喜久松 出雲武雄 小林義孝 村井嗣雄 澤田精吉 小向信夫 藤田俊夫 大坂清志 小幡ひろ 
業務係長浜沢広市郎 課員関川惣右衛門 小谷津清 新山光一 栗原梅雄 道上友之助 熊谷喜三郎 上野実 中野昌三 小野景六 藤田四郎 吉田キナ 橋本卓三 大野康輝 竹原正志 川端和夫 柴田実 戸田実 金浜真佐雄 石橋和子 藤井文子 安藤邦夫 鳥潟達也
● 交通部 管理者田村金次郎 交通部長冷水鉄之助 管理課長高島信雄 営業課長柴田武之輔 総務係長佐藤三二郎 経理係川端富太郎 出納係長淵沢隆 資材係長名久井多作 営業係長境金四郎 労務係長奥山昇 運輸係長佐々木徳蔵 整備係長菅原忠雄 職員近田恒雄 荒谷昭治 佐藤匠 依藤真紀夫 八並寿雄 岩淵幸枝 安藤笑子 戸狩邦夫 荒谷照一 千葉稔 泉山信男 内田文蔵 寺下八重子 西川マサ 上野晃佑 田辺健 岩館開一 田村慶三郎 長嶺登 扇谷良隆 三浦勝蔵 前田喜一郎 阿部久雄 奥山宏 佐々木大 大南長五郎 山村庄次郎 高橋幸一郎 下斗米宏一 富岡達雄 館坂金作 松橋一郎 宮崎豊作 岩館善光 江渡利雄 小守林政治 高谷武市 時田実 野月真作 高橋竹蔵 竹洞昭五郎 泉山貞美 坂下功 沼口信雄 松浦利三 山田五郎 金浜千松 山田市三郎 下舘徳次郎 岩館瑞穂 鵜飼福次郎 小山徳一郎 前田行夫 小野悦司 道合正雄 井上寿恵雄 松井喜一郎 奥寺正一 千葉修三 江刺家福治 三浦石五郎 田端隆昌 中家勲 目当弘 奈良吉雄 東森直治 鬼同勇 宮右徳次郎 吉田照一 福山勝衛 沢野剛 山本五郎 内城喜三郎 吉田兼定 成田大 奥本茂樹 昆春治 沼宮内忠吉 福田富治 中村三郎 工藤正雄 大端周作 曲戸金蔵 前川原正夫 山美恵蔵 西村操 小坂力一 木村義雄 谷内栄吉 大坂末治 伊藤竹 雄 小島源司 原平八郎 沢野福蔵 田面木小三郎 山田清 野崎茂吉 四戸久高 中山巌 館崎忠頭 細越喜一郎 福田正義 佐藤明 工藤芳巳 前田和子 松川慶子 田名部よね 三浦ノブ 馬場令子 木村トキ 桜井ユリ 澤田ツエ 阿部久子 川守田芳美 佐藤チヨ 大畑米子 福田セツ 前沢利枝 関川コウ 浅沼伸子 菅沢智恵子 外館喜代子 後村喜作 高橋ツヤ 加藤愛子 島脇栄子 金田一京子 松倉トモ 根城みつ 高山静江 野村和子 山内テル 大久保睦子 松本昭一 小軽米福也 松本嘉造 曽我弘 阿部金太郎 舘合寛 赤坂岩雄 旦平良太郎 梅内敬子 田名部セツ 石山キヨ 入沢貞夫 山内京子 早川嘉雄 畑山悦子 梅川満男 加藤千恵子 若宮キミ 工藤毬子 小笠原セツ 松岡和子 月館光子 高清水保子 石藤和子 石戸千鶴子 熊谷亨 加藤恒雄 田内実 東山初代 奥谷洋子 玉山光男 工藤正 高橋たみ子 荒谷桂子 高橋クニ 長沢君江 山田博司 石橋キワ 相ノ山義彦 田端年男 川原留 河村慶次郎 金井喜一 下田治三郎 高橋勝次 町中仁三郎 畠山敬之進 柿崎弘 上野昭二 岩沢松太郎 楢館正春 松館岩蔵 石橋忠蔵 前田芳男 佐藤勇 阿部敏雄 角修一 中川原金左衛門 坂本忠
● 是川支所 所長上野裕造 次長下田中松太郎 所員上野孫三郎 田端義明 妻神由三 川村京子 田中初太郎 
● 上長支所 所長松倉芳郎 所員上野三五衛門 上 野祐一 馬渡次郎 鈴木三部郎 沢村吉雄 中村邦夫 福岡玲子 松倉礼子 寺下節子
● 市川支所 所長鈴木喜久造 所員鈴木竹志 三村直太郎 向谷地富春 田村新一 松沢篤次 鈴木宮雄 鈴木岩太郎 向谷地吉稔 金田一実 戸館忠一 鈴木みよ 橋本トミ 鈴木勤 
● 館支所 所長三浦幸之助 次長貝吹治五郎 所員佐藤正雄 百目木豊吉 中村勘之助 樋渡与四郎 山本勝見 山田景蔵 下斗米謙一 三浦猛 木村ヨシ子 松田タミ
● 下長出張所 所長中村金太郎 所員中村武男 加藤国雄 前田三千代 
● 南浜出張所 所長藤川芳蔵 所員島脇忠実
● 社会福祉事務所 所長松本良吉 庶務係長和田義久 福祉係長市川徳仁郎 所員角子之吉 浦山勝太郎 加藤米吉 堀内千之助 永井フサ 渡辺美保 三浦惣三郎 島守堅次郎 馬場ツネ 田中勝善 月館直彦 松村斎 近田孝雄 鈴木徳五郎 小笠原達也 上森日出男
● 浩々学園 園長西川政三 職員築田哲雄 大館政美 接待香 佐々木ミツ 
● 長生学園 園長三島利義 職員下野末太郎 石井正子
● 母子寮 寮長阿部徳次郎 職員室岡貴美子 大橋昇司 小笠原照子

2009年1月24日土曜日

明治12年八戸町 土地所有者一覧

八戸図書館に分限帳という不思議な冊子がある。明治十二年の地租台帳(固定資産課税台帳)の写しだ。町内ごとに記したものだが、これをアイウエオ順に並べ替えた。パソコンの名人タカハタさんの力を借りた。日本中にこうした実力のある人々が分布し、影でIT時代を支えているのだろう。
中央集権国家が誕生し、米に頼った経済が金銭経済へと変貌し、八戸も酒屋、米屋が土地を担保として農家に金を貸し、タダ同然でそれを奪った。金銭中心の経済に対応できなかったのだ。金銭を日ごろ扱っていた大阪、江戸との取引のあった商人が八戸を押さえるようになった。明治期に土地の持ち主が大きく代った。
相内○吉 1円80銭
青井弥之助  259円9厘
青井要吉 2円56銭8厘
青木磯八  118円32銭9厘
青木元太郎  25円77銭6厘
青村金吾   53円80銭5厘
青村金蔵 7円17銭9厘
青村半蔵   26円48銭6厘
赤沢勝成 5573円92銭3厘
赤保内利七   1円79銭
浅水礼次郎  526円8銭1厘
浅山正美  412円73銭5厘
阿野元重 279円75銭
阿部市三郎 116円17銭8厘
阿部市太郎 107円36銭7厘
阿部佳太郎 492円17銭6厘
阿部豊作 4175円 7銭7厘
天城政家   59円72銭9厘
天野正守   92円45銭5厘
天野正城 5円40銭
荒井彦三郎  45円 7銭9厘
安藤熊太郎 4円57銭9厘
安藤貞男 1円78銭9厘
安藤繁吉   53円 3銭5厘
安藤平七   29円85銭3厘
安藤○寧 652円55銭
安藤○平  236円62銭7厘
安藤茂平  573円30銭
安藤八十八 292円79銭2厘
井川元洪  648円76銭七厘
行子沢酉松 164円16銭9厘
生田久次郎 337円19銭5厘
池田幸次郎 6円77銭9厘
池田政倣   81円85銭5厘
池田宗意   44円92銭7厘
石岡吉十郎 151円81銭5厘
石沢石次郎 4円46銭4厘
石沢熊蔵 67円3銭9厘
石田松太郎 10円11銭
石橋安三郎 307円57銭6厘
石橋幾千蔵  15円26銭9厘
石橋宇之松 176円43銭8厘
石橋嘉次郎 163円25銭7厘
石橋勝之助  67円44銭5厘
石橋藤太郎  13円 6銭3厘
石橋吉三郎 253円6銭4厘
石橋吉松   71円47銭6厘
石橋喜平   76円97銭4厘
石橋喜代司  13円20銭
石橋源三郎6538円40銭3厘
石橋源六  176円13銭5厘
石橋幸吉  180円90銭9厘
石橋小平治 290円72銭5厘
石橋米吉 2円50銭5厘
石橋重三郎 183円36銭3厘
石橋関次郎  13円74銭7厘
石橋善三郎6362円54銭1厘
石橋徳右衛門 2979円66銭
石橋留次郎 1円65銭3厘
石橋子之松 3円68銭9厘
石橋兵作   59円78銭7厘
石橋○太郎 120円96銭
石橋万治  262円26銭5厘
石村岩松 3円15銭1厘
石村昌衛  210円27銭4厘
石村貞治  141円67銭8厘
石村福松 6円18銭8厘
和泉権太郎 9円83銭7厘
泉田松太郎 1円92銭6厘
泉山磯次郎  21円44銭8厘
泉山兼吉   87円11銭2厘
泉山吉平 6943円95銭7厘
泉山吉   450円39銭9厘
泉山久八   85円21銭4厘
泉山久三郎  13円36銭
泉山太三郎1495円22銭9厘
泉山千代吉  54円76銭2厘
泉山常吉  156円88銭7厘
泉山徳助  367円27銭7厘
泉山富次郎 7円33銭7里
泉山松之助 1円75銭8厘
泉山由松   15円6銭2厘
泉山与吉 3円50銭5厘
泉山由右衛門 3円87銭4厘
泉與六    64円9銭5厘
伊勢崎伊八郎 4円81銭1厘
市井伝次郎  23円34銭
市川吉武   16円66銭7厘
伊東吉太郎 1円28銭4厘
伊東七六  295円72銭4厘
伊東七六 7円3銭2厘
稲葉正也  970円93銭
稲○○雅  455円80銭7厘
植村彦次郎  47円27銭6厘
井上跳蛙  464円25銭2厘
伊保内申子 66円52銭
伊保内正敷 10円74銭
今淵正民   441円55銭
今○四郎 1円25銭3厘
岩井重郎兵衛 432円69銭
岩泉政常  112円80銭1厘
岩泉清年 7円71銭5厘
岩泉正意 1319円26銭
岩泉時雄 5円76銭
岩井堂別  130円41銭3厘
岩岡喜平  104円95銭5厘
岩岡徳兵衛1119円95銭9厘
岩城鉄三郎 8円77銭5厘
岩崎喜太郎 9円16銭8厘
岩崎春松 1円87銭4厘
岩館音三郎 303円55銭9厘
楢館多十郎 287円54銭8厘
岩淵子之松 536円74銭5厘
岩淵長十郎  26円43銭7厘
岩淵徳松  120円59銭4厘
岩淵万太郎 121円86銭8厘
岩○兼吉   26円96銭7厘
岩村福○   97円87銭3厘
上杉数馬  530円 8銭4厘
上杉正於 9円89銭6厘
上杉吉武   83円83銭4厘
上野叶   195円 5銭2厘
上野倉吉   23円 4銭9厘
上野左内 2円74銭7厘
上野清吉  908円93銭4厘
上野直兵衛 7円56銭9厘
上野友吉 27円4銭7厘
上野保真 3円47銭4厘
上野弥八   95円97銭2厘
上野与惣治 7円67銭9厘
植村忠三郎 472円97銭2厘
上村永吉  117円26銭4厘
植村彦八   94円61銭8厘
植村要助 6円30銭5厘
内田与兵衛 382円99銭1厘
宇○福松   59円11銭2厘
梅村平吉   31円68銭3厘
浦山太郎兵衛 4052円88銭
浦山政吉  523円98銭3厘
浦山与兵衛 480円2銭1厘
漆沢寛好   12円78銭3厘
漆沢○実 3589円60銭1厘
上野勇藤 3円69銭2厘
江口源太郎  31円18銭5厘
江口仁太郎 6円49銭5厘
江口長兵衛 4円86銭3厘
江刺源七  115円75銭1厘
江刺安蔵 2円54銭9厘
遠藤明寿   65円95銭8厘
遠藤明行 2140円90銭2厘
大芦悟楼   33円10銭2厘
大入福太郎 2円9銭5厘
大入福松 2円6銭3厘
大内田右太郎193円 5銭3厘
大岡長兵衛2501円26銭1厘
大久保稚蔵  16円30銭9厘
大久保熊吉 4円81銭1厘
大久保徳次郎2307円5銭4厘
大久保平蔵 847円62銭
大在家寅吉 1円46銭3厘
大阪幸吉 88銭4厘
大下寅吉   12円47銭1厘
大島志津万 4円35銭3厘
大関続彬   36円67銭3厘
太田慶武  249円72銭
大友長平 6円87銭4厘
大野石松  101円54銭5厘
大野兼松 4円52銭9厘
大野幸太  220円46銭6厘
大野定吉   46円63銭2厘
大野七太郎 2円23銭2厘
大野真太郎  68円26銭1厘
大野清吉 1円25銭3厘
大野久吉 150円45銭
大橋梅吉  104円10銭7厘
大橋兼八   14円89銭5厘
大橋勘十郎  20円56銭3厘
大橋吉五郎  73円99銭9厘
大橋幸四郎 225円20銭
大橋幸太郎 33円3銭2厘
大橋幸次郎 3円45銭3厘
大橋定太郎  36円18銭1厘
大橋清次   18円99銭9厘
大橋忠四郎 98円7銭3厘
大橋豊次郎 4円84銭2厘
大橋福松 139円67銭
大巻宇十良 6円49銭5厘
大巻甚太郎 3円50銭5厘
大巻米吉 2円13銭7厘
大南熊吉   10円86銭6厘
大村市太郎 3円40銭
大村重兵衛 3円80銭
大村仁太郎 300円41銭6厘
大村福松 2円82銭2厘
大森三平  105円71銭9厘
大山兼吉 1円55銭8厘
小笠原岩吉 190円79銭3厘
小笠原宇吉  69円72銭9厘
小笠原吉三郎 29円83銭3厘
小笠原多七  32円70銭9厘
小笠原昌数 403円52銭3厘
小笠原○○  85円64銭3厘
岡田哉麿 60銭6厘
岡田重庸 158円74銭
岡田八郎 4円61銭1厘
小川吉太郎  34円54銭5厘
奥瀬久治 2円7銭4厘
奥田権治   37円81銭1厘
奥谷弥兵衛 4円77銭4厘
小国源五郎 153円1銭4厘
長内大次郎 3円54銭7厘
長内義雄 16円9銭5厘
小田島岩松  100円7銭7厘
小田島義金 834円37銭9厘
小田貞郵 9円16銭9厘
小田福松 1円41銭
落合龍治 1円68銭4厘
鬼柳民九   68円91銭9円
小野新吉   31円84銭2厘
小野寺岩太郎 2円87銭4厘
小野寺吉松 7円62銭6厘
小野寺国吉 82銭1厘
小野寺桜太郎 93円92線9厘
小野寺仁太郎109円55銭2厘
小野寺清○ 1円 9銭5厘
小野寺徳平 294円40銭7厘
小野寺留吉 2円24銭2厘
小幡忠平  188円43銭4厘
小山田源内5875円69銭7厘
小山田定弥  13円42銭3厘
織壁応   457円 5銭4厘
織壁則政   21円49銭8厘
織部時庸 4円22銭2厘
葛西半七   18円82銭6厘
梶川○○  180円10銭4厘
柏木兼太郎 145円38銭7厘
柏木源吉   87円29銭3厘
柏崎源次郎 5円72銭6厘
柏崎徳助 1円36銭8厘
柏崎己之松 9円9銭5厘
柏崎リヨ   64円23銭7厘
柏場倉松  120円82銭7厘
春日市平 365円65銭
加藤好哉   35円75銭6厘
加藤庄五郎 476円76銭3厘
加藤善次郎  79円41銭8厘
加藤善蔵   99円42銭7厘
加藤竹次郎 8円47銭4厘
加藤万吉  359円18銭4厘
金入文吉 1115円73銭7厘
金子岩松   56円73銭5厘
金子新蔵 572円14銭
金子宗七郎1435円45銭3厘
金田岩吉   16円43銭3厘
金田亀次郎  63円17銭3厘
金田吉太郎  29円23銭2厘
金田金太郎 2円41銭3厘
金田五郎 1円98銭9厘
金田常吉   12円14銭7厘
金田寅松 1円46銭5厘
金田福太郎 1円46銭3厘
金田又十郎 668円30銭6厘
金田万吉 2円55銭8厘
金田ヨシ 7円55銭8厘
金田六之助 1円89銭5厘
神森作太郎2719円61銭6厘
神山伝蔵 3円39銭
神山久忠 6円53銭7厘
神山守衛   17円93銭3厘
亀岡惣八 2110円76銭1厘
亀橋孫八   76円23銭7厘
亀本清○  131円86瀬5厘
鴨沢旺英 5円80銭
苅田儀八郎 2円16銭7厘
苅田定吉   31円69銭5厘
苅田定次郎 100円29銭1厘
苅田綱吉 2円32銭6厘
苅田福松 8円35銭8厘
苅田福松 6円10銭5厘
苅田平十郎  21円48銭5厘
苅田与吉 219円93銭
軽米吉松   39円15銭3厘
川井源吉 7円46銭3厘
川越太郎   27円37銭5厘
川越彦太郎 12円40銭
河梨○平 7円17銭9厘
河部亦七  391円83銭3厘
川村浅吉  302円27銭7厘
川村喜八郎 6円91銭6厘
川村善吉  133円9銭3厘
川村竹松   79円49銭8厘
川村平助 2円32銭6厘
川守田清蔵 6円52銭6厘
河原木宗一1927円32銭8厘
河原木宗棟 260円95銭9厘
河原木大次郎 3円80銭
神田吉真  558円36銭2厘
北川半十郎2269円35銭3厘
北沢民松  912円70銭5厘
喜多島房兄 334円31銭5厘
喜多島房氏  33円 6銭7厘
北島吉房   94円11銭2厘
北村官治   36円45銭5厘
北村金稟 3249円8銭
北村金蔵  110円82銭
北村倉吉   30円47銭
北村善吉  305円98銭3厘
木幡清郷 1587円 1銭2厘
木村右平   37円42銭8厘
木村七平   12円60銭
木村清蔵 8円 2銭1厘
木村太郎  430円84銭1厘
木村忠平  288円94銭1厘
木村長吉 1円90銭5厘
木村○世  851円 7銭9厘
木村安次郎 3円2銭1厘
木村利三郎 113円12銭1厘
本木松蔵   59円62銭5厘
清川甚七   13円49銭5厘
清川春吉  804円30銭7厘
金田一○吉 1円83銭4厘
久慈亀蔵  377円 5銭9厘
久慈文助 109円13銭
久島金平  593円82銭2厘
久慈義広  103円68銭8厘
工藤石松   78円50銭8厘
工藤吉郎 2円51銭6厘
工藤久兵衛  99円45銭7厘
工藤九次郎  25円15銭1厘
工藤権三  122円45銭8厘
工藤重山  735円60銭
工藤重次郎 132円27銭7厘
工藤丈之助 3円17銭9厘
工藤善五郎  63円42銭1厘
工藤伝三郎 759円58銭3厘
工藤富蔵   60円90銭7厘
工藤能平  189円35銭2厘
工藤松太郎 3円43銭2厘
工藤○固  376円12銭
工藤万五郎 3円97銭9厘
工藤勇八   32円87銭1厘
工藤與五郎 758円26銭8厘
久保市太郎 124円23銭3厘
久保沢重勝 7円33銭7厘
久保清○ 8円50銭5厘
久保田夘之松 1円77銭9厘
久保田吉太郎 8円93銭7厘
久保田吉太郎 5円27銭4厘
久保田太郎 2円2銭1厘
久保寿吉 1円44銭2厘
久保福松 3円52銭6厘
久保有楽  120円74銭四厘
久保和七  163円41銭1厘
熊谷具万    1円80銭
栗橋市太郎  43円29銭1厘
栗橋吉五郎 333円33銭4厘
栗橋長吉 1円46銭3厘
栗橋又兵衛 468円71銭
栗橋要吉 6円56銭8厘
栗谷川充武 4円42銭1厘
黒沢寅吉 2円44銭2厘
黒沢福松 2円95銭8厘
剣吉善助   42円75銭9厘
高坂定吉 9円 5銭3厘
越堀茂吉   43円96銭2厘
小島忠蔵   68円68銭9厘
小島弥八  449円56銭2厘
小清水岩松  20円58銭5厘
小瀬川亀太郎 4円69銭5厘
小平きん 5円71銭
小館寅吉 1円80銭
小林重与  397円76銭4厘
小林利次郎 3円74銭7厘
駒井荘三郎 246円87銭6厘
駒木広忠 7円70銭5厘
小町福太郎 1円92銭6厘
小湊定松 2円65銭8厘
小向久貞 1703円80銭7厘
小向久貞  456円61銭1厘
小向久成 4円75銭8厘
小山彦次郎 3円25銭1厘
小山兵吉   74円77銭1厘
是川司    20円74銭6厘
是川福松 3円 5銭3厘
是川松之助 2円2銭1厘
昆 長太郎 3円27銭4厘
昆 綱五郎 3円43銭1厘
近藤伊太郎 6円79銭7厘
近藤勝次郎  55円55銭5厘
近藤久五郎 4円44銭5厘
近藤正喜  416円
近藤善吉 5円20銭7厘
近藤時次郎 9円73銭7厘
近藤徳之助 5円64銭2厘
近藤徳蔵 3円47銭4厘
近藤長松 9円53銭5厘
近藤福次郎  96円34銭6厘
昆 直次郎 3円60銭
昆要助    65円89銭1厘
斎藤寛   274円67銭5厘
斎藤亦治 4円62銭6厘
堺嘉七    29円32銭9厘
坂口権太郎 3円51銭6厘
坂下治郎   12円18銭6厘
坂下勇次郎 3円11銭6厘
坂本石松 3円
坂本石松 2円16銭8厘
坂本円宮  374円40銭7厘
坂本喜助 6円68銭4厘
坂本儀○   10円67銭7厘
坂本源兵衛  79円40銭1厘
坂本リン 6円52銭6厘
佐々木吉太郎 17円32銭3厘
佐々木吉○ 6円40銭
佐々木甚吉  30円55銭5厘
佐々木清蔵 2円12銭1厘
佐々木万助  36円51銭4厘
佐々木秀蔵  58円28銭8厘
佐々木頻太 4円76銭5厘
佐々木福太郎 1円35銭6厘
佐々木文次郎 39円80銭
佐々木○次郎 2円13銭7厘
佐々木 4円
佐々木万吉  56円48銭8厘
幸江勝之助 2円47銭4厘
佐藤威澄  188円80銭8厘
佐藤亥之松 6円87銭4厘
佐藤卯吉 3円40銭
佐藤勘十郎  11円27銭2厘
佐藤喜代見 379円32銭4厘
佐藤倉松 3円23銭1厘
佐藤源吉 3円8銭4厘
佐藤源作 2円65銭8厘
佐藤捨蔵 2円93銭7厘
佐藤清蔵   23円48銭3厘
佐藤成武  224円92銭5厘
佐藤文兵衛 3円95銭8厘
佐藤松太郎  11円13銭6厘
沢井平吉   41円15銭8厘
沢田久五郎  35円58銭4厘
沢田治美  255円15銭8厘
沢田安親  113円95銭
沢藤善吉   44円30銭4厘
沢藤平次郎 3円82銭1厘
三條目寛平 8円47銭4厘
石岡吉十郎 6円53銭7厘
重石きち 3円26銭1厘
重茂勝蕃   21円78銭1厘
重茂良蔵 1423円40銭9厘
猪内真雄  126円66銭6厘
柴田嘉吉   19円10銭2厘
柴田万吉   80円81銭5厘
柴田芳太郎 4円66銭3厘
島田米吉   73円46銭7厘
島守定衛 3709円39銭
島守仙松  177円81銭9厘
島守彦太郎 2円41銭1厘
清水勘兵衛 156円59銭2厘
志村福松  115円7銭5厘
志村林蔵    9円58銭8厘
下野勘之助  67円65銭2厘
下野源助  226円79銭
下斗米石太郎 76円68銭
下斗米勝憲 133円70銭8厘
下斗米吉治 201円70銭1厘
下斗米斉治  63円26銭2厘
下斗米徳太郎 1585円
54銭1厘
下斗米徳太郎 116円
 5銭7厘
東海林長太郎 35円
26銭9厘
東海林豊吉  10円18銭9厘
正部家種矩1665円39銭4厘
正部家康太 258円96銭6厘
正部家種助1139円87銭4厘
正部家種武2737円49銭5厘
正部家万吉 2円91銭7厘
城前要吉   29円51銭
志和善十郎  18円2厘
新宮真運 4554円86銭
末林吉蔵 3円41銭8厘
菅沼彦六 3円24銭2厘
菅隼友   282円69銭7厘
杉浦市郎 3円85銭8厘
杉浦光和  255円46銭3厘
杉浦文次郎 3円54銭7厘
杉沢与惣治 5円42銭1厘
杉沢利吉  189円75銭9厘
杉村定吉  140円34銭
杉村八十吉  51円74銭
杉本利七  500円 4銭2厘
杉若五郎   18円7銭
杉若与吉  146円27銭
鈴木吉十郎4286円55銭2厘
鈴木吉十郎 681円78銭3厘
鈴木久治郎  18円52銭6厘
鈴木清八   27円26銭3厘
鈴木通貫  199円38銭2厘
鈴木通恒  333円83銭1厘
鈴木通古  257円10銭8厘
鈴木通大  415円91銭4厘
鈴木徳蔵   62円60銭8厘
鈴木松蔵    6円30銭5厘
須藤清民  761円71銭3厘
関野市十郎 305円12銭5厘
関野きく 3円88銭7厘
関野喜四郎 108円95銭4厘
関野太助  440円58銭8厘
関野長右衛門 946円2銭3厘
関野○○○ 2円49銭5厘
接待左弓   113円1銭9厘
接待治郷   42円23銭3厘
接待治菖 1390円33銭7厘
接待治○ 3045円54銭5厘
接待治容  279円62銭9厘
接待利紀  373円79銭8厘
船場直吉 9円55銭3厘
館合金蔵  180円78銭2厘
高崎寿名 2509円32銭1厘
高島喜三郎  56円37銭4厘
高田松五郎 4円40銭
高橋伊平   39円90銭
高橋熊吉  131円99銭4厘
高橋 玄 1183円25銭2厘
高橋幸七 1円71銭6厘
高橋作右衛門657円15銭1厘
高橋仁太郎 3円21銭3厘
高橋住太郎 192円79銭2厘
高橋多十郎 7円29銭5厘
高橋徳次郎 3円63銭4厘
高橋寅松   50円35銭6厘
高橋平蔵  200円42銭3厘
高橋平作   39円81銭1厘
高橋松五郎 6円49銭5厘
高橋己之松  76円55銭1厘
高橋林平  117円23銭
高村浅吉   33円78銭3厘
高村音三郎 300円65銭2厘
高屋部族方 8円89銭5厘
高屋敷酉松  58円62銭4厘
高山新吾    3円77銭8厘
滝沢治兵衛 458円85銭6厘
滝田○元  558円47銭5厘
竹内惣助   26円15銭4厘
竹内豊吉  541円63銭1厘
武尾甚四郎 304円75銭1厘
武尾○○  138円24銭7厘
竹沢富五郎 2円2銭2厘
竹中日源  176円89銭5厘
竹藤丈八郎   3円59銭
竹藤正義   13円27銭3厘
竹本三之助 5円27銭4厘
竹本万吉   23円48銭6厘
田崎惣吉   12円97銭9厘
田尻九太郎 2円16銭8厘
田代幸次郎 2円32銭6厘
立花権平 4円60銭
橘左八    28円64線6厘
立花哲三郎 6円2銭1厘
橘友吉 7円85銭1厘
立原源三郎 3円16銭8厘
立原弥七   16円7銭6厘
館 合粂吉 3円17銭9厘
田中政吉 1円68銭4厘
田中正苗   16円24銭2厘
田名部義蔵 681円20銭6厘
田名部義番 375円81銭4厘
田名部清太郎 3円76銭8厘
種市金太郎 1円44銭2厘
種市彦次郎 2円50銭5厘
玉井章方   72円85銭1厘
玉川与吉   25円68銭2厘
玉内吉多  790円87銭4厘
田村吉太郎 2円60銭
田村小太郎 1円58銭9厘
田村定吉  195円82銭6厘
田村治平 3円78銭9厘
田村治太郎 2円30銭6厘
田村清助 20銭4厘
田村佳松 9円41銭3厘
丹野七郎  123円1銭4厘
丹野富次郎 4円27銭4厘
千葉きを   38円14銭
千葉健○郎 6円45銭2厘
千葉定吉  706円33銭8厘
千葉七十郎  13円53銭3厘
千葉スエ 3円63銭1厘
千葉宗一郎  38円14銭9厘
塚村浅吉 2円44銭2厘
橋本文蔵   93円38銭9厘
築館吉太郎 3円70銭5厘
槻館権三郎 190円87銭1厘
築館次蔵 5円67銭7厘
都築嘉門  981円99銭6厘
手島與七郎 183円19銭4厘
出町喜八郎5920円44銭6厘
出町三吉 1円55銭8厘
出町富○  124円21銭4厘
出町富豪  104円21銭4厘
田頭松五郎 1円46銭3厘
十日市金太郎 4円44銭2厘
遠山景三 2015円93銭9厘
徳武正苗 6円47銭4厘
戸田多吉 4円57銭9厘
栃内吉富 8円44銭3厘
苫米地七三郎 3円35銭8厘
苫米地泉次郎 1円78銭9厘
苫米地初太郎 3円37銭9厘
苫米地政吉  32円88銭8厘
苫米地松太郎 3円91銭6厘
苫部地万吉  62円30銭8厘
苫米地由太郎 2円69銭8厘
苫米地魯也1326円96銭6厘
富岡宇兵衛 965円66銭6厘
富岡吉十郎 110円68銭9厘
富岡新十郎6674円20銭2厘
富岡徳太郎 320円76銭8厘
富岡亀松  207円58銭8厘
豊岡八十吉 4円76銭8厘
富沢長次郎 171円85銭
戸村祐真   15円89銭6厘
豊岡岩吉 2円78銭9厘
豊巻大八   68円14銭3厘
豊巻豊吉   71円48銭6厘
豊巻平次 3円48銭2厘
豊巻松蔵 3円28銭4厘
豊巻万次郎  103円3銭9厘
鳥谷吉松    2円20銭
内藤彦兵衛 384円48銭4厘
中居夘八  181円54銭2厘
中居嘉治郎  40円57銭
中居サキ 3円89銭5厘
中居徳太郎 2円 4銭4厘
長井彦四郎 3円85銭3厘
中居福四郎  15円87銭1厘
長井福太郎  46円73銭
中居与吉 2円69銭5厘
中居兼太郎 2円24銭2厘
中居六一郎 1円64銭8厘
中里安衛  277円79銭2厘
中里幸環 5966円30銭6厘
中里好章  466円61銭6厘
中里新兵衛  18円1銭7厘
中里正珍 7282円 5銭6厘
中里正晃 1471円38銭4厘
中里婦み   36円24銭1厘
中里万雄 4821円59銭4厘
中里好相   58円39銭2厘
長沢謙五郎 202円70銭1厘
中島磯吉  118円16銭7厘
永島嘉八郎3038円28銭6厘
長島銀次郎 6円41銭1厘
中島渚    11円36銭8厘
中島彦次郎 2円19銭4厘
中島平吉   48円78銭3厘
長瀬藤吉   87円94銭1厘
永田市太郎 1284円37銭
中田豊吉 2円19銭5厘
中田文七   69円22銭6厘
永田○衛 3890円64銭2厘
中寺磯吉 3円66銭3厘
中野源作   26円89銭2厘
中野直栄  235円65銭2厘
中野徳次郎 3円93銭7厘
永洞清吉 1円46銭3厘
中村繁次郎 6円16銭3厘
中村丈一郎 803円18銭6厘
中村仁平  190円 4銭6厘
中村善九郎   4円88銭1厘
中村多兵衛 5円95銭8厘
中村忠平  584円70銭8厘
中村伝蔵   58円53銭2厘
中村徳四郎 3円47銭4厘
中村寅蔵   17円72銭8厘
中村彦吉  125円 5銭5厘
中村平八   20円73銭7厘
中村万十郎 108円 6銭3厘
中村勇治 1円37銭9厘
名久井磯八  92円36銭1厘
名久井勝太郎 1円48銭3厘
名久井茂内  75円38銭7厘
名久井茂内  73円92銭2厘
名久井重二郎 3円20銭
名久井寅松 4円31銭6厘
名久井直吉 2円78銭9厘
名久井平七 3円17銭9厘
名久井平太郎 54円83銭1厘
名久井政八  12円22銭1厘
名久井亦八 2円29銭5厘
名久井松蔵 3円74銭7厘
名久井茂吉 3円71銭
名久井八十吉 61円59銭
那須川光宝 623円91銭
夏坂岩松  105円23銭8厘
夏堀岩吉   31円61銭5厘
七尾義貫 1783円41銭1厘
七尾文治   42円94銭6厘
波岡甚六 1047円41銭2厘
浪岡徳太郎 1円35銭7厘
波岡利作  558円77銭
波伯部和吉 248円12銭8厘
楢館岩次郎 2円83銭2厘
楢館留吉 3円6銭3厘
楢館弥三郎 192円72銭9厘
楢館与十郎  34円88銭5厘
楢館をよ  731円10銭2厘
楢山与吉   17円32銭6厘
成田昌雄 6141円53銭3厘
新井田孝蔵  50円34銭7厘
新井田福松  19円36銭3厘
新井田松之助 4円12銭6厘
西川銀三郎  11円21銭6厘
西久保豊常   4円15銭8厘
西館権六 1885円11銭
西館忠英  183円86銭7厘
西村久治  182円19銭
西村熊次郎 110円10銭8厘
西村源六  158円53銭
新田○太郎 2円60銭
新渡戸○彬1104円39銭5厘
糠塚七太郎  52円49銭9厘
沼瀬○八 2円29銭5厘
沼田治太郎 486円95銭4厘
沼館喜平治  50円 8銭
沼館常弥 5円95銭8厘
沼館与五郎 3円28銭4厘
沼館与十郎  29円5銭9厘
沼館与惣治 171円52銭
根城勘之助 1円41銭1厘
根城吉六 1円80銭
根城三八 7円39銭6厘
根城丑松 3円57銭9厘
根城弥六  267円 6銭2厘
根城与八郎 164円86銭2厘
野崎和治   44円97銭1厘
野里長松 3円7銭5厘
野関長六 1円76銭8厘
野田摧  1065円 5銭7厘
野田長治   14円52銭7厘
野田長愍  440円28銭5厘
野田直太郎  12円43銭5厘
野村勇    61円3銭3厘
野村○賀  691円27銭9厘
橋本宇吉  124円79銭2厘
橋本源蔵  233円93銭6厘
橋本清吉 3円97銭9厘
橋本長助 6599円69銭4厘
橋本長三郎 153円63銭6厘
橋本富次郎  26円 2銭6厘
橋本八右衛門 8001円
97銭3厘
橋本藤松 2円18銭7厘
橋山清太郎 7円51銭6厘
長谷吉太郎 264円99銭1厘
長谷善太郎  20円45銭2厘
廿日市とめ  49円72銭4厘
八田庄七  108円96銭6厘
八田喜三郎 119円 8銭7厘
馬場吉次郎 3円11銭6厘
馬場庄七 2円91銭3厘
馬場清蔵   21円80銭2厘
馬場定次郎 6円35銭1厘
馬場富之助  18円7銭2厘
馬場寅蔵   21円10銭8里
馬場万蔵 3円6銭3厘
馬場平治 4円49銭4厘
馬場万次郎 3円64銭1厘
馬場利○ 6円80銭
林 亀吉  232円91銭9厘
林○太郎   51円30銭4厘
原謙作  2887円41銭8厘
原十目吉 9円62銭1厘
治木浪江  257円93銭9厘
伴 政雄   14円97銭9厘
美玉竹次郎 3円89銭5厘
百島 平   43円88銭2厘
平岡折三 1円31銭6厘
平賀甚三郎   2円40銭
平田稲惣   44円79銭3厘
平田吉博  157円33銭5厘
平田吉○  890円31銭6厘
平田喜代松 4円86銭8厘
平田元    57円87銭6厘
広瀬重之   45円44銭4厘
杉山秀吉   63円68銭4厘
福岡吉蔵   55円59銭3厘
福岡万蔵 2円13銭7厘
福岡○○   13円51銭3厘
福士小四郎 2円 7銭4厘
福田嘉吉   79円49銭1厘
福田甚七   11円79銭2厘
福田甚蔵   37円32銭6厘
福田祐一 6円21銭1厘
福田祐寛 7675円88銭8厘
福田祐記 1111円93銭
福田祐言   23円49銭2厘
福田祐貞  172円10銭4厘
福村権太郎 110円92銭1厘
福村○助  107円67銭6厘
福本甚太郎 2円60銭
福本父助  213円50銭2厘
福本和吉  993円74銭3厘
豊山逸○ 1932円97銭8厘
藤井越平 3円69銭1厘
藤井庄三郎 4円96銭8厘
藤井竹松   24円90銭9厘
藤井徳蔵   27円27銭4厘
藤井初弥   86円96銭5厘
藤井与惣治2456円66銭7厘
藤崎友助   44円28銭1厘
藤田小兵衛 146円80銭
藤田義綱   44円18銭8厘
藤村又○  456円32銭9厘
藤原兼松 2円44銭2厘
藤原酉松   88円36銭6厘
二子橋清澄 7円 3銭4厘
二子橋松之助127円56銭9厘
二家福松 2円9銭5厘
船木吉三郎 192円17銭1厘
船越 寛  832円97銭8厘
船越宜寅 4948円30銭4厘
船越康徳  130円94銭8厘
古内惣吉  177円59銭4厘
古川小十郎 4円35銭8厘
古川七太郎  10円76銭8厘
古川長十郎 2円26銭3厘
古川伝七 7円22銭1厘
古館喜助   29円14銭8厘
古館喜平  211円22銭6厘
古館作次郎  41円 5銭1厘
古館左平  726円57銭9厘
古館長治   96円75銭5厘
古館富次郎 136円33銭1厘
蛇口胤親 7142円11銭3厘
蛇沼重蔵 2円58銭7厘
蛇沼要助 3円48銭2厘
戸来金次郎 3円28銭8厘
逸見與道   73円 5銭3厘
逸見直長 2437円78銭5厘
逸見直矩   38円67銭8厘
逸見正己 3635円98銭5厘
法師浜○次郎 3円11銭6厘
細川来佑  331円66銭5厘
堀米佐平   18円69銭5厘
堀野宗賀  154円84銭3厘
堀○権治   13円74銭6厘
前田孝機 2円13銭7厘
前田孫十郎 3円69銭5厘
前田利八  109円49銭6厘
前原正明   97円57銭5厘
蒔田長蔵 1850円76銭6厘
椙村伊五郎 1円87銭4厘
町 室 6円64銭2厘
松井忠吉  156円59銭4厘
松井藤之助 8円65銭7厘
松浦勘次郎  87円90銭6厘
松浦定次郎 124円52銭7厘
松浦政五郎  19円47銭4厘
松浦留蔵   25円30銭9厘
松岡庚宝   23円34銭9厘
松岡忠隆 1079円18銭3厘
村岡忠次郎 5円11銭6厘
松岡登太郎 104円54銭1厘
松倉仁太郎 109円67銭6厘
松崎源六郎  14円92銭1厘
松下松蔵   26円18銭2厘
松館嘉吉  108円63銭1厘
松館サツ   41円48銭8厘
松館万吉   26円38銭
松館林蔵 4円84銭2厘
松谷清之助 1円55銭8厘
松波岩松 2円96銭7厘
松橋幾松   12円27銭1厘
松橋亥之松   55銭2厘
松橋嘉吉   92円35銭6厘
松橋吉平  119円63銭
松橋喜兵衛  82円2銭7厘
松橋修四郎  80円64銭2厘
松橋重七郎  10円99銭2厘
松橋専太郎 143円96銭6厘
松橋専蔵  101円1銭7厘
松橋惣吉 1円80銭
松崎常吉   63円53銭1厘
松福豊吉 2円71銭6厘
松橋孫六 1円83銭4厘
松橋又蔵  109円51銭9厘
板橋松五郎 1円55銭8厘
松原忠豊 6円36銭
松原忠宜 2323円79銭9厘
松原忠供   30円 5銭4厘
松本喜助 8円70銭5厘
松本吉    43円66銭3厘
松本彦太郎 3円16銭8厘
松本福松  258円28銭2厘
松本万吉   17円19銭
松本与兵衛 293円19銭7厘
松本和吉   83円78銭1厘
松山右雅  455円80銭5厘
松山時芳 7円78銭9厘
円子徳太郎  21円20銭7厘
○米三吉   15円43銭
○島○之兵衛 42円52銭9厘
○代久五郎  21円21銭2厘
○清川熊吉  24円 2銭5厘
○谷丑松   57銭9厘
○津市太郎 3円80銭
○野○吉   49円96銭4厘
○藤清郷  192円34銭
○○ 1円44銭2厘
○○庄吉 2円84銭2厘
○○亦六 4円27銭4厘
○○康敬  185円81銭4厘
○○義知   16円93銭6厘
○○良久  218円98銭9厘
○都直○   16円6銭
三浦浅吉  287円7銭6厘
三浦勘吉  153円88銭7厘
三浦福次郎  51円66銭8厘
三浦○太郎 2円50銭5厘
三上政視  315円55銭5厘
三川原松吉  21円71銭1厘
三国竹松 2円44銭2厘
水上岩太郎 2円83銭2厘
三田清重  461円18銭
三田よし   30円 9銭5厘
三井九平   40円82銭3厘
皆川岩松 2円90銭5厘
皆川丑松 3円58銭9厘
湊常太郎  277円39銭2厘
湊秀市    68円81銭6厘
湊福太郎 1円 7銭4厘
湊 ○通 3671円21銭5厘
源晟 5円66銭3厘
美野部亀寿 204円63銭2厘
美野部定努  25円75銭1厘
美野部道寛 552円64銭2厘
美野万松   15円80銭
宮川熊吉  117円46銭1厘
宮 倉吉   64円6銭
宮原直衛  173円76厘7銭
宮本善吉 2円93銭7厘
宮本万次郎 4円8銭4厘
村井浅吉  481円43銭2厘
村井伊八郎  73円46銭7厘
村井吉三郎  28円81銭6厘
村井吉助  583円84銭3厘
村井金治   15円18銭3厘
村井久米吉 682円78銭3厘
村井幸七郎1465円63銭2厘
村井孝八  119円40銭1厘
村井米吉   49円 9銭6厘
村井茂三郎 118円28銭4厘
村井新三郎 115円95銭8厘
村井清七  640円67銭1厘
村井長三郎 155円61銭5厘
村井徳太郎  21円14瀬2厘
村井亦八  282円51銭3厘
村上市太郎 5円22銭1厘
村上正吉   94円19銭
村上恒男  195円97銭8厘
村上道幸   74円40銭
村田市十郎 3円71銭6厘
村田亦十郎  17円59銭8厘
村本定吉  142円18銭1厘
村山茂吉 4円76銭8厘
室岡義友   15円52銭8厘
女鹿宗彬  323円78銭4厘
森寛衛    21円86銭6厘
森 九一郎 553円47銭4厘
森越軍次郎 2円90銭5厘
森越太郎   17円67銭9厘
森越福太郎 2円85銭3厘
森越又吉  183円21銭8厘
森城福太郎 3円89銭3厘
森城文五郎 3円35銭8厘
盛田長三郎 118円10銭5厘
藤田松之助  83円16銭6厘
守田芳弥 3円80銭
盛○清香 6円21銭1厘
八重畑吉敷  71円49銭6厘
八木源蔵   44円29銭4厘
八木田嘉吉 3円43銭2厘
柳川久江  571円40銭6厘
柳平松次郎 1円80銭
山崎吉孝  398円36銭8厘
山下林之助 6円70銭6厘
山田栄吉   35円86銭
山田喜十郎  16円39銭5厘
山田銀蔵  782円49銭3厘
山田粂吉 3円96銭8厘
山田五助 3円82銭1厘
山田定次郎  88円73銭8厘
山田庄七      70銭5厘
山田甚九郎 8円26銭2厘
山田大吉   27円61銭8厘
山田利雄 4円96銭
山谷作次郎  20円 5銭8厘
山谷鶴松   46円36銭1厘
山田文次郎 920円57銭
山田穂並   36円7銭5厘
山田亦之助 1円55銭8厘
山田○之助 1円76銭8厘
山本夘八 1円95銭8厘
山本勝三郎 188円41銭1厘
山本勝次郎 3円43銭2厘
山本金弥   97円4銭6厘
山本熊次郎  29円62銭1里
山本健治    8円24銭3厘
山本源八郎 601円60銭5厘
山本五平 3円24銭2厘
山本鎮元  628円62銭3厘
山本甚平  133円89銭3厘
山本徳太郎 2円97銭9厘
山本彦松   27円28銭3厘
吉岡政世  662円47銭1厘
吉田嘉助   93円69銭3厘
吉田三郎兵衛 2161円
77銭8厘
吉田武雅   32円54銭6厘
吉田武○   97円51銭8厘
吉田寅吉  216円18銭1厘
吉田万衛門5483円63銭3厘
吉田紋次郎 178円85銭3厘
吉野善太郎 5円84銭2厘
米沢三蔵 2円13銭7厘
米田宇太郎 376円1銭6厘
米田治郎八 2円81銭
四方正方  765円86銭8厘
来迎寺 1円27銭3厘
類家一八  646円99銭4厘
類家亥之助 302円27銭8厘
塚原此吉  113円66銭2厘
類家作太郎 320円51銭4厘
類家甚太郎  42円82銭1厘
類家豊蔵  222円96銭8厘
類家長松  141円12銭6厘
類家久四郎  90円78銭6厘
類家松太郎 3円78銭9厘
類家己之松 2円62銭1厘
類家元吉   23円48銭4厘
類家雪之助 115円6銭5厘
類家与吉  166円88銭2厘
類家由太郎  46円94銭8厘
和井田喜八 2円86銭3厘
若松常吉 1円60銭
渡 徳松  126円84銭6厘
和山長助  272円39銭7厘

元は町内別になっている。「はちのへ今昔」の雑誌はあと二冊発行してやめる。そこでどうしてもお見せしたい昭和十二年発行の八戸商工案内の復刻をするが、紙面の都合で一部を割愛。この元の本は八戸図書館郷土資料室にもある。全体を見ないと死んでも死にきれない向きは是非参照のほど。
 大事なところは網羅したのでさほどの意味もなかろうが、先祖の名を探したいと希求する人は是非どうぞ。

2009年1月23日金曜日

晩飯食わずに夜中の二十四時まで働く奴がいるのか2


人事課が指導書を廻した。残業をする人間は飯を食う時間を削除せよと。その命令に基づいて給食センターは従来の残業命令簿を書き改めた。
 従来の方法は特殊勤務手当てと称して、一律に支払われた。給食センターには早出をしてボイラーに点火する必要があるからだそうだ。その勤務者が不都合な場合、次の者が特殊勤務手当てを貰う。だが、これも一律の特殊勤務手当てが不当だと、残業命令簿が早出命令簿になりボイラー点火作業に残業手当が支払われる。
 何だか書いていてもこんがらがって来るような仕組みだが、事実は小説よりも奇なりで役所の中は複雑怪奇。そして、言われた通りに給食センターは残業命令簿を書いた。それを届ける先は教育委員会。つまり教育委員会は正しい書き方を知っている。人事課からの残業命令簿の書き方の書類を給食センターに配布したのも教育委員会なのだから。
 つまり教育委員会は知ってて自分はしなかったのだ。下役には命令し、このように記載しなさいと命令・伝達しながら自身はトボけた訳だ。それが課員だけではない。上司の係長、課長もトボけるのだから始末におえない。
 更に、この残業命令簿に基づいて給料を支払うのは人事課だ。この人事課は職員の健康管理、職能を正しく評価し役所の機能を十全させるべき大事なところだ。
 それが深夜十二時まで残業し食事もとらないのを知りつつ放置するは馬鹿野郎と罵られても不服はいえまい。こんなことで役人が務まるのか。人は石垣、人は城とまで言われる。無能、不能は配置を転換し、それらでも充足できる仕事を与える。これが人事課の仕事だ。勤務の評定は数字で表せる。残業せずとも十分にこなせるのが能力だ。係数に仕事量を出し、ベクトルの考えを生かせば物理と同じで人間の能力は数値化できるのだ。
 旧態依然では改革改善はない。まず役人の資質を変えるには心の有り様を問うことだ。水道が断水になった。我が課は何をするべきか、これを問えないから部長でも太平楽をきめこみ、市役所に登庁しない、課員は課長からの命令がないから餅にキナコをかけて食ってテレビ見て笑う。笑わされる人間になるな。良かったと市民に笑顔を出させる人間になれ。これが市役所職員の本分だ。
本分ないところに本質の発露はない。市民のために動け、高齢者、独居老人、障害者の手足になれたのか、青森県の偉人、いや、日本人の最高峰、人間の資質とは信頼とは、信とはを絶えず問いかけた太宰治の心の底からの問いがこれだ。
八戸市役所職員に問う、信頼は罪なりや。存分に市民のために働いてくださると思うから、必死に税を納めさせていただいています。それは有事の際に、獅子奮迅の働きを示してくださるから納めております。
その、信頼は罪なりや。

晩飯食わずに夜中の二十四時まで働く奴がいるのか1


八戸市役所職員はとんでもないタフネスがいる。二十四時まで残業して夜食もとらない。これは本当?
 人事課は家に帰って食べる人もいると言うが、大体十九時には飯は食うと決まったもんだ。そもそも残業なんてのは市役所職員はしないもの。気楽な勤め人稼業を選んで役人になった。それが夜中まで働かなければならない命令を出す上司が愚かだ。
 それまでしなければ追いつかないのは時間の読みを間違えたか、能力のない人間を使っているかのどちらか。いずれにしても深夜まで残業命令を出す上司は無能。
 伊藤とハンコが押されているが、この教育委員会の伊藤は相当なワル。部下が二十三時まで働くのを三日、二十四時まで働らかせたのが一日。その間、食事も取らせていない。こんなことでは体を悪くする。その結果、過労死にでもなったらどうする。責任をとらされるのは上司だ。
 この伊藤なる人物に聞いた。すると食事は買ってきて食べるように言っているという。さて、こうなると次の問題が発生。どういうことかと言うと、前の残業命令簿には食事をした分を減(ひ)く欄がなかったが、平成二十年一月からはそれをひくようにカッコでくくられたものが記載された。教育委員会が前々からいいかげんなことをしているのを発見してきたが、いよいよもってのっぴきならない事態となった。
 つまり、食事している間は仕事はしていない。食事は食事、仕事は仕事だ。だからこそ、その時間を減額するようになっている。しかるに、この伊藤なる人物は食事もさせなかったのかと問われると、するように告げている。ならばその時間は減額するように新規の残業命令簿はなっているだろう、それを無視したのは虚偽記載で、残業代を不正取得した。
 こう斬られると、食事をしながら仕事をしたと開き直りだ。すると、それを知りながら残業代を支払った人事課にも問題がある。確かめもせずに残業代を支払う行為が問われるが、いずれにしても泥棒が泥棒を捕まえるようなもので、どうにもこうにもならんのが八戸市役所の根源的体質。 さて、どうしてくれるか……。

2009年1月22日木曜日

監査が必要な監査委員会2

ダルい監査委員会の事務局の動きに不満を持ち、責任者の代表監査の大野氏と面談した。
貴君の動きに期待しておるが、これでは困る。
力不足のあるやもしれず、今後は努力すると言うような話で終始雑談ヨ。つまり旧知の間柄というのはどうも矛先が鈍るもの。
 これだから監査委員も役割は十分に果たしえない。言い方は悪いが泥棒が泥棒を捕まえるようなもの。これでは目付けの役はできない。やはり監査は第三者委員会に委ねるべき。それでなければ役所のムラ、無駄はなくすことができない。
 昨年は四ヶ月に渡り旅行をした。鳥が渡りをするように九州の指宿に一ヶ月いて、長門の国、山口県で白猿の湯に入った。そこは料金が高い。すぐ近くの川の湯は料金が安く狭い、車の通行できぬ温泉街に下駄の音が響いた。川の湯に入り九州に行き、帰りに白猿の湯に入っていないのを思い出し高い料金を払って入った。湯室は同じだった。建物だけが新築、その料金が入浴料に加算されただけ。
 代表監査委員も眉毛が白いものだけにおなりだ。丁度、長門の白猿の湯のように、料金が高く同じ湯質では市民は納得できませんゾ。

どこか奇怪な東北電力2

昨日出かけようとするところへ東北電力が来た。八戸営業所の総務係長とお客さま相談室のアイナイ氏。電話で逢えないので来たそうだ。
 八戸市役所から契約書の写しを見せろと要求があったが、二万一千件のため、ああだのこうだのと言い訳に終始し、挙句、市役所からコピーに金がかかるなら、市側でコピーするから持参されたいと申し入れされ、それを放っておいて越年。そこで「はちのへ今昔」の東北電力への見参(げんざんと読む)となった。
 「はちのへ今昔」だと市役所に言っていたようなヌルい話では通じない。アイナイ氏に言った。すると民間地に立つ電柱は何本でゴザル。
● はっきりと判らないでゴザル。
○これがNTTの柱の数でゴザル。
●これがそれでゴザルか、知らずにおりましてゴザル。
○県有地にも電柱は立ちおるようでゴザル。すると東北電力の電柱は何本でゴザルか。
●NTTの柱にも街路灯は付いているようでゴザル。
○何本でゴザル。
●不明でゴザル。
○その実態もわからずでは弱り申すな
係長がしゃしゃり出て、
●調査をして見るが「はちのへ今昔」には伝えぬでゴザル。市役所の話を市民に洩らすはできぬでゴザル。
○それを言いに来たのでゴザルか、東北電力に見せてくれとは一度も言わぬ、証明をせよと伝えたのでゴザルよ。はきちがいをなさらぬよう。いかにも、今回の諸君の訪問の意図は一市民ごときに説明の必要はないとの伝達、つつしんでお聞きいたした。さっさと帰れ。
この会話の途中で、その旨を市役所道路維持課長に伝えた。東北電力も何をどう考えるのか、アイナイ氏の目玉は左右上下に動き、まるで詐欺師、スリ、置き引きのような落ち着きのない動き。この場から逃げたいのボディートークだ。職責としてやること、いささかも揺るがぬ強固の信念なくして良い仕事は出来ぬものよ。

2009年1月21日水曜日

どこか奇怪な東北電力

私企業で優秀なのは東北電力と信じていたが、どうやらこの二十年で体質に腐りが出た。今、八戸市役所が東北電力と定額契約している街路灯を調査、その契約が二万一千、東北電力が八戸市に納税する電柱の使用料が13285本、差があると談じこんだ。これは東北電力八戸営業所の総務課長高橋氏が欠勤のため課員に伝えた。
 すると昨日(二十日、午後六時過ぎ)に電話があり東北電力のアイナイだが、市有地以外にも個人の土地にも電柱を立てているとくどくど言う。そのほかNTTの柱にも街路灯は設置されていて……
 すると、民有地に何本、NTTに何本かと問うと、ウンウンと返事、それが録音されている模様、ウンウンの返事はなかろう、まして数字を述べるに電話は無礼、そちらから説明に来いと電話を切った。
 東北電力の基本は現場主義、先ずもって苦情の原因を探るため現場の長は部下を走らせるが鉄則。この二十年で東北電力は偉くなりすぎた。根本解決法はどんなじ時代が変わり世の中が移ろうとも、基本は基本、それ以外にはない。
 NTTの柱は12148本、課税単価は930円、総額1482万円だ。東北電力はこの数字を知らないだろうから教える。このように徹底して物事の裏側はどうなっているかを調べることだ。
 県有地、国有地にも電柱が立つのか、県が所有する電柱(警察柱)にも電力は架線している。それはどうなっているのか、全体で何本あるのかも調べず、言葉だけで、それも電話で相手を折伏しようは東北電力の根本の現場主義にもとる。
 初心に戻れ、自分たちだけが正しいと思い込むな。間違いをしでかしたのかと謙虚に反省しないと、しまいには足元を掬われる。
 電話をかけてきた人物はアイナイ、電話じゃ逢えないを知っているのか?

監査が必要な監査委員会


八戸市の報酬で一番高いのが代表監査委員、この任命権者は市長、つまり市長のめんこ(八戸弁でお気に入り)。その金額は年間873万円。決して安い額ではない。つまりこの役職はかなり重要だから応分に支払われる。
 ところが、これがダルい。「はちのへ今昔」は資産税課の不動産鑑定契約に不審を抱いて昨年十一月から調査、ところがこれを監査委員会が監査を終了した文書を入手。そこでどのような監査をしたかを開示請求。昨日(一月二十日)監査委員会が書類を開示した。
 はじめて監査の実態が判明。
① 監査委員会が監査日と内容を相手の課に通知。
② 予備監査として相手の課が当該書類を前日までに監査委員会室にもちこむ
③ 予備監査は一日のため監査委員会事務局は大慌てでこの書類に眼を通し相手課に十七時までに返却。
④ 後日本監査日を指定し相手課長、係長らを呼び監査委員及び事務局員と雑談
この本監査日に交わされる文言は記録されていない。そのため雑談と「はちのへ今昔」は断定。
 この土地鑑定業務は三年に一度、パスコの航空写真撮影と表裏一体。三年に一度、パスコと一億三千万円、不動産鑑定協会と五千三百万円の契約を結ぶ。監査委員会はこの契約全般を見る好機だが、監査委員会は二年に一度の頻度で各課を渡り歩き調査。
 つまり、この平成二十年八月十二日の監査をのぞけば永久に今回契約の土地鑑定業務を見るチャンスは失われる。平成二十一年からは新規契約となるからだ。
 ところが、監査委員会事務局はこの業務委託の印紙、契約期日を見ただけで返却、そして指摘事項ないと断じた。
 この程度のことなら小学六年生でもできる。肝心なのは契約内容の吟味。この契約の成果品(役所がこれこれを成果として提出せよと命令したもの)に間違いがあるが調べたのかと訊くと、なにしろ限られた人員で限られた時間の中でする作業のため……と言葉に切れがない。
 それがこのザマかと言ったら不服そうな面をした。ザマが気に入らないかと問うと、そうだという。不審を抱くは問う側の心の有り様、いいかげんに事を処理するなら不審を抱かぬが一番。不審がないから問う言葉もない。穏便穏便。穏便は事なかれ主義。それが目付けの仕事か? 監査は目付けじゃないのか? その根性なら監査室は不要だ。役所の金が適正に使われているかを調査するのが監査の仕事のはず。それを忘れれば存在する価値がない。
 我々市民は役人には必ず間違いがあると感じている。しかし、それを調査する場所があり、それを監査委員が実施すると固く信じているが、鑑査範囲を二十年四月一日から六月三十日と区切り、そこだけを見る。まして土地鑑定業務は三年に及ぶ、その末の四月から六月をみて事足りるという神経に疑問を感ずる。痛んでいる。病んでいる。監査委員はその己の手足、そして神経が腐っていることを知らなければならない。
 それも出来ないなら監査委員は総入れ替えすべきだ。自分のことも処理できない人間の集団は市民の期待に応える資質に欠ける。ザマは無いゾ。先ず不審を抱き、一日で終わらせようとせず、真実を追究する心なくして役人のダルい体質は改善できないのだ。事前通知、期間限定ではスーパーのチラシと何処が違う?

2009年1月20日火曜日

八戸市役所月給制で雇用し日給月給は間違っている1

八戸市役所の職員を増員できないため健康増進員や公民館館長、職員を報酬、つまり臨時職員として雇用。極端に職員と格差がある。職員の平均給料が七百二十万、臨時は二百万程度。公民館館長は年間百万だ。
 公民館館長は名誉職との言い方もあるが、それにしてもちょっと低くないか。館長就任者は元教員とか元自衛官が多い。地域の人々と顔見知りという理由なのだろう。
 健康増進員などは看護士などの資格を有する。それでも年間二百万円だ。役所ができない部分を補完してもらう重要な仕事。まして役所から飛び出し市内を戸別に巡回する臨時職員の仕事は簡単じゃない。雨は降る雪も積もると額に汗して戸口から戸口へと巡回し、聞き取り調査をし健康管理と指導をする。
 ところが、これらの職員は辞令では月給制、ところが半年を経過するまでは欠勤すると給料が減額になる。これは間違っている。
●日給制…賃金の支払を1日についていくらと定め、出勤した日数について賃金を定める制度。●日給月給制…月給制の形をとるが、欠勤があった場合には、その分の日数を計算して差し引くという賃金制度。●月給制(完全月給制)…1ヶ月を単位として賃金が支払われる制度。欠勤・遅刻などにかかわらず、月給を全額支給。
 市役所は月給制で雇用しているため、欠勤しても支払いをしなければならない。ところが減額した。これは日給月給制という。これについて人事課に訊くと間違いないを繰り返す。月給制で雇用なのだからキチンと支払え。論理の一貫性に欠ける。文言も理解できないでは困る。弱者救済、手の廻らぬところを補完のために働いていただいているの認識を持て。臨時と言えども同じ職員なのだから。

2009年1月19日月曜日

八戸市内街路灯21000ヶ所、一億一千二百万円



これが年間の電燈量。この管理は町内会、電燈量は税金で負担。この数が正しいのかを昨年の夏から調査。
 これは実に色々あり、噴水、横断歩道の電熱線などメーターを設置し実際の利用量を積算するものと定額で支払う街路灯がある。年間一億二千万円は街路灯で、点いてても消えていても一本あたりを定額で東北電力にとられる仕組みだ。
 この料金は道路維持課が支払う。そこで担当課に出向き、東北電力との契約書を見せろと談じ込んだ。ところがウンでもなければスンでもない。これらの契約書は市役所は破棄していた。
 契約書もなく一方的に東北電力の言うままに料金を支払うな、世の中はすべからく契約でことが進行する。東北電力さんは熱心に仕事をする人たちばかりだから、間違いはありませんと、主婦の寝言のようなことを言うな。世の中は間違いと聞き違いは何処にでもある。その支払う根本原因の契約書もなしに一億からの金を支払うな。市役所になくとも東北電力にはあるはず。それを探し出して請求書と照らし合わせろと要求。十一月頃請求書には間違いがありませんでしたの返答を市役所から貰った。
 あのな、請求書の金額に間違いがない、間違いがあれば大変な問題で、論点はそこにはない。請求書と契約書に間違いがないのか? と訊いているのだ。市役所に契約書のないのは判ったが、東北電力はその契約書は破棄していないから、それを東北電力が市役所に運んでくればいい。二万一千件を「はちのへ今昔」が全部調べるから。
 膨大な量でそれは難しいというが、歴代の課長がそれを見過ごしてきただけ。市役所に契約書がないのだから、誰かがそれをしなければならない。東北電力も時折深夜電力の割引をせず何年も経過したなどとテレビが言う。まして年間使用料が一億を越す。水道企業団の断水のもととなったポンプでの導水管、下水道の南類家のポンプがそれぞれ年間一億円と巨額な電力料金を支払っている。その割りに東北電力の八戸営業所長は担当課に挨拶にも来ないそうだ。
 さて、この電燈量の契約書が一部出た。それは雪が降る一月になってだ。この電気使用申し込み書が契約書になる。ここに個別の番号が振られる。これは同じ物を二個持たない。
 ところが請求書には同じ番号の記載がある。これは電信柱番号だ。シリウチセン 64が二個ある。どうようなものが請求書にはたくさんある。これはどういうことかと、市役所の道路維持課で訊くが、東北電力じゃないので類推と憶測の域を出ない。
 どうもこれは電燈線を元になる電信柱から分けたものを言うようだ。が、電信柱には柱番号がふられ、街路灯は電信柱ごとには設置されていない。つまり、電柱の数のほうが街路灯より多い。
 八戸市は東北電力に電柱の数に応じて税金をかけている。その数13285本。税金は一本あたり1600円。都合二千六百万円が納入される。
 さて、街路灯は二万一千灯、電柱ごとには付いていない。つまり空き電柱のほうが多い。ところが税金は一万三千本。どうしても数が合わない。八千本はどこに消えたの、電柱さん。殿中でござるぞ、浅野殿、せめて一太刀、梶川殿、お手を御放しくだされ、梶川殿、これは忠臣蔵。吉良上野介の意地悪に浅野がキレた。
 「はちのへ今昔」もキレるな。痔ですか、アカギレですか、いい薬をご用意してます。ハッピードラッグ。
 さて、どう説明をなさいますかな。電力殿。

2009年1月18日日曜日

八戸及び八戸人11 ミノル商機 関口稔氏



五戸の上市川に川村って大工がいて、その四男坊が稔さん。幼い頃から物作りが好きで、親父の材木をのこぎりで挽いては、箱に車をつけた、今の台車や本箱作成。
 そんな四男を大工にでもしようかと楽しみにしていたのだろうが、人生は一寸先は闇、その親父がポックリ亡くなり、母親は女の細腕一本で子供たちを育て上げる。先立たれた不幸を嘆く暇なし、淀の川瀬の水車、転がり廻って乾く間もなしで、必死に働くうちに何とか子供たちが成人するんだ。
 なんぼか田畑があったことも幸いしたのだろう。稔さんは食えない辛さは知らずに育つ。有難いネ、親の恩。
 この稔さんは昭和十五年生まれ、中学生の時は理科が好きで、物作りに興味あり。中学卒業して歯科技工士になれと勧める人があって、面接試験 を受ける。物作りが好きなので自転車屋も受験、そこが8月号で紹介した三浦輪業。ここで即採用となり、技工士蹴っ飛ばして自転車屋の小僧になったナ。
 時期がいい。パタパタの自転車改良の発動機から、メーカーが本格的バイクを開発しだす。トーハツって船外機の会社がある。この会社の創立は昭和十四年、タカタモーター企業社が東京発動機となったもの。当時は板橋区小豆沢に工場を新築移転し、陸軍に野戦用発電機などを納入。
 昭和二四年には消防ポンプ、これが大当たりして今でも会社の稼ぎ頭。昭和二七年にバイクに手を出し、三一年には日本最初の船外機を販売。稔さんは三浦輪業のもちろん下っ端。じっと先輩の仕事を見て覚える。エンジンはこうなってピストンがああなってと、頭にたたき込む。ある日先輩たちが忙しく出歩いているときに、エンジン不良のバイクが持ち込まれ、稔さんが習い覚えた腕を発揮。見事に動くように修理。簡単に技術の習得 はできませんヨ。住み込みだから皆が寝入ったときに、コツコツとエンジンを組む作業をしていたんだ。夜になりゃ誰だって眠たい。ところが、それを押して努力する奴が出る。
 偉くなりたいからする? 金儲けしたいからする? 違う。今置かれている立場を全(まっと)うしたいからやるんだ、誰に言われるのでもない、自分の体の中のゼンマイが弾けるんだ。
 こうした男の存在は隠しても出てくるもの。同じようなやる気の塊の男が、自分に似た体臭をかぎとるようなもので、周りに人が集まってくる。いい腕をもつ技術者に、より力の出るバイクに改良してもらいたいとレースに出る者たちが集まった。類家さんがその一人、八戸ホンダの技術者でレースに自分もハンドルを握る。シリンダー、着火点の位置、排気をいかに逃がし、また押さえて逆流の渦を作るか、皆が知恵と技術を絞る。
 大会でいい成績を収めるようになると、メーカーのトーハツは惜しみなく部品を無料供給。メー カーも町の技術者たちを支援。その結果、稔さんのトーハツランペットは50ccでも100㌔出たとヨ。毎日が面白い日々。
 人間なんてのは金もっても使い方知らなければ、タダの番人。その金チマチマ使うは、金に人生を支配されてるんだ。そんな人生はみじめ、人生の達人は毎日が面白いと思える奴。傍(はた)からどんなに妙だと言われようが、変人、キチガイと誉(ほ)められようとも我が道を行く奴だけが最終勝利者。ホメイニって人がいた。執念の人だった。目つきがちがった。国外追放を受けても信念を貫いた。稔さんも人生の達人。銭はあとからついて来ると恬淡(てんたん・心がやすらかで無欲なこと。あっさりしていて物事に執着しないさま)。ここまで来るには色々経験。まず、力を入れていたトーハツが突然オートバイ部門から撤退。三浦輪業の主力だった新明和(「二式大艇」や「紫電改」を製作した川西航空機(株)が前身。兵庫県西宮市の会社。バイク製造は昭和三十七年 頃に終了)も撤退。さて困った。三浦輪業の社長も困るが、従業員とても同じ。そこで知恵を出し、八戸でヤマハの代理店をしていた店の権利を買い取ったそうだ。こうした機転が利いたのが三浦輪業の二代目。
 稔氏の言うには、二代目は時代を見る眼のあった人だった。四輪全盛を予感し八戸ダイハツを経営し、これを直営として手放すが、決して損をした訳ではない。時代は建築だと、住宅関連の仕事を模索している時に交通事故で没した。実際、マンション経営にも手を染めていた。
 稔氏は独立を描いており、二代目も了承していたが、突然の事故で構想はオジャン。二代目のおかみさんと善後策を検討。稔氏は技術も営業も得意。持ち前の飄々(ひょうひょう・超然としてつかみどころのないさま)とした所が客の信頼感を呼んだのか、宮田の自転車、ヤマハのバイクを売りに売ったそうだ。
 そして三年経ってようよう独立。小中野にミノ ル商機を立ち上げた。そこで十年、今度は夢の大橋下の浜辺に移転。
 と言うのも、ヤマハもトーハツも船外機で水産関係に食い込んでいた。陸と異なり海でエンジンが止まったら大騒ぎ。泳いで帰る道もない。なんたって水の上だもの。
 陸を走る仕事は他人に任せ、長い年月修得した技術を生かし、海の仕事で生計を立てるようになった。海の親父たちは稔氏の技術を高く評価、小中野の陸じゃ船を修理するのも難儀だと、浜辺につれてきたようなもの。
 浦島太郎じゃないけれど、助けた亀に連れられて竜宮城に来てみれば、絵にも描けないおもしろさ。と言うのも動かなくなった船を修理してくれてありがとうと、どっさり魚を届けてくれるんだ。
彼らは魚のいる所は知ってても、エンジンがどうして機嫌を損ねているかがわからない。
 そこで技術者の登場となるわけ、持ちつ持たれつというところだ。船となると、バイクと違って 船体からペンキから、昨今はFRP、グラスフアイバーの修理と何でもござれ。身軽に船に飛び上がり、ああでもなければこうでもないと、知恵と技術を絞り出す。誰が手伝う訳でもない。一人で全部こなす技術者魂。小向かつら屋さんでも見たように、今は世の中、年寄りだらけ、結構毛だらけ、猫灰だらけ、尻の周りは○だらけって、風天の寅さんがいうけど、確かに年寄りが多く、そして達者。いい技術を持ち、顧客も多いが、後継者に悩んでいる。このミノル商機さんも、後継者がいない。若者で根気と元気のある人は、ミノル商機に弟子入りだ。
 漁師の親父に感謝され、浜の空気を胸一杯に吸い込んで元気と勇気の溢れる仕事だ。
 青年諸君、間違った道を進んじゃいけない、額に汗して労働する喜びを感じ味わうことこそ大事だ。明日の日本は君たちが背負うんだヨ。(ここは風天の寅の口調で読め)
 この稔氏がどうして勝手気ままに仕事が出来 るようになったか、また、川村からどうして関口になったかが疑問として残るところ。大きな声じゃ言えないけど、小さな声では聞こえない。
 実は、この男を支えた素晴らしい女房がいたんだ。八戸のグランドホテルの近くでチカコ美容室を経営していた若手美人ナンバーワン。九戸村の関口床屋の娘が、このチカコさん。東京の山野美容学校卒業、当時の美容界はメイ牛山と山野が二分、しかし山野が八割で牛山は二割ほどか、圧倒的に山野優勢。また全国に山野の優秀な技術者が散ったんだ。
 なんでまた、こんな美人と稔氏が結婚したか不思議だろう。筆者もそう思うが人生は一押し、二に押し三に金って言う。図々しい奴にはかなわない。いえ、別にアメリカの稔さんの話で、今回の話に関わりはあり……ま~す。
 世の中は面白いようよな、憎たらしいよな、不思議な所では、ハイ、ありますな~。
そんなこんなで、川村から関口になりまして、嫁 さんが九戸村で美容室を開業するようになりまして、哀れ惚れた弱みで八戸まで毎日通う有様。
 結婚式の仲人は三浦輪業の二代目夫妻。この九戸村の美容室も後継者がどうなるやら。お孫さんが跡継ぎになりそうの話もあったりするけど、この稔氏も不思議な糸に導かれる、と、言うのも、家付きの婿、九戸の家を子供たちが新築してくれて、これまた、苦労もなく綺麗な家に住めるという、すまれた(八戸弁でうらやましい)人生、家だけにすまれたカ。
 今月号の八戸及び八戸人は二人とも勝手な人生送り、女房がともに美容室経営、俗に髪結いの亭主って言葉があるが、妙な号になったもんだ。こう見てみると、美容師と結婚するのもいいもんだなァ。これから結婚する人は、こんな人生もあるなァと参考にしていただきたい。
 稔氏の子供たちは立派だヨ。親に新築の家を提供するんだから、イヤイヤ大したもんだよ。若い人の力は素晴らしいもんだ、それにつけても、昭 和十年代も年寄りの部類に知らず知らずになりました。こうなるとジタバタしても始まりません。お迎えの来るまでの間を楽しむ心のゆとりを持たないと、あれもしなければこれをもと、焦るこころの浅はかさ。
 その点、稔氏は人をくったところがあって、ゆとりなのか八戸駅のユートリなのか、はっきりピッシャリわからぬが、今日も人生の達人は、尻からヤニの出るようにタバコプカプカスパスパ吸って、一人コツコツ励む夢の大橋、橋の下、ざぶざぶ波は打ち寄せて、人生の波に揺られて揺れて、エンジン動かし船縁修理、重い重機を取り扱って、家に戻れば女房に取り扱われ、なんとはなしに年取って、今日も額の汗ぬぐい、見上げる先は舘鼻漁港、頭の髪のフサフサもいつしか寂しくパラパラとなれのはての秋模様。自分の人生自分の力で切り開き、漁師の親父に慕われて、これから先も生涯現役、がんばりますと一人呟き磯に寄せたるゴミ蹴飛ばして、ミノル商機は今日も行く。

2009年1月17日土曜日

港湾河川課NPO水辺の楽校の草刈問題


水辺の楽校は八戸に二つある。一つは大橋下流、もう一つが南郷区。
 NPOの草刈料金は平米19円。この料金が高いのではないかと委員会で質問があった。発言者は田名部和義市議。これに疑問を持ち調査。
●新井田川堤防保護組合にはもっと高い金額でお願いしたが、このNPOは見てもらえば判るが、安い金額でお願いしている。
○新井田川堤防保護組合は何処にある。
●役所の港湾河川課だ。
○役所のなかに事務局を置く組合に高い値段の草刈をお手盛りで頼んだのだな、新井田川をきれいにする会はボランティアでやらせてていないのか。Aには銭を払うBには払わない。それも役所の中に事務局を置くものには便宜を諮るでは資質を問われる。
●……
○まあ、それは次の問題だ、この水辺の楽校は二つある。南郷区はどのような料金体系か知っているか
●判らない
○電話をして訊け
●判明した。平米24円で八戸水辺の楽校が安くなっている。
○それは諸君の口だ、物事は裏づけが必要だ。直接電話する。
現今は便利な時代、港湾河川課職員の目の前で南郷区と会話。
○平米あたりの単価に間違いはないか
△南郷区職員 間違いない。南郷は地域の町内会に便所掃除まで願っている。しかし、草刈代金は年四回お願いした料金がそれだ。
○港湾河川課は汚い。
●汚いとは何か!
○諸君らが開示した南郷区の料金は四回分でそれだ。つまり一回分は6円にしかならない。しかし、NPOの水辺の楽校は一回で19円だ。これが高くないのか。それを指摘されたくないために、故意に24円を強調したのだ。それをもって汚いっと称したのが、何処が悪い!
●……
この水辺の楽校には問題があった。当初から便所が盛り込まれていないのだ。そのため近隣学校は授業の一環として、これを組み込めない。
 これを解消できる方法は近くの便所を借りることだ。そこで「はちのへ今昔」は大橋たもとの三浦輪業(ヤマハバイクショップ)の社長に頼み込んだ。生徒・児童が来たとき便所を貸してもらえないか、それも無料で。
 三浦社長は「いいですよ、川は楽しい場所です、お役に立てれば何よりです、どうぞ」
 この話を港湾河川課に書面をもって申し込んだ。「はちのへ今昔」が所有するゴムボート2個、川用手こぎボート3隻の無料貸し出し案をつけて提出。「運営母体を水辺の楽校応援団」とした。これは蹴られた。
 結果的に三浦輪業も「はちのへ今昔」も面倒な時間をとられずに済んだ。しかし、子どもたちにとっては不幸だ。親水の言葉があるように、幼い頃の川遊びは大人になっても懐かしいものだ。ましてボートで川を横断した、魚を採ったなどの感激は生涯忘れないものだ。
 大人の無知が子らの芽を摘む。学校は子らに水辺の楽校に近づくなと指導したそうだ。便所もないようなところに行けと言うほうがおかしい。子らが安心して遊べるような環境作りをするのが大人の仕事ではないのか? 無理解こそ子どもをダメにする。
 まして、水辺の楽校を管理するため、補助や助成を狙ってやるような下種根性は、水辺の楽校を食い物にしている。
 このNPO法人の代表者は前は公民館長、このときに水辺の楽校を経営すると語っておられた。が、あれは金が出ませんヨと言うと、いや、国の管轄だから補助が出ると言い切った。
 その後、水辺の楽校で川くだりを催した、その金は市役所の協動の町づくりから補助を得た。やはり狙ったなと、その領収書を見た、いくつか不自然な、あるいは問題のある金を消費していた。それを担当課に指摘し説明をNPOに求めさせ、あるいは領収書の差し替えをさせた。
 間違いは正せばいい。公民館長の任期が迫った頃、有給休暇を全部消化された。それは当然の権利だが、残り少ない日々を利用者との名残に使うべきではないかと思った。これも記録が証明する。役所の仕事は記録が残る、しかし保存期限が障害となる。その期間内なら無い書類以外は全部見ることができる。それが情報公開の醍醐味なのだ。
 港湾河川課はNPOに出した草刈料と南郷区との差をどう説明するのか。南郷区も同じ八戸だ。Aに良くてBには悪いではまずい。どこを切り取っても格差がないようにするべき。もう一歩踏み込んで言えば差別をするな。旧八戸が偉いのではなく、新参南郷が劣っているのでもない。同じ人間なのだ。
 前にも記したが八戸市役所は南郷職員を給料で差別し続けている。「はちのへ今昔」は労働争議を提起するのではないが、正当な権利は叫ぶべきだ。南北戦争のリンカーンを見ろ。黒人奴隷解放のため白人同胞の血を流した。それでも正義は勝った。これがアメリカの底流をなす差別撤廃だ。そしてオバマの登場だ。ケネディーの弟は40年後に黒人大統領が出ると予言、それを我々は我が眼で確認した。
 それほど世の中は劇的に変わったが、八戸市港湾河川課の頭は奴隷時代と同じだ。自分たちの都合の良いように堤防保護組合も庁舎内、港湾河川 課に置くほどだ。間違っている。みのもんたならこう叫ぶ。ほっとけない。
 世の中おかしなことばかりだ。見て見ぬふりすれば世の中は天下泰平。ところが、何故? どうしてと探ると矛盾が見えるものだ。そのとき、解明する? それとも見なかったことにする? どちらでも選択できる。まだ見ぬ子らのために、今を生きる我々が何かをする。これが問われていないのだろうか。面倒、億劫としり込みするな、一つひとつをゆるがせにせず、重い腰を上げよう。
 間違いは直せばいい。今間違っただけなのだから、次回は間違わぬようにしてもらえばいい。監査を強要して僅かな銭を戻させることで鬼の首を取ったと間違えるな。
 するともっと巧妙な手口を役人は学習する。千年生きて役所を監視する者は一人もいないのだから。

2009年1月16日金曜日

港湾河川課、その場しのぎの根性ワル

八戸市会議員の親戚の土建屋が残土をあやまって崩し川をふさいだ。その浚渫に288万円を費やした。当然これは土建屋に請求。
 この事故は新聞にも載った。ところが景気後退で土建屋は青息吐息。従業員も減り一人だけでなんとか操業。これを助けろと「はちのへ今昔」は見るにみかねて提言したのは夏ごろ。
 草刈の仕事でも出し、少しづつでも返済してもらえ、そして適当なところで免除してやれ、その努力もせず、ただ、支払い命令書を出しても無い袖は振れない。
 すると、河川課は何と言った? この土建屋は指名業者じゃない。指名業者じゃないと仕事は出せない。「そんなことを言えば288万は戻らない。諸君らも戻す努力をしたかと問われるゾ、払え払えと叫んでも払いたくなく払わないのじゃない、払えないからだ、諸君らは電気を電力会社から止められた経験を持つか?近隣が点いていても自分の家だけ暗い、この貧乏経験を持つから気の毒な者の痛みを分かつべく努力するんだ、経験のない人間には痛みがわからない」
 「はちのへ今昔」はこの土建屋に会ったことも口をきいたこともない。貧乏人の苦衷がわかるからやるのだ。苛められた人間は苛めた者を忘れない。貧乏人の苦労は貧乏をしたことのない人間にはわからないものだ。
 兄だか弟の市議はこうした努力を役所にはいえない。言えば問われるだろう。我田引水と。「はちのへ今昔」は市議でも職員でもない。だから正論を吐く。これが耳に痛いから「はちのへ今昔」は悪く言われる。そんなことをいちいち気にしない。人の口は戸がたてられないとの俚諺もある。
 ところが、水辺の楽校に出した90万円の草刈を調べた。この代表者の動きに不審を抱いているからだ。そして幾つかの不明朗な事態も把握。今回港湾河川課の草刈委託も妙な動きを感じ調査。これは議会の議事録に田名部和義市議が高いとの発言があったことに起因。
 そもそもNPO法人が草刈委託を受けることに疑問を感じ、この法人は指名業者じゃなかろう?と訊いた。
● 指名業者です。ここに指名業者の通知があります。
これに疑問を持ち管財課に行き訊いた。
○指名業者には管財が認定しないとなれないのか
●そんなことはない。この文書にも書いてありますが、担当課でもできます。
○河川課、今管財で訊いて来たが、この指名通知は諸君のところで出したのじゃないか、なら、雪かきをこの土建屋に出してやれ、前に話しをした時は夏で草刈、今は冬で雪かきだ。出してやれ、助けてやれ。
●そんなことを言ってもモット困っている業者もいる。
○何処の誰だ、モット困っている業者は、それも助けるから言え
●黙る。
口先だけで「はちのへ今昔」を凹まそうとするな、週刊誌のような聞いた風を言うな。現実だけを直視しろ、解決しなければ288万の市民の金は戻らない。それも担当課がぼんやりしているからだ、税の滞納ならプロの収納課が動く、が、これは税じゃない、代執行の金だ、担当課がやる以外にない。これが世の中の仕組みだ。それをいいかげんにするは許せない。課長を呼べ。
 国から来た課長に厳重に申し入れ。夏にも課長を呼び出して同様なことを言った。月日だけ経過し何もならなかった。土建屋に指名通知を出し(これも形式主義)雪かきをさせ幾らか納入してもらわない限り決着はつかない。
 自分たちの都合のいいことには悪知恵は働かせるが、困窮者となると洟もひっかけないでは弱った者はますます困る。弱者救済、貧困絶滅が「はちのへ今昔」の魂だ。わかったか河川課。

2009年1月15日木曜日

財政部は腐りきった。市税徴収は不適正4


航空測量会社パスコに業務委託をした設計書(見積もり)を精査しているが、機械経費として人件費の42・5%を計上している。さらに材料費として、それの1%を支出。この調子では見積もりの半分は不要となる。
 機械経費とは何か? 材料費とは何か? 資産税課はこれを明確にしなければならない。こんな説明もできない経費を計上したのは誰なのか。現在の資産税課長がこれを発注した。前任者ではない。当人なのだ。これをいいかげんにして逃げ切ろうはできない。
 正当なら堂々の論陣を張れ。確たる根拠がない場合は返金を願え。三年分しか遡及できないだろうが、それでも返金願える分は戻させることに注力するべき。
 そして、今年度計上する予算は当然減額しなければならない。大切なのは間違いを間違いのまま放置しないことだ。そのための課長であり部長なのだ。管理能力がなければ次の者と代れ。これが機構なのだから。
 八戸市役所はグループリーダー(係長)150人が廻す。ここに有能な者が出ると一気に改変・改革がすすむ。八戸市役所には全員課長会議がない。このため横の連携がない。「はちのへ今昔」のように時間と金をかけて調査し、ブログに月刊誌にと公表するも読まない、黙殺する手合いばかりでは折角の努力も水泡。
 課長ばかりではない。実体を動かす係長の連絡体制も急ぐべきだろう。手足がバラバラに動いて良い結果は望めない。そんな馬鹿なことをしている課があるのかの驚嘆の前に、実態を知らなければならない。下手を打った手口を解明し、自身でそれを補完、変換をしなければならない。役所を動かすのは職員なのだから。
 前任者の仕事を鵜呑みにせず、無理・無駄を省くところに力点を置け。行政改革は名のみの早春賦。彼らに改革・変革の知力はない。また、開示をかけている監査委員の仕事振りにも疑問を持っている。役所は無能の集団ではない。優秀な者もいる。が、その数は少なく正論を吐く者を喜ばない、潰しにかけるを信条とする。これでは有能な者の芽を摘むどころか停滞をきたす。前進か停滞かを旗印とした小林市政は何処にあるのか?

2009年1月14日水曜日

八戸消防本部、架空人員に手当て支給2


幽霊手当てをくれた消防本部と消防団はどのような関係になっているのかを見る。
火消しは江戸の昔は十四ヶ所で町の旦那が金を出した、荒町、十六日、二十三日、六日、三日、朔日、八日、十一日、十八日、寺横丁、二十八日、大工、二十六日、鍛冶町。
 これが明治五年、六日、十六日、三日、朔日町、鍛冶町の五つとなり、明治三十四年には公立消防となり新荒町、二十六日、糠塚を一部、二部を十六日、鍛冶町、朔日町、三部を十一日、塩町として九ヶ所となった。
 大正十三年五月に八戸大火があり、町内十ヶ所に防火水槽を設けた。大正十五年にガソリンポンプ車を導入。
 昭和三十五年に消防自動車を配備。平成十二年に防火水槽を埋める。
 日本全体を眺めると、明治14年(1881)1月14日、警視庁が再設置されたことに伴い、警察、消防の事務は一切警視庁に移管され、消防本部は消防本署と改称された。以後、自治体消防制度が発足する戦後までの70年間、わが国の消防は警察機構の中に組み込まれた。
自治体消防署の誕生で消防団は民営となり、屯所の望楼も電話普及で必要なくなった。火事と救急の二本立てとなり消防の役割も増加。さらに平成三年の救急救命士法で消防職員の部分的医師行為が認められた。
 消防も民家の不燃、難燃化がすすみ大規模な火災発生は減少、消防車の性能も格段に進み水を運び消化作業をするなど消火能力は飛躍的に向上。
 しかし、八戸の消防団の配備は旧態依然として新荒町、二十六日、糠塚、十六日、鍛冶町、吹上、十一日、二十八日、塩町、佐比代、新堀、湊、白銀、大久保、鮫、白浜、大久喜、種差、沼館、売市、新組、田面木、下長、千田、石堂、河原木、高館、小田、日計、八太郎、館前、田中、岩ノ沢、妻ノ神、志民、風張、正法寺、三条目張田、笹ノ沢、一番町、本村、矢沢、大仏、轟木、浜市川、尻引、橋向、新和、桔梗野、高屋敷、八幡、櫛引、一日市、烏沢、上野、永福寺、下七崎、上七崎、滝谷、新井田、重地、野場、黒ケ沢、松館、十日市、塩入、岩淵、町畑で69に増加。八戸市が合併で拡大した分、なんら反省もなく消防分団が増えた。
 これは半分でも十分機能する。時代が変わったのだ。町中を大八車に手押しポンプの龍吐水を積んで走る時代ならば、各町内に消防団も必要だが、家庭内の出火も警報機が鳴る時代、五分あれば火事現場に強力な消防車が到着する。隣家からの貰い火も外壁に木材を使う時代は過ぎ不燃材で家を覆うようになった。
 更に住宅には火災警報機の設置が義務づけられ、初期消火は一層しやすくなった。この制度を促進するため東京の世田谷区は高齢者、障害者七万戸に無償設置をきめた。消防分団は火災予防に尽力し、全戸に無償設置の促進に協力できないものだろうか。こうしたことにこそ金を惜しむべきではない。
また、消防分団は救急用に使うべきだろう。電気ショックで心肺停止を救う機器が配備される昨今、消防分団は地域住民の健康管理にその力を注ぎ、消防分団は消防車を撤去し蘇生装置を配備。団員は地域住民の緊急病状を把握し救急車の来る前の措置ができるような体制を作り上げるべきだ。
 旧来の方法が正しいのでなく、金は必要な所にぶち込むことだ。行政の最大の目的は住民の生命・財産の保護。ここにこそ存在価値がある。だからこそ住民は安くない税負担を必死に支える。
 自分たちの町は自分たちが作ることこそ大事だが、我々日本人は役所のすることに不平と不満は洩らすが、積極的に加担し自分たちで作る気概に欠ける。役所が全てではない。「はちのへ今昔」が調査するように、役所の職員は自分たちから行動を起こそうとはせず、右を見て左を見て、そして何もしないのを旨とする。
 そんな役人が優遇されると嘆く前に彼らをこき使うことを考えよう、彼らは公僕と呼ばれる。公僕は英語で言えば公の召使ということだ。それの機嫌をとる、長いものには巻かれろは愚かを地で行く。ケネディーが大統領に就任したとき、こう演説した。国が我々に何をしてくれるのかを待つのではなく、我々が国に対して何をできるかを考えるのだと。
小林市長は協動の町づくりを標榜、行政と地域住民との連携を呼びかけるが、馴染みのなさが切れの悪いものにしている。しかし、小林市長の考え方こそ今様なのだ。
消防団は何であるのかと何となく思っていたが、今回の幽霊団員請求事件で歴史の流れを見ることができた。それにつけても消防本部も、こんな消防団の組織変更にも気付かないのだろうか。それとも消防団を傘下に置くことで市会議員の手先になろうとでも思っているのだろうか。
 消防団の副団長の市議がスプリンクラーの注入口に車を止め妨害、消防法に違反、その市議が今度は市議会議長だと。世も末だ。こんな手合いしか残っていないのか。八戸市議会も人材不足。

2009年1月13日火曜日

八戸消防本部、架空人員に手当て支給

八戸市には常備消防(消防署)と非常備消防(消防分団)がある。消防分団も消防本部の管轄下にあるが分団員は民間人。
 これらに手当てが支給される。なかには消防分団員はボランティアを建前とすると手当てを受け取らない人もいるそうだ。その数三名とか。
 手当てには年手当て(人件費)、出場手当て(火災現場)、警戒手当て(消防車を走らせ鐘を鳴らす)、訓練手当て(河川敷で放水)、賄い手当て(弁当代)、機関員手当て(運転手代)で年間七千百万円支出。
 この請求人数に着目、1148人だが、実際は1104人と45名分が幽霊手当て。これらは消防本部が直接、財政部に請求するも、防災室経由で金が支出されたことになっている。この防災室は予算を請求する立場にないため、頭上を飛来する敵機をみるが如くに呆然。
 が、一度緩急あればその責を問われる。これも妙なものだ。昨年末の徹底検証の結果。この幽霊請求金は消防本部の裏金にはならず、人員過多のまま消防分団に支払われた。すると消防分団の誰が幽霊分を食ったかの問題も生ずるが、それは今回の目的ではないので追及はしない。
 が、不必要な金は一円たりとも出すべきではない。「はちのへ今昔」の目的はオンブズマンのように不正支出を戻せではない。故意に支出したものなら別だが、必要なことは今回を教訓にして次回は繰り返すな。前任者と同じことをして、何で俺だけが責められなきゃならないのか?の愚問もある。これには貴君がその席にあったことを不遇とせよとの返答もできるが、それじゃ可哀想だろう。
 次年度の予算に同じことを請求しなさんな、そこに工夫と改善がある。このことこそ役人がすべきことだと教える。間違いと聞き違いはこの世には多い。それをいちいちめくじら立てることでもない。人生は長い、されど暖める席は短い。その短い間に改善、改革をせよ、あるいは出来ないのかと問われている。
 他人のことを問い歩く「はちのへ今昔」だが、手前のことになるとどうも自信がない。高齢者の看板を背中に背負わされていてさえもこれだ。若者が悩むのもあたりまえだ。

2009年1月12日月曜日

八戸及び八戸人10 かつら商事小向栄逸氏


 人間てのは不思議なもの、誰にたのまれて生まれるのじゃない、誰に願われて死ぬ訳じゃない。実に奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)なところがある。今回の小向さんを紹介してくださったのが理美容の店、バンブー竹原さん。
「八戸にかつら屋さんがありますヨ」
東京の浅草にはカツラ屋が何軒もあった。全国を相手にカツラを商うので、これは商売になるだろうと推測、ところが狭い八戸でかつらだけで商売になるのだろうかと興味津々(きょうみしんしん・非常に興味が引かれるさま)。
 城下の店にお邪魔すると所かまわずカツラの山。それが顔の上に載っているのでなかなか盛観。高島田に国定忠治のヤクザ頭、オイラン頭に小姓頭と、そりゃもう大変。そんな頭の並んでいると ころで色々根堀葉堀聞き出すのが、こちとらの仕事。
 大阪人じゃないけど、「儲かりまっか」から始めるんだが、「まあまあ、ぼちぼちです」というのが普通。ところが、小向さんはてんから、「儲かる訳がありませんよ」と冷淡。
 ものには愛想ってものがあるんじゃないのと思うが、「はちのへ今昔」さんはどうなの?と訊かれるのが嫌で次の質問。
 昭和十四年百石生まれ、父親は戦争で北支に行き戦後は三沢の基地で仕事、母親のタカさんが百石で美容室を開業。若いときは八戸の小中野、当時の一流美容師、中道さんで美容の修行、同僚には長横町の新山さんがいた。なにしろ昔の小中野は隆盛な所。今の閑古鳥、ペンペン草の小中野からは想像もつかない。常現寺の前に駅があり、売春宿や芸者置き屋に料亭、見番(けんばん・芸者を次にどこの料亭に行かせるかを決める盤を置き、将棋の駒のように芸者の名を書いた札を、時 間を計る線香をそばに置きながら、指令を出す場所、線香が芸者札一枚で一本立てられるようになるのを、成人のように一本になった、つまり一人前)もあり、東北屈指の不夜城だったんだ。つまり、札幌のススキ野のような所と言えばわかるかナ。当然、芸者衆は毎日頭を結いに来る。中道さんは地毛(じげ・自分の髪―これに対するのがかつら)で高島田などを自在に作る。ここで修行したので小向タカさんの腕前も容易に想像できる。ついでに当時の髪結いさんの古い所を整理。明治三七年創業が糠塚の佐々木スケ、三九年が朔日町の櫛引ヤス、同年鍛冶町の舘合トメ、大正六年が中道の松橋シモ、八年が小中野の中道トメ、此処で修行、十年が六日町の中村貞、十三年が鮫の杉橋アサ、十四年鮫の吉田リサ、十五年長横町、新山はな、小中野の佐々木カヨと続く。小向さんが百石で開業したのは昭和十年とのこと。
 栄逸さんが生まれる前から美容室を経営されていた。なかなか美人な母親。
栄逸さんは八戸理美容学校を卒業、剣吉の美容師川村タイさんのすすめで東京浅草の小宮サキさんのもとに修行に出た。これがこの人の一生を決める大きな転換点となる。そのきっかけを作ったのが剣吉の川村さんも、まさか自分が人の一生を大きく作用するとは露ほども思わぬだろう。ひょんなことから人生スゴロクが歩み出すもの。
 と、言うのも、この小宮さんは明治生まれで美容界のおしんと呼ばれるほどの苦労の末の大成功者。浅草は花柳界の本場、木場の巽(たつみ)芸者と並ぶ生粋の江戸芸者。そのいずれがアヤメ、花菖蒲といわれる美人そろいから小宮さんに頭を整えてもらわないと気持ち悪くて寝られないと評判をとるほど。だから日本髪では東京一の腕前。小宮さんのお店には全国から二十人も住み込みで働き腕を磨く若者でひしめく。時代が移り、地毛からかつらへと変わるわけだが、ここでも小宮さんは抜群の技量を見せ、関 東一円からかつらの要望が来る。ここでみっちり六年半修行したのでかつら作りは本格派。
 そして百石に戻り昭和三八年に結婚。東京オリンピックの前年。新幹線が大阪まで敷かれ、日本が高度成長をする時期。今と異なり高校卒業すれば引く手数多で就職は容易。今は卒業はしたけれどだ。高校の先生は問題解決の先送りで進学をすすめる。だが、大学はそんな場ではないはず。
 この頃は夢も希望も皆叶うんじゃないかと思えるほど。若くて元気があっていつも笑顔が絶えない人が多かった。小向さんも熱烈にラブレターを送った相手が応えてくれて、まさに我が世の春。百石の店でかつらを本格的に営業。東京から戻ったばかり、近在の美容室を知ってるはずもない。ところが小向さんの知恵が廻る。理美容材料卸の山道さんに美容室を紹介してもらう。つまり、山道さんの車に乗り込み、ついて廻った。当時は美容室が花嫁さんを作った。現今はホテルが担当。宴会場を持ち、理美容の店をテナントで入れ、若者の増加を視野に入れた商売。ところがこれらの若者が今は爺婆になり、はやっているのは老健施設。これもインチキ、詐欺まがいのところが多く、してもいないことをしたとして国に架空請求し 露見。悪い奴がいたもんだ。そんな老人たちが若い頃、美容室は大流行、今も昔も女は自分を綺麗にみせたいもの。お正月が来るからと地毛で日本髪を結う人もいた。今は正月も関係なく普通の暮らしをしているが、昔は一年の計は元旦にありと、着飾ったもんだ。だから美容室は徹夜の繁盛。
 ところがホテルに花嫁取られ、大晦日に頭をセットする人種も滅び、あわれタダの美容室と化した。時代の流れだから仕方がないといえば、そりゃその通り。美容室は一匹狼的な経営者が多く、大同団結ができず、ホテルに対抗する花嫁会館の出現もなかった。美容師はいい腕持ってる人が多いだけに時代を読めないばかりに儲けられることがなかった。
 小向さんも花嫁を作れる時代に商売を拡大。頭に関する商売も兼業し、従業員も次第に増加。かつらと髪に関する総合商社をねらった。
 かつらも二種類あり。アートネーチャーやアデランスのようなウイッグ、つまり禿げ隠しと日本髪のような地毛で結えないもの。禿げ隠しは着々と伸びた。これらは昭和三十年代後半から出現。つまり小向さんが百石でかつらに力を入れ始めたころ。
 人生はチョットしたことで大きく逸(そ)れる場合あり。もし禿げ隠しの部門に力を入れていれば、大儲けのチャンスもあり。バブルが弾けて不動産をいじってた人は大損。ところが小向さんは母親が買ってあった城下に店を出し、地道にかつらを専門に扱う。大儲けはしなかったけど大損もしない。大勢いた従業員をリストラし、今は一人でコツコツと結婚式場の仕事と一座を持つ芸人さんを相手。南部地方は昔から伝統芸能が盛ん。名川には手踊りが幾つも流派を競う。親方は弟子のカツラの心配もしてやる。そのため結構仕事があるとサ。
 市の公会堂とか公民館で素人衆が公演をやらかす。それらのかつらはほとんど小向さんが担当。上の写真は昔の百石の小向美容室、母親が亡くなってからはかみさんの次子さんが経営。左のチビちゃんが小向さん夫婦の長女。男の子一人、女の子二人を授かった。子供たちは皆、それぞれの道にすすみ、今はのんびりと焦らずに商売の道を歩む。住居は観音下にあり、かみさんが百石まで通勤。この観音下の土地も母親が買ってくれた所。小向さんは親の遺産を上手に使う人。新築の洒落た家だが、これからは百石に住みたいとのこと。七十年も経営する百石の店には、近所の気のいいお客さんが多い。生まれ育った所がなによりと思えるのは、年とった証拠。古里へ向かう六部は気の弱りって句がある。巧い言葉があるもんだ。小向さん夫婦は子供たちも一人前になりのんびりと夫婦で毎年旅行を楽しむそうだ。この前はハバロフスクに行ったそうだ。昔の流行歌にあったネ。ハバロフスク小唄、近江俊郎が歌った。大した曲じゃないがハバロフスクの連呼。ここの飯は不味かったそうだ。ロシア人てのはジャガイモ食ってるだけでも力持ち。戦争では日本人が寒くて眠れないのに、大地に横になって顔が霜で白くなっても平気で眠るってヨ。
 かみさんは今人気俳優の朝鮮人、ヨン様のような優しい面立ち。これからも仲良く暮らしましょうと、夫婦二人の気楽な生活、でも後継者がいない。さて、若者たち、もしかつらや美容に興味があれば、この小向夫婦の所に弟子入りしな。どの道、夫婦は引退する。その跡を苦労なしに手に入れることも夢じゃない。必死に働き地盤を築いても地獄に持っていけません。親の跡取る倅のように、弟子にもいい目が出るかもネ。(終)

2009年1月11日日曜日

たしかにあった南部鉄道2

五戸は藩政時代に代官所があった。山坂ばかりの妙な町だが、気風が八戸人とは微妙に異なる。我は我、他人(ひと)は他人のような矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り。自負。プライド)を感ずる。
 この五戸人たちが金を出し合い、八戸の小中野まで、いや、更に種差海岸まで鉄道を敷こうと努力した。昭和二十五年の話だ。
 株主数二千五十三名、五戸が千百五十二名、三戸が三百二十名、田子が百七十三名、上北が百六十六名、八戸はわずかに百四十四名。いかに五戸人が熱を入れていたかがわかる。しかし、五戸でも政党に二分し、反対側は一円も出さなかったそうだ。
 どうも、青森県全体、あるいは三八地区がそうなのかは明言できぬが、狭量なところを見受ける。俗に言う足ひっぱり、八戸では筆者は何度も体験、いや、その連続の中で生息している。他人が気づかぬことを喋ると、「それはワも考えていた」と同調なのか、自己顕示(じこけんじ・自分の存在をことさらに目立たせること)なのか、八戸では至る所でこの言葉を聞く。他人がすると面白くない、足を引っ張るだけでは足りなくて、蹴倒す、踏みつけるは当たり前、狭隘な地で、誹り罵った相手とも顔を合わせる。すると、その場はうまく繕う。妙な奴らだと思ったのは八戸地区だけに許可の下りた、地域限定の携帯電話、米屋と車屋だけがうまいことやろうとワに相談もしないで始めた。誰が加入するものかと、回状は回さないが、言葉が次々に伝わり、時代が全国型携帯電話になったこともあるが、加入者伸びずに閉塞。
 人生はただの一度の場、やりなおしは利かない。考えただけでは糞の役にも立たない。それを実行するかしないかが問われるのが娑婆世界。ご託を並べて、やれない理由を挙げるが、人生は言い訳、自己弁護、自分に同情する場ではない。
 するかしないかが大事なのだ。出来た出来なかったは、その精神の発露の結果だ。
 たしかに鉄道は小中野まで行かなかった。だが、それを成そうとした精神は尊い。歴史に、もし、はないが、もし、尻内(八戸駅)から小中野まで鉄道が通っていれば八戸は大きく変わっていたことだろう。時代を読み、手 を打つことは誰にも許されてはいない。それをなしながら完成に至らなかったことは残念の極み。
 南部バスに勤務された五戸の安藤さんの案内で、今回は南部鉄道に勤務された浪打泰さんからお話を伺った。鉄道・バスの切符は浪打さんが所有されているもの。
 五戸の人々にとって南部鉄道は心のふるさとに間違いはない。その証拠は東奥日報の二千年十月二十日夕刊に南部鉄道の歌が地域住民に歌い継がれているとある。
 人間の思いというのは不思議なもの、父母を偲び先祖を尊び墓石に頭を下げる。盆や彼岸には供え物をする。心の発露が形に現れる。なくした物はいとおしい。だからこそ、南部鉄道の歌がいま持って歌われる。
蒼前ケ丘の朝早く
気は澄み渡る大空に
一気は高く汽笛こそ(ひときわ高き汽笛こそじゃないの)
五戸鉄道停車場よ
鉄道はなくても、名こそ流れてなお聞こえけりってなもの。
 さて、今回南部鉄道の話をしてくださった浪打さんは昭和十年生まれ、昭和二十九年に南部鉄道に入社。新人は車掌が最初の仕事。
 なんてったって、南部鉄道は十二キロ、尻内からは国鉄に繋がる。この国鉄の切符も販売していたから、売り上げは大変なもの。この売り上げはいったん南部鉄道が管理し、それが締め支払いで国鉄に送られる。一円でも合わなければ公金横領になる。なにしろ国鉄は官営、国鉄の売り上げは公金な訳。
 浪打さんは車掌の次には、この公金を扱う調査課で活躍。南部鉄道の切符は硬い券、昨今はヘナヘナした切符の柔らかい券に変わったが、昔はこれ、この硬い券に駅ごとに違った鋏を入れる。だから、発行駅と違った鋏が入ると、違法をしたことが判明。
 昔、国鉄が省線と呼ばれていた時代があった。そこの駅員は津波のごとく押し寄せる乗客の切符に鋏を入れながら、定期券の日付と区間を見定める。体を斜めにして、鋏をリズム良く動かし、視線を手元にやるしぐさは、いまの若い者に見せたいほど。まさに職人技。名人達人の部類に入ったネ。
 いまは自動改札で棒が降りるが、あんなのは押し通ればいい。ブーだのピーだの鳴るのは機械の勝手。無理に通れば無賃乗車、タダノリだ。
「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」藤原俊成を師とした歌人、平の忠度(ただのり)は勅撰集(ちょくせんしゅう・天皇の命令で詩歌、漢詩を集める文集)に私の和歌が選ばれることがありましたら、と、師に歌集を手渡す、難をおそれて詠み人知らずとして千載集に前の句。一ノ谷の戦いには箙(えびら・矢を入れて携帯する容器)に和歌をしたためた短冊を結びつけていたという。その句は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」
この忠度は薩摩の守だったため、タダノリを洒落て薩摩守という。渡河のため船に乗った僧侶、船賃請求され、薩摩守と応える、その心はと問いかけられ、タダノリと答える。川守も洒落たもんだネ、フウーンとただで通す。風流を解する人がいたもんだ。それを真似て捕まる坊主が狂言に描かれる。忠度は風流人、昔も今も戦争は嫌だ。アメリカは日本の徹底抗戦に原爆で対抗、無辜(むこ・辜は罪の意・罪のないこと。また、その人)の広島、長崎の民を二十万人も殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)。この原爆は台風何個分に当たるかという言い方がされたことがる。いまアメリカはたった一個の台風で七千人が死んだと大騒ぎ。広島・長崎は一瞬で二十万人が融けた。自分のしたこと忘れ、やられたことだけは忘れないのが強者の論理。戦争は嫌なこった。
 さて、南部鉄道の切符は名古屋にあ った日本交通印刷が製造。金券だけに粗雑な扱いはできない。南部鉄道には無人駅があり、車掌は車内で切符を販売。
 尻内・五戸間は百円、昭和四十三年当時の百円は高価。日本一高い料金だったかも知れませんヨは安藤陽三さんの弁。浪打さんは総務から営業畑へと転じ長距離バスを東京へと走らせる。時代が大きく変わったんだ。国がレールの代わりに道路を施設し、バス会社がそれを利用し、狭隘な地域路線から大都市への輸送手段となった。南部鉄道は十勝沖地震で路線が寸断され、鉄道を廃止、バス部門だけになった。自動車社会になり、庶民がみずから車を運転するようになった。そして交通戦争で年間一万人を超す死亡者を出すようになった。庶民が加害者の側に廻る恐ろしさを発生。運転はプロに任せるのが安心。だが、バスは乗らない時によく来るが乗りたい時はなかなか来ない。これが不便なところ。ところが、自分で運転する車社会になって人の気質が変わったように思 う。まず待つこと忘れた、次に我勝ちになった。一時停止は守らない、速度違反は平気でする、恐ろしいのは飲酒運転。歩いててさえヨタヨタする、それなのに車を運転するは狂気の沙汰(さた・しわざ)。
上の写真は川村文雄さん提供、父君が志戸岸駅の駅長を務められた。機関車の前に積まれているのが、関東方面に移出されるマサ、瓦屋根の下に敷かれる屋根材。五戸からは材木、木炭、肥料などの需要があり、貨物部門は結構稼いでいたそうだ。
ところが、材木は輸入、マサは新建材に代わり、木炭は昭和二十年代後半に出てきたプロパンガスに押され次第に需要減少。時代が旅客、貨物共に悪い方向に向かった。それでも鉄道の赤字をバス部門で埋めながらなんとかくるが、とどめを刺したのが十勝沖地震。
昭和四十三年五月十六日午前九時四十九分、南部鉄道は盛土部分が崩れ、全線運行停止。当時の東奥日報は南鉄、地震と経営難で廃止、地震のため路盤決壊、土砂くずれで全面的不通となった八戸市尻内―五戸町間の南部鉄道(三浦道雄社長)は、線路がずたずたに寸断され、被害は予想以上に大きく、開通のメドが立たず、赤字路線だけに再開は危ぶまれており、このまま廃止の声も出ている。被害の大きいところは七崎―五戸間の三・五㌔で山腹を縫うように走っているため地滑りをまともに受け志戸岸駅近くでは数カ所に渡って線路が宙吊りになっている。被害は二億円と計算されるも、赤字のため合理化対策を検討中の被災。年間九十万人の足がなくなると混乱を招くおそれもある。
結局、南部鉄道は廃止になった。
志戸岸駅近くの宙吊り線路
当時の鉄道員の服装、使用された切符など、後になってしまうと皆目検討がつかなくなることどもも、当時の従事者たちの努力で少しづつ判明。まだまだ、様々な史料があるとおもうが、この「はちのへ今昔」を見て、こんなのもあると出された時は、追加として読者諸兄にお見せしたい。一応はこの2で南部鉄道の話は終了。
大正十五年二月二十一日、五戸鉄道株設立
昭和四年尻内―上七崎間開通
昭和五年尻内―五戸間開通
昭和六年自動車旅客運送開始
昭和十一年商号を五戸鉄道と改称
昭和十二年三本木、五戸間旅客自動車業買収
昭和十六年三戸、八戸間旅客自動車業買収
昭和二十年南部鉄道と改称
昭和四十五年南部バスと改称。
川村文雄さん提供の写真を見ていただく。

今は昔、五戸人の心のふるさと、南部鉄道花盛りの頃、

2009年1月10日土曜日

たしかにあった南部鉄道1


藤沢茂助を尋ねて五戸の図書館に足をのばした。八戸と同様に明治期の新聞を探した。しかし、五戸では地元新聞は発刊されていなかった。現在も同様。見えている事象もやがて見えなくなる。確かに居た人も居なくなる。栄枯盛衰、有為転変(ういてんぺん・この世は因縁によって仮にできているから、移り変って、少しの間も一定の状態にないこと。世事の移り変りやすいこと。有為無常ともいう)、形あるもの必ず崩れる。千年生きた人間見たことない。見えるうちに記録しないとすぐに忘れる。(これがテーマで八戸今昔が発刊された。)
 人間てのは百二十までは生きられるように出来てるって、固く信じてる人がいる、たしかにそうも思えるが、電池と同じで全部使い切るとお陀仏。電気で心臓が動いている。心臓の鼓動にかぎりがあるそうで、早打ちの人間は早死にする。年中どきどきしてるかがやき者(八戸弁・臆病者、冷たい水に手をつけると指がかじかむことをかがやくというそうで、半可通(はんかつう・通人ぶること。よく知らないのに知っているようにふるまうこと。また、そういう人)の筆者はかがやく? きらめくと同意かと思ったナ、これをきらめき者と覚えて使った、笑われたが自分でもおかしかった。八戸弁はおもしれい(これも八戸弁)。昭和二十六年の商工名鑑に次ページの地図が載った。見にくいので解説する。八戸市役所、八戸市警察署、国警八戸地区警察署などの所在地が右肩に番号をつけて案内されている。ここに予定として五戸から尻内を経て、南尻内、櫛引八幡宮、田面木、県営競馬場、八戸高校、長者山をまわり、南部吹上、南八戸、小中野、そして第二期予定線
として鮫までが記されてある。
壮大な計画で驚嘆したことがあった。誰がこんなホラを吹いたのだろうと思っていたが、予定線は実地測量もされ、南部バスに青図が保管さ れていた。測量主任技師に内田勘六の名。
 
五戸の町をまったく知らない筆者に水先案内人を紹介してくださったのが、五戸図書館でアドバイザーをされ人脈厚い大下由宮子先生、古典文学を楽しむ会の主宰者。今年、十月から楽しむ会を再開される。水先案内人は五戸在住の安藤陽三氏、このかたは南部鉄道に勤務されていた。会津藩士安藤市蔵の末裔(まつえい・その血筋・名籍を伝える何代もあとの人)。この安藤市蔵は宝蔵院流槍の名人、吉田松陰(幕末の志士。長州藩士。杉百合之助の次男。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾しようかそんじゆくで子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。(1830~1859)が会津で安藤市蔵の屋敷に泊まると記されてある。この安藤陽三氏が高橋熊雄さんを連れてきてくださった。高橋さんは陸軍経理学校出身、ここには秀才の誉れ高い者が集まった。戦争はある種のそろばん合戦、兵を動かすには金が必要、何千人が三食をどう食うか、その運搬には、調達はと経理数理に強い男がいないと、途端に窮する。
 現代は経済戦争、人・物・金をどう動かすかが問われる時代、短期間で資金回収を要求される過酷な時代。いつの時代も数字に強い人は優遇される。
 高橋さんの父君は五戸でタクシーと乗り合いバスを経営されていた。戦時中統合され五戸バスとなった。
南部鉄道の創立は大正十五年二月、当時は南部電鉄と呼称、電気は利用しなかったので電の字が取れる。
バス、タクシーの戦時統合は昭和十六年、十八年の二回実施された。十八年に八戸、田子、三戸、戸来等の各バスを買収。
初代社長三浦善蔵は資本金五十万円を集め昭和五年四月尻内・五戸間を開通させる。ここで歴代社長を列記。
初代 三浦善蔵  大正十五年~昭和十九年
二代 三浦種良  昭和十九年~昭和二二年
三代 三浦一雄  昭和二二年~昭和二六年
四代 浦山助太郎 昭和二六年~昭和二七年
五代 苫米地義三 昭和二七年~昭和三○年
六代 山内亮   昭和三○年~昭和三五年
七代 三浦道雄  昭和三五年~平成元年
八代 三浦雄一  平成元年~平成三年
九代 川村広美  平成三年~
初代三浦善蔵は屋号ヤマタマと呼ばれる醸造家三浦重吉の長男、五戸町長、五戸水力電気、五戸銀行、五戸電気鉄道を創業、尻内を起点として、
五戸を中心に秋田方面へ横断する電化の鉄道施設をもくろんでいたが、変更を余儀なくされ、五戸、尻内間十二キロで開通。妻は七戸盛田達三の伯母、養子が階上正部家から入った三浦種良、県議や町長を勤め二代南部電鉄社長。
三代社長、三浦一雄(くにお)、政治家三浦道太郎の長男、八戸中学同期に夏堀悌二郎、東大法学部卒、岸信介と同期、農商務省勤務、昭和十七年翼賛選挙で当選、戦後公職追放、南部鉄道に拾われ糊口を凌ぐ(ここうをしのぐ・かろうじて生計を立てる)追放解除で二七年衆議院当選。三三年岸内閣で農林大臣。十和田湖開発に尽くした祖父泉八のために宇樽部に記念碑建立。
四代社長浦山助太郎、浦山太吉の養子、明治二九年津軽鉄道入社、三六年東京市街鉄道入社、大正元年桂川電力入社、満州、台湾の電力を開発し電力の鬼、松永安左衛門とならび電力界の長老として高名。昭和六年橋本八右衛門の懇請で八戸水力電気の取締役、昭和十年、八戸銀行頭取となり金融恐慌で倒産を再建。
五代社長苫米地義三、上北郡藤坂村出身、肥料会社五十余に関与し昭和十一年八戸銀行頭取、敗戦を期に政治家を目指し、昭和二一年衆議院当選、片山内閣で運輸大臣、芦田内閣では官房長官。二六年サンフランシスコ平和条約調印に参加。七十を越え参議院当選。実業家としての評価も高い。(前写真平和条約にむかう一行)
六代社長山内亮、大正二年長苗代村会議員、上長苗代村長、昭和二年衆議院議員、昭和十七年八戸市長、二七年県購買農協組合連合会長に就任し破産同然を再建。
七代社長三浦道雄、五戸生まれ、法政大学経済学部、海軍経理学校、海軍主計大尉、昭和二三年県会議員。
多士済々の顔ぶれ。この顔ぶれのなかで三浦一雄に注目されたい。この人は農林大臣を務めるが、公職追放の中で南部鉄道に拾われるが、追放解除をにらんで、衆議院返り咲きをねらう。このとき、昭和七年に発足し、のち十八年に南部鉄道に合併された八戸市営バスの切り離しを当時の市長夏堀悌二郎と約束したと言われる。夏堀と三浦一雄は八中同期、三浦は政界復帰をねらう。つながる条件は確かに揃ったが、サテ真相は?
 青図にあったのは小中野までだが、計画は鮫を通過し種差までのようだった。目論見書には次のごとし。
八戸延長を計画するまで
北奥の首邑八戸市の発展に対応し、これを促進させる意義から交通改善の要望にこたえるべく昭和二一年以来計画をすすめ本年五月着工しました。
工事計画の内容
目的 旅客および貨物の一般運輸
軌間 一○六七米(国鉄と同じ)
路線 尻内矢沢~館村田面木~八戸市糠塚~吹上町~小中野町一一キロ
延長線はいつ完成するか
第一期工事尻内~吹上町間九・五キロは二五年六月着工。二六年十月完成。第二期完成吹上~小中野二キロは二七年三月完成。
総工費はどのくらいか
二三年四月から二五年五月までの測量。設計及び準備工費一千百八十九万七千円(支出済み)二五年六月より十二月までの用地、橋梁、土工費その 他五千九百九十一万六千円、二十六年一月より十月までの敷設並びに諸設備費、二千七百五十九万七千円、同年十一月以降の吹上町~小中野町工事費五千七百四十二万円。総工費合計一億五千六百八十三万円。
工事の進捗状況、測量設計は大略を完了。用地買収は路線予定地の中心田面木、吹上地区を主に進められ、工事の難関馬淵川鉄橋は橋桁材料到着をまって着手の時期にあり、軌条等施設材料の入荷も順調に行われております。
資金調達はどうして行われるか
総工費概算一億五千万の内、第一期工事所用資金八千七百五十万円は今回増資の五千万円とすでに借り入れ決定の興銀、青銀協調融資二千五百万円、その他つなぎ資金をもって充当の計画です。
五千万円増資の目的と募集要領
今回増資の五千万円は第一期工事の一部測量監督費、土木工事費、橋梁費等に充当され全額固定設備費にふりかえられるものです。申し込み株式単位は十株単位、ただし最低応募株式五十株、申し込みは株式申込み書二通、印鑑届け二通に一株につき五十円の申し込み証拠金を添えて取扱店(青森銀行八戸、湊、鮫、五戸、三戸、剣吉、田子各支店、青和銀行八戸支店)に申し込むことになっています。
 高橋さんは昭和二十一年入社、当時のことを見ておられる。
「この計画が出たころは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん・大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米・ソの対立を背景として、1950年6月25日衝突し、それぞれアメリカ軍を主体 とする国連軍と中国義勇軍の支援のもとに国際紛争にまで発展した戦争。53年7月休戦、日本は前進基地となり米軍の物資、用役の調達で特需景気が起きて、壊滅的だった経済界が復興する引き金になった)で日本の物価が上昇し資材の確保が難しくなりました。それでもかなりのレールや枕木が野積みになっていました」
「どうして、これがダメになったんですか」
(上写真昭和三十年元旦、南部鉄道事務職員たち、安藤陽三氏提供)
「そのへんははっきりわかりません、当時は鉄道部門もバス部門も黒字でした」
「人員も大勢抱えていましたか」
「ええ、総勢で八百人おりました」
「戦後間もなくの入社だと労働争議もありましたか」
「私は総務でして、労働法を研究させられました。私鉄総連が強硬な要求をしてきましたが、中央と五戸とでは条件がちがいます。無理な要求をして会社が無くなってはなんにもなりません、私は労働組合の書記長をさせられたこともありました。そんな気持ちですから、おだやかな労働運動でした」
「多くの従業員がいると、昔のことですから、ソロバンで給料計算、経理はたいへんでしたでしょう」
「給料日の三日前くらいから残業、残業で大変でした、一台でしたが計算機もありました、手動式 でしたけど」
「ハンドルをグルグルと回して、また逆回しを何回とかいうアレですか」
「そうです、人数が多かったので、ソロバン片手に忙しかったもんです」
「鉄道はいつぐらいまで黒字でしたか」
「はっきり覚えていませんが、昭和三十五年までは黒字でしたネ」
「するとバス部門は、そのあとも良かったんですか」
「ええ、昭和四十七年くらいまでは良かったですよ」
「どうして赤字になったんでしょう」
「他社との競合、それと自動車化の時代の二つでしたネ」(上写真五戸駅、初代社長三浦善蔵像前、安藤陽三氏)十勝沖地震で南部鉄道壊滅は次号、ますます佳境に入る南部鉄道、南部バス、五戸人の魂は八戸人より壮大。(続く)

悪ガキばんざい パート5



風の又五郎


「戦争でわが国の落下傘部隊が大活躍したらしい」
落下傘。(らっかさん)いまではだれもこんなふうには呼ばない。パラシュートと呼ぶ。当時は敵国語なので「英語は使ってはならん」と教育されていたのだ。
14歳になった悪ガキのレッテルを貼られている万兆(まんちょう)は早速これを真似してやってみたくなった。空から地面にふわりと降り立ってみたくなったのだ。
悪ガキとよばれるような、人に迷惑なことは働いている覚えが毛頭ないのだが、万兆の名はニックネームだ。夢が万も兆もあり子供ながらに話が大行なことから、皆はこのように呼ぶ。
万兆の活躍は病気でも戦争でも死なず生き延びたことでここに知ることができる。
どんな老爺も老婆でも只、時を過したものなど誰ひとりとして存在しないのだ。
人生は曼荼羅(まんだら・諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図])模様、あたかもペルシャ絨毯やこの地方の菱刺しのように織り成していて、色彩と模様はそれぞれに美しいとおもうのである。どちらが縦糸かどちらかが横の糸になっているのかわからないが、ひとり一人が異なり、シンプルだったり、複雑であったりで、どれひとつとして同じ模様はないのだ。なかには苦労の塊のような模様もあり、それはそれでとても美しい。
人生を織り上げたその作品に歩を緩(ゆる)めて、振り返って眺められるのはなによりの至福ではなかろうか。
愈々(いよいよ)人生の終末となるとき、それを再度振り返り、少しばかりでも納得をし、そして逝かなければ、とても成仏できそうにもないと私は考える。折角にこの世に押し出されウロウロとした記憶を、である。
太平洋戦争たけなわの時代に入る前、わが国の経済は諸外国にくらべてみてもそんなに劣悪というほどではなかったであろう。          
庶民の暮らしは少ない収入を何とかやり繰りをして凌(しの)ぐ。働けばどうにか生活ができる。そんな時代であった。ただ農民は自然を相手にする訳だから天候や冷害にあうと凶作と言う大敵が潜んでいる。そんなときには悲惨だ。
もし、天候に恵まれてそこそこに豊作となってもこんどは、国家という強い天敵に根こそぎ収奪されてしまう。たった「お国のために」の言葉の魔術に騙されてなのである。
ここの土地では幸いにと言っていいのかわからぬが、海から魚介を獲りそれを生活のための糧にした。獲物は離れた山間地に運べばそれだけ高い値で売れた。多くの人間はこうして自然の恵みをうけて暮らした。言ってみれば金が、銭が海の底に沈んでいる。只それを引揚げて来るだけなのである。いま思えば、そのように思って暮らしていた人々のいかに多かったものか。
本当は多くの命と引き換えは毎年なのだが。海で死んだものなど数え切れないのだ。浜の寺をみればその数に驚かされる。
獲れ過ぎて消費が間に合わないと言っては口にもせず肥料にすればまだしも、海に捨てた。冷凍技術もままならない時代、電力事情も悪化していた時代のことであった。それも魚が捕れるうちだけで、現代では遠い外国へ捕りに行くだけでなく輸入をしてまで食している国家になってしまったが、だいじょぶか?この国はよ。
時代は「産めよ増やせよ」の国家の政策であったので子供だらけ?の賑々(にぎにぎ)しい社会となっていた。そして、大人も子供も生活は戦時色ひとつになっていた。
大人は毎日のラジオ放送や新聞の報道の戦果に狂喜し、国の迷走に気のつく者は少なかった。今思えば、これが報道の恐ろしいところの一面であろうか。
1942年2月15日、街は堤燈行列をした。私は4歳を過ぎたばかりだったが、なんでおめでたいものかどうかもわかってはいなかった。戦争はどんな理由があろうとも、罪悪に変わりは無い。そして、とてつもなく高くつく。戦果はシンガポール陥落であった。
日本国民はテレビもない時代で性能の良くないラジオに齧りつくようにして聴いていた。いわゆる、大本営発表で、これらは後に事実と大きくかけ離れ、改ざんされた報道であった。戦争が終わってから国民がすべて騙されていたのがわかったのだが、後の祭りとはこのことであろうか。
現代の新聞もテレビも人のうわさ話と同じで、とんでもない偽りの情報が満載している。と私は今これらを鵜呑みにしないようにしているのだ。
前置きの話がながえーてばー。
堪忍、もうちょっとガマンしてけさぃ?(下さい)社会がそうであれば、おのずと子供の遊びもそれに染まる。子供は白紙だ。そして若い樹だ。汚してはならぬと思う。汚い色で書き込めば白い紙も見苦しくなり、また大事な若い芽を掻いてしまえば花も咲かず実もならぬことになる。
国家はそれを知っていながら政策をたてる。わが悪ガキ軍団もその戦法にすっかり乗った。
確か、爆弾三勇士なんて、勇ましい戦争美談もあったっけな。これもほとんどつくり話であった。
そのころ、落下傘の素材はたしか絹でできていると聞いていたが、この時代には絹は高級品、生産されたほとんどの生繭は諸外国に外貨獲得のためにほとんど輸出されていた。国内では一般には出回らず軍用、すなわち落下傘用になっていた。家業の商品で扱っている洋品の生地もすでにまともなものは消えていた。人絹、いまで言う人造絹糸のことでいわば化学繊維だ。間に合わせに碌なものがあろうか、すぐに擦り切れ破れる生地であった。スフと言うのもあった。これも同じだ。ガキたちは落下傘の現物は見たこともないわけで、どんな大きさなのかどんな造りになっているのか、皆目、見当もつかないのだ。大人の話や新聞や少年雑誌などの挿絵や写真からしかわからない。
万兆は「紙だったらすぐにぶっちゃけるがな?」商品の輸送用にハトロン紙や丈夫な渋紙などは今で言うリサイクルで幾度も用いるので大事に保管をされていた。それを持ち出し、大きな三角形に切りニカワで貼り風袋を造った。傘の化け物だ。
戦後、だいぶ後になってから知ったがこのあたりは、敵であるべき米国ではナイロンなる合成繊維がデュポン社で発明をされ驚異的な丈夫さと軽量さのこの素材を採用していた。負けるはずだ戦争でなくともだ。
悪ガキ万兆の造っている落下傘は紙でありそして、すこし大きめの唐傘のようなものであった。傘の部分はどれほどあれば、飛ぶ人間の体重を支え安全に地上に降りられるのか?などと言う、理論も計算もするわけではない。簡単な実験はオモチャとして売られている薄い透けて見えるような紙ハトロン紙で出来ているものでやっているだけである。人のぶら下がる部分に重量の変化をつけ傘の開き方や落下するスピード、などを観察する。これだけでなにが判ろうものか・・・?
紙は柿渋のひいた渋紙とよばれ、破れにくいものだが、すこし厚手のもので重量が増えるがこれを用いた。これは長年大事にもちいられ貴重品の部類になっていたものだ。渋紙は古くから広く用いられ、衣服から雨がっぱなどにもちいられた。接着剤にはわらびのりや蒟蒻のりがもちいられたが、この地方にはこれらの方法は伝承していない。正麩のりでは強度 が得られず貼っても直ぐに剥がれるのだ。ニカワがよい。正麩のりはでんぷん。ニカワは当時、豊富な馬の骨の髄(ずい)を使っている。ニカワのりの作り方は祖父から聞いた。祖父の栄一は若い時分から釣りが趣味で釣りざおまで作っていた。物資の不自由な時代にも色々な方法をあみ出して楽しんできたのである。ニカワは簡単にできる。茶色の細い棒になったものも売っているが馬肉を扱っている肉屋から骨を安い値で買ってくる。それを鍋でぐつぐつと煮込む。ニカワは骨の髄のたんぱく質でこれが強烈な接着材となる。ただこの煮るときに発生する我慢ならぬ悪臭には子供ながらに「おーえっ」と吐き気をもよする。そのニカワで渋紙を張り合わせた。紙を小撚りにした紙紐を沢山結び、ズボンのベルトに括りつけるように工夫をした。直径一間半(3メーター弱)のものができた。
子供は経験も無いし技術もない知識だってこの世に出てきてからの時間がすくないのでいたし方ない。まあ、大人だってそんなものよな?高々100年ほど生きたところで大した物も作れず、エラそーにしてる奴だってものも知らずに死んで逝く。すべて未熟のままである。そんな意味では成熟した人間などはおらぬ。「大人気ない」などと口にする奴こそ子供のままよな?所詮(しょせん・詮ずる所。つまるところ。結局)、人間なんて、子供のまま死んでしまうのだ。それが人間のいとおしいところかも知れぬがな。ちょっと仙人の口調になったかな.?は、は、は、は、許せ!。「出来た、出来たー」噂は大人ばかりか子供の間にも広がるのは速い。近所ばかりか遠い町内のガキ連中までが集まってきた。噂は知らぬ間に尾ひれがつき膨らんでいた。「直径が五間(一間約1.8メートル)もある落下傘を作ったらしい」「わも飛んでみてぃな」「おらもだ」どこの悪ガキも好奇心いっぱいで興味津々なのだ。自転車に括りつけて広場を走り回り落下傘の広がり具合を確かめているところへ上隣の町内の石松と言うガキ大将が5人の子分を引き連れてやって来た。「あら?すこしチイせぃなー」「これで大丈夫か?」万兆は、大丈夫かどうかわからないのでテスト中なのである。
「なにへってるけーわがるってが?」万兆は口のなかでふつぶつ。
「どら、わさ貸せ」どこの大将も親分も無理とスタンドプレーが好きだ。猿山も人間の社会もなーんも変わりない、同じだ。「梯子持ってこー」国民学校六年生の石松親分はエバリくさっていた。腰には真田紐を巻き、それに100本ほどの紙紐を結わえた。この銀行の裏の広場の両側に大きな倉庫がある。軒先は4メーターほどの高さがあり、身体の大きいものにとっては、地上からみる限りたいして高さを感じない。元気よく屋根に登ったガキ大将、庇の雪の滑り止めの金具にしがみついている。地上では子分どももほかの連中も凝視していのだ。カラ元気は誰にもあるが、見栄まで張ってしまえばこんなもの。見物人のガキが10人ほどであったものが20人にもなってしまった。「飛ぶぞー」「飛ぶぞー」「こんな筈ではなかった」高さがこんなにもあろうとは。これほどの高さは橋の欄干から新井田川に飛び込んで遊んでいるのでへいちゃらの筈であったが、硬い地面が相手では、やはり「おっかねー」よな。とうとう始まった。景気付けの軍歌が。♪ブンブン荒鷲ぶんと飛ぶぞー ♪「飛べ飛べたってとべるかぁ」口にはだせない。親分は口が裂けてもくちに出せないのだ。次は軍艦マーチの大合唱だ。♪守るもーはーねるもクロガネのー ♪あらあら、替え歌にして、「早く飛び降りろ」ということだ。隣の町内のガキ大将はすっかりすくんでしまった。軸がぬけたのだ。梯子を上っていくときはあんなに元気があったに、どうしたことか?。いまでは考えられぬが町内が違えば業種もガラリと異なった。子供でも日頃、力を要する仕事をさせられているものは腕力もあり身体も大きい。隣の町内のガキ連中はわんどより一回りも大きい。腕力では到底勝てない。漁業、農業、運送業が多い。泣きべそ半分の悪ガキの親分 石松。名が石だからさぞかし重かろうよ。だけど軽石ってのもあらぁね。飛ばなきゃ損損。飛んだ!いきなりとんだ。親分の威厳をかけてだ。本当は「カッコいい――」となるところだが物事、そーはいかぬのが常。どっしーん! にぶい音だ。飛んだのでなく落ちた。傘は開かず、ガサガサと後で落ちてきて頭にかぶって しまった。しーん。誰も言葉はない。落ちた石松親分は声もない。動かない。子分たちも駆け寄るわけでもなくただ傍観者になってしまった。勇気のある一人がすっぽりと頭にかぶっていた落下傘の紙をめくって見た。親分は白目をむいて鼻からはぶっとい二本の青洟があごの先までへばりついていた。「息してねーど」死んだか?「まーさか」「なーにナマコしてるのえ」なんて言ってる場合ではない。ナマコとはふざけて冗談をしている様を言う。落下のショックで失神してしまったのだ。やはり名の通り落下傘は落下したのだ。何の不思議もない。体重に比べ傘が小さく、また高さも十分でないことは、ふんわりと地上に降り立つことなど無理なお話なのだ。「おーい、いしーまつー」頬を叩いて背をさする。見よう見真似の柔道でよくやる「活」を入れる。背中に膝を当てて両肩を引くと肺が膨らみ空気がとり込める理屈だ。「ふーっ」呼吸が始まった。「あーよがった」皆安堵したが立ち上がれない。腰がぬけたのだ。幸いにここは草地になっていて土がいくらか柔らかだったのがよかった。尻には大きな痣ができてしまったが、命あってのもの種。1時間もしたら歩けるようになったので安心した。万兆「だしけぁ・へったべな・わがんねーてよ」石松親分はすっかり意気消沈、二十人の悪ガキたちの堤燈行列ならぬ、消沈行列となってしまった。後日の話では骨折もなく脳?の障害もなく平常の生活をしていた。(もしかして、このショックで正常に戻ったかも???)子分どもの話によれば、その後はエバルもせずにやさしく対等に遊んでくれるようになったとのこと。人間やはり時としてはショック療法も悪くないようではある。この悪ガキ大将の石松は、年齢を重ね後に市会議員を経て県会議員にまで登りつめる。そのような立場になっても、顔をあわせるとバツ悪そうに対応してくれる姿にはなにか人間の魅力を感じるのである。初心を忘れない。悪ガキのころの経験がちゃんと実をむすんだ良き一例であろう。
終(この話は事実をもとにした小説。実際の出来事や名称等異なりますのでご了承ください)

2009年1月9日金曜日

財政部は腐りきった。市税徴収は不適正3


パスコに委託した航空写真は官製談合であると具体例をとって説明してきた。
材料費の下に雑品とあり、これが何か?と問うたが資産税課は明確に答えない。一昨日記したのは材料費の下にあるため雑品の文字にとらわれ、これを物品と考えていたが、違う事に気付いた。材料費に2%をかけたが雑品の合計に合わない。
 そこで今一度計算してみると、これは人件費だ。人件費の2%増しを雑品として支払った。人は品物なのか?人件費に消費税は課されない。しかし、八戸市役所資産税課は何を血迷って人件費の2%増しを加算したのか。
 これは青森県土整備部発行の積算表をもとにして作成したと資産税課はいうだろうが、かれらはこの2%加算を説明できない。つまり彼らの知恵でないところで、この設計書(業者に幾ら支払うべきかを市側で独自計算する根拠)は作成され、八戸市はその独自計算を業者から受け取り、あたかも市役所が積算したように装ったのだ。
 この手の業者を一社に絞り随意契約をしたもののほとんどが官製談合になっている。これは市役所職員が不勉強であるのと同時に、業者依存度が高く、そのため業者に摺り寄ったことにある。市役所の人事は猫の目であっちをみたりこっちをで、席が暖まらない。ようよう覚え仕事が出来るようになった時移動じゃ、知識の集積が役立たない。
 そのため仕事が欲しくて摺り寄る業者と癒着することになる。人件費の2%が雑品であることを資産税課長に証明させてみよう。

2009年1月8日木曜日

残業命令簿は後日作成、命令権者の認識ゼロ


八戸市役所の残業代が年間三億円、本来ならこの残業をする際、本日は●●の件を何日までに処理をしなければならず、日常業務では処理が不可能のため残業を許可して欲しいと担当課長に要請。それが妥当だとなれば残業命令が出る。
 ところがこれが事後報告、それに課長がウンウンとメクラ判を押す。その証拠がある。八戸市役所に互助会があるのを諸君はご存知。この互助会は八戸市職員の会で八戸市民のための仕事をする所ではない。
 この管理をしているのが人事課、ここに市税から毎年千万円程度が支払われている。市長が互助会長だったが、さすがにまずいと思って昨年互助会長は西副市長に代わった。
 ところが、この互助会の仕事をするために残業をした。互助会は職員のためで市民が願う仕事ではない。この残業は違法だ。これが事前に命令権者に相談があれば、これはマズイ、外の仕事をしたことにしろと唆(そそのか)したに違いない。ところがこれだ。命令権者の各課長は心してかからなければならない。ところが自責の念がないからヘイヘイだ。いつものことをいtも通りにすれば討たれることもある。これは正しいことなのかと絶えず省みることが肝要。
 世の中が変わり、市民も行政に対し不審を抱けば、法が定めた情報公開の制度がある。たかが情報公開、されど情報公開だ。記された数字、文言に何が隠されているかを見通す能力がなければ文字の羅列でしかないが、 「はちのへ今昔」にはウインクする文字、数字が書類に踊る。人間の能力を甘く見るべきではない。内部告発も立派な証拠。だが、それを待たずとも摘発の仕事は出来るのサ。

2009年1月7日水曜日

財政部は腐りきった。市税徴収は不適正2

昨日に続き飛行機を飛ばす発注書であるところの業務委託の明細を見ていく。
 前の航空写真に家があり今回の航空写真には家がない。このことを判断し、異常を示すようにパスコに依頼していないというのが資産税課の主張。すると、何を頼んだの?の疑問発生。
 支援システムに新築データーは追加し、滅失は削除してもらい、航空写真はその証拠のための記念撮影。すると、気分を確かにするために一億三千万も注ぎ込むのか?
 自分たちが足で確認して歩けばいいものを、航空写真でそれをしているから地方税法408条に違反していないと主張。ところが現実問題として航空写真はそれを補完していない。
 つまり、八戸市は地方税法408条違反をしているのだ。このことを「はちのへ今昔」に書かれ中村市長は落選、今年も選挙の年、小林市長はどうするのか。部下を庇うか、それとも独自色を出すか。
 さて、この航空写真委託がいい加減である証拠を見せる。電算処理出力とある。この金額が三百五十万円、これは何の役に立つのか? 資産税課職員諸君はこれを発注したが、成果品としてこれを確認したのか?
○ 見たことがありません、成果品として要求していません。
電算処理は当然するだろう、それを出力したというのは紙に印字したことではないのか? 何かの役に立つからしたのだろう。それは何の役に立つのか? 市民の税金を無駄にしていないのか?
答はない。何の役に立つかも分からず前任者がしたことを踏襲しただけなのだ。あるいはパスコにこれを作成させ、自分が作成したように装っているのだ。後者はこれを官製談合と呼び事件になり関係者は処罰される。
 役に立つか立たぬか分からぬ仕事を発注し、それに三百五十万も出すのは何か? 重要な根幹をなす仕事なのだろう。
 それを資産税課が知らずに発注するはずもない。つまり、この発注書は資産税課が知らない所で作成されたものに間違いない。それをいかにも八戸市が作成したと装うところに問題の深さがある。
 更に続けて検証する。明細書だ。ここには技師、技師補、助手の人件費54万が見込まれている。問題はその下欄だ。
 材料費として、マイクロフィルム40500
        印画紙   1800000
        薬品処理   360000
        B4判カメラ   4472
        引き伸し機   49920
        雑品      10911
印画紙は富士フィルムの品を近江材料社(東京の大手写真機材料問屋)から購入することで見積もりを取ったのか? 雑品は何を指すのか?
回答はない。つまり、この発注書はパスコが作成したものに間違いないということを黙っている行為で主張しているのだ。
 八戸市役所だけが官製談合をしたのではない。全国何処でも同様な行為がなされているが、黙して語らずなのだ。
 すると前市長は土建業者から談合だとして損害金をふんだくった行為はどうするのか。
 自分たちが人が知らない所でかくも汚い手口でパスコに発注し、その見返りを得ていないかいるかは知らぬが、何で一業者の言いなりにならなければならないのか。やましいところが全くなければ堂々と反論してみるがいい。