2009年2月28日土曜日

吉田契造翁の直言 小倉要一

昔の八戸漁業を明治時代に近代的なものにした人は何と言っても長谷川藤次郎氏であった。そして神田重雄、吉田契造の両氏がこれをつぎ、明治時代の基礎を築いた。魚問屋に生を受け一生を漁業に捧げ、その間幾多の失敗を重ね、水産会長として満州国まで進出し幾多の実績を上げた。吉田翁こそ現在生きておられる唯一の功労者であり先覚者である。現在、湊大沢の部落に加工業を営みながら静かにその余生を送っている翁を幾度か訪ね、持ち前の毒舌と慧眼な見通しと批判を聞いて私は八十七才とは思えぬ若さと情熱に打たれることたびたびであった。
ここに翁の批判の二、三を紹介する。
水産加工について
熊谷義雄氏が翁を訪ねたとき。
加工業は大企業ならともかく五十人や百人の従業員しかいないときは、社長自ら監督しなければ成り立たないものだ。いろいろな事業に手を出せば全部うまくはいかなくなる。一つ二つは潰れるのは当然だ。加工業はそのようにいろいろな問題がある。
昔は八戸では第一次産業だけを行えといったことがある。それは第二次産業は大きな資本を要するからだ。資本が大きくないと第二次産業は潰れてしまう。しかし、大きな資本を要しても、今は第二次産業を行う時だと言っている。あるとき、武和の主人が「かまぼこ、ちくわの材料となる魚を中央の人は八戸の業者より高く買い、加工して八戸のものより安く売る」と言ったが、中央では製造工賃が安いのは勿論、その販売網が完備しているので売り上げが良好なためである。
 鯨の缶詰でもマルハや日水は一般の人がドンドン買うが、一緒に八戸の缶詰を並べてもほとんど売れない。やはり、宣伝が不足している。八戸の魚加工業者は輸出より中央の製品を防ぐことが第一で、それをいくらかでもふせげれば上々。昔神田君が支那と貿易したいと言ってきたが、「君が本当にその気なら犬馬の労をとるが難しい問題だからよく考えろ」と言った。理由は注文がきても地元では在庫分しか応じられない。大坂や東京なら在庫がなくてもどんな大量注文にも応じられる。それは彼らは地方の問屋との連絡がとれているため、どんな大量注文でも期日に揃えられる。それには大資本が必要だが、八戸にはそれを用意できる人がいない。在庫を増やせば更に金が必要。
中央は情報が早いので有利な取引ができる。田舎にはうまい話は少ない。これは青森市と八戸市でも言える。青森は県都であり八戸より早耳である。材料は八戸の魚だから他の土地のチクワに負けぬ出来るはずだと始めた。出来上がったものは良心的な立派なものだったが、地元では売れなかった。むしろ粗製の安い物のほうが売れた。そこで中央に出そうとしたが、少量では取引対象にならず貨車一台分を焼かなければならない。しかし、その設備を持つほど資本がない。青森の沼田製が一本二銭、私(吉田翁)のが一本一銭八厘で品質では私の方が良質だと思うが、沼田製の方が良く売れた。やはり名前が物を言った。その後、白魚の缶詰を作るため秋田の業者がきた。八戸の白魚を八戸で缶詰にし、秋田のレッテルを貼り中央に出した。中央の下請けをする八戸製の缶詰も中央の業者レッテルで売ると良く売れるのは不思議だ。加工品の将来は困難那問題が沢山ある。故に大資本を擁して行わなければ対抗できない。小資本で出来るのは「するめ作り」くらいしかない。しかし将来発展性はある。
輸出について
満州国博覧会に知事代理で出席したとき、輸出方法を研究するためいろいろな人に会って意見を聞き、自らクーリーの部落を訪ね報告書を書いた。
「満州人は水産物と果物を好む。なるべく良くて高い物を売り込めば輸出は良い」
前に夏堀君が満州を視察した報告書では「満州人は生活程度が低いのでなるべく安い物を輸出すると良い」と反対の報告をした。夏堀君は表面だけ見て常識的に考えたのだろうが、私は業者として買う人と話したので私の意見が当を得ていると思う。上海総領事の村井氏も私の意見を支持してくれた。
シナのクーリーは一日の賃金が十五銭から二十銭。二銭の栗のかゆを食べている。炭坑夫でも三十銭、一枚一円の「するめ」は三日も飯が食えない値段だ。安いイカが一枚一円にもなるのは関税、船賃、梱包などの経費のため。日本で安くても外国では高くなる。外国製品を買えるのは中国の金持ちだけ。中国の金持ちはケタはずれの裕福で、どんなに高い物でも買える。彼らが好むものは「なまこ」「あわび」「かに」等で、これら高級品を送れば売れる。だから高い物を売れというのだ。
今後輸出するにしても、中央とは競争できない。産地で作った「コンブ」の方が大阪のコンブ(大阪は産地ではない)よりより外国へ出すと安くて品質も良いとなる。だから、最高級品を作るか大商社と連携するかしかない。
役人について
八戸の水産界が今日まで発展したのは水産業者が行政をしたからであり、陸奥湾業者が衰微したのは県の役人が水産業を指導したからだ。役人はいまでこそ四年は勤めるようになったが、昔は一年か二年で移動した。だから県の役人に県民性や漁業がわかるはずがない。そんな役人が行政をするのだから衰微する。県民性も知らずに水産経済策をたてられるか。それをたててくれと言う方が無理だ。援助をしてくれというのが正しい。策をたてるのは我々県民だ。それを援助し実施するのが県の仕事だ。
県庁の役人が我々を指導すると言ったとき「我々は御免こうむる。貴方たちは漁業で生きるのではなく給料で生きている。その知識は本で学び、耳で聞いたもので、汗水垂らして体で覚えたものではない」と断った。
役人は当面の問題を上手に処理できればいい。その能力があるかないかが良い役人かダメ役人かである。表面だけしか撫でていない。百年の計など建てられるはずもない。
役人は宴会が好きだ。料理屋に出入りすることで県の情勢がわかるのか。視察と言って役人や議員がたくさんの県民の税金を使って旅行するが、四、五日その地でご馳走になっただけで、実状などわかるはずもない。そんなのはパンフレットや文書、資料を送付してもらえばわかる。県民の税金をそんなものに使わず水産界の補助金にするべき。
役人はよく威張ると言う。それは長年勤務し位が上がっただけで、本人が偉くなったのではない。頭やナリが良くなったから偉いと勝手に思いこむが、本当に偉いのは心の良い人だ。
漁法について
昔から漁業をみていると、魚は次第に散って利口になっていく。昔、鯨も群をなして前沖を泳いでいたが、今は鯨どころか姿もみえない。鰹も鮪も同じである。利口になって網にもかからなくなった。イワシのごとき小さい魚を除いて、網での漁業は次第に姿を消すだろう。最後に残るのは釣り。はえなわでも一本釣りでも魚をうまく騙す漁業が勝ちとなる。それにはもっと研究をしなければならない。しかし先覚者はその時代には受け入れられないものだ。後になって判るものだ。故に水産会長は全部没落した。長谷川さん、神田さん、中村栄吉さん、そしてこの私(吉田翁)だ。正しくないことをした連中は財をなし威張っているが、これらの人もやがては没落する。本家が没落し分家が栄え、やがて本家のようになって没落する。これが漁業界の姿だ。そこに世の中のおもしろさがある。いつも本家だけが栄えるのではなく、正しいものが栄えるのでもない。それだけなら面白くもおかしくもない。変化があるからこそ面白いのだ。
現在の八戸漁業界を見ると、市場問題にせよ、イカ釣りの問題にせよ、神田さんのような人をまとめる人格者がいないのが欠点だ。「熊谷は偉い男だが才たけて徳足らず」だし、秋山皐二郎は人は良いが中央に出ていき、他を押し出す迫力と貫禄が足りない。熊谷君は最近だいぶ考えているようだが、「儲けるために政治に出るのは間違いだ、私財を県民のために捨てる気持ちでなければダメだ」と言ってやった。
八戸沖は昔から魚の通過駅で停車駅ではないと言われている。日本海よりの魚、南へ下る魚、北海より南下する魚全てがここ八戸沖を通っている。そのために八戸はこれら通過点の近いか遠いかによって漁、不漁が変わり、この魚をうまく補足するのが漁業の眼目であった。その反面、定置の底魚、鯖、イワシ等定遊魚は、八戸沖はあまり適していない。沿岸漁業はよほど資源の保護をしないと根絶するおそれがある。将来は沖合を通る魚を大規模に調査し、これを捕らえる方向に変わるだろう。

2009年2月27日金曜日

司馬遼太郎の安藤昌益

司馬遼太郎が考えたこと(新潮社刊)11に次の文あり。あとがき(『菜の花の坤四』)
 昭和四十二、三年ごろ、青森県の太平洋岸の古い港まちである八戸市に行ったとき、ある宿をたずねた。宿の主人は古い時代の慶応の出で、太変博識のひとだったが、昆布の主たる目的がだしをとることであるというごく当然なことをご存じなくて、昆布なんてものは仕様がないもんだ、と罵りつつ、
 「京・大阪の人間は、なぜあんなものをたべるのかね」
 と、小気味いい口調でいわれた。
 日本は存外広大なものらしく、昆布でだしをとるという慣習は、大坂湾から蝦夷地へゆく北前船の往来航路である日本海岸では、おなじ東北地方でも、秋田、酒田、鶴岡などにおいてふるくから定着していたが、太平洋岸の八戸ではその慣習と縁が薄かったようでもあり、目をみはるおもいがした。
 江戸と八戸をむすぷ太平洋航路は元禄時代からである。八戸では、当時、前の海で多少の昆布が採れてはいつつも、昆布をだしにするという利用法は、日本海沿岸のようには定着しなかったということになる。
 八戸は、元禄以前は孤立した漁港(鮫村)で、広域商品経済のなかにわずかしか参加していなかった。いわば貨幣経済の処女地にちかかったために、太平洋航路がひらかれるとともに、八戸頒の農民に深刻な不幸がおこった。
 当時、古着は古手とよばれ、京の女たちがきているものを、大坂の古手問屋があつめて、全国にくばっていた。この業種の商人には、近江人が多かった。江戸にもかれらの支店ができていたが、元禄期、太平洋航路がひらかれるとともに、その商人たちが海路八戸に入り、八戸藩の御家中や富裕層の婦人に売りつけた。かれらはたちまち産をなし、高利貸資本兼地主になった。貨幣―商品―経済は緩慢にやってくれば社会的な体力は順応できるのだが、急速だと住民を凄惨な状態にたたきおとしてしまう。かれらは田畑を抵当にして金を借り、やがて流してしまい、高利貸・地主の小作になってしまうのである。
 藩はこの急変した社会の症状に施すべきどういう処置も講ぜず、かえって高利貸兼地主の上に乗っかり、かれらから税金をとることによって財政を運営した。藩と高利貸兼地主が一体となって、農民をいよいよ零落させたことになる。水田をうしなったひとびとは、山を焼くしかなかった。焼いてそばをうえ、一定の連作をへて、またつぎの山に移ってゆく。かつて自分のものであった山も、地主のものになっていたために、地主のゆるしを得ねばならない。稲作民が、古代の焼畑農業にまで退化せざるをえなかったのである。
 このような現象は、八戸への太平洋航路が成立してからほんの数十年のあいだにおこった。八戸の経済が他に類をみないほどに純粋な農業段階にあったところへ、貨幣経済が突然襲来し、かつそのにない手が、複式簿記に似たものさえもつといわれた近江商人であったために、八戸農民の伝統基盤が洪水のように押し流された。この間の社会の変動現象を見ていたのが、安藤昌益(一七〇三~六二)であった。
 昌益は、孔子など聖人や君子は道を盗む大泥棒であるとし、大名も士族も盗人であり、農民がじかに耕してたれも支配者をもたない社会を理想社会(自然世)であるとした。かれは、大工や船大工など手工業の徒を否定した。無益の家をつくったり、大船を作って万国の珍物を集めたりすることは人の世の費えを多くするもので、大乱のもとをなすものであるとし、商人にいたってはみずから耕すことなく、美衣美食し、互いに他をたぶらかすものであるとした。すべて当時の八戸において、現前になまなましく見ることができる病的現象であり、観察者に昌益のような鋭敏な感受性と憤りさえあれば、十分に納得させる考え方だった。しかし昌益が、緩慢に近世社会ができあがって行った瀬戸内海沿岸にうまれたなら、べつな思想を形成させたにちかいない。
 昌益に従ってよくよく考えてゆくと、昆布などは無用のものである。北海の海底でできるこの海藻を、わざわざ採取し、大船にのせてはるかな上方の地に運んで、たかが汁や惣菜、科理のだしにするなど、世の費えもはなはだしいことであり、大乱のもとになるものだともいえる。
 いまでも、京阪神のうどんやさんでは、北海道の利尻か羅臼の昆布をだしにつかう。どちらの味が濃いのかわすれたが、濃いほうを大阪のうどんやがつかい、淡泊なほうを京都のうどんやがつかう。昌益の自然世の流儀ならうどんのなまの玉に海水でもぶっかけて食うべきで、できれば陶磁器の容器も用いてはならない。陶磁器は、江戸期、瀬戸から四方へ運ばれるものと、唐津から運ばれるものなどがあり、水瓶など大型のものは、越前や備前窯場からほうぼうに運ばれたりした。職人、薪とり、土とり、商人あるいは船乗りなど無数の人間が、それらの容器を需要者にとどけるのである。
 このような人と商品の動きは、世の中を、元来ひとびとがそこで自給自足してきた村落のレベルからはるかに広域なものにしてしまう。それらは社会の仕組みを複雑にし、結局は昌益のいうところの大乱をまねくもとになるのかもしれない。しかしそれでも昌益先生に従っていれば、私情でいうと、私は散歩の途中、うどんを食う楽しみをうしなう。強いてうどんを食えば、それだけで天下に大乱をひきおこしてしまうことになる。人の世というものをどう見るかということは、まことにむずかしい。

スーパーバッグはまだ配布されている


青森県内スーパーは二月二日からレジでのスーパーバッグ配布をやめた。ところがまだ無料配布してくれる親切な店がある。
 ホーマック、長崎屋、八百屋のやまむら、最後になんといっても安くて親切なハッピードラッグ。でかけた途中で買い物すると買い物袋がないのに気付く。そうしたとき便利なのがハッピードラッグ。肉・野菜はないがだいたいはOK。冷凍食品は年中半額。イトーヨーカドーほどの品揃えは望めないが、まあまあ。特筆は毎月曜日は全商品7%引き。このため、これを狙う客で日頃はガラガラの駐車場も満杯になるほど。レジ袋の心配もないのでいつでもどうぞだ。
 生協はバッグをくれないので、先にホーマックでの買い物をすすめる。それから生協に行くのさ。小中野のボーリング場に商店街ができた。ワイズが倒産して出来た空き店舗がにわか商店街だ。ここにやまむら八百屋が出た。八戸はユニバースの野菜が馬鹿高い。八百屋の出る素地があった。そこで、この八百屋が店舗を増やす。値段は安い。商品は見劣りしない。レジ袋もくれるでなかなか健闘。
 「はちのへ今昔」はユニバースから足は遠のき、長崎屋、ハッピードラッグ、やまむらに足しげく出るようになった。ユニバース一辺倒だった動きに変化が出て、春の模様も次第に感ぜられる今、読者諸兄も日常行動を見直してみたらいかがか。
 こころなしか宙にかかる宵の明星も、手鏡が反射するような水色の光をまたたかせる。そんな春の兆しが確かな足取りで近づいている。

2009年2月26日木曜日

どこか奇怪な東北電力3


八戸市に東北電力が届けた電柱の数は13285。これに対して街路灯の付いている数が二万一千。これに不審があると食いついている。
 東北電力は「はちのへ今昔」には見せないと言明した八戸市と東北電力の契約書は存在しない模様。八戸市役所は東北電力との契約書を亡失、しかし、東北電力は通電している以上、その契約書を持たねばならぬが、これも亡くした。そこで、唯一存在する街路灯設置の図面、これが二万一千あるという。
 それでは、それを貸せと市役所が申し入れ、少しずつ東北電力が市役所に運んでいるのか、市役所が取りに行っているのか判らぬが、市役所はそれをコピー開始。そして、その図面にある電柱が東北電力の言うとおりの本数かを確認する。これには五月末までかかるとヨ。
 市役所が持っている収税のための電柱本数の明細が出たので掲示する。
 総体に東北電力はズルい体質で、監視しないと平気で間違いを犯す奴バラよ。市役所のいい加減な体質を見抜いているから、街路灯使用量のメーターのないことを奇貨(きか・珍しい財貨。転じて、利用すれば意外の利を得る見込みのある物事や機会)としているのではないかと「はちのへ今昔」は見ているのだ。きゃつらの汚い手口は散々見てきた経験から物言いをしている。
 「はちのへ今昔」に噛まれた東北電力の人々も皆定年サ。若い衆が入社しても気風、社風は大きく変化しない。まして、今は往時より悪くなったように感ずる。年間一億二千万円も街路灯から貰っている東北電力は、もっと積極的に事態の解明を図るが正論。
 何か理由があるのだろうテ。

2009年2月25日水曜日

市長たるものの心構え

司馬遼太郎が考えたこと(新潮社刊)11に次の文あり。現在の日本の汚職というのは構造化しています。役人や代議士、あるいは市会議員や県会議員までもがアジア化(シナの役人・賄賂制)しているようです。
 公共の十水事業における談合などが問題になっていますが、江戸時代の土木というのは、宝暦の木曽川の冶水工事は江戸幕府が薩摩藩にただでやらせたものでした。薩摩藩をほとんど疲弊さすまでにやらせたわけでしょう。薩摩藩は、自領と何の関係もない濃尾平野の治水をして、伊勢までにいたる三百余カ村をうるおすことになります。費用は全額薩摩藩負担で、予算は二十万両ほどでした。それが結果としては四十万両になり、藩に損害をかけたというので、総奉行平田靫負以下五十一人の藩士が工事がおわってから現場で切腹します。これが、江戸期の役人道でしたし、土木工事でした。

 明治になると、徳川慶喜はいっさいの什器、宝物、兵器を置いたまま風呂敷包み一つで実家の水戸へ帰ってゆく。そのあとに天皇がお入りになった。でも徳川家の財産を相続したという考えは、だれも持ちません。要するに.百姓を搾った金で出来あがったわけですから、江戸城もそうやって交替しました。
 小さなお城はどうなんでしょうか。松山城などは、もともとは秀吉の部将の加藤嘉明が一所懸命につくった名城です。市街地のちょっとした丘の上にあります。石を運んだりいろいろやるのは、全部侍だったんです。もちろん百姓もやりましたが、侍がモッコを担いだんです。
それは高知城もそうでした。山内家が高知に入って、高知城を興すときも、百々越前という設計の上手な人が雇われて設計をやり、山内家は身分の上下なしにモッコを担いだ。松山城の場合、城主嘉明の奥さんが景気づけのために路上で握り飯をつくって働いている者にふるまったそうです。
築城ばかりではない。一旦緩急あればと読み代えよ。
市長たるもの、その女房は部下を動かすためには汗を出し身銭を切れと教えているゾ。

市役所前かがり火えんぶりに十一万七千人

八戸は夏の祭り、冬の祭りの二つを持つまれな土地。それが総合力の源だというのが小林市長の持論。観光は総合力だと言われる。まさに至言。この観光に力を注ぐのが観光課、そして観光協会、この体質も大分改善されつつある。市役所べったりから独歩せんとの努力の跡あり。今一歩か。
平成七年から市役所前広場でかがり火えんぶりが実施され多くの人々を集め、これを楽しみにする市民も多い。旧暦の大寒に開かれるから、くそ寒い。それでもめげずに張り切る観光課職員。あちらこちらに無線機を持ち案内からかがり火への薪の補充指示とこうした努力があるから、吐く息を白くしながらえんぶりを楽しむことができる。
 郷土芸能のえんぶり、今年も生きて祭囃子を聞いた。海音寺潮五郎がこんなことを言っている。もう命の財布に大きな札は残ってなく、小銭ばかりだ、と、若い衆には判らぬことだが、頭に白髪を積む頃ともなれば、上手いことを言うなと感心。
さて、諸君は恵比寿舞の子どもが何か言いながら踊っているが、その文句をご存知か。あれは、「一番の春にはえんぶだごうの金を吊り上げて、二番の春には金銀の鯛をどっさりと釣り上げて、三番の春には竜宮様のお姫様を釣り上げて、ここの若旦那とご夫婦なして、円満長者と栄えるように、なにをともお恵比寿だ、お恵比寿舞とも囃せやい」と言っているのだが、文句なんかなくても舞の面白さと鯛を釣り上げるかな? アラ、落としたの黒子とのやりとりの妙にある。舞台だと黒子が見えないが、この呼吸を見ずにえんぶりが素晴らしいとは言えない。
えんこえんこも可愛いが誰が何と言っても恵比寿舞が一番だ。カチャカチャ、ドンドンとえんぶり囃子が遠くから練って来る。立て付けの悪いガラス戸を開けて頭から手拭で頬かぶりしたイサバのかっちゃが前掛けで手をぬぐいながら出てくる。これで寒い冬も終るなと、八戸人はえんぶりを心待ちにするのサ。
金襴の衣装を着た子ども、どんぶく(綿入れ)を着てふっくらした子ども、どれをとってもいじらしい。鼻に白の一本筋は子馬を思わせる。皆が練習の成果を見せるが、やはり中居林のえんぶりが素晴らしい。頭取がしっかりしているから舞が崩れていない。子供たちが厳しく親方から仕込まれているから礼儀が正しい。目頭が熱くなる。塵一つ、わらぐつの藁しべ一本かがり火えんぶりの控え室に残さない。そして出番ともなれば大きな仕種を見せ、観客の拍手を誘う。いやあ、八戸は素晴らしい所でやんす。伝統を支えるんだの意識が市民に横溢している。
ところで、二枚の写真が薄暗くないのに気付いたかい? これは観客動員数に気を良くした業者連中が早くからもやるべと欲をだして4時から始めた。ところが暗くないので折角のかがり火も昼行灯さながらだ。
ものにはほどがある。美味い物を食うには熱いものは熱いうち、冷たいものは素早く食えの鉄則。虻蜂取らずにならぬようご用心ご用心。それにしてもステージ付近をウロウロしながら観客と握手をしていたカラオケの姉ちゃんに声に張りがあり、なかなかやるなと感心。昔のように「はちのへ今昔」がテレビ番組を持っていたなら出演の声をかける所、八戸も広い広い。やる気のある連中をどう方向付けるかが課題なのだろう。

2009年2月24日火曜日

要支援者のリストを持ちながら動けなかった消防


世の中の仕組みというものは実に奇妙なところあり。袖に手を突っ込み机の上の物を左右にするのも部下に命ずるのがシナの官吏。
 役人は人民を管理するため自分の都合の良いように書式を決めて、それに合致しなければ受け取らない。そしてそれを元に処遇を決定。ここまでは役人の役人たるところ。しかし、その作成した書類が生かされればいいが、机の中にしまいこまれる、あるいは床の上に投げておかれれば役にはたたない。これを八戸市役所の港湾河川課でみた。前課長のときだ。小泉総理の時代、水辺の楽校に来る生徒たちに無料貸しボートをしようと、水に舟を落とす斜路をつけてくれるように申請書を出したが、それを国土交通省に出さずにひねり潰して、机の引き出しにブチこんだ。そして時間ばかりが経過し、小泉総理に直訴するも、時間がないのでダメと断られた。小泉総理とは旧知の仲で、こうしたことを頼めた訳。
 かくほど左様に役人は意地が悪い奴が多い。それをおだてて揉み手をしながら頭を低くして愛想笑いをしながら頼めば事は成就するのだろうが、こちとらは出来が悪く人間が下劣に出来ているから、それが出来ない。ために方々でぶつかる、それを楽しんでいる部分もあるのだが、ともかく市役所を含めてアンチ「はちのへ今昔」ばかりだ。
 人から悪人だの嫌な奴だと罵られるようにならなければ存在価値すら危うい。もともとやっと立っているようなものサ、死ぬ前にやるだけやるのヨ。いい人だ、素晴らしい人だなんていわれるのは仏様だけだヨ。こちとらもともとそんな殊勝な気(け)もない。
 さて、何で消防が動けなかったかというと、3600人の要支援者のリストを平成18年度に健康政策課から渡されたとき、「これは参考です」と縛りがあったという。
 消防は動いてくれと言われれば動く、が、命令、指令がないのに動けないというのサ。これも判ったようで判らない。消防は1月1日に水道企業団に幹部が顔を出し、何かあったら連絡をせよと退いた。
 水道企業団は要支援者がいるとは知らない。だから、水の供給を依頼はできない。
① 消防長がこれに気付けばいいが気付かない。
② 防災室にもリストは廻っていたのでこれも気付かない。
③ 健康政策課は3日まで出てこない。自分たちわずかな人数で11件給水した。
なんでこんな愚かなことになったのか、当時の「参考です」と言った課長に責任があるのか、その名をヤマダ・ミノル、部長を川井一輝という。「はちのへ今昔」から逃げ回った市長交際費の着服事件の時、秘書課長を勤めた人物。これが天下りで「八戸社会福祉協議会」の専務理事を勤めている。どうも、この男の不手際が方々に影響している。いまでもそうだ。
 失敗は失敗で、それを改めればそれでいい。点の事故、事件ならそれを修復すれば済むが、面の事件、事故の場合は役人だけではドモコモならん。そこで小林市長が考えたのが協働の町づくり。町内会長を通じ、これを動かすと考えた。
 そこで公民館を通じた地域担当職員を配備。その数37。断水発生し町内会に連絡をせんとするも、登庁しているわずかな人間では手が廻らず急遽、この37名を集めろの指図。慌ててこれらに連絡するも出たのは22名。後はシカト(花札の紅葉の札の鹿がうしろを向き知らん顔しているように見えることからという・ 相手を無視すること)だ。しか(確)と左様か、イエス。これらが手分けして町内会長に連絡したのサ。
 では、その他は何でこれなかったのか?と係長に問うと、●これらの人は非常用ではないという。では、一斉に町内会長に伝達する他の方法は?と問うと、●ありません。
すると、これらに願う以外にはなかろうと更に問うと、●これらの人は各課の仕事をしますので、広報調整課には出ませんという。
 あのな、災害というのは役所が開いている午前八時十五分から午後五時十五分に来るのじゃない。その時間に来るなら貴君の言うのも正しい。が、小林市長は面の戦いの時は町内会を頼めというのだ。まして、今回の断水は正月の休みに来たゾ。だからこそ地域担当職員を願ったのではないのか?
 この係長はいいわけ大将で、夕焼け大将のような奴。つべこべ言いまくる。前は議会事務局に居た。そのときも凹まされたことを根に持つタイプで、四の五の言いまくった。若いだけに、こうした言葉尻を気にするタイプはノイローゼになりやすい。気をつけろヨ。体あっての仕事だ。些細なことは捨てるのサ、大を取って小を捨てろが八戸市役所の鉄則だ。教えてもらってないのかネ。
 すると非常時にこの37名の緊急連絡網、つまり携帯電話を駆使する方法はあるのか?●緊急時にこの37名を使うかどうかが決まっていないので番号を調べていない。
 アアいえばこう言うで、オーム真理教のジョウユウの様。今回連絡が出来なかったを反省材料にしようともしない。これでは改善にならない。
 先ずもって緊急時の配備材料である連絡網ぐらい整備するべき。さて、これらの人間はほっとするメールに全員加入しているのか?●調べていないので判らない。
こんな奴バラと話をしながら「はちのへ今昔」は市役所を市民のために動かす努力を日夜続けているのです。誰に頼まれたわけでもないのにゴクロウサン。

2009年2月23日月曜日

小倉要一氏八戸鉄鋼界の話

造機業の発達
帆船時代から発動機船時代になって、ガスエンジン、モンタ式エンジン、焼玉エンジン、ディーゼルエンジンと五十数年の間に急速な変化をした。これらのエンジンは全部、東京、名古屋、大阪方面より売り込まれたもので、八戸で独自な発展をしたものはなかった。で、あるから、この頃でエンジンの構造、機能の進歩を書くことは意味のないことである。従って主に、工場の変転を主として現在の造機界の姿になった過程をさぐることになる。而しガスエンジン、モンタ式エンジンについてはこれを知らない人が多いかも知れないので始めに紹介しておきたい。
明治三六年頃、神田重雄氏が千葉県九十九里浜より発動機をもってきたことを知っている人は少ない。多くの人が知っているのは明治四一年ごろ、鰹船に入った発動機のことである。その当時の人はこのエンジンをガスエンジンと呼んだ。その現物が残っていないので、その構造、機能を正確に つかめないが、この機関を一番多く扱った牛田雄也氏より、その概況を聞いたら、つぎの如くであった。まずガス発生炉で木炭ガスを作成する。図の如き発生機に木炭を入れ、手回しハンドルを回し、ブロアーから空気を送って木炭を加熱する。木炭ガスが出ると機関に導く。主機関は電気点火式機関でバッテリーを電源としてスパークを出し爆発させる。この電着の構造は実に幼稚なもので圧縮もれが多くなかなかかからなかった。当時のエンジンはこの方式に限らず次々に現れた焼玉エンジンに至るまで、「補助カム」を使用していた。この補助カムは足で踏むとシリンダー内の圧縮空気が(ガスが)もれて減圧される仕組みになっており、始動の初めにはカムを踏んでクランクを回し、勢いがついたらこれを離すと本式にガスが圧縮されて着火し爆発がおこり力強く回ることになる。けれど、この機関には幾多の欠陥があったので、モンタ式がちょっと出て、焼玉機関が出るに及んで一気に廃棄された。この機関の製作所は名古屋の上野鉄工所のが多く、名前は「大阪ラム式電気着火エンジン」と名づけられた。八戸では神田氏、槻末商店、熊谷氏が使用した。宮古以南では木下鉄工所のガスエンジンが多く入っていたという。
古川鉄工所の古川寅蔵氏は、このエンジンを一度修理した思い出をこう物語っている。
「各地を旅行し据え付け、運転等をしていた古川氏が体験を得て八戸に帰宅(北横町弥生座のところ)したとき、浜でそのエンジンを取り付けた船が調子が悪い、一時間も続けて回らないと、皆で首をひねっていた。牛田氏もおられるので出る幕ではないと家にいたところ、その船の船主が古川氏をみつけ、知っている人だったので見てくれるように頼まれた。今晩東京に発つので切符も買ってあるので駄目だと断ると、どうしてもと頼まれ、原因だけでも調べようということになった。船に行ってみると、潤滑油が滴下式であり、軸受けには溝も何もないので、これでは焼きついてしまう。まず、メタルに溝を掘ること、そして、そのメタルに油が行くように穴をあけ、ポンプで油を送るようにする、と申し上げた。又点火時期がおかしいので調べると大分狂っているので、これを調整した。こんなことをしているうちに列車に間に合わなくなり、一日延期し、翌日全部加工してエンジンを回すと調子がいい。船主に多分良いと思うが、湊を出て鮫に行って沖を走ってこい、と言いつけて船の帰るのを待ったがいつまで待っても帰ってこない。止まったかと心配して聞いてみると鮫に入って荷を積んで南の方に向かったといった。性のない奴だと思いそのまま東京に行ったがあとで聞いてみると、そのまま久慈まで走って何の異常もなかったということだった。八戸の工場の人々は理論をあまりやらず、又他所を見ていないのでわからなかったのだとおもう」
この機関は大正五年頃には頃にはすっかり姿を消し、木炭の多い田舎で時折利用される運命となった。
この次に出たのが「カカン式着火式(またはモンタ式)石油発動機であった。この発動機は焼玉発動機の前身ともいうものであったが、大正三、四年頃二、三台入荷したのみで、誰も実用には使用しなかった。そして、有水式(注水式)焼玉発動機が入るに及んですぐに姿を消した。その原理の中でノズルに相当する機構が変わっているので紹介する。この説明は牛田雄也氏が工員時代から手がけてきた記憶に基づいたもので図はその点火部を示した。がある。
次の図を参照。

上の図はその頭部でシリンダーは模型である。燃料パイプより重力によって加圧された軽油はバルブで止められる。頭部を炭火で加熱すると中も焼けて封入されていた鋼帯板が焼ける。ホイルを回し、補助カムを止めるとシリンダーの空気が圧縮され温度が昇る。クランクと連動して連動シャフトが動き、バルブが下がると燃料が滴下し着火してピストンを押し下げる。次からは燃焼の熱で鋼板が過熱されているので次々と着火する。
この型の前のノズルは上図の通り、ノズルの先を曲がり金で塞いだ型であったが、油漏れが多く実用的でなかったので改良され上の図の如くになった。しかし、頭部を焼かなければならない点や、油がうまく調整されて出ない点やガスが貯まる点等順調でなかった。滴下式石油発動機というのは大体この形式であった。
ここで大阪、東京方面で日の出の勢いの焼玉式発動機を赤坂鉄工所の史書を例にして、発達を書いてから当地方への進出を回顧する。
赤坂の創始者、赤坂音七が各所、各業を転々とした後、池貝鉄工所に入ったのは明治四十年十一月であった。この頃の池貝は印刷機、製粉機などの動力として、2サイクル式のミーツ&ワイズ型発動機で無点火式と称した焼玉機関を陸用スタンダード石油会社発動機として発売していた。たまたま、下田港の植田七兵衛より神社丸にと陸用十二馬力を求められたので、船用一号機として作りはじめた。
赤坂が幾多の苦労と失敗を重ねてこれを完成し、とにかく神社丸に納め、国産焼玉発動機が初めて漁船に用いられた。始動のときホイルを振ることは彼が発見した最も主要なことである。その後焼津港は遠洋鰹、鮪漁業に出るため発動機を据え付けることとし、四一年、川岸丸に二五馬力を注文した。そして引き続き鈴兵丸外四隻にも同機を取り付けることとなり、馬力も三○にまでなった。当時は発動機といえばユニオン式電気点火式であったが、焼玉が現れると故障、取り扱いの点で赤坂の焼玉が信頼された。当時の赤坂鉄工所は十五、六人位の職工で船用は二、三人であった。明治四三年焼津生産組合の要請で、池貝の修繕工場が港に作られ、大正三年には組合の願いにより自営した。
さて、八戸に焼玉が入ったのは何年頃であったかというと、大正五、六年であった。製造所は池貝を始めとし新潟、松尾、各鉄工所がこれに続いた。その後木下鉄工所が進出してきた。古川鉄工所は新潟の代理店、淡三鉄工所が木下の代理店を行った。
この頃、焼玉発動機は相当発達してきたが、これを取り扱う機関士や修理工場が未熟であったのでいろいろ面白いエピソードがある。ある漁船にこの発動機をとりつけたらエンジンが振れてしかたがないので、マフラー、シリンダーに木の支柱をした。それでもまだゆるんでくるし、支柱が落ちそうになるので、機関士は金槌で締めるのに忙しかった。そのうちにシケ模様となり船の動揺とエンジンの揺れで立っていることが出来なくなり、危険になり腰縄を数珠繋ぎにし、その端を船首の立つに縛った。無事海に落とされずに帰った。勿論、漁はだめだった。どうも焼玉発動機をつけて大漁する漁船がなかったので、漁民は「あのエンジンは駄目だ、第一、音がソンソンという」と笑った。
そこで焼玉機関の異端児フェヤーバンクスモース式機関が大正八年、尾崎定吉氏が据え付けた。それは政府が一世紀あぐり網漁業を行うことを奨励し、補助金一万円を出すことにした尾崎氏はこれを行うこととした。条件は五ヵ年損失あっても行うことであった。この時、氏は三四歳であったのでヘルム商会に行き、このエンジンの取り扱いを十分習得して帰り、取り付けて漁をはじめた。この機関は電着と焼玉のアイノコで空気始動、二気筒、四五馬力、逆転機つきで油と空気の両方の調整付き、しかも燃料は軽油でも重油でも魚油でも良いという便利なものであった。
特に歯車を使用しない多板式のものは珍しく、今でもその原理はちょっとわからない。
八戸にスカンデャ式発動機三十馬力が昭和十年頃、尾崎市之助氏の船に据え付けられた。人は皆ディーゼルエンジンと考えたらしいが、この馬力よりみて、無気噴油式のセミ・ディーゼルともいえる焼玉機関と推察される。久保卯三郎氏も購入したというが内容は明確でない。
注水式から無水式への変化は古川、牛田、船木、各氏が改造その他で行ったと申し立てているので諸氏にきけばわかる。相当早い時代であった。大正十五年五月十七日、柾谷造船所新造の福栄丸(四五トン)に新潟鉄工所無水式五十馬力発動機が据付られたので、その頃は切り替え時期であったと思われる。その機関は清宝丸に据付られて最近まで働いていた。
八戸の発動機界では蒸気機関は漁船に一度も使用されていないこと、無水式よりディーゼル式になり現在に至った。
明治時代は鉄工所というより鍛冶屋であった。八戸に原田鉄工所が金庫を主として行い、坂本鉄工所は何でも鍛冶仕事を行い、その他個人の船釘屋等あったが、職工といっても精々二、三人というものであった。
一番早く鉄工所の形として出来たのが牛田雄也氏の牛田鉄工所であった。牛田氏は十四の時から丁稚をつとめ名古屋の久米鉄工で職を見習った。そして紀州方面に出かけエンジンの据付をして、一通りの船用機関を習得した。そして当時大阪で作られたカカン式石油発動機をもって大正元年七月三十日に八戸駅に降りた。その十日前に八戸来た坪田という人が小中野で鉄工所を始めた。大変頭の良い人だった。船を相手に仕事を始めた。又、牛田氏が八戸に来て二十日ぐらいして菅原勇造氏が八戸に来た。菅原氏は三○貫もある大男で友一郎氏の父で角万と同じ宮城県の人であった。彼は角万を頼って来たと思われる。主に和錨四爪を作り、当市では彼の右に出る者はいなかった。錨の外に船釘等も叩き下条で働いた。古川鉄工所の主人古川寅蔵氏は大正二年、船に乗り東京へ行った。その船のエンジンは上野、桜田鉄工所製の焼玉発動機であった。彼はそれから東京、大阪を主として機関の据付技師として日魯漁業の嘱託を務めて、北海道は勿論、日本中を航海して歩き、大正十年頃、八戸市へ帰り古川鉄工所を始めた。牛田鉄工所には後の陸奥鉄工所の菅原正枝、宮本鉄工所の宮本萬之助氏が弟子として働いており、貨物船長栄丸の機関の取り付けをはじめ、漁運丸、大福丸等機関付き船の修理を行い、旋盤も新しいものを入れ有数な工場として当時注目された。大正八年には前に述べた湊造船鉄工株式会社が出来た。造船の方は衰退した。鉄工部には遠藤、湊川鉄工所の先代、富田、船木(兄)等が働いていた。しかし、これらの人も会社の衰退と共に後年独立して行った。
陸奥鉄工所が出来たのは大分後になってからであり、宮本氏も独立して鉄工所を開いた。そして、大正期には鍛冶屋として野中、西村氏が現れた。
 この頃、発動機に技術的恩恵をもたらしたのは中村一徹先生(現日本漁船機関協会長)である。大正二年職員試験の講師として水産会の招きで八戸に来られた。試験官の函館の人はスティームの専門の人であったので発動機については知らず、中村先生に試験官が教わっていたくらいであった。中村先生はその時、中央のガスエンジン及び焼玉エンジンについて詳しく紹介され、八戸の造機界はこの人のために大いに学んだ。
大正十一年に高橋勘次郎氏が鋳物工場を設立、菅原喜四郎氏も間もなく八戸にきた。喜四郎氏と勇造氏は兄弟であるので、現在の喜四郎氏と勇一郎氏とは従兄弟になるわけである。
昭和になって船木兄弟は汐町に六年、船木兄弟鉄工所を創立。出川留蔵氏を加え八年三晶鉄工所を作った。共同経営はうまくゆかず、昭和十三年仁三郎氏は独り東京に出て川崎で働いた。その間、出川氏は夏堀源三郎氏と仕事を提携するようになり、十五年、仁三郎氏帰八を機会に三晶鉄工所を解散し、船木氏は独り船木鉄工所を設立、出川氏は個人で三晶鉄工所をやった。その後、中小企業整備法により高崎甚之助氏と共同で八戸重機有限会社を昭和十八年六月の設立。高崎氏はセメント会社と共に八戸に来た福島県人で、イワキセメントで働いたが、昭和十一年個人で八戸機械を設立していた。
昭和に入って初めて八戸内燃機工業会が作られた。会長に牛田雄也、専務理事に高橋治作、理事に高崎甚太郎、高橋勘次郎、田畑等がいた。会社設立は昭和八年であった。そして解散は昭和二十三年である。
昭和になって出来た工場として淡三鉄工所、大原鋳造工業所、小森鉄工所、喜四郎鉄工所、湊川鉄工所、青森金物等がある。淡三鉄工所は船木兄弟鉄工所の少し前に出来、良い工場として信用があったが吉田氏は体が弱くて苦労した。尾崎さんが後援して鉄工所をやらせようとしたが、遂に健康を害して廃業した。
そのために彼は子供を一人は医者に一人を教師にとした。今の吉田耳鼻科はその子である。
小森さんは機関士をしていたがシナ事変で召集され、戦地で暮らしたが帰ってから下条で自ら鉄工所を昭和十三年に開いた。喜四郎氏も同時だった。大正十三年に無水式焼玉が出るに及んで各鉄工所の競争は激しくなった。そして、新しい機関を作ることに工場の力が注がれていった。しかし、それは鋳物、鍛造から工作、組み立てをする新造ではなく、部品を買って加工組み立てをする程度であった。
その部品は昭和商会が取り扱い、東京、阪神から取り寄せたものである。一番初めに組み立てたのは湊造船鉄工であった。それは三十馬力位で間もなく会社が潰れるまで、数台扱ったらしいが、なかには分解して送ってきたものを、組み立てて船にすえつけたようで、新台を作った部類には入らないようだ。自分で計算し考えて組み立てたとなると、古川鉄工所が昭和六、七年頃三五馬力を二台作ったのが最初ではなかろうか。
形式は日本鉄工株式会社(池貝系)のものらしく、しかも陸上運転を行っている。今の津取場氏の家の空き地で、この機関を回したそうだ。
その時はサーカス小屋の如く黒山の人だかりであったと語られている。この機関は無事完了して船に取り付けられた。牛田鉄工所も間もなく同じ日鉄製のものを作ったがなかなかうまく運転できなかったようで、牛田鉄工所が当時苦しい経営をしたのも、新台がうまくいかないためらしい。船木氏もやがて新台を作った。船木氏のものは日発の型で設計図も日発を使い東京にまで行って細部の研究をして行ったので、次第に良いものが出来るようになり、新潟、木下、池貝、日発、赤坂と優秀な品が入ってくるに及んで、漸く鉄工所も鍛冶屋より工場という風に変化した。
中小企業整備法によって小工場は企業合同が勧告され、戦争体制は強化された。まず八戸は東部内燃機ブロックの一員として海努院型焼玉機関ができるように推進され、各工場が調査された。
まず第一に事業の売上高、数量が報告させられた。大東内燃機と古川鉄工所はそのまま報告したので指定工場となった。他の工場は正しい報告をせず、指定統制もうけない三万円未満の報告をしたので、これら小工場は企業組合をつくるようにいわれた。淡三、三晶、宮本、小森、船木等八工場は合同すべく集まり、出来かかったところ、三晶は夏堀源三郎氏と合同して内燃機の南方輸送の事業に転向し(これは船が途中で沈んで欠損となった)、宮本氏は川崎に出かけてしまい、小森氏も招集となったので企業合同はバラバラになってしまった。八戸重機が出来たことくらいが整備法の現れであったろうか。統制法や動員法のために鉄工組合はいろいろの工作機械、材料の配給を扱ったが、終戦となると借金が組合に三十八万円もあった。
組合の理事長は古川氏であったので、清算責任者として資材を調査したところ、これらが組合員の手で勝手に名義変更されたり、売却されたりしていた。その内紛については明確な証拠があるわけではないから、詳しく述べることはできないが、その清算の段階で古川氏と牛田氏が対立したことは事実である。
両者はそれ以前より同じ業者として、競争相手であったが、この時より相反したらしい。古川鉄工所は指定工場として多くの焼玉機関を作ったので、その利益も大いにあるものと算定され、相当の税金がきた。他の工場がそれ程でなかかったので、特に古川鉄工所は多くこの時破綻をきたした。
戦後各工場は一斉に出発した。昭和二一年六月船木鉄工所、古川、牛田鉄工所その他、現在活躍している。
工場は出発した。そして漁業界の好漁、復興とともに年々発展した。しかし、未だに内燃機工場は協同体制が出来ないのは、過去におけるいろいろの事件が残っているからである。協同してやった事業が不仲で解散した例は多い。
否、一応の工場がそういう体験を経てきたし、戦争中はいろいろな利害で、戦争終了時は、又、清算で多くの人が反目した事実が頭を去らないためである。鉄工連が出来たり、親睦会があっても、一つにまとまることは二代目の人々の明知と良識によらなければ出来ないことであろう。
近時、鉄工所も木造船と同じような立場に追い詰められてきている。資本の不足、労務の問題、そして技術の進歩と。
そして大資本の下で動くか、家内工業的に健全経営を進むかのどちらかで、その中間というものがなくなってきているようだ。即中間となると、労務者を、良い技術者を確保しておかねばならず、一通りの良い機械を備え付けねばならないし、税金は非常に多く取られる。加えるに金融は大企業の如く後援してもらうことは期待できない。其の上、漁業者相手の売掛も多く、この処理も容易ではない。筆者は修理のみでなく、何か一つ、特許的な特異性のある品物、技術を各工場が持ち、八戸の漁船のみでなく、総ての地方の漁船も対象に商売する道でも考える必要があるのではないだろうかと考える。新潟の小野鉄工所が町工場より、一躍日本の小野鉄工所になったのは「ヘリカルギヤポンプ」を考案し、ポンプのみを製作するようになった為で、これらの例は東北にも二、三あると考える。次代の人々の研究と勉強を期待してやまない。
付記
八戸の農具、鍛冶屋一覧(昭和十二年)
二十三日町 荒井農具店 荒井正冶 明治十年
同     淡萬商店  吉田龍一 大正十四
同     金子商店  金子新助 慶応二年
大工町   丸孝商店  三浦孝吉 昭和八年
湊白銀   菅隆鍛冶屋 菅原隆橘 大正十二
同     宮本鉄工所 宮本正吉 大正八年
吹上元町 百目木鍛冶 百目木作太郎明治四五
新組    松橋鍛冶屋 松橋啓三 明治三二
同     立原鍛工所 立原長太郎明治五年
長者    山徳煎餅型 山下徳蔵 明治三九
鍛冶町 山下金物製作 山下栄太郎 明治二五
同   増尾打刃物  増尾市太郎 昭和三年
同   兼春     大巻源五郎 明治二○
下大工 島守鍛冶屋  島守仙之助 大正五年
十一日 宮本煎餅型  宮本由蔵  天保三年
朔日町 宮本鉄工所  宮本丑松  明治三○
朔日町 山萬     宮本萬之丞 慶応元年
塩町  柏木煎餅型  柏木兼八  嘉永三年
同   美玉煎餅型  美玉幸一郎 天保一○
吹上仲町小野寺製作所 小野寺冶三郎大正一三
塩町  石要煎餅型  石橋要吉  明治三○
八幡町 中屋鋸製作所 中屋富次  大正一五
二十三日 洋式ヤスリ 小笠啓三郎 昭和五年

2009年2月22日日曜日

八戸及び八戸人9増田ダンス教室四十周年、親子で日本一に挑戦

市役所のそばに増田ダンス教室、窓から流れ出すリズムに、ウン、この曲、聞いたことあるなァ、その歌の流行っていた当時を思い出す。すると、今度は違うリズム。ダンスはルンバ、タンゴにワルツと様々な曲に合わせてステップを踏む、音感の鈍い者には難しい。
 「綺麗なドレス着て毎日踊ってる」っていうフレーズのある歌を守屋ひろしが昭和三十四年に「僕は泣いちっち」のB面に入れて、共に流行ったことがある。当時社交ダンスと言えばナンパの場、頭にコテコテのポマード塗りたくったリーゼントの兄ちゃんがポケットに手突っ込んでヨタって歩いてた。こうしたアンチャンを船長と呼んだナ。何故って「難破船の船長だヨ」
八戸は戦後間もなく三日町に駐留軍相手のダンスホールが出来た。アメちゃん相手にダンサーがいただろうが、どんな踊りをしたんだろう。ナニャドヤレや八戸小唄なら得意だろうが、ダンスのステップ軽やかに踏める人がいたべか。
 その後、キャンプホーゲン、高舘の部隊は朝鮮動乱で出撃、その後も部隊は入るが米国ってのは戦争好きで、他人のもめごとに割って出る癖あり。三日町のダンスホールもまたもとのデパートに戻った。すると、ここでダンスの味を知った八戸人がホールが欲しくなったんだろう。
 登場するのがクローバーダンスホール。山田郁三氏が経営。ここには大勢の若者たちが集まった。ダンスの魅力にとりつかれたんだ。六日町の喫茶店「凡」の奥にダンス教室を開いたのが伊藤栄氏、この人のもとでレッスンし日本一の美女、ミスワールドになったのが奥瀬寿子、喫茶店「凡」を経営してたのが、番町の森眼科の先生。この人の人生も奇妙奇天烈(きみょうきてれつ・なんとも変わっている)、一度紹介してみたい人物。
 この伊藤ダンス教室に通ったのが増田勝文さん昭和十五年生まれ。この人は八戸高校の野球部で投手、なかなかいい球を投げたそうだが、三年生の時、結核にかかり、(当時はこれで命を落とした人多数)卒業はしたものの、進学も就職もできない。俗にいう八方ふさがり暗剣殺。
 そこでぶらぶらしているうちに、ダンスが体にいいと教える者。そこで伊藤ダンス教室に通った。そこで妻となる野坂優子さんと知り合う訳だが、この人は県南「新人社交ダンス大会」で昭和三十四年に優勝している。デーリー東北新聞から
一位に奥谷・野坂組
デーリー東北、県社交舞踏教師三八支部共催の第四回県南地方デーリー杯争奪新人社交ダンス競技大会は八日正午から八戸市民会館で十六組が出場して開かれた。出場各組は日頃鍛えた巧みなステップにものをいわせ、フロアいっぱいに美しいダンスを展開、集まった約三百の観衆をわかせた。
タンゴ・ワルツ総合①奥谷広・野坂優子②工藤啓一・松坂澄子③神山純一・庭田誠子④大久保三男・寺下タキ⑤笠石定吉・沢頭ゆき子⑥田村哲夫・中野啓子
第四回とあるので昭和三十年に開始された大会。これがコンペのダンス。つまり競技ダンスだ。優子さんは天性のものがあったようで、伊藤ダンス教室に通いはじめて二、三ヶ月で出場をすすめられ、コンビを組んだのが奥谷さん、男をリーダー、女はパートナーと呼ぶが、この息がぴったり合わないと優秀な成績を取れない。男も女も、あの人はダンスは上手でも、人柄が好きじゃない、人柄はいいけどダンス技量がイマイチとなかなか難しい。増田勝文さんは八高で投手をやっていたほど、病気をしたといっても、足腰のバネがそんじょそこいらの難破船の船長とは大違い。そこに優子さんが惚れ込んだ。この人となら全日本チャンピオンもとれるかしら…
そこで夫婦になって精進、どうしても日本一になるには、当時池袋で教室を開いていた紳士、ダンスの神様とまで称された永吉彰さんのもとでレッスンと荷物をまとめて上京。立教大学のそばに部屋を借り二人で修行に励んだ。立大の相撲部のそばで朝からドスコイで部屋が揺れたそう。永吉教室で生徒を指導しながら日本一を目指すうちに生徒としてダンスを習いに来ていたのが松下正寿氏、当時は立大総長(明治三四年、京都生まれ青森県で育つ。立大卒。弁護士。哲学博士。戦後の極東軍事裁判の弁護人を務めた。参議院議員。1986年逝去)。松下さんに夫婦二人とも励まされる。というのも、松下正寿さんの母は八戸の産婆亀徳しづ、結婚して亀徳になるが旧姓は松下。二人の子を得るが弟が正寿氏、だから松下正寿氏は八戸人。この人が応援してくれた。増田夫妻もAクラス入り、全日本のファイナリスト(最後の六人、つまり五輪なら入賞)に残るようになり将来を嘱望(しょくぼう・将来や前途にのぞみをかけること。期待すること)されるが、増田勝文さんの親が亡くなり、東京での五年修行、泣く泣く 八戸に戻る。東京の仲間が慨嘆(がいたん・うれいなげくこと。なげきいきどおること)、もう少しで日本チャンピオンを見れると思ったのに…。
八戸に戻り番町の実家を改装し昭和四十年に教室を開く、ダンスホールを一階、二階が教室、八戸の難破船の船長たちが沢山来て、商売順調、その中から筋の良い人に特別レッスン、その人たちが続々独立、八戸のヌマグチダンススクール、田中昭寿ダンス教室、サカモトダンススタジオ、久慈市の柴田ダンス教室、三戸の和田ダンス教室などなど。増田夫妻は偉大な指導者。
さて、日本チャンピオンになるということが、どれほど難しいか、ここで競技ダンスの歴史を勉強。
昭和二十六年日本舞踏競技連盟は初めて競技会を主催。“第1回全日本単科選手権”を見ようと、会場となった新橋フロリダには千五百人もの観衆がつめかけた。毛塚睦雄・野中桂子組がW・Qともに優勝。十一月に銀座美松で行われた後期大会ではカムバックした三桝良一・三桝静江組がFを、毛塚睦雄・野中桂子組がTを制した。
昭和三十年、毎日杯、第5回全日本社交ダンス選手権”が後楽園アイスパレスで開催され、八千人もの大観衆が見守る中、英国より招聘したレン=スクリプナー(全英チャンピオン)の単独審査によって、無名の新人、伴野八郎・四本恭子組が優勝。
昭和三十一年、第1回サンケイ杯全日本選抜選手権が開催伴野八郎・四本恭子組が優勝
昭和三十七年、メルボルンで第4回世界選手権に初の代表団を派遣。桝岡肇・桝岡栄子組、丸山梅雄・田鶴子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、篠田学・篠田雅子組が参戦し、篠田学・篠田雅子組がモダン6位、ラテン7位に入賞。
昭和三十八年、東京都体育館で開催された“第13回全日本選手権より正式にラテン部門が加わり、桝岡肇・桝岡栄子組が初代チャンピオンに輝いた。モダン部門の優勝は小嶋鉄治・小嶋滋美組。
この年桝岡肇・桝岡栄子組、篠田学・篠田雅子組は日本人として初めて全英選手権に参戦。
昭和四十年、日本舞踏競技連盟はついに武道の殿堂、日本武道館での競技会開催を実現した。“第十五回全日本選手権では夢に見た大舞台を一万三千人の大観衆が埋めた。モダン部門、ラテン部門ともに篠田学・篠田雅子組が優勝。英国留学から帰国したばかりの関真・関利子組が前年6位からモダン部門、ラテン部門ともに2位と大躍進。NHKのカラー放送も高視聴率を挙げた。
昭和四十四年、待望の“世界選手権”を日本で開催。参加国は十カ国。日本代表は篠田学・篠田雅子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、斎野友次郎・松村有希子組、石原市三・石原佳代子組が参戦。篠田学・篠田雅子組がモダン部門5位でラテン部門3位、斎野友次郎・松村有希子組がモダン部門、ラテン部門ともに6位と大健闘した。
2回目の“世界選手権”(日本武道館)を開催。モダン部門は毛塚鉄雄・山本千恵子組が3位、田中忠・田中節子組が4位に入賞。ラテン部門はこの年に世界十ダンス選手権を制した鳥居弘忠・鳥居洋子組が3位、毛塚道雄・毛塚雅子組が6位と大活躍した。
昭和五十五年、「栄光へのステップ」第1回日本インターナショナルダンス選手権”が日本武道館で華々しいスタートを切った。激戦を制したのはモダン部門が毛塚鉄雄・山本千恵子組、ラテン部門が鳥居弘忠・鳥居洋子組。

この毛塚鉄雄さんと増田夫妻は親友。ご子息の直紀さんを修行に出す。毛塚アカデミーは東京新大久保、この長男も野球選手、血だネ、足腰がいい、すぐにA級入りし妻のゆう子さんとコンビ、98年の日本インターナショナルダンス選手権で四位、99年は六位、全日本では三位、二千年全日本ショウダンス選手権二位、セグエ選手権四位、プロダンス選手権では四位、○一年全日本セグエ選手権では三位、プロダンス選手権では四位と常にファイナリスト。だが、どういうものかチャンピオンが取れない。パトナーのゆう子さんともピッタリの呼吸。一位、二位の差はカレーライスとライスカレーの差、その時の一瞬の呼吸の差で勝敗が決まるのかも。
増田直紀・ゆう子増田夫妻には三人のお子さん、長女は日本女子体育大で新体操からダンスに入るも、リーダーとの出会いに恵まれず、八戸に戻り、次男の大介さんを指導。この子も高校で野球をやり天性のバネを持つ。姉の特訓、親の指導よろしきを得て、ダンスの道をまっしぐら。兄が独立し東京南青山に増田ダンスアカデミーを開き、そこに入門。○三年にはB級優勝、○四年にA級昇進、スパージャパンカップ、チャチャチャで六位、○五年セグエ選手権七位と躍進中。
この若者は二十歳代、これからが楽しみ。人生を二度生きる者はない、だが、二度も三度も楽しむことはできる。それは、これと思った青年、娘の行く末を楽しみにすることだ。声援、応援は誰でもするが、それは人生を二度楽しむことではない。
生きてる人間と死んだ人間どこが違う?
それは金を自分の意志で使うことだ。死んで仏になって線香あげてもらうより生きてるうちに金おくれと言ったのが北野タケシの親。
死に損ないが何を抜かすか、人の顔さえ見りゃ金、金と、夏の林のセミのようにカネ、カネカネは、そりゃ強欲な、と兄弟に言ったそうだ。
死んで親の貯金通帳見たら、タケシからせびった金が手もつけずにそっくり残ってたとヨ。
タケシの親は、タケシの無駄遣いを知って、金をよけておいたんだ。
 タケシの銭を守ることでタケシと人生を一緒にした。どれほど楽しかったことか、TVで名が売れて、馬鹿な格好してトボケ演じて、すり減らすような人生で、金を無くせばおしまいよと、心底思ったんだろう。
 今、義経の増田大介さん、この青年が親が兄夫婦ができなかった、取れなかった栄光の日本チャンピオン目指し必死の鍛錬をつむ。千日を鍛、万日を錬という。天性の美男、脚が長く腰高く、ステップと身のこなしが言葉を喋る。ボディラング エッジて言葉があるが言葉が会話してくるんだ。こんな凄い男を見たことない、兄の直紀さんも踊りは息が止まるほどうまい、ところが、弟に比べるとまるで頼朝、人気抜群の弟義経は千年通じて日本の美男に数えられる。兄も男前だが、増田一族の傑物が大介さん。息が止まるどころか卒倒するナ。
この人に八戸人は後援するべき。年会費を増田ダンス教室に送る、すると○月○日に全日本選手権に出るなどの案内が送られる、NHKのテレビに出たら、金送って後援会に入った婆さんは、心臓の鼓動激しく、今にも昇天するばかり、こんなに胸がドキドキするのは、三八城公園で死んだ爺さんに手を握られた時以来と、TVの前、座布団に座ってガンバレ大介、思わず座布団塗らして失禁。
それぐらい興奮するのは間違いない。人生は何があるかわからない。まして人生二度楽しませてくれる今義経に逢えるも幸せ。八戸に来たらサインして握手してもらう権利は、声援、応援じゃなく後援すること。銭残して死んで、兄弟の遺産争いの元つくるくらいなら、美男に老いの血道あげてスッテンテンにおなりヨ。
地獄で迎えに来た爺さんにこう言え。つい爺さんの若い頃にそっくりだったもんで…と。
爺さんも喜ぶこった。見てくれ写真のキリリとした男ぶりを。また最近はパートナーにバレエ界の星、作間草とめぐりあい、言葉を発せずとも、体全体がものを言う。空間芸術との言葉もあるダンス。昨今は高齢者がダンスして若返る、背筋が伸びて痩せると美容・健康によいと大人気。ことにご婦人は綺麗なドレス着て毎日踊れると、うっとりとした眼をなさる。女は幾つになってもかくありたいもの。
さて、増田大介さんのファンになりたい人は東京都港区南青山3・8・37第二宮忠ビル4階増田ダンスアカデミーまで、電話03・5785・3048

2009年2月21日土曜日

あのころの八戸鈴木惣吉(七二)


デーリー東北
新聞社の創始と変遷
○ 八戸に新聞がつくられたのは明治三十三年、「八戸商報」がタブロイド版で発刊されたことが創始といえる。ついで「はちのへ新聞」が同三十五年、「県南新報」が同四十一年、これよりやや遅れて「はちのへ新聞」に対抗して「大南部」「八戸毎日」などが続々発刊された。文明のいぶきの薄いといわれた八戸に、これだけの新聞が発刊されたことの裏には政治的な対立もあって、大正十三年、「八戸毎日」と「はちのへ新聞」が合併して、日刊紙「はちのへ新聞」が誕生するまでの変遷は、それは激しいものだった。
○ その経過を少し説明すると、「八戸商報」が明治三十三年石橋万冶(二代石橋万冶・嘉永三年~明治四二 八戸市二十三日町に生まれる。実業家、西町屋徳右衛門の一族、幼名幸蔵、明治二七年六月階上銀行支配人、同三○年八月八戸貯蓄銀行設立。頭取となり同三一年六月青森県農工銀行取締役を歴任。明治二二年四月八戸町会議員となり、同年十月八戸土曜会結成に当たってその発起人の一人であったが、創立総会の人選問題で退場、反対派の福田祐記、大芦悟楼らと公民会を結成。同二四年糠塚選出の郡会議員、同年八月改進党から県会議員となり、同三二年九月の府県制改正による県議選には反対派の関春茂とともに進歩党から公認され当選。同二七年反省会陸奥支部長をつとめる。晩年は徒士町の別邸で養蚕業を営み悠悠自適 東奥日報刊・青森県人名大事典)など有志によって創刊された。し かし間もなく北村益氏らによって同社は買収され、北村氏は「八戸新聞」と改称して新聞をバックに北村カラーで勢力を張っていった。石橋氏はこれに対抗して再び新聞社をつくった。これが「奥南新報」の創刊である。八戸新聞が憲政会をバックにして立てば奥南派は政友会をバックにしたのも当然のいきがかりであったといえる。このほかに奈須川光宝氏が旭日の勢いの北村派に対抗するため県下の憲政会の同志をつのって「陸奥新聞」を発行したが当時としては贅沢と思われる日刊紙で、資金面で行き詰まり、二年くらいで廃刊になったと思う。
○ 私が北村氏にすすめられて八戸新聞に入社したのは、合併間もなくのころであった。両社を合併しての従業員は三十五、六人だったろう。間もなく北村氏がバトンを私に渡し、新社長に私、取締役会長に武藤勝美氏が就任した。写真機も輪転機も 設備され、あのころとしてはいっぱしの新聞社らしい陣容を誇っていたと思う。ようやく新聞社が軌道に乗ったと思われる頃、世情は日華事変から支那事変へと泥沼のような戦争に追い込まれていった。昭和十六年だったと思う。政府が一県一紙という政策を強行した。社としてはしゃにむにこれを反撃すべく、私などは当時読売系で幅をきかせていた故三木武吉氏に買収を陳情したが奏効せず、結局「東奥日報」が県下ただ一つの新聞ということになり、当時あった八戸、弘前、陸奥新聞の三社は姿を消した。われわれの新聞は、東奥紙に吸収されたことになるが、施設、人員はそのままほおり出された。輪転機などは青森の合浦公園に集積されたが、東奥紙でもその施設を必要とせず長い間公園にさらけ出されていたわけでまことに無念の涙を呑んだものである。
貴重なドル箱、号外
一県一紙令で無念の涙

○ 私の新聞経営生活は十余年。あまり長いとはいえないが、しかし生きがいはあった。新聞の仕事は確かに面白い。銀行マンとか一般官公吏の仕事もそれなりに良さはあろうが、同じ仕事でも新聞は一日一日に変化というものがある。私が在職していたころの事件とか世相といったものもいまから思えば冷や汗三斗の思いがしたり、思い出しても溜飲が下がるような痛快な出来事もかなりあった。八戸銀行ほか三銀行がパニックで一時に扉をおろしたが、それをいち早くつかんだのも「はちのへ新聞」だった。私のところから「盛岡銀行取付騒ぎ」の号外の一報が出たとたんに、銀行前には黒山の人が集まって当時、同行の吉田三郎兵衛さんが血相変えてどなりこんできた。号外一枚が町を騒然とさせたわけで、いま思えばたいへんなことをしたものだと思っている。号外は当時新聞社としては虎の子の財源であった。ラジオ、テレビのない時代である。速報はこれしかなかったわけだ。このため私の社では号外要員として常に人力車夫を十四、五人を夜間は待機させていた。脚力がモノを言うこの人たちは、千里もいとわず四方に散ったわけだ。遠い所は三戸在から九戸方面にまで走った。その売れ行きのよいこと。彼らは号外を売り切って社に戻るとムシロの上に売上をひろげて勘定した。一枚二銭だったから銅貨が山のように詰まれた。車夫のなかには新しい号外のほかに古い号外まで売った奴がいた。買ったほうが読み始めて気が付いたころは、号外売りは遠く鈴の音だけ残して去っているのだから始末が悪い。関東大震災の大正十二年九月一日は、八戸三社大祭にあたっていた。そのころの社屋は長横町にあったのだが、号外売りがものの百メートルも走らないうちに、折からの祭り見物の中に埋まり、あっという間に全員が売り尽くしてしまった。社内の電話のベルがけたたましく鳴り、号外売りが観衆に埋まって死んだという報告が入って、私は失神しそうになったが、それほど売れ行きがよかったわけだ。
○ まだ愉快な話がある。弘前相互銀行の前身である弘前無尽が八戸に進出したとき、朔日町の八百万で政界、経済界の有志が招かれて記念祝宴があった。その日の午前中に大正天皇のご危篤のニュースがはいっていた。私は出かける前に編集局に「もし亡くなられたら号外を出すように」と言って出席。間もなく祝宴が始まろうとするとき号外が届いた。唐牛弘前無尽社長は号外はしばらく発表しないでくれ、知らなかったことにして、今日の式だけは終わりたいというのだ。あのころは陛下がなくなるというのに、酒を飲むなどは不敬きわまりないとされていたためである。また石田屋で鮫、湊、八戸、白銀などを合併して市制をしく会議があった。現在岩手放送八戸支社長の法師浜氏が当時一線記者をしていたが「どうも今日の会議は大事になるらしい」と耳打ちされていたから、それを胸にたたみ号外の手はずを打って出席した。案にたがわず合併の話だった。私は中座して社に号外を出すように連絡。会議が終わらないうちにその一報が会議の場に届いた。まだ結論が出ていないうちだったから、目をパチクリさせるもの、怒るものなどsまざまだったが、私は盃をかかげ「合併万歳」を三唱すると大勢は引き込まれるように唱和。かくして八戸市が誕生したというわけ。
○ そのころの発行部数は二千五百部ぐらい。旧市内はさすがに多く、湊、白銀になると百部、五十部文盲の人もあったせいだが伸びなかった。ところが号外となると大変な売れ行きで印刷が追いつかなかった。また号外売りは近在に売りに出たまま三日も四日も帰らないと家族から泣きつかれたこともある。あとで聞くと三戸在まで売りに出て親類の祝言にでくわしてそのまま居座ったとのことで、実にのんびりした世相でもあった。

2009年2月20日金曜日

八戸及び八戸人8 轟木小学校初代校長 藤沢茂助


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
かって会津藩あり、今は滅びて跡形もなし、されど会津侍魂、絶えることなく今に伝う。
八戸市市川に轟木小学校、初代校長を藤沢茂助という、会津藩士、北遷、斗南藩に命運を賭し、北の大地に足を踏み込む。広沢安任、佐川官兵衛らと共に天保二年の生まれ。
時間軸少しく傾けば藤沢一族は八戸の地を踏むこともなし。苛酷、非情な時の流れ、芭蕉のみならず藤沢一族も人生の旅、果ては青森県で地の塩となる。
【地の塩】 (新約聖書マタイ伝第5章・ 塩がすぐれた特性をもつところから、転じて広く社会の腐敗を防ぐのに役立つ者をたとえていうが、筆者は栄達を望まず我を捨て、その地で人を育てる役割を担った優れし者の意味で使う)
生を授かり父母に育まれ友と共に過ごす日々の中で何かを感じ、己の行く道を捜し求める。ゴッホの友、ゴーギャンは我、いずこより来たりていずこへ行く者、と、生死を見据えた。人は考える葦の言葉もある。置かれた場所、そして時代の中での呻吟(しんぎん・うめくこと。苦しみうなること)は自分のみ、己のみに課されたもの。その重みを骨をきしませ、肉を裂きながらも必死に受容。その受け止め方にこそ、その者の特性が隠しても現れ出る。
藤沢一族の名は吾妻鏡に見てとれる。日本三御前は静、巴、板額、美形で弓の剛の者と賛たる板額(はんがく・越後の豪族、城太郎資国・じょう・たろうすけくにの娘、建仁元年(1201年)甥の城資盛・じょう・すけもりが鎌倉幕府軍と戦った際、強弓をもって百発百中と奮戦、遂に捕虜。落城後、鎌倉に送至、鎌倉幕府の将軍源頼家の面前に引きずり出さるも、臆する事なし。甲斐源氏浅利義遠の懇望に妻となり甲斐の国豊富村に移り後半生を過ごす)の四番手の捕らえ方と記されてある。藤沢一族、元は桜の名所信州高遠詰め、主家は保科、藤沢邑を代々所領とす。主家の会津配置換えで移転。
頃は幕末、天保十一年、茂助九才の折、アヘン戦争勃発(1840~42年、清朝の阿片禁輸措置からアヘン製造輸出国イギリスとの間に起った戦争。清国敗北し、列強との不平等条約締結、香港の割譲、広東(カントン)廈門(アモイ)福州・寧波(ニンポー)上海の開港、賠償金の支払いなどを約し、中国の半植民地化の起点となる)、をオランダ船が伝える。幕府は国防策を講じ、茂助は父とともに弘化四年(1847)安房富津竹ヶ岡に赴き海防、茂助十七歳、後、品川お台場に父子共に転ず。時は嘉永六年(1853)、米東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航、茂助二十二歳。

品川金杉陣屋詰めとなり、お台場二番砲台警備。宿舎は芝新銭座中屋敷、芝柴井町浜御殿隣。芝と三田は目と鼻、柴井町、宇田川、神明、浜松町を抜け金杉橋を渡り金杉通りから本芝、隣が芝田町、そこに悪名高い薩摩藩蔵屋敷。 茂助は芝新銭座居住時に伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門の砲術塾に通い、大鳥圭介(おおとりけいすけ・播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順)と机を並べる。江川は世襲の代官、品川お台場に設置する大砲を韮山に反射炉(金属の製錬・溶解炉。燃焼室と加熱室は別、炎は炉頂に沿って流れ、天井と側壁の放射熱で鉱石や金属を製錬または溶融。製錬の場合は大量生産に適し、溶融では成分を余り変えない)を設け製造。当時反射炉は最高機密、付近の警戒は厳重を極めた。
江川は砲術を反射炉を日本近代砲術の祖、高島秋帆(しゅうはん・幕末の兵学者。長崎の町年寄兼鉄砲方、蘭学・兵学を修め、オランダ人につき火技・砲術を研究)から学び、国家存亡の折り開塾し西洋式砲術の扱い方を伝授。
茂助が会津藩の最初の洋式砲術修得者。発射における火薬量、砲弾の飛距離計算等、和算ではできない計算式が必要、藩の蘭学専修行生に指名さる。
万延元年、父逝去、これを期に江川塾を辞去。茂助二十九歳、文久元年(1861)西洋大砲師範を拝命し、武州川口の鋳物職人に図面を提示、大砲とカノン砲(四十五度にし遠距離を狙う)を製造させ、発射確認、この功績で茂助は銀子一枚拝領。
元冶元年(1864)七月十九日、長州藩、蛤御門を守る会津藩兵と激戦。門内に押し入るも首謀者来島又兵衛は戦死。山崎方面より御所を目指す真木、久坂ら五百の手勢は福井、桑名藩兵と激戦、ここに蛤御門を鎮圧したる会津藩兵が援軍となり、茂助、山本覚馬、中沢帯刀の射撃の腕は冴えたちまちに長州藩兵を殲滅(せんめつ・皆殺しにして滅ぼすこと)、この勲功にて茂助大砲方頭取に抜擢。
慶応四年(1868)、一月三日、江戸、薩摩藩邸焼き討ちの報が大阪城の徳川慶喜のもとに届くや、京都襲撃を決意、指揮下の会津、桑名藩一万五千を率い、薩長土芸の五千の兵と鳥羽伏見で激突、幕府軍の作戦の乱れと政府軍の外国製最新兵器の前に敗退、慶喜はそのまま兵を見殺しにし、船で江戸へ逃げ去る。が、この時の会津藩士佐川官兵衛の戦い振りは世人をして鬼官兵衛と呼ばしめた。佐川は一刀流溝口派の剣客、弓馬刀槍の内二つ以上免許皆伝の者ばかりを集めた別選組の隊長、薩摩兵らの市街戦に遅れをとり、伏見街道にて獅子奮迅の戦い、銃撃に刀、槍で応戦するも右目を負傷、佐川会津に戻るは三月十二日。
過ぐる二月、江戸城無血開城、幕府残党は新撰組、彰義隊、大鳥圭介の伝習隊、福田八郎の撤兵隊が散発的抵抗、いずれも敗軍の兵、全てが会津に流れ込む。
会津藩、三月軍制を改め、年齢別に白虎(十六~七)、朱雀(十八~三十五)、青龍(三十六~四十九)、玄武(五十以上)の四隊に大別、身分により士中、寄合、足軽に小別。このほか砲兵隊、郷士の「正奇隊」、農、商人による「敢死隊」、大鳥圭介、古屋、市川らの手勢をいれて総勢五千三百。
日光口総督 大鳥圭介、後に山川大蔵
越後口総督 一ノ瀬要人 砲兵、青龍、朱雀隊よりなる
白河口総督 西郷頼母、後に内藤介右衛門 玄武、青龍、朱雀よりなる。
四月十九日、佐川は朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に出陣。長岡藩を説得し奥羽列藩同盟にひきこむ。
五月一日政府軍白河城を攻略、
七月二十七日三春城降伏、二本松城攻略さる。

佐川官兵衛、長岡藩、桑名藩と共に長岡攻防戦に参加、軍事奉行頭取として指揮、会津藩主から急使、八月九日鶴ヵ城に戻る。
八月十九日、日光口守備の大鳥は保成峠から二本松奪回せんと石筳到着、二十一日保成峠は攻め滅ぼされ猪苗代城落ちる。
八月二十二日、白虎士中二番隊日向内記指揮下、戸ノ口原に応援出陣、この中に藤沢の親類藤沢啓次も。二十三日、払暁開戦するも追われ戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に逃がる。火の手の上がる城下、砲撃さる鶴ヶ城を見て二十名の少年は自刃、一人飯沼貞吉蘇生。政府軍滝沢峠に迫る。
二十五日、城外柳橋にて娘子(ろうし)軍の奮戦。
白河、日光口、越後方面、形勢我に利あらずと知り、中野平内、妻こう子(四十四)、長女竹子(二十二)、次女優子(十六)、依田まき子(三十五))、岡村さき子(三十)、水島菊子(十八)らは早鐘を聞き城下に敵の侵入と会津坂下(ばんげ)に落ちたと言う照姫を守護せんと走るも、姫君に会えず付近の軍事方に従軍を願うも婦女子を働かせば末代まで会津は嘲笑の的と言うを、既に黒髪を断ち、白鉢巻、義経袴に一刀を帯び薙刀を小脇に一歩も退かぬ覚悟、古屋作左衛門指揮下にて城下西端柳橋にて午前九時激戦、政府軍は女と見て「生け捕れ」と命ずるも、娘たち「生け捕られて恥辱を受けるな」と互いに呼応し斬りまくるが竹子、額に弾丸を受け倒る。妹優子、これを見て薙刀を水車のごとくに振り回すも、敵兵に遮られ近づくことあたわず。更なる気をみなぎらせ敵兵の真っ只中に飛び込み姉に近づき介錯、首級を引っ提げ囲みを破る獅子奮迅の乙女の働きに皆讃嘆。山本覚馬の妹、八重子は兄につき砲術体得せしより男子に混じり政府軍に砲火を見舞う。
鶴ヵ城東方千五百米に小田山、ここから政府軍は大砲連発、砲弾常に頭上に落下、爆声交錯し低空をゆるがし、爆煙四辺を閉ざす、藤沢家と共に信州高遠より従属せし家老職弱冠二十三歳、山川大蔵は慶応二年西欧視察、日光口、大鳥の副総督として手馴れた戦を展開。戦闘で城外にいた山川は敵兵厳しく鶴ヶ城に入るため一計、農民の踊り、彼岸獅子を先頭に立て、まんまと入城、山川の妻とせ子は宝蔵院流槍術の名手、照姫を守護するも城中に弾丸炸裂し死亡。
八月二十九日、佐川官兵衛決死隊を編成し藩主に願う、皆は盃を賜い佐川官兵衛は正宗の佩刀を、一番砲兵隊、別撰隊、衝鋒隊、順風隊、別楯隊、遊撃隊、およそ千名。長命寺裏の戦いは銃器乏しく戦況悪しく敗退。城へは戻らず各地で転戦。九月に入り、政府軍の攻撃すさまじく、一昼夜に二千七百の弾丸が城に打ち込まれる
九月十四日、政府軍総攻撃するも城は耐えるが、十五日、越後口総督・一瀬要人が戦死、日々死傷者相次ぎ、食料も逼迫。敗色は明らか、家老・梶原平馬、山川大蔵は、降参決断、手代木、秋月を派遣、止戦工作。土佐藩参謀・板垣退助、降参手続きを進めた。
九月二十二日、午前十時、昨夜より婦人らの手になる包帯の残りの白布を縫い合わせ三枚の白旗作成、長さ三尺幅二尺、一間半の竹竿に結び、一本は正門前石橋西端、一本は黒鉄御門藩主座所前、残りの一本は裏門に立て降参。正午、薩長軍軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九が式場到着、秋月、白旗を手に中村らを迎え、続き藩主松平容保、喜徳の二公礼服に小刀、大刀は袋に入れ侍臣に持たせ、降伏謝罪書を中村半次郎に。藩主この後、重臣、将校たちに決別の意を表し、城中の空井戸(死者をここに投げ込む)と二の丸墓地に花を捧げ礼拝、将兵たちは天を仰ぎ、地に伏し号泣。藩主、滝沢村妙国寺にて謹慎。降伏せし会津軍総員は四千九百五十余人、婦女子五百七十余人。
降参を知らぬ佐川官兵衛、飯田文次郎と共に越後口から政府軍の背後を狙う。大内を守る砲兵隊、大沼城之助から高橋某が率い佐川と連撃し進軍。武井寛平の一隊は二十四日大沼の政府軍を撃破。各地で散発的小競り合い。一ノ瀬数馬、星野胤国は藩主の帰順書を佐川に示し軍を収めさす。同日政府軍鶴ヵ城に入城、会津軍は天寧寺口から猪苗代に送致謹慎、佐川は塩川にて謹慎。 
下級武士次男、広沢安任は藩校日新館から江戸昌平黌(しょうへいこう・幕府の設立した学校)に進学し京都で六年間公用人を務め西南諸藩の志士、英国公使館アーネスト・サトウ一等書記官とも交友。戊辰戦争開始と同時に藩命にて江戸で和平工作、会津藩帰順後は捕縛され投獄。
長岡久茂、天保十一年(1840)生れ、経史に明るく日新館から広沢同様江戸昌平黌に学び、戊辰戦争の際は弁論に長じたため会津藩使者、仙台、長岡を巡り奥羽列藩同盟結成に尽力。仙台、秋田、盛岡、米沢、二本松、弘前、新庄、棚倉、相馬、三春、山形、上ノ山、平、一関、福島、松前、本庄、守山、泉、亀田、七戸、天童、湯長谷、下手渡、矢島、新発田、村上、村松、三根山、黒川が参加、長岡の構想はこれらの藩で奥州独立国家を作ろうという壮大なもの。開戦とともに山川と日光口で戦うが、政府軍が八月二十三日城下に突入を見て、仙台湾に入港した榎本武揚艦隊に援軍要請するも、榎本は手勢五十を貸すのみ。その兵も途中で逃げ去り、又も仙台に戻り仙台藩主伊達慶邦に頼み込むも、伊達はすでに降伏。永岡久茂三十歳、一人切歯扼腕(せっしやくわん・歯ぎしりをし、自分の腕をにぎりしめること。感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること)、五尺の身を泣きふるわせた。 政府軍は会津藩士、商人などから金目の物を荷駄につけ略奪、泥棒が白昼横行、薩摩藩士が多く行い会津人は恨み骨髄。 最新式アームストロング砲(砲身に螺旋きられ飛距離増)で上野の彰義隊はわずか十一時間の戦闘で壊滅、この砲が会津に運ばれ小田山に据えられ標高差百三十米を利用されたのが敗因。鶴ヵ城は弾巣のごとき有様を呈するも一月も城に立て籠るはまさに会津魂。
会津藩石高二十三万石、実質六十七万石、戦死者三千、城下の三分の二が焦土。家臣らの工作で再興となるが三万石に削られ、場所は猪苗代または陸奥の北部のいずれかと決定。場所について藩論は割れ、東京在住の家臣は会津にこだわらず、狭隘(きょうあい・せまい)な猪苗代での生計は立たないと主張。(アームストロング砲で壊された鶴ヶ城)会津は降参後、人心は荒廃、各地で農民一揆続発、庄屋を襲い土地証文を焼き捨て、金品を略奪、人心荒廃、結果的に下北を選ぶが、これが困窮の始まり。政府の処置は列藩同盟諸藩に厳しいが会津藩には特別。この決定をなしたのが、山川、広沢、永岡たち。これに従う会津藩士一万七千人。不毛の地、下北の風土も知らず陸路、海路にて北を目指す。時は明治三年四月十八日、三戸において黒羽藩から斗南藩へと引継ぎ。斗南藩三万石領地、二戸郡金田一村以北、三戸郡は八戸南部藩の領地を除く全て。
ここから藤沢一族の苦難の歴史。(続く)

2009年2月19日木曜日

やれば出来る港湾河川課

ある土建屋の土砂崩落で河川が埋まり、その浚渫で280万かかった。この事は記したが、それが好転したのは、河川課が除雪の仕事をその土建屋に斡旋。
十二月、一月と除雪出動、なにがしかの金が市に返済された。よろこばしいことだ。変に水辺の楽校と癒着するよりは困民救済の方がよっぽど正しい。課員は「はちのへ今昔」に汚い手口と罵られたことに腹を立てて顔色が変わったが、こうして、一つひとつを解決することの方が大事ではないのか。
 市民の税金でした浚渫の代執行の請求をするのは大事な仕事。しかし、払わないのと払えないのとでは天と地ほどの差がある。金が無くて払えない人には仕事を与えよダ。それを理解できないは情けない。人は誰しも渡らなければならない橋、川がある。
 おちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞしらるる、で、零落したことのない温室生活の役人バラにはわからないことなのサ。産を倒し人に罵られ、人通りの少ない道を選んで歩かなければならない苦衷を知らない奴には貧乏人の辛さは理解できやしません。
 知ってもらっても助けにゃならない、でも、仕事をもらえれば干天の慈雨、思わぬ所で手にした百両で、これは少しでも息継ぎができるものさ。そうして、人生の川を濡れずに橋を渡してもらえるのサ。
 長い人生、山坂もあり川もある。それでも、たまさかの情けに出会うとき、心の底から、まだ人生も捨てたもんじゃないと、女房の手を握り締め、しみじみ思うものサ、それは貧乏暮らしをしたものだけが味わえるのヨ。それの積み重ねで、「はちのへ今昔」のようなヨレヨレ爺になっちまうのサ。諸君等も張り切れよ、今居る席でしか頑張れないのだから。精一杯おやりよ、「はちのへ今昔」は困った者に力を貸す。何故なら若者の悩みは「はちのへ今昔」の悩みなのだから。

2009年2月18日水曜日

公民館の底力 市川公民館30周年記念誌発行


学の市川、行動力の小中野と呼ばれるほど、公民館には館長の動きで特性が現れる。この市川公民館長を長く務めたのが木村隆一氏、教員から館長へとすすまれ70歳をむかえて館長職をしりぞいたが、この人が無類の人間好き。
 吉田松陰というのがいて、これは若死にするが、長州の旗頭、これが塾を開いて後進を指導したが、その人間の良いところを見つけて誉め倒す。これに力を得て実力以上のものを示す。それがいつしか実力に代り仲間から重く用いられる。こうしたことが松蔭の人物評の良さだ。
 これを前木村館長は実践した。そのため、この人の周りに人々が寄った。それで木村氏も実力以上のことを成せた。それが轟木生活館の新築だ。この木村氏が建築資金を集めたとき、木村さんに来られりゃ出さなければなるまいと多額の寄付も賜った。それは皆が木村氏の地域に対する努力を知って、そして認めた結果だった。
 そして、市川公民館も三十周年を迎え、またまた、木村氏が力を発揮。それが「市川とともに」の発行だ。どのページを開けても、市川の今が凝縮されている。このカラーをふんだんに駆使したページに父母、祖父母、子、孫の写真があるある。現代は映像の時代、これは手にした瞬間に頼りなくなる。しかし、印刷物は質感、重量感があり、確かにある、確実にあったの訴求力が横溢する。ここにこそ印刷物の良さがある。三菱製紙も協力しいい記念誌が出来たものだと喜びを共にする。
 地域はそこに住む人のもの、しかし、そこに住まずとも、こうした記念誌を通じて、ああ、この時代にはこうした人々がいて、支えたのだなと知る喜びを持つ者が出る。それは三十年後の八戸市民なのだ。それが市川居住の地域住民にとっては過去の遺産でもあり、時代を共有できなかったが、その時代を見事に切り取った額縁、つまり、それが記念誌を手にすることなのだ。
 市川に轟木小学校あり、その初代校長は江戸幕府瓦解のとき会津の城で砲兵隊長を務めた藤沢茂助だった。会津藩の藩校、日新館はあまたの英才を生み、その流れを轟木小学校は受け継いだ。だからこそ、市川は学の市川と呼ばれる基となるのサ。

市議会定数見直し案浮上は無意味

八戸市の財政逼迫の論理にワル乗りさせられているが、議員の年間歳費は4億円、これを削減してもタカの知れたこと。
 議員の仕事は行政の目付け、これに腐心せず我が財布を心配するから見えるものも見えない。ここで議員定数を削減してみろ、ただでさえ役人のズルを見抜けないのに、その目玉の数を減らすは両の目玉に眼帯かけて市役所を歩くようなもの。
 ズルい役人の勤勉手当の一律支給をやめさせろ。7億5千万円もある。それをいい格好して、自分たちから襟を正す? 馬鹿も休み休みお言いダ。 残業手当も3億8千万だ。役人におべっか使う暇がありゃ、市役所の中を廻れ。もっと予算・決算の書類をよく読め。不正・癒着の山だヨ。酒飲むことばかりを考えず調査・精査の時間を取れ。市民のためになるは努力以外にはない。人気とりの策を狙う前に、ズル役人の根絶を図れ。議員定数削減をどうしてもしたいなら半数にしろ。だが、役人の不正・癒着を徹底解明をした後だ。

2009年2月17日火曜日

水産業の衰退

宮本常一著作集13
8 弱体な漁業資本
 水揚げを競って 私は九州沢辺の島々を、昭和二五年から二九年にかけて、しばしば歩いたことがある。そのころ、この一帯の漁村には、すばらしい活気かあった。巾着網船が海面をうずめ、夕方になるといっせいに沖へ出てゆく。船はディーゼルで点灯して魚をあつめるのだが、そのおびただしい光りは海面にはえて、昼のように明かるかった。
 もと、巾着網は無動力で、集魚にも肥松のかかり火をたいていた。それがしだいにカーバイドになり、バッテリーになり、ディーゼルになっていった。より明かるい光りに魚があつまるので、一隻が新しい集魚灯に切りかえると、他もそれに切りかえざるをえない。動力をはじめ、機械整備についても同様である。船は水揚げを競って動力化し、大型化していった。
 借金はつもる一方 そのはじめ、わずかな資本でスタートした巾着網も、こうして技術の革新や経営の改革のために、いくら豊漁がつづき、またその利益をつぎ込んでいっても及ばないほどであった。そして、経営規模と借り入れ資本だけは増大していった。その競争の、もっとも激しかったのは昭和二九年ごろである。
 ところが三十一年ごろから、イワシがめっきりとれなくなった。まったくとれなくなったわけではなく、とれ方が、ずっと減ったのである。だから、いちおうは出漁するが、とれた魚では経営費が出なくなってきた。網を維持するためには、いきおい多額の経営費をつぎ込まねばならず、それはすべて借金になってゆく。といって、網を売ってしまっては乗組員の生活の問題もあるし、あるいはもういちど豊漁を、という期待もある。網一統を経営するためには一億円から一億五千万円くらいの資本がかかるが、それを売るときは三分の一の価値もない。しかも、網を売って得た金は借金のアナうめに消えてしまうのだから、できることならいかに苦しくとも、赤字がふえても、網は維持したいというのが、網主共通の本音であった。
 李ラインを越えて が、ついに借金には耐えられなくなって、網を売りはじめた。長崎県野母の樺島は、一三統あった網を一〇統まで売り、残った三統のうち二統が売られるのも時期の問題とされている。おなじ長崎県平戸島の北にある度島では、六統のうち五統が売られた。そのなかには網元として二〇〇年の伝統をもつ吉本家も含まれている。
 資本の弱いのは、農民資本ばかりではない。漁業資本も大手の十数社を除いては、まだ虚弱なのである。世界的にみれば日本の工業資本も弱い(自己資本率二割)といえよう。しかし、漁業資本における自己資本の割合いはわずか一割、さらに弱体である。
 イワシ漁は、全国的に少なくなっているが、日本の沿岸すべてでとれなくなったわけではない。鳥取県の東、また東シナ海の朝鮮半島の西南、いわゆる李ラインのかなたではとれている。そこで地元の網子だったものは、島根、鳥取、石川方面の巾着網漁に雇われてゆくものが大半で、また生き残った巾着網は李ラインを越えて、密漁に出かけるものも少なくない。
 前記の度島では、網子としても出かせがず、ひきあわない地元の網鉛にも乗り込まないものが、二、三トンの動力漁船をつくって、釣り漁に転じる傾向が目立ちはじめた。大型化・近代化をきそったすえに、ふたたびもとの原始的な漁法へともどらざるを得ないとは、なんという皮肉だろうか。そして彼らは、農民以下の低い生活に甘んじて、ほそぼそと生きている。
 工場しのぐ生産性 静岡県清水市に、マグロ船、盛秋丸の事務所をたずねた。清水港は年間水揚げ高三五億円、とりわけ遠洋マグロ、カツオ船の根拠地として知られている。盛秋丸も三〇〇トンから一五○○トン級のマグロ船八隻、四○○○総トンを保有する個人会社だが、いずれも船齢のわかい優秀船で、子会社として冷凍倉庫や、マラヤのペナンには海外漁業会社を経営している。
 「遠洋マグロは、出たら必ず満船して帰ってきます。漁場調査も行き渡っているし、船の装備も近代化しているから、当たりはずれというようなことはありません。漁業といっても工場生産のようなものですね」
 この会社の場合、管理部門をふくめて、従業員一人あたりの年間売上高が二三〇万円前後というから、たしかにオカの工場をしのぐ生産性である。乗組員は年間ふつう三ないし三・五航海、二〇歳前後で経験四、五年ならば、食べて五、六〇万円の収入になるという。
 この詩水港や、静岡市をへだててすぐ隣の日本一の水揚高を誇る焼津港(年同一一四億円、昭和三六年度)の繁栄は、主として安定したマグロ、カツオ漁に負うところが多い。
すすむ盛衰の格差 いうまでもなく、日本は世界一の漁獲量を誇る(六二五万トン=昭和三六年)の水産先進国である。しかしそれは、焼津、塩釜、下関、三崎、長崎といった漁港を繁栄させるとともに、一方では漁村の衰微という格差をますます進行させている。全国二三万の漁業経営者のうち、三トン未満の沿岸漁家は一九万三〇〇〇、それで漁獲高は全体の二割を占めているにすぎない。
 焼津港が今日の繁栄をみせたのは、はやく協同組合を組織し、漁法の近代化をはかったことにもよるが、見のがせないのは地の利である。ここに水揚げされた魚は、翌日には東京、大阪の巨大消費市場に、また四日以内に、北は礼幌から南は熊本まで送り込まれる。冷凍設備、輸送手数で飛躍的に発達した今日では、たとえ船籍がどの県に属していようとも、この根拠地を利用するのが便利である。そういうところには、ますます冷凍、加工などの処理工場、あるいは船腹の修理ドックなども集中してゆくと同時に、全国に散在する小さな漁港をおとろえさせてゆく。
 血みどろのあらそい 愛媛県二神島(周防灘の東部)は、有数な漁村の一つである。この島では、いくつかあったイワシ引網を二統に整理し、これを漁業組合の直営にして船引網から巾着網に切り替え、もめん網をアミランにし、経営の近代化をはかった。ところが、それを完成したころからイワシがこなくなってしまった。そのため経営費がすべて赤字になってゆく。なんとかして立ち直リたいと苦心しているが魚のこない限りはどうしようもない。
 瀬戸内海のように、外海からくる魚を待つよりほかはない漁村では結局、魚の入り口で魚をとることを制限してもらうよりほかに方法がない。が、西瀬戸内海の入り口、豊予海峡には八幡浜のような底引網の大きな根拠地がある。もとは、東シナ海をかせぎ場にしていたが、いまは、内地の沿岸でかせがねばならず、豊予海峡ばかりでなく内海へも侵入する。それが違法とわかっていても、大型漁船がやるとなると、小型のローラーゴチ網なども禁漁区へどしどしはいってくる。
 こうした底引網の密漁を防ぐためにもと、岡山県では、コンクリートブロックの魚礁をたくさん海底に入れたが、こんどは網の下に大きな丸太をつけ、魚礁にローラーをかけるようなやり方で魚をとる漁船まであらわれた,積み上げてあるコンクリートブロックをくずして、平らにしてしまうのだから、漁船自身も馬力の強いものでなければならない。内海の漁民は、こうして生きるために血みどろの争いをつづけている。

市民を騙す協働の町づくり

八戸市役所職員の町内会入会率の低さを嘆いた。そこで南郷はどうなっているかと調べた。南郷区の職員は63名、八戸市以外から通勤してくる不心得者9名を除く54名が対象。町内会不加入者は5名。ブルータスお前もか、で南郷区は住民の数も少なく仲間意識の高い所かと思いきや、同じようなもの、目くそが鼻くそを笑う程度。
 しかし、加入率は9割でオール八戸職員の数よりはマシ。つまり、八戸市役所本庁の奴ばらの加入率が悪いということ。きゃつらは遅刻はするカラ残業はするでやりたいほうだい、残業代は3億8千万、ばら撒き勤勉手当が7億5千万、都合11億3千万円が煙と消える。悪党は市役所職員だ。役人天国間違いなし。赤信号みんなで渡れば怖くない。
 役人の子はににぎにぎをよく覚え、川柳にこうしたのがあるが、これは賄賂を指すが、青森県庁のパソコン窃盗事件はよくある手、八戸選管の不正流用を「はちのへ今昔」はとりあげたが、これが問題視されないのも妙。前は他紙にも教えたが、最近はどこの新聞にも教えないことにした。新聞屋は自分の足で情報を探す努力を怠ればおしまい。役所の垂れ流し情報には真実はなく、真実らしい臭いだけがするもの。
 協働の町づくりもお題目は立派だが、市民をタダで手足にしようの啓蒙策、今回の断水で市役所職員は袖に手を突っ込み、市民、特に町内会長、民生委員をこきつかったシナの役人を見たようなもの。かててくわえて、市役所職員は二割もの人間が町内会に未加入、こんな状態で協働の町づくりはよく平然と言えるものだ。
 市長も場をみて入会をすすめているが強制はできないと弱腰。堂々と言え、市民の為になるのが市役所職員、市民に協働の町づくりを願う以上、我々が率先して町内会のためになるのだ。そんな頭もないのかね、小林さん、大体、市長、副市長は町内会に入っておられるのかね、よもや、二割の側にはおられまいおられまい。

2009年2月16日月曜日

司馬遼太郎の八戸の話


講談社文庫 日本歴史を点検する
海音寺潮五郎と司馬遼太郎対談集
八戸の話が出ている部分を抜粋。半分当っている。
海音寺 津軽家がそうですね。あれは元来は南部家の家来ですが、南部氏が家中の事情でもたもたして行けないでいる時に、さっと秀吉のところへ行って、津軽の領主たることを認められたのです。南部氏の領内では、津軽地方が一番よいのですよ。水田が沢山あり、十三湊などという北海道から越前や若狭を経由して京都地方に北海道物産を運ぶ船の寄港地もあってね。そこをちょろっと取られてしまったのだけど、秀吉がすでに認めた以上、南部氏としてはどうすることも出来ず、泣き寝入りなんですよ。だから、南部人はずっと津軽を恨みましてね。江戸時代末期に相馬大作の事件が起こったのはその恨みのためですよ。今日でも、青森県の西部と東部とは仲が悪いのです。西部は津軽、東部は南部ですから。
司馬 八戸市というのがありますね。あれはもと南部藩の藩史にとってはまあ創業の地でもあり、藩体制のなかでも、盛岡が首都、八戸が副首都といったところだったのですが、明治のときに、それが南部一藩が岩手県になったのに、ここだけが、旧隣藩の津軽藩の方にやられて資森県に編入された。
 八戸人はそれが不服で、今でも八戸の人で、ぼくの友人ですが、青森県だといったことがなくて、南部だ南部だと言ったりしている。私も南部というのは岩手県だと思っていますから、あいつらは岩手県だと信じこんでいたところ、なんかの時にその友人の略歴を宛ると、青森県と書いてあるんですね。
 最近、盛岡市へ行った時に聞いたのですか、工業専門学校という新制度の国立学校が、青森県に置かれることになって、その予定場所が青森市と八戸市ということになった。当然、両市取りあいの大騒ぎになったのですが、青森市の方が最初有力で、県出身の国会議員やら県会議員にずっと働 きかけてなかなか盛んだった。そこで八戸市は悲痛です。青森県八戸市ですが、本来は南部の八戸ですから、もはや青森県との縁はこれまでとばかり、旧南部藩の岩手県に頼った。
 本来隣県です。そして岩手県出身の国会議員と、盛岡にある岩手放送と、岩手日報という新聞社に頼んだ。それら「南部県」は、「本来八戸は南部領である。可哀想に明治になって津軽へ貰いっ子にやられているが、旧誼によって扶けてやらねばならない」ということで大いに政府筋に働きかけて、とうとう工業専門学校は、青森から八戸に持って来ることに成功してしまった。
 八戸はおかしなところで、町でも、地方紙は県紙である青森新聞(東奥日報の誤り)はあまり購読しない。ほとんど岩手日報(デーリー東北新聞の誤り)という南部エリアの新聞を取っている。旧藩の領域というのは自然地理と人文地理がぴったり合ったところが多くて、この悲喜劇はあるいは明治に県域をつくった時のむりがいまだに無理になっているかも知れませんてすね。
海音寺 維新戦争に官軍に反抗したところは損してますな。普通なら、今の青森県東部と岩手県中部以北とは旧南部藩領なんですから一県になるべきであり、岩手県南部は旧仙台領ですから宮城県に編入さるべきだったのでしょうかね。全然それを無視して、バサッと機械的な区分をされたので、いろいろ不便だろうと思いますね。

2009年2月15日日曜日

一代の風雲児、小笠原八十美氏五十回忌


虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す、人は一代、名は末代の言葉もある。
たかだか生きても八、九十。
昔は人生五十年、今は幾らか延びたが、細々息を出したり吸ったりして生きても、それは生きたんじゃない。死んでないだけ。
やりたいことを存分にやっての往生が、本当の往生。その点、この小笠原八十美って人はいまだに人口に膾炙(じんこうにかいしゃ・なますやあぶり肉がだれにも美味に感ぜられるように、人々の口の端にのぼってもてはやされる)される。急行の止まる駅には小笠原の女がいた。金でも物でも、使いきれないほどあった。手紙は秘書に書かせた、などなど。毀誉褒貶(きよほうへん・「毀」はそしる、「誉・褒」はほめる、「貶」はけなす意、悪口を言うこととほめること。ほめたりけなしたりの世評)の人物だが、この人のことは知らなかった。五戸の知恵袋、安藤陽三さんに小笠原八十美を教えていただいた。
「大人物です、三本木にいた男で、調べたら面白いですヨ」その言葉に唆されて、八戸図書館で調べた、調べた。
確かに面白い、東奥日報の記事からも幾つかヒント、二月に入って安藤さんから電話。
「小笠原八十美の五十回忌が昨日あったそうです」
「エッ、行きたかった」
「南部病院の院長が末裔で、その方が五十回忌をされて、多くの縁故者が集まったそうで」
「残念…」
思わず残念の言葉が出た。三月号に掲載予定だったが事情で四月号から連載予定、その原稿整理中に、この知らせ。イヤァ、惜しいことをしたもんだ。関係者から生の声が聞けたら、味付けが変わったものだが…
この小笠原八十美氏は調べれば調べるほど、自分の置かれた立場が見える男だということが判明。
若いうちは典型的な不良、ませたガキ。
この小笠原八十美一代記が八戸図書館にある。
昭和二七年刊、「小笠原一代記」の題名で郷土資料室の棚。
著者は東京目黒の平田小六。
存命中の記載だけに、厄介な話にはボカシが掛けられ、偉人、英雄の面が強調されている。これは致し方ない。「フォーカス」や暴露雑誌ではないから、口当たりの良い話ばかり。
ところが、人生にはピンチの後にはチャンス。人生は仕組まれた罠。
これをいかに振りほどき、逃げるじゃなく、その危機を幸運に変えるだけの人間力、これがあるとないとでは天と地の開き。
この小笠原八十美の沸き出ずる力を、現代の若者に読み取ってもらいたくて連載する。
先ずは、形式的なものからお眼にかける。
十和田市史から、小笠原八十美関係の抜き出し
三本木実科高等女学校の設立
大正期ともなると、国民生活は欧州の新傾向に大きく影響され、外面的形式的には近代化の方向をたどったが、学問や教育の分野にも自由主義的傾向が強まり、労働運動・社会運動も活発になり、婦人の参政権を要求する声が高まっていった。
中央から遠く離れた三本木地方にも、交通機関の発達にともない、緩慢にデモクラシーの風潮が波及。時代趨勢を背景に、三本木町の指導層は婦徳涵養の必要性を痛感し、女子中等教育機関の設置を真剣に考慮。
大正十四年(一九二五)十二月十五日、町長原田鉄治は、実科高等女学校の設置その他の案件を三本木町会に諮る。
出席議員は篠田龍夫、小笠原八十美、大坂七郎、豊川留之助、云々とあり、十和田市史に小笠原八十美の名が登場。
その後、小笠原八十美の名が出るのは、同市史の
昭和前期
① 民政党系・政友会系両派の対立
大正十五年(一九二六)十二月二十五日、改元が実施され昭和が始まる。この時代前期の三本木町における最大の問題は政争であった。
その頃わが国は政党政治が実を結び、民政党・政友会の二大政党が交互に政権を担当。両党とも保守的政党で、政治思想に根本的違いはなく、ただ支配層の利益を擁護し政権獲得に汲々とするばかりで、民生の安定は二義的。
中央における二大政党の対立が、三本木に波及したのは昭和二年六月二十八日に執行された上北郡の県会議員補欠選挙。この選挙は法奥沢村出身小笠原耕一の死去で、三本木町から民政党公認の大坂七郎と、政友会公認の小笠原八十美が立ち、町は二つに割れ激戦、結果は小笠原八十美が三四二五票、大坂三二一七の二百八票の僅差。
これ以後三本木は民政党系・政友会系に二分。民政党系を大七派、政友会系を八十美派と呼称。町役場の人事に介入し町民動揺。
第四代町長和田足也が病気で退職、町議会は昭和七年二月三日の町長選、結果、八十美派の益川東太郎が八票、大七派の篠田龍夫は七票、一票差で増川町長誕生、助役に本多浩治、用捨なく吏員更迭し、町役場を政友会で固めた。
昭和八年五月一日、定員を二十四名にし町会議員満期改選、当選者は、沼田耕悦、米田房五郎、小笠原八十美、云々
益川町政の与党は八名、三分の一では難航、選挙後十七名の有権者から選挙の異議申し立てが出る。理由は同一で、選挙には四十八名の無資格者が投票、そのため無効、やり直しを求めるというもの。
五月十七日の町議会では、二ツ木議員は「町当局者と異議申し立て者とは昵懇の間柄から、何らかの意味で気脈を通じている」と発言。
同年五月十四日、益川町長は町会議員選挙並びに当選効力に関し、異議申し立て決定の件を上程し、川崎新兵衛を委員長とする八名の調査委員会に付託。一週間の調査で、委員長川崎は「無効票を除斥し決定」の提案に、小笠原八十美は、「今回の選挙は無効」の動議を出し対立。採決結果、二十四名をそのまま当選者とする川崎案に賛成十四、小笠原案は八で川崎案に決定、申し立て者はこれを不服とし行政訴訟、昭和十一年七月二十日、「選挙は無効、但し三浦、篠田の両名は当選効力を失わず」の判決。二十二名が失格。
昭和十一年八月十五日改選し、大七派がまたも勝利。
昭和十年九月二十五日の県会議員選挙では、政友会公認小笠原八十美が最高点で当選、民政党公認の川崎新兵衛は二位当選、激戦のあまり買収事件となる。これが晴山部落買収と、それに付帯した拷問事件。
小笠原派、川崎派、浜中末吉派の三派が、晴山部落民を買収した嫌疑で検挙、その際、取調べの警官に拷問されたということで告訴、結果三名の警官は有罪、選挙違反被疑者は全員無罪。
その後の市史には
小笠原八十美衆議院議員に当選
昭和十一年一月二十一日、帝国議会解散、二月二十日総選挙。青森県弟一区定員三名には民政党の工藤鉄男、森田重次郎、和田喜太郎、三浦道太郎が党公認を要請、政友会は藤井達二、小笠原八十美、千葉伝蔵が申請。民政党は工藤、森田を、政友会は藤井と千葉を公認。小笠原は県議会議員辞職し、公認も辞退し背水の陣。
激戦で各派とも買収。個別訪問で違反者多数。県警調べ、買収二五三、戸別訪問二八九。
結果
当選 一七九○二 工藤鉄男
当選 一三七六三 小笠原八十美
小笠原八十美は不利な票田の三本木から立ち、青森、八戸の候補者に挑み、危なげなく堂々当選、世人を驚嘆せしめた。
小笠原は夙に十和田湖の開発に志し、大正十三年湖畔休屋に旅館、世界公園館を開き、同時に遊覧船および自動車営業を兼営したが、その後昭和二十一年には、十和田鉄道株式会社社長に就任、五百万円の資本金を五千万円に増資し営業基盤強化。
二十六年六月、軌道を広軌に改めて電化、三十年九月駅及び社屋を改築。
大正十四年三本木町会議員、昭和二年青森県会議員、昭和十二年衆議院初当選、当選八回、院内の馬政通として活躍。昭和三十年十月中央畜産会会長、胃潰瘍で翌三十一年十二月二十七日、六十八で死去。
昭和十一年の小笠原八十美の当選で三本木町も初めて地元代議士を持ったが、小笠原は個性強く、世評は必ずしも一様ではない。豪胆で覇気に富み、清濁併せ呑む度量あり、分別早く果断実行を常とした大物。
これだけでは、何が何だかわからないのヨ、じゃないけど、本当の小笠原八十美の凄さは、東奥日報の新聞記事の中に潜んでいる。大正、昭和十一年あたりに焦点を当てて、丹念に小笠原の行動、言動を追ってみる。
そこで、なるほど、この男は凄いと驚嘆の声を読者諸兄は上げるに違いない。
ピンチの後にはチャンスありは野球の世界。ピンチで頭を抱えるは誰にも出来る。それを踏み台にして飛び上がったのが小笠原だ。能書きはいいから教えろ? 次号をお楽しみに、いいところで切るナ、紙芝居と同じだ。ハイ。

2009年2月14日土曜日

八戸及び八戸人15人柄は滲み出て顔は履歴書、日舞師匠泉珠峰さん

八戸に人は集まり、その数二十五万、ゴマンといるわけだが、又、逢いたいなァ、話をしてみたいなァと思わせる人ってのは数が少ない。そんな数の少ない一人に属するのが、この珠峰さん。泉紫峰さんのお弟子さんで、時折、遠くで見かける人だが、実に人柄がいいなァと思っていた。
人に好かれるには「ハイ」と「イイエ」しか言わずに、黙ってニコニコしてるといい。これで大抵誰からも好かれるようになる。
これが極意だが、簡単そうにみえて、存外難しい。何のかんのと聞かれも しない、言い訳や愚痴を思わずこぼす。これを口から出さずに「イイエ」と言いながら相手を食い入るように見る。つまり仕種(しぐさ)で訴える手段もある。ボディーラングエッジて言い方もあるが、外国から伝わった手段方法じゃない。日本古来のもの、能、狂言などにそれを見つける。勿論、歌舞伎の世界、つまり日舞にもあるんだ。
日舞の世界から宣伝広告に頼まれた訳じゃァないが、踊りを覚えると、人柄が変わる、それもいい方に、背筋は伸びる膝の痛みはない、若く見えると三拍子も四拍子も揃えたのが日舞。人前で踊る楽しみも覚えて、幾つになってもやめられないのがこの世界。
珠峰さんが踊りの世界に入るきっかけは写真の左の紫峰さんに手ほどきを受けたこと。世の中、何が自分の人生を大きく変えるかわからないもの。さて、その辺を中心に珠峰さんの半生を皆さんに紹介。
珠峰さん、本名は高宮巻子さん、昭和二十一年小中野生まれ、父は富田船大工、母は北海道の産、室蘭の造船所に父が働きに出た時知り合い結婚。その子らは三女一男。その次女が珠峰さん。
県立高校の受験と意見を異にし、入学しなかった珠峰さん。落ちたと書かないところがミソ。そのまま湊の三宅商店っていう軍手屋さんに就職。そこで軍手を作っていた。昭和三十七年頃、八戸の水産界が日の出の勢いを見せる頃、夏堀源三郎って代議士が熊谷義雄にその座を追われ、憤死しちまう時代だ。軍手も売れて忙しかったことだろう。
その軍手工場の同僚が踊りをやろうよと持ちかけた。
聞けば、その娘の家に近所の人が集まり、踊りの師匠が教えにくるとのこと。「新年会で二人で踊ってみせようヨ、みんなびっくりするべ」とでも言ったのだろう。この言葉が珠峰さんの人生を決めた。その踊りの師匠が泉紫峰さん。それから、ず~っと泉紫峰さんと共にすごしてきた。まるで 姉妹のように。踊りの世界は奥が深い。上手、手練ともなれば、更なる難しい踊りに挑戦するから、何処まで行っても終わりがないほど。
若い娘だと、結婚が踊りの世界に残れるか否かを決める。この珠峰さんもこぼれるほどの色気を示す女の盛り、二十三才で結婚を迎えた。生涯の伴侶は造船所に勤める真面目な青年、踊りを習うきっかけになった同僚の親戚。つまり、この同僚と出会わなければ、珠峰さんは結婚も日舞とも出会わなかった。
「人生っておもしろいですネ、サヨナラ、サヨナラ」の淀川長治さんじゃないけど、不思議なものが待ち受けるものだ。そして、結婚し家庭に入り込んだ珠峰さんは、ご主人に踊りの「お」の字も言わない。
ここが、この人の真骨頂、人間の上に入るもとだ。結婚は人生の最大のもの、主人に気に入られ、共に白髪の生えるまで添い遂げるのが女の道と信じている。今もだゾ。ここを大きな声で言いたい。

もっとも小さな声じゃ聞こえない。健気に働く珠峰さんに亭主が聞いたナ「お前、踊りはどうするんだ、泉紫峰さんの稽古場に行かないけど…お前には才能があるんだ、気兼ねしないでお行きヨ」いい亭主だネ。人はかくあるべきだヨ。俗に伴侶をベターハーフ、良い半分と言う、まさに二人で一人前、独身じゃ気づかぬことを教えてもらえるのも結婚の良さだヨ。「屁をしても面白くもない一人者」の川柳もあるゾ。
その言葉を聞いてイソイソ出かける珠峰さん。紫峰師匠の教えよろしく昭和四十九年に名取り、そしてめでたく師範が五十 四年、紫師匠は多くのお弟子さんに恵まれ、押しも押されもしない名人となられた。その進歩と発展を共に苦しみ喜んだのが珠峰さん。
ご主人よりも長い付き合いなのだ。師匠の泉紫峰さんが中央で踊る、或いは他府県で舞われるとき、珠峰さんは授かった我が子を小中野の実家に預けて出かけた。
師匠の踊りをしっかりと眼に焼付け、その上手さと巧みな技量を頭にたたみこんだ。いつもは優しく、人の気をそらさぬ珠峰さんも、自分のお弟子さんには厳しい。それは紫峰さんの姿から身につけたもの。いい加減に踊ればキチンとした芸にはならない。師匠のひたむきな芸への熱意だけが人を大きく 伸ばすことを我が眼で確認したからに外ならない。いつもは優しい珠峰さんが叱咤する言葉に涙したお弟子さんが幾人いたことか。中には、もう辞めよう、ここまで行ったら辞めるんだと決めながらも、お稽古が終われば、いつものにこやかな顔に戻り、優しい言葉をかけてもらえる喜びで、もう何十年も珠峰さんの門をくぐり続ける人がいる。それは日舞の魅力もさることながら、やはり珠峰さんの持つ人間力だ。
何らかの理由で踊りを続けられないことが、人生には発生するもの。そして、その嵐が何年か、あるいは何十年かで収まったとき、また珠峰さんの門を叩く。そうした魅力を珠峰さんの門は持っているのだ。
何と言う表現が適当なのだろう、毎日が楽しく、そして踊ることが出来る自分が嬉しいという、珠峰さんの気持ちは何処から来るのだろう。それは仏教の言葉を借りれば簡単に解明できる。菩薩の力なのだ。あの観世音菩薩が持つ観音力、これは苦しみを共に分かち合い、そして、その苦を抜き去るという絶大な力なのだ。
この珠峰さんが、その観音力を知っているかどうかを筆者は確かめていない。だが、仏教が何たるものかを知らずとも、我が人生をひたむきに進むその中に、この力を身に付ける人を、現代社会の中で時折見かける。何を求めるのでもなく、何を期待するのでもないが、我が人生を進みながら、周りの人に力を与える。
それは生きる力と言ってもいい、精進する力と取ってもいい。人を励まし伸ばす力が珠峰さんにはある。
それを筆者はロクに言葉を交わした訳でもないが、あたかも鮫の灯台が夜行する船に、航行する指針となる光を、何を求めるでもなく、何を期待するでもなく投げ続ける力、それを珠峰さんの中に見出していたのだ。
観世音の力、諸経の王と呼ばれる観音経の偉大なる力は、聖徳太子も気づかれ、自らその解説本をお示しになられた。太子は今から千四百年も前のお方だ。日本人は偉大な力を持つ民族ではある。為政者の中にも立派な方はお出ましになられたが、この珠峰さんのように、庶民の中にも輝くものを持つ人が出るのもありがたい。
 今、珠峰さんの門を叩く人たちから珠峰さんの魅力を聞いた。
名取の悦峰さんは本名は深畑房子さん「根城から珠峰さんに習いたくて来ています。途中何人もの踊りのお師匠さんたちがおられます。私は珠峰先生の人柄が好きで、終生離れられません、指導が厳しくて涙 をながす時もあります。でも、人情味があって、長くご指導を受けてます」
旭ヶ丘の小笠原アサ子さん
「子供たちが一人前になって、やっと踊りを始めることが出来ました。遅い開始ですけど、本当に踊りの出来る楽しさを噛みしめています」
近くの細越サエさんは
「主人を病気で亡くし、悲しくて辛くて、何も喉を通らず、一人で泣いてばかりいました。でも、中断していた踊りが私にはあるって気づいて、八戸市民の出演する「ファンタジー」を見物に行き、踊りの素晴らしさを再認識しました。そして、又、珠峰さんに教えてもらえるんです。泣いてばかりいてもだめ、生きることは辛いけど、でもネ、楽しいこともあるんですヨ」
観世音菩薩のあまねく洩らさず人々を救いたいと願う心、それを現代に具現するのは人間の力、泉珠峰教室は電話43・5646

2009年2月13日金曜日

議会事務局は市会議員が町内会に入会しているかを調べる所ではないと返答

議会事務局が電話をよこした。係長がそれをしないといってきた。議員は自分の地位が大事だから100%加入していると思うが、それも憶測と推測。だから実態調査だ。
 ところが議会事務局はそうしたことを調査する権限がないという。それは議員が100%加入していることが判明したとき、自分たち職員が問われることを恐れたのサ。手前が悪いことをしていると影にも怯えて、尻尾をまいた負け犬が泣き声たてると一緒で、一犬吠えて万犬これに続くダ。
 赤信号、みんなで渡れば怖くないを地で行っているのが八戸市役所職員だ。これを分断させるには仲間割れだヨ。一人ひとりを折伏すれば二割は一割になりゼロになるのサ、その源が議員の町内会加盟の調査ヨ。
 ものには仕組みというものがあるのサ。生贄が議会事務局でしかないのだが、案の定、手の内にひっかかり、議会事務局はそうしたことをする所ではない。なら、何をするところだエ。
 自分の不都合を拒否する権利も当然ながら議会事務局にもおありだヨ。が、それを拒否することは議員たちが胸をそらして、そら見ろ、俺たちは堂々と加盟していると誇れる場を失わさせることになる。
 誰しも天下御免の大道を大手を振って歩きたいもの。そのわずかなチャンスを議員から奪うは議会事務局、姑息姑息。大を取り小を捨てよと習わなかったのか?市民の為はそうしたことを指すのだ。

八戸市役所職員町内会加盟率81%

市役所職員で地域担当職員37名の町内会加盟率は100%。これは仕事がらみだけに当然。ところが市役所全体でみると81%だ。もっとも階上に居住するなど不届きな奴もいる。そんな奴は辞めるがいい。
 また、町内会に入らぬ奴は辞職してもらい新規採用枠を増やすことだ、すると新規採用は二百八十名に上る、職業選択の自由と市民参加の協働の町づくりちはどのように両立できるのか。そんな考えで市民を動かすことができるのか。自分の都合ばかりを考える職員が町内会とうまくつきあえるはずもなく、知恵も力も職員は出さないヨと言っているのだ。
 町内会に参加しないと言うことは暗黙の反目なのだ。こうした職員がいるのは市長の責任だろう。強制加入はできないとしても、給与から天引きをしろ。町内会費を回避する以上、町内会に八戸市は補助金を出している。そこに天引きして積め。さすれば同じことになろう。
 有事の際は市役所職員だけではどうにもならん。市民に動いてもらわなければ解決しない。そのために広報調整課に職員を置き、連携と連帯を深めている。ところがどうだ。こうした弾は後ろから飛んで来るような奴が市役所の中にいる。それも二割もいるのだ。馬鹿野郎と叫びたい。
 こうした奴こそ市民が市民がと、お題目や念仏のように叫ぶのヨ。ズルさもズルし憎たらしダ。全員が町内会に参加するような職員をつくることが出来ない市役所ならば、崩壊、滅亡は間近いことだろう。
 市議会議員で町内会に加盟していない者はよもやいるまいと思うが念のため調べるように議会事務局に伝達した。これからは課別に誰が不加入かを調べてくれよう。

八戸市役所駐車場入場券は何のための二重チエック?

昨日市役所に行き、二つの課をウロウロ、うっかり行き先の課でハンコを押してもらうのを忘れた。最近、昔のことは良く思い出すが昨日何食ったかをすぐ忘れる。ボケの始まりだ。
 新館の一階まで降りてきて受付でまたハンコを押してもらうときに気付いた。受付は行った先で押してもらって来いと言う。仕方ないので付近の課でハンコを貰うことにして、高齢福祉課で入場券を出した。女の職員(名前も判明するも今回は記さぬ)がどこへ行ったかと咎めた。
○何処へ行ったかを言わぬとハンコを押さないのか
● そうではない
○なら余計なことは聞かぬことだ
職員は嫌々ハンコを押した。そこで気付いた。この二重ハンコ押しは何の役にたっているのかと。そこで総務課に聞いた。
●平成十年から今のシステムにした。
○それでは担当課の分類は出来ているのか、どの課に何回行ったかの分類が。
●そのようなことはしていない。
○気休めのための二重ハンコ押しなのか?
●市民が不正利用をしないためだ
○市民が用もないのに市役所の駐車場をタダでつかうと言うのか?
○そうだ、だからハンコを二回押させ不正利用を防止している
市民をワル者扱いだ。一時間は無料だが、それを過ぎれば有料になる。一時間の利用料160円を免れるためにワザワザ市役所の駐車場を利用するほど市民は暇じゃなかろう。市民はズルいと決め付けていないのか。ズルいのは市役所じゃないか。勤勉じゃない奴にも勤勉手当を支給しているゾ。その額年間七億五千万円だ。160円とどちらがデカイ。自分たちの事は棚に上げ、つまらぬ尻の穴の小さなことを重要視するな。市民がそれを喜びとして、今日も160円を免れたと喜ぶなら、喜ばしてやるがいい。そんなもので喜んでくれるなら嬉しいことだ。この二重ハンコ押しも検討し、廃止の方向ですすめ。

断水でわかった八戸市国際交流のやる気のなさ

八戸市内の外国人は829人、朝鮮語系266人、中国語系293人、英語系207人に分類できる。これらの外国人への断水情報が伝達されなかったことは一月十一日の東奥日報が報じた。
 この国際交流課は5日になるまで登庁しなかった。つまり断水は知ってても我関せずだった。この課が動かなければならなかったはず。ところが戦線離脱じゃ軍法会議だ。
 どう非常時の情報を伝達するか、ここに腐心するのが担当課の仕事、当然、新聞に叩かれたから対処方法を講じているだろうと出向くと、担当課長はノンシャラン。外国人が何人いるかと訊くと、個人情報ですのでお知らせできません。それは個人情報保護法のワル解釈。そんなことを規定していない。
 役所は仕事をしないのを旨とする。こうした発言を平然とする。そこでメゲれば負け。そこで冒頭の数字を押し問答しながら引き出した。
 課長、どうするの? 断水で判明したが、これらの人に携帯電話でメールを発信するべきではないのか。
● 何分、外国人のため言語が……
こんなものはパソコンで作成し翻訳ソフトにかければ可能だ。
自発的にどう対処するかを問われている。ほっとするメールで発信するのか、別の伝達網を構築するのか、日本も島国根性を捨て国際化の波に洗われる覚悟をしないと、不足する労働力、少子化を防ぐことはできない。そのとき大きな役割を担うのが、この国際交流課、それがボンヤリ昼行灯ではどうにもならなかろう。
 市民のためになるを忘れて自分のことしか考えないから見えるものも見えない、聞こえる声も聞こえないのサ。
 新聞に叩かれても、これだもの、「はちのへ今昔」が幾ら書いても屁にも思わない。あやつもジジイだ、そのうちくたばるだろうじゃ、二葉亭四迷だよ。親父にテメエのような奴はくたばってしめえと言われてこの名をつけたとヨ。「はちのへ今昔」も手口を変えた。役人諸君が嫌がることを徹底的にすることにした。泣くなヨ。

2009年2月12日木曜日

ほっとするメールの仕組み

市役所が緊急情報を流す。それが携帯電話から文字情報として受け取れる。世の中が変わって情報伝達手段も多様化した。このシステムは八戸市内のサンコンピューターが市役所に納入。その金額が五年リースで800万円。高くないのかネ、パソコンで作成した文書をメールで送るにはタダだゼ。それにわざわざ800万円もくれるは愚かじゃないのか。この会社も教育委員会のパソコン納入などで度々顔を出す業者。そして、それも値段が高いように「はちのへ今昔」には見える。一度、この業者の八戸市役所への食い込みかたを精査するときが来る。同時に元市長の中里氏に関係した業者も同様に市役所に食い込んでいる。これも追々調べてみたい。
さて、今回の断水前のほっとするメール利用者は4千、これが断水事故で5千に伸びた。市民全員が知りうる数ではないが、この伝達システムも利用の仕方ではかなり有効な手段となりそうだ。このシステムを利用できるのは防災室のほかに消防、教育委員会、生活相談など。時宜に応じた情報をいかに迅速に伝達するか、時間との勝負だ。
八戸市役所職員は情報を持っていると思い込んで近隣の住民は職員の姿を見つけると、断水はどうなってますかと尋ねる。これは市民の錯覚なのだが、地域住民に正しい情報が伝達しない場合にはこうした場面も見られるわけだ。すると緊急情報を受けることのできる職員の数が問題となる。断水前には215名、断水後には256名と増加はしたが微々たる数だ。市役所職員は地域住民のためにこそある。それがこうしたザマではどうにもなるまい。登録するのに銭がかかるわけでもない。それでも市役所職員は登録することさえしない。
自分たちの本分を何と心得るのか。所詮他人事なのヨ。だから年間7億3千万円もの勤勉手当を勤勉じゃない者にも平等に配る。八戸市役所は共産圏なのか? タワケ。先ずもって市役所職員全員がほっとするメールに加入しろ。それから市民への加入を促すことだ。率先垂範こそ住民を動かす原動力だヨ。

2009年2月11日水曜日

翁の八戸よもやま話 3 ルーツの果て 加藤萬次郎

  政治家岸信介は自民党総裁選で石橋湛山に敗れ、外相に就任。石橋湛山首相の病気退任後、岸内閣を組織した。
その岸首相の一言が、二人の自殺者を生むことになった。一人は私のルーツである両国柳橋の高級料亭とよばれている「柳光亭」の若き店主、古立太郎である。源流を井の頭公園に持つ神田川は、墨田川に合流していて、合流地点に長さ三〇メートルばかりの鉄骨の橋がかかっている。「柳橋」である。
粋な花街の風情はもう無いが、かつて、この一帯は東京の代表的な花柳界であった。柳橋のたもとに亀清楼、並んで柳光亭、柳橋を代表するにふさわしい高級料亭だった。柳光亭は、明治初期に開業し三百坪の敷地を持ち、百拾余年の歴史の上に君臨していた。柳光亭は政界、亀清楼は財界関係の顧客が多く、戦前、柳光亭に客があると、私服警官が取り巻いていたことは忘れられない。特に歴代総理が来ているときは、数台のパトカーが、いたるところに駐車していた。
岸首相が、柳光亭の女将(太郎の母)に、お座敷で声をかけた。当時、岸首相は日独協会の会長を務めていた。
 「ドイツには日本人が相当いる。あちらにも一つ、料亭が欲しい、おまえのところでやらないか」この一言が、古立太郎を自殺に追い込むことになる。他の一人は、古立太郎氏より後の、グラマン疑惑で命を断った島田三敬氏(日商岩井)で、釈然としない暗部はあるのだが、兎にも角にも、政治的に操られた結果であろう。
 ドイツに日本館が生まれた。正しくは「ジュセルドルフ日本館」設立は昭和三十八年、師走も押し追った十二月。資本金は三千五百万円。出資者は、岸首相の秘書川部美智雄、古立太郎、それぞれが三百万円。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、三井物産、三菱商事、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、富士銀行、東京銀行などの一流企業各社が二百万円。ほかに岸信介、古立よし(太郎の母)らが四十二万五千円。役員の顔ぶれも豪華版であった。
岸信介を会長に、川部美智雄社長、永野重雄、水上達三、荘清彦、市川忍、越後正一ら、財界の大物が取締役。稲山嘉寛が監査役、古立太郎は代表権のある副社長に就任している。設立目的は、ホテル、食堂、ナイトクラブなどの飲食業、美術品、食品の輸出人品、観光事業などである。
その後、古立太郎は、一千五百万円の増資をしていくのだが……。そして、運命の日、昭和四十九年二月四日夜、新横浜駅で下り列車に飛び込んだ。享年四十三だった。岸信介の秘書でもある、杜長の川部美智雄を横浜へ訪問しての直後だった。訪問の内容は、詳らかではないが、想像するに資金関係の故ではなかったかと思われる。居留守という説もある。切羽詰まった彼は、小切手を控えも記さず乱発していたという。その額は想像を絶していたそうだ。太郎氏は、四十二年七月二十日付けで、日本館の代表取締役副社長を辞任しているが、四十七年十一月二十四日に取締役に返り咲いている。死んだときも役職はそのままであった。
政界がらみの、この事態をどのように解釈したらよいのだろう。私の知識の及ばないところは、これを取り上げた当時の週刊紙から拾ってみよう。評論家の吉原公一郎氏は、岸さんの一面をこういう。「僕は藤山愛一郎氏(当時、政、財界を風靡した大実業家)の使い捨て振りと、古立太郎氏の一件が、どうもオーバーラップしてしまうんです。古立氏が殺されたとは思わないが、もう要らない人間だったんじゃないですかね。それから日本館だが、僕は、あれは岸さんだけのものじゃなく、保守本流を維持していくための資金管理の場だと思うんです」
 「例えば藤山愛一郎氏だが、A級戦犯の岸さんが巣鴨プリズンから出てきて、ずいぶん世話になっている。そして岸さんの要請で政界入りした。ところが藤山氏が一派を持つとき、岸さんが分けてやった子分は、カネのかかる人達だけだったんだ。これも岸さんの一面じゃないかな。ともかく日本館は悪名たかいなぁ」
当時の楢崎弥之助代議士は、四十四年二月四日、衆院予算委員会でこの日本館のことを質問している。当時の外相は、半公信扱いだからといって、答弁し公開を拒否している。
(編集部註・衆議院委員会記録から・それで私は、一つだけお伺いをしておきます。外務省にお伺いしますが、西独のジュッセルドルフにレストラン日本館というものがあります。そのレストラン日本館の役員、それから資本金、出資者、これを明確にしてもらいたいと思います。○内田説明員 お答え申し上げます。 ただいま御質問の点、手元に持っておりませんので、取り調べまして後刻御報告申し上げます。○楢崎委員 あとで報告するそうであります。それでこのレストラン日本館の設立の問題について、料理屋のことは何で知るかというやじも飛びましたが、外務省は出先官庁も含めて、この設立に協力をしたかしないか。した事実があります。それは文書の上ではっきりなっている。そういう点も御存じでありましょう。○愛知国務大臣 全く突然の御質問でございましたので、私も全然知りませんから調べてみます。○楢崎委員 私はこれを明らかにしたいのは、政治の姿勢の問題と関連をしてであります。いたずらに私は暴露するような、そういうあれはありません。政治の姿勢の問題としてこれを取り上げておるのであります。実はあとで報告になれば明確になってくると思いますけれども、これは与党の有力者が関係をされております。そして、それの出資者はいろいろありますけれども、兵器産業の会社が出資者になっておる。場所はジュッセルドルフである。しかもこのジュッセルドルフのドレスデン銀行をめぐっていろんなことがいわれておるのです。私は一部資料を持っております。しかし、この委員会、この場所においては、私はいろいろ問題があろうと思います。) そのころの鍵を握る川部氏は、行方は分からないと川部東京事務所の弁だったそうである。いずれにせよ、日本館の関係者に死者のでていることは周知の事実である。

母よしは、太郎の死後二ケ月のち他界する。
ドイツの日本館へ出店間もないころ、よしさんから相談をうけたときがある。料亭のコーナーに、小粋なそばやの店を持ちたいが協力してくれないか、と云う話だった。
私がそれを保留し続けているうちに、日本館の資金繰りが忙しくなったのだろう、いつの間にか、その話しは立ち消えになってしまった。
太郎氏の結婚式、太郎氏、母よしさんの葬儀、それぞれに参席したが、なかでも印象的なのは、よしさん亡き後の親族会議であった。親族一同は、料亭の再興で意見の一致をみたが、太郎氏の嫁けい子さんだけは、頑なに土地共々の売却を翻さず、結果的に、けい子さんの権利が優先し、親族側は涙を呑んで、数回に及ぶ親族会議は終結した。私も意見をもとめられたが、沈黙をまもった。是非と云われ、宗祖親鸞のお言葉をのべた。当然、古立家も、浄土真宗である。
 「善き人の仰せをいただいて信ずるほかに子細なきなり。このお言葉をけい子さんに贈る」といって私は席をたった。
ここに柳橋花柳界に君臨していた柳光亭は姿を消すことになる。
少し柳光亭にふれてみたい。当時、大相撲は六十九連勝の記録を待つ、双葉山と青森県出身の鏡岩との対戦が、絶対的な好勝負であった。両国場所、いわゆる本場所は、場所中、柳光亭は枡席を通年買い取っていて、私もその席から鏡岩を声張り上げて、応援していたことが思い浮かぶ。柳光亭には横綱、大関、又は人気の幕内力士等が客に招かれて出入りしていた。
 「ゴッツアンデス」
中学一、二年頃だったと思うが、帰りぎわの太い声の力士と握手をして、手の大きさに驚いたことがある。横綱、大関は、殆ど無言で、ただ、笑顔を残して料亭をあとにした。
太郎氏の祖母の葬儀の写真がある。横綱、大関からの沢山の供物が仏前を飾っていた。
非業の最後を遂げた太郎氏には一人、姉がいた。藤山愛一郎の愛妾の娘が、古立千吉(太郎の父)に嫁ぎ、その子が姉にあたり、太郎は後妻の一子である。後妻は、柳橋きっての、美貌の中の美貌といわれた、売れっ子の芸者だった。姉は、父親似て千葉の旧家に嫁いでる。太郎も、どちらかと云えば父親顔だが、藤山愛一郎の血はひいていない。政治家とは無縁の血である。だからという訳ではないが、政界の風雲には耐えられる知力も、体力もなかったと思う。
太郎氏が亡くなって間もないころ、私は妻と、浅草にある古立家の墓を詣でたときがある。墓前で妻がなにかを語っていた。太郎氏の冥福を析る姿を横に見て、私は柳光亭に想いを馳せ、一つの和歌を口づさんでいた
  行く末の
    空はひとつにかすめども
        山もとしろく立つ煙りかな
時が流れた。当時、億の金を手にした、けい子さんは活路を札幌に求め、札幌三越デパート地下にある柳光亭支店で昼を務め、夜は麻雀荘を経営し、消えなんとする灯を守っていた。
数十年が流れた。
風説によれば、けい子さんは、親戚筋を頼り、金
融の哀願を続けたという。……私も歳をとった。妙に柳橋が懐かしい。柳橋の花柳界の芸者衆は、五百人を越える賑わいだった。それが今、砂上の楼閣の如く消え去り、八戸小中野の遊郭も消えた。私の母が、これからは八戸の町に出なければと私の背を押してくれて、今日まで蕎麦屋の暖簾を掲げられた。歳をとった私が、今度は倅たちの背を押さなければならないのだが、どうも、それが出来ているような出来ないような、心細さばかりが先に立つ……。

2009年2月10日火曜日

市長目玉の協働の町づくりは構想は生かされたのか

行政の力には限りがある。だからこそ地域力を生かし住民のためになろう。これがお題目で小林市長は4年間、公民館を漫遊した。
 公民館と市役所を結ぶ大切な要員として地域担当職員を決定、その数37名。これら職員は行政と市民を結ぶ大事な使命を有する。当然、今回の断水事故にあたっても彼ら地域担当職員に集合命令がかかった。一月二日のことだ。これは三浦ひろし議員の質問に政策部長の高島氏がこたえた。しかし、これら職員が全員来たとの話も出ない。疑問に思い、昨二月九日協働の町づくり担当係長に開示を求めた。すると一月二日に協働の町づくりが地域担当職員に登庁を求めたが連絡のついた職員は二十二名、これは電話連絡による。しかしながら十五名については連絡がとれない。
 これらを督励し市内471町内会長宅に電話連絡をしてもらった。すると長根、是川一丁目南、桔梗野八区、多賀台3丁目の4町内は独居老人宅へ水を運んだの情報を得た。その他の地域で水の運搬がなされたかの確認はされていなかった。
 どうしてこの有益情報の収集に力を注がなかったか。これは協働の町づくりの係長の指示の甘さ。つまり、電話連絡をする際に、その地域はどうでしたか?との漠然たる情報収集を目的とした電話連絡手引きを配布したからだ。指令、命令者は現場担当官の後ろで、かれらのやりとりを聞き、次の手をこうずるべく、一挙手一投足を見守るべき。これが軍隊で言えば下士官の仕事、それを士官に伝え、手引きを改変するべきかを問いただす。何故ならば前方敵に異変ありなら、作戦は直ぐ変更しないと命にかかわる。
 市民の命を守るのが市役所の仕事。その前線に出て情報収集をするのが斥候の役目、それが地域担当職員の使命だ。それから有益な情報が得られはじめれば作戦要務令に基づき情報収集手段の変更をするべき。つまり、独居老人宅に積極的な支援が出来ているかの確認作業を急ぐべきであった。
 協働の町づくりは小林市長の四年間の総決算ともいうべき大事な仕事。前市長とは踏み出す足の位置が市民よりである。しかし、市長は水道企業団に貼り付いておられる。真剣に事態を解決しようの意思の現われだ。思わない言葉は人間の口からは出ない。日頃、常頃思い抱くことが言葉となって出る、体がそれを具現化するべく動く。しかし、大事な使命を持つ担当課がそれを補足できないでは人選の間違いだ。
 小林市長の頭の中と市役所職員の頭の中は同じでなくてはならない。同床異夢ではドウショウモナイ。大体、地域担当職員が登庁しない、できないでは何のための職員か? こう担当係長に訊くと危機管理体制の職員ではないという。なら、危機に役立たない組織が協働の町づくりと言えるのか? 市役所の働きだけではどうにもならなかった神戸の大震災の話を小林市長は出前、漫遊で語られなかったのか? 役所が万全であるならば、これは天国に一番近い町が八戸市だ。ところがそうではあるまい。市民の協力なくして市民生活の確保はない。平常ならば不平と不満ですむが、有事の際は憤懣と怨嗟の声に変わるのだ。怒号飛び交う中で市役所職員は呆然とするだけだ。そのときに市役所職員を声で励まし、事態沈静化に知恵を出すのが課長であり部長職だ。
 今回のわずか断水でもこのザマだ。連絡のとれなかった職員は何をしていたのか。さらに協働の町づくり職員は、彼らを二日以降は招集しなかった。断水で困っている市民の痛痒を蚊ほどにしか感じていないのだ。有事の組織がこの地域担当職員ではないと係長が言う。有事は超法規だ。ボクシングでは肘では打てない、膝では蹴れない、が、喧嘩は何でもありだ。持てる力を最大限に発揮するのを本分としないのか。それを問われているのサ。誰に? 市役所職員は市長に、市長は市民にだヨ。
 さらに、これら地域担当職員はほっとするメールに加入していたのか? 担当課は独自に同報システムを持っていたのか? ないとしたら、その構築は必要か不必要か、それを判断するのは誰? 自分たちの仕事だとの認識が欠如している。協働の町づくりも議会事務局も。議員は情報を欲していると夏坂議員が協議会で発言した。それに議会事務局は応える立場にないのか。それを防災の責任と転嫁していないのか。議員も真剣、議会事務局も必死。だからこそ前進するのではないのか? 議会事務局は単独の組織、それにはおのずと意味と意義に満ちている。防災安全室は市役所職員を動かす所、議会事務局は議員を動かす所、情報も独自に収集し独自に発信する。これが本来の独自行政だヨ。議員への情報同報システムの構築これが肝要。時代は変わった。万人が携帯情報システムを持つ時代だ。機は熟しているにも関わらず、それを見ようともしない、あるいは無視するでは現代社会に生息する価値すらない。明治初頭の日本人は三千万人しかいなかった。ところが今は一億三千二百六十万人もいる。世の中は様変わりしたヨ。ところがお役人根性は江戸の昔と少しも変わらず、協働の町づくりと同様に自分の手抜かりを他に転嫁してヨシは悪しだ。

2009年2月9日月曜日

八戸市長返答はどうした


平成二十一年一月八日付けで市長に質問状を届けたが、二月九日になっても返答がない。このことを二月五日に市民税課の係長に問うたが検討中とのこと。一月経っても質問に答えられないでは情けない。
 質問内容とて難しいことを訊いているわけじゃない。担当課長のいいかげんな返答が気に入らないからしっかりした返答をしろと文書で申し入れしただけだ。市側の態度は決まったことではないか。それを延々と引き伸ばすは返答したくないがありあり。
 自分の仕事に責任と自覚を持つならば堂々の論陣を敷くべき。いいかげんなことを適当にしかできないから逃げようとしか思いつかない。人生は困難といかに直面するかを問われる場、そこから逃げまくろうと言っても無理、競輪と違い人生レースには終りがない。三周すれば一レースが終る仕組みになっていないのだ。課長がそこから逃げるには転職するか異動を待つ以外にはない。前の生活福祉部長は秘書課長時代、「はちのへ今昔」に追い込まれ逢いたくないと逃げまくった。それが、天下りで社会福祉協会に行き、「はちのへ今昔」の顔を見た瞬間逃げたゾ。館内にいるはずと職員は言うがメガネを忘れて逃げまくった。これは根城の総合福祉会館の駐車場問題で、社会福祉協会がその管理をしたことによる。このことは記さないことにしたので詳細はお見せしない。川井さん、キチンと始末をつけなさいヨ。
 このように歌舞伎『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)じゃないけれど、逢いたくない相手に会うことを四苦八苦の中に怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者に会う苦しみ)と言う。世の中いろいろあるから身奇麗にするものサ、唾を天に吐くともいうぞ、あまり生意気なことをすると咎めが出る。ナニ、それは「はちのへ今昔」お前のことだ、そうとも言う。「トンダところへ北村大膳」で「はちのへ今昔」は何処へでも行くから変な奴を地で行っている。早くくたばりやがれの声も聞いて久しい。
 さて、市民税課長が噛まれている件は市民から預かった源泉徴収簿などの個人情報満載の紙を業者にパンチ入力させたが、預かった業者の言い分と渡した八戸市役所の枚数が違う。つまり八戸市役所は数も勘定ができない奴ばかり。小学生でも数の確認はするだろうニ。こんな細かいことも出来ずに大きな正しいことが出来るのかエ。早々にご返答しかるべし。担当課長がボケは市長の面汚しだ。ゴマ汚しは食えるが面汚しはドモコモナラン。

2009年2月8日日曜日

断水しない仕組みづくりは可能

電力は全国を九つに分割し殿様稼業。ここは他の電力会社が出力不足時には相互融通が可能。何故? 電線が繋がっているから。つまり、水道もこの発想を持ち他からの水を融通してもらえばいい。
 八戸のように巨大な都市、青森県は人口145万人、八戸圏域35万人と25%を占めるため近隣の小さな市での生産水道水も大した量にはならないが、それにしても八方と手を結べば可能となるやも知れぬ。
 この観点から水道行政を眺めるとこんな点が浮き彫りになった。非常時にライフライン機能を早期回復するには相互応援が大切と協定を締結。
青森県水道災害応援協定 昭和44年
日本水道協会      平成9年
埼玉県さいたま市    平成7年
岩手県二戸市      平成15年
岩手県種市町      平成15年
協同組合八戸管工事協会 平成11年
応援給水 十和田市   平成17年
隣接する三沢市との締結がなされていない。今回の断水で、十和田市からは陸送2千トン、水道管から9千トンの合計1万1千トンが融通され、これは金で支払われる。六戸の折茂、沖山には十和田市の水道管が埋設されている。ここを開いて付近住民の供給。ところが、この管が細く100パイ。この細さでは知れた量しか出ない。これを太くすると八戸市内で十分に使用できる。それには400パイの太さが必要。これを通じたとすると、八戸市内一日の水道使用量は9万トン、蟹沢、三島、おいらせは断水しなかったので都合3万5千トン、これに400パイをつなぐと十和田市から3万8千トンが流入し合計7万3千トンになり必要量の8割は確保できる。
 今回の応急導水管の太さは600パイ。400パイはかなり太い。供給側、つまり十和田市に造水能力があれば可能となる。六戸にはたての台配水塔があり、ここまで導水管を引くか、向山ポンプ場まで引くかの問題もあるが、向山は300パイと太い。先ほどの計算より流量は減るが十分可能。すると十和田市側の300パイの管を探す必要があるが、十和田市の管路情報を水道企業団は持っていないので不明。
 三沢市は湧水量が少なく相互扶助協定を結んでいないが、こことも結べば十分断水を防ぐことは可能だろう。管を結ぶ距離が長くとも路上に応急管を設置し交通誘導員を置きポンプ場までを確保すればいい。こうした工夫で時間を稼ぎ復旧工事を急ぐことだ。
 相互応援体制も今一度見直す必要がある。地方行政に水道事業を委ねる危険性がここにはある。三沢、十和田は水道料金も安い。電力のように全国を9つに分けて甘い汁を吸う方法もあるが、県単位での均一料金方法もあろう。地方行政にはすわ、鎌倉の根性がない以上、この県単位の水道企業合同も視野に入れるべき時こそ来たれり。

2009年2月7日土曜日

八戸市議会全員協議会二月六日

十時開催、理事者側の説明後先ず寺地議員が質問、この人の質問は最初は判り良く次第に何をぬかすかわからなくなる特性、前定例会では市長を選挙違反と決めつけ市長から凄まれ前言撤回という体たらく。今回もロクなことを聞かないだろうと予想、やはり質問のための質問、テレビが録画に来ていたので張り切ったか。
 次は夏坂氏が断水についての補償要求はあったかを聞き、大小コンビの大の方(水道事故は大小が頭を下げたのサ、大は大久保水道企業団副企業長、実質責任者、小は小林市長だ)が要求は出ていると説明。どのようにするかは未だ不明。断水した所へは料金減額ありの発言に夏坂氏は通水した家でも親戚の断水家庭に水をやったのでそれはどうなると噛んだが、これはいいがかりに等しい。一律減額を要求するならするで、こうした言い方は好ましくなかろう。
 三番手は上条氏、ムーミンパパのような風貌、言葉は丁寧だが論旨が不明、この人と小林市長の立役者工藤氏と「はちのへ今昔」が金入明義氏と面談中、小林市長擁立の話が出た。このことを昨年夏、ムーミンパパが「はちのへ今昔」の記した市議定員減につき苦情を入れた。そのときパパは「小川さん、あの時の顔ぶれもあんたと私の二人になったね」「おうそうとも、今度死ぬのは俺の番だろうよ」と応えてやった。
 さて、パパは情報伝達手段のほっとするメールの利用者を市民の二割程度ではなかろうかと発言するも、五千程度でしかない。まして議員はそれにも加入していないだろう。こんなメールで解決するはずもない。マスコミをもっと活用せよと言った。これは面白い部分を含んでいる。本人は意識せず使ったのだろうが、タダ情報としての放送と有料放送がある。公共報道はテレビ局が時間を極めて放送、これは放送局が時間を忌める、しかし、民間が広告を出している。その広告の下にテロップ(文字)を無料協力で入れさせてもらうがあったナと連想した。世の中は連想ゲームのようなもの。人の話を早く終らないかなと聞いていると見えるものも見えない、聞こえる声も聞こえない。パパは発言の中に巧みに自己宣伝をするが聞いていて聞き苦しい。また言ってやがると議員連はドしらけだ。水道企業団の体制の中に小の小林市長がチョコンと乗っている状態ではと批判ともとれる発言あり。いかにも稚拙な表現をしたかと本人自分の言葉に自分がビックリして慌ててこの発言が適切かどうかは判りませんがと言い直し。食いなおしとか言い直しはみっともない。草稿を練ってから発言するべき。こんなんで県会行って赤恥をかかぬよう、ご用心ご用心。
 松川氏は給水車に長蛇の列、苦情を受ける市役所職員がいない。給水車が昨日は二台、今日一台は何たる理由かを説明するべきと自分が見てきた意見は鋭い。
 藤川氏は県は何をしたか、県にもっとお願いすることはなかったのかと聞くが小林市長は水道はプロの仕事、県は水道事業を持っていないので願うことはないと大見得、ところがこれが直ぐひっくり返され赤恥。それは次の三浦ひろし氏質問による。
 三浦ひろし氏、県はヘリを所有している、広報活動で消防団が消防車を走らせそれを担ったが、ヘリにもそれをさせよと提言、交通安全週間だかでそれを見たに対して、小林市長はまさにそれがあった、藤川氏の発言で県に要請することはないと言ったが訂正すると赤面したのか、色が黒くて判らない。つねりゃ紫、食いつきゃ紅よ、色で仕上げたこの体と江戸の端唄じゃ歌われるけれど、小林市長のは力いっぱいつねってみても、色が黒くて判らないで、赤面しても目立たなくてお幸せだ。
ここまでは三浦ひろし氏も男を上げたが、八戸市内の井戸水を共用する、あるいは市で井戸を掘れの話は百四十年前の江戸時代の話か?と頭の中を覗いてみたい。飲料水にするには水質検査が問題、江戸のころはコロリが心配だったが、現今はPCBとかDNAPLなど現代ならではの水質汚染物質がある。これらに対応するには水道しかない。こんな井戸を掘ることより水道企業団はところどころに5トンを溜めた緊急貯水糟五ヶ所を有する。これを増やすことを提言するべき。不勉強極まりない。だいたい民主は勉強会をしているのかネ。
 伊藤氏は野党的発言の出来る貴重な人材、水道企業団の職員が断水発生を家族に洩らし、それが原因でポリタンクが報道される前に早々売り切れ地域が出たと噛む。大が弁解し今後注意と謝した。
 石橋氏は民主の中の論客の一人、論理明快で狙いがいい。火事が発生しなかったことは勿怪の幸い。水道が機能しないということは消火栓が働かない。これが白銀大火の原因だった。三島ポンプ場が停電で動かなかったのだ。消防が消火栓にホースを繋いでも水がこない。ディーゼルポンプに切り替えなかった市役所の責任なのだが、消火栓が機能しないで消火できまセン。そこであそこら辺が丸焼けヨ。これが起きなかったは幸いだったは至言。この人は着想がいい。勉強もしておられる。が、根城浄水場はどうなったかはいただけない。大小コンビに徹底的に論破される隙を作った。奴等としては自分の正当性をここぞと言いたい、攻め込まれてばかりでは体に悪いと老朽化、耐震化に莫大な費用と得たり賢し(物事がうまくいって得意になったとき発する語。しめた、これはありがたい)で、日頃常頃計算し知悉していることになれば、それはもう議員連が束になってもかなわない。そこでキャンキャンと石橋氏は引っ込む。
 次は自民党会派から叩き出され議会でタダ一人家無き子の坂本みちのぶ氏、断水で理事者側の参集範囲はと聞いた。元日は四部長が集まったが、この規定は防災手引きにはない。いい質問だが、自民を追い出されたことが不満なのか態度が宜しくない。ムーミンパパのような慇懃無礼も良くないが言動行動に一工夫あってしかるべし。質問内容は踏み込んだ鋭いものあり、緊急手引きにないことが発生したが理事者側の不徹底は衝かれてしかるべし。断水補償をどの範囲までにするか幾らにするかに専門家を交えるべきも今後の指針を与えた税理士ならではの質問。
 松橋氏の質問は質問のための質問、最後の三浦たかひろ氏の質問の中に県が工事した導水管の事故が工事ミスならば工事業者の新日鉄に補償要求をするのかに、大はグズグズと返答。しかしこれは問題を残す。県が川の拡幅にともない工事を決定、それを新日鉄に命じ、工事完了検査を誰がしたのか、それは水道企業団ではないのか、それを八戸市の土木部が、そのころありましてグズグズと大が言い訳、ここにこそ水道企業団にいい加減体質が隠されている。ここを徹底追求するのは誰? この議会傍聴はタダ、迫力あるやりとり、緊迫した受け答えは国会じゃないので望むべくもないが、家にいられない理由のある人は傍聴をすすめる。終了は十二時四十分。弁当も出ないじゃ議員は不納得だろう。ゴクロウサン。

2009年2月6日金曜日

断水に対しては万全のつもりだったが3


八戸市は災害時に支援をしなければならない、あるいは支援をして欲しい人の名簿を作成した。これは役人が自発し作成したのではなく、あくまでも支援要請登録があった人を対象としている。
 この名簿を作成したのは健康福祉政策課、その名簿には高齢者独居老人、障害者の一級手帳を持つ人等三千五百人。その名簿を表にしたのがこれ。地域別に住人、電話番号などが記入されているそうだ。その原本を見せない(個人情報)ので詳細は不明だが、これらをどう支援するのかと聞いたところ、役人が直接動かず、ボランティアが動く仕組みを考案。ここらが役人の頭のいいとこでズルいところだ。実際漏れた管を水に入って取り替えるのは下請けサ。水道企業団は手も汚そうとしない。シナの役人のように筒袖の中に手を入れて大物ぶっている。だからシナは日本にも他国にもいいようにされた。自分で働く汗を流すを知らない奴は他人の苦しみを理解なんてできなのサ。所詮、人を金を払う道具としか考えていない。この体質が有事には問われる。
 この健康福祉政策課の無能ぶりは、その名簿を作成し防災室に運んだ。同様に消防にも手渡した。それで? それで終りヨ。ここがシナの役人発想サ。自分たちは書類を作成すれば事終れりだ。今回の断水でそれが機能したかは別問題なのサ。
 表をよく見ると右端に支援者1、2とある。これは支援を必要とする人間に地域のボランティアを貼り付けた。勿論、この人々の名も名簿には記載されているのだろう。この人たちは動いたのか? 健康福祉政策課の課員たちが一月三日に出てきて自分たちで水を役所に用意されていたビニール袋で11人に運んだ。何故? 支援者が動かないのを知っていたからだ。何故動かなかったのか? それは課員が動けと言わなかったからだ。
 すると、誰が地域支援員に号令をかけるのか? それが決まっていないままに防災、消防に名簿だけを届けた。防災も消防も受け取ったが、それを吟味しようとしない。これを災害時にどう生かすか、どう行動するかを考えず漫然と書類を床に積んだ。だから、何も動かなかった。
 まさかの知恵こそ真の知恵と昔から言う。そのまさかに問われるのが役人なのサ。七人の侍の映画で冷たくした百姓らが警鐘を打たれ野武士が来たと怯える。そのまさかの為に侍を雇った。腰に刀をぶちこみ、猛然と現場に疾駆する。信の為に命を捨てる覚悟にこそ値打ちがあるのサ。人としてのヨ。それを亡くして、あるいはそれを持たずして百年生きてもタダ生きやがったといわれるのがオチだ。人は他人のために命を捨てられるのか?を絶えず問われているのサ。平和ボケした平成の奴等にはそれが見えないものヨ。
 焼夷弾が落下して戦火の中を逃げ惑った人々も次第に滅び、焼け跡暮らしを経験した世代も職場から消えた。あとに残るのは手前のことしか考えないもの知らずばかりサ。だからこうした自分の都合で物差しを振り回す愚かものたちが出た。弱者救済は八戸市役所ではカラ念仏。毎日、念仏を唱えていた婆が地獄の閻魔に食ってかかった。閻魔さん、アンタ、この私がどうして地獄だえ? 閻魔が言ったナ。お前は確かに箸を上げる度にナンマンダブを唱えたが心がこもっていない。いよいよ息を引き取るときだけ本当の念仏が出た。それはお前のための念仏で生きる喜びの念仏じゃないゾ。これだ、八戸市役所のはカラ念仏ヨ。それで衆生を救おうなんぞと爪の垢ほども思わない。これを馬鹿野郎と呼ぶ。
 駅のホームから落ちた阿呆を助けようと、我が身忘れて新大久保の駅で線路に飛び込んだ朝鮮人の心意気は凄かった。カメラマンも偉かった。が、八戸市職員は何をしたのだ。オタオタ自分の手で11件の給水をしただけで、事が足りるのか。そうではあるまい、支援員を動かす仕組みも考えず、自分の仕事を放擲した罪は重い。
 また、部下に適切な指示が出せない課長、部長は叱責されても仕方がないが、小林市長もそこまでの知恵を持たない。たかが4年、されど4年、この年月の間で市長は問われた。前の弔問市長の中村氏よりはマシ。だが、それも悪いのと比較してだ。
救わなければならないのは要支援者ばかりではなかろう。二十年先の八戸を担う新生児二千人も救う対象にしない健康福祉部のありかたは非難されるべきだ。子どもは宝なのだ。これを忘れて未来はない。
水道企業団は絶対に断水は起きないつもりだった。だがつもりと実態は違い、こうしたザマを見た。予定と決定は違うように役人ばらの思惑と大きく違うところで世の中は動くもの。
 最後に役人のつもり違いを記す。心に刻め。
 高いつもりで低いのが役人の志
 低いつもりで高いのが役人の頭
 深いつもりで浅いのが役人の知識
 浅いつもりで深いのが役人の出世欲
 厚いつもりで薄いのが役人の情
 薄いつもりで厚いのが役人の面の皮
 有るようで無いのが役人の奉仕の心
 無いようで有るのが役人のしてやった心
 多いようで少ないのが役人の親切心
 少ないようで多いのが役人の無駄
 心せよ、壁に貼って拝めヨ。

2009年2月5日木曜日

断水に対しては万全のつもりだったが2


有事に慌てれば負け。これは戦争でも災害でも同じ。ヤクザと敵は相手がアッと驚くことをして、その呆然とした瞬間から優位に立ち事を運ぶ。相手が人間だからだ。相手が物の場合はアッと驚くが修理をすればいいが、原子力は怖いゾ。何たって見えないから。六ケ所の原子力の処理も遅遅として進まない。用心に用心しても放射能は漏れるのヨ。ともかく漏れないようにすることで、相手が物なら水道企業団も漏れた水を塞げばいい。それには時間を稼ぐことで、市民の狼狽を押さえることだ。市民は情報が正しく伝われば納得して待つ。待つ以外に方法はないが、一応は本音と建前で文句を言ってみるもんだ。その言葉は「金返せ!」それ以外には出ない。
 結句が金返せと決まりなら、ああでもないこうでもないと言い訳と口紅はあとから付けるじゃないが、水道企業団は言い訳はしないことだ。ひたすら赤心から小言を聞く、申し訳ないと詫びることだ。
 雪印が平成十二年一万三千人の食中毒を出した。そのときテレビで社長が「そんなこと言ったって、私は寝ていないんだ」と言った。それが引き金になって商品は返品され、会社は空中分解した。危機管理なる言葉の重要性をこの石川という社長は認識していなかった。雲霞の如く湧き出すマスコミに丁寧に相手をすることは、イメージ降下を防ぐ大事な策。これに無策では戦いを放棄したも等しい。
 雪印はこの社長を頭に頂いた時点で敗北が決定したのだ。今回の断水では小林市長の対応は60点で合格だ。さらに水道企業団に宿泊したことは好感度満点。すると、副市長はどうだったか。奈良岡氏は弘前の自宅から急遽駆けつけた。高齢者の西氏は一日、二日と水道企業団に詰めた。問題はその後、どのように市役所職員を動かしたかだが、両副市長とも落第点だ。彼らには指揮監督する意識が欠如している。
 小林市長を応援する気概に欠ける。こんな者たちが大将の傍に居ることが間違いなのだ。やる気に欠ける、あるいはやる気があってもやらないじゃ何のための副市長か。職員は指示、指令がないと動かない奴ばら。もともと働きたくない者どもであることは副市長らは自分の若い頃を思い出せば十分理解できる筈。
 高齢者、弱者保護が彼ら副市長には欠如している。貧乏人の苦労を知らない奴は頭に立つ資格がない。公明党、共産党の人々を先頭に立て、彼らの言葉を聞くべきだ。貧民は貧民なりの理屈を知る。その視線で見れば即、しなければならないことが見えるのだ。
 さて、便所の水を確保するために世増ダムを作った。このダムは五年間、水道企業団の役には立たない巨大なバケツ、つまりダム建設で家を追われた住民は糞に追い出されたに等しい。これも妙な話だ。このダムを有効利用することは勿論だが、住民に安心を与えるため、水道の水の残量がどうなっているかを伝達することこそ至上の策。つまり、貯水池にある水を飲料水にだけ使えの指示。便所水は運搬する。鮫、港地区の下水道は普及ゼロ。浄化槽を使用する人も肥溜め式便所の人もいる。その地域への運搬量は少なくすむだろう。まして六町村への運搬はさらに少ない。
 それにも関わらず、飲料水も便所水も一緒に考えるから巨大な生活用水の運搬となる。頭を整理して飲料水は確保されていると繰り返し伝達し、修理の時間稼ぎをすることだ。水道企業団が慌ててはならない。
 ところが、水道企業団は八戸市役所から分離独立し、勝手に給料を上げ、市役所よりも高給を取り、一律の水道企業団手当てを出した。これはさすがに気がひけたのかやめた。が、八戸市役所は一律の勤勉手当を7億5千万円も出し続ける。どちらが悪党か?両方だよ。水道企業団は何が市役所ヨ、市役所は勝手なことをしやがる水道企業団ヨと反目しているところへこの断水だ。
 だから市役所職員は動かない。水道企業団も日頃デカイ口を叩くなら市役所の応援を得ずに自力で解決してみろ。できもしないのに大口きくな。横浜線に大口駅の隣が菊名で車掌が駅に到着、大口、大口、次はキクナで乗客が笑う。関東モンの楽屋オチだ。
 それに小林市長がやっと気付いて危機管理のマニアルが、マニアルが不備で……浜口のことか?プロレスの?あれはアニマル浜口。この市長もオタオタで当選した時のテレビでマニフェストがの一点張り、顔と同じで頭のめぐりはそれほど良くない。丁度メリーゴーランドでなにやら楽しく、なにやら悲しげで同じ所をグルグル。インターネット?それはグーグル、スキーで使うのはゴーグル。

 

2009年2月4日水曜日

断水に対しては万全のつもりだったが1


水道企業団の断水事故は人災、しかしこれは完全に防げるつもりだった。それは八戸市内に耐震管を環状に設置しこれに水を溜めこみ7日以上の生活用水の確保を狙っていた。
 ところがこれは中途半端の状態で環状にはなっていない。この完成予定は平成二十一年度。これが完成していれば今回の事故は防げたか?と言うとそれは防げなかった。この耐震管は絶えず水圧がかかっていないと水がでない。つまり浄水場からの水圧がかかったことを想定している。ところが白山浄水場一ヶ所しかないため、ここに原水が上がらないと圧力不足になり、せっかくの環状耐震管も役に立たない。
 これを防備するには浄水場を二ケ所にするか、あるいは原水取水経路を複数にするかがある。根城の浄水場は廃止になり跡地活用が考慮される状態のため、これは言うべくして無理。原水取水口を新井田川にもとめた。そしてこれを是川に設置、その工事完了は来年の三月予定。ここに巨大なポンプを設置し馬淵川、新井田川の二本から原水を取り込み完璧と目論んでいた。
 ところが運転経費がかかる。十年前と今日では原油が倍にあがった。4兆4千億円が8兆8千億円に膨らんだ。これだからアラブに金があつまりドバイにどでかい誰も住まないビル群を建て、それをロシアの寒さに凍える人々に売りつけようと画策。これも、今回のメリケンバブルで破裂ヨ。所詮、金を儲けてもそれを使わないかぎり楽しみはない。世の中は楽しみ方、その手ごろな代表が酒と女ヨ。これに手を出し、八戸の老舗造園屋の一族の助平な奴が不名誉なことを仕出かしたのは諸君の記憶にもあろう。こ奴は不埒な下郎で、市役所に勤めておったが、同僚の独身女性に手を出し、それも定年目前でだ、その女と別れたくなかったのだろう、その女から別れ話が出る、つまり、他の男と結婚すると聞いて逆上、その女との性交写真を、結婚相手の男の車のフロントガラスに貼り付けたというから、馬鹿もここまで行けば立派。性交写真を貼り付けて意趣返し成功と思ったら大失敗。テメエの犯行が露見、女は市役所から出張所に飛ばされ、とうとう自分から辞めたヨ。エッ?結婚はどうしたか?破談ヨ。
 友達の友達は皆友達ヨで、手当たり次第に性交する奴もいて、売春防止法なんてのが出来て小中野はさびれ絶滅したが、それを友達で埋めたのが階上のモーテル群の出現、これも段階の世代が老齢化して役に立たなくなり凋落したナ。
 この色の話をしていると話がそれるので、またいずれ稿を改めて記するが、運転経費がかかるのヨ、アラブの石油が奴等の手口で次第に高騰したために。馬淵川の取水口は川中島にある。川中島と言っても信玄の話じゃない。尻内の近くの場所だ。ここにポンプを置いた。ところが十年に一度川増し(洪水・これを八戸では川増しというんだそうだ)が来る。一昨年、水辺の楽校が出来たときに堤防一杯まで水が増して、水辺の楽校は水の下の楽校になった。これを自分の為にしようとした元公民館長もいたりして、世の中は欲っかきが多い多い。それに加担する市役所職員もいたりして実に八戸も世の中の縮図ヨ。
 さて、このポンプ一台につき年額一億二千万円也を東北電力にお支払いだ。こいつら、つまり東北電力のことだが、存外コスイ奴ばらで、今も電柱の本数、街路灯のことを調べているが、街路灯は定額制のため電力メーターは不要、ここにつけこんで付いてもいない街路灯の電気代を不正請求していないかと昨年の九月から「はちのへ今昔」はお調べだヨ。いまだに誠意ある回答を八戸市役所も出さない、東北電力も示さない。ケシカラン奴らヨ。
 このコスイ電力ならぬ東北電力は電柱の税金も逋脱しているようだが、まだ判明しない。電柱の数は「はちのへ今昔」には知らせないとワザワザ言いにきた東北電力の社員がいた。勝手にしろ。こっちは市役所から聞けばいいのだ。いちいち電力の不誠実な社員と口をきいている時間がない。
 この新井田川からのポンプが増設になると二台ポンプで電力に二億四千万毎年払うのか?と水道企業団に聞くと「イイエ、そうはならない、一台が動けばもう一台は休むから」すると、このポンプ場は何の役に立つのか、「はい、予備的なもので」
 そんな予備的なものに巨額な投資をする神経が病んでいるが、断水が生じないなら大切かも知れぬが、ところがこんな考えもある。
 新井田川の上流にあるのが世増ダム、これを完成するために地域住民を追い出した。完成したのは平成十五年、このダムから直接白山浄水場に導水すれば、圧力があるだけにポンプは必要としない。
 このダムに水道企業団が投資したのは170億円。これが糞の役にも立たなかった。つまり、ダムは水を溜めた巨大なバケツだ。水道企業団が水を確保しなければならないのは一市六町村、三十五万住民の生活用水だ。
 これを戦前の時代に引き戻して考えてみる。水道事業は衛生面からは必要、コレラなどの病原体は水系を通り井戸水利用で伝染。これが水道により解消されると国が推進。つまり飲料水の確保だ。飲料水は一人あたり一日3㍑を確保せよと八戸市防災計画に示されている。
 水道企業団が確保しなければならないのは、その三日分で総計で3150トンでしかない。今回の断水で白山浄水場の水位が下がったと言っても各地域に配水池がありその総計溜水量は12万トン。これは近隣町村を含む住民35万人の38日分にあたる。つまり、水道企業団のしなければならなかったことは広報活動だった。
 取水口から水が漏れ断水になる事態は避けられなかった。しかし、あわてず飲料水は十分にあると連絡することだった。飲料水の確保を告げ、生活用水の運搬手段に専念すればいい。一ヶ月あれば断水箇所の補修、補強は完全に修繕可能な時間がかせげる。
 それでは、その生活用水の運搬だ。風呂は風呂屋に行かせる。その料金は水道企業団がもつ。便所水は太平洋の水を運搬し各家庭に配給する。この運搬経路を確保すれば生活はできる。
 金融恐慌が起きた。地震のあとは必ず銀行が潰れる。歴史的事実だ。そのとき国会で大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言し、取り付け騒ぎが起きた。その時、銀行に山と金を積み、来る客すべてにドンドンと要求払いをすれば、客はあきれて金を引き出さない。つまり時間稼ぎをすればいい。それに加担するのが日銀サ。株式会社日銀が徹夜で輪転機を廻し、白バイ先導で金を運べばいい。こうした演出が出来ないようじゃ一国を預かることは不可能だ。
 それと同様に飲料水が確保できれば、生活用水のことだけ処理すればいい。飲料水は火急をようするが生活用水は便所水だヨ、急ぐひつようもない。ウンコが便器に溜まるだけだ。運搬された海水で糞とか言いながら流せばいい。もともと自分の分身だ。仕方もなかろう。神戸の大地震のときは下水のマンホールの蓋を開け、日本橋で糞をしたそうだ。日本橋とは何だ? エッ、それは板を二本渡して橋にしただけヨ。それがお江戸日本橋ャ七つ立ちだヨ。

2009年2月3日火曜日

芸ごとあれこれ 座談会 昭和三十五年頃、デーリー東北から


出席者 
高橋しゅんさん(茶道)
豊山一英さん (華道)
西山とみさん (琴)
花柳葉章さん (日舞)
豊島和子さん (洋舞)
大久保牧子さん(オルガン教室)
芸への熱意欠ける
長続きしない若い人

日本的なものからあちら風のものまで、最近の幼児、おじょうさん方のおけいこごとはブームの傾向を見せている。
八戸市内でも茶道、華道を問わず、あらゆる面で芸能を身につける層が厚くなっている。つぎに同市のお師匠さん六人の出席を求めて、最近の芸ごとについて話をきいてみた。
司会 婦人、こどもさんのおけいこごとは最近とくににぎやかになったようで、きょうはみなさんのたずさわっているそれぞれの道についてよもやまのお話を聞かせていただきたく思います。まずこの道の喜びとか悩みといったものから語っていただきたい。
高橋 けいこを始めてからもう三十年になりましょうか。コケが生えるほどになりましたが、始めた当時からくらべたら、だいぶ発展、進歩したと思っています。主人の勤務の関係で二十年ほど金沢に住んでいましたけれど、金沢は芸ごとの盛んなところでお茶、お花、踊り、琴三味線など盛んでした。そんな関係で私もみようみまねで茶道を始めたわけで、もともと好きだったものですか ら、楽しんでやってこられました。八戸へ来た当時はこうした芸ごとは遅れているのにビックリし、ぜひ盛んにしたいと私なりに考えて始めたのですが、いまではお勤めをしながら、お茶を習いにくる人も年々ふえるばかりで感無量のものがあります。
豊山 私の花歴は高橋先生の半分くらいで、まだまだ未熟ですが、教えてほしいとやってくるかたたちと一緒に習うつもりでやっています。このごろの若い方たちは何事もてきぱきとなさり終戦後習い始めた私たちとくらべたら、いろいろな面で随分違うと思いますね。
西山 私は始めたばかりで目下勉強中というところです。琴は好きで、昔の尋常小学校二年の時から習っていましたけど…。ここは東京と違ってどこかしら芸に対する考え方が違うんですね。芸熱心とでもいうか、そういったものに欠けているようです。私もお免状もいただいていますけど、このままでは井戸の中のかわずになるような気がして、ときどき上京して勉強しています。テレ ビなどで演奏をしているのをきいていても実に進歩していると思います。子供も年期を入れた方もその精進ぶりは敬服させられます。こんなところはお手本にすべきだと思います。きびしいおさらいがあってこそ上達するのだと思うのですが。
花柳 踊りを始めて十一年。やったのは小学校一年の頃、見ているだけではがまんできず始めたということになりますが、やっていれば夢もあるかわり苦しみもあります。
大久保 ピアノが専門ですが、いまヤマハオルガン教室で子供たちにオルガンを教えています。最初は小さな子供たちになれるだけで精一杯で、随分気苦労もあったけど、このごろやっと軌道に乗った感じです。
豊島 美しいもの、知的なものを感じるような子供に成長するよう祈りながらレッスンをつけていますが、ひとりひとり顔が違うように個性も違い、それぞれの個性に適した踊りをみつけだし、子供に教えてるつもりです。一年に一回の発表会では、大勢の前で舞台にあがって踊るのですが、三つくらいの小さな子供も、ものおじせず堂々と踊ってみせるのを見ると、本当に胸がいっぱいになります。おかあさんがたも舞台のソデで涙ぐんでしまうようですね。子供たちも楽しみで、舞台に一度あがると、自信もつき技術もいちだんと上達が早くなるようです。
豊山 どの道にも通ずることでしょうが、芸ごとを身につける動機は、ある年齢に達して、自分から習い始めるのと、親御さんが子供にすすめて習わせる場合と二通りありますね。
高橋 そうですね。いまの若い人はなんでも幅広く覚えようと、お勤めをしながらでもお茶、料理とたいへん意欲的ですね。私たちは何かひとつのことにうちこんで。それをなし遂げようとしたのですが、そういう方は少ないようです。広く一通 りやってみればそれでよいという気持ちで、お茶もやってはみたものの窮屈だとか、足がしびれるとかですぐやめる人もあるわけです。
多くなった余暇楽しむ婦人
お母さんも一緒に練習を
司会 花は美しいものであり、審美眼を高め、生活を豊かにするわけで、けいこをつけるにも効果があるんじゃないですか。
豊山 ほんとうに花をきらいな人はいないわけで、きれいな花をいっそうよくみせるのが私たちの仕事であり、へやに花を飾りたいなと思う気持ちが、もう生け花の心に通じるのですから。
高橋 茶道、華道は一体のものですし、懐石料理とか茶室とか建築も関係はあります。お茶も広い勉強が必要だと思っています。
豊島 そうですね。何ひとつけいこするにも、広くいろんなつながりがでてきますね。
司会 茶、花、踊りと選ぶ道は違っても最後の目的はひとつ、ということでしょうね。心を豊かに生活に潤いをという点で。
西山 私の所に来る奥様も言っていますが、何かおもしろくないことがあると、離れへ行って思い切り琴をひくそうです。そうすると気持ちもさっぱりするとかで、気分転換にもなっていいですね。
大久保 私は洋楽ですけれど、やはり同じことが言えますね。いまの子供たちは音に対して敏感で、小さいときから耳を鍛えるということは、きれいな音楽になれる意味でもいいことです。俗悪な音楽には耳を貸さなくなります。私のオルガン教室では小さな子供にはおかあさんもいっしょについてきてもらって、いっしょに勉強してもらうのですが、おかあさんたちも娘時代の夢が実現し、とても楽しいし、家へ帰ってからも子供と一緒に練習できてこんないいものはないと言っています。
豊山 洋楽でも、踊りでも自分でできたら本当にすばらしいですね。私もいろんな発表会を見せてもらうたびに年甲斐も無く、やりたくなるんですよ。
花柳 最近はレジャーを楽しむ奥様がたも多くなって、私のところへもずいぶん参ります。中には将来は名取りに…という人もいますが。
間口の広げすぎ
一週間芸ごと予定ぎっしりの人も

広く浅くの気風に疑問?
司会 皆さんが弟子として修行していた時代と、現在師匠として教える立場をくらべて時代の相違というものを感じませんか。
大久保 今の子供たちは私たちの頃とくらべけいこの時間が少ないように思うんですが。
高橋 人数が多すぎてひとりひとりゆっくり見てあげられないですね。
大久保 子供たちは遊びたいし、テレビも見たいし、子供ながらも忙しいでしょうが、家庭でももう少し勉強してもらいたいですね。
豊山 お花なら家へ帰ってからもう一度はたてなおすんですから、復習は必ずやるようになるんですけど。
豊島 私は洋舞が大好きでこの道に入ったのですけれど、そのころはまさか専門家になろうとは思わなかった。研究生時代はただひたすら踊りだけで、いつも頭から離れなかったものですが、今の人はあれもやりたいこれもやりたいと、やりたいものを盛りだくさん抱えているものですから、どれも広く浅くなってしまうんですね。
豊山 昔はおけいこごとはたいてい昼のうちにやったものですが、いまは午後遅くから夜にかけてやるようになりましたね。お勤めの方が多いせいなのでしょうが、それだけ忙しい時代なのかもしれませんね。
花柳 私のところも夕方から夜にかけてですね。
豊山 うちへいらっしゃる方は月曜は花で火曜はお茶、水曜は料理のおけいことぎっしりつまっていて、ほんとうに忙しいらしいですよ。
大久保 近所の子供も○○ちゃんには水曜日しかお遊びの時間がないんですっていってるんですが、子供でもたくさんのおけいこごとを抱えて大変のようです。
司会 昔なら好きでたまらないからと芸ごとを始めたものですが、最近は一種のアクセサリーでやる人も多いんじゃないですか。
豊島 それは感じます。小学校前の小さな子供がバレエも日本舞踊も琴も、花も茶もとやらせられて、私のところは一週三日のけいこなのですが、一日しか来れないからとお母さんが言いに来たのには、正気かしらとびっくりしました。いろいろなものをやってみて、そこから好きなものを取るという方法もありましょうが、親の虚栄心でやらせられるお子さんも多いようですね。
家庭の協力必要
だれにもスランプが…

司会 こと芸ごとに関しては相当きびしいものであり、親たちの思いつきや、浮ついた気分から子供に習わせるというのは考え物ですね。
大久保 始めても三ヶ月くらいでやめてしまうなら、やらないほうがいいと思います。半年ぐらい続けて、うちの子は才能がないからとやめさせるおかあさんもありますが、半年かそこらで子供の才能がわかるはずもありません。
西山 琴もやさしいものだと思っている人が多いんですね。難しい曲になってくるとやめてします。残ってる人は本当に好きで、という方ばかりですね。どの道にも通ずることでしょうが、ある時期には大なり小なりの行き詰まりを感じるよ うです。そのブランクの期間は個人個人で長かったり、短かったりですけど落ちる人はそのころのようですね。またやってみようと始めるともう安心です。たいてい長続きします。この期間の家庭の励ましが大事だと思いますね。
司会 芸ごとはおかあさんの趣味にひかれがちなのではないでしょうか。最近の子供は自主性が伸びてきているからみんなそうだとはいえませんが、やはり親のこのみは左右するでしょうね。
高橋 それはいい傾向だと思うんですよ。家庭の協力がなければ長く続きませんから。
豊山 私のところにも小さな子供をつれてくるおかあさんがいますけど、花を自分で処理できるようでないと難しいと思いますね。
豊島 親に強いられてくる子は嫌気もさして長続きしないようです。本人も好きで親たちも好きでという人は休まずに来るし熱心ですね。
高橋 休まずに来る人には、その家庭のかたの励ましが感じられていいものですね。
花柳 いつもおばあさんにつれられて来る子がいるんですが、そのおばあさんが踊りが好きで好きでという人で、子供の方が今日は行きたくないといっても、おばあさんにさとされて来られ熱心にやっています。
豊山 何かのつごうでけいこを一時中断されても、又けいこを始める時期が来たら気軽に来てほしいですね。
変わってきた教育法
厳しさの中にも優しみも

司会 習う層が厚い割りに教える側が少ないという感じがしませんか。
大久保 ピアノ場合は絶対的に先生が足らないですね。先生同士のつながりもないものですから、一体どんな先生がいて、何人ぐらい生徒をもっているのか、ぜんぜんわからないのが困ります。全部預かれない場合、ほかの先生を紹介したくても紹介のしようがありませんから。
司会 昔のけいこごとはきびしいものであったのですが、このごろは厳しさもだいぶ薄らいできているようですね。
豊山 根本的に教育方針が変わってきているので、昔のようにきびしいやりかたではだめなようです。ほめる場合でも他の人に比べて上手いから褒めるのではなく、その人の今までの出来栄えに比べて上達していたら褒めてやります。生徒にはやさしくしかも師としてきびしい面もなければなりません。その辺が難しい所ですね。
高橋 私もいろいろ研究して少しでも覚えやすいようにしてはいますが、同じように教えても三年かかる人もあれば一年で覚えてしまう人もあり、個人差はありますね。
司会 それぞれの道において将来の方針など。
高橋 茶道は利休の典型は変える余地もありませんので、この完全さをそのまま引きついでいくだけですね。新しいことと言えば腰掛でも出来るようになったことかしら。
豊山 私の方は高橋先生とは対照的で、新しいものにはどんどん意欲的に取り組む覚悟です。各流派ともそうでしょうが、最近はもり花など、どの流派の生け花か区別がつかなくなってきていますね。古典は古典でよいものをもっていますし。
西山 琴のほうでも古典を現代にするとくずれてしまうようで、昔どおりに教えています。
豊島 古典には古典のよさがあるし、それは十分認めますが、時代に即して新しい踊りを作っていくのが私の仕事ですから、これからは郷土性のある創作舞踊の研究ということですね。
司会 だれでも芸ごとに対する夢は持っているし、それらが身についてくると、おのずから品性も生まれてきますね。ではこのへんで。

2009年2月2日月曜日

高齢者独居老人、障害者は忘れられた存在

一月三十一日のNHKテレビが鳥取県の町が財政悪化で町民が動き、町会議員を日当制にしろ、役所職員の一律支給の勤勉手当の削減を要求したと伝えた。誰が探しても、このインチキ勤勉手当は問題になる。一律支給は最高裁の判決も違法と出た。これは見直すべきなのだ。その町民らは削減に向けて活動を起こした。八戸人はおとなしいので「はちのへ今昔」が伝達しても誰も動かない。
「はちのへ今昔」がやればいいの言葉も聞く。お前は何もせず他人を非難するとも言われるが、新聞は報道しても手を下さない。それと同じだ。当事者と傍観者は立場がちがう。まして、「はちのへ今昔」のインターネットは購読料も貰わない。また、役所の職員のように給与を貰う人間とは立場が違うのだ。
さて、八戸市内の65歳以上の独居老人は三千七百人。今回の断水でその存在は忘れられていた。このリストは健康福祉政策課が作成。これを防災室と消防本部に手渡すが、誰もその存在に気付かない。
 三日に健康福祉政策課がモタモタと市役所に出勤し、慌てて町内会を通じ給水を希望する独居老人8人に140㍑の水を運んだ。4日は一人に30㍑を配達。
 折角、リストが出来ているにも関わらず配達できない仕組みでは絵に描いた餅と等しい。また、消防、防災に誰が指示を出すかの仕組みも明確ではない。健康政策課には機動力もない。町内会とても同じだ。ここは消防団の機動力を存分に使う仕組みを考えることなのだ。
 給水可能な消火栓を開き、消防団がそれを10㍑入りのビニール袋で配達する。消防団は分団別に高齢者、障害者のリストを渡し、消防車を走らせ迅速に対応する手立てをこうずるべき。日頃、その人々の家に車両を走らせ訓練確認をすることだ。天災にもこれが生かせる。役所は書類を作成するのは得手だが、その生かし方を知らない。何の役にも立たない机上の空論では仕事のための仕事をしていると謗(そし)られてもしかたあるまい。その水を運ぶビニール袋は八戸市役所には62枚しかない。水道企業団は常時3万枚を持つという。市役所は最低枚数の五千程度は保存するべき。仕事をしたくないのが市役所職員の本性ではある。働かない理由をいろいろ述べ立てるなかに、それは個人情報に触れますからと得意気に言うが天変地異は超法規だということを知らない訳もあるまい。
 大阪船場に適塾を開いた蘭学者緒方洪庵はこう子弟に教えた。「医者というものは人を救うために人の世で生きているもので、自分のために生きているのではない」
 この医者を市役所職員と置き換えてみろ。自分の立場が明確に判ろう。今から百五十年も前の人だが、人の道の真髄を極めた人。五十四歳で亡くなった。

2009年2月1日日曜日

あの頃の八戸 小中野見番留目石太郎





デーリー東北 昭和三十九年頃か(不明)
○ 生まれは三戸だが、七つのときに小中野に住み着き、いらい今日までこの町にだけ生きているから、歓楽街の思いではいっぱいある。いまでこそ 町全体は灯の消えたようになり、昔をなつかしがる人たちは「死んだ町になった」とこぼしているが、それも無理ないことだともいえる。小中野浦町から新地はほとんどが遊女屋と料理屋、それに芸妓衆を置く見番で隆盛をきわめていた。同町がこうした遊郭街のスタイルをつくるまでには、歴史的にも面白いものがあるようだ。もちろん歴史的に調査もしたことがないから私も断定したことが言えないが、明治前後、湊川口あたりは入り江で新堀川と呼ばれていたらしい。ここに当時の小船が往来し、乗組員たちを楽しませるために、二、三の船宿があったとか。そこにいた女はせんたく女と言った。やがてこの船宿が新丁に移ったが、火災で浦町に移り、さらに新地に数を増やしていったということだ。川口周辺は藩政時代から海上航路の門戸でたくさんの船が出入りしていたわけだが、乗組員は一夜の歓楽をここに求め三陸海岸からくる船員はもちろん、東北でも八戸の遊郭街は有名なものになっていたらしい。
○ いちばん隆盛をきわめたのは、明治から大正にかけてのことだろう。この付近一帯大きな家並みがずらりと建ち、夜とともに不夜城の言葉通りだった。その頃芸者衆は百二十人以上もおり、料理屋も「万葉」「中権」などをはじめ小松家などいま思い出すだけでも十四、五軒あった。小松家の百畳敷きができたのも、あまり繁盛して客が収容しきれずに作ったということだ。遊郭街となると「富貴楼」「大黒楼」「和島」などざっと五十軒はあった。見番では料理屋とチームワークを組んでそれは盛んなものだった。町には美しく着飾った芸者衆が客に招かれて急ぐ姿も、いまから思えば夢のようだ。見番にいた私は料理屋との間を往復して、それは忙しいものだった。置家には「養女」と称して近在からの女の子を貰いうけ芸をしこみ、ひとかどの芸妓に仕立てていった。芸のまずい子は芸妓にも出さずいつか遊女になったり、または旅芸者として流れて行った。行く先は岩手、秋田方面で、したがってこの一帯は八戸の女がたくさん歓楽街に住み着いていたものである。
○ この遊郭街にも、昭和初年の銀行パニックが大きく影響して、一時に五軒も七軒も倒産していった。そのころ私は見番の会計をしていたので、料理屋から線香代の取りたてをしたが、いつもなら半月二百五十円から三百円の収入があったのが、五、六十円ということがしばらく続いた。これでは見番が立っていかないというので見番と料理屋が対立した。
○ 見番は箱止め(はこどめ・芸妓を斡旋しない・なぜ箱どめというか、それは芸妓は三味線を箱に入れて持ち歩くから。それを運ばせないことを箱止め・遊芸百般の「はちのへ今昔」筆者ならではの解説)の措置をとった。料理屋でもこれに対抗して、秋田方面から芸妓衆を呼んだ。当時としては大きな問題で、このまとめに警察から県会議員まで出てくる始末。ようやく解決を見た。
○ 遊女は一軒に七、八人、少ないところでも三、四人はいた。盛んだったころは三百人内外が夜をかせいだということになろう。大きい家並みの前は格子戸があって、そこから中に座っている女たちがよく見えた。長いキセルでたばこをのんでいた女たちの姿は映画などで見る光景そのままである。昭和二、三年ごろは大凶作の年でもあって、遊女たちは非常にふえた。そうした時代だったから女たちの表情もそんなに暗くはなかった。食うために、いま流行りで言えば勤労というくらいにしか考えていなかったからだろう。
○ 歓楽街はひとくちに言って義理と人情で息づいていた。養われた恩義から自分からすすんで旅芸者として売られて行った養女たち、義理ゆえに欲望をじっとかみしめて忍従のこの社会に生きていった女たち、やがて久八線が開通され、漁夫や行商人たちがここを素通りするようになってから、ようやく衰微の影を落としはじめた。その後、太平洋戦争、さらに三十二年の売春防止法の施行で長い歓楽街の歴史にとどめをさす日がきた。今はまるで昔の姿を思い出すべくもないほど変貌したが、それでも静かに瞼を閉じれば人力車が芸者、酔客を乗せて昼夜の別なく右往左往し、東北屈指の花柳界として不夜城を誇った頃が浮かんでくる。ここに働いていた女たちは何千、いや何万人あったことだろう。彼女たちのかせぎまくった金は、そのまま小中野町の経済の基盤だったと思う。土地にいて働いた者ばかりでない。義理と人情で八戸を去った女たちは、それぞれの旅から送金してきた。小中野郵便局が、トップの扱いだったという。その頃の小中野町は、新丁から上の方は農家が並んでいたし、下の方は商家もほんの数えるほどだけ。しかもその店は、大体芸者衆、遊女たちの小間物、化粧品などの店だった。そのほかは歓楽業者ばかり、その隆盛は大したもの。小中野は「女でもった町」まさにそうだった。

日の本は女ならでは夜の明けぬ国って言葉がある。これは天照が巌谷に隠れて、それがストリップを踊った神さんの仕種があまりに面白く、男神たちが大笑いをした。それが何かと気にかかり、そっと巌谷の扉を開けて透き見したところを力のある神さんが扉を押し開いたそうで、そこで女ならでは夜の明けぬ国。小中野もかってそうだった。これは産業でそれを無理やりつぶしたナ。
産業革命で、今ひとたび女郎屋を開設しないと、幼児いじめ、児童殺しの変質者が多発する。
人類最古の商売が売春、二番目が密輸。
女郎をどうしてパンパンと戦後呼んだか。それは左手を丸めて親指と人差し指を上にして右手で叩く、その音がパンパンで世界共通の性交語。